閉じられた環









   残酷に回帰する
   いるべき居場所に 
   悲しみと嘆きしか伝わらないとしても
   結局どんなカタチであれ
   立ち返る場所はたった一つ
   そんな簡単な事実に
   血に濡れた悲鳴が響く





「菊丸、何をしている」
 先刻から、落ち着かない様子でコートの外を何度も振り返っては、その都度溜め息を吐き出している菊丸の様子に、手塚は見兼ねた様子で声を掛けた。落ち着かない様子など、聞く間でもなく判りきっている。
 ネットの向こう側、英二と打ち合いをしていた大石が打ったボールが、投げ返される事なくポーンと撥ね、コロコロと転がって行く。ラケットを構えた腕が、ダラリと下がる。視線だけが、転がるボールを追っていた。けれど足は動く事はない。視線は足許に落ちている。
「戻って来るかな…」
 ポツンと漏れた声に、大石が気遣わしげに駆け寄って来る。
天真爛漫に見えるパートナーの、実に繊細な部分を持ち合わせている心根を大石はよく判っていたので、ポツンと独語に漏れた声に、大石は安心させるように笑ってやる事しかできなかった。
「桃が迎えに行ったろ?」
 大丈夫だと、安易な慰めが英二を癒す事がない事を知る大石は、決して安易な言葉を口にはしない。寧ろこの場合、安易な慰めが鋭利な棘となって英二の心根の奥を抉る事を、大石はよく心得ていた。
 リョーマが不意に居なくなる寸前まで、一緒にアップをしていたのは英二だった。
五人兄弟の末っ子で、天真爛漫と言う言葉が似合う笑顔を見せる部のムードメーカの彼は、何かとリョーマを気にかけていた。
 その天性の才も、小生意気な口調も、何もかもを気に入って受け入れ、惜しみ無く弟のように可愛がっていた。それは英二のみならず、レギュラー陣全員に共通していた事でもあった。特に3年のレギュラー陣には、その思いは一際強かった。
 自分達に続く次世代の層の薄さが、テニス部の致命傷だと認識していたからだ。
桃城と海堂以外、二人に近付く実力を持った部員が存在しない。いずれ自分達が部を去った時の事を常に考えていた彼等にとって、リョーマの存在は光明とも言えた。 実力に裏付けされた小生意気な口調。自信の在る勝ち気さ。次世代の存在を、素直に喜んでいた矢先の出来事だっただけに、誰にもダメージは深い。
「うん…そーなんだけど…」
 ちょっと眼を離した隙に姿を消してしまった。消されたら、自分では探し出せない。そんな部分まで性格の区分分けに似なくてもいいのにと、英二は内心ボソリと漏らす。
 ヒトの性格をイヌとネコで区分するなら、リョーマの性格は10人が10人ともネコと答える性格をしている。それは見事にプレイにも反映されていた。
 パワーのない分、技術で補う綺麗なフォームは、簡単に真似のできる代物ではなく、敏捷に動く靭やかさは、英二同様、ネコ科と称される剽悍さで動く機敏さだった。
 そんな部分までリョーマはネコにソックリで、不意に姿を消されたら、広い学園の敷地を探す事は、ひどく困難な作業になる。
 広い敷地をくまなく探せば見つかりはするのだろうし、見付け出す事は可能だろう。少なくとも彼は、この広い校内の敷地から出て行きはしないだろうから。
 けれどそれは途方もない時間を要する事になる。
初夏の陽射しの中。長時間放置すれば、アノ小柄な姿態の主は、簡単に脱水を来たし、熱射病になるだろう。人形より気配のない姿を何処かで曝し、誰かが見付けるまで、或るいは自力で修復するまで。気付いた時には、熱射病で倒れる可能性さえ否めない。一極集中型の思考回路は、自分の置かれた状況一つにも頓着は持たないから、暑さで倒れたなど考える暇もなく、きっと倒れてしまうに違いない。
「桃がさ、可哀相でさ」
 ポツンと告げた言葉は、英二の偽りない言葉だと判る。
相変らず視線は足許を見たままだ。
「あいつの前でソレを言ったら、泣かれるな」
 見兼ねた手塚が、深い嘆息を吐き、口を開いた。
