HARVEST MOON

act3








 警察組織の救世主、東の名探偵たる工藤新一に、事件依頼の電話が入った訳ではないから、二人は何処で事件が発生したのか、場所の特定は判らない筈が、聴覚に飛び込んできたPCの音の反響を正確に捉える聴覚を持って、二人はその方向性を見定め、躊躇う事なく、住宅街を縫うように走って行く。
 馴染みの地域課交番の警察官にでも訊けば、すぐに場所は判った筈だった。けれど二人は迷う事なく現場へと向かう。
 新一の半歩後を走る服部は、その薄い背を凝視する。
薄く細い華奢な背。その細い肩。どれだけのものを背負っているのかを考えれば、辛くなる。肩代わり出来ない自分の無力さに。迷う事なく事件へと走っていく姿に、時折ゾッと心臓を鷲掴みにされる感触が生々しく、足下をヒタヒタと濡らして行く。
 恫喝も逡巡もなく、新一は必要があると判断した時、自らを切り捨てる事に躊躇いがない。視えない眼が、新一を事件に惹き付けるかのように、走る後ろ姿には躊躇いがない。
ただまっすぐ走って行く。その姿が、強さが綺麗だと思えば、決して止められない自分を服部は自覚している。
「服部」
 視界が開けた瞬間。一台の見慣れた車が白いマンション前に停車していた。けれどそれはPCではなかった。現場保全のテープも張られてはいないし、事件現場に在るべき警察車輛もない。あるべきやじ馬の姿もない。それらを整備する筈の所轄の地域課警察官の姿もない。
「なんや?事件やないんか?ただの通報か?」
 新一の隣に佇み、服部は首を捻る。
「でもアレ、高木さんがいっつも運転してる車やな」
「一課の刑事が来てるっていうのに」
 変じゃないか?告げる言葉が喉の奥で消える。
この空間は、休日の朝の少しだけ遅い人々の目覚めの中に位置しているだけで、新一や服部の精神を刺激してくるナニかがなかった。けれど事件でなければ、都内の凶悪犯罪を扱う一課捜査員の車が、ココにある筈はない。
「行ってみようぜ」
 瀟洒な白いマンション。上を見上げれば、10階立てのマンションだった。マンションの屋上には、秋の青空が眩しく光っている。
「高木さんに、電話した方が早いんちゃうか?中入っても、この分じゃ現場何処か判らんやろ?」
 他に警察車輛がない事を考えれば、自分達が乗り出す事件ではないだろうと思えた。
けれど一課捜査員の車がココにある事が奇妙だったから、服部は新一を止める事はしなかった。所詮この状況では、止めても言う事など聞いてもらえないだろうと、新一と付き合い、服部が学習している事だった。
「そうだな」
 頷きながら、新一は携帯を取り出し短縮ボタンを押し、歩き出した。









「遺体の引き渡し拒否?」
 高木に電話をしたら、すぐに出た。携帯の向こうの声は、助かったとばかりに、情けない声をして、新一の名を呼んでいた。高木と言う刑事の人の良さを、こんな時二人は思い出す。
 とても捜査一課強行犯という、凶悪犯罪を扱う部署に在る刑事には見えない。寧ろ所轄の刑事課に在るような印象の刑事だ。けれどエリートコースの一課に在るのだから、それなりに優秀な刑事の筈だった。けれど、今二人の前に立つ高木は、立ち尽くすと言った言葉が似合っている。
「そうなんだよ、困っちゃってね」
 ポリポリと、髪を掻く。
「どういう事なんですか?」
 新一の眼は、高木の肩を通り越し、その向こうを視ている。
玄関での会話。背後の扉が閉められれば、この住いに、一課捜査員が二名在るなど、判らないだろう。
 玄関に続いてのキッチンとリビング。新一と服部の正面に立つ高木の肩の向こうには、マンションの窓から外が視える。高く澄んだ秋の空だ。犯罪が起きている可能性の在る部屋から視えるとは思えない程、高く澄み渡る空が在る。
 新一の横で、服部も高木の肩の向こうを見詰め、空を映すと、目線だけを動かした。
リビングの横に入り口がある。きっとその奥にも高木の同僚は在る筈だ。刑事はどんな時でも、事件に対する時は二人一組が原則だ。だとしたら、此処に在るもう一人は、女性刑事の佐藤美和子だろうと、二人は思考を巡らせる。
「邪魔するで」
 玄関で靴を脱ぎ、服部はフローリングの床に上がった。その横で、新一も靴を脱ぐ。
別段足音を忍ばせているわけではないが、音を立てない所作は、二人とも同じだ。特に服部はいつもそうだ。裸足で歩いてもスリッパを履いても、歩く時に音は立てない。気配を殺す事にも慣れているのは、武道を嗜んでいる所為なのだろうと、隣に佇む服部を間視し、新一は自分には適わない側面を思い出す。
「悪いわね」
 後ろを振り向く事なく、高木の同僚である、佐藤美和子が口を開いた。その眼差しは、眼前の女性に焦点が絞られている。
