星に願いを

EPISODE1

東の名探偵と稀代の怪盗の深夜の散歩




















「本〜〜当、名探偵って意地悪いよねぇ」
 と、ボヤきながら、それでも快斗は楽しげにシェーカーを振っている。
「俺が呼んだ訳じゃねぇぞ。文句あるなら帰れ」
 スツールに腰掻け、片肘をカウンターに行儀悪く付き、雑誌を読むともなくパラパラと捲りながら、新一は軽口を付く快斗に素っ気なく言い放つ。
 工藤低の一角には、新一の父親の世界的ベストセラーである工藤優作の趣味が嵩じ、ワンショットバーのようなカウンターと3脚のスツールが有る。
「ご冗談を」
 綺麗な放物線が光の軌道を描きながら、長い腕が綺麗にシェーカを振るっている。
その姿を雑誌に落とした視界の端で捉え、新一は流石マジシャンで泥棒だけあって、器用なんだなと、奇妙な感心をしていた。
「お前ぇも変わってるな」
 何が楽しいのか、快斗はフラリと工藤邸にやってくる。今夜もそうだ。
前触れなく訪れて、それも何度言っても玄関から入る事もせず、夜空に眩しくはためく白いマントを翻し、新一の部屋の窓から入ってくる。いい加減言うのにも疲れ、最近では好きなようにさせているから、快斗の粘り勝ちのようなものだった。だからこそ、新一の部屋の窓は、最近では快斗の出入り口と化している。いるから、仕方なく、新一は夜になると窓の鍵を開ける事が、近頃では習慣になっている。服部も、その事実は既に黙殺している。不用心だと言う言葉も、今では効力もない。
 探偵と怪盗と言う、対極に位置する立場を考えれば、気軽に押しかけてくる事自体、性格に問題があると、新一は内心溜め息を吐き出した。それでもこうして迎え入れてやる当たり、自分も甘いと、益々溜め息が深くなる新一だった。
「だって、名探偵、服部居ないと相手してくれないでしょ?旦那が単身赴任から帰ってきたようなもんなんだからさ」
 こんな時に付け込まなきゃ、二人きりでは会えないしと、快斗はひどく楽しげに軽口を叩いている。
「なんだよソレ。誰が旦那で単身赴任だ」
 時折、そんな言い方をする快斗に、新一は憮然となる。
「そりゃ服部でしょ。だってあいつの実家大阪で、シンデレラエクスプレスだったでしょ」
 知ってるよん♪と、楽しげに話す言葉はネコを連想させ、新一は益々攅眉する。
 快斗は服部同様、コナンだった自分を、ソレが仮初の姿をしている工藤新一だと見抜いた活眼を持っているから、何処まで自分に関しての情報を持っているのか、判らない面が存在するのだ。服部でさえ、倒れなければ、正確に気付く事のなかった新一の肉体の秘密を、正確に理解している当たり、週末毎に大阪から訪れ、日曜の最終便で大阪に再び戻っていた服部と自分のやり取りなど、今更なのかもしれない。そう思えば、益々癪になる新一だった。
「服部帰ってくんの明日でしょ?」
「お前ぇなんで、んな事知ってんだよ」
 母方の親戚の法事だと、ボヤきながら大阪の実家に服部が戻ったのは、つい数時間前だった。
 明日の午前中法事を済ませ、最終便で帰ってくる。服部はそう残し、実家に戻って行った。何故快斗がその事を知っているのか?新一は雑誌から視線を上げ、快斗を凝視する。
 よもやまさか、盗聴器でも仕掛けてんじゃねぇーんだろうな、そんな悪態が内心で漏れた。
「そりゃネ」
 シェーカーを振る腕を止め、音も立てずにシェーカーがテーブルに置かれた。同時に、以前は新一とよく双子と勘違いされてきた似通った、けれど眼差しの深みと色の違う面差しが、意味深に新一を凝視する。
「俺はホラ、ドロボーだから」
 意味深な笑みを莞爾と瞬かせる快斗に、
「詐欺師だろ」
 新一はサラリと言う。
「そりゃ服部の方」
「あいつはタラシで悪党、ついでにナンパ」
「実感籠ってるよ」
 クスリと笑うと、新一は嫌そうな顔をする。言葉に出すのだから、実感している部分もあるのだろうと、快斗は笑う。
「服部からでも、連絡行った。んな処だろ」
 心配性のバカだと、新一は相変わらず過保護な恋人の性格を理解して、大仰に溜め息を吐いた。
 堪忍と、そんな時ばかり完成された大人の端整さで、深いとも苦笑とも付かぬ表情をして笑みを浮かべる服部の過保護さを、新一は良く理解している。
 それが自分自身の精神安定の為だと、更に堪忍と深い自嘲を込め謝る服部の内心を、知らない新一ではない。ないから、軽口を叩き余計な心配だと反駁しても、服部の言動や行動を、本気で拒否も拒絶もした事はない。恐怖を与えてしまうくらい、心配させている自覚の一つや二つ、新一も持っていた。そして、これから益々心臓を停めるくらい心配を掛けるだろう事も、哀しい程正確に理解している新一は、だから、服部の諸々の行動を拒む事はしなかった。
「名探偵と、こうして二人っきりにさせても安全って程度には、俺も信用されてるって事かな」
 まぁ服部にはバレてるしと、快斗は以前の服部との会話を思い出す。


