Do not judge,and you will not be judged.
ヒトを裁くな 自分が裁かれない為である
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For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you. |
HARVEST MOON act1 |
もう何度となく通い慣れた簡素な住宅街の中、スポーツバック片手に、服部は闊歩していた。 東京駅から環状線に乗り換えて、米花駅からのんびり歩いても、目的地までは20分とかからない。服部にとってはある意味で、丁度いい散歩コース気分だ。 「すっかり秋めいてきたなぁ」 昨年より残暑の厳しくなかった今年の夏は、9月に入ってからはめっきり秋めいてきた。 「こりゃ、紅葉が綺麗やろな」 手を翳し、天を仰げば、高くなった蒼穹が視界に眩しく映る。 昨年は秋が無かったと言われるくらい、異常気象で残暑が厳しく、紅葉が鮮明に色付く事は少なかった。けれど今年は各地で見事な紅葉が見れるだろう。何処か小旅行に行こうと誘ったら、想い人は頷くだろうかと考えて、想像に容易い答えに、幅広い肩を竦めて一人苦笑する。 「めっちゃ綺麗な顔して、凶悪的な台詞言いよるからな」 その凶悪な口調すら愛しくて、だからこうして上京しては、呆れられているのは、今更でしか無い。そして新一が呆れ乍らも、決して拒否もなく受け入れているから、遠距離恋愛は成り立っているのだろう。 土曜の午後も遅い時間。四時限の授業が終了し、幼馴染みに呆れて見送られ、新幹線に飛び乗って3時間弱。朝から持ち歩いていたスポーツバックに詰め込んでいた私服を大阪駅で着替え、詰め襟制服はバッグにしまった。 黒いカッターシャツに、黒いジャケット。そのジャケットが、いずれは新一に着られ、彼のものになってしまう事を、今は未だ服部は知らない事だ。そうして今まで何枚かのシャツは新一の物になり、今は彼のクローゼッドに収められている。 暫く立ち止まり、蒼穹を見上げていた服部は、軈て目的地に向かってのんびりと歩き出した。 簡素な住宅街の中でも、その二軒は並外れているだろうと、此処に来る度服部は思う。 大阪の自分の家は完全な日本屋敷だ。洋間など有るのは、離れになっている自分の部屋と、父親の書斎くらいだ。それから比較すれば、眼前の邸宅は完全な洋館造を呈している。 正確な事は判らないが、屋敷の広さも庭園のような庭の広さも、対して坪に換算しても、自分の家と工藤邸は大差ないだろう。自分の家も、住宅街の中に在っては、周囲からお屋敷と呼ばれてしまう程度のものではある。けれどこうして工藤邸を視ると、いつも感心してもしまうのだ。 定期的に庭師を入れている庭は綺麗に整備され、特に春先から夏に向けての季節は、生い茂る緑が眩しい程だ。今は夏から秋へと移り、積翠は色をゆっくりと失いつつある。 服部は、門の横の壁に設置されているインターフォンを押した。中からの返答はない。けれどすぐに扉が内側から開かれる事を、知っている。だから彼は待っているだけで良かった。誰かの家を訪れて、内側から開かれる扉に一喜一憂するなど、過去からなら想像もつかないと、服部は思う。 友達も多いし、器用に恋愛もこなしてきた。 特に恋愛に関しては、付き合ってきた相手は大抵自立している年上ばかりだった。本気で恋愛と言う女性を選ばないあたり、新一や哀に言わせれば、十分すぎるタラシの要素だと断言されている服部は、けれどそれに関しては否定の言葉は何一つ持ってはいない事を自覚している。 愛し合う為の行為ではない肉の交わりは、欲求の為の捌け口でしかなく、それは相手も同様で、見目のよい年下の男をアクセサリーにする程度の事で満足する女が概ねだった。 服部が一時の欲を満たす事に選ぶ相手は、そんな時ばかり効力を発揮し、後腐れのない相手ばかりだったから、合鍵を貰い、それでも使用せず、相手に扉を開いて貰うなんて言う極些細な事が案外どうしようもない倖せなのだと、実感したのは、つい最近の事だった。 それは新一も同様なのかもしれないと、服部は思う。 都内の父親名義のマンションは、未だ新一がコナンだった時。