HARVEST MOON act4 |
「工藤はどない思うんや?」 工藤邸のリビングのテーブルの上、佐藤より渡された検視写真を眺め、服部はアイスコーヒーの入ったグラスを片手に呟いた。窺う眼差しが、眼前に腰掛ける瀟洒な造作を視ている。 「父親の話じゃ、相当厳しく躾てたみたいだよな」 「佐々木典子が自分で言ってた通り、手ぇ上げてたみたいやな」 アレからすぐに米花署を出て、佐々木典子の別居中の夫に会う為、二人は高木と待ち合わせたマンションに向かった。 佐々木典子が細面の気丈な美人に視えるなら、夫の佐々木啓輔は、控え目でおとなしい印象を受けた。そのおとなしい印象通りの性格を現す声が、妻と子供の事を語った事を、思い出す。 佐々木典子の両親自体が厳格に典子を育てたようで、典子もその両親と同じく、子供に接していたようだった。決して憎んでいた筈はないと、夫の佐々木啓輔は付け足した。それは付け足したと感じる事のない声をしていたから、それは確かに事実なのだろうと二人は思えた。 躾に厳しく、けれどそれは子供を思っての事で。けれどACなどで、環境遺伝の問題が、漸く社会的にも認知されてきた中。虐待されて育ってきた子供は、自らも知らず子供を虐待するバタラーになる問題が浮上してきている。それを考慮すれば、佐々木典子もそういう家庭環境に育ってきた事が、今回の事件の要因になっている、隠された社会病理の一つなのかもしれない。 「佐々木さん、奥さん説得してくれる言ってたし」 佐々木啓輔は、妻である佐々木典子に解剖承諾を説得すると、新一達に約束した。 「信じてるんやろな、俺等の話から、虐待疑ってるの判った筈やし」 離婚したわけではない。親権は両親共に存在している。父親が承諾すれば、監察医務院の医師達も、迷いもなく解剖できるかもしれない。けれど、佐々木啓輔は妻を説得すると言った。別居してから娘を育てていたのは彼女だと言う信頼や、妻を信じていたいのだろう想いが、言葉の端々から窺えた。 「なぁお前、虐待だと思うか?」 「判らんな」 二人共、両親から愛され育ってきた子供だ。だからこそ強い。親からちゃんと必要な愛情を傾け育てられた人間は、結局強いのだ。少なくとも、自分を信頼し、信用してくれる存在が在ると言う事を、それこそ理屈ではなく理解しているからだ。だから傷付いても、絶望に哭いても、立ち上がる強さと勇気を持っている。理屈ではないのだ。愛情と言う存在は。 そう思い、脳裏に思い返す母親の貌、新一の脳裏に甦る。 未だ少女のような面差しをして、それこそ少女のような言葉と破天荒な行動で、父と自分を仰天させる母は、けれど間違えようもなく母親であり、自分が黒の組織に巻き込まれた時、半狂乱で泣き叫び、それでも父の説得に、最終的には自分のしたいようにと、けれど自分達が在る事を忘れないようにと、泣きながら笑った。 枷になってはならない。親は子供の味方であり、時には見守り、時には諫め、共に泣き、笑い、喜び哀しみ、けれど枷になっては親ではないと言う事を、知っている両親を、新一は誇りに思っている。 有希子と言う名は『希望の有る子』と言う意味だと、以前母は笑った。母もまた、両親に愛を注がれ育ってきたのだと、疑いようもない。だから我が子に愛を傾ける事を当然のように新一を愛し育て、今でも花のように笑う綺麗な母だった。 服部も、大阪の実家で府警本部長という肩書きを持つ父を支える母親の静華を思い出していた。 静謐な華。身の裡に瀟洒で細身の切っ先を秘めている冷ややかな華のようにと、祖父が付けた名前を持つ母。官僚である父を陰から支える内助の功は、それこそ真似は出来ない。他人に対して安堵を与えられる存在。