閉ざされた

  

SCENE2:解離する魂













 車内の異様な光景に呼ばれた駅員が見たものは、遠巻きにする乗客の中。ポツンと床の上に崩れて
いる幼い少年の姿だった。
 ボタンが引き千切れ、着るというより、纏うという表現が似つかわしい半袖の白いシャツ。黒いハーフ
パンツから伸びる、白い下肢に細く伝わる鮮血。
 一目みただけで、少年の身の上に起きた災厄が、駅員には理解できた。それは駅員だけではなく、リ
ョーマを遠巻きに見ている乗客にも、判ったことだろう。だからこそ、どうしていいか判らず、遠巻きにして
いるのだ。当たらず触らず、まるで面白い見せ物でもみつけたかのように、ただ見ている。尤も、こんな
状況に出くわした時。誰もがどう対処したらいいのか、判らないのが現実で、見ているしかできないもの
だろう。だから彼等は、遠巻きにリョーマを見ている。新聞に隠した視界の端から、俯いた視線で。
「君……」  
 駅員はどう声を掛けていいか判らず、半瞬困惑した後、ただ刺激しないよう、薄い肩を軽く揺さぶった。駅員の手が触れた瞬間。華奢な姿態が、反射的に強張るのが判った。
 駅員にも、警察や各方面から指導されての、車内の痴漢防止対策マニュアルは徹底されている。
警察だけではなく、駅員が車内や構内を見回るのは、ただ交替の為というだけではなく、犯罪の防止
の意味も含まれていた。そして万が一にも犯罪を見つけたら、すみやかに報告する。そのマニュアルが
指導されているから、駅員には、痴漢に対しての一通りの知識は持たされていた。けれど未々痴漢と
いう犯罪行為に甘い国柄からか、少年が性犯罪の被害者になる事実は、受け入れられることは少ない。
 まして少年が性犯罪に巻き込まれた場合。女性の強姦罪等の刑法犯罪とは枠組みが別扱いされ、
司法の定義は、それを傷害罪に位置づけている。そんな事実からも、少年が性犯罪に巻き込まれる可
能性を否定している側面が窺える。
 だからこの駅員も、すぐにはリョーマが車内で痴漢以上の行為を強いられた事実に、少なからずパニ
ックに陥っていた。けれど熟読必須と言われた指導マニュアルを思い出し、内心のパニックとは裏腹に、冷静さを装うことに成功していたから、駅員は内心深呼吸すると、慄えるしかできないでいるリョーマ
に声を掛け、肩を揺すり、引き起こそうとした。
 駅員に声を掛けられたリョーマは、掛けられた声に当然反応できる筈もなく、光の抜け落ちた瞳を虚
空に彷徨わせたまま、呆然自失状態に陥っている。その姿は、長い年月、不必要になって朽ち棄てら
れた人形と変わりない程、力ないものだった。
「駅員室に……」
 幾重かの路線が出入りする分岐点の駅の発車時間は、オーバーしていた。後続との時間調整も必要
になってくる。都心の人間の足となる電車の遅れは、たとえ1分でも疎かにはできない。1分の遅れが、都内に及ぼす影響は大きい。どれだけの人間の数の乱れを生むか、判らないからだ。尤も、幸いして
いたのは、これが朝のラッシュではなく、夕刻の帰宅時間のラッシュだということだろう。
「ヒッ…」
 崩れる躯を静かに引き起こされた時。駅員の手が薄い肩に触れた時。虚ろに彷徨う眼差しに、サッと
恐怖の色が瞬時に塗り込められた。掠れた細い声が恐怖を現し、発せられる。そして次には華奢な躯
を、ガタガタ小刻みに慄わせる。崩れているしかできなかったリョーマは、駅員に触れられ、尚慄えが酷
くなった。けれどガタガタと慄えるばかりで、言葉になるものは、血の気のうせた口唇から、一切漏れて
はこない。それが尚いっそう、リョーマの身の上に起きた惨状の痛ましさを、誰の前にも曝け出して行く。
 幾許かの好奇心と興味と憐れみとが混ざり合う視線。珍しい見せ物でも見つけたかのように眺めてい
る人間達ですら、いつ巻き込まれるか判らない犯罪の恐ろしさ。誰もが『自分だけは大丈夫』などという
絶対的根拠はないのだと、リョーマの姿は物語っているようでもあった。
 慄えるばかりのリョーマの薄い肩を抱き起こすと、尚ひどくなる慄えに、駅員は困惑する。けれど乗客
の前でパニックになる低いプロ意識を持ってはいなかった。
 取りあえず、事情を聴くにも警察に事件として届けるにも、自分個人の判断はできないと、駅員はリョ
ーマを静かに引き起こす。
 駅員に支えられ、けれどリョーマは弱々しい抗いにもならない抗いをして、けれど到底力の入らない躯
で何一つ自由になるものはなかった。
 事態を聞き駆け付けてきた他の駅員に両脇を支えられ、リョーマは車内を後にする。
 リョーマが駅員に支えられ車内を出て行った時。乗客の口から、無自覚だろう、安堵の吐息が流れ、
知らず緊張していた車内の空気が弛緩した。程なくして、ホームに聞き慣れた発車の音楽が流れ、電
車は何事もなかったかのように、次の駅に向かい、滑り出した。











