夏真っ盛りの八月中旬。全国大会を無事優勝で納めた青学テニス部の祝賀会は、毎回恒例河村鮨
で行われ、そこには校長である石川の姿も在って、宴は盛り上がりに盛り上がり、幕を閉じようとしてい
た。
全国大会出場の悲願と、その先にあった頂を上り詰めた心地好い疲労感は、誰の胸にも在った。
それは部長の手塚も例外ではなく、珍しくも少しばかり表情が和らいでいるように、誰の眼にも見てとれ
た。
「それじゃぁ明日から三日間、テニス部も夏休みに入るから、しっかり宿題に励むんだよ」
最後は顧問であり、数学教科の主任教員でもある竜崎スミレが、夏休みに浮かれるんじゃないよと、
部員に釘を刺していた。そんな竜崎の科白に、あちこちから悲鳴じみた声が響いた。
それは誰もが全国で戦う為の練習で、宿題どころではなかったからだろう。
「提出期限に間に合わなかった者は、九月は球拾いが待っているからな」
担当教科の教師より、テニス部員には部長の手塚の科白の方が説得力があると囁かれているとおり、テニス部員にとって手塚の声は鶴の一声で、球拾いは伝家の宝刀だった。
竜崎の科白には悲鳴が漏れても、手塚の科白は神妙に聴いているあたり、手塚の部長としての統率
力は、秀でているということだろう。それは教師陣も認めているところだ。
「乾汁も、パワーアップして待ってるからね」
表情の読めない眼鏡の奥で乾が笑うのに、誰もが手塚の科白の緊張感とはまた別の意味で、慄え
上がった。
乾汁の驚異は、部員なら誰もが身をもって知っている。死にそうに不味いあの味を飲まされるのは絶
対に御免だと、誰もが胸に誓ったのは言うのでもない。
「それじゃ、皆今夜はしっかり休むんだよ」
心地好い疲労感は、けれど明日には確実に肉体的な疲労になるだろうから、竜崎はその点に釘を刺
すのも忘れない。
「お疲れ様」
そうして皆が燦々轟々立上がった時だった。
「越前?」
不意に隣でリョーマがらしくなくふらつくのに、桃城の腕が慌てた様子で華奢な躯を抱き留めた。
「大丈夫か?」
「っス」
「顔色悪いぞ」
「にゃに、にゃに?オチビ具合悪いの?」
桃城の正面に座っていた英二が、心配そうにリョーマを見れば、リョーマは桃城の腕に支えられ、そ
れでもしっかりした足取りで立っている。それでも心なしか顔色が悪く見えるのは、英二の気の所為で
はないだろう。陶器のように白い肌は、今は少しばかり蒼さを弾き、色を失っていたからだ。
「大丈夫っス。なんか最近あるんですよ、立ち眩みって言うか」
その立ち眩みが、ここ最近頻度を増していることは誰にも内緒だった。時折襲ってくる眩暈に足許がフ
ラつくことが多々あった。幸いだったのは、それが試合最中にはなかったということだ。
「貧血じゃないの?一度病院で調べてもらえば?」
「女じゃあるまいし、そんなことないですよ」
「あのね、別に女の人じゃなくったって、貧血はあるんだよ?」
貧血イコールで女性の病気と思われがちな面は多々存在するが、実際はまったく違うことを不二は知
っていた。何かの病気の前兆ということも、十二分に有り得るからだ。
「でも、大丈夫っス」
「リョーマ、無理しないでちゃんと調べてもらうんだよ。南次郎に連絡しておくからね」
騒ぎを聞き付けた竜崎が、リョーマに念を押す。
「嫌っスよ、親父になんて連絡くしないで下さい」
「無理言うじゃないよ」
やれやれと困ったように苦笑する竜崎にとって、南次郎は教え子だ。南次郎のテニスの才を見出だし、世界へと背を押し出したのは他の誰でもない竜崎自身だ。そして南次郎が突然帰国し、リョーマを母
校へと入学させたのは、かつての恩師である竜崎の手元に託そうとしたからだ。
一極集中の思考回路。付いて回る父親の名前。そんなものに囲まれて、リョーマは自らのテニスを見
失いそうになっていた。それを危惧して、南次郎が愛息を問答無用で青学へと放り込んだことを、けれ
どリョーマは知らずにいる。
「なんだったら、伯父さんの病院を紹介するぞ」
地域に密接した私立病身の院長である大石の伯父は、かつて手塚が世話になったこともある医師だ
った。
「いいっス」
「そういう訳にはいかないだろう?」
まったくお前さんはと、竜崎が苦笑する。
「越前」
「嫌っス」
手塚の静かな声に、リョーマは少しばかり神妙になったものの、けれど拒否を示す口調は強かった。
「無理をしていたんじゃないのか?この際だから、しっかり診てもらっておけ。不養生したら俺のようにな
る。いい見本だ」
肩と腕の故障は完治していたものの、長年引き摺ってしまったのは、騙し騙ししていたプレーが影響
していたからで、そして氷帝戦で再燃し、結局ドイツまで行く羽目になった。
「いいな」
有無を言わせぬ口調の手塚に、リョーマは無言で俯いた。
こうと言ったらなかなか引かないリョーマの頑固な性格は、部員なら誰もが知っている。テニス部員は、
誰もが負けず嫌いなのだ。
「こら越前」
ったくお前はと、桃城が未だ腕にしているリョーマの髪を掻き混ぜれば、リョーマは無言で桃城を睥睨
