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夜毎星は指し示す 強く輝く光の軌道 けれど 示された途を識る者は少なく 辿る者はさらに少ない |
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手の中の星 first part
ソッと、慎重な程足音を忍ばせ、腕の中の人物が眼を醒まさないよう、これ以上ない程慎重に階段を昇ると、隣からやはりソッと音を立てない配慮で、その腕の中の人物の部屋の扉が開かれた。 扉を開いた正面には、腕の中の人物の母親の、少女趣味だと言うレースのカーテンが引かれた出窓になっていて、室内は夜中の深閑とした蒼い闇が沈黙を守っている。 ゆっくりと、シーツに細身の姿態を下ろし、その人が覚醒する兆しを見せない事に、其処で服部は漸く深く静かな吐息を吐き出した。 「ゆっくり、眠ってな」 潜められた声が、深い労りを伴って零れ落ちる。 静かな吐息で眠りの淵に居る新一を起こさぬ配慮で、白い額に乱れて掛かる前髪をサラリと梳き上げ、小作りな貌を凝視する。 白皙の貌に落ちる長い睫毛の影。少しだけ翳りが帯びて見えるのは感傷なのか、服部にも判らなかった。 ただ判っている事は、未来に向かう事のない肉体が、それでもこうして痩せて行く事実だ。 閉ざされた老いと言う成長が、新一の身の上には起こらないと、服部が知らされたのは去年の初夏の事だった。 『約束して』 『笑顔を失わない事』 『貴方が真実を知って、笑顔を失って傷付くのはアノ人よ。あの人が傷付くような事、私には話せない。だから、約束して。どれだけ絶望しても、笑顔を忘れないで』 錬金の秘薬を生み出した少女が、無表情の下に曝す必死な願いを、服部が知らない筈はない。いつだって、新一に届かない場所で、新一の為に必死になっている少女。その少女から告げられた残酷な言葉。 新一の身の上に起こった絶望。意思を無視して巻き戻された時間は、元に戻った今でさえ、発作と言う形で、新一を苦しめ縛り付けている。 『愛しているから知りたい。それじゃただの興味本位と好奇心にすぎないわ。貴方はもうちゃんと、答えを出して、いるのでしょう?』 あの人を、一人にしないで……。 アノ時、発せられる事のない哀の声が、聞こえた気がした。 『あの人を、傷付けないで。貴方は笑ってればいいの。あの人を傷付けたくなかったら、貴方は今まど通り、立っていて』 『私は、あの人を守るって決めたの』 そう告げた哀の、真摯な眼差しの奥に走り抜けた一瞬の哀しみの翳。 いつもいつも、新一に見えない場所で彼を心配して、切ない程新一を愛している彼女の潔さが、綺麗だと服部は思う。 |
「なんかさ、去年と同じだね」 服部の隣で新一を覗き込み、クスリと声を立てない静かな笑みを快斗は漏らした。 「せやな…」 精悍な褐色の貌に、深い笑みが苦笑を刻み付けて行く。 「名探偵、こうして酔い潰れちゃってたしね」 去年の七夕の夜も、こんな具合だったと思い出す。 午後からポツポツ降ってきた雨の中。携わった事件の後始末を処理して帰宅途中。雨に降られて。電話をしてきたのだから、その場所でおとなしく待っていればいいものを、何を思ったのか、新一は雨の中をひどく楽しげに走っていた。保身と安全を、考えられる人間ではないと理解していた。けれどこの場合は意味が違うだろう。 何が楽しいのか、雨の中を笑って走る新一を見付けた快斗は、新一をして『自然界の法則、無視しまくってるんじゃねぇ』と言わせしめる節の有る長い綺麗な指先で、額を押さえてしまったとしても、罪はないだろう。 なる程、雨は苦手だが、嫌いではないと言うのは本当らしいと、快斗はついつい服部に同情してしまった程だ。 『まったく…何やってるの、名探偵は』 『っるせぇ』 『熱出すやろ』 『そんな事して体調崩したら、折角七夕の為に差し入れた酒、今夜はナシだからね』 『……………お前ソレ…脅しか?』 『勿論』 『そりゃ工藤には、立派に脅しやなぁ』 見掛けに寄らばず、酒豪の新一は、滅法酒が好きだった。 今では世界的規模での推理作家の工藤優作である新一の父親は、やはり伊達酔興で世界ベストセラー作家にはなれないだろう。幼い時から良く晩酌に付き合わされていたらしい。 尤も、それは此処に在る三人には、共通した部類ではあったのだけれど。 