日曜日。 自室の目覚まし時計のベルで目を醒ました舞は、身体を起こすと、台 所へと移動する。 程なくして、何やら調理する音と食欲をそそる匂いが、部屋全体に漂 ってきた。 1時間後。 「──これでよし」 独り言を呟きながら、おむすびやおかずその他を詰めた重箱に蓋をする と、舞は再び自室に戻って、服を着替えた。 お気に入りのシャツとジーンズの上にジャケットを羽織り、髪はサイド を編み込んで、頭に赤いバンダナを巻く。 「…」 起きてくる気配のなさそうな隣の洋室のドアを、苦笑まじりに一瞥し ながら、舞は風呂敷で包んだ重箱をショルダーバッグに詰めると、玄関 ホールで靴を履いた。 パタン、と玄関のドアが閉められた瞬間。 「……」 ガチャリ、と洋室のドアが開けられ、中からこれ以上はないであろう、 という程しかめっ面の来須が現れた。 「はぁ〜…」 校門の前で、速水は深々とため息を吐いていた。 「どうした?坊や。折角の日曜日だってのに、そんな辛気臭いツラなん ざ晒して」 「だって、折角誘ったのに舞が来てくれなかったんだもん」 瀬戸口の言葉に、速水は、軽く頬を膨らませながらぼやく。 澄み渡った春の青空とは裏腹に、彼の心は満たされずに乾き切っていた。 「『先約があるから』って、言ってただろ?懲りずにまた、誘えばいいじ ゃないか」 「それはそうだけど…」 「お姫さんもいいけど…ホラ、大切な仲間たちのおでましだぞ」 横断歩道の向こうから現れた滝川や加藤たちに、瀬戸口は手を振って 応える。 その時。 「──ん?」 瀬戸口の瞳の端に、一瞬だが人影が見えた。 ショルダーバッグを下げた芝村の姫君らしき少女と、そして、そんな彼女 から数十メートル離れた場所から、気配を消して追跡する男の影。 「……何やってんだ、あいつ」 「どうしたの?瀬戸口くん」 あらぬ方向へ視線を送る瀬戸口に、速水が目を丸くさせながら尋ねてく る。 「あ…いや、何でも」 「師匠ー、ちゃんと目ェ醒めてますかぁ?」 「おおかた、『おんなのけつ』でも追いかけていたのでしょう?皆さん、こ ういう『げすやろう』は、無視して参りましょうか」 「……お前さんは、そういう言葉遣いを何処で覚えてくるんだ!」 軽蔑の眼差しを向けてくる、自分の天敵である和装の少女に、何故か瀬 戸口は頬を染めると声を荒げた。 「別にわたくしがどのような言葉を遣っていても、あなたには何の関係 もないではありませんか。いちいち目くじらを立てるなんて、随分と 『××のあなのちいせぇ』事で すね」 「──だーっ!やめんかぁーっ!」 壬生屋の口から紡ぎ出された思いも寄らぬスラングに、瀬戸口は益々 顔を赤くさせながら、声を張り上げる。 「ふええ。みおちゃんもたかちゃんも、ケンカはめーなのよー」 「あーもー。日曜ぐらい、休戦にしぃ!メンツも揃うた事やし、そろそろ 行きましょか」 「…そうだね。じゃあ、出かけようか」 先ほど、瀬戸口が見つめていたものの正体も気になったが、加藤に促さ れた速水は、小さく頷くと、皆を誘導した。 市民公園に到着した舞は、ショルダーバッグを抱え直すと、広場の周囲 を見渡した。 何かを探すように、あたりを窺っていたヘイゼルの瞳に、手を振りながら 歩いてくる男の姿が映し出される。 彼の様子に、舞も小さく手を振り返すと、足早に男へと近付いていった。 「ごめんなさい。お待たせしましたか?」 「いいえ、私が早く来すぎただけです」 舞の言葉に、男は小さく微笑む。 やがてふたりは、ひとしきり挨拶を交わすと、公園の芝生へと移動した。 「いい匂いですねぇ」 レジャーシートの上に広げられた重箱に、男は眼鏡の奥の瞳を細めた。 「ええ。ご所望という事でしたので、頑張ってみました」 「ずっと憧れていたのですよ。こうした手弁当というものに」 「…あなたなら、作ってくれる女性には、困らなかった筈でしょう?」 「はい、確かに。…ですが、私自ら『手弁当が食べたい』と思った相手は、 あなたが初めてです」 本来、相当なキザや嫌味にあたる言葉だったが、舞は僅かに苦笑しただ けで、それ以上は何も言わずに、男に重箱に整然と並べられたおむすび を差し出した。 男はちりめんじゃこのまぶしてあるおむすびを手に取ると、ひと口頬張る。 「美味しいです」 「──有難うございます」 やがて、嬉しそうに顔を綻ばせた男に、舞は素直に礼を言った。 