第一章
他愛ない日常











 終焉など素知らぬ顔で広がる蒼い空は、まるで無限の空間を連想させる蒼茫さで、彼らの頭上に在
った。それは地平線との境界を不明瞭にしながら、地上に近い部分では澄んだ色彩は色を失い、グレ
ーにも似た微妙な色合いを溶かし込んでいる。それでも真夏の陽射しは明度と熱気を日々増していき、
太陽の熱気に押し潰されてしまいそうな、灼けつく光を投げ掛けてくる。
 うだるような夏の陽射に、まるで掴めそうに質感のある真っ白い入道雲。降るように鳴く幾種かの蝉の
声。明度の強烈な夏の陽射に揺れる積翠は、閃爍な輝きを周囲に零しながら、土の上にちらちらと輝く
木漏れ日を落としている。それはあたかも、自然の力で作り出された天然の万華鏡のように美しく、
それでいて無意味な影を、折り重なる葉のカタチを綺麗に映し出し、夏の陽射の中、一時の癒しのよう
に、穏やかな木下闇を作り出していた。
 丸かったり鋭かったりする濃い緑の天然のドーム。その下に作り出される自然の恩恵。大木の根元に
腰掛け背を預けると、そこは真昼にも関わらず驚くほど薄暗く、それでいて闇のように陰鬱な印象は微
塵も感じさせない穏やかさで、夏のうだるような熱気を忘れさせてくれる心地好さが在った。
 都内とは思えない敷地面積を誇る青学は、創設者の意思が今も見事に反映され、広い校庭には四
季折々の花々や樹木が植えられて、真夏に近付く季節の中、幾重もの木下闇が、生徒達に一時の安
息を提供していた。
 幼稚舎から大学院までの一環した教育システムを誇る青学は、都内でも有数の進学校でありながら、その校風は文武両道、全力で学び、全力で遊べというユニークな教育理念を持っていた。その所為だ
ろう。生徒も教師も、新聞記事の一面を飾ってしまうような解離的な社会病理とはおおよそ無縁で、
それぞれが伸び伸び学校生活を有意義に送っていた。
 そして進学校でありながら、スポーツ、文芸に関わらず、青学は部活にも熱心に力を注いでいたから、
夏休みに突入した七月下旬の現在も、校内には多数の生徒が見受けられた。
 それは中学テニス界の皇帝といわれる、真田率いる王者立海を制し、関東大会制覇を成した、テニス
部にも言えることだった。来月の上旬開催される、全国中学テニス大会への出場を決めたテニス部の
練習は、夏休みに入った瞬間から加速度をつけ、容赦ないものになっている。けれどこれから全国とい
う器で戦うことを考えれば、それは当然のことだと、誰もが厳しい練習を己自身に課していた。甘えて勝
てると思う程、誰もが全国というレベルを見誤ってはいなかったからだ。
 午前中の比較的涼しい時間帯は、各自課題を家でこなし、午後から夕方までの数時間、容赦ない練
習が待っている。
 それは文武両道を校風にしている青学の生徒らしいものだろう。全国大会出場という免罪符を、誰も
が口にはしなかったし、教師陣も課題に手を抜くことはせず、テニス部員は誰もが勉学と部活の二足草
鞋を己に課していた。それでなくても部長の手塚のことだ。新学期の課題提出日に、課題を提出しなか
ったらどうなるか?そんなことは誰の眼にも明らかだろう。だから誰もが与えられた課題は、地道にこな
すしかなく、そうして午後からは地獄とも言える練習が待っていた。
 関東ではテニスの名門と言われてきた青学テニス部は、けれど実際の戦績は関東大会止まりで、全
国大会に出場したことは、数年前まで遡らないとならないのが実情だった。けれど今年は違う。
 皇帝と言われた真田と同じく、テニスの技術は高校生級、もしくはプロ級といわれている部長の手塚
を欠きながら、今年の青学は王者立海を制している。その一番の立て役者といえば、真田と渡り合った
リョーマの存在が大きく、現在全国大会へ出場してくる選手で、リョーマの名前を知らない者は存在しな
いだろう。それ程、皇帝といわれた真田率いる立海は、難攻不落の要塞だったということだ。
 その立海を制し、関東大会を制覇した青学は、全国からも注目の的で、夏休みに入った現在、各校か
らの偵察者の数は日々増加の一途を辿っている。
 そんな偵察集団に、乾などは双眼鏡片手にこまめにデータ収集をしているが、実際偵察集団のデータ
など、役にはたたないだろう。既に乾のデータ収集とそれに伴う分析は、趣味の領域に達している。
物事を数値化して考えることに慣れてしまっているが故の癖の一つだ。
 それはテニス部員には勝利をもたらす福音であると同時に、勘弁してくれという悪行の一つにもなって
しまう、諸刃のものを含んでいる。少なくとも乾特性の乾汁は、死人が出ないのが不思議だと言われる
くらい、味の調整など一切考慮していない代物だ。レギュラー面子でさえ、その被害を被っていないの
は、部長の手塚くらいのものなのだから。 
「物好き……」
 コートの周囲で群れをなす、各校の偵察隊を横目に、リョーマは練習の合間の小休止、テニス部のコ
ートからは少しばかり離れた大木の根元に腰掛けていた。
 蟀谷を流れる汗を、無造作にレギュラージャージで拭うと、お気に入りのファンタグレープに口を付ける。白い喉元がコクリと擬音をつけ、上下する。
 喉元を通り過ぎて行く甘さを含んだ水分は、渇いていた細胞の隅々にまで浸透する心地好さが在った。ホッと無防備な吐息が一片零れ落ちる。
 喉ばかりか、容赦ない練習で体内の水分が揮発し、細胞が口渇を訴えていたのだと意識した瞬間、
更に喉が渇いた感触に、リョーマは意識してゆっくりファンタを喉の奥へと流し込む。
 欲求のまま、飲料水を口に流し込むのは簡単なことだ。けれどそれでは水分補給の意味にはならな
い。過剰な水分摂取は補給にはならず、排泄されてしまうからだ。
 口渇を意識する前に水分補給を心掛けるのは、スポーツ選手なら当然のものだろう。手塚あたりにフ
ァンタグレープなど飲んでいるのが判ったら、説教は食らわないものの、攅眉されるだろうなと、手塚の
渋面が脳裏に浮かび、リョーマはクスリと小さい笑みを漏らした。
 けれど現在手塚はドイツの空の下に在る。氷帝戦で再燃した左肩と腕の治療の為、スポーツ医学が
盛んなドイツのリハビリセンターで、治療に専念していた。けれど治療も終了し、来週には帰国し、練習
に参加する旨が部員に伝えられたのは、数日前の終業式後の練習開始時だった。
 手塚帰国の朗報は、それは同時に、手塚が不在で溜まりに溜まった生徒会業務を任されている生徒
会役員にも朗報だったらしく、今から生徒会役員が手ぐすねを引いているとの噂もあった。それは周囲
に無頓着なリョーマの耳にまで届いていたから、あながち嘘ではない噂なのかもしれない。
 トレードマークの白い帽子を外すと、リョーマは汗ばむ胸元を無防備に開き、パタパタと布地の内側に
風を送り込む。
 レギュラージャージから覗く、蒼く透ける白い肌は、鎖骨の細さが窺える程、華奢な骨格の作りを映し
出している。外見だけを見るなら、誰もが皇帝と言われた真田を倒した選手とは思わないだろう華奢な
印象がリョーマには在った。けれどコートに立てば、そんな印象はリョーマからは最も遠いものになると、誰もが実感するのだ。冷ややかな熱を孕んだ双眸の強さと、性格を映し出す勝ち気なテニスに。けれ
ど今はそれもなりを潜め、夏の暑さに辟易した仕草を見せている。
 自然が作り出す暗闇は、けれど深夜のような深閑とした静寂さは微塵もなく、穏やかな心地好さで汗
