邂逅の光景
act3
回帰する過去










「桃先輩、今日帰り寄ってよ」
 部活で顔を合わせて開口一番のリョーマの台詞に、桃城は珍しい事もあるものだと、眼を点にする。
「どした?」
 バサリと学ランを脱ぎ、レギュラー用の半袖トレーナーに着替えると、横で着替えている小柄な後輩に口を開いた。
「プリントで、教えて欲しいのあるんスよ」
「ア〜〜〜もしかして、古典だろソレ」
 納得したと、クツクツと笑う。
「越前、古典だけは目茶目茶だって、担任泣かせてるんスよぉ」
 リョーマの隣で着替えている堀尾が口を挟むと、リョーマは憮然と睥睨する。
「お前等の担任って、そいや古典の山崎だったもんな」
「まぁ今の内に克服しとくにこした事ねぇぞ。山崎の古典ったら、二年になってテスト形式目茶苦茶になっからな」
「そうなんですか?」
 堀尾やカチロー等一年生トリオが、興味津々と桃城を窺った。
「本当だよ」
「不二先輩」
「古典の山崎ったら、生徒泣かせで有名。俺苦手」
 揃って部活に顔を出した3−6コンビの英二が、不二の横でげんなり口を開いた。
「性格は楽しいんだけど、お茶目すぎるんだよねぇ」
「………どういう意味っスか?」
「二年から、古典のテスト、覚悟しとけよ」
「だからどういう風に?」
 持って回った桃城の言い方に、リョーマは憮然と尋ねた。
「………俺も勘弁してほしいぜ。何せ回答欄、クロスワードだかんな」
「……」
「ハッ?」
 回答欄がクロスワード、桃城の台詞に、リョーマ達は想像できなかったらしい。
「回答欄がな、クロスワード形式になってやんの」
「エエ〜〜〜〜」
 暫し考えて、漸く桃城の言う台詞の意味の恐ろしさを理解した。した途端、リョーマと一年生トリオの、悲鳴を上がる。
「そのテスト、毎回満点とって山崎悔しがらせてのんは不二だけ。手塚でさえ、不二に適わないんだぜ」
「ヒィ〜〜〜」
 眉目秀麗学業優秀。天は二物も三物も与え捲ったという青春学園中等部生徒会長の学年総合順位は順不同の首位だ。その手塚が唯一不二に適わない教科。それは古典だった。
「でも山崎先生の古典クリアーしてたら、何処の業者試験も古典だけはパーフェクトにクリアーできるよ」
 サラリと笑って言う不二を、半ば化け物を視る目付きで一年トリオは眺めている。感心するより先に、やはり不二は化け物だったんだと言う認識の方が、どうやら先行しらしい。
「俺より、不二先輩に教えて貰う方が、絶対間違いねぇぞ、古典や国語は」
「桃先輩、サイテー」
 このサイテーな悪党は、どうやら他人に自分を任せるらしいと、リョーマは些か憮然と桃城を睨め付ける。
「仕方ねぇだろ、得て不得手ってのは、かなりの部分で存在すんだよ」
 リョーマの視線の意味に、気付かない桃城ではなかったが、それでも、得て不得手と言うものは、どんな場面でも存在する事も知っていた。
「俺だって、理数は教えて貰う必要ないスよ」
「だから、教えてやらねぇなんて言ってないだろうが」
「実際教えてくれないんでしよ?」
「国語ならともかく」
「桃先輩に、国語聞く程、愚問はないと思うスけどね」
「お前なぁ、そう言って、中間の試験勉強、俺に押し付けただろうが」
「桃先輩、自分が判るからって、教え方下手」
「お前なぁ」
「大体どうして、花の気持ちや生物の気持ち、考えなきゃなんないんっスか?やっぱ国語って変」
 実際、こうして立ち尽くしている自分達の関係すら、どう応えて言いか迷っていると言うのに。紙面の中咲き乱れる花や、通り過ぎていく生命の気持ちなど、判り得る筈もない。
第一、作者の意図する事と、読み手の感性はまた別物の筈で、それに○や×を与える試験と言う意味が判らない。読み手の感性を奪った無関係の外側の部分に用意されている答えなどに、一体何に意味があると言うのだろうか?
