雨降りの過ごし方
act2











「アッ、ぶちょう」
 可愛らしい歌声が響く雨の中。煙る視界の前方を歩く人物を見付けリアが指を指すのに、桃城も視界
の先にいるのが、つい先日、全仏大会準々決勝で対戦した手塚だと判った。
「部長」
「………桃城……」
 躊躇いなく自分を呼ぶその科白に、手塚は眉間に皺を寄せる。もういい加減直せと言っても無駄なこ
とは判っているものの、それが子供にまで呼ばれるのは、些か勘弁してほしいと思う手塚のそれは、当
然のものだろう。
 両親が手塚を衒いもなく『部長』と呼ぶ所為で、遼もリアも、手塚のことは『部長』という認識が優先さ
れてしまっている始末の悪さだ。
「お前達夫婦は、俺を『部長』って名前と、本気で思ってるんじゃないんだろうな」
 もい効力など一切ないそれを言う労力も疲れるが、子供の前だ。ちゃんと訂正したいと思う手塚だった
が、不二に言わせれば、悪足掻きということになる。
「どうしたんですか?」
「不二の伝言が残されていた」
「不二先輩?」
「お前の家に、菊丸と一緒にいるそうだ」
「英二先輩と」
「あの二人は、ちょくちょく遊びに行ってるらしいからな」
 その言外には、迷惑かけて済まないなというものが滲んでいる。
「リマも俺いなくて淋しい思いさせてるんで、却って不二先輩や英二先輩が遊びに来てくれるのは、助
かりますよ」
 それは桃城の素直な本音だった。世界各地を転戦している為、帰国し家族と一緒に過ごせる時間は、今の桃城には少ない。だから愛妻であるリョーマや子供達に、淋しい思いをさせていることも判ってい
るから、リョーマがリョーマとして在った時を知る英二や不二が遊びに来てくれるのは、むしろ桃城には
ありがたいことだった。
「そう言って貰えると、助かる」
「……親父と手塚さんが先輩後輩って、嘘くさい」
「コラ遼。部長になんて口聴くんだ」
 遼の科白に手塚は苦笑し、桃城は肩を竦めた。



















 リョーマ手作りのレモンパイとクッキーで談笑していた英二と不二は、雨の中。元気な歌声が響いてく
るのに、柔らかい笑みを漏らした。
「帰ってきたみたいでね」
「相変わらず、元気だにゃ、オチビのオチビ」
「元気すぎて、困るくらいですよ」
 無邪気な可愛らしい歌声に、リョーマは淡い笑みを見せる。二人の子供は、今まで大した病気に掛か
ることもなく、日々成長している。子供は望めないかもしれないと医師に言われ、泣いた日々が、今で
は嘘のようだと思えるくらい、リョーマは倖せなものに囲まれている。
「ジュニアは二人共、検診で診たくらいだもんにゃ」
 不二同様、青春大学付属病院の小児科医師として勤務している英二は、遼とリアを検診で診察した
以外の記憶はなかった。
 現在何処の病院も少子化の影響も手伝ってか、小児科医師になりたがる医師がいない。地域に密接
した小児科が減少の一途を辿る昨今、特に夜間の小児に於ける救急態勢は穴だらけだ。救急病院の
看板を掲げていても、小児は診ないという救急病院は、何も珍しいものではなかった。それくらい、小児
科医師の数は慢性的な人手不足に陥っている。小児科医療の惨状に、厚労省(厚生労働省)が漸く重
い腰をあげ、行政的に小児科の救急態勢整備する動きが出始めたものの、整備されるまでには長い時
間がかかるのは必至だ。
 医療分野で花形といえば外科系で、脳外科、心臓外科などが花形に上げられる。けれど最近の医療
事故などの問題により、外科医になりたがる医学生が減ってきているという現実もある。勤務医が減少
している現在、青春大学付属病院で忙しい日々を、英二も不二も送っているのだ。
「でも菊丸先輩がいるから、心強いですよ」
 元々英二はテニス部内でムードメーカといわれていたくらいだから、子供を扱うことにも長けていた。
