『スパイス』


昼休み。

売店でふたり分の紅茶を購入した舞は、早足で1組の教室に戻ってき た。
ここ最近、戦闘などでゆっくり話をしていなかったので、久々に昼食が てら相手をして貰おうと考えていたのである。
「来……」
そう声を掛けようとした舞の声をかき消すように、周囲の声が来須を取 り囲んでいた。
見ると、少し自分が席を外していた隙に、ここぞとばかりに新井木や滝川 ・石津などが、憧れの先輩と昼食を取る為に、しきりと彼の傍に纏わり 付いている。
人気があるというのは、決して悪い事ではない。
だが、恋人である筈の自分がいながら、同性だけでなく異性にまで愛 想を振りまくというのは、どうしたものか。
「……」
何故かいたたまれなくなった舞は、踵を返すと再び教室を後にした。


階段を下りた所で、小杉たちに誘われた舞は、そのまま食堂兼調理場 で昼食をとる事にした。
「…何か元気ないわね。どうしたの?」
原にそう尋ねられた舞は、はっと顔を引き締めると、首を横に振った。
芝村ともあろう者が、感情に流されてしまった失態に、舞は心の中で舌 打ちすると、努めて平静を装いながら黙々と弁当を口に運ぶ。
いらなくなったもう1本の紅茶は、小杉に進呈した。来須の為に買った ものだが、もはや舞には、彼に渡す気が失せていたのである。
「芝村、今いいか?」
不意に、食堂のドアから男の声が掛かった。
5121小隊2代目司令官にして、自称『愛の伝道師』である瀬戸口は、舞 の姿を見つけると、そのまま足を進めてテーブルの前に立つ。
「瀬戸口か。どうした?」
「小隊長室の方に準竜師さんから連絡があったんだ。何でもお前さん に、急ぎの用があるらしい」
瀬戸口はそう言うと、親指を軽く立てて外を指す。
舞はやれやれ、と席を立つと、些か引き摺るような足取りで小隊長室へ 向かった。


「…私は、使いっ走りではないのだぞ。私用なら、更紗殿に頼めば良い であろう」
「まあ、そう言うな」

急ぎの用だと言われたので、午後の授業を受けずに学校を出た舞は、 勝吏に頼まれた荷物を芝村の実家から受け取ると、そのまま彼のい る生徒会連合本部へと足を運んだ。
「久々に、そなたの顔でも拝んでやろうと思ってな。善行家の男が関 東に帰還してから、そなたたちの小隊は上手くやっているのか?」
彼にしては妙に人間臭い言い回しに、舞はあからさまに顔を顰める。
「…そんな事は、現在のウチの司令に尋ねればすむ事であろう」
「あいつは、俺とあまり話をしたがらん。それに、善行はかつてお前 の婚約者候補にも挙げられた男だしな」
「…そなたたちが、私たちの意志も聞かずに勝手に決めただけであろ う。私のカダヤは彼ではない」

善行は、舞に出会う以前から、一族によって彼女の婚約者候補のひとり として挙げられていた。
結局、互いの思う所が違っていたので、その話は立ち消えとなったの だが、舞にとって不愉快な話題である事には変わりない。

「芝村ともあろう者が、ひとりの相手に縛られて何が面白いのだ」
「余計なお世話だ。私の事は構わないで貰おうか」
下品な従兄の揶揄に、舞はうんざりとした表情を作った。彼女のヘイ ゼルの瞳が本気で怒りの色を見せる前に、
「それでは、ご苦労であったな。もう下がってよいぞ」
勝吏は従妹を厄介払いする事に決めた。舞は、憮然としながらも形だ けの敬礼をすると、荒々しくドアを開けながら司令室を後にした。


生徒会連合の建物を出ると、何やら雲行きが怪しくなっていた。
舞は空を見上げると、学校への道を駆け出す。思わず幻獣の出現を 危惧したが、今日の場合は単なる天候不良のようであった。
「そういえば…今朝の天気予報で、一時雨と言っていたか」
独り言を呟く舞の顔に、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
一度泣き出した空は止まる事を知らず、次々に『春雨』という名の涙 を流し続ける。
「……踏んだり蹴ったり、とはまさにこの事だな」
舞は、慌てて建物の影まで避難すると、ポケットから取り出したハン カチで、制服に付着した水滴を払った。
こうなる事が判っていたら、勝吏の所で傘を借りておくのだった、と 今更ながら後悔する。
「この雨足では、引き返してもずぶ濡れになりそうだし…さて、どう したものか」
右手の親指と人差し指で顎と頬を挟みながら、舞は思案する。
多目的結晶で来須か小杉、若しくは更紗に連絡をすれば、迎えに来て くれるだろう。だが。
「…あいつの世話になどなるものか」
昼間の事を思い出した舞は、露出しかけていた多目的結晶を、左手の 中に引っ込めた。
つまらない意地を張っている事は、頭の中では充分理解していたが、 今日の舞は、理性よりも感情の方が勝っていたのである。
濡れるのを覚悟で、舞が建物から足を踏み出そうとした時。