「越前の奴、待ってろって言ったのに」
 リョーマに送ったメールを守る律義さで、桃城が待ち合わせのホームに辿り着いたのは、約束の待ち
合わせ時間を5分過ぎた時だった。その時には既にリョーマを襲った電車は4分の遅れで発車していた
から、桃城がリョーマの身の上に起きた事件を知ることは未だなかった。
「ったく、しょうがねぇ奴」
 無造作に制服のズボンのポケットに突っ込んでいる携帯を取り出しても、リョーマからのメールは届い
てはいない。
 待ち合わせに5分遅れるというメールに、リョーマが律義に返信などしない性格だと知っているから、
桃城は携帯の画面を眺め、ホームにリョーマの姿を探した。
 けれどホームの何処にも、リョーマの姿はない。青春台駅へと続くこの駅は、他の路線も出入りしてい
る分岐点の駅にもなっているから、この時間、帰宅途中のラッシュアワーに巻き込まれるのは判りきっ
ていた。
 ホームは人混みで溢れ、華奢な姿は周囲に隠されてしまう可能性もある。リョーマは無自覚に、人混
みに紛れるのが巧い。気配を消すという方が幾重か正しいその無自覚さは、リョーマの意識の外で起こ
る。どれ程の人混みに居ても、冷ややかな熱を灯す、切っ先のような双眸が印象的だというのに、テニ
スから離れた部分では、リョーマは容易に人混みに紛れてしまう。 別段アメリカでそんな生活を強いら
れていたとは到底思えないが、リョーマは気配を消すのが巧い。どれ程の人混みに紛れていても、探し
出す自信が桃城には有るが、それはリョーマが見つけてほしいと思う時でないと、中々キャッチしにくい
気配だというのもまた事実だった。
 これがテニスに関連していれば、容易なのだから尚始末に悪いと桃城は苦笑する。
テニスをしていれば、テニスに関連してさえいれば、リョーマの気配は切っ先のように鋭くなる。まるで
削り出されて行く真冬の月のように、冷ややかで透明度を増していくその切っ先は、此処最近鋭くなる
ばかりだ。それが時折、桃城にはどうにもならない、リョーマの内側に潜む疵のように思えて仕方ない
時が有る。
 意思を無視して与えられてしまったその天の才が、逆にリョーマを傷付けていると思えてしまうその感
傷が、自分の一体何処から生み出されてくるのか、桃城には判らなかった。
「それにしても、居ねぇな…」
 人混みに紛れているにしろ、待ち合わせはリョーマの乗って来る電車の、最後尾で降りたホームでの
待ち合わせだったから、幾ら混雑しているといっても、いい加減見つけ出せていい筈だった。幾ら気配を
無自覚に絶ってしまうリョーマでも、限定されている待ち合わせ場所で、桃城に見つからないようにする
ことの方が、遥かに難しいのだと知っているからだ。
 気配という、眼に見えない波動のようなものを、逆に桃城は探り出すのが巧かった。それは他人との
距離感が独特な桃城だからこそ、逆に有利に働く点も有る。そして意図的に気配を消すという点では、
リョーマが桃城に適うことはない。それは二人の間では、実証されてしまった事実でしかないからだ。
「まったく、あいつ性懲りもなく、また隠れんぼか」
 以前、二人でこうして待ち合わせをした時。リョーマが仕掛けた悪戯は、桃城に簡単に見透かされ、あ
っさり隠れている姿を見つけ出された。その時桃城は、リョーマが隠れているとはまったく気付かない程
自然に、リョーマの姿を捕らえていたから、尚リョーマの機嫌は悪化した。
 元々判っている待ち合わせに遅れるメールに、返信する程、リョーマの性格は律義ではなかった。
待っていれば、迎えに来る桃城を判っている以上、リョーマが返信する筈がないのを、メールを送った桃
城自身が、一番良く判っている。
「まぁそれでも珍しく、色々メールしてきた方だな」
 気分が乗らなければ、メールなど送ってこないリョーマが、旅行中、かなりの頻度で送ってきたメール
は、離れて寂しいという感傷的な部分より、慣れない団体行動で、疲れていたからだろうと、判らない桃
城ではなかった。 
 『飽きた』『疲れた』『テニスしたい』『帰ったら、テニスして』そんな簡単なメールを送ってきた。携帯とい
うものを、余り使用したがらないリョーマにしてみれば、それは晴天の霹靂に近いだろう。
 携帯が世界の全てになってしまっている子供が多い中、リョーマは珍しい程携帯を活用しない。それ
こそ本当に、気が向かなければ、メールも打たない。いつでも繋がる安易さが、逆にリョーマには恐ろし
い部分を孕んでいるものだと、桃城は知っていた。そして桃城自身。余り携帯を活用しているとは言い
難い生活を送っている。
 巧く道具として使用している間は便利な代物だろうが、道具に精神を浸食され、支配されてしまってい
るようでは終わりだと、二人とも判っているからだ。誰かと常に繋がっていないと不安に駆られるという、
強迫神経症じみた不安など、生憎二人は持ち合わせていなかった。
 けれどそんなリョーマは、桃城が迎えに来ると判っていて、5分程度の遅れが許せず帰ってしまう程、
身勝手な性格をしてもいなかったから、リョーマの姿が見えない事実に、桃城は一抹の不安を覚えた。
 リョーマ自身が電車に乗り遅れたとか、そんな類いなら問題はない。けれど逆にリョーマがそんな時、
連絡してこない方が余程少ないと、桃城は判っている。
 メールの返信をしないリョーマも、桃城が自分に対して過保護だという自覚は有り余っているから、桃
城を敢えて心配させるような行動をとることはない。だから桃城は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。
「乗り遅れたって言うだけなら、問題ないんだけどな」
 独語が口を付くのは、不安を紛らせようとする心理が働くからなのかもしれない。
帰宅ラッシュの夕刻だ。ラッシュ経験の殆どないリョーマが、電車の1本2本乗り遅れているなら心配は
しない。けれど逆にそんな時。リョーマが連絡してこない方が可笑しいと、桃城の何処かが、不安に駆
られていく。
 桃城は手にした携帯の短縮ボタンを押すと、それはすぐに繋がった。
 短縮No1『越前リョーマ』
ディスプレイの中に映った名前。繋がった筈の回線は、けれど桃城が思ってもみなかった、リョーマでは
ない男の声を引き出し、弛緩した神経は瞬時に緊張し、手の中の小さい通信手段の向こうから告げら
れた科白に、桃城は顔色を変え、走り出した。 既に時間は夕刻から夜の闇に沈み込み、周囲は益々
混雑を極めていた。

















「越前ッッ!」
 分岐点となる駅だけに、その駅員事務所は、通常の駅員室より広いのだろう。待ち合わせホームの
階段を下った改札付近に、駅員事務室は有った。
 桃城は顔色を変え走り、駅員事務室の扉を駆け込む威勢で開いた。途中何度か人にぶつかった気も
するが、謝罪している暇も余裕も、今の桃城には一番遠いものだった。
「越前ッ!」
 駆け込んだ駅員事務室の室内は、空気が緊張しているのが、桃城の肌身にも感じ取れた。重い扉を
開き駆け込んできた桃城に、室内の視線が一挙に集中する。
「君が、桃城君だね」
 駅員室の奥。リョーマに付き添っていた年配の駅員が、威勢良く開かれた扉に視線を移し、ゆっくり桃
城の前まで歩いて来ると、荒々しく肩で息をしている桃城に、穏やかに声を掛けた。 桃城に声を掛け
た駅員は、桃城からリョーマに掛けた電話を受け、事情を告げた人間だった。
 リョーマが駅員事務室に保護されてきた時。リョーマが握り締めて離さない携帯が鳴った。けれどリョ
ーマは携帯の音にもまったく反応せず、駅員はリョーマの手から携帯を離すと、リョーマの代わりに携帯
に出たのだ。
 携帯の音にも反応できない程、感覚が麻痺してしまっているリョーマから、氏名や住所を聴取できる
筈もない。だとしたら、掛かってきた相手を見定め、事情を話し、迎えにきてもらう必要が有った。
 小さいボストンバックを持っている所を見れば、中には身元を示すものの一つもあるのかもしれない。
とはいえ、勝手にそんな真似はできない。だとしたら、その場で警察に届ける必要も出てくる。少年の
身に起きた事態を警察に届ける事は簡単だ。けれど本人や周囲の意思を無視して、それはできないよ
うに思われたから、好好爺とした年配の駅員は、リョーマの携帯に出て、桃城に掻い摘まんでの事情を
説明していた。当然其処に、無責任な行動は一切ない。
「どう言っていいのか、ちょっと事情が事情でね」
 何処か好好爺とした年配の駅員は駅長なのか、緊張する桃城の神経をほぐすように声を掛けると、駅
員事務室の奥へと促していく。
 長年人と接する駅員の仕事をしている駅長だ。リョーマに掛かってきた携帯に出た時。桃城が話して
信用にたる人間かどうかの判断は、できたのだろう。そして桃城は、駅長に事態を告げられ、此処に駆
け込んできた。 
 好好爺とした穏やかさは、付け焼き刃で身に付けられるものではないだろう。そこには人の神経を解
きほぐす術を知る人間独特の気配と配慮が感じられた。桃城は深呼吸すると、促され、駅長の後を歩い
て行く。
 室内の空気は緊張し、桃城の歩調に合わせ周囲の視線は付いて回るが、そこには興味本意や好奇
心というものは感じれない。それはこの好好爺とした駅長が治める場所でもある。そういうことなのかも
しれない。