ばむ躯と心を癒してくれる。降るように鳴く蝉の声も、生い茂る天然のドームの下なら、さして気にもなら
ないものだった。
「暑……」
 コートという戦場に立つ時、夏の暑さはイコールで戦意に繋がるくらい、リョーマには馴染んだ気配や
熱気だった。けれどこうして一旦休憩に入ると、どうにも躯は暑さを鬱陶しがり、胸元の布地をパタパタ
と仰ぎ風を起こしても、さして清涼さはもたらしてはくれない。それでも灼けつく夏の陽射の下に居るより
は、自然が作り出す万華鏡の下はましだった。
 大木の幹に小作りな頭を預け、深呼吸するように呼吸する。交睫した長い睫毛の先に、柔らかい木漏
れ日が落ちる。
 長く伸びた枝。生い茂る葉の隙間から零れ落ちてくる陽射は、土の上に形のない万華鏡を描き出す。
まるで光が飛ぶように揺れる様は、リョーマから夏の暑さをゆっくり忘れさせる。
 緩く交睫した眼差しが開かれる。黒々伸びた枝と、折り重なって茂る緑。切れ切れの視界から、夏の
空が見えた。
「眩しい……」
 高いけれど、掴めそうな青空に、無自覚にほっそりした腕が伸びる。眼前に翳した掌中から零れてくる
光が綺麗だとフト思えた。
「そういえば」
 何か物足りないと思ったら、いつも自分の傍らに張り付いている桃城の存在がないことに今更気付き、リョーマは折れそうに細い首を傾げた。拍子に汗ばんだ漆黒の柔髪が、サラリと揺れる。それを鬱陶し
げに白い指が掻き揚げる。皇帝と湛えられた真田を倒したとは思えない、ほっそりした白い指だった。
  青学に入学してから、さして時間は経っていないものの、桃城の存在は既にリョーマの内側では居
て当然の存在になっている。
 一体何を好き好んで、後輩の送迎を喜々としているのかと思えるものの、桃城に訊いても、お前と居
るとなんか楽しいんだよなぁという曖昧な返答しか与えられはしないから、リョーマは桃城の返答に小
首を傾げてキョトンとしたまま、その行動には眼を瞑っている。何よりリョーマ自身、桃城と居るのは楽し
かったからだ。
 アメリカに居た当時、どれだけの人間がリョーマのテニスに称賛を贈ろうとも、リョーマは誰かに懐くと
いうことをしなかった。けれど帰国し父親の南次郎の母校の青学に入学し、テニス部に入部してから、リ
ョーマは自分でも驚く程、変わった。以前なら、誰かの送迎をラクだからと、受け入れることなどなかった
からだ。けれど今は違う。桃城という存在は、既に当然のように、身の裡に馴染んでしまっている。それ
が少しばかり悔しいと思うと同時に、部長の手塚にさえ曲者と言われている桃城のことだから仕方ない
かと、奇妙な納得の仕方もしていた。 送迎までしてもらえるなら、朝寝坊もできる。朝が苦手なリョー
マにとって、桃城の送迎を断る理由は何処にもなかった。 そうして桃城に甘やかされ放題甘やかされ
た結果、リョーマは桃城の自転車のベルの音で目醒めるのが当たり前になっていた。
 リョーマのそんな行動に、最初こそ呆れていた桃城も、今では慣れてしまったのか、苦笑に紛らせ反
駁もないという有様では、周囲に呆れられても仕方ないだろう。
「何処行ったんだろう?」
 部活時間、アップすることから始まり、練習の最中も常に一緒にいて、最近ではセットと見られがちな
桃城が、今隣に居ない。体育会系の縦割り構造を後輩に押しつけることをしない桃城は、周囲が呆れ
るくらい、リョーマを構い倒している。それが桃城の級友の荒井などに時折不興を買っているものの、桃
城はさして気にした様子も覗かせず、先輩と後輩という垣根を取り外し、何かと自分を構い、昼食も誘い
にきてしまうくらいだ。
 だから練習の最中、桃城が隣に居ないということは、考えれば、殆どなかった。その桃城が今は隣に
居ない。それがリョーマの心を奇妙に落ち着かなくさせた。居ることは忘れても、大抵居ないことにはす
ぐ気付くからだ。リョーマにとってそれくらい、桃城の存在は馴染んだものになっている。
 その桃城が居ないことが、リョーマには不思議だった。何処かに行くとも言っていなかったから、極自
然な仕草で、桃城は休憩時間になったと同時に、姿を消したのだろう。
 そう思えば、ますます心根が落ち着かず、腹の底から湧き上がってくる苦々しい感触に、リョーマは内
心下品に舌打ちする。そうして桃城の姿を探すように、色素の薄い空色の瞳が、コートを映した。
 まるで内と外を隔てる境界線のように、コートの周囲を覆うフェンス。その周辺に群がる各校の偵察隊
の中にまじり、校内の新聞部員の姿も在った。カメラを片手にしていることから、全国大会出場を決めた
テニス部の取材かとリョーマは勝手に位置付けたものの、それは半分は正解で、半分は違う意味合い
を持っていることに気付いてはいなかった。
 新聞部員の本来の目的の半分は、レギュラー陣の写真を撮り、それを加工してブロマイド化して販売することだったからだ。 いくら生徒の自主性を重んじる青学でも、生徒間の売買を許す筈がないものの
、新聞部ではこの伝統が長らく続いてきたことをリョーマは知らない。 
 そして各校の偵察隊の中には、やはり青学の女子の夏服セーラーの姿も数多く在って、暑い中物好
きだと、リョーマは更に溜め息を吐いた。
 テニスの名門で在る青学のテニス部レギュラーは、その外見の良さも手伝って、女子からは絶大な人
気を集めている。それはリョーマも例外ではなかったものの、テニス以外には周囲にも自分自身にも無
頓着なリョーマは、女子からの声援も綺麗に聞き流している。
 もう少しで休憩も終わる。午後から立て続けの練習メニューに、現在二十分の休憩時間が与えられて
いた。その合間に部員は思い思いに時間を使っている。大抵はリョーマのように大木の根元で涼んで
寝転がっている者が多いが、中には夏休みの宿題を乾に訊いている者もいる。それぞれが思い思いに
時間を使っている休憩時間。リョーマはファンタを飲み干すと、残り僅かな休憩時間に次の飲料水を買
おうかと、重い腰を上げた。
「ったく、桃先輩いれば、買ってきてもらうのに」
 桃城が聴いたら、大仰に溜め息を吐きつつ、情けない反駁をするだろう科白を吐きつつ、リョーマの足
は自動販売機のある校内の一角に向った。
 校内の食堂にも自動販売機はあるものの、スポーツの盛んな青学は、土足でも飲料水が買えるよう
にと、校舎に併設して設けられている中庭のような空間にも、自動販売機が二台設置されていた。尤も
そこは昇降口で上履きに履き替え食堂に向うのと、そのまま直行しても、距離的にはさして大差ない場
所だった。けれど面倒な輩が数多いスポーツクラブの大半の部員は、食堂ではなく、外に設置された自
動販売機に足を向ける者が殆どだった。それはリョーマも例外ではなく、校舎を横切った時だった。
「堀尾君、ダメだよ」
 緑豊かな校庭の一角。積翠に隠れるように、リョーマの見知る一年生トリオが、何やら密談するように
佇んでいた。潜められて咎める声に、内緒事の色合いが色濃く滲み、リョーマはまた何かやっているな
と、子供じみた彼等の背を眺めた。
「戻ろうよ」
 カツオとカチローが堀尾のジャージの裾を引っ張っているものの、堀尾は二人の科白に耳を貸さない
様子で、呼吸さえ潜め、何かを窺っている。堀尾に声を掛けているカツオとカチローの声も低く潜められ
