KISS














 赤や青、緑や黄色の小さい箱は、不夜城を一望できる個室の展望台と大差ないだろう。そこは一周
十二分程度の短い時間、眠りを知らない都会の夜景を、堪能できる場所だった。
 無機質な高層ビルの赤いランプ。レインボーブリッジを飾るイルミネーション。行き交う車のテールラン
プは、まるで血液のように過ぎていく。動いている間は意識しないものの、止まればすべてが終わる。
嫌な実感な仕方だとは思うものの、それは社会という意思そのものに思える時がある。もの凄いスピー
ドで動いているくせに、止まればその一瞬ですべてが終わる。
「リマ?」
 地上を見下ろす綺麗な横顔が半瞬翳ったのを見咎め、節のある長い指が、ネコッ毛の髪を優しく梳き
上げる。それは癖一つない滑らかさで、桃城の指の隙間を、サラサラと擬音を付け流れていく。
 まるで宝石箱をひっくり返したかのような都会の夜景は、夥しい光の洪水を作り出している。眺めてい
れば綺麗なそれも、実際肌に触れれる空気は喧騒に塗れているだろう。それでもゴンドラという名の密
室は、個室の展望台と同義語だったから、小さい空間に漂う空気は、何処までも穏やかで優しいばか
りのものだった。
 その静けさと、寄り添う恋人の体温が心地好く、リョーマは不意に掛けられた静かな声に、ゆっくり視
線を巡らせた。
「なぁに?」
「どうした?」
 キョトンと見上げてくる白皙の瀟洒な面差しは、今自分が翳りを浮かべたことを自覚してはいないのだ
ろう。警戒心の欠片もない無防備さで、隣に腰掛けている恋人を見上げている。そのあまりの警戒心の
なさに、桃城は緩い吐息を吐き出した。
「?何もないけど?」
 節のある長い指で髪を梳かれ、細い肩が擽ったそうにヒクンと跳ねるのに、桃城は緩い笑みを刻み付
けた。
「難しい顔してたぞ?」
「そぉ?」
「何考えてた?」
 やんわり細い躯を引き寄せると、小作りな頭を肩口に凭れさせる。そうすればリョーマはおとなしくされ
るがままにされながら、少しだけ拗ねたような声を漏らした。
「これじゃ、せっかくの夜景が見えないなよ?桃先輩」
 拗ねたような声と、相反する、クスクスとした耳を擽る小さい笑い声に、桃城の長い指先が、悪戯をし
かけるように、柔らかい髪を撫で、首筋を掠めていく。
「時折難しいこと考えるからな」 
 小作りな頭の中身に、一体何が詰まっているのかと思う程、リョーマの頭は軽くて小さい。そして小さ
い胸の奥に、一体どんな涙を抱えているのかと思えば、桃城にできることは、察する程度の半端な理解
ばかりだ。それが悔しいとは思うものの、個を全面理解できると思う程、桃城は無知な子供ではなかっ
た。
 変わってしまった性別と、自分と付き合っているその中で、リョーマが無自覚な負い目を抱いてしまっ
ていることを、桃城は正確に理解している。
 性別は変わってしまっても、リョーマの生来の性格なのだろう、勝ち気で小生意気な性格に変化はな
い。それでも無自覚に抱く負い目のせいで、時折哀しげな表情を無自覚に見せることが少なくはない。
それはリョーマの自覚とは別の問題で、不意に顔を覗かせる。
 負い目を抱くなと、言葉にするのは簡単だろう。それは何にもリョーマの所為ではないと、口にするの
も簡単だろう。
 リョーマの性別が変わるしかなかったのは、誰の所為でもなかったから、そうと言葉にするのは簡単
なことだ。
 けれど言えばリョーマを更に追い詰める。告げる言葉に微塵の悪意がなかったとしても、言えばリョー
マを襲う痛みを理解できない桃城ではなかったから、安易な言葉を口にすることを何より嫌った。
 だから桃城がそうと誤魔化す科白を口にする時、それ以上の心配が紛れ込んでいることを、けれどリ
ョーマは気付いていた。
 だから今も何か心配させるような表情をしていただろうかと、引き寄せられるまま桃城の肩口に顔を埋
めながら、リョーマは許に広がる綺麗な夜景を静かに眺めていた。
 心地好い空気と、恋人の温もりが、不意に泣きたい安堵を覚えさせる。暮れ行く夏の終わりの夜は、
むしろ暑いくらいだ。