幼い頃から、母親とはそういう存在なのだと疑ってはいなかった。 自分が頻繁に上京する理由を詰問する事なく『しょうのない子』と、笑って送り出してくれた母の偉大さを、服部は判っている。 二人共、母親に当然のように愛され育てられた。だからある意味、虐待を想像する事は容易ではなかった。母親とは、親とは、そういう存在なのだと疑ってはいなかった子供だった頃。けれど今でもそう思う。子は子であるだけで、愛されるべき存在なのだ。けれど違う子供も在るのだと、知ったのは早かった。違う親も在るのだと知ったのは早かった。知った時のショックは大きく、自分の親を想った。 関係嗜癖は、よく『ボタンの掛け間違い』と言う表現を用いられる。佐々木典子と娘は、何処かでボタンを掛け間違えてしまったのだろうか?想像する事しかできない。 「推理の段階で先入観持つんは、相関図を描き間違える」 だから先入観で相関図を描く事は厳禁なのだと教えてくれたのは父親だった。 現場に出る事の少ない筈の官僚の父は、けれど府警内外で 『鬼の平蔵』と恐れられる存在だ。経験則が物を言う強行犯の推理に、けれど上辺の相関図を描く怖さを教えてくれたのは父親だ。それが今でも服部の探偵としての推理の根幹に根付いている。父親の背を視て、育ってきたのだ。愛されてきたのだと思う。 「気になるんやろ?その痣」 尾骨にある痣はそれだけが周囲の皮下出血と違う。形が有り、他の皮下出血より大きく付いている。 「キーだと思う」 真実に辿り着く為の。死んでしまった幼い命の声だとも思えた。 「そりゃそうとさ」 不意に思い出したように、真摯な面が反転する。 「?」 「お前ぇ、帰んねぇのかよ。明日月曜だぜ」 昨夜散々に睦んで戯れ目蕩み、起きてからは結局米花署から佐々木啓輔のマンションで話を聴き、戻ってきて、今はもう夕刻だ。 「関わった事件、中途にはできへんやろ」 「東は俺の管轄だ。お前ぇはさっさと大阪帰れ」 「らしゅうないな」 しゃぁないなぁ、服部は大仰に溜め息を吐く。演技しての物だと判るから、新一は気にもしない。 「事件に大きいも小さいも管轄もないやろ。俺等は警察やないんやからな」 実際事件に大小の区別は存在する事を、二人共知っている。社会的影響の強い事案は、当然最優先されるべきものだ。それは被疑者検挙は最大の防犯だからだ。けれど今回の事案は、事件としても断定される代物ではなく、所轄範囲の事案と言う事になるから、刑事部長が認定する事件認定は、当然降りる事はない。 「受験生が、余裕じゃねぇか」 「常日頃、予習復習してんで」 「嘘付け。一夜漬けだろ、お前」 「判るか?」 ニヤリと、酷薄な口端を歪めて笑う服部に、新一は内心舌打ちする。そんな仕草がひどく大人の男の印象を深めてしまう。荒削りで精悍な褐色の貌。深みを増す笑みに、いつからそんな笑みをするようになったのかと反芻する。思い出すのは、そんな笑みばかりな気がした。コナンだった時から今までも。 「落ちたら、出入り禁止だかんな」 「落ちるかいアホ。だったら工藤、約束やで。俺がT大合格したら、一緒に暮らしたってな。その前に、お前も受験やろ。人の心配ばっかやないやろ?」 「俺を誰だと思ってんだ」 「東の名探偵」 シレッと言う服部に、新一は嫌そうに渋面する。その表情に、服部は笑う。 「知らねぇぞ、受験生が頻繁にこっちきて、事件に首突っ込んだから帰んねぇ、なんて。俺嫌だかんな。お前ぇの両親に恨まれんの」 コナンの時、会った事のある服部の両親は、自分の子供の行動を、他人の所為にしてしまうような親ではない事を、新一は正確に理解している。 「本末転倒になるなよ。学生の本分はまず学業だ」 「せやったら、工藤もな。