月に眠る祈り SCENE4












「ホンマ、けったいやな」
 男と話し終えた二人は、死体発見現場周辺を歩いていた。
死体発見場所は、『KEEP OUT』と赤字で記された現場保存テープがグルリと張り巡らされ、その内部は青いビニールテープで覆われている。その前には警察官が2名。現場保存の為、交替で立ち番をしている。いるから、内部に入り込む事はできない。けれど新一も服部も、明確にその現場の様子を覚えていたから、何の支障にもならなかった。
「どないした?」
 服部の隣で、白皙の貌は俯き、視線は足下に落ちている。
瀟洒な白い指は、新一の沈吟する時の癖だろう、酷薄な口許に押し当てられていた。 
 片山吾郎に対した時とは相反し、押し黙ったままの新一の姿に、服部は不意に不安を覚えさせられる。
 服部にとって、新一のこんな仕草は、コナンの時に散々眼にしてきている。むしろ服部にとってのこんな仕草は、コナンの印象に通じている。
 服部にとって、事件を解決する為に推理する新一の横顔は、アノ幼子の時の方が数多く眼にしてきている。重ねた時間が、服部と新一、コナンとでは、未だコナンであった時の方が長いのだから仕方ないのかもしれない。けれど今までその印象に不可思議さは感じられなかった。服部にとってコナンは工藤新一でしなかったから、別の印象を受ける必要もなかったのだ。
  そんな事が簡単に割り切れ、混乱しない人間は、恐らく服部だけだろう。阿笠ですら、最初は混乱した。その毒薬を開発した哀ですら、自分で体験しなければ、信じる事はなかっただろう。だから現実的には有り得そうもない事実を目の当たりにしても、服部は受け止める事のできる、精神値の高さや強さを持っていたと言う事になる筈だ。
 コナンが工藤新一だと言う事を、阿笠と哀以外で、見抜いたのは服部だけだ。誰もがそんな可能性など考えもしないだろうし、考えたとしても、切り捨てる筈だ。けれど服部はその可能性を消去せず、コナンが工藤新一である事を見抜いた。それ以来、何かと気にかけ、コナンである新一を背後から支えてきた。 誰もが自分の事を忘れ去ってしまった中、服部だけが工藤と呼び続けてきた事が、どれだけ新一の精神的な支えとなってきたのか服部は知らない。そして生涯、気付く事はないのだろう。 その所為でか、二人は事件でバッティングする事が多くなった。その中で眼にしてきた真摯な眼差しの深さと、推理時の仕草が、今では矛盾する事に、コナンの印象とダブルっている、その不可思議さが感じられた。
 コナンであった新一は、いつだって真摯な奥深さと痛い程の焦燥で、事件と対峙してきた。そんなコナンを幾度となく見守ってきた服部にとって、不意に黙り込み、見慣れた仕草で凝思している今の新一の姿に、不意に不安を煽られてしまうのだ。
 黒の組織を見付けだし、解体させ、元の姿に戻る事。けれどそれは決して容易な事でなく、死に対峙する覚悟も必要で、だから一時新一は、服部を巻き込む危険を考え、離れようとした。それを引き止め、許さなかったのは服部だった。そして新一は選んだ。危険に巻き込む事を承知で、そのパートナーに、自らの意思で服部を選んだ。
 コナンであった新一の焦燥を、誰より見守り理解し、その痛みや苦悩を見守る事で、共に苦悩してきたのは服部だった。
そして今、だから焦燥してしまうのだと、不意に気付いた。
 今の新一の眼差しは、当時のコナンの眼差しと何処か似ていた。焦燥とも痛みとも付かぬ眼差しをして、子供であるが為に、無力である現実の前に、傷つき苦悩し、もがく程に足掻いていたアノ子供の姿を連想させる。 
 ずっと見守り続けてきた服部には、それが新一の焦燥だと、理解できた。押し隠している不安が、もしかしたら、新一ですら自覚のない不安が滲んでいる。いると思えた。感じた。佇むたたずまいに、そう視える。だから服部は不安を煽られてしまう。煽られずにはいられなかったのだろう。
 凍り付く程沈吟し、立ち尽くす細身の姿態に、服部は焦燥し、同時に、胸が鷲掴みにされる痛みを覚えた。気付かなかった迂闊さに、半瞬腹が煮え、内心舌打ちする。