「この子は、渡しません」
 堅く頑なな口調で、女性が口を開いた。抑揚を失った堅い声が、室内の片隅に冷たく凝って行く。女性の視線は佐藤を見る事はなく、自らの目線のすぐ下に在る者に向けられいる。
 室内の入り口の扉を開けた位置に佇む新一と服部に、遺体引き渡し拒否の意味はその場で知れた。
 女性の視界が映しているものは、布団に寝ている小さい子供だ。
遺体を見慣れている二人には、すぐにそれが生命がないと判る。だからこその遺体引き渡し拒否ではあるけれど、告げられ納得し理解する事と、感情は別物だ。そうして二人は比較対象できる生死の境界線を知っている。寝かされている子供に、生命が宿っていない事は、哀しい程判る。判れば、ああ、そう言う事かと、事情も判る。その辺り、名探偵と言われる二人に、察する能力に落差はない。
「申し訳ありませんが、病院以外でなくなった場合、行政解剖による、死因特定が必要なんです」 
 注釈を付けるなら、入院患者も搬送24時間以内の死亡の場合、死因不明の場合は、解剖の必要が生じてくる。
 幼い遺体の母親なのだろう女性の態度に、佐藤の声は労りを含んだものを滲ませてはいるが、流石一課の刑事だけの事はある。意識は訓練され、過剰な感情移入はソコにはみられない。それは知らない者が見れば冷淡と評される態度かもしれない。けれど事件の側面を正確に捉えるには、客観性が何より必要なのは事実だから、佐藤も高木も、必要以上の労りの言葉などは、掛けてはいない事が、新一にも服部にも判る。意識が訓練されていると言う事は、そういう事だと、経験上、新一も服部も痛い程心得ていた。だからと言って、彼らが嘆いていない訳ではない事を、新一も服部も判っていた。
「死因は、判っています。運ばれた救急病院で、乳幼児突然死症候群だと言われました」
 外見から判断するなら、女性の年齢は30代半ば位だろう。細面で中々に整った面差しをしているのに、今は疲憊している。
「SIDS(Sundden Infant Death Syndrome :乳幼児突然死症候群)?」
 女性の台詞に、新一は小さい掠れた疑問符を漏らす。漏らし、視線は小さい遺体を凝視する。新一の掠れた声に、服部が隣を瞥見する。見れば、色素の薄い双瞳は、幼い子供の遺体を凝視している。推理をする時の新一の横顔が、ソコには在った。新一の視線を辿り、服部も新一の疑問が判ったのだろう。
「……お気の毒ですが…ダメ…なんです」
 其処で初めて、新一が口を挟んだ。推理時、澱みない端然さで話す新一は、今は少しだけ辛そうだった。その横顔を、服部は痛ましげに凝視する。
 此処でその台詞を佐藤や高木に任せておけば、疵付かずに済む事を知っている筈なのに、それでも話す事が自らの背負うものでもあるかのように、新一は口を開くのだ。
「……貴方、誰……?」
 疲れきった眼差しが、初めて其処に人が在る事を認識したように、新一と服部に向けられた。
「探偵です…」
「……探偵?」
 深く怪訝に潜められる眉が、新一と服部を視ている。一対の眼に生気は感じられない。
そのくせに、何処か意思の強さが在る眼をしている。頑なに、警察に遺体引き渡し拒否をしている意思の強さが、其処には見て取れる。その意思の強さや頑なさは、新一には判らない事だった。我が子を失った母親の気持ちは、想像しか出来ない。突然、愛を傾ける対象を失った者の痛みは。所詮それでさえ、想像の中の痛みでしかない。だから尚更新一の胸は痛んでいるだろうと、服部は思った。
 服部の横で、新一は不意に膝を折った。目線を合わせる為だ。膝を折り、居住まいを正すかのように細い背筋を伸ばし、正座する。細く白い首筋が、服部の目線の下に映る。
 白く華奢な首筋。片手で握り込めてしまえそうな程に細く華奢で。折れそうな程に細いソレに、不意に痛々しくなる。そう思いながら、シャツのもう少し内側には、昨夜つけた情交の証しもあるなと、不意に思い出す。
 どれ程抱いても、新一はそんな表情は欠片も見せない。愛し合う意味も行為も知るくせに、こんな時の新一は、一切の欲望など持っていないかのように服部には映る。感じられる。
 公私混同はしない。そんな事は当然で、けれど事件に関わる新一は、服部の焦燥を煽る程、端然とした清冽さで佇んでいる。聖人君子ではないと苦笑した新一は、こんな時はソレにしか見えないのだ。
「SIDSの診断には、解剖が必要不可欠なんです」
 推理時は、不思議な程蒼味が増す新一の双瞳は、我が子を失った母親である、佐々木典子に逸らされる事なくまっすぐ向けられている。告げた新一自身、それがどれ程残酷な台詞であるか、百も承知している。