英二がリョーマを可愛がるのと同様、桃城の事も随分気に入っている事を手塚は知っている。
 桃城が一年当時、今のリョーマにとっての桃城の位置は、英二だった。部のムードメーカの英二は、二年当時後輩の面倒をよく見ていたから、桃城も随分懐いていた。それは今も変わりない。桃城の中で気安いのは、きっと英二だろう。
「オチビも、可哀相でさ」
 前後の繋がりを無視して、リョーマは不意に何もかも見えなく、聞こえなくなる。人形より気配をなくし、不意に姿を消してしまう。
 桃城が迎えに行くのは、正しくは正気に戻す為の修復作業でしかない。虚ろな瞳を正気に戻し、ソコに在るのだと認識させる為の作業。それがどういう経緯を辿り戻るのか、眼にした事は一度もない。可笑しい程、桃城はそういった場面を他人には見せないし、曝す事もない。
 疵を負うのは自分一人でいいと思っているのか、それさえ彼の言葉には出す事のない部分での独占や執着の結果なのか?それは手塚にさえ判断は付かなかった。
 修復を計る経緯の中。その分抉られる疵を身の裡の何処かに負う桃城は、それでも手塚をしてクワセ者と言われてしまう人物だから、巧みに身の裡に突き付けられた疵を隠す術にも長けていた。
 自分の疵を、曝す事はただの一度もない。抱える疵の深さなど、推し量れる筈もなく想像もできない。
 いつもリョーマが走り戻ってくるコートの後ろ。小柄な背が完全にコートに掛け戻り誰かと打ち合いを始め、彼自身が自らがソコに在る事に疑問も持たないタイミングを計って、戻って来る。その間に、きっと桃城は自らの疵を癒すのだろう。
 人に慣れる事のない野生動物のように、何処かで疵を癒す作業によく似ているように思える。今も何処かで癒しているだろうか?考えてみても、判らない事ばかりに思えた。
 所詮相手は手塚に青学一のクワセ者と言われる人間だ。巧妙に隠す術を持ち合わせている桃城の内心など、推し量るなど無理と言うものだ。判った所で、何一つしてやれるわけではないのだ。所詮彼等は外野の人間だ。どれ程の距離感と親密度が絡んでいたとしても、桃城とリョーマの位置に比べられる筈もない。
「何でかな…」
 英二の笑顔の裏側に潜む繊細さを、知らないレギュラー陣は存在しない。
アクロバティックなプレイを得意とし、ネコ科の小動物さながら靭やかな動きをする英二の神経は、驚く程繊細な部分を持ち合わせている。困難な試合の最中も頭を垂れない強さに、混在する繊細さ。
「笑ってさ、テニスしてたのに」
 小生意気なリョーマが、それでも笑顔でテニスをしていたのは、そんなに過去の事ではなかった。
 小生意気な態度に比例する天性の才。天才だと両断してしまう事は簡単な事だろう。その年齢に不釣り合いなテニスに対する技術は。けれどそれが努力もなしに手に入る事のないものだと知っている。称賛は簡単に与える事はできる。けれどその裏に滲む努力など、誰も気にはしないものだとも知っていた。だから安易な称賛を、彼等はリョーマに贈った事はない。
 大抵桃城とアップして、二人で打ち合いを初めて。そんな時のリョーマは水を得た魚さながら、靭やかに動いていた。テニスが楽しいのだと、全身で表現していたように思える。
けれど今は違う。
 桃城が迎えにいって、一度でも二人揃ってコートに姿を現した事はない。いつもいつも、桃城の一回り以上大きいレギュラージャージ羽織ったリョーマが、コートに走って来る。
 前後の一切、時間的な記憶を置き忘れて来て尚、何も可笑しいとも感じないリョーマだけがコートに戻り、何もなかったように練習に溶け込んで行く風景を、もう何度眼にしてきただろうか?
 自分には一回り以上大きい桃城のレギュラージャージを羽織って、決してソレを手放さない。桃城が後から戻って来れば、恐ろしい程冴えた冷ややかな眼差しを突き立てる。
 アノ眼差しだけが、今リョーマをソコに立たせている事を、誰より桃城は知っているのだろうと彼等は思う。

