新緑が眩しい皐月晴れの日曜日。夏に近付き色付く緑が、柔らかい風に揺れる様は、まるで光が飛
ぶ眩いばかりの情景を生み落としていく。柔らかいばかりの光景は、けれど陽射は少しずつ初夏の陽
気を態していて、日中はかなり気温が上昇し、汗ばむ暑さを訴えてくる。それでも、太陽の熱気に押し
潰されてしまいそうな真夏の陽射には程遠く、心地好い暑さが試合後の彼等を優しく包んでいた。
柔らかい清涼な風が、陽射の加減によっては赤く見える英二の髪を緩く揺らし、通り過ぎていく。
「楽勝、楽勝」
「コラ、英二」
にゃははっと、相変わらず天真爛漫な笑顔を見せる英二に、大石がポンと頭に片手を置き窘めれば、
英二はますます楽しげに笑った。
「次は都大会だにゃ〜〜〜」
青春学園高等部に進学してからも、中等部全国大会立て役者の英二達はテニスをやめることは当然
なく、高等部に進学し、テニス部に入部した四月、当たり前のようにランキング戦でレギュラーになり、
以来レギュラーの座を、他人に譲ったことはない。そして二年目の今年も、英二と大石はダブルスの要
として、ますます磨きのかかったプレーをするようになっていた。
最早二人の以心伝心ぶりは、テレパシーでも使っているんじゃないのか?部内ではまことしやかに噂
が流れてしまう程、二人の呼吸はピッタリで、地区予選ではそのプレーが崩されることはなかった。とは
いえ、英二の天真爛漫な科白のように、最初から最後まで、楽勝で試合が運んだ訳では決してなかっ
た。
中等部から全国大会を経験してきている英二だ。科白ほど、今回の試合内容を楽観視していることは
なかった。それでも心地好い疲労感と達成感が、これから続く道の険しさを差し引いても、つい軽口を叩
かせてしまうのだろう。
それでもこうして決勝戦まで勝ち進み、そして今日、地区予選を優勝し、彼等は全国大会への階段を、確実な足取りで上り始めていた。
「そうは言っても、対戦相手の殆どが、中学からの知り合いばっかりっていうのも、相変わらず僕達の世
代は選手層の薄さが一番の問題だとは思うけどね」
英二と大石のやりとりを莞爾と見守っていた不二が、相変わらず柔和な笑みを滲ませ口を開けば、乾
が眼鏡のフレームを少し持ち上げた。
「確かに、不二の言うのも、もっともだな。対戦相手が軒並み中学で一度は対戦してきた相手ばかりだ
と」
元々不二達が中学時代、当時のJTA関係者は、高校生より中学生の方が、テニスの実力が高いと
言って憚らなかったくらい、彼等の世代のテニスの実力は高校生を上回っていた。だからこうして不二
達の年代が高校に進学すれば、自然と当時の知り合いが進学した先の高校でレギュラーを勤める羽
目になり、中学時代とさして変わらぬ顔触れが揃う結果に繋がった。
それが良いことかと言えば、決して悪いことだとも言えないものの、手放しで喜べる状態でもないだろ
う。それはそのまま、選手層の薄さを露呈して、彼等の後続を引き継ぐ選手層の少なさを物語ってもい
るからだ。
「君達の実力がそれだけ凄いってことだと、僕なんかは思うけどね」
それも飛び抜けてと注釈が付いてしまうことに、さして周囲から異論は出ないだろうと、口を挟んだの
は、月間プロテニスの記者である井上だった。彼は相変わらず学生テニスをメインに取り上げ、取材を
重ねている。
彼等が中学時代、全国の中学生のテニス活動を取材し、特集を組んでいた月間プロテニスは、今は
その活動範囲を高校テニスに焦点を絞っている。
それはやはり現在の中学テニスは、彼等が中学生当時から見れば、余りに実力の差があり過ぎてし
まったからで、読者からは、当時の彼等が高校になってどんなテニスをしているのか?引き続き特集し
てほしいという要望が、余りにも数多く編集部に寄せられたからだった。それはテニスばかりではなく、
彼等の容姿が人気に拍車を掛けているのも確かなものの、容姿だけでは長続きしない。
最初こそ彼等の容姿に惚れ込んで、テニスを観戦し始めた数多くの少女達は、今はきっとテニスの楽