「知らないわ、関係ない」
「貴方の娘さんの事なんですよ?」
 佐々木典子の台詞に、佐藤が口を開く。極力冷静で在ろうとすればする程、その声は冷たさを増してしまう。
 佐藤にとってみれば、この母親の頑なな態度は判らなかった。
突然我が子を失った遺族を、刑事である高木と佐藤は、幾度も眼にしてきている。それは東西の高校生探偵として、名を馳せている新一と服部の二人も例外ではない。
 我が子を失った親は、大抵取り乱しパニックを起こし、叫喚している。それは我が子に限らず、大切な者を失った遺族に共通している当たり前の感情だった。叫喚し、そうしてその後に訪れる虚無。
 空ろに濁った眼差しを向けられた事は、一度や二度ではない。被疑者検挙の遅さに罵声を浴びた事も少なくはない。被疑者が特定されない以上、遺族が己を支える手段の一つに、対象物への怨嗟が必要な事も、理解している。それは大抵被疑者検挙を目的とする警察へと向けられ、其処に新一や服部が関与していれば、当然二人が浴びる事でもあった。
甘受しなくてはならない事なのだろう。自分にぶつける感情で支えていられるなら、それでいいとも思う。自己を失くしてしまうより、余程いい。
「だから、他人には関係ないわ。小さい子に、こんな小さい子に、傷を付けるっていうんですか?」
「でも、解剖して、死因を特定しないと、死体火葬許可証が、おりないんですよ?」
 佐藤は言い募る。それは幾許の事実でしかないとしても。
「そんな事、誰が決めたんですか?」
 冷ややかな敵意が、相手から滲んでいる。それは澱みなく、まっすぐその場の人間達に放たれている。
 新一の眼差しが不意に潜められる。新一の背後に佇む服部も、同様だった。
八つ当たりじみた感情を、ぶつけられる事は珍しくはない。探偵である事を選んだ時から、それは二人とも甘受すべき事として甘受してきた。受け止める者の痛みなど、ダレも考えてはくれない。自らの痛みの裡に在る人間には、考える余地はない。自らの哀しみで手一杯だ。だからそんな感情には慣れていた。けれどこの敵意は、判らなかった。理解出来ない。取り留めがないというわけではない。ただ奇妙だと思えた。
「国です。法律なんです」
「この子を育てたのは、国でも法律でもないわ。母親の私です。今更死因が判ったからって、なんだって言うの?」
 それもまた、一つの真実なのだろうと新一は漠然と思う。
死因が判ったからといって、それは必ずしも遺族の慰めになるわけではなかった。真実を追求する困難さを知っていればいる程、ソレは残酷な形でいつだって新一を疵付けてきた。こんな時ばかり、裏切る事もせずに、確実に新一を痛ませる。
 死んでしまった人間を、切り刻む。二度殺すようなもの。きっと素人には、そんな風に映るのだろう。
 それが必要だと言うのは、司法に携わる人間の、側面的な台詞なのかもしれない。死んでしまった人間は、何をどうしたからと言って、生き返る訳ではないのだから。けれど、死因を特定する事で、慰めになる事だってあるのだ。そうして、この母親にもそうであってほしい。新一はそう思う。思うから、口を開いた。
「声を……」
 蒼味がかった双瞳が、布団に寝かされている幼い子供に向けられる。
生命がない事は判る。白い貌。死んだ人間特有の気配のなさがソコには在った。
 実際生者と死者の区別は、そんな職務に携わっている人間には、一目瞭然で判る。むしろそんな気配は、肌身に伝わる皮膚感覚に近い感知でもある。最終的に死亡確認をとるのは医師の仕事だが、人の生死に関わる人間には、その境界線は瞬時に判る。気配がないのだ、死者には。どれ程の気配も、微塵もないのだ。それが死者だと語るように、気配が失せる。
「声を聞く為に……」
 幼い遺体から、母親へと視線を映す。静謐な声だと、誰もが思った。こんな時の新一の声や眼差しは、驚く程静謐で、幽邃なものを滲ませる。
 死因が判れば、死ぬ経過も判る。それによって、隠されているナニかも視えてくる。
「死んだ人は、もう真実しか語れないから……」
 死体は語る。語る声を聞ける人間に、それは真実の声となって死体は語る。苦しみも哀しみも何もかもを。それは決して優しいものではないかもしれないけれど。苦しいものの方が格段に多いけれど。けれど新一は聴く事を選んだ。聴く為に、探偵で在る事を自らに課した。
「工藤」
 堪らないと思った。どうしてこうもまっすぐな魂をしているのだろうと、服部は思う。