二人の秘密の場所として提供され、新一の息抜きに使って構わないと、服部は新一に鍵を渡されている。けれどそれを実際新一が使用した事は一度もない。マンションで待ち合わせをしても、必ず丁重にインターフォンを押し、待っている。 服部の此処最近の習慣の一つに加わった事がある。新一がコナンだった当時には、どれだけ口を酸っぱくしても聞き入れられる事のなかった連絡をいれると言う些細な事を、服部はやっと実行していた。 未だ新一がコナンであり、幼馴染みの探偵事務所に居候している時は、連絡もなしで飄然と上京する服部に、新一は呆れながらも再三の注意を促してきた。けれど新一が本来の姿に戻って以来。服部が連絡なしで、新一の元を訪れた事はない。 そんな事をつらつら考えている間に、豪奢な玄関扉は内側から開かれ、少しだけ憮然とした新一の姿が現れる。 「服部、鍵渡してあんだろ。何の為の鍵だよ。いちいち出迎えさせんな」 白いカッターシャツにブルーのジーンズというラフな格好に、スニーカーを引っ掛け現れた新一は、玄関からまっすぐ歩いて、門の前まで辿り着く。 「よぉ、来たで。元気しとったか?」 門を挟んでの会話に、服部は明るい笑みを見せ、長い腕をヒラヒラと挙げる。その笑みに、新一は疲れた表情を見せた。 「何度も言うけどな、俺を此処まで歩かせんよ。ウチは別にセキュリティー掛けた門じゃねぇんだ。勝手に入ってこい」 そう言いながら、門を開けてやるあたり、大概自分は甘いと思わずにはいられない新一だった。 結局なんだかんだ口では言っても、こうして服部を招き入れてやるのだから、甘やかしている自覚くらい、新一にもあるのだろう。甘やかしてやれば付け上げる事など承知して、それでも甘やかしてしまう事に、服部の過去の女性達の心情がつい判ってしまって、新一は途端に憮然となった。それが子供のような嫉妬なのだと、気付いた想いには、取り敢えず蓋をする。 服部の過去の女性関係に嫉妬しても無駄だと言う事くらい、新一も判っているのだろう。それは今更の事で、過去だと理解しているからだ。服部が自分に誠実な事くらい、判っていなくては遠距離恋愛などしてはいられなかった。 「ええやん。工藤かて、マンション来る時は、鍵使こうた事ないやん」 開かれた門に一歩踏み入れ、服部は軽口をたたく。 「バーロー。アレは親父さんの持ち物だろうが、鍵渡されて、勝手にできるかっての」 「行く行くは俺のもんやん」 「……お前、他人の物は自分の物なんて、考えてんじゃねぇんだろうな」 門を開け、招き入れれば、服部が几帳面に門を閉じる。それを視界の端にとどめながら、新一はクルリと背を向ける。 「事実やで」 「飛び過ぎた話しだ。どうせ条件付きだろ」 都内のマンションが服部名義になるとしたら、それは父親の後を継ぎ、警察官僚になった時だろう。元々彼の父親が、中野の警察大学校に入寮し、警察庁に身分を置くようになってから、官舎住まいの息抜きにと、使用していたマンションだ。 強固なガラスの扉を開いて、次に扉をくぐりエントランスに辿り着くには、セキュリティーナンバーのパスワードを入力しなくては入れないマンションは、守衛付きのマンションだった。 そして服部は、新一と知り合い上京回数が増えた時点で、システムのパスワードナンバーを、ちゃっかりと入れ替えていた。そのパスワードナンバーを聞いた時、新一は心底頭を抱えた。 "9100504" この意味が判る人間は、当人達だけだろう。 名前を数字化し、誕生日と組み合わせたナンバー。このナンバーを聞いた時。服部はシレッと言ったのだ。 自分が覚えていられる数字なんて、限られている。そして自分の誕生日などセキュリティーに使用する事など言語道断だったから、服部は迷う事なくこの数字に書き替えたのだと。 ある意味それは一部を覗けば正論で、けれど新一にはその取り除かれた残りの一部が、頭痛の種だった。けれどそれを言ったとて、新たにパスワードが書き替えられる可能性など、新一は考えてはいなかった。 「まぁええやん。こまかい事気にする必要ないやんか」 「気にさせたのはお前ぇだろ」 開けっ放しの玄関に入り込む。その後に服部が続く。 「邪魔するで」 入る前に、一言声を掛ける習慣が、服部にはあった。