しみも感じ取っている筈だ。そうして少しずつテニスの輪が広がればいい、井上はそう考えているのだ。
「手塚君然り、跡部君然り」
「手塚部長は、化け物の領域だと思いますよ」
井上の科白に苦笑して口を挟んだのは、中学当時より一段も二段も大人びた印象が強くなった桃城
だった。
表彰式を終え、いつの間に着替えたのか制服姿になっている桃城は、肩にテニスバッグを担ぎ、立っ
ていた。どうやら今の今まで隣に佇んでいたらしいものの、井上は声を掛けられるまで桃城の存在に気
付かなかった。それは未だ曲者と呼ばれてしまう桃城らしい、気配の消し方だった。
「桃城君のダンクも、一段と磨きが掛かって鋭くなっていたね」
「そうですか?ありがとうございます」
何処か照れくさそうに笑う桃城は、けれど随分変わったと井上は思う。
中学生と高校生は、たった数年の差とは言え、心理的な成長が目覚ましく反映される多感な時期だ。少年から青年への移行期で、何かと難しい時期でもある。
中学時代の桃城は、いつも明るい笑顔を絶やさず、部内でもムードメーカーだった。それは高校に進
学したばかりの今も変わらず、他人を構えさせない開放的な笑顔は健在だった。けれど中学時代から
見ていれば判る桃城の目覚ましい精神の成長は、それはテニスに如実に反映されていた。
以前のように、力に頼ったプレーをすることがなくなった。元々靭やかなバネのような身体能力を最大
限に生かしたプレースタイルをしていたものの、相手の弱点を容赦なく見抜いていく洞察力は、当時全
国に出場してきた選手の中でも、上位に位置していた筈だ。それでも、今と当時とを比較すれば、自ず
と成長の後が見て取れる。洞察力にもパワーにも磨きがかかり、自分自身を巧くコントロールしている。
その精神値の強さが、テニスに綺麗に反映されていた。
そうして極時折、ひどく大人びた笑みを見せるようになった。それは苦笑だったり自嘲だったりするも
のの、そんな時の桃城は、誰の眼にも大人びた印象を刻み付けていく。
当人が意識しているのか、いないのかは別物にして、それはひどく胸が痛む、何処か哀しげなものに
も見て取れた。
桃城の内側で、一体どんな変化があったのか?考えれば、自ずと導きだされる答えはいつも決まって、唯一の存在に集約されていってしまう。
誰の胸にも鮮明な記憶を叩き付け、忽然と姿を消した綺麗な生き物。今何処でどうしているのか、誰
も知らないリョーマの存在そのものが、桃城の成長に深く関わっていると、気付かないレギュラー陣は
存在しない。
「手塚に言いつけるぞ、桃が化け物呼ばわりしてるって」
「そりゃないですよ、英二先輩。アメリカから小言が飛んできそうじゃないですか」
「手塚君も跡部君も、頑張っているようだからね。あちらでも既に頭角を現して、名前が出始めているよ」
元々幼馴染みだった二人は、中学を卒業し、揃ってアメリカへプロを目指し留学していた。その二人は、アメリカに渡って一年、既に頭角を現し、名前が囁かれ始めていた。
国内ばかりか世界でも有数な財閥の跡取り息子である跡部は、けれど結局テニスを選び、プロを目
指した。跡部には甘い両親も、流石に一人息子の突拍子もない行動に最初は勘当ものだったらしい。
けれど今では息子の実力を認め、勘当は解いたらしい。それでも財閥跡取りを息子以外に譲つもりは
ないらしく、裏では色々画策しているらしいと、井上は苦笑した。
「そりゃ、手塚だもん」
我がごとのように誇らしげに笑う英二に、誰もが無言で頷いた。今でも手塚は彼等の仲間で、場所は
違えど、青学の柱で在り続けているのだろう。そしてそんな手塚に柱を託された小柄な少年は一体何
処に消えてしまったのだろうか?考えると、胸の奥が鋭く痛む気がして、井上はつい窺うように桃城を
眺めた。
中学時代、精神的にも物理的にも、リョーマの傍に居たのは他の誰でもない桃城だった。
自分の眼から見ても、呆れる程過保護に後輩を甘やかし、笑って我が儘を許していた。そんな桃城が、