せやけど、俺等は探偵やからな」 「ちゃんと連絡いれろよ」 仕方ない奴。そんな言葉で、服部の滞在を許してしまう新一だった。 「カニクリームコロッケ」 「?なんや?」 「今夜のメニューだよ。お前作ってくれんだろ」 「手間かかる注文つけるんやない」 「手間かかっても、作ってくれんだろ?」 「……タチ悪いで工藤」 確信犯の笑みを湛える新一に、服部はガクリと脱力する。 両親に愛され、今は愛する人間に愛されている実感が、新一を倖せにしている。佐々木香はどうだったのだろうか? 幼い子供の面差しが、二人の脳裏に過ぎっては消えた。 「香ちゃんは、活発で。友達も多くて、保育園でも皆と遊んで、元気のいい子でした」 月曜日の朝。新一と服部は、佐々木香の通っていた保育園に尋ねていた。 結局服部は、昨夜自宅に連絡を入れ、母親の小言に軽口を叩き、工藤邸に滞在している。その軽口が親子の親密さを現しているから、新一は佐々木香の事を考えた。有希子の事を考えた。 ロスに在る母親は、電話をすれば、中々切る事をしなかった。それは普段電話をしない親不孝な自分の所為なのだとは判っている。心配を掛けたくはないというのが新一の理由だけれど、親にとっては心配こそ掛けてほしいと言う事になるらしい。 幼い子供に戻ってしまった時でさえ、そんな時にも心配を掛けさせてもらえない親の方が不憫だと、嘆いたのは父親だ。けれど新一を束縛する事はなかった。距離を持つ必要も知っている大人だった。 他愛ない会話を繰り返す。そんな会話は心地好く、フトした甘えに思い出せば子供なのだと言う事を思い出す。 香はどうだったのだろう?虐待の可能性すらあった母親との親子関係は、どうだったのか? 「男の子達ともよく遊んでました。それこそ今流行の特撮の真似とかして、遊んでましたよ。土曜日も、近所の公園に出かけて、はしゃいでました。転んでも、泣く事もなくって、大丈夫って笑ってました。それなのに……」 亡くなった佐々木香の担当保母は、そう語る。 連絡もなく今日は休みで、心配していたと告げた保母の台詞に、二人は顔を見合わせた。 連絡もなく休んでいる。と言う事は、母親である佐々木典子は、保育園に娘が亡くなった事を伝えていないのだ。そんな事が、あるだろうか?遺体引き渡しを拒み、解剖を拒み、保育園にも連絡もせずに。 「亡くなったなんて…あんなに元気に遊んでたのに…」 「土曜日も、此処に来られてたんですよね?」 「ええ、お母さんが美容師で、土曜日もお婆さんが向かえに来るまで、元気に遊んでました」 保育園は、米花駅から電車で5つ目、約15分程度の距離にあり、典子の実家も近所であり、職場も近い事から、この保育園に通っていた。母親の職場は駅前のショッピングモールの駅ビルに在る美容院だった。 「何か感じた事は、ありませんか?」 「感じた事と言うか…」 「なんかあるんか?」 言い淀む保母に、服部は先を促した。 「ちょっといいですか?」 保母は教室へと二人を促した。 丁度今は庭で園児達が元気に遊んでいる。誰もが笑顔ではしゃいで、曇った顔など見受けられない。きっと香も、こんな風に友達と仲良く遊んでいたのだろうと思うと、胸が痛んだ。 「コレは……」 保母から渡された一枚の絵に、新一と服部は言葉を失った。 「お母さんの絵、です」 「母親の絵?これがか?」 描かれた絵。壁に張られた他の子供達の絵は、小さい子供で画力などある筈もなく、それでも母親の姿を思い思いに描いている。 エプロンを付け、料理をしているのだろう母親。洗濯をしている母親。掃除をしている絵。様々な母親が其処には在た。けれど、佐々木香の絵は、無機質なものしか描かれてはいなかった。 「これが…母親の絵…?」 