それは軽口をたたき、こうして呆れる程毎回上京しても変わる事なく繰り返されている。それは好ましい習慣だと新一は思うし、それはそのまま服部の育ちの良さを現してもいるのだろうと思えた。 明るい笑顔で軽口をたたく姿につい騙されてしまうが、服部の所作を見ていれば、その端々に礼節をたたきこまれている事が判る。 高校入学当初から、一人暮らしを許可され、ある意味放任主義の両親の元で育った新一は、礼儀は守っても、服部のように礼節という部分では適わない面が多かった。それは服部の生まれと育ちをも意味している。それは服部の実家や両親を知れば尚更で、礼儀正しくきっちりと育てられている。 そう気付いたのは、新一がコナンから元の姿を取り戻し、服部が毛利探偵事務所ではなく、自分の家に来るようになってからだから、日は浅い。 「ホラ」 スポーツバッグを部屋の隅に置くと、服部は慣れた仕草で定位置になってしまっているリビングのソファーに腰掛けた。その目の前に、新一がアイスコーヒーのグラスを差し出した。 「すまんな」 差し出されたソレを受け取り、服部は短い礼を口にする。 服部にグラスを差し出して、新一は瀟洒なリビングテーブルを挟んだ一人掛けのソファーに腰を落した。落とし、 「お前さぁ」 ミルクも砂糖も入れないアイスコーヒーを一口口にすると、服部を眺めた。 「なんや?」 「よくこう、毎回毎回上京してくるな」 「なんや?嫌やったん?」 そんな事は微塵も思ってはいないくせに、服部はそう笑う。その笑みが、ただ明るいだけのものではなく、大人の男の端整さをも垣間見せている事が、新一を少しだけ落ち着かなくさせた。 服部はいつからこんな笑みを覗かせるようになっただろうか?そう考えれば、意識はあらぬ方向へと直結してしまいそうで、恐ろしくなる。なるから、新一は内心で頭を振り、軽口をたたく為に口を開いた。 「違ぇよ。ってより、お前の家、よくこう毎週毎週、此処にくるの許可してるな。仮にも受験生じゃねぇかよ」 大丈夫なのかよと、新一は服部を間視する。すれば、眼前の服部は、癪になる程涼しげな貌をして座っている。 「心配してくれるん?」 そら珍しいと、服部は含み笑う。その笑みがまた身の裡の何処かを刺激していく気がして、新一は溺れている意識を自覚する事しか出来なくなる。そして自覚する分、痛みが増す事も、判りきった事だった。選んだ痛みは、今も付き纏っている。 「T大じゃないのかよ」 「工藤は?どないするん?」 刹那、新一を凝視する眼差しは深みを増す。 笑みは真摯なものへと擦り変わり、より深いものを滲ませる。天然で明るいと思える笑みが、実の所は、ポーカーフェイスの盾と変わらぬソレであると、新一が気付いたのは、コナンの時だ。 無機質な無表情より、明るい笑みは他人に警戒心を抱かせない。警戒心を抱かせない事は、探偵の基本だ。警戒心を抱かせるようでは、警察のように捜査権が有る訳ではない探偵など、やってはいられない。聞き込み捜査時、市民の義務として、相手は聴取に答える必要などないのだ。その事を、服部は正確に理解している。そう言う事に繋がるのだろうと新一が思えば、彼が父親の名に誤魔化される事のない西の名探偵なのだと、実感できる。そして服部を悪党だと思うのは、自らの笑みの効力を十分理解して、必要時にはソレを使う事に躊躇いを見せない事だった。そしてソレは概ねで、女性に効力が発揮される事を、新一は嫌と言う程に知っていた。 「俺?取り敢えず同じかな」 担任も、進学担当の教師も、口を開けば言う事は同じだ。 新一の学力は、長期休学にも関わらず、同学年の生徒が、世を儚んでしまいそうなものだ。全国模擬試験は、必ず両手の数に入っている。だからこそ、教師は誰もが口を揃える。 T大でもケンブリッジでもマサチューセッツでも、進学可能だと。何処へでも好きな進学をしろと。ただしそれは理数系に偏っている。 実際手間の掛からない生徒に、この時期かまけている暇はないのかもしれない。生徒にとって受験戦争なら、高校三年生を受け持つ教師にとっても、受験戦争だ。既に高校生探偵としてメディアで活躍が報道されている新一は、十分帝丹高の名を売ってくれた。今更彼が何処に進学しても、放っておいてもメディアが騒ぐ。