新一が元に戻った今でも、幼い姿を保っている哀とて、新一と並ぶ酒豪だ。 そしてそれから文句を言いつつも快斗の持ってきた傘を差して帰宅して、早々ベッドに押し込まれた新一は、けれど夜には起き出して宴会に雪崩込み、そして誰より先に潰れた。 今年も何一つ変らない。七夕の日の時間だった。 「酒豪のくせに、いつも寝ちゃうねこの人は……特に最近は」 痩せたなと、新一を見下ろし、快斗は胸の裡で、少しだけ憐れを込め呟いた。 そんな事、言葉に出して告げる事はできないのだけれど。 元々小作りな顔をしていたし、自分や隣の西の探偵に比べれば、細身の姿態をしていただろう。けれど違うのだと、今は明確に判る。 意思を無視して巻き戻された時間。そして戻った現在。 どうしてこの人なのかと、標的の居ないらしくない苛立ちを、こんな瞬間には、感じずにはいられない。それはきっと、自分以上に服部は感じているだろう。 「無茶しすぎや…」 愛しげに、何度も何度も、繰り返し繰り返し、柔らかい仕草で髪を梳く。熟睡している新一に、起きる気配は微塵もない。そんな些細な事に、安心する。愛しているなんて言う言葉でも、足りない気がした。 大切で大切で、それでも………。 「それでも、止めないのが、服部だよね」 ポツリと呟かれた声に、快斗は茶化す事のない静かな声で、そう告げる。 去年の初夏に関わった事件で、新一が発作を起こし倒れて以来。いつ喪失するか判らない恐怖と不安を、服部は常に感じている筈だ。それでも、新一の探偵活動を止める事はない。 いつも半歩後ろに佇み、新一の視る物を見ようとしている。 その強さは一体何なのだろうかと、快斗は思う。 新一が倒れて数日をベッドの上で寝て過ごしたのは、去年の初夏と、秋に起こった事件の後の二回だ。 最初新一が倒れた時、居合わせる事はなかった。 翌日知って見舞いに訪れ、服部がらしくない程の気弱さで、ポツリと呟いた。 『工藤な、心臓押さえて痛がって気絶したんよ……』 それでも笑っていろと、笑っていた。 静かに、ただ静かに。どれ程の絶望に心臓が引き千切られて行こうとも。 『どうしてなんやろな……どうしてこいつで、俺でないんや…』 これから先、新一がどれ程心臓を押さえて痛がって気絶したとしても。新一の背負うものの大きさを、到底肩代わりなどできる筈もない。 『それでも俺は、工藤を止めたらん…冷たい男やな……』 それでも、新一が自ら選んだ立つ場所を、決して安易な断定的な建て前の言葉を羅列して、服部は取り上げるような真似を、決してしなかった。 それが新一の愛した男なのだと、思い知った気がした。思い知らされた気がした。 自らに関われば周囲の者さえ危険に巻き込む事を新一は熟知していたし、何より自分の為にダレかが傷付く事を恐れていた。 だからこそ、コナンだった当時、彼を大層心配し、不安がらせた幼馴染みにさえ、その所在を教えはしなかったのだから。その新一が、危険だと承知して、巻き込むと決めた唯一一人。それが服部だった。 「冷たいんやな…俺は…」 成長しないくせに、痩せて行く事だけはする躯。 体内環境の恒常性と言われるホメオスタシスが壊れている躯。書き替えられた遺伝子。 老いという未来がない新一に、それでも心臓が引き裂かれる痛みが襲う。いつ何がどうなるか判らない躯なのだと新一自身は知っている。 それでも、絶望に曝されながら、高潔に立っている魂が、愛しくて仕方ない。 『堪忍な……』 笑っていろと言われたのに、巧く笑えない。今だけは、新一が眠る今だけは。 『堪忍……痛いやろ……苦しいやろうな………』 絶対崩れない強さが欲しい。愛する人を守れるだけの力が欲しい。愛する人を、見守り続けていく勇気を願った。 『覚えておいて。私が今した事。いつか貴方が代わる事になるのよ。私の躯は、いつどうなるか判らない。私がしてきた今までのすべて。貴方がこれからするのよ。この人の為に』 手際よく、新一の処置をし終わった哀が、静かな声でそう言った言葉が胸に痛い。 『笑顔でおってな…………』 笑っているから。新一が望なら、笑っているから。 新一の笑顔の為には、笑っているから…。 「いいんじゃないの?そうして立っていれば」 誰より、新一の在り様を理解しているのだろう服部は。 ボロボロになっても、まるで回帰するように現場へと戻って行く新一を、服部は決して止めたりはしない。安易な言葉と偽善という優しさで、新一が自らを定めた位置を、決して奪いはしない。