感謝の言葉
act1











「アレ?」
 レギャラージャージから制服に着替えた時。制服のブレザーの内ポケットに無造作に放り込んでおいた携帯のバイブレーターが肌に伝わった。
「んにゃ?」
 桃城の隣で着替えていた英二が、不意に響いた声に、不審そうに隣を窺った。
「いや、携帯っス」
「桃、着信音鳴らさないんだ」
「授業中は、バイブにしてあるんで」
 英二に答えながら、ポケットから携帯を引っ張り出し、ディスプレイを眺め、其処に映し出された表示に、桃城は慌てて通話ボタンをプッシュした。
「リマ?ってちょっ……英二先輩」
 第一声、相手の名前を名乗った瞬時に、横から英二の長い腕が伸びた。伸びた途端、
「オ〜〜イ、オチビ」
 桃城の手首を器用に引っ張り、携帯を耳に当てると、はしゃいだ声がリョーマの名を呼んだ。
『菊丸先輩?』
 電話の向うで不思議そうな声が答えるのに、英二はニャハハと相変らず、天真爛漫な笑みを見せる。
「ちょっと英二先輩」
「何々?リマちゃんだって?」
 英二の隣で着替えていた不二が、やはりヒョィッと顔を覗かせ、更に桃城の腕を引っ張った。
「ちょ〜〜〜不二先輩」
「リマちゃん、元気?」
『……不二先輩?』
 こういう呼び方を違和感なく呼ぶのは、青学テニス部でも不二だけだろう。
手塚は未だ『越前』と呼ぶし、英二は『オチビ』と呼ぶ。性別の変わったリョーマを、違和感なく『リマちゃん』と呼ぶのは、恋人以外では不二くらいのものだ。第一桃城は 『リマ』と呼んでも、『ちゃん』と付けて呼ぶ事はない。
『桃先輩は?』
「なんだ、相変らず『桃先輩』なんだ」
「ちょっと不二先輩、返して下さい」
 慌てて先輩二人から、携帯を引き戻すと、一呼吸おいて、
「リマ?どした?」
「オーオー、優しい声で」
 柔らかく呼び掛ける桃城の声に、英二は囃すように笑った。恋人の名を呼び問い掛ける桃城の声は、大凡彼等が聴いた事のない声をしている。
『……遅い…』
「悪ぃ」
 憮然とした声に、桃城は苦笑する。
「どした?」
 何か急用だったのではないだろうか?
一つ年下の恋人は、些か薄情だと言う程、滅多に電話など掛けてはこなかったから、こんな時間に電話を寄越すと言う事は、急用なのだろうか?そう思えた。
『先約入れられる前にと思って』
「……買い物なら…付き合えないぞ」
 数週間前の会話を思い出す。
ランジェリーショップに買い物に付き合えと、嘘か冗談かはたまた本気なのか?
そう笑って告げて来たリョーマに、流石にそんな根性だけは持ち合わせてはいない桃城は、即答で申し出を辞退している。
『そんな無駄な事で、電話しない。明日ね、買い物に付き合ってほしいと思って』
「買い物?」
『別にランジェリー買うの付き合ってくれてもいいけど』
「リマ〜〜」
『ピンクやオレンジのブラとキャミソール』
「……切るそ…」
『フーン』 
「リマ、今どっから掛けてんだ?」
 淡如な声は、電話の向うでどんな表情をしているのかは想像に容易い。切れるものならしてみろと、タチの悪い笑みをしているに違いない。
『家』
「ハッ?」
『だから自宅』
「何で」
『ウチ明日臨時休校』
「何で言わない」
『何で?』
 キョトンとした声に、桃城は半瞬脱力する。
自覚してくれと、内心叫んでも罪はないだろう。
「一人で」
 現在リョーマが在籍している高校は都内でも有名なお嬢様高校で寮が在る。