そう判断されたとしても、可笑しくはない。けれど新一が突然長期休学から復学して以来、以前のように、メディアに登場する事はなくなった。戻って以来、マスコミに載る事件にも関与はしていない。 休学さえしていなければ、数学オリンピック代表も可能だったのだ、新一は。彼が順位を落している原因は、周囲の人間誰もが深々嘆息を吐く学科の為だった。 『別に父さんが小説家だからって、息子までそうだと思うなよ』 とは、新一の弁だ。彼が順位を落している原因は唯一、現国だったからだ。 誰だって思うだろう。父親が世界的ベストセラー作家だと知れば、その息子が国語が苦手など、通常は考えない。否、新一は別に小説が苦手な訳ではなかったし、周囲が認める立派な活字中毒だ。 工藤邸の地下に在る書庫には、世界中の推理小説が収められている。小さい頃から書庫に入り浸り、小説を貪り読んできた新一は、決して小説を読む事が苦手な筈はない。読書量など、同学年と比較出来ない類いの量だ。速読法もマスターしているから、資料を読む事は早いし、記憶の構造化も早い。それが探偵としての新一の資質に磨きを掛けている事を知るのは、極一部だ。 新一が国語が苦手なのは、勉学という意味で、読者の感情や感性を無視した解答が設けられている事だ。読み手の感性を全く無視した解答が、新一には幼い時から気味の悪いものだったし、納得も理解も出来ない類いのものだった。今時の若者の読書量が低い原因の一端は、学生時の国語授業の所為だと、新一は断言している。 読者の感性を無視した延長線上に、読む楽しみなど見出だせる筈もなかった。ある意味で、自由に読むと言う楽しみや発想を、奪われてきているのだから。今の子供に想像力がなくても、責められないのかもしれない。 「親父さんの後継いで、警察官僚なんのか?」 「親父の後なぁ~~。そらどうかな。俺の希望としては、工藤と探偵事務所開業、なんやけどな」 チロリと間視する眼差しが新一を視る。その眼差しの前に、新一はつくづく悪党だと内心悪態を付いた。 「勝手に決めんな」 「工藤は?」 「探偵続けるにしても、それを仕事にする場合は、状況が違ってくる。法律を知らなけりゃ、話しにならない」 新一は、マスメディアに取り沙汰され、高校生探偵として完璧を求められてきた。そしてそれに応える推理力や、メディアに堪える十分すぎる容姿やバックボーンが存在していた。けれどそれを仕事として持つ場合、今までのようにはいかない事も、承知していた。 新一は、メディアの要求に応えながらも、内心冷めた冷静さを失う事がないのだと言う事を、服部は知っている。最初こそ何も知らず、無鉄砲に新一に会いに上京した服部だったけれど、今では当時の新一を取り巻く環境を正確に理解している。 「法学部って事やな?」 「お前もだろ?」 「当然や。探偵でも警察でも、仮に検察だとしても、法律知らなけりゃ話しにならん。選択肢は幾つ在ってもええやろ?」 その為の大学進学だ。大学は、窓口だけは開かれている。選びレールを引くのは、本人の仕事だ。高校生で将来に向けて明確なビジョンを持っている方が、奇特な存在だろう。 「法務官僚にでもなったらどうだよ」 「裁判官にでもなれっていうんか?」 「最高裁判事は15人だかんな、まぁ頑張れよ」 全国三千人在る裁判官の頂点に立つ最高裁判事は、たったの15人だ。そしてその15人が、司法の片翼を担っている。パワーゲームとしては、警察組織と同じだろう。 「アホいい。俺は探偵になるんや。工藤もやろ?」 「親父さんに恨まれないようにしろよ」 薄く細い肩を竦めて苦笑する。 「好きにしぃ言われとる。俺の人生は俺のもんや。まぁ本音言えば、後継いで警察官僚なってほしいって思うとるのかもしれへんけどな。俺は応えられん。親父も判っとるやろ」 偉大過ぎる父親の影に威圧され、それでも自己を確立し、探偵で在る事を続けていられる服部は、精神が強いのだろうと新一は思う。 警察官僚と言う名が持つ意味や重さを、新一が知らない筈はない。それでなくても官僚社会は旧態依然で、世襲制度のノリに近い。服部が探偵と言う途を選択しなければ、父親の後を継ぎ、警察官僚になっていた筈だ。こうして新一と出会う事がなければ、そうなっていたのだろう。 