死者の真実の声を聞く。実際そんな事はできないに等しい。被疑者を検挙する事で精一杯だ。被疑者を検挙する事で、供述調書や起訴状による過程での、極一方的な『生者』の声からでしか、真実は語られない。聴く事はできない。けれど新一は違うのだ。必ず声なき声を聴こうとする。『生者』の声より、既に語る声を失った人の声を、新一は知ろうとする。だから痛々しい。哀しくなる。まっすぐで、傷付く事ばかりで。そんな疵さえ盾にする事も、免罪符にする事も、新一は知らない。無防備な子供と同じだ。けれど子供にはない哀しい程の綺麗な強さと勇気を持っている。それが新一に事件を解せて行く。それは何処までも真摯な魂なのだろうと、服部は不意に抱き締めたい衝動にかられ、賢明に理性で押しとどめた。
「なっ……!」
 あからさまな敵意が、新一に向かって放たれる。それさえ甘受するのだろう。逸らす事も知らないかのように。
「子供の貴方に、何が判るって言うの?声を聞く?もう香は、死んでしまった、話せないのよ。真実?今更死因が判ったって、香は帰ってはこない」
 涙を流さず、ただ叫ぶだけの言葉が新一にぶつけられる。
枯れる程泣いたとは思えないと、不意に思う新一は、その理由が判らなかった。実際涙が枯れる事などないのだから。
「貴方だって、大切な人が死ねば、判るわ。真実なんて、判ったって、意味なんてないわ」
 その台詞は、服部の胸を鷲掴む。鋭い棘となって、服部の身の裡に入り込む。
新一を失う可能性。考えただけでも気が可笑しくなりそうだ。いつだって、喪失の予感を抱き、新一を想ってきたのだ。不確かな生を生きていた新一。そうして漸く戻ってきた。けれどそれでさえ、不確実な生かもしれないのだ。喪失の予感は、今だって付き纏う。冷たい予感は、今だって微塵も拭えない。腕に抱き体温を確かめ、番いその奥を探っても、その不安は今だって拭えない。失う哀しみなど今更だ、癒される事もなく。
 真実に意味を求めるのは、探偵の摂理だ。隠された深淵の向こうを識りたいと望むのは、探偵の性だ。識る事で傷付いても、視える真実からは眼を背ける事は出来ない。そうして新一は、誰もが気付かぬ微細な部分から、真実を見抜く眼を持っている。声を聞く耳を持っている。新一の全身が、死者の声を聞き、真実を識ろうと、精神が研ぎ澄まされるのだ。
そうして傷付き痛みを孕み、更に自らを疵付けると承知して、新一は断罪を口にする強さをも持っている。それは高慢なものではなくて、残酷なものでもなく、ただ静かに告げるのだ、時には泣きそうな表情をして。哀しんだ眼をして。その全てを身の裡に押し隠して。
 真実を識る事が、どれ程哀しみを齎す事が、誰も知りはしない。視えてしまう真実を、言語と言う構造性に置き換え語る事が、どれ程困難で痛ましいか、誰もそんな事、気付きはしないのだ。警察組織の救世主。そう呼ぶ彼らでさえ、知らない。新一の天の才が、彼自身を痛め付けてしまうものだと。そうして服部はそんな新一を間近で見守り続けてきたから、いたたまれない。
 背後に佇む服部の気配や感触が、不意に変わった事を、新一は理屈や言葉ではなく、肌身で感じ取った。もしかしたら服部は、もう喪失の予感を手放せないのかもしれないと思う。それは自分が付けてしまった疵なのだろう。
 新一は、半瞬だけ背後を振り返る。誰でもなく、ただ新一だけを捉える眼差しに、視線を合わせた。 
 大丈夫だと、告げる眼。今はそんな事に構う時ではないと、叱責でもなく、ただ告げる眼差しが静かに瞬いている。その眼差しの前に身を曝せば、彫りの有る造作が歪められる。雄弁に言葉を語る眼差しの意味に、気付かない服部ではなかった。
「心臓が悪かったのか、脳に異常があったのか、そんな事が判ったからって、この子は帰ってこない。確かな事はね、朝起きたら、この子は死んでいた。それだけなのよ。他人の子供切り刻まなきゃ、葬式もさせないなんて、随分傲慢な事言うのね」
 敵意は、次には冷めた反応を覗かせる。
「病院の医師と、鑑識からの証言ですが、お母さん。お子さんの躯には、随分痣があると言う事ですが?」
 佐藤の淡々とした声に、新一と服部は半瞬だけ顔を見合わせる。
虐待と言う言葉が、脳裏を過ぎる。母親が遺体引き渡しを拒む理由は、ソコに有るのだろうか?それならば、納得もできる。けれどと、新一は母親に視線を戻した。   
 新一達の前で、母親は初めて動揺を見せた。何かを考え込むように、物言わぬ我が子を凝視する。
「それはきっと、私です」
 視線は我が子に落したまま、淡如な声が紡がれる。
「躾です。この子は落ち着きがなくて、言う事きかない時がありました。行儀を身に付けさせる為の躾です」
 躾と言う言葉に、虐待が隠されている事は数多い。虐待と認識して子供に暴力を振るう親もいれば、教育、躾の一環だと、我が子に暴力を振るう親も少なくはない。そうしてソレは感情のままにエスカレートし、軈ては死に至らしめてしまう。虐待をしていたのだと言う認識を持たない親も、少なくはないのだ。