 関わらせなければ良かった。
過保護だと言われようと、探偵としての天の才と、それを支える頭脳明晰さや、高潔なまでのプライドの高さを誇る勝ち気な恋人が、そんな事を微々とも願う筈もないと知り乍ら、服部は痛烈までに、そう思ってしまうのだ。
 平穏に過ぎていく時間に、忘れていたのだ、自分は。そして新一も、少しだけ安穏としていたのかもしれない。今、現場に来て思い出してしまったのだろう。そんな横顔をしていた。
その証拠に、薄い口唇を噛み締めている。
 薬物を用いた殺人事件の可能性。通常からは、考えられない死体遺棄。被害者の体内から、証拠物件としての毒物が、特定されないと考えての遺棄なのか?それを考えれば、最初から、組織の影を疑っても可笑しい筈はなかった。
 新一が用いられ、奇跡的に子供に還った薬物は、細胞の自滅プログラムを誘発させ、細胞死を引き起こし、死亡させる薬物だ。今回のケースとも、似ていないとはいえないし、全面的な否定はできない気がした。
 否、それも言い訳だろうと、服部は思う。
理論的で合理性を好む新一が、気付かぬ筈はない。その可能性を、否定している筈はなかった。
無意識にしろ、新一は気付いていた筈だった。否寧ろ、無意識下では、事態を正確に読み取っているだろう。
 新一には、理論や理屈だけではないナニかで、事件の概要に辿り着く事が少なくはない事を、服部は知っていた。それは言葉では説明の付かない場合が多い事も判っていた。それは経験則の多い刑事だけが持つ勘と酷似している気もするし、全く違う気もした。そして新一に、その自覚は皆無だ。
 それは理論と同時に合わせ持つ、自分と同様の直観能力ではない事も、服部は理解していた。
言葉にはできないナニかが、推理時の新一の周囲には、綺麗なオドラートとなり、纏わり付くのだ。
ソレは、綺麗なオーラに酷似するナニかだ。
 だからアレ程、社会から断絶する事を願うかのようなホームレスの姿に、拘っていたのだろう。こだわりが何処にあるのか、自分は気付いていなかった。奇妙だと言った新一のこだわりの意味に、気付く事ができなかった。
 社会から断絶すると言うその言葉に秘められた意味を、気付いてやる事ができなかった。気付いてやらなくてはならない筈なのに、見落としていた。
 軽口に誤魔化し笑った新一の笑顔に安心し、淡々と他殺の根拠を話していた端然とした澱みや迷いのなさに、誤魔化された。誤魔化され、その疵が抉れていく事実に、気付くのが遅れた。
忘れていたのは自分だ。忘れてはいけない筈なのに、忘れていた。その事実が、服部を苦しめる。
 口唇を噛み締め、何かに堪える眼差しをしている。その繊細な横顔に、胸が痛んだ。痛んだから、服部は癒すように髪を梳いた。それは新一に必要なものではなく、自分自身に必要な仕草である事を、自覚している。
 服部の不意の仕草に、新一が顔を上げる。
泣きそうな表情だと思えた。優しいくらい優しい恋人の精悍な貌は、今は少しだけ歪んで見えた。感じた。その眼差しにこめられた意味に気付かない程、新一はバカではなかったし、子供ではなかった。
「大丈夫だよ」
 それだけの短い言葉で、通じる。
強がりではなかった筈なのに、声が慄えている気がした。実際慄えていたのかは、判らなかった。
けれどそれが忘れられない精神の痛みなのだと言う事だけは判った。
 トラウマ……不意にそんな言葉が胸の裡に湧いては消えた。髪梳く感触に、安心する。馴染んだ優しい感触に、新一は漸く深い吐息を吐いた。
 癒されていると実感する。そして自分を癒す都度、服部が傷ついていくのが判る。
大切にされていると思う。甘やかされている事も、判っている。愛されているのだという実感は倖せだけれど、優しく残酷なものだとも近頃気付いた心の痛みだ。
「大丈夫や、あらへんやろ」
 服部の声は、少しだけ苦しげだった。精悍な貌が、苦い物を噛み潰したように、苦しげに歪んでいた。
 日曜の代々木公園。事件現場に立ち入る人間は皆無だ。誰もが足早に通り過ぎていく。それでも周辺にはカップルや家族連れが在る。その中で、普段なら嫌がる仕草に安堵し、指を振り払う事がないのはその証拠だろう。