『ひっぱたいてでも、泣かせておけば良かった。時折な、そう思うんよ』


 以前服部が快斗の前で呟いた吐露。それが真摯な響きをしていたから、快斗にもそれが服部の本音なのだと判る。判った時、同時に新一が時折自分の前でだけ涙を見せる事を、服部がもう随分以前から気付いていたのだと、理解した。それでも、何も言わない服部には、適わないのかもしれないと、快斗が実感したのもアノ時だ。


 快斗は、手際良くシェーカーからグラスにカクテルを注いでいくと、新一は途端嫌そうな顔を作った。
「アレ?知ってるのコレ」
 訊きながら、知ってて当然かと、快斗は笑う。
 工藤邸には父親の趣味で、こうして3脚のスツールの在るカクテルバーもどきがある程なのだから。
 何処までも財を凝らした屋敷だと快斗は思う。カクテルを作るに必要な材料が一式拾っているし、酒好きには堪らないだろう程の、世界の酒が集められている。
 繊細で瀟洒な面に似合わず、新一が案外酒に強い事も、快斗は知っていた。以前訊いたら、幼い時から父親に呑まされていた。そう言っていた。そんな新一だから、今自分が注いだカクテルの一つくらい知っていても当然かと、快斗は薄い笑みを浮かべた。
「そぅいや、服部も相当強いよね」
 三人で飲み会をとことんやったら誰が最後まで残っているのか予測が付かない。哀もあれで案外酒豪だから、四人集まって本気で呑み比べなどしたら、結果は判らない。が、今はそんな無茶も出来ない事は、百も承知だ。
 新一は、自分の躯の事を理解しつつ、平気で平然と無茶と無理を通す人間だ。
幼い時から父親に酒を味を仕込まれてきたなら、呑み出したらキリがない事を、快斗達は知っていた。
 案外最後まで残るのは、他の誰でもない新一自身かもしれないと、快斗は内心で肩を竦めた。
「親父さんから、相当呑まされてたらしいからな。って、お前ぇな、俺ソレ呑まねぇぞ」
 眼前に置かれたカクテルグラスに視線を落とし、新一は懲りねぇ奴、そうボヤく。
「ひどいな、名探偵の為に、作ったのに」
「『ビトウィーン・ザ・シーツ』、お前ぇ、やっぱ詐欺師でナンパだ」
「こんな事はね、名探偵相手にしかしないよ」
「断言すんな」
 余計悪いと、脱力する新一に、きっと罪はないだろう。
 何処までが本音で嘘か、こんな時、仮面を付けたように、その内心が読めなくなるのが快斗の真骨頂だと、知らない新一ではなかった。だから新一は溜め息を付く。
 『好き』だと寄せられる好意は、決して嫌ではない。以前なら、確かに鬱陶しいと感じられたかもしれない言葉。けれど今は違う。綺麗な言葉で想いだと感じる。
 安堵やそれだけではない何かを形成し与えられる空間は、決して居心地は悪くはない。確かに放射される気配や感触は心地好い。けれど、こうして何かしらの形でその想いを軽口に紛らせ目の前に置かれると、言葉に困る。
「そんな表情されると、困るんだけどね」
 快斗は考え込んでしまった新一に、肩を竦める。
「名探偵が、何処まで行っても服部だけだって事は、承知してるからね」
 それでも、自分にしか見せない貌が在る。
声も立てず、光の軌道を描いて繊細な面差しを流れていく雫。まるで音なき音を奏でて落ちていく光の雫。その軌道。そんな面を、見せてくれるだけで、十分だった筈だ。
 服部だけのくせに、それでも、必要な時、服部を嘆かせる事も承知して、自らを切り捨てる事に躊躇いのない新一。そんな新一を、哀しむ眼差しで見詰めながら、責める言葉を持たないだろう服部。その絆が、羨ましくないと言えば嘘になる。だからより服部の抱える苦悩は大きいとも知らない快斗ではない。だからこその悪友、なのだろう。
「俺…でも、お前ぇの事、気にいってる」