大阪府警本部長と言う肩書きの意味する重さ。それは警察組織の中、完全な出世コースなのだと言う事を新一は知っている。行く行くは警察庁長官や警視総監と言うポストに付く人間が、通過地点で着く指定席だ。その父親の名に威圧されず、探偵としての立場を確立する困難さを、新一は判っているから、服部の精神的な強さを考えずにはいられない。 父親の名に左右される事のない、虚勢のない自信。それが服部を支えているのだ。そして甘えている自覚すらある事が、服部をただの子供にはしなかったのだろう。そしてそんな息子を、服部の父親が内心で認めている事も、判っているつもりだった。 「……」 「俺の決めた事や」 不意に口唇を噛み締め黙り込んでしまった新一に気付き、服部は深い笑みを刻み付ける。 深い声と眼差しだった。新一を凝視する漆黒の双眸は、これ以上ない程の労りを滲ませている。 「お前ぇのそういうとこ、嫌いだ」 適格に見抜かれてしまう心情。誤魔化す事のできない眼差しの前に身を曝し、新一は俯いて声を絞る。 「俺は好きやで。工藤と知り合って色々見えてきて、そうして何もかも自分の所為だって引っ被る悪い癖も、好きやな」 知り合って今に至までを振り返れば、不思議と新一の笑顔を思い出す。 実際眼にしてきた表情など、推理をする時の怜悧で凛冽な横顔が殆どだと言うのに、フト垣間見せる無防備な笑顔に胸を掴まれる。それが恋愛感情なのだと気付いたのはもう随分前で、服部は決着を付ける為に一歩を踏み出した。そして今は綺麗な恋人を手に入れている。 そうして悪い面も良い面も発見しては、新一に魅せられていく。想いなど深まるばかりやと、服部は内心苦笑する。 綺麗で高潔で、そうしてある一点脆い新一。天然無色な事が、新一の脆さとも言える。精神が弱い訳では無い。どんな困難な状況になっても、絶望に哭いても、諦めない強さが新一にはある。けれど、人の疵に深入りしすぎて、それさえ自分のものとして感じてしまう新一は、崩れないからこその脆さを秘めているようで、服部には痛々しくて堪らない事がある。そうして疵付き乍らも、他人の疵は自分のものにはならないし、肩代わりも出来ない。主観で捉えた痛みや疵など、所詮主体の価値程度で決定されてしまうものだと理解しているからこそ、新一の痛みが深い事も判る。 だから新一は、深淵を垣間見る術や眼を持っている事も、理解出来てしまうのだ。新一の苦しみさえ、肩代わり出来ない。小さい躯であったアノ時でさえ、新一の何一つも代わってやる事など出来なかった。見守ると言う痛みを知ったのは、その意味や重さを知ったのは、恋愛感情を意識して、新一の為に出来る事を考えた時から何一つ変わってはいない。 見守る痛みを孕む事を、服部に語ったのは他の誰でもない哀だった。新一を見守る事で、傷付いてきた少女。同じ位置で、新一を愛してる少女。見守り続ける強さが誰より綺麗だと、服部は思う。 「やっぱお前ぇのそういうとこ、嫌いだ」 子供の八つ当たりじみていると、自覚している。服部の前でだと、呼吸が楽にできる。演じる事のない気安さは、コナンの時から提供されていた場所だった。だから隠す事なく感情を現す事ができる。そんな些細な場所が、実は新一には少なかった。そんな事さえ、服部と知り合う事がなければ、気付けなかった。 包まれる安堵と言うものの心地好さを知ったのは、服部と出会った時からだ。だから同じ分量で相手を包んでやりたいと新一が思っている事を、服部が知っているのかいないのか?それは新一にも判らなかった。 新一の子供のような口調に、服部はただ笑う。揶揄も哄笑もないソレは、ただ静かに笑っているから、新一はやはり落ち着かなくなる。 悪党、そんな言葉が胸を過ぎった。 遠路はるばる授業終了と同時に東京に来た服部が、キッチンに立つ理不尽さも感じないのは、とりたてて料理が苦手ではない事が影響しているのだろう。同時に、家事一切プロ級の新一が、自分の料理を好んでいる事を知っているからで、一人暮らしの新一の食生活があまりに乏しい事も知っている服部は、既に上京した際位はまともな食事をさせるという事が、既に義務化してしまっている所為なのかもしれない。 キッチンのラウンドテーブルの上には、夏で疲れた胃を考慮しての献立が並んでいる。