ているのがリョーマには可笑しかった。
「何してるの?」
「リョーマ君…!」
「驚かすなよ越前」
 そんな三人の様子に気配もなく近付くと、不意に掛けられたリョーマの声に、三人は悪戯を咎められ
た子供のように飛び上がらんばかりに驚いて、慌てて背後を振り返った。
「もうすぐ休憩時間、終わるよ」
 どう見ても、何かを覗き見ているとしか思えない三人に、けれどリョーマはさして気にした様子も覗か
せず、そのまま通りすぎようとした瞬間、堀尾の腕が、リョーマのレギュラージャージの裾を威勢良く引
っ張った。
「ちょっ…」
 危うく前のめりになりそうになり、リョーマが堀尾を咎めたものの、その声は彼らに合わせ、自然と小さ
くなっていた。
「見てみろよ」
「……なに?」
 リョーマの咎めた声をまったく気にした様子もなく、積翠の向こうを指差す堀尾の科白に、共犯にする
なと憮然となりながら、視線を映した瞬間、リョーマは瞠然となった。色素の薄い空色の瞳が、夏の陽
射を映しながら、無自覚な揺らぎを見せる。
「桃先輩……?」
 生い茂る樹々の緑の向こう側、自然と切れ切れになる視界の先には、桃城と見知らぬ女子の姿が在
った。
 その色合いは如何なものよ?女子からも首を傾げられてしまう色彩センスが豊富とは言えない青学
の女子の夏服セーラを身に纏い、華奢で小柄な少女が、桃城に何かを差出、俯いている。
 話し声までは届かないものの、けれどそれが告白場面だと判らない程、彼らも子供ではなかった。
けれど好奇心が先にたってしまうあたり、彼らは未々子供だということだろう。けれどリョーマは違う。
 好奇心と興味本位が先立つ堀尾達とは明らかに違う瞳をして、リョーマは桃城の姿を凝視している。
瞳が揺れている自覚は、リョーマにはなかった。
 さして距離のない場所からの覗き見だ。少女の俯く面差しも、輪郭程度には判ってしまう。
 華奢で小柄な線は、少女らしい可憐さで、俯く貌も、色白で目鼻立ちが整っているのが見て取れる。
俯き、半眼閉ざされた睫毛の慄えまで、まるで手にとるように判ってしまう距離に、胸の奥を灼く吐き気
にも似た嫌悪に、リョーマは瀟洒な造作をいびつに歪めた。
 賑わう雑踏のように気安い笑顔が印象的な桃城は、男女問わず友人が多い。人を構えさせない開放
的な笑顔は、特に女子には好まれることが多いことも知っていた。気安く声を掛けられるということも手
伝ってだろう、桃城が案外女子からモテることも、告白されていることも知っていた。桃城の周囲には、
常に数人の女子が取り巻いているからだ。上級生の女子から人気が在ることもつい最近知った。
 そんな桃城に、いつもなら物好きな女もいますねと軽口を叩く所だ。そうして他愛ない会話楽しんでい
た筈だ。けれど実際桃城の告白現場に遭遇してしまえば、いたたまれない嫌悪を感じてしまう。苦い何
かが喉元から迫り上がってくる感触に、リョーマは身動ぎもできないまま、無自覚に手掌を握り締める。
 短く切られた形良い爪が、肉に食い込み痛感を訴える。けれとリョーマは身動ぎもせず、桃城を凝視し
ている。
 うだる夏の暑さ、降るようになく蝉の声。自分を取り巻く一切が綺麗に遠去かり、リョーマの空色の瞳
は、桃城の姿のみを綺麗に映し出している。
 女子からの告白に、桃城はまんざらでもなさげな様子で髪を掻き、相変わらず明るい笑顔を振りまい
ている。雰囲気だけなら、もうOKを出したような二人に、リョーマはいたたまれず酷薄な口唇を噛み締
める。半瞬、口内に鉄の匂いが広がった。
「どうするのかな?桃ちゃん先輩」
「可愛い子だよね」
「俺なら即OK出すけどな」
 堀尾達が好き勝手に感想を述べ、食い入るように正面の二人を凝視している姿は、子供らしい興味と
好奇心だろう。
「リョーマ君は、どう思う?」
 カチローの無邪気な声に、我に返ったかのようにビクリと薄い肩を揺らすと、リョーマは「別に」と、素っ
気ない返事を返し、踵を返そうとした。けれど心より躯は余程雄弁なのだろう。足先は一歩もその場所
から動くことはなく、リョーマの視線は桃城を凝視したままだった。
 これ以上、少女に笑い掛ける桃城は見たくないというのに、視線が外せない。忌ま忌ましさに叫び出
しそうだった。
「知らないくせに……」
 喉の奥から吐き出すような呟きが漏れる。
桃城の正面で俯く少女は、桃城の何を知っているというのか?明るい笑顔に騙されて、その本質的な
一切を知りもしないくせに、告白をしている。それがリョーマに不愉快さを与えていた。
 賑わう雑踏のように気安い笑顔。他人から警戒心を殺ぐそれは、けれど盾と同義語のものだと知らな
いレギュラー面子は存在しない。桃城に甘やかされ放題甘やかされているリョーマでさえ、そんなこと
は結構早くに気付いた事実の一つにすぎない。 桃城は手塚が認める青学一の曲者だ。それは桃城
のテニスの有り様を見れば、一目瞭然に判りそうなものだろうに。
 桃城のテニスは、跳躍力とパワーという二つの身体能力を最大限に発揮するテニススタイルだ。けれ
どパワーだけで、今まで成果を残してきた訳では決してなかった。
 頭脳戦など得意には見えない桃城は、けれど研ぎ澄まされた洞察力で、相手の動きを的確に見抜い
てプレーすることのできる選手だ。コートという戦場に立てば、明るい笑顔はなりを潜め、滲み出すのは、相手を見据える狼のような視線だ。大型犬のように人懐こい印象と言われる桃城は、けれど実際の
性格は忠犬ではなく、腹の底で淡々黙々と牙と爪を研ぐ野生の獣だ。
 人懐こい印象は、それが周囲との摩擦を少なくする手っとり早い手段の一つだと熟知しているからだ。明るい笑顔を向けていれば、偶視する相手はそうと勝手に判断することを、桃城は良く判っている。
 それなのに、桃城に好きだと告白する女子が何故気付かないのか?桃城に告白し、答えを待ってい
る少女に、いたたまれない不快感が込み上げてくる。いっそ莫迦莫迦しいと、大笑いしたいくらいだ。 
 俯く少女が差し出している小さい箱。告白とセットとは思えないそれを、桃城は困った様子で眺めた後、口を開いた。遠目にも少女の華奢な躯がビクリと慄えたのが判った。
「……曲者…」
 驚きと、瞬時に色が失せていく少女の面差しに、桃城がなんと返答したのかリョーマには察しが付い
た。
 きっと泣き出しそうな表情でもしているのだろう。困った様子で蟀谷を掻く桃城に、リョーマは内心少し
だけ呆れた。
 実際困ってはいるのだろう。けれどそれは大仰にすぎるポーズだという程度のことは、リョーマには丸
判りだ。伊達に桃城と一緒に居る訳ではないのだ。桃城の内心の多少は推し量れる自負はあった。
けれど現金にも、桃城のそんなポーズを目にした瞬間、身の裡でとぐろを巻くように蟠っていた不快感
は、いっそ呆れるくらい、簡単に霧散していく。
 少女は泣き出しそうに細い身を慄わせ、桃城の前で顔を覆っている。
「桃の奴、ま〜〜た女の子泣かせてる」
 咎める口調とは裏腹に、ひどく楽しげに笑う聞き慣れた声に、リョーマ達は一斉に背後を振り返った。
そこには36コンビと呼ばれる英二と不二の姿が在った。
 一体いつから背後に居たのだろう?他人の機微を感じ取ることは不得手でも、他人の気配には敏感
な自分に気付かれず、背後に居た英二達に、リョーマは少しばかり呆れた表情を刻み付けた。 
「またって、桃ちゃん先輩、いつもなんですか?」