 怪盗と探偵と言う立場で、気に入っているという言葉も大概可笑しいと言う自覚は新一にも有る。けれど、それでも気に入っている。
 枷を背負ってボロボロになって、それでも雄大に広がる白い翼を持つ怪盗を。自分はたいそう気に入っていると、言葉に出す事により、更に実感してしまう。
「ウン知ってるよ。前にも言ってくれたし」
 だから尚更、そんな顔をされると困っちゃうんだよねと、快斗は肩を竦めた。
困らせるつもりはなかった。ただ、少しだけ、そんな気分だった。 
 恋愛をこなしつつ、自らを投げ出す事にも躊躇いを見せない希代の名探偵。それが新一の持つ怖さなのだと、快斗は思う。きっと服部は、より深く実感しているだろう。
 執着してくれたらと思う。恋愛という枷に、執着してくれたら、きっと自分も服部も、今の心配は少しは和らぐのかもしれない。けれど、そんな事を、新一に望んでも無理な事も、心得ている。いるからこそ、新一は怖いと言う事も、脆いと言う事も、冷ややかな真冬の月のような研ぎ澄まされた静謐な強さを持っている事も、理解している。
 それが心底恐ろしく、精神を恫喝させる事だと言う事も、快斗も服部も、正確に理解しているのだ。
 理解出来てしまう怖さ。感情の部分で納得できないくせに、それでも、理性で納得できてしまう恐ろしさが付き纏う。それが怖い、底冷えする程に。
「俺しか知らない顔、見せてくれるから、それで十分」
 泣いてくれたらと、切望している稀代の名探偵の恋人の知らない貌。
「……辛いか?」
 好きだと告げられる言葉に偽りがない事だけは判る。それは理屈ではない。判るから判るのだ。その想いを逃げ道に利用している、自分の卑怯な狡さを、稀代の怪盗が知らない筈はないだろう。それでも快斗は笑ってくれるから、甘えてしまうのだ。
「辛いけどね、でも倖せも半分」
 声もなく、ただ溢れ落ちる涙。拭う事もなく、ただ柔らかい抱擁に肩を貸す事しかできないけれど。
 切なく柔らかく締め付けてくる想い。服部には決して見せない新一の泣き顔。辛くないと言えば嘘になる。けれどと、快斗は思う。
 自分にだけ曝されるソレに、けれど不思議と服部に対しての優越など感じない。
新一は本当に本気で辛くて苦しい時。誰にもその素顔を曝す事はないと、漠然と判っているからだ。手負いの獣さながら、疵が癒えるのを、ジッと待つ。だからこその獅子。
 以前、早朝の散歩で偶然発見した新一と服部に交じって交した会話。
俯く事も知らず、怖い程まっすぐ正面を向く眼差しこそ、獅子。肉食でもなく、草原の王者でもなく、新一の内面的な強さを湛えて告げられた形容。きっと新一は服部と自分がもたらした言葉の深い意味まで読み取れてはいないだろう。
 誰かの前で泣く新一は、未だ追い込まれてはいなのだろう。
聴く意識もなく聴こえる声。視る意識なく視える才。死人の真実を暴いていく三呪眼。
新一に与えられたその才は、新一を倖せにしているとは思えない。倖せならば、新一はこんなに苦悩していない筈だ。少なくとも、幼い子供の姿になるような事は、なかった筈だ。そうして、自分とも、服部とも、出会う事などなかったのだろう。
 運命は不思議だ。
運命と言う言葉は好きではない。けれど、不思議なものだと快斗は思う。
捩じ曲げられた運命にあったからこそ、こうして出会えたその存在。そう考えれば、以前哀の言っていた台詞を思い出す。


『あの人、言ったの、謝る私に。江戸川コナンになって運命が捩じ曲げられた。それさえ運命。だから謝るなって……』

『あの人…本当にバカ…嫌になるくらい、逃げない人だわ…怖いくらい、正直な人だわ。謝らなくて言い。それさえ運命だから。だからお前も逃げるな。自分からも、俺からも。
そう言ったの、怖い人よ』



