『微妙な定位置』
(前編)



来須は、夢の中で女の身体を抱いていた。
相手が誰なのかは判らない。夢の中だけに、行為をしている筈の自 分でも、今ひとつ実感がなかった。
やがて、組み敷いた女の腕が来須の背に回される。
不意に名前を呼ばれて、来須は女の顔を覗き込んだ……

「───!」
自分の息を呑む声で、来須は目を醒ました。暫くして夢だと判り、大 きく息を吐く。
「俺は…どうかしている……」
額に浮かんだ汗を拭うと、来須は片手で頭を抱えた。
目醒める直前に見えた映像…それは、己の名を呼んで優しく微笑む舞 の姿であった。


来須にとって舞という少女は、本来芝村一族の命によって、守護を言 い渡されている姫君である。
だが、ひょんな所から知り合ったその『姫君』は、自分が守るどころ か、逆に守られる側につく事もある程、強さを秘めた人物であった。
不器用な中にも隠れた優しさと、真摯な輝きを放つヘイゼルの瞳。
自らは決して口には出さぬが、正義の為にすべてを敵に回してでも戦 う覚悟のある少女……
初めて出会ったあの夜から、来須の心の中には舞に対する複雑な想い が巣食っていた。
守護者である自分には、決して許される事のない想い。

「……俺を軽蔑するか?」
誰に言うでもなく、来須は小さく呟いた。



教室に入ると、HRを前に、妙に周囲がざわついていた。
「来須。遅刻ギリギリといった所だな」
来須の姿を確認した舞が、軽く手を上げてやってきた。
途端に、朝方の夢の事を思い出して、来須は内心胸を躍らせる。いつも より深めに帽子を被り直すと、小さく頷いて返事をした。
来須の微妙な反応に、舞は一瞬だけ不審な顔をしたが、すぐに気を取り 直すと話を続けた。
「どうやら、今日は通常の授業ではないらしい。先程、会議から戻って きた速水が話していたのだが、何でも『模擬格闘戦』というのを行うそ うだ」
「…何だそれは」
「間もなく説明されるであろう」
そう言って、舞は教卓の本田を見た。日直が号令をかけると、本田がい つもの調子で声を張り上げる。

「おー!いいかめーら!今日は『模擬格闘戦』を行う!早い話がステゴ ロ(素手喧嘩)ってヤツだな。ルールは、おめーらがたまにしでかす喧 嘩と同じだ。という訳で、今から代表者の2名を発表する!ここは、公平 にくじ引きでいくぞー」

言うが早いが、本田は何処からか出してきた箱に手を突っ込むと、中か ら折り畳まれた紙切れを取り出した。
「まずひとり目だ。……1組、来須銀河!」
おおっ、と周囲から歓声が上がった。
スカウトとして活躍する来須の白兵技能は半端ではない。
幻獣との戦闘以外での彼の戦いを拝めるなど、5121のメンバーにとっては、 願ってもない機会であった。
「すっげぇ〜!来須先輩の足技が、間近で見られるなんてラッキーだよ なぁ」
目を輝かせながら、滝川は感嘆の声を漏らす。
「…でもさぁ。対戦相手は気の毒だろうね。若宮さんでもない限り、秒殺 されかねないと思うよ」
隣の席に腰掛ける速水は、頬杖をつくとのんびりと応えた。
「…そうだよな。でも、あの人の蹴りなら、俺食らってもいいかもー♪」
益々表情を恍惚とさせる滝川に、速水は呆れながら苦笑する。
「それからもうひとりは……これも、同じ1組だな。芝村舞、お前だ!」
マニキュアに彩られた本田の指が、対戦相手の名前が書かれた紙切れを取り 出した。
瞬間、来須の時とは違ったどよめきが起こる。

「芝村だってぇ!?」
「無差別級じゃないんだからさ。身長からして、約30センチ差だろ?」
「いい気味。芝村なんか、先輩にコテンパンにやられちゃえばいいのよ! あ…でも、ちょっとだけ羨ましいかも……」
「来須ー。手加減してやれよー」

周囲の揶揄に耳も貸さず、舞は立ち上がった。
「…とんだ巡り合わせだな。…まあ、良いか。そなたとは、一度本気で手 合わせをと思っていた」
舞は指をポキリと鳴らすと、口元を綻ばせながら、後ろの席にいる来須を見た。
舞の視線を僅かに反らすと、来須もまた立ち上がる。
「んじゃ、みんな移動しろ。ふたりとも準備は……って、おい!?」
本田が言い終わらない内に、来須と舞は教室を出ると、ベランダの手すりを飛 び越えた。来須は体勢を低くして、そして舞は空中で1回転してプレハブ校舎前に 着地すると、互いに構えの姿勢を取る。
「さっそく、おっ始めやがった!」
「せんぱーい!頑張って下さぁーい!」
「舞、死なないでね!」
「さあさあ皆さん、来須くんと芝村さん、どっちに賭けますか?勝率は……」
たちまちプレハブ校舎2階のベランダは、ギャラリーでいっぱいになった。 本来なら校舎裏で行う筈の格闘戦だが、こうなってしまっては仕方がない。
本田は、マシンガンの銃口を空に向けると、トリガーを引いて、戦闘開始の 合図を出した。