リョーマは寮生で、週末自宅へと帰っている。寮から青春台の自宅までは1時間もかからない距離で、電車で一本だ。けれど元々造作が際立って整っていたリョーマは、女の子になって高校生になり、益々その綺麗さに磨きが掛り、帰省時も、声を掛けられる事が少なくはない。
 別段声を掛けられる云々を気にする必要はないが、中にはとんでもなくタチの悪い輩も多いから、ついつい心配をしてしまう桃城だったが、けれど本人に自覚は皆無だから、救われないのは言うまでもない。
『過保護過ぎ』
「……護身用に、ラケットとボール持ち歩けよ」
 事態を破壊してもその場合は構わないだろう。
リョーマにラケットとボールがあれば、立派に凶器だ。
女の子になって確かに体力は劣っても、相変らずの鋭いショットを打ち込んでくる事を、時折ラリーしている桃城は知っていた。切れ味抜群のツイストサーブは、相手の顔面目掛けてヒットする。
『……人を歩く凶器みたいに』
「間違ってねぇだろ。お前にラケットとボール持たせとけば、俺の精神安定には繋がる」
 数週間前、新宿アルタ前での待ち合わせ時、見知らぬ男達に腕を引っ張られ、引きずられそうになっていた姿が今でも鮮明だから、実際心配で仕方ないのだ。ましてリョーマにはその危機感がどうも希薄だ。もう少し保身と危機感を持ってほしいし、少しくらい自覚してくれと、頭を抱えるのはいつもの事だ。 
『……腹立つ…』
「そんで?明日何処買い物に行くんだ?ランジェリーなら慎ましく辞退するぞ」
『ン〜〜大したもんじゃないんだけど。桃先輩明日少し練習早く上がるでしょ?』
「アア、別に構わないぜ。迎え行ってやるから」
『いいよ、其処からウチまで来てたら二度手間じゃん。駅で待ち合わせしよ』
「却下」
『亭主関白嫌い』
「でもダメ」
『………一人歩きもさせない気?』
「お前に自覚がなさすぎるから」
 そういう面倒なの嫌い。
リョーマの言外に、桃城は深い苦笑が刻み付けた。
『……んじゃ桃先輩練習終わったら電話ちょうだい。それから家出れば、いいでしょ?』
「……妥協案か?」
『嫌ならいいよ。一人で買い物行くから』
 これでも多少なりとも、心配性の恋人を気遣ったのだという言外を滲ませれば、桃城が否と言える筈もない事など、リョーマには判りきっていた。
「判った、判った、ったく仕方ねぇな」
『それじゃ明日ネ』
「オイ、コラ」
 未練もなく切られた携帯に、桃城は深々溜め息を吐く。
滅多に電話など掛けてはこない一つ年下の綺麗な恋人は、いつだって要件が済めば、未練もなく電話を切ってしまう。
 もう少し世間の恋人同志は、甘い時間を共有するものじゃないのだろうかと思えば、相手が相手だ。これでも進歩した方なのだろう。
「桃〜〜ラブラブだねぇ」
「過保護だと思ってたけど、過保護だねぇ。一人歩きもさせたくないと。まぁどっかにヒョィッて抱き抱えられて、お持ち帰りされそうではあるけどね」
「………」
 しまったと、内心舌打ちしても遅かった。
久し振りに恋人の声を聴いて、此処が部室である事を、綺麗サッパリ忘れ去っていた。
「リマちゃん、可愛いってより、綺麗さんだしねぇ」
「……いや、だから…あいつ自覚ないんで、心配なんすよ」
 都大会時、桃城はリョーマを改めて紹介した。
中学1年生時、不意に消えてしまった小生意気な後輩。探して探して、消えた理由を知ったのは1ヶ月後で。それからその秘密を知るのは桃城だけで。
 どれ程周囲がリョーマを気に入っていたのか、知らなかった訳ではないけれど、話せる事と話せない事がある。