リョーマが消息不明で黙っているとは思えなかったものの、ある一時を境に、桃城はひどく落ち着きを取
り戻し、それまで以上にテニスに打ち込み始めたのだと、井上に教えてくれたのは、言葉に出さず、桃
城を心配していた英二達からだった。
「上にいけばいく程、強豪は増えていくけど、都大会を楽しみにしているよ」
去年高校テニス部全国大会で見事優勝を納めた青春学園高等部は、既に地区予選の段階から、各
校のテニス部員が偵察に訪れ、観客席は一種異様な盛り上がりを見せていた。そしてだからこそ、上
に行けば行く程、強豪は増えていき、簡単には勝てなくなる。誰もが打倒青学を合い言葉に、暑い夏を
迎えるのだ。
「そういえば、君達の後輩も無事地区予選を突破したらしいね」
思い出したように口を開いた井上に、丁度見計らったように姿を現したのは、今は青春学園中等部三
年になった堀尾達だった。
「桃ちゃん先輩、お疲れ様でした!」
「都大会出場、おめでとうございます」
「オウ!応援、サンキューな!」
「来てくれて嬉しいよ」
「堀尾達も、頑張ったな」
相変わらず元気のいい後輩三人の労いの言葉に、桃城達が声を掛ける。
「バアさんから聴いたぞ、お前達も都大会出場を決めたってな」
桃城達元中等部レギュラー陣は、そのままそっくり高等部でもレギュラーを勤め、中等部と高等部が
隣接している所為も手伝ってか、竜崎と元中等部レギュラー陣は、今も変わらぬ親交が続いている。
そして桃城と海堂は、先月中等部と隣接している高等部に進学し、テニス部入部早々レギュラーにな
っていた。高等部は中等部と違い、入部した四月から校内ランキング戦に参加する仕組みになっている
からだ。
それが何故かと問われれば、高等部のテニスは、中等部以上に実力を重んじる傾向にあるからで、
それは言い換えれば、実力の前には先輩後輩という甘えは許さないという姿勢が瞭然としているから
だ。だから一年と言えど入部早々ランキング戦に参加し、レギュラーを競うのだ。そしてレギュラーにな
った一年は、コート整備や部室の掃除は免除される。それが中等部と高等部のテニス部の仕組みの違
いを物語っていたが、基本姿勢は大差ない。
元々中等部で一年生が一学期はランキング戦に参加できない理由は、実力問題もさることながら、一
年は未だ肉体的にも精神的にも成長が未成熟で、到底他の面子と同じメニューをこなす体力はないか
らだ。その為一年の一学期は、基礎体力作りがメインの練習が組まれている。
そんな中、当時のレギュラー陣を押し退け、イレギュラーで一年一学期にレギュラーになったのはリョ
ーマだった。それは当時の部長の手塚の配慮もあってのことだ。
「先輩達が築いてきた戦績を、俺達の代で終わらせる訳にはいきませんから」
もっともらしい科白を口にする堀尾ではあったが、彼は今年漸くレギュラージャージに袖を通せるように
なったばかりで、前年度部長だった桃城から部長職を受け継いだのは、まるでリョーマと入れ替わりの
ように、一年の二学期に中途編入してきた小野村という少年だった。
テニスの名門である青学テニス部でテニスをしたい。それだけの理由で編入してきた彼は、確かに中
学生にしては優れたプレーをする選手だった。けれどリョーマと比較すれば雲泥の差が在ったのはいう
までもなく、それでも気さくな人柄でアッと言う間に部員とも慣れた小野村を、桃城と海堂は考え抜いた
末、自分達の後を任せるとテニス部を託し、卒業してきた。
けれどそれが堀尾にはどうやら面白くないらしいというのは、薄々感じていたことだ。それを直接不満
として桃城や海堂にぶつけることはなかったものの、小野村に対する何かが見え隠れするのに気付か
ない桃城と海堂ではなかった。それでも別段衝突する訳でもなく、堀尾はお調子者の性格は相変わら
ずではあったが、桃城達が驚く程、テニスに集中するようになった。
そうして今年の春、堀尾は念願のレギュラージャージに袖を通していた。
カツオも堀尾同様、レギャラーになったものの、カチローは父親がテニスコーチをしている割に、テニス