愕然と、新一は呟いた。描かれた絵は、母親でも人でもなく、無機質なグレーで塗り込められた四角い絵だった。 「お母さんを描いてと言ったんです。けれど香ちゃんはニコニコ笑いながら、お母さんと言ったんです」 「母親の絵…佐々木香にとって、母親は無機質な四角いモノでしかなかったって事か……?」 新一の隣に佇み、新一の手元を覗き込み、服部は呟きを漏らす。 「母親は、あの子にどんな風に接してたか、判ります?」 「……問題が…あったとは思います…」 「…虐待があった。そう感じられる何かが、あったんですか?」 「……痣があったり、したんです。香ちゃんの躯」 保母は言い淀みながら、口を開いた。 「通報はしたんか?」 「服部」 その先に、彼が告げるだろう言葉を知っているから、新一は服部の腕を掴んで引き止める。その先の言葉を告げてしまえば、その保母を傷つけてしまう事を、新一は知っている。けれど服部に躊躇いはない。新一が引き止める意味を知りながら、腕を話す事も振り払う事もなく、端然としている。 「児童福祉法第25条、要保護児童発見者の通知義務。保母のあんさんが、知らん筈ないと思うんやけど」 それは特定職務に限られる事なく、国民全員が課せられている通知義務だ。けれどそれを知っている人間は極少数に限られており、認知されていない。その保母も、その存在を知る事はなく、虐待を疑いながらも、児童相談所への介入をしてはいない。日本は海外のように、通知義務を見過ごした場合の処罰はない。その影響で、殆どこの児童福祉法は一般に知られてはいないのが現状だった。社会や世間の眼がない。それが虐待の温床にもなっている。地域社会の形成の薄さも問題なのだろう。 「服部!」 短く鋭い一言で、十分だった。保母を追い詰める必要など、何処にもない。それが良い事ではない事は承知している。けれど、此処で問い詰めるべきは保母ではない。 「知る必要、あるんやないか?」 堪忍と告げながら、それでも服部の焦点は保母に絞られている。新一が服部の厳しい一面を思い知るのは、こんな時だ。 優しい男だ。きっと自分より優しく強い人間だと思う。けれど服部は時には厳しい一面が滲み出す。それはこうして時折現れては、新一を困惑させる時がある。 「私……」 「貴方の責任では、ありませんから」 家族と言う単一の社会に、第三者が介入する事の困難さも、理解している。だから、知っていてほしいのだ。 「そうや、あんさんの責任やない。けどな、だから知っといてほしいんや。難しい事は知っとる。子供は語る言葉を多くは持たない。だから、周囲がちゃんと見とらんと、取り返しの付かない結果を生む事がある。だから尚更、知っといてほしいんや。他人の子供見る事のできる人だから、そう思うんや。大変やけどな」 日本の社会制度は未々日和見で、他人との関係形成が巧くはない。臭い物には蓋と言う風潮は根強い。 「すみません。貴方の所為ではないんです。責めてるつもりはないんです。ただ、知っていてほしいんです」 言葉が巧く見つからない気がした。見つからなくて、新一は頭を下げる。 「すみません」 「いいえ…いいんです」 保母は、けれど新一と服部を責める事はなく、弱く首を横に振る。 「土曜日、香ちゃんが遊んでいた公園、教えで頂けますか?」 未だ手にしたままの絵を保母に差し出すと、新一は穏やかに笑い掛ける。 「すぐ近所で…」 そうして教室から出て、保母は公園への道順を二人に示した。 「香ちゃん、その公園に在るジャングルジムが好きだったんです。でもそれはすごく高くて、4歳の子が昇には危なくて止めてたんです。でも香ちゃん、そのジャングルジムがすごく好きでした。