し、その身を桃城から離した。
「お疲れ様っした」
「こら、待てって」
足取りはしっかりしているものの、先刻突然ふらついたリョーマには、内心冷や汗を掻いた桃城だ。
リョーマがらしくない姿を曝す所を初めて眼にしたからだ。一瞬だけとはいえ、精神が恫喝された。
「それじゃ、俺あいつ送ってきますから」
お疲れ様でしたと、桃城は河村鮨の暖簾をくぐり、リョーマを追いかけた。
「リョーマにも困ったもんだね」
親父譲りで頑固者だと竜崎が苦笑すれば、手塚も苦笑し、英二と不二は、少しばかり顔を見合わせ
ていた。
そして彼等がリョーマの姿を見るのは、今夜が最後になることを、未だ誰もが知らずにいた。彼等が次
にリョーマと再会するのは、数年先の話しになるからだ。
□
「バアさん!知ってるんでしょう?あいつの居所、教えて下さいよ!」
桃城がらしくない形相で、顧問の竜崎に噛み付いている。
それは夏休みも残り数日に迫った、八月下旬のことだった。
空は何処までも高く澄み、果てのない無限を連想させる蒼さを弾き、白い入道雲が切り取ったように
浮かんでいる。弱い冷房の聴いた室内には、それでも降るように鳴く蝉の声も、生徒達の声も届いてい
た。
そんな光景だけを見るなら、何処までも閑舒なものだっただろう。けれど室内は不穏な空気に満ちて
いて、桃城の必死さを湛えた形相が、竜崎を睨み付けるように凝視している。
「私も知らないんだって、何度言わせるんだい」
数学教員室に響き渡る桃城の声に、竜崎はもう幾度も言った科白を口にしていた。けれど冷静さを装
っているその冷静さが、桃城には竜崎はリョーマの行方を知っていると教えていた。
「消えたんですよ、あいつが!」
桃城がリョーマの姿を見たのは、全国大会の祝賀会を河村鮨で開き、送っていった夜が最後になった。以来リョーマの姿は誰の前からも喪失していた。正確には、リョーマだけではなく、リョーマの家族誰
もが、姿を消していた。
三日間のテニス部の夏休み。流石に全国大会の翌日は互いに疲れきって会うことはできず、疲労し
た躯を家で休めていた。その時も、リョーマは元気な声で、携帯には出ていた。けれどその翌日には、
音信不通になっていた。嫌な胸騒ぎと焦燥に駆られ、リョーマの自宅を尋ねてみれば、何処か憔悴した
様子の南次郎が居て、リョーマは母親と一緒に出掛けていると言われ、結局居場所は教えてもらえな
かった。
その時の南次郎のらしくない憔悴ぶりに、桃城は攅眉したものの、その時はその言葉を信じるしかな
かった。けれど今は違う。リョーマの家族はリョーマ諸共、綺麗に姿を消している。当然も携帯も繋がら
ず、送ったメールに対しての返信もない。
何かの事件に巻き込まれたのか?昨今の物騒な社会事象を考え合わせれば、そんな不安が胸を過
ぎり、父親に相談しても、身内が捜索願いでも出さない限り、事件としては取り扱われないと諭された。
経済不況とリストラの影響と相俟って、特異家出人は、年間数万の単位に上っている。事件だという
確証がない限り、捜索願いは出しても、特異家出人扱いになるのが原則だった。それでなければ、家
出人の捜索だけで、警察の仕事は明け暮れてしまうからだ。それでなくても現在は凶悪事件が立ち続
けに発生し、警察の検挙率は地を這は続けているのだから。自らの意思で姿を消した人間の捜索に割
く捜査員の余裕は、何処にもないのが現実だ。
事件の可能性がある場合、当然近しい他人が提出した捜索願いは受理されるものの、事件として明
確な何かがない限り、警察はまず動かないことは、父親が捜査一課の管理官をしている影響で、桃城
も知っていた。それでなくても桃城の愛読書は推理小説だ。
紙の上に書かれた架空の事件でも、謎解きをする面白さは味わえるし、それにあわせて疑問があれ
ば、父親の仕事が仕事で、家の中に溢れている法律関係の本で、調べることはできるから、桃城は年
不相応に、そのあたりの知識は持ち合わせている。まして子供の桃城では、当然捜索願いなど出せる
立場ではなかった。警察は事件が発生し、初めて動くことができるのだ。それは警察三原則に照らし合
わせても明らかなものの、警察法第二条とは相反している。
「なんでそんなに、冷静なんですか?」
その冷静さこそ、リョーマの居所を知っていると白状しているようなものだと、桃城は漆黒の双眸を冷
ややかにスゥッと細め、正面の竜崎を凝視する。
口調も叫び上げるものではなく、怖い程静かなものだ。感情の一切を殺ぎ落としたかのような桃城の
抑揚のない淡々とした声は、独特の凄みが滲み出ている。けれど桃城に自覚はない。それがより桃城
の必死さを、物語っていた。
「お前さんの怖い所は、そんな部分だね」
瞬時に細められ、冷ややかに研ぎ澄まされた双眸。薄布一枚引き捲った背後から、まったく別の仮面
を付け替えたかのように、表情までか、ガラリと気配さえ変えた。
「これじゃ、中学生の女の子を相手にはしない訳だ」
哄笑もなくいっそ感嘆すれば、桃城の表情は怖い程冷ややかになる。