の才能は今一つだったらしく、残念ながらレギュラーになることはなかった。
それでもマネジメントの才能があったのか、その人柄と卒のなさで、カチローはマネジャー兼、レギュラ
ージャージを着ない副部長になっていた。
カチローのその才能に気付き、彼に副部長を託したのは、意外にも海堂で、カチローに副部長の仕事
を手取り足取り引き継いだのも海堂だった。そして小野村と二人、今の中等部テニス部を巧く回してい
るらしい。
「小野村も、頑張ってるらしいな」
部長を託した後輩の活躍ぶりは、桃城達にも届いている。
「でも、越前に比べれば、大したことないっスよ」
面白くなさそうに堀尾が口にした科白に、カチローとカツオが慌てて堀尾の口を塞いだ。
「堀尾君!」
窘めるようにカチローが口を開けば、堀尾は憮然となっている。
「巧くいってないのか?」
「そんなことないです。堀尾君も、小野村君の前じゃ、こんなこと口にしません」
堀尾を庇うように、カチローが頭を下げるのに、英二達は少しばかり意外そうな表情で堀尾を凝視する。
「オチビか……今頃何処でどうしてるんだろうにゃ……」
中等部でリョーマと一緒にテニスをしてきた者なら、誰もがあの鮮やかなテニスを忘れることなどでき
る筈もない。けれど忽然と姿を消してしまった存在だけに、当時を知る者の間では、いつの間にかリョー
マの名前を出すのは、禁忌のような不文律が出来上がってしまっていたのだ。特にリョーマと特別仲の
よかった桃城の前で、リョーマの名前は出せないと、誰もが思っていたからだ。
「小野村はすごいけど、でも越前のテニスとは比較もできないっス」
「そりゃ仕方ないよ、あの子はテニスに選ばれた子だから」
不二が莞爾と口にした科白に、桃城の貌が一瞬哀しげに伏せられる。それを目線の端に捕らえ、不
二は内心溜め息を吐いた。
テニスに選ばれた子供。以前なら桃城もそう思っていた。
リョーマのテニスの才は、まさしく天から与えられた才なのだと。リョーマがテニスを選んだというより、
テニスに選ばれた子供。テニスの申し子だと思った。そのリョーマは、けれど今一番テニスからは遠い
場所に立っている。
一体どうしているだろうか?男の性を切断し、女性としての性を与えられてしまったリョーマは、何処で
どうしているだろうか?そう考えれば、時折当てもなくリョーマを探し回りたい衝動に駆られる自分を、桃
城は意識する。そしてそんな自分を叱咤し、衝動を意思の力で抑え付けるのは毎回のことだ。
リョーマが一番苦しい時、自分は決して傍に居てやれない。自分が隣に居て、してやれることなどゼ
ロだろう。傍に居たいと思うのは子供の傲慢さだと百も承知して、それでも、リョーマの傍に居たいと願
う子供のような内心に、桃城は苦い想いを飲み下す。それはひどく労力を必要とする作業だった。
「…桃……」
無自覚に口唇を噛み締める桃城に、誰もが何ともいえない貌を刻み付けた。
まるで互いにとって互いが特別だったかのように、桃城とリョーマは誰の眼から見ても、特別に映って
いた。その後輩が、突然姿を喪失したのだ。その桃城がよく端然としていると思うものの、リョーマが消
えて以来、桃城のテニスは様変わりした。
何かを知っているのかも知れないと思うものの、訊くことは躊躇われた。何よりも、訊いて答える程度
なら、桃城は最初からリョーマの消息を話してくれているだろうからだ。だから誰もが、桃城にリョーマの
行方を尋ねることはできないでいた。
「あいつみたいな選手は、早々いないさ」
半瞬哀しげに視線を伏せた桃城は、けれど次にはひどく真摯な眼差しをして、空を見上げた。
リョーマの瞳と同じように綺麗な空は、何処までも高く澄み、陽射に揺れる木洩れ陽が、眩しく双眸に
差し込んでくる。
「桃ちゃん先輩……」
「でも、ありがとうな」
「エッ?なっ、なんスか?」
桃城の視線が自分に注がれているのに、堀尾は慌てた。
桃城の前で、リョーマの名前はタブーになっていた。それは誰に言われた訳ではなかったが、リョーマ