『何であんたがッッ!桃先輩のジャージ着てッ!返せ!』


 困惑する桃城を前に、身長差や体格を無視して噛み付くように飛び付いて、桃城からジャージを奪ったリョーマの姿。
 脆弱な強さが研ぎ澄まされ削り出され、軈て切っ先の先端が砕けてしまうまで。不均衡な強さの上に成り立っていると誰より痛感し、焦燥しているのは他の誰でもない当事者の桃城だと言う事も、彼等はよく理解していた。
 いつまでと……。
いつまで、脆弱な強さが彼を立たせているのかと思う。壊れた心がいつまで持つのか、誰にも判らない。判らないから、見せない内心で焦っている桃城を、多分此処に在る三人は知っているつもりだった。知った気になっているだけかもしれないと思いながら、知っているのだと、顔を合わせては英二はやはり悲しげな顔をしてみせた。
 不意に居なくなって、虚ろな眼差しだけが偽りばかりを映し、修復されない時がいつかきてしまう恐ろしさを抱いているのは当事者の桃城だと言う事は、判りきっていた。
 ダレかと願う想いの強さなど、到底真似はできない。
「オレさーオチビちゃんの事、好きだったんだよねぇ」
 その時漸く、視線が上がる。苦笑と自嘲を綺麗に混在させた笑みと眼差しで、パートナーな大石を見た。その曖昧な笑みに、大石も苦笑する。
「それは大石を前に、大胆な発言だね、英二」
 団子になって固まっている三人に、不二が近寄って口を開いた。
「ん〜〜アノテニスの技術や、砂みたいに吸収する素直さや。小生意気だったけど、桃と居るとさ、すごく素直だったし」
「アア、それはそうだね。本人に自覚ないから、尚更可笑しくてねぇ」
 桃城にだけは、安心して悪口雑言を叩いていた。それを桃城はひどく楽しげに聞いていた。大切にしていた事など、今更だった。別段注意して見ていなくても判る。大切にしていた事など。今も昔も、桃城が願う事など、ただ一つだと知っている。


 笑っていて……


「アノ小生意気なニャンコがさ、警戒心一つなくて」
「そーいう越前を、好きだったんだよな、英二」
「ン〜〜」
 曖昧な返事は、コートの隅を映していた。
大抵二人でアップしていた場所。軽口を叩きながら、手塚に怒鳴られ、それでも笑っていた場所。今では遠い事のように思える。それが少しだけ悲しいと思えた。
「代われるならさ、俺代わってもいいって思うんだけどさ」
 トンッと、シューズがコートを蹴った。整備されている土の欠片が、パラリと俟った。
「見ててさ、桃が可哀相でさ」   
 結局…。結局。見ている自分が辛いからの産物の言葉だと、英二は知っていた。
「必死でさ」
 まるで自分の所為だと責める桃城の見せない疵が、抉り出されて行く光景を、見守る事しかできないから辛い。
「いい子だよ、英二はさ」
 その優しさ故に傷付く英二を、大石は頭を掻き混ぜ癒そうとする。
「俺はこうして大石いるけど。オチビはいなくて」
 優しく暖かいヒトの手。他人の手。自分以外の体温を感じる安堵は、優しさと信頼とそれ以上の想いとを綺麗に伝えてくる。心地好いと感じる距離が必要な事だとも判っている。
 こうして、リョーマの頭を掻き混ぜてやる事は行為としては簡単だけれど、伝わる熱は何一つ違うだろう。桃城にしたなら、肩を竦めて苦笑される事で、更に疵を深める事は嫌でも判る。スキンシップは好むくせに、態度で慰められると、途端苦笑する桃城を英二は知っている。慰められると言う行為自体を、好まないのだろう。
「居るだろ」
 其処で手塚が端然と口を開いた。
今の今まで英二の言葉を聞いていたのだから、練習熱心な手塚にしては、破格だろう。
「手塚的には、どんなに拒絶しても、越前が桃にしか反応しないのは、回帰されてるからだってさ」
 閉じられた環状。回帰する場所。最初も最後も立ち還る居場所。
リョーマが修復されるのは、どれ程の痛みと悲鳴をあげても、常に桃城にだけだった。だからこそ、誰もが肩代わりなどできないのだと、絶望の中で判っている事実の一つだ。
 その存在がソコに在ると固定する強さを現す勝ち気な双瞳が、翳り曇り、正気をなくしてしまう程。二人の関係が閉ざされているものだと、その時初めて周囲は気付いた。
 環状ではなく、開かれている環なら、リョーマの反応はもう少しマシなものになっていた筈で、こういう最悪な自体にはならなかっただろうし、生きた桃城を認めないと言う誤った答えを導き出す事もなかったのだろう。
 ナニが二人を其処まで結び付けていたのか、誰も知らないし、当人達に訊いてみた所で、正確な答えは返らないだろう事も予測できる。
 判っている事など簡単なものだ。リョーマは未だアノ時の恐怖の淵から立ち戻れない。
それだけだ。
 取り残された淵の深さは、当人しか判らない。その恐怖も痛みも疵も深さ、流した血の量など、誰にも判りはしないのだ。どれ程判りたいと手を差し延べた所で、枷にしかならない言葉しか与えてはやれない。