「越前…」 
 駅長に促され、駅員室の奥へと視線を向けた時。桃城の視線の先には、今にも崩れてしまいそうな
力のない不安定さで、椅子に腰掛けているリョーマの姿が映った。その姿は、桃城が初めて眼にする、
薄く細い不安定な状態を刻み付けている、華奢で脆弱な生き物だった。
 深く俯き、長い前髪で隠されている表情は、桃城の位置からは見えない。けれどその白皙の貌と口
唇が、血の気を失っているのは、桃城の眼球に嫌に鮮明に飛び込んできた。
 弱々しいなどという表現は、きっと優しすぎるものだろう。今のリョーマから感じられるものは、痛々しさ
ばかりだ。
 無自覚に慄えているのだろう、小刻みに慄える躯を、細い両腕で抱き締め、必死に何かを保っている。その姿が、尚いっそうの痛ましさを刻み付けている。
「越前……」
 自分が来たことにも、反応一つできないリョーマの状態に、桃城はそっとリョーマの前で膝を折ると、
長い前髪に隠されている目線を合わせるように、下から仰いで覗き込んだ。瞬間、端整な面差しは歪に
歪み、苦悩が滲んだ。
「越前…もう、大丈夫だから…」
 リョーマは、桃城の視線も判らず、慄える小さい小さい声で、何かを呟き続けている。その声を聞いた
時。桃城は壊れ物を扱う慎重さで、腕を伸ばした。
「…桃先輩…桃先輩…桃先輩…桃先輩…桃先輩……」
 きっと呟いている自覚など、リョーマには欠片もないのだろう。呼び掛けてさえ、リョーマは桃城に反応
一つ示さない。下から覗き込めば、色素の薄い綺麗な蒼眸が今は虚ろに彷徨い、その瞳には、何も映
してしないのが判る。
 リョーマを何より綺麗に見せる、彼そのものを構成する要素の中。尤も綺麗にそのカタチと有り様を顕
す双眸が、今は虚ろに翳っている。感情を綺麗に殺ぎ落した貌など、桃城は見たことがない。
 今のリョーマは生気を失い、朽ち棄てられ人形のようだった。きっとマネキンの方が、幾重も気配を伝
えてくるだろう。
 リョーマの瞳から、意思が一瞬でも途切れる時、それは互いに番い、絶頂に彷徨う時だけだ。そんな
時のリョーマは、淫蕩の淵に漬かり込んだ、忘我を彷徨う眼をしている。けれどそれはこんな風に、リョ
ーマから意思や何か、大事なものを全て奪い盗ってしまうようなものではなかった。
 慄える躯に腕を伸ばし、桃城の腹が瞬時に煮えた。リョーマをこんな状態に貶めた人間。大切に、大
切にしたきた存在を、無残に壊され、理性的でいられる人間は居ないだろう。けれどそれ以上に、目の
前で慄えるリョーマが痛々しく、桃城は堪らず、華奢な躯を抱き締めた。
 今自分がリョーマの為に何を一番したらいいのか、状況判断できず、怒りに塗れてしまう程、桃城は
ガキではなかった。覗き込むように下からリョーマを見上げ、両腕で抱き締める。
「越前、大丈夫だ。大丈夫だから」
 ボタンが引き千切れている白いシャツ。黒いハーフパンツから伸びる白い下肢に伝わる細い鮮血は、
渇いてこびりついている。
 後数日で衣替えになる初夏の季節、未だ着用を義務づけられている学ランの上着を脱ぐと、華奢な躯
には一回り以上大きいソレを羽織らせ、桃城は慄える躯を抱き締めた。
 桃城が細い姿態を抱き締めた時。桃城の腕の中で、薄い躯がビクンと跳ねる。
「あっ………」
 生気を失い、表情さえ綺麗に消し去ってしまった俯いた貌が、桃城に抱き締められた瞬間。生々しい
恐怖を張り付かせ、弾かれたように跳ね上がる。
「越前」
 抱き締めて尚、止まらない慄え。一体どれ程怖かっただろうか思えば、桃城の胸が軋んでいく。
 部活など優先させず、羽田までリョーマを迎えに行けばよかったと、桃城の胸に後悔が襲い掛かる。
「やっ……」
 桃城に抱き締められても、リョーマの慄えは一向に止まらない。ばかりか、慄えは酷くなる一方だ。
「越前…大丈夫だから」
 生気を失った貌に、はっきり浮かぶ恐怖の怯え。桃城は柔らかく抱き締めると、いつもするように髪を
梳いた。瞬間、リョーマの口唇は、甲高い悲鳴を迸らせていた。
「桃先輩……!」
「越前」
 逃れようとする躯。相反し、おさまらない慄え。不均衡になっていくばかりのリョーマの精神状態が、
露呈されていくかのようだった。
「桃先輩…桃先輩…助けて…助けて…助けて…!」
 凌辱されていた時間。塞がれていた悲鳴が今絶叫となり、リョーマの口から放たれて行くかのようだ
った。掠れた悲鳴が、駅員事務室に響いて行く。
 事態を見守っていた駅員達に、ざわめきが走る。そんな駅員達を窘め、各々の仕事に着手するよう適
格に指示を出す先刻の駅長は、ただ静かに、リョーマと桃城の成り行きを見ている。 それはきっと彼
自身。長い駅員生活で、こんな事態に遭遇したことがあるのだろうと思わせる冷静さだった。好好爺とし
た中身だけでは、駅員を纏め、乗客の安全を守るなど、できはしないのだから。
「越前…!」
 怯えしか映さない綺麗な貌は、桃城の姿さえ認識できず、ただ逃れようと華奢な姿態が抗っている。
それが桃城には哀しかった。自分の姿を認識されない独占欲じみた哀しみではなく、恐怖の淵に彷徨
うリョーマの姿が、桃城には胸が捩れる程、哀しかった。
「大丈夫だから。俺だから」
 必死に抗う躯を柔らかく抱き締め、桃城は賢明に声を掛ける。けれどリョーマに、その声が届くことは
ない。
「桃先輩…ッ!」
 甲高い慟哭に近い悲鳴が、桃城の聴覚に突き刺さる。
きっとリョーマは、呼んでいたのだ。声にならない悲鳴を上げ、賢明に自分を呼んでいたのだと思えば、
呑気にテニスをしていた自分に、桃城は腹が煮えた。