 英二の楽しげな科白に、堀尾が至極真っ当な疑問を口にすれば、英二はやはり楽しげに笑って口を
開いた。
「桃の奴、あれで案外女子には人気があるし、モテるから、告白されるの多いんだよにゃ。だけど誰にも
オッケーしないから、案外女の子を泣かせてるんだよにゃ」
「テニス部の中じゃ、告白される回数は一番かもよ?」
「一番、ですか?」
 不二の科白に、思わず驚いたように反芻するカチローに、罪はないだろう。モテるという度合いからな
ら、目の前の不二はテニス部中誰よりモテている筈だ。それどころか、校内でも一、二を争う威勢で人
気があることは、誰もが知っている単純な事実だ。それに部長の手塚は生徒会長も兼任し、その卒の
なさからやはり女子から人気が高い。
 ハッキリ言って、レギュラーでモテないのは、怖いと言われている海堂くらいだとカチロー達は思って
いた。だから桃城がモテると言われれば、それは簡単に理解できるものだった。
けれどテニス部の中で告白回数が一番と言われると、疑問が湧いた。
「桃は見た目ああだから、女子には気安いんだよね」
 人好きのする笑顔は、まるで真夏の太陽のように明るく屈託がない。けれどそれは作為的な盾として
の意味しか持たないものだから、見掛けに騙され泣かされる女子が後を絶たないのが現実だった。
それでも懲りずに告白してくる女子が後を絶たないのは、自ら経験しなければ、明るい笑顔からは想像
が付かないからなのかもしれない。
「なのに桃ちゃん先輩は、彼女作らないんですか?」
 普通それだけ告白されれば、彼女は作るだろう。そう考えるのは、子供の発想だと彼等は知らない。
「ん〜〜〜桃はあれで年上思考だからにゃ……」
 精神的に自立した年上の女が桃城の好みだと、リョーマ以外のレギュラー面子は知っている。けれど
リョーマは初めて聴く事実に、少しばかり瞠然となった。
「でも今は、微妙に違うと思うけどね」
 桃城からリョーマに視線を移し、不二が意味深に笑い掛ければ、リョーマは少しばかり柳眉を寄せた。
精神的に自立した女性が好みの桃城は、去年までなら適当につまみ食いのように付き合っていた彼女
ともいえない存在がいたことを不二達は知っていた。けれど今は違うんだろうなと、不二の柔らかい眼
差しは、リョーマを見ている。
「心配しなくても、大丈夫だよ」
「今はオチビといる方が、楽しいみたいだしにゃ」
 無自覚に瞳を揺らすリョーマに、英二が柔らかい黒髪を撫でれば、リョーマは問答無用で英二の腕を
はたき落とした。
「意味判らないっスよ。それに俺といる方が楽しいなんて、女断る免罪符に使われてもね」
 憮然となってリョーマが36コンビを眺めれば、やはり二人は意味深に笑っているばかりで、リョーマの
機嫌は別の意味で悪くなっていく。それをやはり二人は愉しそうに眺めているから、リョーマに言わせれ
ば、タチが悪いとはこのことだということになる。
「可愛い、可愛い、オチビ可愛いにゃ」
 桃城になら当たり前のように許している仕草も、他人が髪を梳く不快感に憮然となっているあたり
、リョーマの素直さが英二には可愛くて仕方なかった。それも無自覚だから尚更だ。
「鬱陶しい」
 男が可愛いと言われて嬉しい筈もないだろうにと、リョーマは再び髪を掻き混ぜてくる英二の腕を問答
無用で叩き落とせば、英二は未練もなく腕を引っ込め、桃城を眺めた。
「あそこで慰めないのが、悪い男っていうか、容赦ないっていうか」
 泣き出した少女に、桃城は一言二言、言葉を掛け、そして泣き出した少女を慰めることもなく、背を向
けた。その潔さに、リョーマは曲者とボソリと呟いた。
「普通泣かれると慰めちゃったりするんだよね。でもその方が、よっぽどタチの悪い男だと思うけどね」
「でもあれだにゃ?泣いたら女の勝ちで、泣かれたら男の負けっていう正攻法は、桃にはあんま通用し
ないにゃ」
 切り捨てる部分は容赦なく切って捨てる桃城だ。告白を断った相手にかける慰めを持ってはいない。
それが優しさか、無慈悲かは、恋愛経験と価値観で意見が別れる所だろう。
「泣かれたら男の負け……」
 何かとんでもなく素晴らしい科白を聴いた気がして、堀尾は眼を輝かせている。
 きっと自分に都合のいい解釈と、余分な部分はごっそり抜け落ちて物事を捕らえる堀尾は、英二の科
白に間違った感銘を受けたのは誰の目にも明らかだ。
「女の人は、泣き出したら、居直っちゃうのがパターンだから」
 そんな恋愛をしてきたんですか?ついつい訊きたくなってしまう不二の科白に、けれど賢明にも誰もそ
んな科白を口にする者はいなかった。
 柔和で莞爾と微笑む、テニス部一繊細な造作を持っている不二が、けれど実際はその顔で、蜥蜴喰
うかや時鳥という性格であることは、テニス部員で知らない者は存在しない。乾汁を美味しいと莞爾と
笑い、飲み干すことのできるのは不二だけだ。
「曲者なだけですよ」
 背を向け一度も少女を振り返らない桃城をジィッと凝視し、リョーマが薄い笑みを刻み付ける。その満
足そうな綺麗な微笑みに、英二と不二は互いに顔を見合わせ、肩を竦めた。
 ここまであからさまな表情をしているくせに、桃城に対する気持ちが無自覚なあたり、リョーマらしい。
きっと桃城も無自覚だろうから、とっとと気付けと思うと同時に、ゆっくり気持ちを交わしていけばいいだ
ろうとも思え、後輩二名を見守ってやろうと不二や英二が思っていることを、けれどリョーマは知らない。
 泣き出した少女を置き去りに、桃城が此方に向ってくるのに、慌てても遅かった。桃城のことだ。案外
簡単に自分を凝視してくる気配には気付いていたのかもしれない。
「タチ悪いっスよ、英二先輩」
 生い茂る緑を器用に避け、ガサリと音を立て歩いてきた桃城は、開口一番そう口にする。
「俺は今きたばっかだぞ」
「後輩の前なんだから、先輩らしい深慮で、覗き見は咎めて下さいよ」
「にゃ〜〜んだ。やっぱ気付いてたか」
「当たり前じゃないっスか」
 何を言わんやと、悪びれた様子を欠片も見せない英二に、桃城は盛大に呆れて笑った。
 気配どころか、時折話し声さえ伝わってきましたよと、桃城は肩を竦めるものの、気付かれて堂々と少
女を切って捨てるあたり、桃城も大概曲者で、どちらも悪びれた様子がないのだから、お互い様というこ
とだろう。
「お前も、覗き見してるなよ越前」
 他人の告白現場など、欠片も興味が湧くとは思えないリョーマが、一年生トリオと一緒になって覗き見
しているのに、桃城は呆れたと同時に、クシャクシャと柔らかいネコッ毛の黒髪を掻き乱す。
「あんたが悪いんスよ」
「お前、機嫌悪いのか?」
 色素の薄い空色の双眸を覗き込めば、リョーマの機嫌が何処となく悪いのが感じ取れた。
「当然でしょ?喉渇いたのに、あんたいないし」
「………その心は?」
「ファンタ飲み終わっちゃったから」 
「越前〜〜〜お前やっぱ、俺を先輩だと思ってないだろう」
 シレッと言うリョーマに、桃城は情けない声を上げ、ガックリ肩を落とした。
「桃先輩、いつもそう呼んでるでしょ?」
 それじゃぁ不満だって言うの?と、リョーマが桃城を眇め見れば、周囲から盛大な溜め息が漏れるの
に、リョーマは憮然となり、桃城は渇いた笑みを口端に乗せた。
「越前、お前桃ちゃん先輩に何てこと言うんだよ」
 焦った堀尾が慌ててリョーマを咎めた。