『桃城だよ』


 転がる程度に簡単な文脈一つ。望まぬ言葉しか、与えてはやれない。小生意気な後輩が望む言葉は何一つ。
 言えば言うだけ追い詰めて、泣く事もできない眼差しを歪ませて行くばかりだ。
 もっと上手な方法は、幾らでもあるのかもしれない。けれど、現実を否定させては何も始まらない気もするのだ。桃城が望まぬ事とはいえ。
「バカだね…」
 ダレでもいいのだと、桃城は何とも言えない貌で笑う。
ダレでもいい筈がないと言うのに。越前リョーマにとって、桃城武でなければ意味など何ひとつ成立しはしないと言うのに。
「手段がね、ないわけじゃないんだけどね」
 研ぎ澄まされた眼が開く。普段は正面から人を視る事の少ないその眼がまっすぐ開くと、誰もが気後れを感じずにはいられない。冷ややかに研ぎ澄まされた月の切っ先。
「治すって言うのとは、意味合いがズレるけど」
 耳に残る突き刺さる悲鳴と懇願、哀訴。血に濡れてこびりつくリョーマの慟哭。
硝子の扉を無心に叩き続けた白い手。とても小さく見えた幼い姿。
 天性の才に無責任な称賛を与えられる選手ではなく、ただ小さい姿が焼き付いて離れない。
「記憶をいじるって言う手段がね」
「?」
 誰もが不思議そうに不二を窺った。
「成功率は低いし、後遺症が残るケースも否めない」
 不二の後ろで、気配もなく乾が口を開いた。
「記憶自体をいじって、上書き保存するようなものだからね」
 メガネの奥の表情は、相変らず声のトーンだけでは判断も付かない。手塚と違う意味合いで、彼もまた態度を表に出す事はなかった。
「危険極まりないな」
 溜め息混じりに手塚が漏らす。
「だからね、越前君のご両親も賛成していない」
 特に日本は精神医学は先進国の中では恐ろしい程立ち遅れている領域だ。元々が日和見種族だから、推し量る領域は苦手分野で発展途上なのが現状だ。
「早く……早くさ…」
 元に戻るといいな…。
何がどうしたら元に戻るのか見当も付かないけれど。アノ日常に。研ぎ澄まされて行く冷ややかな熱さと勝ち気さと。背筋を焦がす挑発で、相手を魅了するテニスを取り戻してくれたら。
「そうだな……」
 英二の声にならない声に、誰ともなく頷いた。
脆弱な強さに支えられて立っている小さい姿。削り出されて行く先端が、削り出す部分もなくなって、脆く砕けて壊れて行く様を見なくて済むように。
「忘れるなんて、本当はとても簡単な事なんだろうにね」
 忘却は、精神を正常に保つ為の作用なのだと言う。けれどリョーマは心を壊してさえ、頑なに手放さない。誤った記憶を。
 負荷なのだと不二は思う。目の当たりにした鮮明な赤い光景が、一瞬にして負荷を与え破壊して、脆弱な強さで、賢明に自分を立たせている。それでも立つ事を選ぶ程度には、リョーマは壊れてはいないのだと、思いたかった。