『言いにくいのですが、どうやら暴行を受けたようで…』


 リョーマに掛けた電話に出た見知らぬ男の声は、桃城に手早くそう説明していた。言われた科白が、
瞬間には理解できなかった桃城も、リョーマが受けた暴行の意味を、瞬時に読み取った。そして訪れた
この場所で、桃城が外れてほしいと思った悪い予感は現実のものになり、どうにもならない後悔を刻み
付けて行く。
 車内での暴行。それも殴る蹴るされ、外表所見的な頭部外傷や身体外相であれば、リョーマは駅員
事務室に保護されることはなかっただろう。それこそ救急車で病院搬送されている筈で、だとしたら、駅
員事務室に保護されているという電話から告げられた言葉から連想されるものは、桃城には一つしか
なかった。そしてそれは、外れてほしいと思う願いを無視して、リョーマは今腕の中、桃城の認識さえで
きず、怯えた悲鳴を繰り返している。
「越前……」
 どうしたら、宥めてやれるだろうか?どうしたら、恐怖の中に取り残されてしまったリョーマを、少しでも
楽にしてやれるだうか?どうしたら、リョーマを救えるだろうか?
 腕の中で怯えながら抵抗し、悲鳴を繰り返しいるリョーマを抱き締め、桃城は『大丈夫だ』と繰り返すし
かできないでいた。その無力さに、無自覚に口唇を噛み締める。口内に鉄の匂いが広がりはしたが、そ
んなものは、リョーマが受けた恐怖と痛みに比べれば、疵などではないだろう。
「桃先輩……助けて…助けて…助けて……桃先輩……」
「越前……」
「桃先輩……桃…先…輩………」
 叫びが細くなった途端。リョーマの意識は現実から逃れるように喪失した。
 ガクリと、桃城の腕に急速に重みが掛かる。崩れ落ちるという表現が適格だろう状態で、リョーマは桃
城の腕の中で意識を喪失させた。
「越前………」
 崩れ落ちた姿態を抱き締め、桃城は乱れた黒髪を梳いてやる。長い前髪を梳けば、憔悴してしまった
リョーマの白皙の貌が現れる。
 どれだけの時間。リョーマが恐怖に曝されていたのか、桃城には知る術もない。それでも、どれ程恐
怖だったのかは、嫌でも判る。
 血に濡れた慟哭と変わらぬ悲鳴。助けを呼ぶ声。繰り返される名前。白皙の貌は一切の血の気を失
い、憔悴が露になっている。
「この子の親御さんに、連絡してもらえるかな?」
 事態を見守っていた駅長が、其処で始めて桃城に声を掛けた。リョーマを抱き締めている桃城は、其
処で初めて、此処が駅員事務室だと思い出す。
「……判りました」
 酷く痩せてしまった印象を受ける華奢な躯を抱き締めたまま、桃城は憔悴した様子で、無造作にズボ
ンの中に押し込んでいた携帯を取り出した。
















 都会の象徴のような光の洪水が、沈黙する暗い車内に映る。昼間は雑踏ばかりでゴミゴミした印象し
か受けない都会も、夜は眠りを知らない不夜城が、人工の美しさを装飾する。その綺麗な光景の中。
リョーマを傷つけた人間達が居るのだと思えば、桃城には、綺麗なものなど何一つない気がした。
 明確な悪意の標的としてではなく、ただ自らの欲望の捌け口に、幼い躯を弄んだ男達は、これから先。リョーマがどれ程残酷な道を歩くのか、考えもしないのだろう。ただ一時の享楽に、小動物を狩る肉
食獣と変わりなく、リョーマを凌辱していった。その汚辱に、これから先。リョーマが味わう思いなど、何一つ知らないのだろうと思えば、桃城の内部に湧くのは、昏い火だ。 意識を喪失させてさえ、リョーマは未だ無自覚に慄えている。どれ程の恐怖がリョーマを襲ったのか、桃城にさえ判らない。
 綺麗に装飾された都会の光景。けれど行き交う雑踏の群れに、人を傷つける悪意があるのだとしたら、それは化け物の腹の中と変わりない。化け物を生み出す化け物の腹の中。延々と咀嚼と嚥下を繰り
返していくのは、病んだ社会の縮図なのかもしれない。