子供を泣かせず診察、治療するのも、医師の手腕だからだ。だから英二はナースや母親ばかりか、患
児にも人気が高かった。
「いつでも頼っておいで」
「英二、子供達に人気者だからね」
 英二は患児に人気者だった。長い入院が続くこともある小児病棟で、英二は時間が空けば、よく患児
の遊び相手になっている。青春大学付属病院は、青春台近隣の小児医療を支える、重要な医療機関
なのだ。
「ママ〜〜〜ただいま〜〜〜」
 桃城が鍵を開けたのだろう。玄関ホールに元気な声が響き渡る。
「お母さん、タオル〜〜」
「ハーイ、ちょっと待って」
「大変だ、オチビ」
「でも、一番手が掛かる大きい子供は、桃先輩ですよ」
「それは、良く判る。桃は色々な面で、オチビに手を焼かせてる気がする」
 リョーマの科白に、よく判ると、ウンウンと英二は腕組みして頷いている。
「不二先輩、部長来ましたよ〜〜〜」
 玄関から響く桃城の声に、思ってもいなかった手塚の訪問に、三人はキョトンと顔を見合わせた。












「部長?」
 広い玄関ホールに佇む予想外の人物に、リョーマが蒼瞳を丸くするのに、手塚は深々溜め息を吐き出
した。
「越前…お前もいい加減直さないか」
 まったくこの夫婦はと溜め息を吐く手塚は、けれどリョーマがもう『桃城』という姓になっている事実を無
視しているから、案外お互い様なのかもしれない。手塚は未だリョーマを越前と呼ぶ癖が、抜けないで
いるからだ。
「いらっしゃい部長。不二先輩と菊丸先輩がきてますよ」
「いつも済まないな。不二のメモを見て、迎えに来た」
「遠慮なんて、らしくないですよ」
 手塚に来客用のスリッパを勧めながら、リョーマは愛娘のレインコートを脱がせてやる。 
「パパとお散歩、楽しかった?」
 お気に入りのピンクのレインコートを着て、颯爽と出掛けた愛娘は、ちゃんと傘を被っていなかったの
だろう。綺麗な髪がしっとり雨の雫を含んで濡れている。その髪をタオルで拭いてやるリョーマに、リア
は散歩途中で出会った様々なことを楽しげに話している。その様子を見ながら、手塚は柔らかい笑みを
漏らしている。
 出会った当初のリョーマは中学一年生男子で、テニスの確かな実力に裏付けされた小生意気さが印
象的だった。それが今はすっかり母親業が板についているのに、手塚も何かしら感慨があるのだろう。
「部長?」
 視線を感じ手塚を見上げれば、珍しく柔らかい笑みを漏らしている手姿に、リョーマはキョトンとまろい
瞳を瞬かせる。
「すっかり母親だと思ってな」
「そりゃ、二人も子供いますから」
 言外に滲む手塚の科白が判らないリョーマではなかったから、リョーマは綺麗な笑みを刻み付け応え
た。
「遼は、ちゃんと手を洗って」
「ハーイ」
「ったく、リマの言うことだけは、ちゃんときくんだよな」
 母親には素直な返事をする愛息に、桃城は苦笑すると、手塚をリビングへと促して行く。
「ママ、おやつ何?」
「リアの大好きなレモンパイと、ココア」
 タオルで髪を拭き、雨の雫をすっかり落としてやると、愛娘は盛大に喜び、軽い足取りでリビングへと
走っていく。元気な後ろ姿を見送りながら、リョーマは幸せそうな笑みを刻み付けていた。






「周ちゃん、英ちゃん〜〜!」
「ウワ、リアってば、雨の散歩なのに、その恰好で行ったのか」
 リビングに入るやいなや、楽しげに駆け寄ってくる、リョーマと瓜二つの顔立ちをしている幼いリアのそ
の恰好に、英二は呆れ、不二は苦笑している。
 リアの恰好はと言えば、襟に可愛らしいサクランボの刺繍が縫い取られた白いブラウスに、裾にやは
りピンクの刺繍糸で、ブラウス同様のサクランボのプリントがされている、フリルのついた赤いジャンパ