人好きのする笑顔で他人から容易に警戒心を解き、懐に自分を滑りこませてしまうのは、桃城の特異
技だ。それは桃城が与えられた才には違いない。他人が桃城と同じことをしても、成功はしないだろう。
人好きの笑顔は、一歩間違えれば嫌味になりかねない要素を持っているものの、桃城はいつもギリ
ギリのラインを見誤らず、太陽のようなと形容される笑顔を見せている。
けれど実際の本質は、賑わう雑踏のような笑顔とは対極にあることを、知らない竜崎ではなかった。
それはレギュラー面子なら誰もが知っている桃城の本質で、最もそれが顕著になるのは、試合最中だ。
明るい笑顔はなりを潜め、相手の弱点を見据える洞察力は、人好きな笑顔を振りまいている男とは無
縁な印象を生み落とす。けれど日常の桃城は、そんな刃先のような危うい部分を巧く腹の底にでも隠し
ているのか、テニス以外では欠片もそんな部分を見せることはない。それが今は抜き身の切っ先さなが
ら、竜崎の前に隠すことなく、本質を滲ませている。それは竜崎でさえ背筋がヒヤリと脅かされる冷冽さ
を滲ませて、無言の威圧で室内を緊張させていた。
「私がリョーマの居所を知っているとして、会ってお前さんはどうするつもりだい?」
凝視してくる視線の鋭さに、けれど竜崎は揺るぎもなく冷静な視線を返す。
「訊きますよ」
「どうして消えたか、なんで消えたか。お前さんの訊きたいことっていうのは、そんな簡単なことかい?」
それじゃぁ子供の興味本位と好奇心でしかないよ。竜崎はそう告げると、桃城の表情が僅かに動いた。
「消えた理由を知りたい。じゃぁ知ってお前さんはどうする?誰よりお前さんに懐いていたリョーマが、お
前に理由も言わずに消えたんだ。知った後どうするかの覚悟もない子供に、教えられないね」
「俺は……」
竜崎に問われ、桃城は自分がリョーマと会った時、どうしたいのか、初めて考えたのかもしれない。
今まではリョーマが自分の前から消えてしまった事実だけが頭の中にこびりついて、その本質を深く理
解しようとしていなかった。
「子供の興味本位と好奇心なら、おやめ。あの子を傷付けるだけだ」
南次郎から連絡を受けたのは、全国大会優勝から、さして日数の経たない日付だった。
いつもいつも、憎まれ口しか叩かないかつての教え子が、電話越しにも、らしくない憔悴を滲ませてい
たのに、竜崎はどんな重大な内容かと思った。南次郎の憔悴しきった声を聴いたのは、去年の夏、国
際電話を寄越して以来だった。
そして告げられた内容は、竜崎には思ってもいなかった事態で、竜崎も最初は途方に暮れたくらいだ。他人の自分でもそうなのだから、父親である南次郎や、母親である倫子の衝動は絶筆にし難いもの
だっただろう。
その衝動を、未だ中学生のリョーマが背負わなければならないのかと思えば、周囲に簡単に告げら
れる事実ではなかった。何よりリョーマ自身が、自分の身の上に起こった災難を受け入れるのには、長
い時間がかかる筈だからだ。そして長い時間を掛けても、受け入れられるとは限らないのだ。
だから南次郎も、毎日朝夕と尋ねてくる桃城には、事態を教えられないのだと言っていた。何よりリョ
ーマがそれを望まない以上、安易に教える訳にはいかなかったからだ。
「俺は、あいつの傍に居たいんです」
何故リョーマのことがこんなに気に入っていたのか?目の前から突然消えられて、言い様のない喪失
感を覚えたのは何故だったのか?桃城は竜崎に問われ、今はっきりと自分の想いを自覚した。
「どんなことがあってもかい?」
どんな事態が待っているのか告げることもなく、こんな問いをするのは卑怯だと竜崎自身判っていた。
けれどその覚悟もない人間に、今のリョーマと会わせる訳にはいかなかった。
「俺は未だ子供で、先のことは判りません」
竜崎の眸にまっすぐ焦点を絞り、桃城はゆっくり口を開く。
「色々な物を置いていったり、棄てていったりしながら、歩いて行くと思います。でも、あいつの存在だけ
は棄てられない」
たとえ何と引き換えにしたとしても、リョーマの存在は代えられない。
「莫迦だね、お前はまったく」
ここで「どんなことがあっても」と、簡単な言葉を返せるくらいに子供だったら、もう少しラクに生きていけ
るだろうにと、竜崎は深い溜め息を吐き出した。
「莫迦でいいですよ。あいつの存在と引き換えられるものなんて、ありませんから」
「ったくリョーマも、惚れられたもんだねぇ」
「……気付いてたんですか?」
「お前もリョーマも、自分自身の気持ちに無自覚すぎるんだよ。レギュラー面子で気付いてなかった人
間はいやしないよ」
何かと言っては桃城と張り合っている海堂でさえ、桃城のリョーマに注がれる無自覚な想いの名前に
気付いていたというのにだ。
「精神的に自立した年上の女と付き合ってきた経験は、あまり役にはたってくれなかったみたいだねぇ」
「………」
ヤレヤレと大仰に溜め息を吐く竜崎の科白に、なんでそんなことまで知ってるんだと、桃城は内心冷
や汗ものだった。
「リョーマから伝言だ」