の存在を知る誰もが、桃城の前でその名を出すことには躊躇いを覚えていたからだ。
だから桃城から『ありがとう』など言われるのが理解できず、堀尾は尚更慌てた。
「越前のこと、忘れないでいてくれて」
真摯な眼差しに込められた柔らかい笑み。それでいて何処か哀しげにも見て取れる桃城の眼差しは、深い色合いを浮かべている。
精悍な面差しは少しずつ大人の輪郭に近付いて、桃城の造作は今は随分大人の鋭角さを滲ませて
いる。それでも好青年と思えるのは、相変わらず明るい開放的な笑顔があるからだ。それがこうして真
摯な眼差しに象られ笑みが消え失せれば、その造作は思っていた以上に大人びたものを滲ませていた
のだと、誰もが今更気付いた気分だった。
「わっ、忘れる筈ないっスよ」
「そうですよ。リョーマ君のことは、今でもちゃんと覚えています」
「僕達の大切な友達なんですから」
桃城の思いがけない科白に、けれど堀尾やカチロー、カツオは、少しばかり反駁の音を強くした。
彼等にとって、リョーマは今でも過去にできない、大切な仲間なのだ。
「あいつ、嘘つきだからなぁ」
ポツンと告げた桃城の科白に、誰もがやはり桃城は何かを知っているのだろうなと感じた。
一学期しか居なかった子供の存在など、誰もが簡単に忘れていく。最初からそんな子供は存在しな
かったのだというかのように、記憶は風化していく。
リョーマがそう思っていたことに、気付かない桃城ではなかった。けれど実際は違う。誰もが今でもリョ
ーマを大切に思い、忘れずにいる。それが桃城には泣き出したい程、嬉しかった。そしてリョーマにいつ
か聴かせてやりたいと思った。
誰も忘れてはいない。リョーマという存在は、それだけ誰の胸にも鮮明に焼き付いて離れない、愛さ
れている存在なのだと。
「だから俺達、越前の為にも頑張ろうって、決めたんです」
消息は判らない。けれどきっと何処かで、あの小生意気な科白を吐いて、元気で居るに違いない。
そう思い、彼等は全国を目指しているだのと、桃城達は初めて知った。知れば堀尾が何故急激にテニ
スに集中し始めたのか、その理由も今判った。
堀尾は堀尾なりに、リョーマを今でも大切な友達として、頑張っているのだ。そしてそれはカチローや
カツオも同じなのだと思えば、誰もがリョーマは愛されている存在なのだと、胸を熱くさせた。
「それじゃぁ俺、ちょっと寄る所があるんで」
「ああ判った、お疲れ様」
桃城がテニスバッグを担ぎ直し、大石達に頭を下げる。
そして堀尾達の頭を順番にクシャリと撫で、背を向けた。
「それじゃぁ僕も失礼するよ」
つい長居をしてしまったと、井上がその場を立ち去った。
「じゃぁ俺達も失礼します」
「今日はありがとうな。お前達も頑張ってくれよ」
「お互い、頑張ろうにゃ〜〜」
「ハイッ!」
元気のよい声を揃え、三人は英二達に頭を下げた。
「桃の奴さ、絶対なんか知ってるよね」
遠去かって行く後輩の背を見送り、英二が少しばかり哀しげに呟けば、大石が宥めるように頭を撫で
た。
「オチビも、俺達にはいいから、桃には何か言ってやればいいのに」
大切にしていた後輩が忽然と消息を絶った時、当時の桃城は傍目から見ても、正気を失ってしまうん
じゃないかと危惧した程、リョーマを探し回っていた。けれどそれが気付けば平静を取り戻し、今まで以
上に端然とテニスに打ち込むようになっていた。そして同時に、精神の変容が目覚ましく、大人のような
落ち着きを見せるようになった。
一体何が桃城を安定させたのかと思えるものの、それは何度考えても、彼等にはリョーマの存在だと
しか思えなかった。
「大丈夫だよ、桃なら」
傍に居なくても、きっとリョーマが桃城を支えている。不二にはそう思えた。そしてそれはもしかしたら、リョーマにも言えることなのかもしれないと思う不二だった。
「あのバカなら、大丈夫っスよ」
もしかしたらこの中で一番、海堂は桃城を理解しているのかもしれない。伊達に何かと張り合いながら、テニスを競い、テニス部を支えてきた訳ではない絆が、二人には存在している。