口には出さねど、来須の内心は穏やかではなかった。
いくら授業の一環とはいえ、舞と殴り合うなど、自分の立場から言っても 考えられない事であった。
『出来るだけ早めにケリをつけるか』
来須は拳を構えると、舞を気絶させる為に彼女の顎先に繰り出す。
だが、舞は微動だにせず来須を正面から見つめ返してきた。舞の数センチ 手前で、来須の拳がピタリと止まる。
「…何故、避けない?」
「───なめるな」
低い声で答えると、舞は来須を睨む。
「私を倒したくば、本気で来い」
その言葉に動揺する間もなく、舞の反撃が始まった。眼前に止まった来須 の拳を軽く掴むと、もう一方の手で手首を取り、体落としをかける。
「……!」
来須の身体は、頭よりも素早く反応していた。悲しいかな、戦士としての 反射神経の賜物であった。掴まれた手を振り解いて、舞から距離を置く。
息を吐く暇もなく、今度は舞の右ストレートが襲ってきた。来須は右に飛 んでかわすと、逆にその懐に入り込む。
「…っ!?」
ミノタウロスすらも一撃で屠る来須の蹴りが、舞を狙った。
回避は無理だと悟った舞は、両手で防御の形を取ると、気合を発して凶器と 化した来須の足を受け止めた。肉を打つ音が、辺り一面に広がる。
腕に激痛が走ったが、骨までには被害は及ばなかった。
舞はヒュウ、と口笛を吹くと、その端正な顔に不敵な笑みを浮かべる。

「───止めたぁ!?」
「中々やるわね。お姫様も」
ハイレベルな攻防に、小隊のメンバーは歓声を上げた。
「ありゃ、お姫様じゃねぇな。お姫様の皮を被ったサムライだ」
「ふたりとも素敵デス。最高デス」
言いたい放題のギャラリーをよそに、来須と舞は戦い続けていた。
己の体格を最大限に利用した来須と、小さい身体ながらも無駄のない 動きで、それに対抗する舞。
互いを牽制し合いながら、少ないチャンスを物にしようと隙を窺って いる。

「…不思議なものだな」
構えの姿勢のまま、舞は呟いた。
「今こうして…そなたと拳を交わしていると、何故だか胸が騒ぎ出す」
「…?」
「戦っているから、気分が高揚しているのもあるのだが…やはり一番の原 因は、そなたとふたりきりだからかも知れん」
来須は、己の心拍数が急速に跳ね上がるのを感じた。
それは決して、戦いによる疲労だけが原因ではなかった。
「そなたは、私を友だ、と言ってくれた。誇り高いそなたの友がこの私で あるなど、光栄の極みだ。私は、そなたの友に相応しくありたい。少なく ともその努力を怠った事はないぞ。…それに何よりも、今だけは、友であ るそなたを独り占めに出来るのだからな」
常に毅然とした舞の表情が、来須の前で柔らかい微笑みに変わった。
優しく細められたヘイゼルの瞳が、来須を真っ直ぐに見つめている。

……今日ほど、己の帽子が役に立つ日がない、と来須は思った。
深く被られた帽子の下で、自分がどれだけ間抜けな顔をしているか、舞に 気付かれずにすんでいるからだ。

『君たちの助けなんか、いらないんだよ。舞は、「お姫様」じゃなくて 「騎士様」なんだから』

舞の相棒にして3番機パイロットの速水が、ある日来須に言ってきた事が ある。
ぽややんとした普段の彼からは想像できないほどの険しい表情で、まるで 来須に対して敵意むき出しといった視線を向けていた。
また、舞からも同じような事を言われていた。
「所詮、運命の歯車である私に、そなたたちが律儀に付き合う 必要などない」と。
だが来須とヨーコは…特に来須は、そんな舞の申し出を拒絶した。
彼が舞についていこうと思ったのは、あの一族からの命令だけではな かったからだ。
『芝村』でも何でもない、ただ『舞』という人間に惚れ込んだからであ る。
誰よりも強く、そして誇り高く優しい少女に、心を惹かれたからである。

傍にいられれば充分だと思っていたが、どうも最近は、それも怪しくな ってきていた。
自分の想いは募る一方なのに、相変わらず舞は、来須の事を友人として しか見ていないし、おまけに自分と義姉のヨーコが付き合っていると勘 違いをしている。
ある時ヨーコの誘いを断っていたら、偶然それを目撃していた舞に、 「そなた、もう少し己の伴侶に優しくしてやったらどうだ」と説教を されてしまった事がある。
また、来須は以前ヨーコから告白された事もあったが、断っていた。
確かにヨーコは魅力的な女性だと思うが、自分の方は彼女に対して、家 族や兄弟に対する愛情しか沸いてこなかったからである。

ヨーコの想い、舞の想い、そして自分の想い……
つくづく、人の「想い」というものは、複雑に織り交ぜられているものだ、 と思った。


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