先輩後輩という垣根を超え仲が良い二人は、けれど自分達では到底推し量れない強い何かが感じられ、堀尾はそれが少しばかり羨ましかった。
 きっと自分だけではなく、カチローとカツオもそうだろうなと思い視線を移せば、二人共何処か複雑そう
な表情をしていた。
「それでこそオチビ」 
「ご馳走さまって感じだね」
 訳の判らない納得をして36コンビが笑うのに、リョーマはタチの悪い先輩二名は放置しようと心に決
め、不意に桃城の腕を掬い上げ、
「ファンタ」
「ヘイヘイ、でも今はファンタはやめとけ」
「文句あるの?」
「アクエリか何かにしておけ、じゃないと意味ないぞ」
 単純に喉を潤すだけでは、水分補給の意味にはならないから、桃城はリョーマに求められるまま、ファ
ンタを買ってやるつもりはなかった。              
「桃〜〜お前自分の誕生日に、後輩に奢ってやってるなんて、不憫な奴」
「誕生日?」
 英二の科白を聞き咎め、リョーマが桃城を見上げれば、桃城は悪びれた様子も覗かせず、笑って英二
の科白を肯定する。
「ああ、だから…か…」
 先刻の少女が、桃城に差し出していた小さい箱の正体は、誕生日プレゼントだったのかと、リョーマは
やっと納得がいった。だったら誕生日プレゼントを贈ることにかこつけて、どさくさに告白をしようとしてい
たかのかと思えば、消えた筈の不快感が再び胸の奥で頭を擡げてくる感触に、リョーマは舌打ちする。
「ホラ行くぞ、もう休憩時間も終わりだ」
 瀟洒な造作に無自覚だろう渋面を刻み付けたリョーマに、桃城はその意味は判らないものの、これ以
上リョーマの機嫌を悪化させる訳にはいかないと、リョーマを促し歩きだした。
「それ俺の科白じゃん」
 桃城に引き摺られるようにして歩き出したリョーマは、ぶつぶつ文句を言いつつ、桃城と一緒に自動販
売機の方角へと消えていく。
「桃〜〜早く戻って来いよ」
「判ってま〜〜す」
 練習最中、時計を持つ習慣はないから、正確な時刻は判らないものの、どう考えても、休憩時間は終
わっているだろう。きっと桃城も判っているのだろと思えば、過保護だと思わずにはいられない英二と不
二だった。所詮甘やかしたいだけ、リョーマを甘やかす桃城は、悪い男の見本のようだ。
「お互いに無自覚っていうのが、可愛いよね〜〜」
 莞然と笑う不二の科白は、一年生トリオには判らないから、堀尾達は互いに顔を見合わせ、首を傾げ
ていた。





















 通学手段が自転車の二人には、本来賑わう青春台駅周辺の雑踏は、無関係な筈だった。けれど部
活で消耗したエネルギーを補給するには、駅周辺のショッピングモールに点在する、ファーストフード店
というのが、二人の暗黙の了解になっている。そしてそれは学生なら、誰もが考えることだからなのだろ
う。ファーストフード店はいつも混雑している。
 セット価格でハンバーガーからポテト、飲み物までついているファーストフードは、小遣いに制限のある
子供なら、質より量に比重を置くのは当然だろう。だから二人も大抵、駅周辺のファーストフード店まで
足を延ばしている。
 都内へ向う車両と、都下への車両とが接続している青春台駅周辺は、バスターミナルやタクシー乗り
場があり、駅構内から隣接している駅ビルと、そして周辺にはショッピングモールがひしめいて、賑わっ
ている。
 そしてショッピングモールとは反対側の駅周辺は、オフィス街になっていて、そこはショッピングモール
とは一段も二段も趣が違う。まるで駅という境界の向こうと此方程度の落差だったから、向こう側はサラ
リーマンやOLの姿が主流で、ショッピングモール程の賑わいはなかった。
 けれどショッピングモールは何処も賑わっていて、夏の季節を向え、夕暮れの時間が延びている所為
も手伝ってか、誰もが何処か浮き足立っているように見えた。
 小綺麗な喫茶店や、女性が好みそうな小物を売っている店。十代の少女をターゲットにしている量販
店のディスプレイは、フェミニンなワンピース姿のマネキンを飾り、店内は少女で賑わっているのが見て
取れる。かと思えば隣は十代の若者をターゲットにしているちょっと洒落たメンズ物を扱う店がある。
ショッピングモールを住宅街方向へと進めば、昔馴染の商店街の風情があって、日常雑貨や精製食品
を扱う店が建ち並ぶ。
新しいものと古いものとが巧く調和し、混融しているのが、青春台駅の特徴なのかもしれない。
 青春台駅周辺は、夏休みに突入し、学生服姿の子供の数こそ減ったものの、私服姿の少年少女の
姿は逆に増えているから、駅周辺のファーストフード店は何処も子供で賑わっている。
軽快なリズムが流れる店内は、おおよそ十代の少年少女でひしめいて、誰もが自分達の会話に夢中
だった。
「ハイ、俺の奢り」
 そうして目の前に置かれたトレイに、桃城は半ば喫驚した様子で、正面に座った小作りな造作をまじ
まじと凝視する羽目に陥った。
 知り合ってから数ヶ月。リョーマに奢ることはあっても、奢られた記憶がまったくない桃城にしてみれば、それは当然の反応だろう。ましてリョーマは当然のように桃城に奢ってもらっている人間だ。そのリョ
ーマが自分でレジに並び、桃城を先に席に行かせた時点で、桃城には奇妙なことだった。それがこうし
てファーストフードのセット価格の代物とはいえ、奢られてしまえば、後が怖いと思う桃城の内心は、当
然の結果だろう。
「何?奢ってもらって文句ある?」
 桃城の反応に、フライドポテトを口に放り込み、正面に座る桃城を睥睨する。
「文句はないけどな。お前…熱あるか?」
「優しい後輩が、折角誕生日に奢ってやってるっていうのに」
 だったらもう奢ってやらないとリョーマが睥睨を深めれば、桃城は漸くその時点で、リョーマの奇妙な
行動に納得がいったのだろう、ポンと手を叩いた。
「ムカツク」
「いやいや、優しい越前君の行為が無償なら、俺だってそりゃ謹んで受けますよ」
「あんた本当にムカツク」
 恭しく手を合わせ、いただきますなど言う桃城に、リョーマは盛大に呆れ、ハンバーガーを頬張り始め
た。既に気分は勝手に言ってろというノリだった。
 そうして暫く他愛ない会話を交じわせ、互いに軽口を叩いていた時だ。リョーマは不意に何かを思い出
したかのように、突然突拍子もない科白を口にした。
「ねぇ?桃先輩は、巨乳好きなの?」
 突然前振りなしにサラリと告げられた科白に、桃城は口にしたハンバーガーの最後の欠片を、咀嚼せ
ず丸のみする羽目に陥って、激しく噎せ込んだ。 
「おま…そりゃ…」
 盛大に噎せ、言葉を詰まらせ、それでもなんとか反駁しようとしているのだろう。ドンドンと胸を叩き、
食道を通過しきれずに在るハンバーガーの欠片と格闘している。
「何やってるの?」
 そんなに驚くことか?リョーマは正面で噎せ込んでいる桃城に、彼のトレイからコーラをとってやると、
それを差し出した。それをひったくるように受け取ると、桃城は一気に飲み、今度は違うものに噎せる結
果になった。
「子供……」
 これだけ慌てるのだから、やはり桃城は荒井達が言うように、巨乳好きなのだろうと、リョーマの瞳が
自然と眇められる。
 そんなリョーマの視線を気にしている様子は桃城には微塵もなく、Lサイズのコーラーを慌てて口にし
て、そうしてやっと楽に呼吸ができるようになった時、一体何処からそんな話しに飛ぶんだと、眼前の小