 日本は米国欧州のように、虐待問題には関心の薄い国柄で、虐待に関しての概念が未確立だ。親権が上位に有り、子供に関しての法整備がなされていない事が、そもそも子供が親の付属物である事を象徴している気さえする。児童福祉法が、社会的に認識されていない節が有るのも否めない事実だ。
 チャイルド・アビューズは漸く社会的に認知されてきたが、それさえ氷山の一角だ。虐待が、直接身体に振るわれる暴力だけだと言う認識が、そもそも虐待の意味を知らないと言う事を露呈しいる。虐待問題に関しての介入方法が難しいのは、その認識のなさも影響しているのだろう。そうして虐待を受け成長した子供の疵は容易に癒えず、環境遺伝として連鎖する。それさえ現代社会の社会病理の一つだ。
「どうしてもこの子を連れていくっていうなら、好きにすればいいわ、でも絶対に、解剖は許さない」
 拒絶と言う強い意思が有る眼差し。頑なな態度が、新一には可笑しく感じられた。
「高木君、監察医務院に電話して。遺体引き取りにきてもらって頂戴」 
 佐藤が背後を振り返る事なく、高木に告げる。
「監察医務院は、行政解剖の権限があります。権限執行に関して、ご家族の意思は必要とはしません。けれど、あそこの医師達は、ご家族の意向を無視した解剖は行わないと思います。そういう医師達だと、僕はよく知っています。だから、どうか、考えて下さい。そして…香ちゃんの最期の声を、聴いて上げて下さい」
 淡々と告げながら、決して新一の声は冷冽ではない。遺族に対しての労りが、これ以上ない程滲んでいる、静邃な声だ。
 都内23区の異状死体は、死体解剖保存法第8条により、監察医に行政解剖の権限がある。その為の監察医制度だ。けれど新一の知る監察医達は、いつも真摯に死体と向き合っている医師達だ。きっと家族の意向を無視した解剖は、行わないだろう。遺族の痛みを知るからこそ、遺族の意向を重要視する。そんな医師達だと言う事を、新一はよく知っていた。東京都監察医務院には、コナンになる前、立会い解剖に行っているから、よく知っていた。
 手遅れの医学といわれがちな法医学は、けれど死から生を問うものなのだと、遺体に真摯に対する彼らを視て、新一は思い知ったのだから。
 遺体は、直接的な言葉は持たない。言語としての言葉を話さない。だから常に厳しい技術や精神力が必要とされる。関わり方を間違えれば、真実には辿り着けないのだ。物言わぬ死者だからこそ、その尊厳は守られなければならない。見誤らないように。
 生きた人間は、話す事が出来るのだ。自分の口で、自分の言葉で、自分の気持ちを、語らえる。けれど、死者はもう話す事はできない。関わりを間違えれば、真実は簡単に捩じ曲げられてしまうものだ。その危うさや怖さを、新一はよく知っていた。真実を追求する怖さはいつだって付き纏う。それでも識りたいと願うのだ。
 三呪眼は、だから新一に宿っているのかもしれない。誰とも同じ場所に立ち、誰にも視えない深淵を見詰める新一は、いつだって狭間を見詰め続けているのだろう。そしては誰より疵付き、精神は血を流す、様々な意味に於いて。それでも視る事も識る事も聴く事もやめられない。貪欲なのだと言う自覚は、新一にあった。
「工藤……」
 抱き締めたい衝動に駆られ、服部はギリッと爪が肉に食い込む程、掌中を握り締めた。
誰も責めない新一が、責める言葉を持たない新一が、痛々しく愛しいと思う。
 死者の声を聴く。理解されないと理解して、それでも告げる言葉を持つ新一が、愛しいと思う。告げる強さを持つ新一が、綺麗だと思う。だから、見詰めていたいと願う。枷にならぬように。
 それだけが、祈りで願いで…。愛しさは、引き換えられない。









「これが検視写真」
 米花署の取調室の、無機質なスチール製のデスクに、佐藤美和子は数十枚の写真を、新一と服部の前に差し出した。
 無機質な取調室は灰色で、何故取調室なのかと言うと、事件として立件出来る材料のない異状死体は解剖待ちで、当然捜査会議など開かれる筈もない。所轄で現在開いている部屋が、刑事課の取調室しかなかったのだ。事件として立件できない以上、誰かに聴かれて大事にする訳にはいかない。ある意味閉鎖空間である取調室は、密談には都合がいい。これが正式に被疑者取り調べとなると、取調室の扉は開かれて行われる事が原則になっている。けれど今は取り調べてはないから、扉は閉ざされている。その取調室の扉の前に、婦警が集まっている事は、けれど幸か不幸か、新一は知らない。服部は、気付いたかもしれない。元々新一より、他人の気配には敏感だ。 