『お前が、笑ってテニスしてくれてれば、俺はまぁ倖せだよ』

 バカみたいだ。年齢だって一つしか違わないくせに、何でそんなバカみたいに優しいのだろうか? 
 何も優しくなかった。重ねた肌の熱さは幾重も在るのに、その行為が優しさしか孕まない行為だと知っていたのに、自分は何一つ優しくなかった。


『お前のテニスさ、好きだぜ』

 何が好きなのだろうか?
身を飾り立てる技術的なものだろうか?だとしたら、それは桃城のようにパワーのない、自分にできる背一杯の装飾でしかない。装飾で身を飾り立て、相手を一時的にせよくらます為の手段。その程度の為に、努力した結果だ。それさえ、所詮父親のコピーだ。構築も中途半端で、自らのものに還元できない未熟な技能の幾重だ。


『お前のテニスはさ、お前のテニスでしかないから』

 自分が欲しい言葉を、桃城は極簡単に提示できる人間だった。間違う事もなく、ただ単純明快な答えだと言うように、笑って提示される居場所だった。
 アアそういえば、この先輩は、見えないが数学が得意なんだっけかと、訳もなく思った。この場合推し量ると言う基準なら、得意項目は国語の筈だ。けれど漠然と何故かそう思った。
 人の感情を推し量る数式などありはしない。けれど何故か当時はそう思った。1+1=2と言う数式で現せる感情なら、誰もが悩みも迷いも抱く事はないだろう。
 悪党……。
その次に浮かんだ言葉は、そんな言葉だった。


『お前言っても、信じねぇだろ?』

 腹立たしいと言うより、悲しいと言う思いが構成されていると言う方が、その感情を表現するには適格なのかもしれない。
 突然視界を横切った姿。良く見知っている大切な人の面差しに良く似ていて、悲しくなる。どうして自分を覗き込む相手が、桃城でないのだろうか?幾ら考えても、リョーマに答えなど出る筈もなかった。
 どれ程訊いても、その問いに誰も答えてはくれない。懇願も哀訴も、何一つ。答えてはもらえなかった。
   
『桃だよ』

 静かな声が、悲しみの淵を湛えて告げられるばかりで。
何一つ答えては貰えなかった。

『違うよ』

『そう、なんだけどね』


 見知らぬ男を桃城だと肯定する、少し困ったような笑み。
そんな風に、困った顔をこんな場面で見せるなんて、狡い人だ。

『アノバカじゃなかったら、誰だってんだ。あんなバカ一人で沢山だ』

 喧嘩早くて顔を合わせれば口と手が当時に出ていたような二人だった。けれどそう告げた海堂の眼は、悲しみしか映してはいなかった。

『よぉ、越前』

 気軽に声を掛けて来た。相手はとても自分を良く知っていて、誰もがその人物を知っていて、けれど自分はソレを知らない。とても良く似ているけれど、けれど違うと言う矛盾に、引き裂かれそうになるのさえいつもの事だ。

『あんたダレ?』
           
 桃城のレギュラージャージを極当然のように着て、桃城のラケットを持って現れた見知らぬ他人。
 本当に、判らなかった。ダレなのだろうか?考えても、答えなんて出なはしない。
眼前に佇む男に焦点を絞れば絞る程、光景は理不尽な程鮮明さを欠き、不透明になって行く。
 どうしてダレもが当然のようにその人間を桃城として扱うのか?判らない。ただ判っている事は、その人間は自分の桃城ではなくて、桃城の居場所が極当然のように失われて行く、それだけだ。けれどそれだけ判っていれば、十分だった。

『桃先輩の、何であんたがソレ着てんの?』

 何で当然のように、桃城のレギュラージャージを着て、桃城のラケットを持っているのだろうか?自分に遺こされたものなんて、何一つなかったと言うのに。泣く事さえ、もう忘れてしまったと思う程泣いたのに。
 そんなもの幾ら流したと所で、彼は還って来はしないのに。どうしてこの見知らぬ男は自分の前に桃城のジャージを着て、当然のように現れるのだろうか?どうしてダレも、疑問も口にしないのだろうか? 