綺麗な貌を凝視する。
「お前、突拍子しすぎるぞ」
 周囲には友達と連れ立って買い物にきたのだろう少女達が大勢いて、けれど幸いにも自分達の会話
に夢中な様子で、リョーマの突拍子もない科白を聞き咎めている様子はなかった。
「大体、何処からそんな話しになったよ?」
 今までテニスの話しをしていた筈だ。全国大会はもう目と鼻の先で、来週には部長の手塚も帰国し、
練習に参加するのだ。
 全国大会出場という悲願は通過点の一つにすぎず、最終目標は全国大会優勝だ。誰もが全国という
頂を、目指しているのだ。
 今までそういう話しをしていた筈だ。それが一体何処から巨乳という単語が出てくるのか、桃城には
甚だ謎だった。
 尤も、胸の裡の何かを分け与えようとする時のリョーマの言葉は、いつも決まって断片的になる。それ
が意図している部分かといえば、リョーマには自覚がないらしいことを桃城が知ったのは案外と早い。
 無自覚なまま差し出されるそれに、桃城はいつだって不思議なものを見る気分に陥るのだと、きっとリ
ョーマは知らないだろう。
 一極集中の思考回路は、あたかもそれがリョーマの天から与えられたテニスの才に対する代償のよう
に感じ取れる時がある程、リョーマは周囲にも自分自身にも頓着がない。テニスをしていられればそれでいい。出会った当時はそんな危うさまで垣間見えた。
 そんなリョーマが時折口にする断片的な言葉は、それが当人も意識しない外側の部分からもたらされ
る、胸の内側を分け与えようとするものだと判って以来、桃城は軽口でない限り、リョーマとの会話はそ
うと判らない部分で、本質を考えてから口にすることに決めていた。それは無意味な科白を口にして、リ
ョーマを傷つけたくなかったからだ。それくらい、桃城にとってもリョーマは大切な存在だった。
「荒井先輩達に、本貰ってたでしょ?」
「………それはなぁ…」
 しまったっと、桃城は盛大に溜め息を吐き、大きい手掌で顔を覆い、思わず天を仰いだ。
 比較的天井の高い作りになっている店内は、明るい照明が差し込め、それとは対照的に、空気は冷
房で冷やされている。顔を覆う手掌の隙間を縫うようにして、人工の光が差し込んでくる。
「誕生日プレゼントだって」
「…お前は、どうしてそういう部分だけ、目敏いんだよ」
「夜のおかず用?」
「越前〜〜〜〜お前そうしてて何か楽しいか?」
 どこをどう見ても、事態を楽しんでいるとしか思えないリョーマの科白と表情に、桃城はガックリ肩を落
とした。
「大体、おかず用ってな」
 中学生なら、異性に対する好奇心と興味で、その手合いの雑誌を親の眼を盗むようにして読み始める
年齢だ。けれどどうにも自分の正面に座るリョーマは、テニステニスで、セクシュアルな面には縁遠い気
がしていたから、リョーマの口から夜のおかずとか言う科白が出てくると、幼い子供に、不埒な真似をす
る大人の気分に陥ってしまう桃城だった。  
「違うの?」
「だからなぁ〜〜〜」
 キョトンとした意外そうな表情で凝視してくる眼差しの、そこに込められる真意は一体何処にあるんだ
ろうかと、桃城は深々溜め息を吐き出した。作為的かと思っていたものの、もしかしたらまったく無自覚
なのかもしれない。      
「年上の精神的に自立した女が好きだって聴いたから」
 練習の小休止の合間。偶然目撃してしまった告白現場で聴いた科白に、だったら荒井達から誕生日
プレゼントという名目で渡されていた本など意味はないんじゃないんだろうか?リョーマは素直にそう思
ったのだ。
「誰にだよ、誰に」
「決まってるでしょ?」
 その瞬間、意味深に笑ったリョーマに、桃城は内心『恨みますよ、英二先輩〜〜〜』と情けない声で、
此処には居ない英二に向って叫んでいた。
「それに、不自由しなさそうだから」
「お前………俺をなんか勘違いしてないか?」
「正しい認識だと思うけど?」
 桃城がモテルことなど、英二達に聴くまでもなく、判っていたことだ。自分と居る時ですら、桃城は女
子生徒から呼び出しを受けているくらいだ。けれど不思議と桃城はそんな時、決まって今は手が離せな
いと、女子からの告白を巧く遠ざけていた。
 最初こそ後輩と居るという名目で、さりげなく女子を遠ざけていたと思っていた。だとしたら自分は随分
都合のいい使われ方をしているとも思っていた。けれどそれはどうやら違うらしいとリョーマが知ったの
は、つい最近のことだ。
「お前のそれは、歪んだ認識っていうんだ」
 大体俺は健全な中学生だぞと小声で反駁する桃城の科白は、けれど英二から桃城の好みを聴いた
今、リョーマにはまったく意味のないことだった。
「でも、認識には、違いないんだ」
「………お前は屁理屈を〜〜」
 ああ言えばこう言う。まるで流れていく会話はキャッチボールのようで、本題は遠ざかっていく一方だ。
いっそこのまま遠ざかって戻ってくるなと桃城が思っていた矢先、リョーマが再び突拍子もない科白を口
にするのに、桃城は今度こそ本気でガックリと項垂れた。
「だから、今日の告白は断ったんスか?」
「根拠は胸のデカさか?」
「アッ、やっぱ問題はそこ、なんだ」
「越前〜〜〜」
 まるで誘導尋問される気分に陥って、桃城は落涙する。一体どうして今日に限ってこんなに絡むんだ
と、桃城は肩を落とす。
 何も男なら誰もが、巨乳好きだという訳ではないのだと、リョーマにどう説明したら理解してもらえるの
か?考えるだけ無駄な気がしてきて、桃城は更に深く溜め息を吐いた。
「だって、荒井先輩達から渡された本って、巨乳シリーズとかいうやつでしょ?」
 中身は見ていないものの、部長の手塚がいない、少しばかり緊張感がない部室は、副部長の大石と、その補佐をしている乾が不在だったことも手伝って、そんな会話が練習後の着替え時にされていた。
「……もう喋るな…」
 周囲には少女が多いのだ。そんな場所であからさまな言葉を口にするのは如何なもんよ?そう考え
てしまう桃城は、至極真っ当な少年なのだろう。それは逆に、リョーマの性的部分の縁遠さを思わせた。
 セクシュアルなものには縁がないように感じるリョーマのそれは、一極集中の思考回路の全てがテニ
スに注がれている所為で、日常的な大半の部分を、削りとっているように感じるからなのかもしれない。
むしろコートに立ち、相手を見据え、冷ややかな双眸に熱を孕み、不敵に相手を見据え笑うリョーマの
存在そのものが、セクシュアルに映ってしまうから、リョーマ自身が性的興奮をテニス以外に覚えない
感触が在るのかもしれなかった。
 それは中学生男子としては、些か片輪だと思わずにはいられない桃城だった。      
「それじゃぁ、ウチに来ます?」
 ハンバーガーの欠片を口に放り込み、コーラで流し込むと、リョーマは意味深に笑い掛けた。それは
半瞬、桃城が見蕩れてしまう程、綺麗なものだった。
「何企んでる?」
「桃先輩こそ、俺の認識、間違ってるっスよ」
「お前がそんな笑い方してる時は、悪巧みしてる時って決まってるんだよ」
 悪戯を思い付いた子供のような笑みだと思うものの、背後に横たわる気配は、意味深なものだ。そん
な笑い方をリョーマは一体いつから身に付けていただろうか?考えても、桃城には判らなかった。けれ
ど今判っていることが有るとすれば、こんな時のリョーマの笑みは、確実に何か悪戯を仕掛ける時で、