「佐藤はん、どうして一課が?」
 広げられた写真を手にする新一の横で、服部は疑問を口にする。現在高木は、遺体を監察医務院に運ぶ搬送に付き合って不在だ。
「泣き付かれたのよ。此処の知り合いに。在庁明け早々にね」
 一課と言う、ノンキャリ刑事の出世コースの捜査員の中に在って、佐藤美和子は女性と言う立場で、男性刑事に負けぬパワフルな活動をしている。
 男性でも精神的にも肉体的にも疲労の激しい一課の中、女性でその任務に付く事がどれ程大変で、また選ばれる事がどれ程希少かと言う事を、誰もが知っている。その分各所轄に知り合いは多いのだろうと二人は思った。それは佐藤の人柄をそのまま現している。
「アノ子ね、佐々木香ちゃん4歳。母親は美容師をしていてね、昨晩寝る時、時間は23時位だと言ってたけれど、寝息を立てていたと言ってるわ。そうして朝方起きた時、もう死んでいた。救急車依頼して、救急隊が到着した時には、死亡していた。救急隊の搬送記録の時間は5時23分。搬送先は米花総合病院救命センター。救急隊から、米花署に通報が有ったのよ。異状死体の搬送って。それでココの刑事が搬送先に駆け付けて、行政解剖説明したら、遺体引き渡し拒否でね。泣き付かれたってわけ」
 厳密に言えば、救急車に死体は乗せられない。明らかに死んでいると思われる場合、遺体を動かす事は、事件性がある場合、決して良い事ではない。けれど、死亡確認をとるのは医師しかできないから、常にその矛盾が付き纏う。
「CPAOA搬送で、SIDS診断下してしもうたんか」
 苦々しげに、服部が舌打ちする。その舌打ちを、新一はチラリと間視する。そしてすぐに視線はデスクに戻され、検視写真に注がれる。
「CPAOA?」
 服部の台詞の意味が判らず、佐藤が問い返す。
「救急搬送時、心肺機能停止した症例や。安易に診断下しよって。そんでも救命医か」
「どういう事?」
「SIDSのデーターベースは、ICD10(国際疾病疾患分類)が座標になってます。検視解剖の結果、特定出来る死因がない場合のみ、SIDSの診断が下ります。逆に言えば、解剖する前、SIDSの診断を遺族に漏らしてしまった事は、医師にとっては判断ミスになりかねないんです。ましてSIDSは平均4ヶ月〜6ヶ月、1歳未満が殆どです。この子は、4歳だと言いましたよね?だとしたら、SIDSが適応って言うのは余りに安易です」
 写真に視線を落したまま、新一は服部の言葉を補足する。
舌打ちする程度には、服部は医学の知識をも持っていると言う事で、東西の高校生探偵と言われる事はあると、佐藤は奇妙な関心をしてみせた。
「佐藤さん、遺体には、痣が在ると言ってましたよね」
 数枚の写真をデスクに並べ、視線は相変らず写真に向けられたまま、新一は独語のように呟いた。その写真を、服部も覗き込む。
 遺体の背中を映した写真。その小さい背には、暗赤色に変色している範囲が広くある。
「ええ、医師と検視結果でね。ただし、死亡時間が不明確だから、断定は出来ないって言ってたけれど、母親の証言から総合すれば、写真の背中にあるその暗赤色のものは、褪色現象がないから、痣だろうってね」
「23時には寝ててて、5時には死んでたっか…。確かに皮下出血の可能性が高いやろな。6時間じゃ、死班は完成せんからな」
 死後数時間まで、死班は指圧により褪色する。
死亡すると、血液循環は停止する。その結果重力に従い、血液は躯の低位置に移動し、網状の毛細血管に集まる。死班はその血液中の赤血球を眼に通して見たものだ。その色調・程度で、死後経過時間、死体の移動の有無が判る。
 死班は、死後0.5時間から三時間で斑上に発現。死後十二時間から十五時間に完成するから、医師や検視の報告に有るように、写真の中の暗赤色の変色部分は、痣なのだろうと、新一も服部も渋面する。
 皮下出血、通常痣と呼ばれるものは、血管の外に血液が出た物だから、指圧で褪色を起こす事はないのだ。 
「4歳の子が、背中にこんな痣持つのは、どういう事なんだと思う?背中だけじゃないま、全身に有るって言ってたわ」
 解剖を頑なに拒否する母親の姿が、佐藤の脳裏を掠める。
不自然すぎる程の頑なさに、真っ先に疑う事は、母親による虐待だ。
「家庭環境は?父親がいなかったようですが」
 虐待は、家族と言う単一の社会の死角による起こる。母子家庭の場合、母親の孤独感からエスカレートする場合が多い。
「半年前から別居中。あの子は、母親、佐々木典子の両親が、保育園終わったら見てるって事よ。父親の方、高木君に回ってもらうように、言ってあるから」
「流石仕事早いやん」