「それじゃぁ、俺達も帰ろうか」
結局、高等部に進学してもテニスをやめられなかった河村は、今もレギュラーとしてテニス部で頑張っ
ている。
「んじゃぁタカさんちで、祝賀会」
「コラ英二」
英二は桃城同様部内のムードメーガだ。賑やかな笑顔に、誰もが頷き、彼等も帰宅の途に付いた。
□
都内へ向かう車両と、都下へと向かう車両の接続地点でもある青春台駅は、日曜の夕刻ということも
あり、朝夕のラッシュ時間とはまた違う意味合いの混雑で賑わっていた。
地区予選を終え地元に帰り着いた桃城は、短い停車時間で発車時刻を告げるベルの音を背後に聴き
ながら、テニスバッグを担ぎ直すと、改札へと向かい歩き出した。
長時間の試合で酷使した躯は、けれど全国大会へのワンステップを踏み出したばかりとはいえ、地
区予選優勝という高揚感を少しばかり引き摺ったままだったから、精神は心地好い疲労感に満たされ
ていた。その所為だろう。思っていたより足取りは軽く、常と変わらぬ歩みを刻んでいた。
青春台駅は中央改札を潜れば左右に駅ビルが隣接されていて、明るい照明と軽快な音楽に導かれ
るように、人の波が駅ビルの中へと吸い込まれていく。
友人と連れ立って、買い物にでも来たのだろう少年少女達。家族連れやカップル。誰もが楽しげに桃
城の横を通り過ぎていく。その殆どの人間が駅ビルに吸い込まれるように消えていくのを視界の端に捉
えながら、桃城は駅ビルに立ち入ることはせず、コンコースへと続く通路を歩いて行く。
改札自体が駅ビルの二階にあたる位置に作られている為、帰宅するのに通り抜けるショッピングモー
ルへの移動手段は、一階へ降りる為の階段を使うか、そのまま歩けば広いコンコースに出るから、そこ
から東西南北に突き出ている階段を利用するかのどちらかになる。
桃城はコンコースへと向かいながら、普段なら学生服姿であろう少年少女が、友人と連れ立ち、自分
の横を通り過ぎていくのを眺め、その中につい探してしまう面影に、深い自嘲を刻み付けた。
人混みに出ると、つい愛しい面影を探してしまうのは、リョーマが日本を発ってから繰り返されてきた
桃城の癖だった。そうしている自覚は桃城自身にはあまりなかったものの、時折気付いては自嘲を刻
み付ける羽目に陥っている。
行き交う人の群れの中に愛しい面影を求め、有り得る筈もないと自嘲と落胆を刻みつけてしまうのは、リョーマと交わした拙い約束の為だった。
二年前の夏の夕暮れ時、夏休みもあと数日で終わるという時期、リョーマは自分の身の上に起きた
災難ともいえる事実を、桃城にだけ打ち明けた。
半陰陽という、日本ではあまりにも症例の少ない手術を受ける為、家族と共に渡米する。その事実を
知っているのは、リョーマの父親である南次郎の恩師の竜崎と、桃城だけだった。
戻ってくるとリョーマは言った。けれどいつ戻ってくるのか日付的な約束はないまま、リョーマは日本を
後にしている。
戻ってくる。だから見付けてくれとリョーマは言った。そして同時に、見付けなくていいよとも言った。
そう告げたリョーマの綺麗な横顔が、今にも泣き出しそうに笑ったことを、桃城は今も鮮明に覚えている。
相反する二つの言の葉は、そのどちらもリョーマの素直な吐露だったのだろう。
桃城に見付けてほしい。けれど見付けてほしくはない。姿形ばかりか、性別さえ変わってしまう自分を、桃城はきっと見付けられない。だから探さなくていいと告げたのだろうリョーマの内心を、桃城は正確に読み取っていた。
「バカだなぁ、お前本当に…」
誰にともなく告げられた深い苦笑が、精悍な面差しに刻まれる。
いつ戻るとも約束のできない自分を、桃城が負い目を感じて背負う必要はないのだと。それは枷にな
らない為の言葉だと、桃城が気付かない筈はない。我が儘ばかり言っていた後輩は、肝心な時になる
と、こうして他人のことばかりを優先する。クールだと言われていたのはその涼しやかな外見だけで、内