そしてそれは、桃城には勘弁してくれと落涙したくなってしまうものが大半だという、経験値から推測される単純な事実だった。
 それでもリョーマとこうして一緒に居るのが心地好く、そうして不思議と庇護欲を掻き立てられてしまう
から、桃城は時折、自分の内心に疑問を感じずにはいられなかった。
「あんたこそ、俺の認識間違ってるんじゃないの?」
 こぉ〜〜んな可愛い後輩が、誕生日に奢ってやってるのにと、リョーマは嘯いて笑うと、席を立った。
華奢な肩に、テニスバッグを担ぎ上げる。
「ホラ早く」
「お前なぁ〜〜」
 桃城を急かすと、リョーマは振り返りもせず、店内を歩いて行く。
「ったく」
 仕方ない奴だとぼやきながら、表情が口調を見事に裏切って、楽しげに笑っている自覚は、桃城には
なかった。











 リョーマを送っていった桃城は、結局リョーマの部屋に居た。コートに居る時は夏の暑さも気にならな
いリョーマは、けれどテニス以外では暑さが苦手なのか、部屋に入ってテニスバッグを床に置いた時に
は、冷房のリモコンを片手にスイッチを押していた。
 急速冷房にでもしてあるのか、室内に威勢良く冷たい風が入り込む。
「お前、冷やしすぎだろうが」
 生温い室内の空気が威勢良く冷やされていく感触に、桃城は僅かに攅眉すると、リモコンを片手に温
度設定を確認し、呆れた。設定温度は20度になっている。いくらなんでも冷やしすぎだった。
「ちょっと、勝手に温度上げないでよ」
「バカ言え。スポーツ選手が肩冷やしてどうする」
「そんなヘマしないよ」
 慌ててリモコンを取り上げようと腕を伸ばしてきたリョーマの腕を避け、桃城は床に座り込む。ベッドに
背を預け床に座るそれは、リョーマの部屋に着た時の桃城の定位置だ。
「ヘマとかそういう問題じゃないだろうが」
 それはスポーツ選手なら、まして肩を使うテニス選手なら当然の配慮で、勿論ヘマとかそうでないとか
いう見解は、論外だ。
「第一今はクールビズで、官公庁は28度設定なんだぞ」
「俺達は子供で、大人のツケを支払わなきゃならない謂れはないでしょ」
 第一そんなの役所が守っているとは思えないねと、リョーマは舌を出す。その余りに子供じみた応酬
に、桃城は半瞬呆れ、精悍な面差しに深い苦笑が滲んだ。
 クールだといわれているリョーマが時折見せる、ひどく子供じみた一面が、桃城は好きだった。リョー
マがこんな無防備な表情を見せる人間は、片手で足りてしまうだろう。そんなリョーマが見せる警戒心
のない表情は、それだけで桃城をひどく倖せにするものだった。
「まぁ、そう言うなって」
 それは桃城も同感だとは思うものの、なまじっか中央官庁に知り合いがいない訳でもなく、ましてそれ
が自分の父親で、現職の警視庁刑事部捜査一課の管理官となれば、話しは別だった。
 二十八度設定では、逆に暑くて効率が悪いと、先日被疑者を逮捕し、諸々の書類と共に被疑者を送
検し、捜査本部を解散してきた父親が、家族とは実に一ヶ月半ぶりに夕食を共にした時、うんざり告げ
た科白だった。
「ちょい上げるぞ」
「二十八度なんて上げたら、承知しないっスよ」
 夏生まれで、夏男そのままの印象の桃城は、その印象を裏切らぬことをリョーマは気付いている。
桃城と同じ体感温度に設定されたら暑くて堪らないと、リョーマは憮然となった。
「夏は暑く、冬は寒い。それで調整がとれてんだぞ」
「って、地球温暖化現象の元を作った大人達に言ってやれば?」
「ったく、ああ言えばこう言う」
 やれやれとリモコンの温度を数度上げる桃城を横目に、リョーマは制服のシャツを無造作に脱ぎ捨て、ラフなTシャツに袖を通す。
「お前、それこの前俺が泊まりにきた時、置いてったやつじゃないのか?」
「そうだけど?」
 シレッと答え、リョーマが袖を通したTシャツは、ほっそりした華奢な躯には確実に一回りは大きい代
物で、肩の線がずり落ち、陶器のように白い肌や、ほっそりした鎖骨が生々しく見えてしまう、桃城のシ
ャツだった。
「お前には大きいだろうが」
 まして色合いやデザインが、リョーマには似合わない気がした。黒に銀色で十字架など描いてある代
物は、リョーマの印象からは似合わない気がしたのだ。それをリョーマが気にした様子もみせず、当たり
前のように着ているのに、桃城は苦笑を禁じ得ない。
「大きいから、ラクなんじゃないスか」
「程度問題があるだろうが」
 それでなくても自分とリョーマの体格差は、下手をすれば一回り以上だ。その所為で、Tシャツの裾は、細く白い膝まで伸びていて、ハーフパンツを履いてすら、ダボタボのシャツで隠されてしまっている。
「俺の部屋着になってるから」
「俺のだぞ」
「忘れてったあんたが悪い」
 文句言うなと言いながら、リョーマは部屋の扉に手を掛けた。
「いいもの持ってきて上げるから、ちょっと待ってて」
「マジに嫌な予感がするぞ」
「そぅ?多分いい物だと思うけど?」
 そう笑うと、リョーマは部屋を出て行った。階段を降りていく足音は聞こえないが、リョーマが階下に降
りていったのは気配で判る。
 両親の躾の賜物なのか、元々そうなのか、リョーマはあまり足音を立てない。そういえば、リョーマの
父親である南次郎も、飄々とした態で、足音を立てずに歩いているのを思い出すから、もしかしたら遺伝だろうか?そう思えた。尤も南次郎は、足音どころか気配さえ絶つ始末の悪さを持っていることを、桃城
は知っていた。





「ハイ」
 数分後、足許に愛猫のヒマラヤンを纏い付かせ、クリスタルグラスを乗せたトレイを片手に戻ってきた
リョーマは、小脇に一冊の雑誌を挟んでいて、意味深に笑った後、桃城にその雑誌を手渡した。
「越前〜〜〜〜!」
 手渡された雑誌を見た瞬間、桃城は情けなさげな声を上げ、次にはガックリ項垂れた。深々溜め息が
漏れる。
「巨乳特集だって」
 シレッと口を開いたリョーマは、桃城が背を凭れているベッドに寝転がると、足許に纏わり付くカルピン
を抱き上げ、面白そうに桃城の背を眺めた。
 背後からでも、桃城がどんな表情をしてるのか判るのは、いつもいつも、その背を眺め、登下校してい
るからなのかもしれないなと、リョーマはネコじゃらしを手にした。
「……訊くのは怖いする気もするけどな、どうしたんだコレ?」
「そんなん親父のに決まってるでしょ?」
「やっぱりかよ!」
「大丈夫、親父には断っといたから」
「越前〜〜」
 勘弁してくれと、桃城が頭を抱えた。この親子の道徳観念は何処に行っているんだろう?そんな気分
で落涙したくなる自分は健全な筈と、桃城は背後を振り返った。
 その瞬間、視界に飛び込んできたのは見慣れたリョーマの愛猫で、甘えた鳴き声を放ち、抱っこをせ
がむ子供のように、桃城に前足を伸ばしてくる。
「久し振りだな、タヌキ」
「ホァァ」
 桃城の腕に抱き上げられたカルピンは、甘えた鳴き声で桃城に甘えだす。
「親父が言ってたっスよ。今度いいビデオ貸してやるって」
「………謹んで辞退するからな」
「なんで?親父共犯ができたって、喜んでたけど」
 桃城に写真集をやろうと思ったのは、理由の判らないムカ付きの意趣返しのつもりだった。だから父
親が溜め込んでいる雑誌の一冊を拝借しようと思ったところに、父親が顔を覗かせて、この際だからと
話したら、ひどく楽しげに笑い、父親は一冊の雑誌をリョーマに手渡したのだ。