『君も、辛いけれどね』


 南次郎を待つ間。意識を喪失させたリョーマを抱き抱え、桃城自身、自覚のない焦燥を刻み付けてい
たのだろう。そんな桃城に差し出されたのは、香ばしい珈琲の香りだった。
 飾り一つない、紙コップに注がれた珈琲だった。差し出してくれたのは、駅長だった。こんなものしか
なくてね。そう言って差し出してくれた珈琲が、ささくれ立つ桃城の神経を、解きほぐしていった。こんな
ものでも、ないよりはいい時も多くてね。そう笑った駅長は、どれ程の年数、駅員という仕事を経てきた
のか、当然桃城に判るものはなかったが、重ねてきた年数の重さは、桃城にも感じ取れるものだった。
 あんなに必死に、呼ぶんだからね。
保護されてきたリョーマに付き添っていたのは、駅長だった。無自覚に慄える躯を、細い腕で庇うように
抱き締めていたリョーマが、延々繰り返すように呼び続けていた名前を、聴いていたのも駅長だった。
だからリョーマにとって、桃城という存在が、どんな形であれ救いなのだということは、判っていたのだろ
う。
 私が何か言える事は、ないんだけれどね。
好好爺とした中にも、ただ優しいばかりではない厳しさを持っているのだと判る、齢を重ねた笑み。駅員
と言う仕事がらか、リョーマのように抵抗の予知を一切奪われ、疵つけられた者を、それなりに見てきた
のかもしれない。そう思える笑みと、厳しさと、優しさだった。
 灼け付く思いで南次郎を待っていた桃城の神経を解きほぐしたのは、間違いなくあの駅長だった。余
計な言葉は一切挟まず、好奇心も興味本意なものなど滲ませもせず。ただ珈琲を差し出してくれた手。
 リョーマを保護してくれたのがあの駅長でよかったと、桃城は好好爺とした駅長を思い出す。
 南次郎はハンドルを握りながら、ミラー越しに後部座席を凝視し、憔悴した長い溜め息を、吐き出した。
 リョーマは、桃城の学ランを無自覚なのだろう握り締め、意識を喪失させたまま、慄えている。
 南次郎が桃城から連絡を受けた時。その事実に、最初は何を言われているのか判らなかった。けれ
ど桃城がそんなタチの悪すぎる冗談を言う筈もなく、言語中枢が言葉を認識した時。南次郎は車のキー
を握り締め家を飛び出し、告げられた駅に車を走らせていた。そして訪れた駅員事務室で見たのは、桃
城の腕の中。意識を喪失させたまま慄える痛々しい息子の姿だった。 帰宅ラッシュで、都心に向かう
交通量より、都心から外部へ出る交通で、駅に駆け付ける時は大した時間もかからなかった。けれど今
は完全に帰宅ラッシュの交通量に巻き込まれ、車両は焦れる速度しか進まない。重苦しい沈黙が、車
内に落ちている。
「………病院に、連れて行くんですか?」
 帰宅ラッシュの渋滞に引っ掛かった車内。桃城が南次郎に声を掛けた。リョーマは、意識を喪失させ
たにも関わらず、時折小刻みに慄え、譫言のように桃城の名を繰り返している。そんなリョーマに、桃城
と南次郎がしてやれる事は、何一つなかった。その無力さに、桃城は薄い躯を抱き締める。
「お前は、どうしたい?」
 ミラー越しに桃城を凝視する眼差しは、相変わらず飄々として底が見えない。けれど普段の明るいも
のはなりを潜め、淡々としている分だけ、それは南次郎が本質的に持っている、刃や牙を桃城に垣間
見せている。
「…できれば………」
 連れて行きたくはないと、躊躇いが口を重くさせる。
連れていけば、より深い見えない疵を曝すようなものだ。そして先刻のリョーマの怯えた状態を、更に悪
化させるだけだろう。
「俺も、賛成だな」
 南次郎が駅員事務室に着いた時。事情を話され、そして次に話された事は、今回の事件を、事件とし
て、警察に被害届を出すかというものだった。
 南次郎は、警察に届ける気はなかった。届けた所で、リョーマが報われるものなど、何一つないだろう
と思えたからだ。その時にも駅長は、余分な言葉は一切挟まなかった。それは当事者ではない自分が、口を出す領域ではないと、きちんと認識しているからだ。
 デリケートな性格を持つ性犯罪の中。被害者が警察に被害届を出すのを躊躇う理由は幾重か存在す
るが、被害者が被害者として扱われにくいというものの割合が大きいことを、南次郎も桃城も知っていた。 
 二次被害という形で、被害者は捜査の第一次機関である警察に、更に手酷い疵を負わされるケース
が少なくはない。まして裁判になどなれば、相手の弁護士により、更に疵を広げられて行く。そんな司
法制度の中。被害者が救われ、報われ、まして癒されることなど、有りはしないだろう。だから南次郎と
桃城の二人は、警察に届けを出すことはしなかった。
「疵は、お前が診るしかねぇな」
 南次郎は長い溜め息を吐き出し、ミラー越しに、桃城を凝視する。その視線を受け、桃城の腕が、リョ
ーマの髪を梳いた。その時見せた桃城の、大人びた苦笑とも自嘲とも取れる曖昧なのものに、南次郎
も苦い笑みを漏らした。
 父親である自分が、息子であるリョーマの状態を診ることは、困難だろうと南次郎には思えた。
 幼い時分ならまだしも、中学生になったリョーマが、父親である南次郎に、疵を見せてくれるとは思え
ない。尤も、桃城には更に見せたくはないものだろう。見知らぬ男達に、強引に開かれた肉体を、リョー
マが桃城に曝すことなどできる筈もない。告げた科白が、どれだけ桃城には残酷な事か、南次郎はよく
判っていた。
「……そうですね…」
 南次郎の科白に、桃城は何とも言えない表情を作った。
「病院に、連れてっても、いいんだぞ」
 息子のことだと言うのに、南次郎はその判断を桃城に任せている。その鷹揚さに、桃城が適わないと
思うのは、いつものことだった。
「俺の、権利、ですから」
 リョーマの疵を見るのは、責任や義務だというより、桃城にとって近しい表現は、権利という類いのも
のだった。それはその内心を間違えることなく映すものではなかったが、桃城にとっては、それが一番
近い気がするものだったのだろう。
 血に濡れた悲鳴を繰り返す中。たった一人、呼ばれた名を持つ者の権利。
「権利、ねぇ」
 後悔と引き換えているとは思えない科白に、南次郎は底の見えない笑みを滲ませているばかりだ。
 これから、リョーマはどうなるだろうか?そんな不安が、南次郎にない訳では決してなかった。
 性犯罪の被害者が受けるダメージは、情報という知識の中からでも判る。判るという表現は、余りに
安易で不適切だろうが、情報と言う形でもたらされる中から受け取れるものは、ゼロではないから、その
近似値が何処からと言い表せないものでも、判るという表現しか、できないものだろう。
 それが現実に息子に襲いかかれば、周囲の人間が被る被害も、血が濃ければ濃い程、大きくなる。
けれどそう思う反面。南次郎は思うのだ。桃城という男が泰然としている限り、リョーマはどれ程の疵を
負っても、きっとその苦しみと恐怖の淵から、立ち直ってくれるだろうと。
 それは反比例し、桃城に残酷なものばかりを押しつけてしまう結果に繋がるのを、判らない南次郎で
はなかった。それでも、リョーマが求めただろうたった一人を思えば、親という立場だけで、リョーマの受
けた疵や恐怖や痛みの中。安易に介入するのは困難だろうと、南次郎は事態を冷静に受け止めるしか
なかった。
「きついぞ」
「覚悟、してますから」
 駅員事務室でのリョーマの悲鳴を聴いた時から、桃城は今後リョーマに降り懸かるだろう悪夢を、受
け取める覚悟をしたのだろう。それが何一つ判ってはいない、子供の絵空ごとに等しいものだと自覚し
て尚。桃城には必要な覚悟だった。
 自分も無傷ではいられないと、判らない桃城ではない。犯罪が及ぼす被害というものは、直接の被害
者だけではないのだと、警視庁刑事部捜査一課管理官をしている父親が、時折ポツリと漏らしていた
科白だ。
 警察のことなど何も知らない一般市民が、唯一知っている警察の部署は、恐らく捜査一課だろう。
けれど捜査一課が、刑事警察の中枢機関であり、聖域なのだと知る者は少ないだろう。凶悪犯罪を扱
う刑事警察の中枢機関。桃城の父親は、その聖域で管理官をしている。扱う犯罪も生易しいものは何
一つない。
 仕事のことなど滅多に家庭に持ち込まない父親が、未だ幼かった桃城の前、紫煙を燻らせ呟いたそ
の声を、桃城は克明に覚えている。凶悪犯罪に立ち向かう警察官だからこそ、背負う疵も大きいものだ
ったのだろうと、今桃城は当時の父親が見せた背中を思い出す。
 幼い当時の桃城にとって、警察官である父親は、ヒーローでしかなかった。けれど今リョーマが背負っ
た疵を思えば、警察官もまた犯罪を憎み、その犯罪を目の当たりにするだけに、背負う疵が大きいのだ
と、桃城は思い知った気がした。
 誰もが犯罪に遭遇するなど、思ってはいないのだ。そう思っていなければ、誰もが生きるには辛すぎ
るのかもしれない。
 だから今桃城は、父親が呟いた言葉の意味を、噛み締めていた。 リョーマの受けた疵を癒すなど、
到底できはしないだろう。自分にできることと言えば、リョーマをどんな形でも支えたいという願いだけで、癒してやるなど、きっとできない。だからこそ、これからリョーマを襲うだろう悪夢を、受け止める強さを、桃城は心底欲した。
 癒してやることも、救ってやることも何一つできはしないだろう。だからせめてリョーマの受けた疵を、
立ち直る為に更に傷つくだろう疵を、支える強さを、桃城は心底願った。