『見付けた……』

 通り過ぎた影。残像にできない愛しい影。ほんの一瞬通り過ぎ、擦れ違った影を、見逃さなかった。

『見付けたぞ』

 握り締めた手首。バカみたいに握り締めて。願いを掲げて。

『見付けた』

 バカみたいに、その言葉ばかりを繰り返して。叶わぬ繰り言を繰り返すように。
 
『バカ……』

 一瞬だけ、泣きそうに歪められた綺麗な蒼。以前より、益々蒼さが増したように見えるソレは、当然感傷がもたらす視覚の錯覚なのだと知っている。

『見付けなけりゃ…よかったのに……』

 慄える声。見付けられる事など予想もしなかったと言う声で。

『こんな姿……』

『綺麗になった』

『そんな事ある筈ない』

『そんな事、あるに決まってんだろ』

『見付けたからな』


 握りしめた細すぎる手首を引き寄せて、見た目よりも尚細い腰を抱き締めて、人目も憚らず抱き上げた。その線の細さに、泣き出したくなった。








「オチビ、本当綺麗になったよねぇ」
 都大会の時。突然現れた綺麗な少女。桃城の恋人だと紹介されて、けれどよく見れば懐かしいばかりの顔立ちで。あまりに懐かしくて抱き締めて、リョーマに肘鉄をくらった。それさえ懐かしくて、嬉しさしか湧かなかった。
 変わらない、何一つ。其処に立つ華奢な少女は、何一つ。
そんな事実を簡単に受け止めている自分もまた可笑しかったけれど、何も変わらないと言うのが印象だった。
 変わったといえば、より綺麗になって、白い左手薬指には、蒼い硝子の指輪が嵌められている事くらいだ。その程度の違い。
「恋愛ってスパイスが、よりいいみたいだし」
 可愛いというより綺麗。その言葉がピッタリと当て嵌まる華奢な少女だった。
ボーイッシュな髪型がとてもよく似合って、相変らず怜悧な眼差しは、ソコに在るとより強く強調していて、何一つ変わらないと思えた。
「不二先輩…」
「アレ?違う?女の人は恋愛でどんどん綺麗になっちゃうし。日々進化しちゃうよ。姉さんに言わせると、中学や高校生の女の子は暦少女だって」
「暦少女?なんすか、ソレ?」
「日めくりカレンダー。アレと一緒だって」
「……不二〜〜意味判んないよ?」
「日々成長して綺麗になる。男なんてどんどん置いてかれるって」
「そりゃ大変じゃん桃。頑張らなきゃ」
「ハハハ……」
 どうして…どうして誰も、疑問も何も、感じないんだろうか?乾いた笑いを漏らしながら、桃城はフトそんな疑問に行き着いた。
 中学生の時の後輩。天性のテニスの才があって、惜しげもなく称賛されて。その血の滲む経緯を知らず、簡単に称賛を投げて。
 可愛がっていた後輩が不意に消息を絶って。次に現れたら女の子で、まして今は自分の恋人で。そんな事実を、何故こうして簡単に受け止めているのだろうか彼等は。
「別にね、性別じゃないんだよ」
「不二先輩?」
 内心を簡単に見透かしてしまうこの先輩は、相変らず底が知れないと桃城は思う。今自分はそんな顔をしていただろうか?自覚はなかった。
「名前と性別が変わっても、人の本質って言うのは、変わらないからさ」
「オチビはオチビ、今も昔も俺達の後輩、そんだけ。大体相変らず生意気で口達者で、外見綺麗になっても相変らずじゃん」
 きっと、何かしら、マイナスのリアクションを予想して、自分はリョーマを紹介する事を、心の何処かで躊躇っていたのかもしれない。

『お弁当持って、応援に行ってあげる』

 そう言われて、大丈夫なのかと考えた自分は浅はかで、きっと自分の事し考えてはいなかった。

『大丈夫だから』

 自分の不安を内心見透かし笑った笑みの向うに、どれ程傷付けたのかと思えば、今更後悔する。
 笑う事のできる強さ。笑えるようになるまで、どれ程傷付いてきたのかと思えば、胸が潰れる。傷付けてきたのかと思えば、後悔は足りない。