 洒落た密室の展望台とはいえ、冷房完備のそれではないから、湿度の高い夏の空気は、曝す肌身
に容赦なく纏い付く。それでも、触れる温もりに安堵するのは、それが桃城だったからだ。
「心配性」
 中学時代、知り合った当初から何かと過保護だった桃城は、こうして恋人同士になってしまった今、中
学時代の過保護さが、未だ手緩い過保護さだったのだと思い知る程、過保護で甘やかし上手の恋人に
なった。そのくせ執着じみた独占欲はなく、リョーマの行動や感情を縛ってしまう、安易なものは一切な
い。
 過保護さと慎重さが同義語の桃城のそれは、リョーマを大切にしたいが為の愛情からの発露だ。決し
て子供じみた独占欲は感じさせない。勿論人並みに独占欲は持っているものの、そうと表に出してしま
う安っぽさを、桃城は持っていなかった。
 言葉にする桃城の心配の在処など、言葉にされないものに比べれば、いっそ些細すぎることを、リョー
マはよく判っていた。
「綺麗で可愛い恋人持ってると、何かと苦労するんだよ」
「何それ?」
「悪い虫が付かないかとか」
 キョトンと瞬く双眸に、半瞬桃城はらしくなく苦い表情を刻み付けた。それがますますすリョーマをキョト
ンとさせるから、少しは自分の容貌を自覚してくれと、桃城が溜め息を吐きだしても、罪はないだろう。
「浮気しないかとか?」
「リマ〜〜〜怖いこと言うなよ」
 薄く細い肩を竦めて悪戯気にリョーマが笑えば、桃城は本気で心配し、華奢な躯を抱き締めながら、
細すぎる首筋に頭をグリグリと押しつける。
 プロを目指し渡米し、現在は若手プレーヤーでは手塚と揃って注目度の高い桃城は、中学時代と何
一つ変わらない髪形をしている。整髪剤でセットされた髪が、首筋に触れる擽ったい感触に、リョーマは
薄い肩を身動ぎさせながら、クスクス小さい笑みを漏らしている。
 元々瀟洒で繊細な面差しをしていたリョーマは、今は女性になってしまっているから、その綺麗さに拍
車がかかっている。
 化粧など必要としない、雪のような白皙の貌。淡いルージュを引いた薄い口唇。意思の強そうな色素
の薄い空色の瞳。白皙の貌を縁取る綺麗な黒髪。今時ここまで綺麗な黒髪も貴重品だと、行きつけの
美容師に言われてしまう程、リョーマの髪は綺麗で枝毛などない。
 何処からみても、綺麗としか表現できないリョーマは、だから男の眼からみれば、凌辱してしまいたい
衝動に駆られる要素を持ち合わせている。そのくせリョーマに容貌の綺麗さに自覚はないから、桃城に
してみれば心配なのは当然だろう。
 浮気の可能性など欠片も疑ってはいないものの、一方的にリョーマに片恋し、悪い虫が付く可能性は
ゼロではない。むしろリョーマに片恋している男は、実際両手でも足りないだろうことに、桃城は薄々気
付いているものの、やはりリョーマに自覚はゼロだった。
 リョーマに自覚がない分、自分が日本にいない間、不二や英二が妹を可愛がる兄さながら、気遣って
いてくれることを桃城は判っている。
 そこには何故か乾や海堂の名前も連なっているから、桃城には首を捻ること夥しい。不二や英二は判
るものの、海堂がリョーマを気遣うというのも甚だ謎だと思う。けれどきっと憐れみなど無縁の場所で、
海堂は海堂なりにリョーマを大切にしてくれているのだろうなと、桃城は納得していた。海堂にとっても、
リョーマは大切な後輩の一人なのだろうと思えば、仲間というものはありがたい存在だと思わずにはい
られない桃城だった。
「バカ………」
 桃城の、真剣にそう思っているとしか思えない情けない鳴き声に、リョーマは小声でポツンと呟いた。
浮気など、自分にできる筈もない。待っていると言ってくれた桃城の言葉を、まるで切れ端の端を掴むよ
うに握り締め、変わってしまった性別を受け入れたのだ。たとえその科白が一時の感情からでも、憐れ
みでも、当時の自分には、桃城の科白だけがすべてで救いだった。そしてこうして付き合いだしてしま
えば、桃城以外の男に想いなど傾く筈もない。
 心配なのは、むしろ自分の方だと、リョーマはこっそり吐息を吐いた。