元々新一は濃い味付けは好まない。淡泊であっさりしている料理が好きだから、服部が作った物は、大根下ろしに付けて食べるポヒュラーな秋刀魚の塩焼きに、キュウリやトマト、椎茸や春雨を用いたおひたしに、肉じゃが。豆腐と油揚げとワカメの味噌汁と白い御飯と、完全な純和風で構成された食卓に、新一はマメな奴と呟いて、それでも丁重に頂きますと、料理人に対しての感謝を口にして、料理に箸を付けた。 そんな習慣も、こうして二人で食事を摂る事が、不自然ではなくなった時からだ。以前、新一は服部に指摘されたのだ。 食事の前後の挨拶がない。 極当然の環境で、幼い時から礼節には煩かった両親や祖父の元で育ってきた服部にしてみれば、食事時挨拶しないなど、言語道断だったのだ。 いただきます、ごちそうさま。極自然に口に出る服部と違い、新一にはその習慣がない。 それが一人暮らしの弊害だった。そんな時の服部は、相手が新一でも遠慮がない。指摘するべき部分はちゃんと指摘する事の出来る人間だった。指摘する事もできない関係なら、とっくに二人の関係は終わっているし、発展などしなかっただろう。影響しあえる存在でありたいと、望まない二人だったら、ただの同業者として終わっていただろう。そこに恋愛感情など、絡まなかっただろう。 服部曰く、料理人に対してと、農家の人に対して、ありがとうと感謝を口にする言葉は当然だと。以来、最初こそ反駁した新一も、事在る毎に言う服部の言葉が習慣化してか、今では一人の食事の時でもちゃんと挨拶をして、手を合わせてから食事をする事を覚えていた。 服部が上京し、一休みしてから料理にとりかかったから、当然時間は遅い。あろう事か、新一は元々服部にリクエストする為、高校が終わった後、近所まで買い物に行っていたのだ。冷蔵庫には、未々材料が残されている。慣れた様子で冷蔵庫から材料を取り出しながら、服部は明日のブランチの料理も考えていた。 どうせ休日の朝など朝食と昼食が重なってしまのはいつもの事だ。恋人同志が久し振りに逢うのだから、夜にする事など一つしかない。そして、だから朝方まで戯れてしまうから、いつも日曜の起床は昼近くだし、早めの夕食を済ませ、服部は最終便で大阪へと帰るのだ。 秋は秋刀魚が旬だから、一番ポピュラーな食べ方をしようと、塩焼きを希望した。そして今新一の眼前で、服部は綺麗な所作で箸を操っている。 礼儀正しく綺麗な箸運びで、テーブルの上の料理を平らげていく服部に、以前訪れた大阪の彼の家を思い出す。 警視庁と変わらぬ広域指定本部である大阪府警本部長というポストの主を持つだけに、留守がちな主人に変わって、その家を守っている服部の母親の静華の存在が大きい事はすぐに判った。 自分の家と大差ない日本屋敷は、けれど落ち着いたたたずまいをしていた。大差ない筈の自分の家の空々しさに比べ、服部の家は穏やかで落ち着いた気配に満たされていた。それは家を守る者の存在が明確で、安定している事を示しているのだろう。 服部の父親の肩書きを考えれば、仕事柄、人の出入りも多いだろう。突然の来訪者や宿泊者に、けれど静華は戸惑う事などないのだろうとなと、新一は思った。 常に客間は整頓されている風情があったし、服部は極当然の事のように母親を評した。 極単純に母親を評した服部は、けれどそれが常に気苦労の付き纏う事だと、理解出来ない無知な子供ではなかった。母親の背負う大変さなど、幼い時から眼にしてきている服部だったから、母親が家を安定させている事など、言われるまでもなく理解している事だった。 尤も、本部長が自ら捜査に乗り出す事は有り得ない事を考えれば、留守がちという事は、懸念する案件を、自ら捜査書類などにチェックをいれていると言う事になるのかもしれない。それでさえ、通常なら決してありえない事だ。 キャリアは、2~3年で中央と地方を往復し、ポストを上げていく存在だから、出世コースのパワーゲームの通過地点である本部長ポストで、其処まで案件に取り込む官僚は皆無に近い。けれど服部の父親は、府警内部や犯罪者達から『鬼の平蔵』と呼ばれる存在なのを考えれば、自らが現場に出向いた経験が、一回や二回ではないと言う事を示している。 だからそんな主の留守を預かる者は、やはりただものではないのだと、新一は服部の母親の静華を見て思ったものだ。 