「越前から?」
「お前さんがあんまり連日しつこいんで、根を上げて私がリョーマに連絡したんだよ」
「それで、あいつは何て言ってたんですか?」
逸る気持ちを意識して抑え、桃城は竜崎の言葉を待った。
「寺に来てくれって言ってたよ」
昨夜南次郎を通じて連絡した際、リョーマは思ったより元気そうな声をしていた。そして竜崎が桃城の
ことを告げた途端、電話越しにも泣き出しそうな気配が伝わってきた。
何かを必死に怺えているのだろう。今にも嗚咽が聞こえそうな息を飲んだ声に、竜崎は痛ましさしか
感じ取れなかった。
そしてそんなリョーマが呟き程度の細い声で竜崎に告げたのは、寺で待っている、それだけだった。
いつ、何時にとも告げなかった科白は、連日朝夕、越前家に尋ねている桃城のことを南次郎から聴いているからだろう。それは裏を返せば、リョーマは桃城が会いに来られる期限ギリギリまでは、毎日寺で
待っているということだ。そしてタイムリミットの時間は、そう多く残されてはいなかった。
「お前さんも、惚れられたもんだね」
苦笑する竜崎の科白に、桃城はリョーマも初めて、自分と同じ気持ちでいてくれたのだと判った様子
で、少しばかり驚いた表情を刻んでいる。
「ホラ、とっとと行っておやり」
きっと不安に押し潰されそうな心を抱えて、リョーマは境内で待っているに違いないのだ。
「ありがとうございます」
桃城は深く背を折り竜崎に頭を下げると、踵を返して教員室を出ようと駆け出した、その時だ。
「壊すんじゃないよ」
意味深な竜崎の科白を背中越しに聴きながら、桃城は半瞬足を止め、そうして細めた眸を開くと、歩きだした。
夏休みが残り数日で終わる校内は薄暗く、それでも夏の陽射が廊下のガラス越しから入り込み、光
の回廊を作り上げている。
降るように鳴く蝉の声、積翠から零れる夏の光。蒼く澄んだ空と白い雲。校庭から響いてくる生徒の
声。
今までなら、そんな当たり前のように存在していた光景の中に、リョーマも居たのだ。挑発的な小生意
気な笑みを湛え、誰をも魅了するテニスをして。
「越前…」
覚悟があるかと竜崎は言った。けれどリョーマを喪失う以上に恐ろしいものがないと認識してしまった
以上、どんな事態が待っていても、もう引き返せないのだと、桃城は逸る気持ちを抑え込むと、意識して
ゆっくり歩きだした。
□
幾度となく訪れたリョーマの自宅裏にある寺の境内。未だプロの世界でも不世出の選手として名高い
南次郎は、預かる寺の境内に、無断でコートを作ってしまったのだと、苦笑まじりに呟いたリョーマの笑
みが甦る。
部活がない時は、大抵リョーマとこの場所でテニスをしていた。春には桜が綺麗な寺の境内には、思
い切り不釣り合いなテニスコートだったものの、校庭の整備されたコートと同等に、桃城には馴染んだ
場所になっている。
久し振りに訪れる境内のコートを眺め、桃城はリョーマの姿を探して周囲を見渡した。
春には枝一杯に薄紅の花片を咲かせた桜の樹も、真夏の今は黒々とした枝が天に伸び、生い茂る緑
が天然の万華鏡のように、土の上に幾重もの影を落としている。
さして広くない境内で、リョーマの姿を見つけるのは容易だった。リョーマは地上から少しばかり高く作
られいてる本堂の、外に面した廊下に足を投げ出し座っている。リョーマの見慣れた白い下肢が、ヒラヒ
ラと虚を泳いでいた。
「越前」
静かに声を掛ければ、遠目にもリョーマがビクリと慄えたのが桃城には判った。らしくない緊張を孕ん
だ眼差しがゆっくり夏の光を弾きながら、桃城に注がれる。
「そっち行っていいか?」
コクンと声もなく縦に揺れた細い首に、桃城は本堂へと上がる数段の階段を上り、リョーマの隣に越し
を落とした。
リョーマは無言で俯いていて、その横顔は桃城が不安を煽られる程、痛々しい何かを刻み付けている。
「元気にしてたか?」
意識して声をだすと、リョーマの視線はゆっくり桃城に移り、何かを言いかけて口を開き、そしてまた閉
ざされる。
「探したんだぞ」
静かすぎる声に、薄い肩が慄えるのが判る。リョーマは口唇を噛み締めると、次には絞りだすように口
を開いた。
「ゴメンなさい……」
「……越前……」
リョーマが謝罪の科白を口にするなど、初めてのことだった。いつもいつも、小生意気な態度で自分を
先輩と思ってないだろう?そんな科白を軽口に叩きながら、可愛がってきた後輩は、けれど謝罪を口に
することなどなかったから、桃城は堪らない想いに駆られた。危うく細い躯を抱き締めそうになり、寸前
の所で伸び掛けた腕を意思の力で抑え付けた。
リョーマの横顔は以前にもまして白くなっている。そして瀟洒な面差しは、たった二週間とは思えない
窶れを色濃く滲ませ、憔悴とも苦渋とも判らないものを刻み付けている。
「何があったって、訊いていいか?」
「訊いてるじゃん」
クスリと可笑しそうに笑うのに、桃城か内心ホッと安堵の吐息を吐いた。
「何処から話していいのか…自分でも判らないんだけど…」
躊躇いがちに一言一言話すリョーマは、自分の身の上に起こった災難を、まだ受け止めきれてはいな