 その飄々とした態度に隠された裏があるとは思うものの、相変わらず得体が知れない父親だ。普通
中学生の息子に、そんなものを喜々として手渡す父親はいないだろう。
「そんな恐ろしい共犯になんてなれるか」
 それでなくても相手は初代青学の曲者だ。子供の自分が、太刀打ちできる相手ではない。
「っで?」
「ってなんだよ」
「その写真の女みたいな巨乳が大好きなの?」
「………お前なぁ……」
 ガックリ項垂れると、桃城は手渡された雑誌の表紙を凝視する。そこには白と黒のチェックのビキニを
着た少女が写っている。そしてカップのサイズはなんサイズだよ?と疑う胸が、ビキニから零れそうにな
りながら、ポーズを作っていた。
 柔らかい栗毛の髪に、白い顔立ち。そしてビキニから零れそうな胸。けれどそれは自分を興奮させる
作用は一切ないなと、桃城は冷めた気持ちで表紙を眺めて、溜め息を吐いた。
「俺はロリコンじゃないからな」    
「ロリコンだったの?」
 ボソリと呟かれた桃城の科白に、リョーマがキョトンとした貌を作り出す。
「お前ちゃんとこれ見たか?親父さんもきっとそう思ったから、俺に手渡したんだと思うぞ」
「やっぱ親父と相性いいんだ」
「怖いこと言うなって。見てみろ、この女」
「胸がデカい」
「違うだろうが〜〜胸は確かにデカいけどな。顔立ちだよ顔立ち」
「可愛いっていうんじゃないの?」
 性的欲求がないリョーマにしてみれば、少女の顔立ちはさして興味が惹かれる部分ではないものの、
第一印象の外見だけを見るなら、写真の中の少女は、世間並み以上には可愛く見えた。
「お前、ガキだなぁ」
「あんたと俺は、一つしか違わない筈だけど」
 第一自分達は未だ十分子供の中学生だ。しみじみ呟く桃城の方がどうかしていると、リョーマは途端
に憮然となった。
「胸ばっかデカくて、顔付きは子供。アンバランスで気持ち悪いだろうが」
 写真の中の少女は、確かにパーツとして一つ一つ見るなら、世間並み以上には可愛い少女だろう。
けれどトータルで見た場合、桃城には少なくともロリコンでない限り、惹かれない容姿だろうとも思えた。
尤も胸の大きさだけで女を判断する男は珍しくもないから、これはこれで人気があるのかもしれないなと、桃城は苦笑し、ページをパラパラと捲っていく。その桃城の膝に抱えられているカルピンは、微かな音を立て捲られていく紙が面白いのか、前足を伸ばしては、戯れついている。
「フーンそういうもん?だったらあんたの好みはどういうの?」
「俺だったら、そうだな。こぅ、キャリアスーツを着こなした女の胸元から見え隠れする胸の方が、そそら
れるけどな。胸より項とか、鎖骨とか。そういう部分が色っぽい女に惹かれるな」
 ページを捲りながら、これじゃぁ親父さんが俺に渡す訳だなと一人ごちていた桃城は、すっかりリョー
マの策略に嵌まっていたことに気付かずにいた。さりげなく問われた問いに、うっかり好みを話している
自覚は桃城には皆無だ。
「フーン、やっぱ思考回路は親父と同じ。あんたのエロの趣味は、親父なみ」
「あ〜〜胸はデカけりゃいいってもんじゃないんだぞ。つき立ての餅みたいに柔らかい弾力は、そりゃ男
としては嬉しいけどな」
 眇めてくるリョーマの視線に、桃城は乾いた笑みとともに、反駁していた。
 弾けんばかりの胸は、そりゃ確かに男としては嬉しい。嫌う男はまず居ないだろう。けれど何も胸で相
手を選ぶ訳ではないのだ。その点リョーマは未だ子供なのだろう。よく判っていない様子で、今日はい
つになく絡んでくる。
「まぁお前も女に興味が湧けば、判るから安心しろ」
 背後のベッドで横着にも寝転がっているリョーマに長い腕を伸ばすと、柔らかい髪を撫でていく。それ
は指先に欠片の違和感も感じさせず、桃城の指に馴染んでいる。
 性的に未成熟とはいえ、中学生にもなれば、いくらなんでも自慰の一つや二つは経験しているだろう
とは思うものの、こうも女に興味なしの態度をとられると、先輩としては些か心配だぞと、桃城は別の心
配をする結果になった。
「本当、ムカツク。桃先輩、将来、詐欺師にでもなれば?」
 どうせ自分は未々子供で、さして異性に対する興味は湧かない。その点桃城は女にもモテ、英二の
言い方では、年上の女との付き合いもあるらしい。そう考えると、たった一つの年齢差で、随分違うもん
だなと思えた。
「大体お前、今日はやけに絡むな」
 疑問を口にすれば、リョーマは無自覚だったのだろう。キョトンと小首を傾げ、涼しげな瞳が不思議そう
に瞬いた。
「お前、可愛いな」
 仲の良い先輩の告白現場に偶然とはいえ遭遇し、盗られる気分にでもなったのだろう。それは子供
がお気に入りの玩具を盗られたくない心理とよく似ているなと思えば、それがリョーマの無自覚さから発
していられると判れば判る分、嬉しいと感じてしまう自分の内心も、桃城はよく判らずにいた。
「男に言われても嬉しくない」
「女に言われたら、もっとムカツクだろうが」
「あんた本当に最悪!」
 リョーマが拗ねたように吐き捨てるのを、桃城は楽しげに笑い、更に髪をクシャクシャと掻き混ぜた。
「そいや今更だけどな、お前の誕生日っていつだよ」
「………24日」
「って、明日か?」
 訊いた途端、嫌そうな表情になったリョーマに、桃城は訝しげに色素の薄い空色の瞳を凝視すれば、
リョーマの即答が返った。
「んな訳ないでしょ。12月」
「そりゃまた随分、すごい日に生まれたな」
「だから嫌なの」
「クリスマスといっしょくたにされた口か」
「親父や母さんは勿論そんなことはないけど。アメリカじゃ日本より余程クリスマスは記念日だから。
ミサとかあるし、他の連中にいっしょくたにされて、面白くなかった」 
 面白くないというより、面倒だったというのが、この場合正解だろう。さして自分の生まれた日を重要
視する性格をしていないリョーマは、それでも日本より余程クリスマスを重要視するアメリカでは、何か
と鬱陶しいことも多かったからだ。
 キリスト教信者にとって、クリスマスイヴとクリスマス当日は厳粛な日だ。なんでも手軽に記念日にし
て、どんちゃん騒ぎをする国は、日本くらいのものだろう。それは同時に、多神教宗教の国柄を現しても
いるのだろう。
「だったら今年は、俺が何処かに連れてってやるよ」
「日本のクリスマスって、恋人同志で過ごす日じゃないの?」
「そりゃお前自身が言うように、間違った見解だな」
 だから俺が誕生日には、何処かに連れてってやるよと桃城が笑えば、リョーマは少しばかり桃城の造
作を凝視した後、
「でも誕生日プレゼントと、クリスマスプレゼントは、別々にして下さいよね」
 生意気な表情と口調で、リョーマは綺麗に笑った。
「ったくお前は、我が儘ばっかだな」
 けれどリョーマが我が儘を言うのは自分だけだと判っている桃城は、それが嬉しいのだからお互い様
だ。
「楽しみにしてますよ」
「ヘイヘイ」
 軽口を叩き合い、数ヶ月先の約束をして、有り触れた光景のように日々は続いていくのだろうと、二人
とも疑ってはいなかった。
 仲のよい先輩と後輩でテニスを楽しんで、時には女の話しをしたりもして。そんな風に、日々は繋がっ
ていくと思っていた。とても大切な有り触れた光景のように、日々は過ぎていくのだと、二人は根拠もな
く信じていたのだ。架空の未来を信じるように、いっそ無邪気なほどに。