 本当に、怖いくらいだよ、名探偵。快斗はソッと呟く。


「名探偵は?辛い?」
 今なら誰も居ないよ、言外に響く快斗の声に、新一は少しだけ困ったような貌をする。
「お前も服部と同じ、バカだな…俺、お前の事……」
 逃げ道に利用してんだぞ、そう続く筈の新一の言葉を、けれど快斗は人差し指一本、酷薄な口唇に軽く押し当て、続きを奪う。
「辛いけど倖せ、言ったでしょ?」
 謝らないでね、快斗は深い笑みを覗かせる。
「でもね、名探偵、泣けないのは、辛いよ?恨まれちゃう」
 本気で苦しい時。誰にも縋らない高潔さが、視ている事しか出来ない人間には、堪らなく辛い。自分でなくていい。誰かで構わない。縋ってくれれば、そう思う。届かない願いだと知って尚、そう願うし祈る。
「あいつの前では、泣けない」
 眼前に置かれたクリスタルのカクテルグラスを指先で弄ぶ。視線は快斗ではなく、グラスに落ちている。
「だから…泣き顔見せるのはお前だけだ、ありがたく思え」
 それがどれ程相手に対して傲慢で、狡猾な台詞か知っている。提供される心地好さに、甘えた台詞だとも判っている。けれど、服部の前で、崩れたくはない。これ以上いらない心労を曝すような真似は、できなかった。でなければ、服部が辛すぎる。
 壊された生体機能を抱えた自分を愛したが為に、しなくていい苦悩をさせてしまった。
それでさえ服部は笑うから、崩れたくはなかったのだ。それさえ服部には知れている。
そうして一つの逃げ道すら許されている。服部が大人だと、新一が切なく歯がみするのはこんな時だ。そうして痛む程に愛されていると自覚するのも、こんな時だ。逃げ道に利用する他人の腕の中で。
「ありがたく、ネ」
 名探偵強らしいねと、快斗は笑う。
「悪ぃな」
「泣いてあげれば?喜ぶよ」
 ひっぱたいてでも、泣かせておけば良かった。
切なさばかりを孕んだ西都の悪友の自嘲。深い翳りを浮かべた、シャープな横顔を、今でも覚えている。
「知ってる…あいつ、俺が泣くの、待ってるから」
「だから泣けない?アアでも、毎晩、違う意味で、啼かされてる?」
 自嘲とも苦笑とも違う深い笑みに、胸が鷲掴まれる感触が生々しく、ついつい茶化してしまう。
 新一は、すべて知っていて、そうしては何も知らないフリをし続けている。服部の苦悩も何もかも、すべて知って、そうして知らないフリをして笑っている。

 本当、不器用…。

快斗は、内心で溜め息を吐く。

「バーロー。揶揄うんじゃねぇよ」
 快斗の台詞に、昨夜の激しかった情交を思い出し、白皙の貌が桜に染まる。それを誤魔化すように、快斗に向かって乱暴に言葉を吐く新一だった。
「本当、呆れる程、服部だけだね。でもさ名探偵、俺がいつまでも物分かりいい人じゃないって言ったら、どうする?」
「お前は俺に、何もできねぇよ」
 弄ぶグラスをコトリと置き、視線が移る。
何処か挑発した意味深な笑みと台詞に、快斗は肩を竦めた。
服部が時折惚気のように語る内容が、嘘ではない証拠を視た気分だった。
「試してみる?」
 此処で『お姫様』とでも言えば、きっとカクテルを顔に引っ掛けられるだろう。それくらい、新一の性格は勝ち気で、負けん気が強い。
「けど、お前の明日以降の保障ないぞ、んな事したら」
「物騒な台詞」
 人が傷付く事を恐れているくせに、時折こんな風な台詞を言う新一だった。
感じるダレかの痛みが、新一に事件を解かせて行く。傷付く人間の深淵が視えてしまうからこそ、恐れてしまう新一は、けれど時折物騒な台詞を語るのだ。
「自信有る?」
「なかったら、言わねぇ」
「なんかさ…服部の苦労判っちゃった」
 タチが悪いと、服部の言う台詞に間違いはないのだろうと、しみじみ実感した快斗だ。
「あいつもお前も、バカで物好きだよな……」
 何を好き好んで、同性の自分なのだろうと思う。望めば幾らでも相手はいるだろうに。
「ウン、バカだよ。だから、これ以上バカやらないように、見ててね」
 コツンと、白い額に自らの額をくっつけ、上から透き通る双眸を覗き込む。
長い睫毛に縁取られた深い眼差し。色素が薄いくせに、覗き込むと闇夜を映す湖面を連想させる、静かで穏やかな眼差しが在る。
「ガキじゃねぇ」
 鬱陶しい、そう払い除ける腕に、けれど力はない。
「散歩、しようか」
「ハッ?」
 快斗の突然の台詞に、新一はキョトンと快斗を凝視する。
「散歩、夜のランデヴー」
「パス」
「服部居ないし。飛び切りの場所、見せて上げるから」
 新一の即答に苦笑しつつ、快斗はそれでも諦めない。
「散歩はいい、でもランデヴーはパス」
「本当、素直だね、名探偵」
 パスと即答されたのは、散歩ではなく『ランデヴー』だったのかと、快斗は笑う。
何処までも、稀代の名探偵は、西都の恋人を愛しているらしい。それでも、執着なく自らを切り捨てる事ができるのだから、恐ろしさは底冷えする程だ。そうして、結局は新一を止める言葉も腕も持たないと自覚している服部は、やはり適わない程大人であるのかもしれないと思う快斗だった。
 見守る強さと勇気、同一線上にある悲しみや苦悩。悟る事などできず、迷いばかりやと、苦笑を深めて笑った西都の悪友の顔が、思い出される。
「それじゃぁね」
 パチンと指を鳴らすと、フワリと白い影がよぎる。
「お前ぇ、何考えてやがる。んな格好のお前ぇと、散歩なんて絶対ぇ、行かねぇ」
 目の前に佇む見慣れた姿に、新一は呆れて憮然となる。
「言ったでしょ?とびきりの場所、見せてあげるって。流石にこの格好じゃないと、空飛べないし」
「空ぁ〜〜〜?」
「ハイハイ行くよ」
「オイ、コラッ」
 腕が腰に回ったと思った瞬間。新一の細い躯を包んだのは、一瞬の無重力だった。