公園に行くと、いつも登りたがってました」 「ありがとうございます」 保母の言葉に、二人は頭を下げ、公園へと足を向けた。 「堪忍な」 歩きながら、服部は横に並び立つ新一に言葉を掛けた。 「お前、時々怖くなる程、厳しいな…」 他人に厳しい分。それ以上に自分に厳しい人間だと知っている。 以前、コナンだった時。たまたま事件がバッティングし、出向いた事件の中で、その厳しさに触れた時がある。アノ厳しさを、新一は未だ判らない。考えても、答えはでない。自問自答を繰り返すばかりだ。 好きな人間を見殺しにした人間への復習に、次々と殺人を犯した外国人が在た。けれどその被疑者の好きな相手は、その相手に絶望し、自らの生命を絶ったのだと、服部は被疑者に告げてしまった事がある。それによって、被疑者の精神は破壊された。救う事のできなかった人に償う為の殺人は、けれどその人を追い詰めてしまったのは自分のミスだった。 ローマ字での会話。最後の最後に英語で語ってしまった事により起こった死。誤って伝わった彼の言葉が、絶望しきっていた彼女の心を最終的に砕いてしまった。それを告げてしまった服部の真意を、今もまだ新一は判らない。アノ時の厳しさと、今の厳しさは、同じ類いのものなのだと、それだけが痛烈に判る事だった。今は未だ、それだけが判る事でしかなかった。 「しっといて、ほしかったんや」 「言い方、あるだろ?お前、厳しいよ」 冷ややかな刃先のような厳しさを滲ませた、スッパリ切断してしまえる程、冷冽な言葉。 隣を歩く長身を見上げれば、少しだけ鋭利になった造作がある。出会った時より成長し、青年期に差し掛かっている面差しは、シャープなものへと変化している。 出会った時から、触れてきたものは優しいばかりの想いでしかないのに、こんな時は、その厳しさに身震いする。 優しい気持ちを注がれ、幼い子供の姿で推理する時、どれ程呼吸が和らいだか判らない。けれど、その反面。誤魔化す事なく見せつけられた厳しい横顔をも、知っている。その感情まで覗く事はできないけれど、判らないけれど。知っているのだ。 普段は飄々とした笑顔に誤魔化されているけれど、それこそきっと、彼の本質なのだろう。笑顔こそ盾。心理を覗かせない笑顔なら、それはポーカーフェイスの盾と同義語の筈だ。新一が服部の真骨頂を視るのは、こんな時だ。 「堪忍」 短い謝罪の言葉。長い腕が、サラリと癖のない髪を梳く。陽に透ければ、栗毛に透けて見える翠髪が、指に馴染んだ感触で、流れていく。 「人前でするなって」 そう言いながら、けっして振り払われる事のない腕。擽ったい感触を覚え、新一は薄い肩を少しだけ竦めた。 「人、在らんやん」 今日は月曜で、本当なら二人共学校に行っている。住宅街の道に人通りは殆どない。この時間なら、主婦は掃除や洗濯に追われている時間帯だ。 「気持ちの問題だ」 笑うと、新一は走り出す。 「コラ待ちぃ、走るんやない」 昨夜もしっかり睦んでしまったのだ。二晩続けての情交に、新一の細い躯に、負担がかからない筈はない。 住宅街の中に在る小さい公園は、きっと園児が遊びに来るには丁度よい立地条件なのだろう。 保育園から公園まで、大人で歩いて5分弱。園児を連れ歩いてもきっと時間はかからない。住宅街の中の公園で、来るのに大通りを通らなくてはならない事もなく、危険もすくない。 「ジャングルジムって、これか。確かにコラでかいわ」 服部が見上げるジャングルジムは、確かに高い。園児が一人で昇れる代物ではない。長身の服部でさえ見上げる程だ。 「此処で土曜日遊んでたって、言ったんだよな」 他にはブランコと滑り台、砂場のある公園には、数人の主婦が子供を連れ、遊んでいる。 「四歳の子供の行動範囲なんて限られてる。