その名の持つ本質を現すかのような人物だった。着物の似合う細面の美人。自分の母親も世界の恋人と言うキャッチコピーが未だ通用してしまう女性だけれど、服部の母親はまた別の意味で美人だった。それも極上の部類に入る。 静かで細身で冷ややかな剣。そんな印象が色濃い静華は、確かに剣の天才と言われる服部を育てた母親なのだろう。そして自らも剣を嗜む。それも趣味の範囲以上の腕を持ち、本来は、生家の道場の跡取り娘だった。だから服部は、父親の後を継ぐと同時に、道場の跡取りと言う事さえ、期待されているのだ。そんな環境を考えれば、服部が礼節に煩いのも頷ける。厳格とまではいわないけれど、武道に精通している家柄を考えれば、当然礼節から入るのは基本中の基本だ。服部はある意味大人に囲まれ育ってきたのだろう。それは勿論新一も状況は似ている。父親が推理作家で、警察の捜査にもよく協力していたから、物心付いた時には、既に捜査現場に出入りしていた。尤も、新一には、当時の記憶はない。本人は幼い時の記憶などなくても不思議ではない。そう納得しているようだった。けれどそれが周囲にとって唯一の救いである事を、今は未だ知らない。 「なぁお前さ、大学こっちに来て、アノマンション住むのか?」 不意の台詞に、服部は目線を新一に合わせた。 「そうやな、そのつもりやけどな。親父もそのつもりやろうし」 好き勝手に使用して良いとの許可は、とっくにとりつけてある。だからセキュリティーナンバーを書き替えたのだ。それは父親が信頼を息子に託した言葉でもある事を、服部は正確に理解している。 「フ~~ン」 「なんや?」 可笑しな奴ちゃな、少しだけ不機嫌になった新一に、服部は箸を中断させる。 「別に」 淡如に放つと、新一は再び箸を動かした。 「まぁほんまは、此処が一番ええんやけどな」 ボソリと呟いてから、再び箸を動かし、相変らず器用な所作で、秋刀魚を骨と身に別けて行く。 「ほんまはな、此処で工藤と同棲したいんやけどな」 「……何が同棲だよ。するなら同居だろ」 服部同様器用に箸を動かしながら、薄茶の双眸が眼前の貌を睥睨する。 「してる事してて、同居か?恋人同志が住むんやで、同棲やろ?」 「新鮮さがなくなるから嫌だ」 「……言うか~~工藤、タチ悪すぎや」 冗談か本気か判らぬ新一のシレッとした答えは、浮かべた意味深な笑みからは、探る事は出来なかった。 そんな時の新一の笑みは、服部が唖然とする程、何処かしら妖冶な気配を滲ませて、情事の最中、放埒な娼婦の態を垣間見せる笑みと酷似している。その笑みに、服部はドキリとなる。 「惰性と馴れ合いで繋がる関係なんて、ごめんだからな」 「タチ悪すぎや自分。間違っても、他の男の前でしたらあかんで」 深々溜め息を吐き出す服部は、ちょっとだけ可愛そうな恋人なのかもしれない。 「他でするか。第一んな下らねぇ心配するのはお前だけだ」 と言う事は、新一は自分のそのどうしようもない笑みの効力を、知っていると言う事になるのだろうかと、服部が首を捻って脱力してしまったとしても、罪はないだろう。流石世紀の大女優の息子だと、妙な感心をしてしまう服部だった。 「なぁ工藤、一緒に暮らさへん?」 新一がコナンから本来の姿を取り戻して以来。服部と新一の逢瀬の場所は、工藤邸へと移っている。 「考えといてやるよ。その前に、パスする事あるだろ?」 ホメオスタシス機能が障害を起こし、幼児化された肉体を、一度解体し再構成させるに等しい作業で再生された肉体は、服部の知らない場所で幾度かの発作を起こしている。同居したら、隠しているソレが露呈する事など時間の問題で、自分を心配する服部を、これ以上心配させたくはないという想いが新一には強い。けれど、哀に言わせれば、服部の在る間は発作のでない事を考えれば、精神的な事も多大に影響している事は明らかで、新一の精神衛生環境と安定性を考えなら、服部との同居は悪い事ではないと、哀から言われていた事だ。ただし、それには注釈が付く。 『無茶はダメ。壊されない程度にね』 言外の意味が判らない新一ではないから、哀の台詞の一言で、脱力してしまったとしても、罪はないだろう。 綺麗な顔して、言う事あいつも下世話だよな、とは新一の台詞だ。