その事に安心していられる。 「工藤は、探偵やからな……」 解きほぐすという作業が、新一を安定させている事も確かなのだ。 工藤新一は探偵で、そういう事は理屈ではない。新一が探偵で在る意味は、理屈ではないのだ。その事を、誰より服部は判っている。だから止められない。 コッソリと、深い溜め息が静かに漏れる。 「仕方ない人だよね、こんなに疲れてボロボロで、それでも、立つ事を選んでるんだから」 自らがソコと位置付けた場所で、揺らぎなく立っている潔さ。視える眼と、聴く耳を持って、深淵を直視する精神の強さは一体何処から来るのだろうか?倒れて尚立ち上がる力は。 頭を垂れない強さは。新一の何処から訪れ、彼を立たせているのだろうか?推し量れるものなど、何一つ有りはしない。 「服部、去年の今日の契約、更新しようか」 何処からともなく快斗は酒瓶を取り出して、笑った。 「せやな……」 主と目的は酒瓶の出現によって、明確に裏切られているけれど。 苦笑しつつ、服部はソッと触れていた新一の髪から指を離した。 「それにしても、お前のソレは、工藤やないけど」 新一から、隣に佇む快斗に視線を移せば、酒瓶を片手に、表情を読ませない莞爾とした笑みを刻み付けている、稀代のマジシャンの造作が在った。 「魔法じゃないよ、当然ね。種も仕掛けも在るから、マジックって言うんだよ」 「……………相変らず、胡散臭い芸やな、お前の場合。こぅ何処はかとなく、自然界の法則無視してるんやないか?」 大体酒瓶など隠す余地など、快斗の気軽な服装の何処にも見当たらない。 「工藤やったら、お前の服捲って言うやろな」 「……………四次元ポケットなんて、俺が欲しいくらいだよ」 そうしたら、世紀のビックジュエル隠しておけるのにと、快斗は悪びれもなくそう笑い告げると、途端真摯な表情を服部に向け、 「俺はね、マジシャンだよ」 忘れないように、稀代のマジシャンはそう笑うと、新一を凝視し、次には服部を促し、 「よく眠ってね」 ベッドの上、蒼い闇の帳の淵で眠る愛しい存在に静邃な笑みを向ける。 「詐欺師がよう言う」 マジシャンで怪盗で、どちらが、どの顔が本物なのか、判りはしない。 夜空を駆ける白い翼。血に濡れた枷を持つ猛禽の羽の在処など、服部は知りたくもないと思った。 服部は、新一の部屋を出て行き際。白皙の貌が蒼い淵に浮き上がる様に、何とも言えない表情をすると、半瞬愛しげに凝視し、足音も立てずに室内を出て行った。 □ 私は未だやる事が在るから、此処を借りているわ。 帰るなら送るよとの快斗の申し出に、哀はリビングに転がる酒瓶やスナック類の残骸を片付けながら、そう笑った。 そして服部と快斗は、取り敢えず東京進学に際して転がり込んだ工藤邸にあてがわれた客間の一室の服部の部屋で、宴会の続きをしていた。 新一の正面の部屋になる服部の部屋。けれど使用された頻度など、皆無に近い。綺麗過ぎて整然として、生活感などまるでない。 「何か進歩ないね、お互いに」 フローリングの床の上にクッションを敷き、長い脚を投げ出して、快斗は500mlのカクテル瓶に口を付け、正面に座っている服部を間視する。 「せやな、ほんま俺等、進歩ないな」 クツクツ笑いながら、服部も差し出されたカクテル瓶に口を付け、液体を流し込む。流し込みつつ甘いなコレと、苦笑した。 「去年の契約の更新ね」 「七夕更新か?随分ロマンチストやないか、この冷酷非道者が」 優しい風貌に刻み付けられる笑みが、偽りだとは知っている。誰にでも優しいフリは簡単にできる男は、自分と何処か似ていると判る。 誰にでも優しいフリ。だからこそ、素顔は冷淡な冷笑だと判る。新一以外には。 「お互い様でしょ、そんなの」 一人にだけ優しければ十分。快斗はあっさりそう笑う。 何を失っても失えない程大切な者など、この世に一人で十分だと言うのは、可笑しい程二人には似通った共通項目だ。 互いに、新一に対する距離とポジションを見誤らない眼が、今二人をこうして軽口を叩ける間柄にしている。縁とは不思議だと思うのは、こんな時だ。 夏の夜。撃たれ血に濡れた白い翼。拾ったのは服部だった。以来の付き合いが、程よい距離を保って続けられている。 「出来る保証なんて、何処にもないよ」 「ええよ俺の保身やから。俺は工藤とちゃうからな。保身も自衛の意味も知っとるよ」 「まぁあの人は、怖いくらい、安全と危険を秤にかける事、知らない人だからね」 感情に左右されたら、真実に辿り着く事が困難になるとは、新一の弁だ。