あないな痣つくるんはな」 検視写真の中にあった、尾底骨にあった痣。他の皮下出血とは明らかに違う痣。暴行を受けても、あんな場所に、円形のカーブを描くような痣は、残る可能性は極めて低い気がしていた。だから新一は其処に拘っている。 不意に、ジーンズのポケットに入れていた携帯のバイブレータが作動する。 「ハイ、工藤です」 『工藤君?私、少し前にも佐々木香の解剖、始まったわ』 電話の相手は佐藤だった。きっと監察医務院からの電話だろう。 「本当ですか?」 新一の声に、服部は携帯に耳を傾ける。 『立ち会う?』 「今公園に在るんです。香ちゃんが土曜日に遊びに来ていたっていう。佐々木さんが、奥さんを説得したんですね」 『ええ、今朝電話があったの。同意してくれたって。これで判るわ』 「そうですね…」 そう告げ携帯を切った新一は、けれど浮かない顔をしている。 「どないした?解剖、始まったんやろ?」 「ん〜〜でも難しくないか?死因判っても、それが虐待なのかそうでないかなんて」 行政解剖、司法解剖に関わらず、解剖結果から判る事は、死因としての事実だけだ。 死因が判ったからと言って、それが事故か虐待死か、判断するのは簡単な事ではないだろう。 「そうやな…」 確かに、新一の言う通り、解剖所見から判る事は、死亡原因だ。それが他殺と簡単に判断できる場合もあるが、今回のようなケースは場合によっては他殺か虐待死か、判断は難しいだろう。 「工藤?お前何判っとる?」 「判ってたら、悩まねぇよ。判らねぇから、考えてるんだろ」 「コラ工藤、危ないやろ、待ちぃ」 沈吟し、目の前のジャングルジムを昇り始めた新一に、服部は慌てて腕を伸ばす。 「あのなぁ〜〜俺はコナンじゃねぇんだぞ」 「当たり前や。コナンやったら、絶対昇らせたりせぇへん」 断言する服部に、新一は脱力する。 「お前過保護すぎだ」 蘭や服部の幼馴染みの和葉に、本当の兄弟だと言われてしまう程、服部はコナンに対して面倒見がよかった。歳の離れた弟を可愛がる兄でしかないと、よく和葉は言っていた。 「過保護にしても、したりん。工藤はすぐ突っ走るからな」 新一の台詞に、苦笑とも自嘲とも付かない貌をする服部に構わず、新一はジャングルジムを昇っていく。 「工藤、危ないやろ。はよ降りてきぃ」 「だ〜〜お前ぇいい加減にしろ」 一々煩いと、昇りながら喚く新一に、服部も後を追って昇ってくる。 絶対ぇあいつ、未だ俺の事コナンだと思ってやがる。新一は内心で罵倒を吐いた。 ジャングルジムの天辺に昇れば、随分空が近い気がした。 秋の空は益々高くなり、清涼な空気が気持ちよかった。 「んっ?」 大きく吐息を付く新一の視界に、突然ある物が飛び込んできた。 「アレ……服部!」 呟きは、すぐに服部を呼ぶ声に変わる。 「とっと来い」 「どないした?」 半瞬後、新一の隣に並んだ服部は新一同様、息を大きく吸い込んだ。 「こんなん昇るん、ガキの時以来や」 「佐々木典子の仕事場、駅前のショッピングモールの駅ビルだって」 「ああ、言ってたな」 「アレ、見てみろよ」 「工藤…まさか」 「多分な、コレが真実」 「だから、これに昇りたがったってわけか…」 「多分」 「確証は?」 「此処から落ちたとしたら?」 天辺からではなく、極地上に近い位置で落ちた場合。あるいは着地時、足を滑らせたりしたら? 「工藤アレ見てみぃ」 見下ろして、服部はある一点を指差した。 「アレだ!」 服部の指す一点を凝視し、新一の足はスルリと降りて行く。 「コラ工藤、待てって」 危なげない仕草で降りて行く。心配なのは、見ている自分の気持ちの問題だと、服部は判っている。けれどまったく重力を感じさせずに降りて行く新一に、服部の方が不安になる。