「堪忍な……」
「っざけんな」
 まるで骨身を削るような愛し方だった。注がれる掛け値のない愛情の深さに、フト泣き出したい衝動を新一は覚えた。
 過保護に甘やかされたい訳ではなかった。心地好い感触は泣き出したい切なさや痛みを孕み、それでも、対等でありたいという自尊心が、相手に甘えきってしまう誘惑を許さない。そのくせに、その相手にこんな表情をさせてしまう自分に、腹が立った。やはり甘やかされているのだろうと自覚すれば、なおいっそう腹立たしさが湧く。
「お前、過保護過ぎだよ」
 腹がたったが、次には肺の奥から、深く息を吐き出した。何処か諦めたかのような吐息は、無自覚な安堵の現れだ。
「しゃあないなぁ、お前甘やかんすは、俺自身の為、やからな」
 その言葉に、嘘はななかった。
所詮自己満足なのだと言う事は、理解している。癒したいと願いながら、癒されてほしいと祈りながら、何処かで癒されたいと思っている自分が在る事も判っていた。けれど、癒されてほしい、その想いに嘘もなかった。
 だから自分にできる事は、きっと見守ってやる事しかできない事も、服部は正確に理解していた。
誰より傍らに在て、その痛みを嘆いてやる事しかできない自分を、誰より服部は知っている。そのもどかしさを、服部はもう幾度となく飲み込んで、新一の隣に在る佇んでいるのだ。
 そして何もしてやれない無力さに、怨嗟さえ孕んで嘆くのだ。それが服部の愛し方だった。こんな愛情が自分の身の裡に存在する事を、服部は新一を愛し、初めて知ったのだから。 
 辛酸を舐め、それでも新一は未だ、その呪縛を背負っていかなくてはならないのかもしれない。
否、開放されてはいない事は、今の新一の横顔を視れば容易に判る。
 骨が軋みそうな痛みや苦悩に身を曝しながら、それでも清涼な笑みを浮かべ、自分すら欺き、新一は血を流す疵を隠蔽してしまう。痛み悲鳴をあげている事にすら、きっと気付かない。気付けないのかしもれない。推理以外の事では他人の機微にも鈍い新一は、何より自分の痛みに気付かない人間だ。
 誰もが自分の疵には敏感なのに、新一は、自分の疵に気付けない。誰もが傷つく事を恐れるのに、新一は潔い程、恐れない。まるで、恐れる意味も、傷つく意味も、知らない子供のように。喪失の恐怖を知らぬげに。それが服部を恫喝させる。
 きっと気付くのは、服部だろう。自分の痛みすら気付けない子供のような新一を、服部は愛したのだから。だから癒されてほしいと真摯な祈りさえ孕み、願っているのだから。そしてそんな真摯で誠実な愛情が、新一を支えているのだ。コナンで在ったアノ時から。
「バーロー」
 泣き出したい衝動を、新一はどうにか堪えた。
服部の不躾な程の優しさは、いつだってこんな風に自分を切なく痛ませる。服部に愛される事で強くもなるが、弱い一部を発見してもしまうのだ。そしてそんな弱さがひどく人間らしいと思えてしまう自分の意識の不可思議さに、新一はやはり泣き出したくなるのだ。
 こんな感情、今まで知らなかったのだから。そして、知らずに過ごしたかったと、思ってしまう自分が在る事を、新一は否定できなかった。
「堪忍な」
 憂苦を浮かべた深い笑みが、服部を大人に見せている。
ひどく胸を騒がせ、反面。甘く疼かせる深い苦笑に、安堵する自分を意識すれば、髪を梳く指先が離れていく感触に心細さが湧いた。
「謝まんな」
 自分だって、元の躯に、工藤新一に戻れ、少しだけ忘れていたのだ。
工藤新一に戻れたからこそ、忘れてはいけなかったアノ身を引き絞られるように緊張を、けれど自分は忘れていた。誰の所為でも、まして服部の所為などである筈がない。忘れていたのは、自分の迂闊さであり、自分の責任だった。
 元の躯に戻って以来、二人が乗り出すような殺人事件は、殆ど発生してはいなかった。日本の警察は無能ではないし、世界的に見てもハイランクで、特に交番は、世界的に評価されている地域に密接した警察制度だ。
 いつも二人の手を借りなければならない事件など、そうそうには起きないし、何よりも、服部は新一を事件から遠ざけたかった。     