そんな新一だから、己の身を中心に持ってきて、安全の中に置く事はできない事など判っていた。 深淵を見詰め続けて行く瞳。聴く意識なく聴く耳。もう二度と話す事のできなくなってしまった人達の、最後の声を聴く為に。新一は、見誤る事を、許されてはいない。 世間は簡単に、そうして無責任な残酷さで、無残にそう断定する。警察の救世主と、彼の背負う重さなど、何一つ知りはせずに、レッテルを貼る。さもブランドなのだと言いたげに。 ブラウン管の向こうに、綺麗な芸能人を視るのと変わりない気楽さで、負う疵や痛みなど何一つ理解する事もなく。 「盾になるとか、そんなんちゃうで。俺は俺の立つ位置でしか、あいつを見守ってやる事はできへんし、俺も探偵や。せやからな……」 「気弱だね」 「今は感謝してる、お前の存在」 「嫌だな、俺怪盗だよ」 こうして、一つ一つ、逃げ道を塞いで行く所なんて、名探偵そっくりだと、快斗は肩を竦めて苦笑する。 「お前は、あいつをよう見とる」 「名探偵は、ダンナしか見えてない気もするけどね」 「あいつが泣き場所、お前って決める程度には、お前の事心配しとるで」 「買い被りすぎだよ」 名探偵も、このタチの悪い悪党に惚れたものだと、快斗は思う。とても綺麗に逃げ道を塞いでくれる。 「天の邪鬼やなお前も」 「だって服部のソレは、褒めて無いもん」 「当然や。なんでお前褒めなあかん?」 「頼まれ事、多いんだよね」 自らの立つ位置でしか、相手を思えないのは当然だ。 枷と承知で、父の名を継いだのは自分の意志で、そうして、その名を継がなければ、こうして出会う事など何一つなかった。偽りの名声も、白い翼も何もかも。受け継いで出会えた存在達。感謝と言う言葉は、適格ではないのだろう。 けれど………。 「お前にしか、頼めん事や。稀代の天才マジシャン。黒羽快斗にしか」 刹那に閃く真摯な眼差しは、怖い程静かな淵を映している。 「記憶なんて当てにならない事多いけど、それでもね。埋まらないものも在るって理解してる?」 凝視して来る眼差しの深さに苦笑で応え、冷ややかな眼差しが服部を視ている。 「リタイアする気なんてないんなら、端から保身なんて必要ないでしょ?」 見守る事もできないなら、最初から新一を愛したりはしないだろう。新一がその人生を強制的にリセットされた時から、服部はその偽りの存在を探し続け見付け出し、見守り続けてきたのだから。 見守り続けていける強さも勇気もなければ、新一を愛して行く事など到底できない。何よりも、新一が危険を承知で巻き込み愛した存在は、服部だけだ。 「俺の安心の為や」 「まったくね。そーいうどうしようもない所傲慢だって理解してて、俺に言う所が、悪党って言うんだよ」 「忘れてるかもしれへんけどな、お前も大概無茶しよるから、お互い様や。判ってないやろ?お前を泣き場所って決める程度に工藤はお前を心配してるし、だからお前に何かあっても、あいつは正常じゃなくなる」 「………だからさ、そうして綺麗に逃げ道塞ぐの、名探偵も服部も本当そっくりだよ」 「工藤の為や」 酒瓶に口を付け流し込む。生温くなった甘いカクテルが、喉を流れて行く。 「工藤泣くの、嫌やろ?」 「泣くような事、なさるつもり、とか?あの人我が儘だからね。置いて行く事は簡単にするくせに、置いていかれる事なんて、きっと許さないと思うよ?」 冴え渡る眼差しの深さは怖い程だ。日々切っ先が研ぎ澄まされて行くように澄んで行くその一対の眼。 硝子だったら良かったのにと、フト思う。アノ、月の光で磨き上げたかのような一対の眼。 何より綺麗な宝石のようで、恐ろしくなる。 抉り出されて行く疵を曝しながら、強さと弱さを混融させて行くその綺麗な瞳が恐ろしく、そして哀しい透明さを滲ませて行く。だからこそ綺麗なのだろう、一対の眼。 「工藤に何頼まれたか知らへんけどな」 軽口を叩きながら、その合間に本音を混ぜる。二人の会話が成立するのは、いつだってこんな具合だ。 「探偵っていうのは、本当、始末に悪いよ」 『俺に何かあったら、頼むからあいつに、暗示かけてやってくれ。あいつ心底バカだからな』 『俺から稀代の天才マジシャンに依頼や。契約は永久履行や。あいつ頼むとは言わへんけどな、あいつも探偵や。俺に何かあったら、俺の存在ごと、工藤から消してくれや』 覚えてる必要ないやろ? 疵なんて、少ない方がいいにこした事はない。 |