「ねぇ良く考えたら、今回呼んでないわよねぇ?」
 今更の佐藤の台詞に、新一と服部は互いに顔を見合わせ、肩を竦めた。
「PCの音、聞こえたんですよ」
「それだけ?それだけで、来ちゃった訳?」
 新一の台詞に、佐藤は半瞬だけ呆れた貌を見せる。その表情に、新一はやはり少しだけ薄い肩を竦めて苦笑する。
「それだけで十分やんか、俺らには」
 それ以外の理由など存在しないし、必要とはしないと、サラリと事も無げに言う服部に、佐藤は苦笑する。
「探偵って事なのね、骨の髄まで」
 少年である彼らが、それでも真摯に事件に対峙する姿に、佐藤は少しだけ適わないと思ったし、羨ましいと思う。
 純粋に事件を追い、真実を追求しようと足掻く彼らは、だから綺麗なのだろうと、羨ましく思う。体制組織の歩兵として動く自分には、もう純粋に、真実は一つと断言し、正義と真実を追求し、事件と対峙する事は難しい事なのだと、佐藤は判っていた。だから探偵で在り続けようとする少年達が、少しだけ羨ましかったのかもしれない。
「母親は、躾だと言ってましたよね…」
 一枚の写真を手にとり、新一は呟いた。
「虐待する親が、良く言う台詞ね」
 躯に痣が有ると告げた時。母親は躾の一環で、手を上げた事実を認めている。けれど、背中の広範囲に痣が出来る程、躾の一環で手を上げるだろうか?
「どないした?」
 新一の手元覗き込む服部に、新一が写真を差し出してやる。それを手にとり、
「ちゃう思うか?」
 服部が写真を凝視し、次に新一の横顔を眺めた。服部にも、新一の言いたい事は判ったのだろう。判ったからこそ、問い掛ける言葉を口にする。
「その痣だけ、変じゃないか?」
「この部分やな…、周囲の痣と、形が違う気ぃするな…」
 この部分と、節の在る長い指が、写真の一部を示した。
背中の広範囲に痣を持つ遺体の尾骨周囲には、明らかに境界の違う痣が在る。
「そうね、確かに、変な形の痣よね、ソレ」
 佐藤も服部の写真を覗き込む。尾骨周囲にある痣は、円形のカーブを描いた、形を描いている。手を上げただけの痣ではない。何かを押しつけたような、不自然な形を刻んでいる。
「佐藤さん、香ちゃんの通っている保育園の保母さん、判りませんか?」 
「調べては見るけど、何分今日は日曜だしね」
 ましてこれは正式に一課捜査員が動く事件ではない。明らかな事件性がはない限り、一課捜査員が事件に関与する事は、越権行為にすらなるのが縦割り組織の弊害だと、新一も服部も十分に理解している。
「父親の方、話し、同行させて下さい」
「判ったわ、ちょっと待ってて、高木君に連絡いれるから」
 佐藤はスーツのジャケットから、携帯を取り出した。
「佐藤はん、この写真、コピーしてくれへん?」
「判ったわ」
 自分達で判り合っているかのような高校生探偵の台詞に、けれど佐藤は何も訊かず、頷いた。
 高木は3コールで出た。事態に素早く対応する為に、素早く携帯に出るのも刑事に求められている資質の一つだ。
 高木は大塚の監察医務院を出た所だと言った。佐藤が新一と服部の二人が同行する旨を告げると、高木は父親の住むマンションの住所を告げると、マンション前での待ち合わせをする事で、携帯は手短に切れた。
「父親は銀行マンで、都内のマンションに住んでるわ」
「父親が、解剖承諾してくれると、助かるんだけどね」
 離婚しているわけではないから、親権の問題はない。母親が解剖を拒否していても、父親が承諾すれば問題はない。元々監察医務院には行政解剖の権限が与えられているから、母親が解剖を拒否したとしても、権限を行使すれが済む事でもあった。それでも解剖をしないのは、新一が佐々木典子に語ったように、遺族の意向を大切にする監察医達の心の問題での領域であって、それでなければ解剖は開始されている筈だった。
「ダメです…」
「工藤君?」
「解剖して、死因特定して、それだけじゃ…救われない…」
 苦しげな声だった。写真に焦点を絞ったまま紡がれる声は、その表情のままに歪められている。
 我が子を突然失った両親の疵など、死因が判った所で、慰めにもならない。解剖して、死因を突き止めて、それだけではダメなのだ。
 なんで死んだか、どうして死んだか。何故死ななくてはならなかったのか?死因が判った所で、何一つの救いにもならない。その事を、新一はよく判っていた。大切な人間を失った人間の痛みは、他人には判らない。それでは、死んだ人間の声は伝わらない。何も語れずに死んでしまった幼い遺体。何一つも語る言葉を持つ事もなく。
「死因特定する事で、救われるんじゃないの?最期の声を聴くって」
 確か新一は、佐々木典子にそう言ってはいなかっただろうか?