側は誰より優しい生き物だった。
「見付けられない筈、ないだろうが」
根拠のない自信だと判っている。大人から見れば、子供の絵空ごとだと嗤われることは百も承知して
いる。けれど桃城の内側には、たとえ姿形がどれだけ変わってしまおうと、リョーマを見付け出せるとい
う絶対的な自信が、強固に根を這っている。 だから人込みに身を置くと、愛しい面影を探してしまうの
は、当然のことなのかもしれない。何一つ見誤らない為に、もう二度と、リョーマを手放さなくて済むよう
に。
無邪気に笑い合い、通り過ぎていく中学生らしい子供達に苦笑すると、正面にはコンコースが開けて
いた。石畳のようなコンクリートの上に、淡い陽射が降っている。
初夏に向かう季節の夕暮れはゆったり訪れ、リョーマの瞳を思い出させる空色は、ゆっくり琥珀の色を
溶かしこんでいる。日曜のコンコースは賑やかにざわめいて、名もないバンドが歌を披露し、携帯片手
に待ち合わせをしている者もいる。それは何処にでも転がっている、有り触れた光景だった。
夏を思わせる陽気は誰をも開放させるのか、周囲の雑踏は何処までも賑やかで、緊張感が微塵もな
い。有り触れていた筈の光景は、けれどリョーマを失ってからの桃城には、少しばかり縁遠い光景にな
っていたから、賑わう雑踏が少しばかり懐かしく感じられた。同時に、そうすればやはり記憶はついリョ
ーマの姿を探してしまうから、桃城は深い自嘲を刻み付けた。それが周囲の少女達にどんな風に映っているのか、桃城には当然自覚は皆無だ。
高校一年というには不釣り合いな大人びた苦笑は、青年に移行する年齢と相俟って、元々精悍だっ
た面差しは、端然と佇む、大人の男を印象づけている。
それはリョーマを愛したが為、子供ではいられなくなってしまった桃城の成長の跡だった。そしてそれ
は何より、如実にテニスに反映されていた。
リョーマが日本を発ってからの桃城は、手塚から部長職を託されたこともあり、以前よりテニスに集中
するようになっていた。それは端然としたたたずまいで、竜崎に語った言葉からも明らかだった。
リョーマとの約束を子供の絵空ごとで終わらせない為には何が必要か?子供のままではいられない
自分を意識した時から、桃城は周囲が驚く程、変わった。精神的に一段も二段も成長した。けれどそれ
は桃城を良く知る英二や不二には、少しばかり痛ましい光景にも思えたことを、桃城は知らないだろう。
今度リョーマに会ったら、誇れる自分でありたい。真摯な眼差しで竜崎に告げた桃城は、以来テニス
に集中し、昨年その結果を全国で残した。二年連続全国大会優勝という大技をしてのけて、桃城は中
等部を卒業し、今は高等部でレギュラーとして懐かしい面々と共に活躍している。そして、明るい笑顔
の背後で、ある一つの決意を固めていた。
賑わう雑踏を眺め、桃城の足は慣れた道筋を歩いて行く。無自覚に周囲を彷徨う視線に映るのは、何
処までも閑舒な日曜の光景でしかない。
夕暮れに近付き、幾分明度の柔らかくなった陽射。フッと何かの気配を感じ、視線が何気なく正面を
見た時、桃城の時間は停止した。
漆黒の双眸がらしくない動揺に瞠然となり、周囲の喧騒が一切遮断される。見開かれた眸は、たった
一人の姿を映し出した。
「……越…前……」
慄える声が、無自覚に滑り落ちる。
淡い陽射に浮き上がるように、静かに歩いて来る少女の姿。降り注ぐ陽射に、フワリと柔らかく揺れる
スカート。
一瞬視線が絡まったと思った途端、それはすぐに逸らされた。綺麗な黒髪が緩く風に揺れ、それが少
女の白皙の貌を際立たせている。無類の美少女と呼んで差し支えない容姿は、周囲の視線を集めてい
るものの、けれど少女は気にした様子もなく、風に髪を遊ばせながら、ゆったり歩いている。まるで水の
上を滑るように歩く静かな動きは、周囲の喧騒とは完全に一線を画している。
「越前」
繰り言のように、ただその名前だけを繰り返し、桃城の視線は、擦れ違うように歩いて来る少女に焦
点が絞られている。