 深夜の淵に在りながら、眠りを知らない不夜城の光が眩しく映る。


『ねぇねぇ新ちゃん。こうして見ると、まるで天然の宝石箱に見えない?』


 当代きってのトップ女優の座を執着もなくあっさり引退した母親の、少女のような言葉と綺麗な横顔を思い出す。


「寒くない?」
 ビルの天辺は、地上より天に近く、腕を伸ばせば星さえ掴めそうな程空に近い。
11月も入った季節、深夜の時間にビルの天辺になど居たら、真冬に近い風が、肌身を嬲って行く。
 生体機能の壊れた新一にとっては、ちょっとの風邪が命取りになるから、快斗は慎重に新一の躯をマントで覆い、佇んでいた。
 快斗の台詞に、けれど新一は眺望絶佳に魅入られたように、眼下を眺めている。
「何、視える?」
 瀟洒な横顔が、何とも言えない色を浮かべ、不夜城の光を眺めている。その横顔に、フト快斗は切なさが湧く。
「星」
「?星?」
「お前ぇ、いっつもこんな夜景視てんだ」
 枷の付いたボロボロに傷付いた白き翼。それでも何食わぬ表情をして、雄大に飛び続けて行く翼を広げ、快斗はこんな不夜城を見詰め続けてきたのだろう。
「時折さ、名探偵の言葉は、難しいんだよね」
「星だろ?」
 ゆっくりと、視線が動く。動いて、隣で自分を抱き締めるように佇んでいる、自分と似通った面差しを凝視する。
 夜の凪いだ湖面を映したかのような綺麗な双眸は、きっと自分とは違う物を視ているのだろうと、快斗は吸い込まれそうな意識の中で思う。同じ光景を視ている筈なのに、眼球と言うレンズを通せば、こんなにも感性は違う。
「不思議だな」
「綺麗なのが?」
 独語に呟かれた台詞に、快斗は笑う。
その笑みに、新一はひどく静邃な笑みを刻み付ける。寒さの中にあって、心は満たされて行く感触が心地好かった。
「地上の中で視れば、ゴミゴミして、綺麗なものなんて眼に付かないのに、こうして見下ろす地上はひどく綺麗だと思わねぇ?」
 ホラッと、一本の指が、指し示す光の環。瀟洒で白い指先の先の先、形良く切り揃えられた爪先の先には、光に満ちた地上。
「綺麗なものなんて、何一つないって感じる時も有るのにな…」
「名探偵…」
 識る痛み。汚れや澱みや、人の深淵を見詰め続けている魂の眼。慟哭も悲鳴も、痛みも憎しみも嘆きも、聴く意識なく届く声。
 それでも、綺麗な魂が高潔で、恐ろしい程に愛しく感じる。まっすぐだからこそ凛冽で、頭を垂れない獅子の強さと靭やかさ。
「夜は不思議と輝いて視える」
 犯罪ばかりを追いかけて、人の昏闇ばかりを見詰め続け、それでも、こうして綺麗だと感じる事のできる自分が、不思議な気がした。
「間違っても、傷付いても、一生懸命生きている。だから、綺麗なんだろうな。俺は、だから逸らしたくない」
 擦れ違ってしまう人と人の機微の中で発生する犯罪を。その深淵から、眼を逸らしたくはなかった。
 名探偵になると、幼い時に誓った心はナニだっただろうか?思い出せない。けれど、こんな綺麗なナニかなのかもしれない。澱みの中で、泥を啜っても生き抜いて行く一生懸命な魂に、腐敗し汚濁に満ちた世界。それでも、愛しいと思うのは、きっと一生懸命に、生きているダレかが在るから。
 穏やかな横顔。繊細で優しい感触や気配や、諸々のものをが愛しくて、快斗は不意に泣き出したい衝動にかられ、自分より華奢な肢体を抱き竦めていた。
 強くて優しくて、それは言葉ではない。理屈でもない。こんな些細な何気ない機微がひどく愛しく、それこそ新一の強さで優しさで、魂なのだうと思う。だからこそ、新一に宿っているのだろう三呪眼。それが彼を不幸にしても、視る事も聴く事もやめない強さが、切なく愛しく、そして哀しいまでに綺麗だと思う。それが切なく辛い。