 黒の組織が壊滅したとは言え、残党は存在するだろう。哀の開発した解毒剤も、いつどんな状況で、副作用が出るか判らない危惧が存在していた。開発者の哀にとってすら、APTXは、未々未知のものだ。どんな形で、副作用が出るか判らない。
だから服部は、新一を事件に関わらせる事を由とはしなかった。危険が多すぎた。
 黒の組織の実態は、組織壊滅と同時に、殆どが闇の中に消えている。日常的に発生する犯罪に、彼等が何処まで関与していたのかすら実態は皆無だ。大掛かりな伏線を張り、組織を追い詰め、けれど実態一つ掴めなかった。事前に、情報が漏れていた可能性も否定出来なかった。捜査に動員された警察官の多くは、その作戦の意味も知らされてはいなかった。捜査の実権を握っていたのは刑事部ではく警視庁公安部、延いては警察庁警備局、公安部のブラックボックスだと言われる長官官房国際部第二課や内閣情報調査室だったから、末端捜査員にまで情報が届く筈はない。それが体制組織の弊害だった。けれど今回はそれが怪我の功名と言えた。
 事前に情報が漏洩していた可能性はあるが、新一と哀の事は、世間の好奇な視線に曝されずに済んだ。それだけが、服部の唯一の救いと言えた。それで二人の受けた疵が、消えた訳ではないけれど。それでも、表面上組織は解体したから、新一は今はおとなしくしているのだ。犯罪組織を追うにも、実態一つ掴めないから、追いようがない。それだけの事なのだ。組織の動いている可能性を一つでも見付けてしまったら、新一は再び走り出してしまう。身の危険を顧みず、自分を追い詰めてしまう。疵付けられた精神の痛みに、尚深く抉られるような疵を付けられる事を承知して、新一は再び走り出してしまう。それが服部には恐ろしかった。
 組織は崩壊してはいない。表面的な解体でしかない。その可能性を、服部自身否定出来なかったし、寧ろ心の何処かでそうだと認識してしまっている。
 アノ組織の実態は何一つ謎のままだ。何処のどんなルートに末端組織を持ち、情報ルートを持っていたか、何一つ判らないのだ。現に、国家により、情報操作されている事が、その何よりの証拠になる筈だった。そして新一と哀は或る意味で、その捕囚とも言えるのかもしれない。
 司法と行政は、その秀逸な頭脳を差し出す事と引き換えに、灰原哀の殺人幇助を不問に伏した。
そして哀は、半ば国家の檻に囚われている。けれどそれが何を望んでの事か、服部は知っていた。彼女が自ら選択した答に、口を挟める余地はなかった。見せかけの平穏…。そう考える時、言葉にできない慍悒に、腹の底が灼け付く感触を、服部は何度となく味わってきている。 表面的に、組織が壊滅したように見せるだけで、人の視点が変わる事を二人とも知っているから、寧ろ組織の壊滅自体、信用してはいなかった。何を目的としていた組織なのかすら、新一と服部に把握はできてはいなかったから、極力新一を事件から遠ざけておく事が正解のように、服部は思っていたのだ。
けれど昨年の夏の終わりから、今まで何ごともなく経過し、二人共少しだけ、忘れてしまっていたのかもしれない。
「判ってるから…」
 服部の言いたい事は、百も承知している。
「今更関わるな、んな台詞言ったら、別れるからな」
 今更手を引く事などできなかった。逃げるような真似、できなかった。真実を追求したい、その想いこそ、真実だからだ。そのプライドにかけても、逃げる事などしたくはなかった。それは見栄ではなかった。今更自分を曝けだしてしまっている服部に、虚勢を張っても意味はない事を、新一は判っている。だからこれは純粋に、事件に対する中途半端な関わりはしないと言う、自分自身の探偵としてのプライドだった。
 まして……。
「判ってる、工藤がそないに簡単に切替えできんっていうのもな。切替えと、開き直りが早かったのは、一つだけやろうし」
「なんだよ、その一つって」
 その答えなど、今更の事実でしかなく、そんな事を言う服部に、新一は憮然となった。
「言っていいんか?ココで」