ースカートだ。どう見ても、レインコートを着るのを差し引いても、雨の中の散歩に着る服ではないだろう。
「桃先輩の趣味に決まってますよ」
 不二の隣に腰掛けた手塚の前に、レモンパイと紅茶を置きながら、リョーマは英二の科白に応えてい
る。
「趣味って言うか?」
 愛妻の呆れ顔に、桃城は脱力する。桃城に言わせれば、可愛い娘を可愛く着飾らして一体何処かけ
ないんだということになるから、リアはレースとフリルとリボンに埋没した生活を送っている。
「そのわりに、オチビは着てないじゃん」
 リアを膝に抱き上げながら、二人の愛娘の恰好を凝視すれば、どうみても雨降りの散歩には向かない
恰好だ。
「あんな機能的じゃない服。家事するのに動けると思います?」
 レースがヒラヒラ付いているような服、とてもじゃないが願い下げだった。
「リアのその服、未だ可愛いもんですよ。桃先輩が着せたいって買ってくるの、大抵ピンクハウスですか
ら」
「アア、そうだね。この子生まれた時、桃は大量にベビーピンクハウス買ってきて、皆を呆れさせたっけ」
 それこそフリルとリボンだけで構成されているかのような服は、ウィンドウのマネキンなら動かないから
形も崩れないで大丈夫だろうが、動き回る赤ん坊には不向きな服だと、誰もが呆れた程だ。
「いいじゃないスか。リアはリマに似て綺麗だし。可愛い服、着せたいじゃないですか」
 少しだけ拗ねた口調の桃城は、それでも毎回諦め悪く、フリルとリボンが多量に使用されている服を
買ってきては、愛妻と愛息に呆れられている。それでも一向に改まらない桃城の行動に、今ではリョー
マも諦めていた。
「だから今のリアの服は、可愛いもんなんですよ」
 子供達と桃城に、順番にレモンパイと飲み物を置きながら、桃城の隣に腰を落とし、リョーマは薄い肩
を竦めて見せる。
「雨降りの散歩は、楽しかったのかにゃ?」
 幼い時から家に出入りしている英二や不二に、リアや遼が人見知りをすることはなかったから、今も
英二の膝の上で、リアは楽しげに笑いながら、母親特製のレモンパイを食べている。
「カタツムリがたくさんいて、たのしかった」
「ヘェ〜蝸牛か。俺子供の時以来、見てないな」
「俺も未だいるんだって、喫驚でしたよ」
「遼は?」
 窓際の一人掛けのソファに腰掛け、黙々レモンパイを口に運んでいる遼に、不二が尋ねると、遼は一
言ボソリと呟いた。
「テニスしたい」
「流石、オチビの息子」
「それで、ご機嫌斜めなんだ」
 リマちゃんの子供だねと笑う彼等の科白の奥深い意味が判らなくて、遼は母親を眺めるが、リョーマ
はただ淡い笑みを見せているだけだ。普通なら、プロテニスプレーヤーとして活躍している父親に、似て
いると言われるものだろう。けれど誰もが母親に似ているという。それは父親でさえそうなのだから、遼
にしてみれば、謎だらけだ。遼がその意味を知るのは、中等部に入学する春先のことだ。
「明日は晴れるっていうから、みっちり練習付き合ってやるからな」
「親父は俺より、自分の練習しないと、ヤバイんじゃないの?」
「……本当、オチビそっくり」
 その小生意気な口調が、中学当時のリョーマを彷彿とさせる。
「どうせなら、部長がいい」
「…どうする手塚?」
 遼の突然の指名に、眉間に皺に寄せている手塚に、不二は可笑しそにクスクス笑う。どうやらこの一
家では、もう既に手塚の認識は『部長』と言うことで、決定してしまっているらしい。それが尚いっそう、
不二には可笑しかった。
「だったらパパ、リアとテニスして」
「蛙の子は蛙だね」
 遼とリアは、玩具を持つより先に、ラケットとボールを玩具にすることを覚えた子供だったことを、不二
達は知っている。
「それじゃ明日の練習の為に、今夜は焼き肉パーティにでもしようか?部長達も、食べてって下さいね」
「いや、俺達は失礼する」