『返してよッッ!返せッッッ!』

 きっと上げた叫びは悲鳴じみていたのかもしれない。声の大きさに、誰もが喫驚した顔をしていた。

『オイオイ越前』

 困惑した顔。飛び掛かってジャージを奪おうとした自分に、そんな顔まで、腹が立つ程そっくりで。息が詰まる。

『どうして…!』

 どうして、桃城でないのに、そんなに似ているのか?
困った顔、笑った顔。呼ぶ声、その音、何一つ変わりなくて、桃城を思い出して悲しくなる。

『なんで……!』
 
 考えても答えは出ない。誰に問い掛けても答えてはくれない。その問いに、募るのは悲しみばかりだ。
 桃城が居るべき場所に、極当然のように入り込んで、失われて行く居場所。それは恐怖しか生み出さない。彼が居たのだと言う居場所。それを取り上げられる事に、言い様のない喪失の恐怖を覚える。

『お前言っても、信じねぇだろ?』

 桃城武なのだと告げた。そんな筈は決してないのに。

『俺が桃城武だって言っても、お前納得しないだろ?』

 当然だ。



「だって……」
 彼は自分の目の前で、喪失してしまった、永遠に。
何一つ優しくできなくて、後悔なんて幾らしても足りない程。優しくされる笑みの向こうに、綺麗に隠されている想いの深さに気付かないフリをして。その都度優しくない自分を自覚して、『あんた絶対マゾだよ』と心の中で悪態を付いて。
 突き付けられてこない想いに安堵し寄り掛かって、我が儘しか言えなかった。
 幾度肌を重ねた所で、桃城はバカな台詞は吐かなかった。
所有と独占を従属に縛り付け、安堵するようなガキの思考回路を、決して押し付けてはこなかったから、素直に快楽だけを貪る事ができたし、溺れる事ができた。今なら用意され、提示されていた優しい空間だったのだと、推し量る事は簡単にできる。
 平穏な時間は永久に続くのだと、バカみたいにそんな事を勝ってに思って。気付けば簡単に失われてしまう、世界の脆さに気付く事もできなくて。安定した時間など、ありはしないのに。こんな時になって、痛い程気付かされる。