 救い出せないその枷。新一だけに与えられた三呪眼。名探偵と、共に湛えられる服部でさえ、追いつく事のできない天の才。肩代わり一つ出来ず、腐敗した世界を静かに見詰め、それでも、綺麗だと言える強さが哀しく綺麗だ。
 夜の魔女と呼ばれる小泉紅子に、『魔人』とまで呼ばれた稀代の名探偵。確かに、魔物なのかもしれない。ダレにも、真似などできやしない、その全て。
「天の星も、そりゃ綺麗だけど、俺は地上の星も、綺麗だと思うぜ」
 人口のネオン。着色された世界。真実と嘘、光と闇、明と闇が、渾然一体としている世界。腐敗しても汚濁に満ちても、不思議と綺麗だ。痛みばかりを覚えてさえ。
「何より生きてる感じ、するだろ?」
 そうして、白き翼の中で、新一は穏やかに笑う。まるでその場には居場所などないように。
「名探偵がさ、なんで名探偵なのか……」
 今心底判った気がする……と、快斗は吐息の声で囁き笑う。そんな快斗の笑みを、新一は不思議そうに視ている。
「名探偵は、人間が心底からは信じられない生き物だって、ちゃんと知っているから…」
 きっとその深淵を見詰め続けていられるのだろう。
「なんだよソレ?」
 訳判んねぇよ、と、新一は途端憮然となる。
「服部にね、訊いてごらん」
「なんでお前ぇじゃダメなんだよ、自分の台詞に責任持てよ」
 白いマントにくるまり隣を間視すれば、困ったような曖昧な貌が映る。
こんな時の快斗の台詞は意味深で、新一には判らない。服部に訊けと言うのだから、服部は快斗の台詞の意味が判るのだろうか?そう考えると、今此処に在ない服部に、理不尽なナニかを感じてしまう新一だった。
「それよりね、名探偵」
「っんだよ」
「明日までにはちゃんと消さないと、怒られるよ」
「人の事言えねぇな、お前」
「アメスピでしょ?服部の」
 匂い髪に移ってるよ、快斗は笑う。
新一の、柔らかい髪に移っている残り香は、服部が時折吸う外国産煙草の香りだ。
アクの強いその外国産煙草を新一がコッソリ吸っている事を、快斗も服部も知っている。
「あいつさ、最初は吸ってたんだぜ、俺の前で。お前ぇだってそうだろ?」
 こうしていれば、その匂いは、髪にも服にも移っている。
「まぁ稀代の怪盗の愛煙種類なんて知ってるのは、俺と服部くらいだろうけどな」
 でもお前、迂闊すぎ、新一は肩を竦めて笑う。
「別にね、名探偵が気にする必要ないと思うけど?」
「最初は、言っても止めなかった奴だよ。サイテーでさ、あの後だって平気で吸ってて呆れた時もあったのにな」
「……それ惚気?」
「違ぇよ、お前相手に惚気てどうする」
「……でもねぇ…」     
 どう聴いても惚気に聞こえてしまう快斗に、罪はないのだろう。そうして、語る新一に自覚は皆無だから、始末が悪い。
「あいつは、どんどん優しくなってく」
「辛い?」
「俺、壊れもんじゃねぇぞ。煙草くらいでどうもならない」
 出会った最初は、悪びれなく吸っていた煙草。言っても止める事なんてなかったソレが、いつの頃からか吸わなくなった。そうしてその分、どんどん優しくなっていく。
「服部の気持ちでしょ。名探偵が、気にする必要ないよ。アレがそうしたいから、そうするんだよ。吸う吸わないは、服部の問題」
「俺の為になんて、変わってほしくないんだよ」
「別に、悪い事じゃないと思うけど?煙草は20歳からって言うし」
「そういうお前ぇが、だったら禁煙しろ。この不良」
「ホラ、煙草は20歳になったら禁煙するもんだし」
「……理不尽言うんじゃねぇ」
 快斗の台詞に、新一はマントにくるまり、投げやりに言い捨てる。
「吸ってみる?」
 新一の目の前に、一本の見慣れた煙草を差し出し、笑う。
「いらねぇ。お前ぇ吸っていいぞ」
「別に俺もね、年中吸うわけじゃないから」
 そう言うと、快斗の手には、もう煙草はなくなっている。その鮮やかさは瞬く刹那で、新一はそのマジックに、苦笑する。
「あいつさ、いつも何処視てんのかな」