芝生で楽しそうに微笑んでいる舞たちとは対照的に、少し離れたベンチか らは、先程からざわついて納まらない鼓動を抑えながら、来須が彼らの様 子を盗み見ていた。 舞に悟られないよう距離を置いている為、相手の顔までは判らないが、お そらく彼が、「男」の正体である事が、予想された。 「……」 男と談笑する舞の様子に、来須は最近、自分が舞の笑顔を見ていない事 に気付いた。 立場上、普段は、厳しい表情をする事が多い彼女だが、それでも自分に だけは、年頃の少女の顔を見せてくれていた。 しかし。 近頃の舞は、自分を避けているような気がする。 あの時の些細な行き違いが、自分と舞の間に大きな溝を作る事になった というのか。 だから、舞は自分ではなく、あの男に惹かれていったというのか。 『…違う』 消えない疑惑から、徒に思考をめぐらせていた来須だったが、ある事に気 が付くと、小さく頭を振った。 愛して止まない自分の恋人は、例え心変わりをしたとしても、その意志を 必ず自分に伝えてくる筈である。 そして、来須は、彼女から納得のいく言葉を聞かない限り、舞を離すつも りなど毛頭なかった。 ───否。仮に納得のいく話を聞かされたとしても、昔の自分ならともか く、今の自分には、舞を離す事など出来ないのだ。 彼女の愛を取り戻せるというのならば、無様な姿を晒す事も厭わない。 もはや他の誰かに彼女を譲る気など、来須にはなかった。 思い切って舞の所へ行こうかと、足を進めかけた矢先。 「──!?」 来須は、男の手が舞の顔に触れているのを目撃した。 「こうしていると、戦争中なのがまるでウソのようですね」 男は空を仰ぎ見ると、のんびりと呟く。 「……自然休戦期まで、どうにか生き残りたいものですね。私も…そして、 あなたも」 「私の事なら、心配は無用です」 口調はそのままだが、舞のヘイゼルの瞳が凛々しい輝きを放った。 今や、熊本で「その名を知らぬ者はなし」とまで言われている『電脳の騎 士』が、真っ直ぐに男を見つめ返している。 「私はもう、ひとりではありません。支えてくれる大切な仲間がいます」 「……変わりましたね。あなたは」 しみじみと返してくる男に、舞は小さく口元を綻ばせると、自分も重箱の おむすびをひとつ、手に取る。 だが、 「それにしても…あなたを変えるきっかけとなった恋人を、放っておいて もよろしいのですか?」 不意を突いた男の質問に、舞は大きく咳き込んだ。 「…なっ…ななな、なぬを……いや、な、何を……」 「私のせいで、気まずくなっているのではないですか?」 それまでの凛然とした姿は何処へやら、慌てふためく舞の様子に、男は懸 命に笑いを堪える。 「…そなた……もとい、あなたが仕事に戻られた後で、きちんと説明する つもりです」 不貞腐れたようにそっぽを向いてしまった舞を、男は僅かに目を細めて 眺めていたが、横顔の彼女の頬に、小さな飯粒が付いているのに気が付 いた。 「お弁当がついていますよ」 「え?」 男の指摘を聞いて、舞は手を顔に這わせる。 「…ああ、じっとしてて下さい。取ってあげますから」 言いながら、男の右手が舞の頬に触れた瞬間。 「うわっ!?」 何処からともなく伸びてきた腕が、男の右手を掴んだ。 何事かと顔を上げた男の頭上に、仁王立ちの状態で自分を見下ろす金髪 の男の物騒な視線とかち合う。 「あなたは…?」 「──く、来須!?何で…」 思わぬ人物の来訪に、舞は抑揚のない声を上げた。 迫力満点の形相で睨んでくる来須に、男は無意識にあとずさる。 「俺の女に気安く触るな…!」 寡黙な彼にしては、珍しいほどの激情をぶつけながら、来須は片手で男を 掴んだまま、反対の拳を振り下ろそうとした。 だが。 体勢を崩した男めがけて、放たれた来須の拳は、男の前に立ちはだか った舞によって止められた。 肉を打つ音を立てながら、来須の拳を利き手で受け止めた舞は、僅かに 眉を顰めると、来須を軽く睨む。 「馬鹿者!何をやっている!」 「舞…」 自分を糾弾する恋人に、来須は思わず表情を強張らせたが、 「しっかりしろ!大丈夫か、善行!?」 続いて舞の口から出た名前に、来須は今度は目を丸くさせた。 「……善行?」 半ば呆然と呟くと、来須は芝生の向こうで尻餅をついた男を凝視する。 「…やあ。お久しぶりです、来須くん。お弁当も無事ですよ」 ずれた眼鏡を片手で直しながら、男…初代5121小隊隊長善行忠孝は、 ニッコリと微笑んだ。 |