かった。それを自分のこととして受け入れるには、途方もない時間と精神作業が必要だった。そしてど
れだけの時間を掲げても、昇華しきれるとは到底思えなかった。
「ゆっくりでいい、話せる範囲で構わない」
話すことで、リョーマがラクになるならともかく、万が一にも傷つけてしまうなら、それは桃城の由とする
ところではなかった。
話せる時が来たら、話してくれればいいとも思う。ここ二週間近く、リョーマの姿が消え失せて、焦燥と
恫喝に押し潰されそうに探していた時とは打って変わり、心は驚く程静かだった。それはこうして、リョー
マの姿が在るからだろう。
「……貧血かもしれないって、不二先輩言ってたでしょ?」
何処から話していいのか、頭の中を整理しないと自分自身でも混乱してしまいそうだったから、自然と
リョーマの言葉はゆっくりなものになっていた。
「本当に、貧血の前兆だったんだ…」
「お前…何か悪い病気か……?」
慌てた桃城の科白に、リョーマは曖昧な眼差しを向けると、細い首を横に振った。
「病気だったら、まだタチはよかったんだけど……」
出血したんだと、リョーマはポツンと呟いた。
「ってお前、何処をだ?」
貧血で眩暈がする程の出血。けれどリョーマの外見からは、見える範囲での創傷は見受けられない。
「半陰陽」
「?」
半陰陽、それは何かの話しで聴いたことはあるものの、正確には桃城も理解できてはいなかった。
「男でも女でもない」
「越前?」
胸の内の何かを分けてくれようとする時、リョーマの科白は決まって断片的になることは、短くない付
き合いで判っているものの、今回は流石に判らなすぎた。
「嗤っちゃうよ。今更男じゃなかったって言われても」
色濃い自嘲を刻みつけるリョーマの横顔に、桃城は初めて断片的な科白の意味が繋がった。繋がっ
た意味を理解した時、竜崎の科白が重くのし掛かってきた。
覚悟が必要なのは当たり前だ。興味本位でも好奇心でもないつもりだった。けれどリョーマの身の上
に起こった事実を考えれば、告げた科白は、子供の絵空ごとにも等しいものだっただろう。
「できそこないの、躯ってことだよ」
「越前!」
深まる自嘲に、桃城は堪らず抱き締めていた。抱き締められた腕の中で、リョーマは狂ったように暴れ、そうして喚いた。
「女だったなんてさ、莫迦みたいじゃん!」
自分には未熟とはいえ男性としての機能を果たす性器も付いている。けれど実際は腹の中に未熟な
成長を遂げている子宮も在ったのだと告げられた時、まるで後頭部を強打されたようだった。
全国大会が終わった翌日の夜。突然今まで味わったこともない激痛を腹部に感じ、そうして有り得な
い部分から出血した。下着を染め替えていく暗赤色の血液に、一体何事かとパニックに陥ったまま、南
次郎に喚くように叫び、そうしてアメリカの仕事が一段落して帰国していた母親が、真っ青に顔色を失っ
た。
それは女性なら誰もが経験する、生命を養う場所である子宮からの出血だったからだ。腹部の激痛は、その為だった。
朝を待ち、掛かり付け医でもある青春大学付属病院に受診し、そうしてそのまま都内の大学病院へ
至急受診するよう診療情報提供書を持たされ、そしてそこで検査入院を余儀なくされた。
様々な検査の後、告げられたのは、遺伝子は女性だということだった。
「今更女だからなんて言われて、どうしろって言うのさ?何しろって言うの?俺は今まで男として育って
きたのに!」
ボロボロ大粒の涙を零しながら、リョーマはひとしきり桃城の腕の中で抗うように暴れると、緩く抱き締
められた胸板に顔を埋め、細い肩を慄わせた。
「俺…どうしたらいいのさ…もうあんたともテニスできない」
これからもあの優しい人達と一緒に、テニスをしていく筈だった。アメリカでは味わえなかったテニスへ
の熱を教えられ、来年も全国で優勝しようと誓ったのは、たった二週間前のことだった。それが一瞬にし
て足許から崩壊したのだ。
桃城は、叫喚するリョーマに言葉は掛けず、泣きたいだけ泣かせてやりながら、労るように何度も髪を
梳いている。そんな慣れた桃城の仕草に、激情がゆっくり治まっていくのをリョーマは感じた。
「…会いたくなかった…」
「そんな哀しいこと言うなよ…」
「戻ってこなきゃ良かった…」
帰国せず、アメリカにいたら、失うものはもっと少なくてすんだ筈だった。アメリカにいた当時は、さした
学友も存在せず、毎日無機質に過ごし、テニスだけをしていたからだ。
「…あんたと…会わなかったらよかった…」
あんたなんで俺に会いに来たの?リョーマの双眸が桃城へと伸びる。涙に濡れる瞳が、いびつに歪ん
でいた。
「俺は、こうしてお前を抱き締められてよかった」
伸びてくる眼差しが哀しげに揺れているのに、桃城は宥めるように長い前髪を梳き上げれば、サラリと
した擬音が柔らかく揺れた。
「……昨日…先生から電話…もらった…」
桃城が連日煩いんだよと、困ったように話す竜崎の声は、自分を労る口調をしていたものの、決して