 外はすっかり蒼い闇に閉ざされ、閑静な住宅街は喧騒からは程遠い顔をして、周囲は深閑とした沈
黙に守られている。
 リョーマの部屋は、重苦しい沈黙とは相反し、淡い光に包まれていた。それはリョーマが眼を醒ました
時、きっと暗闇を怖がるだろう。そういう配慮から、リョーマの室内は、淡い光に包まれている。
「桃…先輩…桃先輩…」
 自宅ベッドに寝かされ、大した時間の経たない中。リョーマは譫言を漏らしている。蒼く透ける蟀谷に
は、冷や汗が滲んでいた。ケットから力なく投げ出された細い腕の先の指先が、白くなる程ケットを握り
締めている。その様が、リョーマの受けた疵の深さと、恐怖を物語っているかのようだった。
「越前……此処に居るから」
 投げ出された腕を掬い上げ、桃城は祈るように握り締める。長い睫毛が作る陰影ばかりではない、憔
悴しきった翳りが、リョーマの小作りな顔に色濃く落ちている。
 どれ程怖かっただろうか?痛かっただろうか?リョーマの受けた疵の深さは、計り知れない。
「此処に居るから」
 自宅に戻り、桃城が一番最初にしたことは、白い肌を清拭し、着替えさせることだった。
 見知らぬ男達に、それも単独か複数かも判らない男達に凌辱された衣服を、桃城自身。リョーマに着
せていたくはなったのだ。そして疵を見る必要も有った。
 着替えさせている中。どうか起きないでくれと悲壮な願いを抱きながら、桃城はリョーマの躯を清拭し
ていった。
 引き千切るように解けているボタン。一体どれ程の力で、白いシャツを裂かれただろうか?駅員事務
室で、リョーマの肌を診ることはできなかったから、桃城はリョーマの躯を清拭した時。初めて傷つけら
れた肌を見た。
 単独犯など、有り得ないと思っていた。幾ら小柄だとは言え、声を塞がれ犯されるには、リョーマが抵
抗しない筈がなく、周囲が気付かない筈もないだろうと思えたからだ。だとしたら、複数犯の可能性が
高い。そんな計算は、簡単な足算ですむ程、簡単なものだ。 
 白い肌に付着した見慣れた液体に、憎悪が湧いた。肌ばかりか、白い指先、それも両の指先にもそ
れは付着していたのだと、少しだけ痛ましげな様子で呟いた駅長の言葉を思い出す。
 付着していたものは、リョーマにどれ程のものを強要していただろうか?考えれば、増悪などという表
現では、すまない部分に行き着いてしまう。
 皮下出血など、殴る蹴るという暴行に対しての跡はない。車内でそんなことが起きていれば、周囲に
もすぐに判る。だとしたら、リョーマは口を塞がれ、両手を拘束された中で、犯されたのだろう。そう冷静
に思い付いてしまう自分にも、桃城は腹が煮えた。白い肌に残された見知らぬ男達の精液。どれ程の
恐怖が、リョーマを支配しただろうか?
「越前……怖かったな…」
 意識を喪失させてさえ、逃れられない恐怖にリョーマは陥っている。起こした方がよいのか悪いのか、
その判断さえ桃城には付かない。これ以上傷つけないように手早く清拭し、そして秘花に加えられた疵
を見た時。桃城は見知らぬ男達に、明確な殺意を抱いた。 
 傷つけられた小さい秘花。中から流れ、渇きこびりついている鮮血と、見知らぬ男達の精液。
処置の間。リョーマが意識喪失を起こしていたのは、桃城には幸いなことだったのかもしれない。起きて
いたら、リョーマは決して、疵を見せてはくれなかっただろう。元々異物を挿入されるようにはできていな
いその構造上。力づくで負荷など掛けられたら、簡単にその場所は傷を負う。
「ゴメンな…」
 外部から強引な力を加えられた小さい入り口は、裂けて血が出てはいたが、素人判断でしかないが、
簡単な処置ですんだ。桃城がリョーマを着替えさせている時。南次郎は近所の薬局に走り、一通り必
要だと思える薬を買いに出掛け、揃えていたから、その中の薬剤を使用した。
 初めてリョーマとセックスした時。痛かっただろうに、決して痛いという言葉を最後まで言わなかったリ
ョーマは、こうして一人で受けた傷を処置していたのだろうか?桃城には判らない。
 愛し合う行為とは言え、受け入れる機能のない場所に雄を穿たれるのだから、無傷でいられる訳はな
い。けれどリョーマは決して、痛いとか、疵を受けたとか、そんな科白を、桃城の前で言ったことはなか
った。だから当時、自分がリョーマに与えてしまっただろう痛みや疵を、桃城自身、その眼で見ることは
なかった。けれど、こんな風に傷つけていたのかと思えば、行為に対してリョーマの負う痛みを、見せつ
けられる気がした。 大切に、大切にしてきたつもりだった。極力痛みを与えず、自分の快楽よりリョー
マの快楽を優先させ。けれどそれでさえ足りなかったのかもしれないと思えば、更に大切にしたいという
想いが湧いた。
「…桃…先……輩……」
 握り締めた桃城の手を、リョーマが力なく握り返す。掠れた小さい声が落ちた。
「越前……」
 ひっそり掛けられた声に反応するかのように、リョーマの双眸が、ゆっくり開いて行く。
「リョーマ」
 勉強机の椅子に座り、二人を見守っていた南次郎が、身を乗り出した。
「………」
 ぼんやり彷徨う色素の薄い、母親からの遺伝を受け継いだ蒼眸は、ゆっくり周囲を見渡し、そして自
分を心配気に覗き込む桃城で止まった。同時に、リョーマは酷く重い躯を、ゆっくり起こした。今のリョー
マには、鉛のように重い躯の意味さえ、理解できないものだった。
「………桃…先輩……?」
 心配そうに凝視してくる桃城の視線に、細い首を傾げ、リョーマはぼんやり想起する。桃城の背後に
は、らしくない程淡々とした南次郎の姿も在る。室内の空気が、ひどく重かった。
 修学旅行の帰り道。桃城と駅で待ち合わせをした筈だった。それが何故自室で寝かされているのか、
半瞬でリョーマは理解できなかった。けれどリョーマの意識は、想起するより早く、反射のように躯を慄
わせ始めた。
「あ………」
 電車に乗って、其処まで想起して、心臓が早鐘を打ったように鳴り出した。
 冷房など、大した役にたってはいない車内。生温い空気。視界の中、急速に流れていく景色。そして
不意に、意識を喰い破り、侵入してきた歪に歪んだ声。