常に一定に流れていく時間が、ひどく遅く感じられた。周囲の光景は全てモノクロに映り、正面の少女
の姿だけが浮かび上がって見えた。
綺麗な翠髪に縁取られた白皙の貌。長い睫毛の慄える様まで、見える気がした。
コンコースの人込みの中、まるで吸い寄せれるように少女と擦れ違った瞬間、少女のほっそりした手
首を躊躇いもなく掬い上げた桃城に、少女はひどく驚いた様子で桃城を振り返り、綺麗な造作が見る間
に泣き出しそうに歪んでいく。
「見付けた……」
さして力など入っていないかのように見える桃城の指は、けれど少女の細い手首をしっかり握り込ん
でいる。
「見付けたぞ」
見間違える筈もない、どれだけの人込みに身を置こうと、愛しい面影を絶対見誤らない自信が、桃城
には在った。
「見付けた」
「な……んで…」
今にも泣き出しそうに慄える細い声が、少女の口唇から零れ落ちる。
「見付けたからな、越前」
「………なんで…?」
まっすぐ澱みなく向けられる力強い視線に、白皙の貌が泣き出そうに歪み、まろい瞳の上で光が弾け
た。
姿形も変わり、身に付けている服は、以前なら有り得ない少女少女したものだ。以前の姿ならまだし
も、二年振りに会う、少女になってしまった自分を、桃城は何故当たり前のように人込みの中から見付
け出せたのか?
ひどく驚いた様子で桃城を凝視しているリョーマの双眸に淡い光が差し込み、表面に浮かび上がる雫
を綺麗に映し出す。
「見付けるって、言っただろう?」
どれだけ姿形が変わろうと、魂に根差す本質は変化しない。桃城にとって、変容する容姿より何よりも、リョーマという生き物それ自体に意味があるのだ。だからこそ、見付けだせるという根拠もない絶対的
な自信が、桃城には在ったのだから。
「もう、離さないからな」
握った手首の細さに泣き出しそうになりながら、桃城は胸を突き上げてくる衝動を何とか意思の力で
捩じ伏せると、ほっそりした手首を引き寄せ、
「越前」
往来だということも気にせず、華奢な躯を抱き締めた。抱き締めた細い躯からは、花のように甘い香り
がした。
「バカ……」
恋しい腕、懐かしい声音。今の今まで胸の奥深くに封じ込めていた気持ちが、桃城に抱き締められた
途端、激情のまま身の裡の何処とも知れない場所から、迫り上がってくるようだった。
「見付けなかったら、よかったのに……」
本当に莫迦だと思う。性別も姿も変わってしまった自分を、桃城は当たり前の表情をして人込みの中
から探し当てた。どれだけ願い祈ってみた所で、桃城が見付けだせる確率はゼロだと思っていた。二度
と会えないと、リョーマは思っていたのだ。
「桃先輩の…バカ…」
抱き締められた腕の温もりに、まるで在るべき場所に回帰したようだと思えば、リョーマは泣くのを怺
えるのに必死だった。
「こんな姿……」
往来だということも忘れ、リョーマは桃城の肩口に顔を埋め、すすり歔くように、薄く細い背を慄わせる。
「綺麗になった」
腕に戻ってきた愛しい温もりに、慣れた仕草で柔髪を梳けば、それは以前にも増し甘い花のような香
りが漂って、桃城の胸の奥を柔らかく締め付けていく。
「そんなこと、ある筈ない」
緩く髪を梳く指の感触に、懐かしさで声を上げ泣き出しそうになるのを、リョーマは必死に押しとどめた。
日曜の繁華街で、周囲の視線を集めているのは判っている。けれど今は、桃城の腕の中から離れら
れない。
「そんなこと、あるに決まってるだろう?」
元々涼しやかな外見は十分綺麗だった。けれど少女となった発達途上の未成熟な性は、折れそうに
細い線と相俟って、壊れそうに綺麗で、これから先、重ねる時間の中で、どれだけ綺麗になっていくの
かと思えば、桃城の胸には、誰の眼にも曝したくはないという甘い懊悩が早くも湧いていた。
「見付けたからな」
もう二度と離さないと宣言するかのように、桃城は真摯な声音で告げると、ほっそりした躯を抱く腕に
力を込めた。
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