 意味深に笑うと、再び指が髪を梳いた。意味深に笑い乍ら、その指の感触は、ひどく優しく宥めるように動いている。
「まぁええよ、別れられたらかなわんしな。その変わり、絶対単独はナシや、ええな」
 最後の声だけが奇妙に真剣で、新一の胸を鷲掴む。その真剣さが、服部の愛情と同義語である事を知っているから、新一は憮然としながら、軽口を叩きながら、頷くしかなかった。それでも、少しばかりの反駁をしてみせる新一だった。
「子供じゃねぇぞ」
 コナンだった時から、新一の単独はいつもの事だ。それでも、事件がバッティングすれば、比較的服部と行動を共にしていた筈だった。けれけど服部には、どうやらそうは思えなかったらしい。
 服部の方が、コナンだったアノ時、自分の前で傷を負い、心配させて来た事を知らないのかと、新一は毒づいた。
「子供やなかいら、心配なんや」
 肺の奥から息を吐き出す仕草は、深い溜め息と自嘲だ。
子供だったら、腕に抱いたままでいられる。コナンだったら、彼の意思を無視しても、そうしていただろう。けれど新一は自分と同じ年齢で、事件に関しての行動力や決断力、その明敏果断な速戦即決さは、服部の焦燥を誘うばかりだ。
 事件の端緒を掴む事に関しては、天の才がある。無意識下で推理の為の思考を巡らせ、それが表層面に顔を覗かせた時には、行動している。そんな事、新一には珍しい事ではないのだから。
 元々二人とも能力主義の個人主義だから、合理性と能率的な行動を好む。推理の中核に近付く為には、集積された情報を迷わず処理できる分析能力が必要不可欠だ。その為の思考を一瞬に巡らせ、端緒を指摘する。その頭脳は、他者を圧倒する秀徹さだ。だからこそ新一は、警察組織の救世主とマスコミに持て囃されてはきたが、別の意味で、畏怖の対象でもあったのだ。年齢に不釣り合いな頭脳は、それだけで異質さえ孕んでいた。
 だから新一は或る意味で、畏怖と驚異の対象でもあった。きっとそれは、父親が大阪府警本部長というキャリアの肩書きを持ち、西の名探偵と言われてきた自分より酷かった筈だと、服部は正確に理解していたし、だから彼等黒の組織は、新一を恐れてもいたのだろうと、理解していた。
 そして……。
 服部は内心、忌ま忌ましげに舌打ちする。
考えたくはない可能性が、此処にきて浮上してしまったようで、らしくなく無意識に身震いした。
「服部…?」
 不意に黙り込み、険しい顔つきに変化した服部の内心の機微を、新一は判る気がした。
柳眉の下に在る一対の双眸が、今はきつい光を帯びている。そのきつい光は、自分に向けられる事なく虚空を映し、睥睨している。それが新一には少しだけ哀しかった。そんな表情をさせてしまっているのだろう自分が、腹立たしかった。優しい恋人の想いが、胸に痛かった。まるで…抉られるようだった。新一は半瞬の間の後、母親譲りの瀟洒な面差しに、僅かばかりの憂懼を浮かべ、服部の名を呼んだ。
「アッ…ああ、行こか」
 きっと、険しい顔をしてしまったのだろう。
推理時無意識にしてしまう険しい表情やきつい眼差しは、幼馴染みの和葉にはえらく不興で、勝ち気な和葉にも怖がられる程の表情らしい。笑顔の印象が強い分だけ、薄布一枚引き捲った背後から、ガラリと別人の人格を現れるようで、服部を知る人間でその険しい貌を垣間見ると、余りの印象の違いに、驚愕する人間も少なくはなく、けれど当然、服部にその意識は皆無だった。大抵周囲の人間の様子から、自分のしてしまった表情を察するのが精々の所だ。今もそうだ。
 目線の下で、繊細な貌が、何処か心配そうに自分を見上げているのに、服部は笑みを浮かべて見せる。その笑みに、誤魔化されてほしいと、無駄な願いをしてしまう。
 らしくない狼狽は、けれど服部の仕草に現れて、白い細い手首を引き寄せる。
「アッ…オィ…ちょっ…」
 突然手首を引き寄せられ歩く恰好になった新一は、慌てて転びそうになる。
「なんや、危ないな」
 補正されているコンクリートの上で、躓き転びそうになった新一の、華奢な姿態を腕に抱き抱え、服部は大仰に溜め息を吐くと、
「誰の所為だよ、誰のッ!」