「ダメだよ。桃。桃がそんなじゃ不安になるよ」
「そうだにゃ。オチビ言葉に出す事少ないけど、昔から桃の言動には、敏感だったから」
「俺…未々すね」
「当然。桃なんてマダマダの二乗×100くらいマダマダ」
「……それひどくないすか?」
「自覚あるなら、頑張るしかないよねぇ。でも桃。例の話し、したの?」
「……まだで…」
「してないんだ」
「タイミング逃してて」
「やっぱマダマダの二乗×1000だにゃ」
「怖い?」
「怖いっていうのと…ちょっと違うんすけど…」
 静かに凝視してくる双眸に、桃城は肩を竦めた。
静かに切り込んでくる眼差しの冷冽さは、逃げる事を許してはくれない。
「まぁさ、ソレは桃とオチビの問題だし、ただ遅くなると、拗れるかもよ?」
「待っててくれっていうのは…」
「だったら連れてけば?」
「別に嫌とは言わないだろうし」
「行くって即答されても困りますよ」
「大体桃は我が儘なんだよ。置いてくのも心配。連れてくのも心配。どっちも心配。も少し欲張りになれば?関心な所で迷ってて、オチビに知れたら、それこそ絶縁されそう。っんな楽しい事になったら、俺貰っちゃお」
「……英二先輩……それ痛いですから勘弁して下さいよ…」
「アレ?僕もそう考えてたけど」
「……不二先輩も」
「まぁもう少しなら時間あるし、考えて結論だしなよ。ただし、これだけは言っとくけど。後悔しないように。どっちの意味も」
「そうっすね」
 不二と英二の、軽口に紛らせて話してくる眼差しは、怖い程真摯なものを突き付けてくる。
 後悔はしないように。難しい言葉だと桃城は思った。
後悔はいつだって後から悔やむ事で、その場、その時々の選択肢の前では、立ち尽くして賢明に考えて、最善と思った道を誰だって進んで行く。けれど後から振り返った時。様々な経験の切れ端の向うに、幾重も道が在った事に気付くのだ。
 誰だって後悔はしたくない。最善だと思う道を歩きたいと願うし祈る。
 失えないものは、何だろうか?失いたくないもの。必要なもの。墓場に持ち込む程、必要で大切で、失えないもの。
 幾ら考えても、そんな事は一つしか存在はしない。付属する部品、みたいなものは幾重もの枷や糧として存在はしても、失えないものはたった一つだ。
 けれどそのたった一つは、枷になる事を何より嫌う。先伸ばす答えの切れ端に、自分が関係している事を知れば、躊躇いなく切り捨てられる。切り捨てられる事が判るからこそ、怖いのだと思う。告げる言葉を間違えたら、関係はソコで切れる。それだけは、痛烈に判っている。だから先伸ばしてしまう。潔さだけは今も過去も何一つ変わりない。

『桃先輩、バカだね…』

 泣き笑いの表情で去っていった後ろ姿と同じように、今度はきっと泣きも笑いもせずに去られるだろう。それだけは判る。それだけは、嫌と言う程判る事だ。
「考えて、話します」
「ウンそうだね。いつでも相談に乗るから」
「拗れたら、オチビは俺が引き受けるから」
「……だから冗談にならないですって」
「だったらさ、頑張りなよ。桃は少し欲張りになってもいいと思う」
「俺欲張りですよ。テニスもしてて、あいつも恋人にして。どっちも失いたくないって思ってますから」
 欲張り以外の何者でもない。
大切で大事で手放したくなどなかったと言うのに、一時はその後ろ姿を見送って。一番傷付いていただろう時期に、傍にいてやる事さえできなかった。それだけで十分後悔なんてしている。離さなければよかったと、幼稚な願いばかりを掲げみせて、ガキの思考回路の中で繰り返す繰り言ばかりだ。
 実際。傷付いて、誰より傷付いて、笑っているのは自分じゃない。感じる痛みも、見せない疵も。負ったのは自分ではない。そんな判りきった単純な答えが、ひどく胸を痛ませる傲慢な痛みに、後悔しか湧かない。 
 一旦は見送り手放した手。

『見付けなくていいよ』

 手にした体温の柔らかさに、今更手放せる筈なんて何処にもない。

「んじゃ俺帰ります」
 桃城は、部室を後にした。



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