具合はどうだい?そんな言葉を掛けてくることはなかった。それが今のリョーマにはどれだけ酷な科白
か、竜崎は心得ていたからだ。
心配していると言われた。それは桃城に限ったことではなく、誰もが心配をしていると告げられた。
そして中でも桃城が連日居場所を教えろと煩いんだと言われた。それは父親である南次郎からも、聞
かされていたものだった。
連日どころか朝夕で桃城は尋ねてくると、苦悩など微塵も覗かせず、そのくせ憔悴した表情は隠すこ
ともできず、父親である南次郎はそう言った。
その時白状してしまおうと思ったのだ。他の誰を騙せても、桃城は騙せない。そして桃城に真実を告
げぬまま渡米することは、リョーマの身の裡何処かが、激しく拒んでいた。
嫌われても、気持ち悪がられても、桃城に全てを話さず渡米することは、気持ちの上でリョーマにはで
きなかったのだ。
「お前に会えて、俺は倖せだぞ」
「生意気な後輩でも?」
「ああ、もう目茶苦茶、小生意気でな」
それでどうしよもなく可愛いと桃城が告げた時、リョーマは半瞬だけキョトンと瞳を瞬かせた。
「お前は小生意気なところが可愛いんだよ。だから先輩達は、皆お前を構うんだ」
「…でも、もう会えない…」
トンッと小作りな頭を甘えるように桃城の肩口に埋めると、
「ねぇ、桃先輩は、こんな俺が気持ち悪くないの?」
できそこないの躯だよ、そんな風に嗤うリョーマに、桃城は言葉もなく肩口にうずまってきた小さい頭を、思いの他強い力で抱き締めれば、リョーマが華奢な肩を慄わせたのが判った。
こんな小さい肩に、一体どれだけの重荷を背負ってこれからリョーマが歩くのかと思えば、自分はそん
なリョーマを見ていることしかできない無力さに、桃城は知らず口唇を噛み締める。 決して肩代わりな
どできない荷物を、リョーマは背負わされたのだ。
「好きだ」
気持ちが不安定になっているリョーマに、こんな局面で告げるのは卑怯だと思うものの、けれどもう想
いを怺える術を、桃城は持っていなかった。
探して探して探して。リョーマが自分の前から忽然と姿を消した時、よく錯乱しなかったものだと我な
がら思わずにはいられない。
「エッ?」
真摯な響き、それでいて何処か苦しげな声音に、リョーマは埋めた肩から顔を上げ、桃城を凝視する。
「好きだ」
「何…言って…?」
慄える声が零れ落ちる。
「……同情ならいらない。俺は、アメリカに行くから…」
そうしたら誰もがたった一学期しかいなかった生意気な新入部員のことなで忘れていくだろう。あたか
も、最初からそんな子供はいなかったとでも言うように。
「桃先輩に会おうと思ったのは、あんたが煩くて困るって、竜崎先生から聴いたから」
だから、同情はいらないと、桃城から身を離した瞬間、リョーマは強い力で桃城の懐に抱き込まれた。
「ちょっ…!」
「だったら、戻ってきてくれ」
「同情なんていらない…!こんな俺を、なんで好きなんて言えるの?できそこないの躯の俺を!」
自分自身でさえ、何一つ受け止めきれないでいる事実を、何故桃城は当然のように好きなどと言える
のか?リョーマには判らなかった。判らない不安が、不安定な精神を恫喝させていく。
そして叫喚するリョーマの頬が、柔らかい音を立てた。
音が聴覚に届いた時、瞬時には何が起こったのか判らなかった。
「桃…せんぱ…?」
痛感は音より半瞬遅れて届き、頬を柔らかい仕草で叩かれたのだと理解した時、リョーマは怖々桃城
の貌を見上げた。
今までどれだけの我が儘を言った時でさえ、桃城から手を上げられたことはなかったからだ。
自分より頭一つは確実に高い位置に在る精悍な面差しは、深く傷ついた表情を曝していて、リョーマ
の胸が鋭く痛んだ。
「なんで…あんたが…」
そんな表情をしているのだろうか?叩いた桃城の方が、深く傷ついているような。
「お前は、なんでそんな風に自分を卑下するんだ?」
叩いた頬を、節のある長い指がゆったり撫でると、ひどく静かな声音がリョーマの耳に落ちた。
「お前は、お前じゃないのか?」
そう告げることが、今のリョーマにどれだけ残酷なことか、告げた桃城が誰より判っていた。けれどリョ
ーマに忘れてほしくはなかったのだ。
「今まで生きてきた自分を全部、否定するつもりか?」
静かすぎる桃城の声、それに見合う表情は、これこそ桃城の真骨頂なのだろう。明るい笑顔が似合う
気配は何処にもなく、大人びた眼差しが包むようにリョーマを凝視している。その眼差しの深さは、怖い
程の真摯なものしか滲ませてはいない。
「戻ってきてくれ」
「な…んで…?」
祈りにも似た桃城の声に、リョーマは哀しげに半眼伏せる。長い睫毛が夏の陽射を弾き、儚く揺れる。
「好きだって言ったろ?」
恋愛感情でだからな、そう告げる桃城に、リョーマは戸惑う眼差しを向け、
「いつ……から…?」
慄える声が滑り落ちる。男でもなく、女でもない。けれど遺伝子的には女だから、渡米するのは、男の
性を切断する為にだ。桃城が一体いつから、自分を恋愛対象として見ていたのか?