 何でだろう、動悸がすると、リョーマは不意に漠然と気付いたように意識した。途端、グラリと視界が揺れる。
 視界の片隅、切り取ったように浮かぶ蒼い空。光が欠け、眩しさで余計に視界がブレて行く感触に、蟀谷に冷たい汗が流れて行く。
 意識の外の反射で脚だけが動いている。走っている。踏み締めている実感の薄い土の上を、それでも脚は走っているのだと、リョーマはその時初めて気付いた。
 手にはラケット。自分のものと、桃城のものと。見渡して、歪む視界に思考が働かない気がした。
 コートは前方。暑い最中、各校の偵察の人目に曝されながら、既に練習は始まっている。手塚の声が響いて聞こえる。ラリーのボールの音。
 正面に働かない思考の片隅でも、想起は起こる。
現実感の希薄な躯に思考や意識。構成される何かが足りないのは、桃城だけではないと判る。けれど実際何が抜け落ちているのか?問われたら答えられはしない
 手繰り寄せる記憶の糸の端に、人懐こい笑顔の先輩が浮かんだけれど、その意味するところなど、今のリョーマに判る筈もなかった。
 抜け落ちて行く記憶の欠片達。何一つ、役に立ちはしないと言うように。簡単に切り捨てられて行く。
 視界が揺れる。呼吸が苦しい。バカみたいに吸気と呼気を繰り返して、脚が勝手に走っている。 
 歪む視界の上に、鮮明な蒼さだけが腹が立つ程眩しい。
「倒れそうだよ、オチビちゃん」
 不意に掛けられた声に、漸く脚が止まった。
荒い呼吸を繰り返し、リョーマは虚ろな瞳を声の主に向けた。
「あんた………」
「覚えててくれた?千石」
「山吹中の……」
 手繰り寄せる記憶。検索する項目に引っ掛かってきたのは付属品としての人物だ。
「桃先輩と対戦して、負けた人」
「まぁ……」
 いいけどね、ガクリと千石は肩を落とした。
予想していたリョーマの認識だ。
 リョーマの記憶には常に中核に桃城が居て、人や景色はその周囲にばら蒔かれた部品さながら、混在している事を。 
「見えてる?」
 千石は屈み込むと、透ける眼差しを覗き込む。
空が在るのかと、不意に思えた瞳だった。
「……?何…」
 覗きこまれる瞳。交わる視線。ひどく不快だと感じた。
「別にね」
 リョーマが不快そうに攅眉すると、千石はスッと身を引いた。
「見えてるなら全然問題なし」
 千石の人を食ったような笑みと台詞に、隣に立ち尽くしている神尾が、肘でつついている。
「あんたも偵察?」
「そうそう、やっぱオチビちゃんは、そーいう顔と声してないと」
 途端憮然となったリョーマは、本来の勝ち気さを曝していて、千石と神尾をホッとさせた。
 彼は何も知らない。今自分の立つ位置の脆弱さを。現実的な場所も位置も何一つ。気付かせては、いけない。削り出され薄くなっていく諸刃の強さを。
「あんたに、『オチビちゃん』なんて呼ばれる覚えないけど」
 そう自分を呼ぶのは、英二が大半を締めていた。
開放的な天真爛漫な笑みは、よほど自分より年下に見える時が在る。そう思い、
「……俺……?」
 英二の開放的な笑顔に、何かを思い出す。
そのほんの些細なリョーマの仕草に気付いた二人は、神尾が余計な事をと、千石の脚を盛大に踏み付けた。踏み付けられた方も自分の言葉の多さに失敗した自覚はあるから、苦虫を噛み潰したような顔をして、それでも表面を取り繕う事は成功していた。
「アア、ホラホラ、鬼の部長が呼んでるよ」
 前方に注意を促せば、確かに手塚が厳しい顔付きでリョーマを呼んでいた。
「ホラ、行った行った」
 ヒラヒラと手を振ると、リョーマは不審そうな表情をしながら、コートへと駆け出していった。
「失敗した」
 走り去る薄く細い背を眺め、千石が苦々しく口を開く。
「桃城に殺されるぞ」
 思い出させたら。
負荷がかかって壊れて行く精神。切っ先の上に立ち尽くす脆弱な強さ。削り出され、やがて砕け散る瞬間が先か、リョーマが桃城の存在を受け入れ修復されるのが先か。やり方を間違えたら、破壊にしかならない。
 混乱させるやり方で修復させても意味はない。どれ程精巧に繋ぎ治してみた所で、一端付いた傷跡は決して消せない。綺麗なものに誤魔化し隠す事は可能でも、見えない場所で疵は残り続けて行くものだ。





「遅いぞ、越前」
 コートに駆け込んでくるリョーマの姿に、誰もがホッと溜め息を吐いた。
「オチビちゃん。遅い遅い」
 気付かせないように。気取られないように、
英二は笑顔を向けた。
「ホラホラ、俺相手してあげるから」
 最初から。リョーマが部活に現れ、アップした時と同じように。疑問も感じさせない程極自然に、英二はリョーマのアップを手伝い出した。











「行くかな……」
 遠目に見えるテニスコート。一際小さい姿が英二と共に在る事にホッとして、桃城は蒼い空を仰いだ。
 薄く透ける淡い蒼。リョーマの瞳。空のようだと言葉にしては、『バカみたい』と笑われた。
 ただ、笑っていてくれと掲げる願いが、それ程埒もない子供の繰り言だろうか?
何が救いになるのか?誰にも判りはしない。何が癒しかなど、他人に判る筈もない。
 閉ざされ囚われる環。立ち尽くし回帰する居場所。
切り裂かれる程優しく残酷な想い。言葉に出される事などなくても、判っていた。素直になれない彼の想いなど。
 追い詰めなくてもいいと思う。忘れていいとさえ思う。遠ざかる距離など未練もない。
取り戻してくれたら、それだけが願いで祈り。 
「忘却は、精神に与えられた唯一の救済だって言うけどな…」
 忘却さえできずに佇む淵の恐怖。取り残してきてしまった大切な人。
「バカだよお前は…」
 こんなカタチで、欲しかった想いではないと言うのに。
忘れれば、今すぐラクになれると言うのに。 
見返りが、欲しくなかったと言えば嘘になる。けれど……。
決してこんな痛みを伴う想いが欲しかった訳ではないのだ。
閉ざされてしまった環の中に、囚われてしまう想いは決して。


 もっと優しいものであった筈なのに……。



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