 完璧お前の所為だと、新一は掴まれた手首を振り払い、スタスタと歩き出す。
 細身だけれど、背筋の伸びた、一本芯の入ったかのような綺麗な歩き方は、やはり国際的名女優の母親の血筋なのだろうかと、半瞬だけ服部は考えた。こんな事は、言えば新一がむくれるから、決して口には出せないけれど。
「ちょぉ待ち、工藤」
 たった今、単独行動はなしやと言ったばかりやろうと、薄く細い背筋を視、後を追い出した時だった。
「や〜〜っぱり来てたんだ、二人とも」
 振り向けば、事件現場には不釣り合いな程、明るい笑顔でヤッホーと手をヒラヒラ振っている、佐藤美和子と、その隣で、苦笑を隠せず笑っている高木の姿が在った。
「昨日の件、何か判りましたか?」
 高木と佐藤の前まで歩いて来ると、新一は開口一番そう尋ねた。その口調は、もう習い性なのか反射なのか、感情の波を読ませない、淡々としたポーカーフェイスになっている。その変わり身の早さは天下一品、やはり大女優の母親の血筋だなと、服部は肩を竦めた。
 今の新一の横顔には、今の今まで見せていた、不安や焦燥は綺麗にオブラートされ、対外的な仮面を綺麗に被っている。それはペルソナではあるけれど、だからといって、新一の不安が消えたと思う程、服部は新一に関して安心する事も、楽観する事もできなかった。寧ろ、表情を消し去った後の方が心配だった。それが刑事達に見せる、心理的な手法だとしてもだ。
  昨日とは違う、新一の隠された不安や焦燥や言葉にできないナニか。ソレを垣間見てしまったから、服部は安心する事などできなかった。
 新一は、本当に痛み苦しい時、他人の助けを拒む傾向にある。潔い程、新一は自らを切り捨ててしまう事は珍しくはない。
 アノ幼子だった時、服部がゾッとする程、新一は自身を切り捨てる事に躊躇いを見せなかった。その為に、周囲がどれ程哀しむか、新一に感情は薄かった。感情そのものが、まるで欠落しているかのようでさえあって、服部を狼狽させたものだった。その新一が、自分を選んでくれた。その意味を、服部は間違えてはいなかった。
  ゴメンと、アノ夜、新一が都内のマンションに訪れた時のアノ衝動を、服部は今も鮮明に記憶している。だから新一の隣に在る以上。笑っている必要が在る事も、服部は正確に判っているつもりだった。
 恋人同志となった今。以前より手助けをさせてくれる事は多くなったし、自分の前でだけは、素直な感情や言葉を表わすようにもなった。それは何より替え難く嬉しいけれど、溺れて見落としてしまうわけにはいかなかった。
 身近に在る分、何をどう助けたらいいのか、服部自身、視えてきたものは随分と在る。事件でバッティングし推理しあってきた事も手伝って、大凡新一の推理の組み立ても、それらに付随する行動形式も、性格も理解できているから、新一が隠蔽してしまう不安や焦燥を敏感に感じる事ができる。
 新一が助けを必要している時を的確に判断し、助けられる位置を確保しておく。それだけは、恋人同志と言う関係に溺れても、服部にとっては忘れてはならない最優先事項だった。まして恬静とした安閑さに危機感を忘れ、新一を事件に近付けてしまうと言う愚を犯した今、決して忘れてはならない事だった。
「そっちはどう?何か判った事はある?」       
 新一の問いに、佐藤は笑う。
男性でもきつい一課の職務を、佐藤は女性でこなしている。
清涼な笑顔に活動的なスタイルは本庁から所轄まで、男女問わずのファンは多い。
「現場の細かい事は、昨日鑑識が調べてますからね」
 何もありませんよと、新一は抑揚ない声と表情で応え、薄い笑みを刻み付ける。
 昨日現場に居合わせた時は、事件の第一報が受理台に入って鑑識と機捜が現場入りして時間が経っていない時からの立ち会いをしていた二人だから、今更何を調べる必要はなかった。
 現実の事件はドラマのように、偶然事件に結び付くナニかが、発見される事などない。地道な捜査が、事件解決に結び付く。可能性を否定せず、疑わしい事実は徹底して捜査し、そうして捜査線上から不必要な部分を消去していく。そんな地道な捜査が、確実に真実に結び付くのだ。通常は……。