「──良かったら、入っていきませんか?」

舞の前に、レインコートに身を包んだスーツ姿の男が、傘を差しかけて きた。


宿舎の部屋で、来須は何処か落ち着かない様子で、舞の帰りを待って いた。
仕事時間が終わっても、舞は学校に戻ってこなかった。準竜師に用事 を頼まれて出かけている、と司令の瀬戸口に説明されたが、もうすぐ 夜の11時にもなるのに、一向に帰ってくる気配がない。
念の為準竜師にも連絡を取ったが、「とうの昔にここを出た」と素っ気 無い返事が返ってきただけであった。(ついでに『そのような下らぬ事 で、芝村専用の回線を使うな』とも言われたのだが)

(芝村さん、少し様子が変だったわよ。来須君、あなた何かしたんじ ゃないでしょうね?)
(舞サンを悲しませるヨウな事をしたら、地獄の説教タイムデスよ。そ の時は覚悟して下サーイ)

昼休み。滝川たちに取り囲まれた来須は、対応に追われている内に、 舞を見失ってしまった。
慌てて教室を出て外に行こうとした所で、調理場から現れた原とヨーコ に、棘まじりの忠告を浴びせられたのである。
舞に対する愛情が薄れる訳などない。しかし、ひょっとしたら今日の事 で、舞が自分に対してあらぬ嫌疑をかけていたというのか。
業を煮やした来須は、舞を探しに行こうと玄関ホールへと歩き出す。
すると、

「今、帰った」

玄関のドアが開いて、舞が入ってきた。絶妙なタイミングに、来須はも う少しで舞とぶつかりそうになる。
「…遅かったな」
「すまぬ。ちょっとヤボ用があってな」
来須の問いに答えると、舞は右手に携えていた傘を、下駄箱脇のかさ 立てに差し込んだ。舞のものではない黒い傘に、来須は不審な視線 を送る。
「その傘はどうした」
「雨が降っていたので借りたのだ。お陰で濡れずにすんだ」
「……そうか」
「そなた、夕食はどうした?」
「もう、すませた」
「では、私は先に休ませてもらう事にする…今日は疲れた」
そう言うと、舞は来須の脇をすり抜けて、自室へと向かう。
舞が通り過ぎた時、男物のコロンの香りが、来須の鼻を擽った。
「…?」
来須は思わず振り向いたが、その時にはもうすでに、舞は自室の襖を 閉じた後であった。


「来須はーん!」
翌朝。来須がひとりで女子校の廊下を歩いていると、怪しげな関西弁 を操りながら、加藤が駆け寄ってきた。
珍しい人間の呼びかけに、来須は足を止めると加藤を見る。
「…どうした」
「いやー、ははは。来須はんも、中々やりますなぁ」
含み笑いをしながら、加藤は肘で来須を小突いてきた。彼女の行動に 要領を得ない来須は、帽子の下で眉根を寄せる。
「何の事だ」
「とぼけんでもええて。昨夜は雨の中、恋人同士仲良ぅおましたなぁ」
キャー、とわざとらしく声を上げて、加藤は意味ありげな視線を来須に 送る。
「昨夜…?」
「またまたぁ、昨夜芝村さんと相合傘しながら、熊本プレジデントホテ ルに行きましたやん、こーのスケベ♪」
「──どういう事だ?」
「へっ?」

突如詰め寄ってきた来須に、加藤は驚愕する。
「あ…あら?来須はん、そいじゃ昨夜は……」
「俺は真っ直ぐ帰宅した。舞とは夜中になるまで会っていない」
「……あちゃー…ウチ、いらん事言うてしもたかなぁ」
来須の返事に、加藤は口を噤むと横を向いた。
「舞と一緒に歩いていた男とは誰だ?」
「…えっ?……ええと…でもホラ、ウチもはっきり見た訳やあれへん から、人違いかも知れんし…」
「……」
押し黙ってしまった来須を、加藤は気まずそうに横目で見る。
「……あっ!ウチ用事思い出したから先行きますわ。あんまり気にせ ん方がええで。ほな、さいなら〜」
些か無責任な言葉を残すと、加藤は逃げるように来須の前から去 っていった。
だが、そんな加藤にも気付かない程、来須の頭の中では様々な疑惑 が渦巻いていた。
 


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