『すっげ…きつい…いいぜ…』


 呻くような男の声。耳元でゲラゲラと嗤う雄の声が甦る。桃城以外に穢された躯。抵抗一つできず、肉
体も精神も、喰うだけ喰われ、凌辱に与えるしかできなかった非力さ。


『お前、男知ってるな』


 嘲笑と同時に、しゃぶられた性。無理矢理強引に吐精を促され、背後から犯された。


「ヒィ……ッッ!」
 思い出した悪夢が、まるで目の前で再現されるかのようだった。


『どっか連れ出して、輪わしまくりたいな』


 周囲を囲んでいた男達が、結局何人だったのかも判らない。自分は一体、どれだけの時間。どれだけ
の男達に肉体を喰われていたのか、リョーマは全然覚えてはいなかった。覚えているのは、しゃぶられ
強引に絶頂にイカされ、達した瞬時に背後から鋭く衝き挿れられ、一人目の雄が無理矢理強引に、胎
内で射精していった、そのことだけだ。記憶はまるでパズルのピースのようにバラバラで、断片的な部
分しか思い出せない。思い出そうとすると、負荷が掛かるかのように躯の慄えは酷くなり、制御などで
きない状態に追いやられていく。


『感じてるじゃねぇの』


 下種で粗野な笑い声。人格など否定され、ただ雄を受け止める玩具にされていた時間。聴覚の奥の
奥を抉って行く、ゲラゲラとした嗤い声。


「ぁっ…あっ……」
 恐怖で悲鳴さえ上げられない。鉛のように重い躯を引き起こし、リョーマは何かから身を守るように、
非力な細い腕で、慄える躯を賢明に抱き締めている。


『お前も、楽しめよ』


 強引に、捏ねるように埋め込まれた雄。耳元で、欲情に逸った荒々しい吐息を繰り返し、躯中を見知
らぬ雄の手で、弄られた。
 四方から伸びてきた腕。性を玩弄され、桃城という男の為だけの『女』の部分を強引にこじあけられ、
絶叫の悲鳴は生温い掌で塞がれ、殺された。


『これでお前も、合意だぜ』


 揺れる車両。片足を持ち上げられた不安定な恰好で犯された躯と精神。耳にこびりついて離れない、
雄達の嗤い声。
 一体幾人の雄に、この身を穢がされたのか判らない不安。一挙に血の気が引いていく。


「ヒィ……ッ!」
 掠れた悲鳴が、痛々しく漏れる。
まるで目の前で、もう一度事態を再現されているかのような感覚だった。あの悪夢の中に、再度抵抗も
できずに投げ込まれたかのような感覚が、リョーマを襲う。抵抗一つできず、凌辱にその身を与えてい
た時間。


(嫌…いやだ…助けて…助けて……桃先輩…)

 強引に捩じ込まれ、射精され。一体何人に犯されたのかも判らない。


(ぬ……いて…嫌…出して…助けて…)

 力で強引に開かれていく胎内。激痛などという表現が生温い程の痛みに支配されていた時間。


(桃先輩……桃先輩……ッ!)

 痛みも恐怖も、感じる感覚は何もかも同じだ。再生ビデオさながら、延々繰り返されていく。



「越前ッ!」
 グラリと傾く細い躯。力なく投げ出されていく腕。冷や汗をかき、顔色を失うリョーマを、桃城は力の限
り抱き締めた。
「…離…し…」
 恐怖でまともに声さえ上げられない。それでも、見知らぬ男達に犯されてしまった自分を、桃城にだけ
は、見せたくなかった。
「大丈夫だ。もう大丈夫だから」
「…離し…やだ…」
 強張った声が、桃城の腕の中で漏れる。
あやされるように髪を梳かれる感触に、犯された自分を曝すしかできないその非力さに、リョーマは半
狂乱だった。けれど鉛のように重い躯は、満足な抵抗などさせてはくれない。
「離さない…越前…」
 薄く細い背が折れる程抱き締めても、リョーマの痛みなど、欠片も救ってやれない無力さに、桃城は
ただ抱き締める。
「桃先輩……」
「此処に居るから」
「桃先輩……」
 逃れようと弱々しく抗う腕が、桃城に伸びる。
「俺は、此処に居るから」
「桃先輩…」
 桃城の制服のシャツの胸元にしがみ付くように、リョーマは指先が白くなる程、握り締めた。
 穢がされた自分を、それでも抱き締めてくる莫迦な男。呆れる程過保護で優しくて。こんな自分を、未
だ抱き締めてくれる。こんな自分を抱き締めれば、桃城も傷つくというのに。それでも抱き締めてくる腕
に躊躇いは感じられない。それがリョーマには嬉しさより、哀しみをもたらした。
「ゴメンな…越前…ゴメンな…」
 血に濡れた慟哭を叫びながら、それでも届かぬ声に、助けてやる事さえできなかった。
「桃先輩…桃先輩…」
 リョーマは壊れたレコードのように、ただ桃城の名を繰り返していた。












「ヒィッ……ッッッ!!」
 排水口に吸い込まれていく白濁とした液体を眺め、リョーマは発狂しそうな威勢で、躯を洗い出した。
掠れた悲鳴を張り上げて尚。それは拘束されていた最中の恐怖を思い出させるのか、声として発声さ
れることはなく、悲鳴は、リョーマの内部で、押し殺されたままだ。
 見知らぬ男達に犯された躯。一体何回、胎内に吐き出されたのかも判らない精液。桃城しか知らない
躯を、一体何人の男達の玩具にされたのかも判らない悍ましさ。
「グゥ……」
 胃の腑から、強烈な威勢で突き上げてきた苦い液体を吐き出して、リョーマは発狂しそうな意識の中。ナイロンタオルにボディーソープを付け、躯を洗い立てていく。
 浴室に入った瞬間込み上げた吐き気。吐いても吐いても収まらない吐き気に、貧血が起こる。それに
も構わず、リョーマは躯を洗い続けていく。
 洗って洗って洗い続けている行為は、もう既に儀式化されてしまったかのように、延々習慣行動のよう
に繰り返されている無心さがあった。虚ろな双眸は焦点が彷徨い、ただ習慣行動のように、躯を洗い流
していく行為に、没頭していく。
 見知らぬ男達に穢がされた躯。桃城の手により、清潔されたのを知り、リョーマはひどいショックを受
けていた。
 見せたくはなかった。知られたくはなかった。桃城にだけは、綺麗な自分で居たかった。けれど何一つ
誤魔化す術もなく知られてしまい、リョーマはそれにもショックを受けた。
 元々、桃城との待ち合わせた駅に向かう車内で遭遇した被害だったから、桃城に知られずにすむ筈
はなかった。けれどリョーマは、何より誰より、桃城にだけは知られたくはなかった。その桃城に、何処
の誰とも判らない複数の男達に凌辱された疵まで曝していたと知った時。リョーマの意識は半ば発狂
状態に陥っていたようなものだ。
「……桃先輩…桃先輩……桃先輩………………」
 桃城の名前を繰り返していた時間。桃城の名前だけが、正気を保つ術のように、殺された悲鳴の中、
繰り返していた。
「………助けて…助けて…桃先輩…」
 無心に躯を洗い続け、虚ろになった眼差しから溢れていく涙。ボディーシャンプーを付けたタオルを放
り出すと、リョーマは泡だらけの指を、傷ついて処置を施されている秘花に伸ばした。
「ヒィッ…」
 押し殺した悲鳴を漏らし、リョーマの指は、内部へと強引に衝き挿っていく。ズブリと響く擬音が聞えた
気がした。それが益々、力づくで躯を開いた雄を連想させ、リョーマの精神は追い詰められていく。
「ヒッ…ヒィ…」
 傷つけられ、裂かれた肉。胎内を無理矢理こじあけられ、幾重もの雄が射精していった穢れた躯。
もう桃城に、愛されることもないだろう躯だと思えば、不必要なものに思えた。
「嫌…だ…嫌だ…こんな…こんな躯…こんな躯…いらない…いらない…」
 たった一人の男の為だけに、存在していた『女』の部分の筈だった。桃城にだからこそ堪えられた痛
み。桃城にだからこそ、痛みの次には快楽があるのだと教えられた。羞恥も何もかも曝け出して、たっ
た一人の男の為とだけ、番う部分だった。