 勘を端緒に捜査を切り開く事はあったとしても、勘を全面に押し出した捜査は決して有り得ない。
そして勘は当て推量ではない経験則がなくては伴わない事を、服部も新一も心得ていた。そして犯行現場が被疑者の心理状態やナニか、足跡を残している事が多いから、現場捜査員の間では、現場百遍と言う言葉は今も根強く残されている。その言外の意味は、被疑者は犯行現場に戻ってくると言う事ではなく、捜査が進展するにつれ、視えなかった被疑者の足跡が視えてくると言う事だ。
「新聞読みました、事件認定されたんですね」
「エエ、殺人、及び死体遺棄でね。流石よね、二人とも。私はアノ遺体視た時、自然死だと思ったわ、良く判ったわよね」
「昨日お話ししたように、自然死にしては状況が可笑しかったですから」
「それがねぇ、私は可笑しいとは、思わなかったのよ」
 刑事失格ネと、佐藤は肩を竦めた。
「状況が、不自然に整い過ぎてたんや。雨の中、倒れていた。それも朝からや。ジョギング中の恰好をして、身元を証明するモンは何一つない。どう考えても、不自然やろ?それも小雨とはいえ、雨の中ジョギングするなら、タオルの一本も持ち合わせてるのが普通やろ?それが何一つない。綺麗すぎたんや」
 新一の隣で、頭半分背の高い服部が、やはり生真面目な声をして口を開く。
「それに、殺された被害者の年齢が、自然死にしては、若すぎましたから」
「そや、アノ若さだから、ジョギングが習慣化されてて、小雨だからってジョギングしてるのはおかしない。けどな、自然死するような病態抱えてるとはおもえへんし、アノ若さで病気抱えてたら、ジョギングなんぞ酔興な事はせぇへん。それだけでも、不自然の極みやったんや」 
「そうか、参ったわね。君達の洞察力には、脱帽だわ。迷宮なしの名探偵って、言われる筈よね」
「でも、財布やなにか、倒れている被害者から、抜き取ったっていう可能性は、考えなかったのかい?」
 佐藤の横で、今まで黙ってたいた高木が疑問を口にする。
「その可能性も、ある。昨日言いました。ただし、今も言ったように、雨の中ジョギングするなら、当然タオルの一本は持ってる筈です。それがなかった。物取りが、タオルまで盗っていくのは、不自然でしょう?」
「そうか……にしても、二人とも凄いね」
 アノ一瞬で、其処まで推理できるものなのかと、今まで何度か眼にしてきた工藤の推理力に加え、西の名探偵の洞察力も、決して噂が先行したものではないのだと、高木も佐藤も関心するし、少年から青年の入り口に立ったばかりの二人の推理力に、驚愕する。
「それで、毒物の特定は?出たんですか?」
 その時だけ、新一の声が緊張していたように聞こえたのは、きっと服部の気の所為ではなかったのだろう。
 服部は、横目で新一の淡々装った横顔を凝視している。
「残念ながらね。中毒死の判定はできたんだけど、特定ってなるとね、難しいのよ。毒って一口に言っても、中々ね」
「でも、毒物やっちゅうのは、判定できたんやな?」
「エエ、それはね」
 服部の、奇妙に真剣な眼をした、確認の意味のこもった声に、佐藤と高木は互いに顔を見合わせ、不思議そうにして見せる。「監察医務院だけじゃ手が回らないから、ウチの7階に、生体資料持ち込んで分析してるから、時間はかからない筈よ」
 地下4階、地上18階の白亜の建物の7階には、科学捜査研究所である科捜研が設置されている。科捜研は、刑事部の近くに設置され、鑑識と共に、捜査に必要な諸々を鑑定している。捜査一課は、警視庁6階に位置し、迷宮事件を扱う一課2係のみ、5階に設置されている。
「そうですか…」
 長い吐息を吐くように、新一が頷いた。
「っで、身元は判ったんか?」
「名前は、丸山芳樹19歳、渋谷界隈の不良少年構成員の一人。実家は港区で、父親は商社の専務で、母親は専業主婦。本人は大学浪人して、そのままドロップアウト。今時の典型的なパターンね。それで実家にはよりつかず、現在は杉並のアパートで一人暮らし」
「その丸山は、此処最近、なんぞトラブルはなかったんか?」
「捜査中よ。やっと身元が判ったんだもの」