そんな気配は、微塵も感じなかった。
「お前が俺の前から消えた時」
正確には、それで自分の気持ちがハッキリ判ったのだと、桃城は迷いのない眼をリョーマに向ければ、
「…物好きだね…」
「ああ、物好きだ」
だからそんな物好きな男の元に、必ず戻ってきてくれと、桃城は静かに告げると、瀟洒な輪郭を柔ら
かく撫でていく。
「だったら……」
自分の躯が男でも女でもないと判り、半陰陽などという、医学的にも症例の少ないそれは、国内で手
術するのは困難だった。だから諸々の面で医学の水準が日本より高いアメリカに行くことになった。そう
して何より辛いと思ったのは、変わってしまった躯もさることながら、もう優しい人達とテニスをできない
ことと、そして何より、桃城と会えなくなることだった。
太陽のように明るい、まるで賑わう雑踏のような笑顔。そして相反する本質。野性味溢れるテニス。
そんな桃城と居ることは、他の誰と居るより心が安らいだ。その桃城と二度と会えなくなると知った時、
心が千切れそうな恫喝と慟哭を味わった。そうして向き合った自分の心は、桃城と合わせ鏡のように同
じものだった。
「ねぇ桃先輩、だったらさ、賭しよう。俺が…俺がもう一度、今度は女の子として日本に戻って来た時。
俺のこと判ったら、ちゃんと応えるから。俺も自分の気持ちに、ちゃんと応えるから。でもね桃先輩、俺に
こうして告白したからって、別に忘れていいんだからね。これから喪失なくなる俺なんて。別のダレかを
好きになって、恋愛して、テニスして。きっとそれが、普通だから……」
「越前……」
哀しげに揺れる瞳が何を意味するのか、判らない桃城ではなかった。
「なんて、嘘」
笑う笑みが、今にも泣き出しそうに歪んでいく。乾いた筈の瞳が、水を湛えたように静かに揺れる。
「そんなことないって、笑って忘れていいよ。見つけることない」
変わってしまう自分を、桃城が見つけられる筈もない。ましていつ戻ってこられるのかなど、保証はで
きないのだ。
「バーカ、見付けるに決まってるだろう?どんなお前だって、お前なんだから」
だから待っているから必ず戻ってこいと、桃城は柔らかい髪を梳く。それは今まで指に馴染んで不思
議にも思わなかったものの、ネコの毛のように、柔らかいものだったのだと意識する。意識すれば、リョ
ーマへの気持ちが溢れてしまう。
「待ってるからな」
瀟洒な輪郭を縁取る柔らかい黒髪を撫で、卵の先端のように細い頤を掬いあげると、
「約束手形な」
桃城は酷薄な口唇に口吻を落とした。
「んっ……」
突然のことで喫驚したリョーマは、触れた温もりに驚いて半瞬抗ったものの、柔らかく啄むように触れ
てくる口唇に、ゆっくり瞼を閉ざした。
「ぅん……」
知らず甘い吐息が漏れる口唇に、自然と口吻が深くなっていく。啄むようだった口吻は、徐々に貪婪
に貪るものへと変わっていく。
「んゃ…んっ……桃……」
深くなっていく口吻とともに、薄く開いた口唇から忍び込んでくる柔らかく濡れた舌の感触に、リョーマ
が嫌々と小作りな頭を振れば、けれど桃城は離してくれる様子はなく、小さい頭を抱き込むように、口唇
は深く交わっていくばかりだった。
「ぅっ…んっ……」
狭い口内を這い回る舌に翻弄され、やがてリョーマの舌は桃城のそれに絡め取られていく。
粘稠の濡れた音が周囲に響くものの、降るように鳴く蝉の声に、二人の吐息は掻き消されていく。
リョーマの白い喉が、淫靡に上下する。桃城の舌に翻弄されているリョーマは、口内に流し込まれる
桃城の唾液も意識できず、喉の奥へと流し込んでいく。
初めての口吻で意識も何もかもを絡め取られ、淫蕩な感覚に翻弄される。細く白い指先が、縋るよう
に桃城の腕に爪を立てた。
「あっ…桃…せん……」
僅かに離れた口唇の狭間で、きつすぎる口吻にリョーマが抗議とも先をねだるともとれる声を出した時、それはより深い口吻に絡め取られる結果になった。
深くなっていく口吻と比例して、力が抜け落ちていく躯。横抱きにされ深くなっていくそれに、リョーマ
は夢中で桃城に応えていく。
「あっ…ふぅぅ……」
漸く口唇を離された時、リョーマは息も絶え絶えの様子で、細い躯は弛緩しきって、桃城の腕に脱力
したように抱かれていた。
「越前、好きだ…」
今まで女とセックスをしても、夢中になったことはなかった。桃城にとってセックスは、今までは生理的
欲求を吐きだす為の手段で、女は道具だった。けれどリョーマとの口吻は、それだけで達してしまいそう
に心地好く、そうしてだからこそ、奪ってしまいたくなる欲求を抑えつけるのに、桃城は強い意志の力を
必要とした。その時始めて、先刻竜崎が壊すんじゃないよと言った科白の意味が判った。それは二重