 キタナイ キタナイ キタナイ キタナイ キタナイ


 リョーマは痛む胎内に二本の指を強引に差し込むと、指の届く範囲の肉を、掻き混ぜるかのように洗
い始めた。痛みみ疵も無視した乱暴なその動きに、出血の止まっていた疵が広げられ、再び出血する。
けれど今のリョーマに、正常な思考などある筈もない。
「やだぁぁ……ッッ!」
 流れ出てきた血は、リョーマにとっては見知らぬ男達に穢がされた事実と同じだ。その中にも、見知ら
ぬ雄の精液がこびりついているのかと思えば、リョーマにとっては身の毛のよだつものだっただろう。 
「助けて…助けて…桃先輩…助けて……桃先輩…」


 キタナイ…キタナイ…キタナイ…キタナイ…キタナイ…


「桃先輩…桃先輩…桃先輩…桃先輩…桃先輩…」
 リョーマは傷付いた胎内を更にその疵を開くように掻き混ぜると、労ることもせず、がむしゃらに洗い続
けて行く。
「助けて…助けて…桃先輩…」
 虚ろになった瞳から、急速に光が抜け落ちて行く。リョーマの指が、無心に疵を広げ出血させる行為を、繰り返していく。


 タスケテ タスケテ タスケテ タスケテ タスケテ……






「越前…ッ!お前何やってる!」
 いつまで経ってもシャワーから戻ってこないリョーマを心配し、桃城が躊躇いがちに浴室の扉を開いた
時。視界に飛び込んできたのは、小さい声で何ごとかを呟きながら、傷ついた胎内の疵を更に広げ、出
血するのも構わず、傷ついた秘花に指を捩じ込み、胎内を洗い続けているリョーマの姿だった。その姿
に、桃城は愕然となり、慌ててリョーマに近寄った。
「越前!」
 桃城の声も届かないのか、血相変え浴室に入ってきた桃城にも反応しないリョーマの周囲には、ボデ
ィーシャンプーの空が二つ。シャンプーの空が二本、転がっている。それも全部キャップが外され、中身
が完全に空になっている。全部シャンプーを使いきり、それでも満足せずキャップを外し、液体を取り出
したのだろう。
 ボディーシャンプーの一本は、リョーマの家族のものだ。そして残る一本は、此処最近宿泊回数が増
える一方の桃城が、買ってきて置いてあったものだ。シャンプーも同様だ。桃城が浴室にそれを持ち込
んだ時。呆れ顔をしていたリョーマも、今では桃城の買ってきたものしか使用していない体たらくぶりを
発揮し、それは南次郎に呆れた笑いを提供していたものだった。けれどそれが今は全てがカラになって、転がされている。その無残さに、桃城は愕然とする。
「越前ッ!」
 シャワーを浴びたいと、腕の中でか細く漏らしたリョーマに、最初躊躇っていた桃城は、どうしても一人
で浴びたいと言うリョーマに、頷くしかできなかった。
 見知らぬ男達に穢がされた躯を、洗いたいというリョーマの言葉は、桃城にもよく判るものだったから、
強固に反対することはできなかった。まして自分と一緒にシャワーなど、今のリョーマの精神状態では
できないことも明らかだった。けれど反対すれば良かったと、慌ててリョーマに近寄り、桃城は更に驚愕
に瞠然となった。
「お前……ッ!」
 リョーマの華奢な躯を威勢良く打っているシャワーは、湯ではなく、完全に水だった。
「越前ッ!」
 悲鳴のような桃城の声が浴室に響く。けれどリョーマは何の反応も示さない。秘花に捩じ込んだ指で
抜き差しを繰り返し、出血を酷くさせている。幼い胎内から流れ出る鮮血は、白い下肢を伝い流れ、排
水口に吸い込まれていく。
「やめろ…ッ!もういい…いいから…」
 桃城は、無心に疵を広げて尚、胎内を洗い続けているリョーマの指を強引に抜かせると、抱き締めた。
 降り注ぐシャワーの水で、桃城の躯も全身びしょ濡れだった。桃城がシャワーコックを水から湯に切り
換えると、威勢良く流れてくる湯に、急速に浴室が白い煙で覆われていく。
「もういい、越前。もういいから」
 初夏とはいえ、長時間冷水を浴び続けていれば、躯が冷えるのは当然だろう。慌てて抱き締めた腕
の中。リョーマの躯は氷のように冷えきっていた。冷たさも感じていない様子のリョーマに、桃城はリョー
マの疵の深さを痛感させられた。疵を広げ、出血させても、痛みすら感じていないかのような無表情に
落ちた貌。
 自分が認識していたリョーマの疵など、きっと疵でもなんでもなかったのだろうと、桃城は華奢な躯を
抱き締める腕に、力を込めた。
 意識を喪失させたり、譫言を繰り返したり。きっとそんなものは、疵の範疇にもはいらないのかもしれ
ない。
「いらない…いらない…こんな躯…いらない……」
「越前……ッ!」
 腕の中。何の反応も示さず、ただ呟きを繰り返しているリョーマの声に、桃城は泣き出しそうに抱き締
めることしかできなかった。
「桃先輩……桃先輩…桃先輩…桃先輩……」


イラナイ…イラナイ…イラナイ…こんな躯…いらない…!


「越前…越前…頼むから…頼むから……戻ってきてくれ…」
 壊されてしまった精神。精神というより、魂を壊されたのかもしれない。
 冷たさも痛みも感じず疵をこじあけ、綺麗な肌を傷つける程洗い擦った躯。白い雪肌には、擦過傷さえ
できている。
 ボディーシャンプーとシャンプーがキャップを外され、カラになるまで洗い続けたのだ。そんな事をすれ
ば、肌が傷ついて当然だろう。
「越前…ゴメン…ゴメンな……」
 解離していくリョーマの魂を生々しく感じ、桃城は戻ってきてくれと、呼び続ける。そんな桃城の声も届
かず、抱き締められた腕の中。リョーマは桃城の名前を延々繰り返しているばかりだった。