まして外見小学一年生の言う台詞ではない筈で、そう考えれば、哀は自分より実際の年齢は年上なんだよな、そう思う。 「まず受験をパスする事、第一条件だろ。お前第二志望はどうすんだよ」 「ん~~~」 「……考えてねぇ、んな馬鹿な事言うつもりか?」 「流石工藤やなぁ~」 「揶揄ってんじゃねぇよ」 服部ののんびりした声に、憮然とする新一だった。 「T大一本なんて」 「揶揄かってるわけやないで。他の選択肢が、思いつかんのや」 それだけだと、精悍な造作を少しだけ苦笑させる仕草が、服部の嘘のない情素を新一に伝えている。だから新一は何とも言えない表情を浮かべた。 服部が大学進学を東京に選んだ意味など、一つでしかない。新一もその意味を知っている。 服部が、T大一本で行く理由は、東京進学許可が両親から降りた理由の中で、T大進学が条件に出されているのだと言う事を、新一が考え付かない筈はなかった。だから新一は辛そうに顔を歪めてしまうのだ。 自分の息子が、探偵と言うあやふやな職業に付くと言う決意を、疑う事はないのだろう。それならば、確かな法律知識を知る必要がある事も、リーガルディフェンスを身に付ける事が必要な事も、判っているのだろう。服部の父親は警察官僚だ。法律の意味や必要性、重要性など、高校生探偵と呼ばれる小さい存在以上に、その重さなどわかっていて当然だ。 T大法学部に在籍する事で、万一の警察官僚の途を選択する可能性も、打算的に考えてないとは言えないが、大学進学は将来のビジョンを選択する窓口なのは確かだから、服部の両親はわざと目標を高い位置に設定した事も、新一には判ってしまう事だった。まして服部には、その頭脳が在った。 新一と大差ないIQの持ち主で、模擬試験の中、新一同様その順位は、両手範囲に入っている。新一と違う点は、服部は理数が得意だけれど、現国もちゃんと教師が求める理想の解答を出せる人間だと言う事だった。 東京進学とT大一本勝負。服部の両親は、息子の東京進学を疑ってはいないのだろう。それが新一には少しだけ胸が痛む事実だった。 巻き込んでしまった。そしてこれからも巻き込んでしまう。その時服部を傷つけてしまう事も、判っている。だから。だから口唇を噛み締める事しか出来ない新一だった。それでも、一度味わってしまった心地好さを、手放す事もできない傲慢な自分。そんな自分が愚かしく感じる。それでも求めてしまう矛盾に、半瞬の嫌悪さえ抱き、それでも願ってしまう。 「堪忍な」 半瞬、箸を止め、俯いてしまった新一に気付いた。 俯き翳り、それでも今の新一の表情が、服部には手に盗るうに判ってしまう。それはきっと、自分の所為でさせてしまっている表情なのだろう。それでもね誰り新一の隣に在る事を望んだのは自分だ。傲慢な程の想いを込めてさえ。 「そんな顔されると困るやん。言ったやろ?俺の選んだ事や。俺自身の為に選んだ事や。 工藤が背負う事なんて、なんもあらへん」 「バーロー違ぇよ、春になったら騒々しくなる、そう思っただけだ」 勘違いすんな、新一は笑う。 「相変らず、綺麗な顔して口悪いな工藤」 笑ってくれる事に、安堵する。無自覚に神経が弛緩するのが判る。新一の笑顔に、魅せられて行く己を、服部は意識する。 それは新一と出会う事がなければ、知らずに済んだ感情なのだろう。そしてそんな些細な事が倖せなのだと、気付かずに年老いていったに違いない。 誰かの笑顔を見る事が、泣き出したい程倖せだと、服部は切実に思う。だから傍に在たいと思うのは、自分の望みで願いで、祈りだった。そして、癒したいと思うのだ。 決して癒されてはくれないだろうと思いながら、癒して救って、守りたいと、望む自分の傲慢さをも自覚してるい事が、服部が大人だと、哀が漏らす要因になっている事を、けれど服部は未だ知らない。そして癒したいと思いながら、結局癒されてしまうのは自分だと自覚している事が、服部を成長させている事は、本人に、自覚は皆無だ。 「綺麗で上品なんて、俺じゃねぇよ」 お前だって、そんな俺には興味なんてないだろう? 新一はまた笑った。 |
Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you. |