「何?」
「あいつ、煙草吸う時、癖なんだよ。ボーとして、何処視てっか、判らない眼ぇしてる」
「ヘェ〜〜、知ってるんだ」
 以前聴いた事が有る。
服部が煙草を吸う場所は、工藤邸の自分の部屋。冬でも部屋の窓を開け吸うのだと、以前聴いた事があった。服部は、新一の前では発作以来、一度も吸った事はない。だとしたら、新一が服部のそんな癖を知っているという事は、良く服部を視ている。そう言う事なのだろうと、快斗は思う。
 遠い眼をして吸う服部の眼差しや、コッソリ窺い視るその横顔は、近頃めっきりシャープな鋭角を深めている。フト見せる仕草に大人びた印象を見つけては、新一は辛くもなるし、胸の奥から滲み出る疼きをも意識するのだ。
「何、映してるんだろうな」
 ボンヤリとした眼差しには、一体何が視えるのか?新一には判らない。
「さぁねぇ、そればっかりは」
 判らないネと、快斗はマントの上から、華奢な肢体を抱き締める。抱き締めれば、その肢体は驚く程薄く細い。この薄い肩に一体何を背負っているのかと思えば、肩代わり一つ出来ない事が、辛くなる。
「お前ぇはさ、何視てんの?」
 まっすぐ伸びた視線は、相変わらず、見下ろす地上の光を綺麗に映している。けれどその言葉は、快斗に向かってまっすぐ伸びている。
「お前も服部も、本当バカの付くくらいお人好しだ」
 半瞬押し黙ってしまった快斗の機微を感じたのだろう。新一は、クスリと笑みを漏らす。それは何処までも穏やかで、初冬の身を切る空気のように凛冽で清冽で、そうして果てしなく静謐だった。だから益々快斗はどうする事もできなくなって、細い肢体を抱き締める事しかできなくなる。
「俺は、諦めないから、消えたりしないから。気遣うなよ」
 抱き締めてくる温もりに、新一は緩やかに腕を伸ばす。伸ばし、抱き締める。
枷を持つ翼。白い白いソレを抱き締めると、腕の中で慄えるのが判る。
「別にな、言葉だけで、言ってるんじゃ、ねぇんだ」
 不確かな未来。それすら有るのかないのか判らない道筋。書き替えられてしまった遺伝子は、それは事実でしかなく、ゼロに出来はしない。
 体細胞にある筈のないテロメラーゼが、新一と哀には癌化しない純粋な酵素として、分泌されている。それは、寿命を司るテロメアを延長させると言う、ポストゲノムシーケンスの研究課題に違いなく、新一と哀の躯は、延々と同一線上の上を辿る運命も否定できないのだ。
 流れる時間から取り残されていく可能性は、否定などできはしないし、寧ろ今となっては確実さえ帯びているのかもしれない。けれど、諦める気など、何処にもない。
 どう言い募ったら、優しい二人には判るのだろう?だろうかと、新一は思う。
言葉では、きっと通じないのだと思う。肌を重ねてさえ、服部は常にその不安を抱いている。だからこそ、今晩新一の元に、快斗を呼んだのだろう。
「何も知らないでいた方が、楽なのかもしれない。遠くで綺麗なものだけ視ていられたら、傷付かずに済むんだと思う。手も汚れなくて、血を流す事もなくて、痛みを負う事も知らないで、済むんだろうな。でもな、俺は、今答えなきゃならないバカが、お前らと、灰原在るからな。最初から諦めてる方が楽だけどな、そんなんじゃ、最初から何も始まらない。可能性はゼロじゃねぇから。俺は絶対、諦めたりしない」
 どう言い募ったら、言葉が通じてくれるだろうか?もどかしい想いが新一を包む。
諦めたりしない。諦められる筈もない。自分はそんなに諦めなど、良くはない。
「俺、最期まで足掻くぜ。悟ったりできねぇからな。お前や服部が思ってるより、俺は人間できてねぇんだ。完璧なんかじゃ、ねぇんだかんな」
「なんかさ、今夜は立場が逆…」
 抱き締めてくる細い腕。それは過去を思い出させる。
自分の事でさえ精一杯の筈の小さい手は、アノ時もこうして抱き締めてくれた。