そうしていらぬ言葉を掛けては新一に呆れられるのだ。それでも、不安で仕方ないのだから、どうしようもない。 トンッと、軽い動作で、新一はジャングルジムの途中から飛び降りた。華奢な躯は驚く程綺麗に着地する。 ジャングルジムの周囲には、動物の形を椅子がある。新一はソレを凝視する。 「服部、写真」 降りてきた服部に腕を差し出すと、服部はジャケットの内ポケットに入れてあった佐々木香の検視写真を差し出してやる。 「間違いない……コレだ…」 半ば呆然と呟く新一は、写真とソレを見比べる。羊の形なのだろうソレには尻尾が在る。 「此処に臀部を強打したら?痣、出来るよな」 思案気な声と眼差しが、真剣に写真と椅子を見比べている。 「間違いない、写真と同じや。大きさも形も」 羊の形をしたソレの尻尾を描いたカーブと、佐々木香の尾底骨部分に残されていた色濃い痣は、確かに同じ物だった。 「天辺から落ちてたら、死んどったな。せやけど今の工藤みたいに着地時点で滑ったりしたら、尻打つくらいやろな」 新一の手元の写真と椅子を交互に見比べ、服部は溜め息を吐き出した。 「良かったな」 長く節の在る指が、サラリと髪を撫でる。 「人前でやるなって。それに良かったなってなんだよ」 写真から、隣に佇む服部に視線を移せば、柔らかい笑みと、それだけではない曖昧な笑みを混在させている服部は、何処か困ったような表情をしていると、漠然と思う。 「工藤、最初から疑ってなかったやろ?佐々木典子の虐待」 柔らかく笑いながら、髪梳く指を、ジャケットの内ポケットへと差し入れると携帯を取り出し、新一に差し出した。 「電話せな、あかんやろ」 短縮ボタンをプッシュしてやれば、それは佐藤美和子の携帯に通じている。東京に来る事が多くなり、警視庁の刑事とも顔見知りになって、服部の携帯にはしっかり佐藤や高木、目暮の携帯ナンバーが、短縮ボタンでメモリーされている。 それは寧ろ服部にとっては保険に近い。万が一にも新一何かあった場合、情報を取れる人間の数は多い方がいい。そう考えての事だとは、流石の新一も気付いてはいなかった。 父親は官僚であるけれど、大阪の人間だから、情報が回ってくるまでのレスポンスタイムの事もある。無茶で無鉄砲。気付いてしまった真実を求める為には、後先考えない部分が新一にはあるから、どうしても心配も不安も拭えない。だからこうして幾重もの保険を掛けておいては、取り敢えずの精神安定を図っている服部だった。こうでもしないと、工藤新一と言う人間を、守る事はできない。フラリと黙って姿を消してしまいかねないのだ。自らの事には徹底して無頓着で、必要と判断した場合、簡単に自らを切り捨ててしまう人間だから。 新一にとって、探偵である事は理屈ではない。自らの危険と安全を、天秤に掛けられる器用な思考回路をしてはいない。自分の痛みに気付かない人間はだから怖いのだと、服部は心底実感しているのだ。怖いからこそ、考えれば足下が竦んでしまいそうに怖いからこそ、服部は保険を掛けているのだ。 新一は、服部の内心を知る事なく、差し出された携帯を受け取り、耳に当てている。 「工藤です。解剖続いてますか?」 2コールで、佐藤美和子は出た。 『判ったわよ、死因』 基本的に、監察医で執行される行政解剖は、平均一時間だ。 「転落による頭蓋底骨折、じゃなかったですか?」 吐息を吐き出すように、新一は口を開いた。電話の向こうで、佐藤が息を飲むのが判った。 『ちょっと、なんで判ったの?』 「佐々木夫婦に連絡して下さい」 『ちょっと待って工藤君。死因は転落により頭蓋底の輪状骨折だと判ったわ。