佐藤美和子は首を傾げ、警察組織の救世主と囁かれる端整な貌を凝視する。
 佐藤の邪気のない眼差しを、服部は内心苦々しげに舌打ちする。悪い人間ではない事は知っている。寧ろ真摯に事件に対応し、何時だって、被害者や遺族の痛みと向き合っている刑事だと判っている。けれどと、内心で湧く苦々しさを止めらない服部は、己の未熟さに、無自覚に爪が掌中を傷つけていく。
 理解されない言葉。理解されないと承知で告げている新一。救世主と、喝采を贈る事は簡単だ。けれど、誰もが声を聴く人間の痛みを、理解はしていない。
 理解されない言葉だと承知して告げた言葉だから、新一は穏やかに、物柔らかく、それでいて少しだけ意味深な笑みを湛えているばかりだ。だから尚服部は胸が痛んだ。
 新一の柔らかい笑みの前に、佐藤は自分の話す言葉は違うのだろうと理解する。けれど何がどう違うのか、それが判らない。もどかしい、フト思う。言葉が不便だと感じる時は、こんな時なのかもしれない。
「生きている人の言葉を聴く事だって、簡単じゃありませんよ、佐藤さん。難しいです、とてもね。言葉を聴く事は、簡単な事じゃありません」
 構造化される言語。額面通りに受け取れば、簡単な事の筈なのに、けれど話す言葉の難しさは、死んでしまった幼い子供の母親の言葉さえ、その意味さえ図る事が出来ない程、難しい。其処には人の感情が襞となって織り込まれているから難しい。生きている人間の言葉も、死んでしまった人間の言葉も。言葉を聴く事はとても難しい事なのだと、新一は哀しい程に綺麗な笑みを刻み付けている。
 新一の言葉は難しいと佐藤は思う。
『聴く』と言う意味を、きっと額面通りに受け取ってはいけないのだろうと思えた。
「母親が、虐待していたとしても?」
 もしそうなら、母親に救いの途は必要なのだろうか?万が一にも、幼い命を自らで奪ってしまった人間に対しても、救いはあるのだろうか?
 佐藤には、新一の言葉は深すぎて、判らない。たかが十代の少年の言葉が難しい。組織の上にとって、驚異だとされる工藤新一の存在は、こんな時に見え隠れしている。そう感じた。
「きっと……」
 続く言葉は、喉の奥に消える。
蒼味がかった眼差しの深さは、写真の一点を凝視している。瞬きを忘れた眼の底には、ナニが映っているのだろうかと、フト背筋の寒くなる服部だった。
 きっと同じ物は視えてはいないだろうと判るからこそ、精神が恫喝される。
 新一は、ナニを視ているのだろうか?同じ場所に立ち、同じモノを視て、それでも感じ方は百八十度違うだろう事だけが生々しく感じ取れる。
 極当然のように、新一は隠している、隠されている部分を見抜いて指摘する。隠されているからこそ綻びが垣間見えると言うのが新一のいつもの台詞だ。けれど、それがどれ程の天の才なのか彼に自覚は皆無で、そんな新一を視ていると、だから思うのだ。
 新一にとって、探偵である事は極自然な事で、それはきっと呼吸する程自然な事で、そういう事は理屈ではないのだ。バラけたピースを繋ぎ直し構成し、大凡相関図の描き方が違うのだ。生み出される救いも慰めも喪失も、見出だすソレに幾許の価値があるのかも判らなくても。それはまっすぐ真実に向けられ、澱みなく濃く深く瞬いている。いっそ潔い程正面を向く眼差しの輝きが、綺麗だと思う。月の欠片のように、冷ややかに佇む眼差しの透明さ。綺麗だから、哀しいのかもしれない。