『守って、やっから』

『お前一人くらい、守ってやっから』


 他人の事など構う余裕などない筈なのに、それでさえ、アノ時も変わらずこうして迷いも躊躇いもなく、抱き締めてきた小さい手。細い腕。その温もり。アノ時と何一つ変わらない温もりが愛しく思う。思えば、泣きたい衝動が止まらない。


「ホラ、俺、居るだろ?」
 グイッと引き寄せれば、互いの鼓動が伝わってくる。刻まれる生命の脈動は、偽りではないのだから。
 ポンポンと、あやすように快斗の背を叩く。今夜はまったく立場が逆で、新一はコッソリ笑う。
「ウン、名探偵、此処に在るね」
 クスリと、快斗は綺麗な笑みを漏らす。
抱き締めてくる腕から伝わる温もりと鼓動。確実に刻まれている生命の潮。偽りではない生命が、確かに腕に在る安堵。
「可愛気有るお前ぇなんて、滅多にお目にかからねぇからな」
 今度服部に教えてやろ、そう軽口を叩く新一に、快斗は『それだけは堪忍やで』、服部の声で、そう笑って応えた。








「星、か…」
 新一を背後から抱き締め、地上の光を見下ろせば、確かに新一が告げた言葉は嘘ではない気がした。けれどそんな事、一度も考えた事も、思った事もなかった気がした。
幾重も、この光景を眺めてきたというのに。
「綺麗だろ?」
「強いね、名探偵」
 裏切られても、傷つけられても、そう告げ語る新一の声はも何処までも穏やかで、眼差しは優しい。その強さは一体何処からくるのだろうかと、快斗は思う。
「間違えて、失敗を繰り返しても、一生懸命だろう?命が在るから輝くんだと、思わねぇ?生命なんて、ただ生きてるだけのもんじゃねぇだろ?ただ生きてるだけなら、生命なんていらねぇ」
 穏やかな声と眼差し。静謐な気配と感触。澱みも迷うも躊躇いもない言葉に、快斗は胸を鷲掴みにされる気分を味わった。
「名探偵ってさ、本当に名探偵」
 怖い程。高潔な程。底冷に恫喝される程、強い魂。決して真似などできやしないその魂の本質。
「俺はだから、時折願うよ。人に」
「そうだね……」
 高慢で、腐敗した汚濁に満ちた社会。それでも、新一は真摯な祈りを秘めているのかもしれない。願いを持っているのかもしれない。
 願うべき相手が誰かも判らぬままに。祈る相手も知らぬまま。それは誰より強い真摯な祈りと願い。
 だから快斗は不安になる。
どうか…喪失えてしまわないで…。祈りを遺こしたまま。願いを秘めたまま。誰より愛し、倖せを願い祈る相手。


どうか、喪失えてしまわないで……。


「お前さ、『星に願いを』って歌知ってるか?」
「ディズニー、だよね、確か」
「歌苦手でさ、歌詞なんて知らねぇけど、綺麗で優しい歌だってた事、覚えてるんだ」
「地上の星に、願いをかけて?」
 地上の星。地上の星座。生命が宿るから美しいのだと、何の迷いもなく告げた新一の言葉。きっとこれから、夜景を視る都度、その言葉が胸を刺すだろう。
 流れていくテールランプ。赤い色なら、ソレは生命の脈動を表す血液。点滅する高層ビルのライトは、さしずめ呼吸。
 生きている街。待ちを作る人。不思議と輝いて視える。腐敗と汚濁ばかりなのに。フト願い祈りをかけたくなる程に。








「お前、歌ってよ。歌えるんだろ?」
 意味も歌詞も知らないけれど、タイトルが気に入ったと、新一は笑う。
「それでは、リクエストに応えて」
 鮮やかに翻る白い白いマント。雄大な翼のように広がり靡く。
輝く地上の星の上、緩やかな声が流れて響いて消えていく。
 真摯な祈りと願い。地上の星々に…。