「例えば、何処かの暴力団や、その関係傘下とか」
「暴力団?ちょっと、どうして其処まで話しが飛躍するわけ?」
 新一と服部の台詞に、佐藤も高木も眼を点にする。二人の推理の展開に、ついていってはいなかった。
「あたんら、気付かなへんのか?さっきから何遍も言ってるやろ?」
「気になるのは、次の3点」
 新一が、右手をスッと上げ、細い指先を三本綺麗に立て、淡如な響きで言葉を繋いだ。
 繊細な指先だと、綺麗に立てられた指を視、服部は思う。
細く長い指は、自分の掌中と比べれば、寧ろ女性的な白く瀟洒な指先をしている。情事の最中、怺える術のない愉悦の中、自分の背に爪を立て、朱線を描いていく指だと思い出す。
 指先から、視線を持ち上げれば、繊細な横顔に嵌められた一対の双瞳が怜悧に瞬いてる。
 色素の薄い薄茶の眼差しが、こんな時は、不思議と怜悧な蒼みを浮かべて陽に透けて見えるから不思議だった。推理時の新一の瞳は、抑揚を失っている所為か、色素そのものが変質して視える視覚の錯覚を齎す。
 真実を映す鏡のような双眸だと、誰かが言ったのを聞いた事がある。新一の眼差しは、まっすぐソコに在る真実を綺麗に映し出す。隠蔽されている事実を淡如に指摘するのだ。そんな時の新一の眼差しの深さは、何処得体の知れない不思議な色をしているように服部には視えるのだ。否、感じるといった方が正しいのかもしれない、肌身に触れる感触に近い。まるで研ぎ澄まされた月の冴える蒼闇を映し出す、凪いだ湖面のような明鏡止水さだ。深い夜の色とも、淡い月の光にも視える。けれど実際覗き込んでみれば、色素の薄い茶の眼差しが在るだけなのだ。
「一つは、被疑者が中毒死であると言う事。通常毒殺は計画殺人。相手に殺人の意図を見抜かれない事を前提にしている。解剖時、簡単に割り出しのできない毒物を使用している。シアン化化合物なら、ある意味ポピュラーな毒物だから、医務員でも時間はかからず鑑定できる。二つめは、死体が無造作に遺棄されている点。通常死体遺棄は、殺人を発覚させない為のもので、大抵郊外に遺棄する。殺人事件はあくまで死体のある事件だからです。死体が発見されなければ、殺人事件にはならない。特異家出人扱いか、失踪事件です。此処の住人、ホームレスの人達は、朝に死体がある事に気付いた。と言う事は、夜中に運ばれ、遺棄さされた事になる。其処から出される死亡推定時刻は、多分一昨日零時前後でしょう。公園内は夜中は立入り禁止になっている。目撃者の可能性は低い。被疑者はソレを狙ったんでしょう。手際良く運んで遺棄していった、複数の計画的犯行」
「複数犯?」
「それも冷静にね」
 新一は、視線を死体発見現場に向け、そして再び佐藤と高木を視た。
「判りませんか?」
 確認するような声だった。響きだった。瞬きを忘れたまろい一対の瞳が、佐藤と高木を静かに直視している。
「しゃぁないなぁ。何遍も言ってるやろ?死体ちゅぅのは恐ろしく重いんや。その死体を手際よく深夜の公園内に遺棄するのに必要なのは、人手や。そして目撃者の少ない深夜の公園を選んでいる事自体、冷静な判断を下している証拠や。そして三つめは、相手がプロだっちゅうこっちゃ」
「プロ?」
 服部の台詞に、佐藤は綺麗な貌を攅眉する。
「身元を証明するものを一切綺麗に取り上げている。素人は此処まで綺麗に痕跡は消せないもんや。それがアノ遺体からは、綺麗に身元を証明する痕跡が消えてたさかいな。特定困難な毒物入手ルート自体、素人には無理や。計画殺人なんちゅうのはな、冷静な判断を下せる事が前提や。理性的な殺人事件なんや。そないな事はな、ドラマの中じゃなきゃ、プロの可能性が高いっちゅうこっちゃ」
 長い台詞を終え、服部は深々息を吐き出すと、
「案外この事件、根ぇ深いで」
 飄々とした印象とは裏腹の、怖い程真摯な声が、黒々瞬く眼差しが、まっすぐ佐藤と高木に向かって放たれていた。その眼差しの真摯さと冷静な推理に、佐藤と高木は息を飲む。



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