けれどそれが虐待による転落じゃないって、証明された訳じゃないのよ』 尾底骨を強打した場合、脊椎が突き上げられ、頭蓋底が骨折する場合がある。頭蓋底は生命維持に必要な脳幹と隣接している為、僅かな損傷でも致命傷になる。佐々木香の死因は、転落による頭蓋底の輪状骨折だった。けれど佐藤美和子の言うように、此処で新一達が転落場所を特定していなければ、母親の虐待による転落ではないと、断定する事はできないのだ。 「いいえ、香ちゃんは、事故による転落死です」 『どういう事?』 受話器の向こうの声が、訝しげに潜められる。 「佐藤さん、佐々木夫婦を呼んで下さい。場所は保育園の近所の公園です。きっと佐々木典子が知りたがっていた真実が、ココに在ります」 新一は、要件を告げると、携帯を切った。 「サンキュ」 携帯を返すと、 「服部、保育園、行こうぜ。もう一つの真実貸してもらいに」 「せやな」 佐々木香は、母親を恨んで死んでしまったのではない証しが、ソコにはある。 「見えますか?」 佐々木夫妻と共に、新一達は再び公園のジャングルジムの天辺に在た。 「そんな……」 新一の隣で、佐々木典子は息を飲む。妻の隣で、佐々木啓輔も絶句していた。 視界の前方に映るビル。駅前のショッピングモールの在る駅ビルが建っている。 「香ちゃんが描いたのは、無機質な四角いビルじゃなかったんです」 新一の手には、保育園から借りてきた絵が在った。無機質で四角いグレーの建物を描いた香の絵。 「お母さんの仕事場である駅ビルを、描いたんです。だから、香ちゃんは、このジャングルジムに昇りたがった。お母さん、貴方の職場が良く見えるからです。香ちゃんの描いたこの絵は、お母さんだったんです。こんな高い場所に昇っても、お母さんの職場を見たかったんです。お母さんを、見ていたかったんです」 新一の声は、淡々としたものだ。必要以上の感情は隠されている。それが却って佐々木典子と啓輔の胸には、響いて聞こえていたのかもしれない。 「……私…私…あの子を叩いて、躾の為にって叱って、でも、あの子の遺体見た時。いつも叩いて泣くあの子の声が聞こえてきて。痛いよって、痛いよって泣くあの子の声が耳に残って、可哀相で…だから…香に、傷を付けたくなくて。もう痛いよって、泣いてほしくなくて……勝手に別居して、仕事の為にあの子に寂しい想いさせて、あの子に何もしてあげられなくて、もう泣いてほしくなくて…」 典子の双瞳から、溢れる涙が痛々しかった。 躾の為に厳しくされて、それでも香はちゃんと母親を愛していたのだろう。 「だから、あんなに解剖を拒んだのね」 溜め息のような佐藤の声が、細く響く。 新一は、最初から見抜いていたのだろうか?これこそが真実だと。だから死因を特定しただけでは、何一つ救いにはならないと、告げたのだろうか?最期の声を聴く為に。真実の声を聴くと言う事は、こういう事なのだろう。新一にとっては極自然で、当然で、理屈ではなく感じるのだろう。それが新一の天の才であるならば、少しだけ辛く哀しいと、佐藤は思った。 「もう、痛い思いさせたくなくて、ゴメン…ゴメンね…香」 泣き崩れる妻の背を、佐々木啓輔は黙って抱いている。 やり直せるだろうか?錯綜と絡まっていた糸が解けた今。この夫婦は修復するのだろうか?それは新一にも判らなかった。 「香ちゃんは、此処から落ちて、アノ椅子に強打して、頭蓋底を骨折した。鑑識に連絡して、照合してもらって下さい。間違いはない筈です。アノ椅子の尻尾の部分と、香ちゃんの臀部に残っている痣。同じ筈ですから。僕達も、写真で確認してますけど」 「判ったわ、高木君、鑑識連絡して」 そしてそれから鑑識が入り、佐々木香の死因は、ジャングルジムから転落しての事故死と言う事が確定した。 |