 順調にプロの世界で歩き始めた桃城は、学生時代とは比較にならない女性ファンを獲得していること
をリョーマは知っているからだ。
 リョーマの吐息に紛れ込ませた科白に気付かない桃城ではなかったから、肩口に顔を埋める小作り
な頭を柔らかく掻き混ぜる。
「リ〜〜マ」
 埋める顔を引き起こすと、卵の先端のように形よい頤を掬い上げる。
「ダメ」
 掬われた頤の意味するところが判らないリョーマではなかったから、人差し指で桃城の口唇を咎める
と、
「見えちゃうよ?」
 ゆったり天へと上っていくゴンドラは、夜景を観賞する為、淡い照明しか灯されてはいないものの、至
近距離にある同一のゴンドラからは、内側で何をしているのかは丸見えだろう。
「気にしないだろう?」
 細く白い指先をゆっくり甘噛むと、薄い肩がピクンと顫える。
「私がするの」
 甘噛み舌を絡められ、白皙の貌が紅潮していくのが自分でも判る。
「誰だって自分の恋人に夢中で、他人のことなんて気にしないって」
 指先の根元を舌先で擽ると、リョーマの躯が力が抜け落ちるのが判る。頤を再び掬い上げ、今度こそ
桃城は薄く開かれた口唇に口吻た。
「んっ……」
 甘い吐息が朱に色付き、薄く開かれた口唇から零れ落ちる。小さい空間に、リョーマの吐息が柔らか
く溶けていく。
「んっ…ダメ……んっ…」
 開いた口唇から受けいってくる慣れた舌の感触に、半瞬抗ってはみるものの、リョーマに本気で桃城
を拒める筈もない。
 歯列を割って絡んでくる舌にリョーマも怖々と舌を預け、細い腕が頼りなげに桃城の肩に触れる。
 天からゆっくり降下していくゴンドラは、足許の夜景の視野を狭め、地上へと近付いて、まるで万華鏡
のように綺麗な光は、触れれば掴めそうに身近なものになっていく。
 地上に近付くにつれ、静かだった室内に外から喧騒が混じり込んでくる。
「ゃっ…んっ……」
 髪を撫で、胸を柔らかく揉んでいく指先。角度を変え深くなっていく口吻。相反し、地に近付いていくゴ
ンドラには、外の喧騒が少しずつ紛れ込んでくる。
 あと少しでゴンドラが地上に近付く一歩手前で、桃城の口唇がリョーマから離れていく。恋人の口唇を
堪能した桃城は、ひどく満足そうに華奢な躯を抱き締めている。
「もぅ」
 きっと隣のゴンドラの住人には、自分達の行為は丸見えだっただろう。けれどリョーマの声は、さして
咎める様子もみせず、桃城の腕の中でおとなしくしている。
「なぁリマ」
「なぁに?」
 瞬く眼差しが耽溺したように蕩け、桃城を見上げれば、桃城はほっそりした左の手首を掬い上げ、薬
指に口唇を落とした。
「倖せに、なろうな」
 そう言ってプロポーズしたのは、春先のことだった。渡米するとき告げた言葉には、プロになってそれ
でも気持ちが変わらなかったらという、猶予期間のついた答えしかもらうことはできず、正式に婚約した
のは春先のことだった。
 半陰陽という、症例的にも珍しいそれは、だからこそ結婚はしても、将来的に子供は望めないだろうと
いう医師の言葉に、リョーマが桃城との結婚に躊躇していたことを桃城は正確に理解していた。
 子供はいなくても倖せな夫婦は幾らでもいる。そう言ってみたところで、理解と納得はまた別のものだ。最初から子供が生めない可能性をもったまま、桃城に嫁ぐ決断をリョーマがあっさりできる筈もない。
 だから桃城の気持ちが海外にいって変わったら、それはそれで仕方ないと、求められた答えを先延ば
しにしてきたのだ。
けれど桃城の気持ちは何一つ変わらなかった。より真摯にリョーマを求めてくる気持ちに、リョーマも素
直に頷くことができたのだ。そして現在は婚約期間中で、リョーマが『越前』の姓を名乗っていられるの
は、あと半年もない。
 そんなリョーマの左手薬指には、桃城から贈られた婚約指輪が綺麗に輝いている。それはリョーマに
とって、地上のどんな宝石よりも大切なもので、輝いているものだった。
 桃城の静かな言葉に、リョーマは淡いを笑みを綺麗に刻み付け、
「倖せになろうね。桃先輩」
 柔らかい声が、小さい空間に緩やかに溶けていった。