「ダメですよ部長。遠慮なんてらしくないって言ったでしょ?ねぇ、不二先輩、買い物付き合ってね」
「オチビ、俺も俺も」
「越前……不二と一緒の感覚で買い物したら、大変だぞ」
 いっちゃなんだが、値段を見て買い物する程、主婦感覚が身に付いていないのだ不二は。
「そんなことするのは、手塚にだけに決まってるじゃん」
「不二先輩、案外所帯じみた買い物しますよ」
 手塚に対する、意趣返し以外の側面での不二は、むしろ主婦感覚がしっかり身についている人間だ。
世間で言われている程、医者も儲かる仕事ではないのだ。不二達の年齢では。
「どっちかっていうと、何も考えないで買い物しちゃうのは、菊丸先輩の方」
「なんだよオチビ〜〜」
「だって、お菓子とか目新しいもの、ポンポン買っちゃうでしょ?」
「お前達……俺や桃城が不在の間、いつも一緒に買い物行ってるのか?」
 此処まで互いの行動に詳しいのは、いつも一緒に買い物をしているからだろう。
「乾も、よく来るしね」
「お前達、溜まり場にしてるんじゃないだろうな……」
「だって此処って、居心地いいんだよね」
「……菊丸…」
 シレッと言う英二の科白は、手塚の科白を肯定しているようなものだろう。
「私も子供達も、桃先輩にほっとかれているから、来て貰った方が楽しいから、大歓迎ですよ」
 その科白に、微塵な嘘も含まれてはいない。含まれているとすれば、桃城が自分達をほっぽり出して
いるという言葉だろう。
「リマ〜〜〜いつ俺が、ほっといたよ」
 俺だって淋しいんだぞと大仰に泣き真似する桃城は、隣に腰掛けている愛妻の細腰に抱き付いては、リョーマに肘鉄を食らっている。
 此処にいる面子で、桃城が愛妻を放っておく真似をしていないことを、知らない人間は存在しない。
 どれだけ物理的距離が開こうと、桃城とリョーマの間に、精神的距離の開きはない。確かな絆で、こ
の家族は結ばれていることを、彼等はちゃんと知っているからだ。
「……バカ親父……」
 端から見ていても、恥ずかしいバカップルだと思う遼は、齢9歳にして、立派な苦労性だろう。
「それじゃ、買い物行ってくるから。リアと遼は、パパの言うこときいて、お留守番」
「エ〜〜〜リアも行きたい!」
 英二の膝の上で、リアが即座に抗議の声をあげ、可愛らしく柔らかい頬を膨らませれば、英二がツン
ツンと頬をつつく。
「リアお散歩から帰ったばかりでしょ?少しお昼寝」
 そろそろ眠くなる時間帯だ。子供は全力で遊ぶから、その分何処かで休まないとダメなようにできて
いる。
「部長も、ゆっくりしてて下さい」
「悪いな」 
 此処で拒むのは却って失礼になると、手塚はリョーマの科白に頷いた。
「じゃ手塚、ちょっと行ってくるから」
「英ちゃん。帰ってきたら、遊んでね」
 桃城の膝の上に移されたリアは、元気に手を振っている。
「だったら、ちゃんとお昼寝しないと、ダメだぞ」
「桃先輩、ちゃんとリアお昼寝させてね」
「ハイハイ」
 膝の上で、母親達に向かい、元気よすぎる威勢で腕を振っている愛娘を抱き抱え、桃城は気をつけて
行けよと愛妻を送り出す。
「不二ではないが、此処は本当に居心地がいいから困るな」
 リョーマ達が出かければ、途端に部屋は静けさを取り戻す。桃城同様、世界を転戦している手塚は、
この家に来ることはあまりないものの、訪れれば、居心地のよさはいつも感じるものだった。
「困ることないですよ。いつでも遊びにきて下さいよ」
 膝の上で、ウトウトし始めた愛娘の寝顔を幸せそうに眺めながら、桃城が穏やかな笑みを見せれば、
その穏やかさに、桃城のゆとりや余裕が垣間見え、随分成長したと思う手塚だった。
「俺もリマも、それが嬉しいんですから」
 優しい人達が、いつでも気軽に遊びにきてくれるように。そういう家にしたかったのだと、桃城は笑った。