の戒めが込められた科白だったのだろう。
傷つき不安定になっているリョーマを、間違ってもその心を砕いてしまうようなことは言うな。そして、欲
しいと思っても奪うな。今欲求のままに求めてしまったら、確実にリョーマを壊す結果しか生まない。
そのことを、竜崎は戒めの言葉として、桃城に送ったのだ。それでも、リョーマの温もりは容易に手放せ
ない桃城だった。
「あっ……ッ!やっ…ぁっ…」
力の入らない躯。初めての感覚に翻弄されながら、首筋を戯れていく温い温度に、リョーマは小刻み
に躯を顫わせる。
耳朶を甘噛み、首筋を伝う温い温度と濡れた感触に、淫蕩な感覚を煽られる。
「好きだ、だから、頼むから、戻ってきてくれ」
祈りさえ孕んだ願いにも似た言葉に、リョーマは縋るように桃城の首筋に腕を回し、
「だったら、俺を見付けて……」
今度はリョーマの方から、桃城の口唇を求めた。
「今年の誕生日は一緒に過ごせないけど、いつかちゃんとお前の誕生日はデートしような」
自分の誕生日を祝ってくれたリョーマに、今度はリョーマの誕生日に何処かに連れていってやると約
束した。今年は無理でも、いつになるかも判らないけれど、それでもいつか必ず、リョーマの誕生日を祝
ってやりたいと、桃城は未だ弛緩しているリョーマの額に口唇を落とした。
「桃先輩、バカだと思ってたけど、本当にバカ…」
「忘れないでくれよ。どんなお前でもお前はお前で、俺にとっては大切なんだ。生まれてきてくれて、あ
りがとうな」
数ヶ月早い誕生日への言葉だと、桃城が笑えば、
「あんたやっぱ詐欺師でタラシ」
憎まれ口を叩いた。
男の性を切断することは、今まで生きてきた自分を破棄することだと思っていた。けれど違うのだと告
げてくれた桃城のこの言葉がある限り、自分は自分を放棄することはないのかもしれない。
切り捨てなくてはならない性も、過去にソッと置いていかなくてはならない未来への夢も。置いていき
たくても、置いていけない想いも。何もかもを抱え、歩いて行くことはできないけれど、桃城の与えてくれ
た言葉と口唇の温度だけは忘れないと、リョーマは心にそっと誓った。
「約束な」
「んっ……約束…」
差し出された左の小指に小指を絡め、リョーマは泣き笑いの貌で笑った。
子供の絵空ごとのように拙いものだけれど……。
いつ果たされるかも判らない、拙い約束を未来に代えて。
□
「リョーマには会ったのかい?」
少しだけ心配そうな表情で問い掛ける竜崎に、桃城はひどく大人びた笑顔を見せた。たった一日で様
変わりしたその笑みに、竜崎は桃城が覚悟したのだと悟った。
「見付けるって、約束しましたよ」
九月になったら渡米すると言っていたリョーマは、けれどいつ出立するのか教えてはくれなかったし、
見送りには来ないでほしいとも言われた。
リョーマが日本から居なくなる不安がない訳ではなかったものの、それでも腕にした温もりは今も残っ
ていて、それがリョーマと交わした約束の確かさを証明していた。
だから自分も歩いていかなくてはならないのだと笑う桃城の笑顔は晴れやかで、そうして憎らしい程、
大人の笑みを端然と刻み付けている。
「今度あいつに会った時、あいつに誇れる俺で在りたいんです」
その為に必要なことは、リョーマが渡米することを哀しむことではなく、自分を磨くことだと、見誤る桃
城ではなかった。
「成長したねぇ」
「だとしたら、それは越前のおかげです」
「リョーマのこともだけど、皆お前さんの心配をしてたんだよ」「判ってます、すみませんでした」
リョーマを失い哀しいのは、何も自分だけではなかったのだと、今更気付いた。誰もがリョーマを弟の
ように可愛がっていたのだから。自分の哀しみに押し潰されて、そんな簡単な事実も忘れていた。子供
だったのだと苦笑する。
けれどリョーマの現状を話すことはできなかった。
「いつになるか判らないけど、あいつの誕生日を祝ってやるって、約束したんです」
拙い約束を交わした。それが絵空ごとで終わらせない為に必要なのは、自分を磨くことのみだ。
「そうかい」
きっとリョーマは大丈夫だろうと、竜崎は確信する。
たとえどんな苦難も、こうして受け入れ抱えて歩いて行こうとする桃城がいる限り、リョーマは崩れはし
ないだろう。
「リョーマも、負けず嫌いだからね」
きっとすぐに自分の運命を受け入れることはできないだろう。けれど桃城がこうして端然といる限り、負
けず嫌いなリョーマが、崩れているとは思えない竜崎のその洞察力は、正しかった。
そして九月上旬、リョーマは誰に告げることもなく、家族と共に日本を後にした。
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