「まぁそう言うなって」
 仕方ねぇなと、完全に拗ねてしまったリョーマの髪を、クシャリと掻き乱してやる。
「教えて貰えよ」
「フーン」
「だから、待っててやっから」
「教えてあげるよ。能率的な勉強した方が、いいと思うよ」
 得て不得手が存在する以上。できる人間に必要な知識を教えられた方が、能率がいいのは言うまでもない確かさだ。
「明日提出なんでしょ?そのプリント」
「そうっス」
「だったらさ、少しだけ早く部活上がって、勉強しなくちゃね」
「ハァ……」
「アレ?オチビちゃん達聞いてない?古典ね。期末で赤点とったら、夏休み、補習だかんね」
「ヘッ?」
 それにはリョーマだけでなく、堀尾達も眼を点にし、英二を窺った。
「期末試験ね、赤点者は、夏休み一週間潰して補習。古典だけじゃないからね。当然各教科。ついでに言えば、ウチは夏休み練習と合宿入ってるから、死んでも赤点はとらないように。特に越前君はレギュラーだし、死んで練習には参加してもらうからね。最悪赤点とった場合、嫌でもレギュラーメンバーからは除外されちゃうから気を付けてね」
 何とも愉しげに笑う不二の声に、一年生はゲンナリと肩を落とした。
「………」
「まぁ、そう言うこった」
「サイテー」
「俺に当たるな」
「教えてくれなかったじゃないスか」
「生徒手帳規則に書いてあるだろうが」
 校風自由な青春学園は、文武両道がモットーだ。
「そんな事知らないっスよ。桃先輩、帰りマックで奢り決定ね」
「オチビ相変らず、桃には容赦ないにゃ」
 既に痴話喧嘩に発展しつつある二人の会話に、英二は笑う。
「お前の財布なんて、俺見た事ねぇぞ」
 いつだって、結局この小生意気な恋人が可愛くて仕方ないから、甘い顔をして言う事を聞いてやってしまう。部活の帰りの飲食で、リョーマの財布など、だから桃城が見た事はなかった。
「それもまた凄いね」
 奇妙に感心して見せて、不二は桃城を眺めた。
「甘いって言うか、溺れてるって言うか」
 流石の英二も、呆れ顔をしている。堀尾達一年生トリオは、既に言葉もない。
リョーマと桃城のこの手の会話は日常茶飯事で、いい加減免疫もつきつつあったが、それでもこうして至近距離で非常識な後輩と先輩の関係を当人の口から暴露されてしまった日には、付いた耐性も崩れてしまうと言うものだ。
「それじゃぁね、少し部活早く切り上げて、プリントだけしちゃおうか」
「でも部長は、OKしないんじゃないスか?」
「まぁ大丈夫じゃない?赤点取られたら困るのは手塚だし」
 莞爾と笑う不二に、誰もが背筋が寒くなったとしても、罪はないだろう。
一体どんな弱味でも握っているんだと、誰もが内心叫んだのは言うまでもない。







 空を映したような瞳だと言っていたのは桃城だった。
空を閉じ込めたような蒼だと言っていたのを聞いた時。そんなにこの小生意気な後輩の双眸が蒼い事には気付かなかった。
 別段意識して見なければ、蒼いとも判らない。けれど確かによくよく見れば、色素の薄い双眸は、確かに蒼味がかった光彩を綺麗に映している事に初めて気付いた。同時に、月の光で磨き上げた水晶の瞳だと言っていたのも桃城だった。
 長い睫毛に縁取られた怜悧な眼差しは、試合最中になれば研ぎ澄まされた冷ややかな深みを増すから、確かに硬質な光を弾く双眸は、月や水晶を連想させもするのだろう。
そう思えば、桃城はよくよく越前リョーマという新入部員を見ていたと言う事になるのだろう。けれどこの場合、青学一のクワセ者と言う台詞は、通用しないだろう事も判っていた。
 小生意気で、個人主義。先輩後輩と言う、体育会系の縦関係を今一つ飲み込んでいない部分の在るリョーマは、入部当初からその小生意気な口調と、その口調を叩くだけのテニスの技術を持っていて、実力で周囲の下らない喧騒を捩じ伏せてきた。
 天性のテニスの才に、称賛を贈る事は簡単な事だ。けれどリョーマの父親が元プロテニス選手だと聴いた時。手塚がリョーマのテニスは越前南次郎のコピーだと淡如に言い切った事を考え合わせれば、称賛を簡単に贈っていい事はないだろうとも思えた。
 天性の才は、確かに血によって受け継がれたものなのかもしれない。血によって受け継がれ、環境が提供され、きっと幼い時からラケットを持つ事に疑問もなく、持ってきたのだろう。けれどそれさえ本人の努力なくしてはその才能も原石で終わる。だから手塚が危惧した事も判っていた。
 リョーマのテニスの技術は天才と言われる自分から見ても、確かに恐ろしい天の才だ。
けれど其処にリョーマのテニスは存在しない事も、手塚の台詞によって判ってしまった。
 それなりの才と努力が在れば、技術は習得できるものだ。
元々テニスの感性が鋭いリョーマだからこそ、見ただけで相手の技術を盗み再現する事も可能だった。けれど其処に構築はない。盗んだ技術を自らのものとして再構築する技術が、リョーマには些か欠落していた。だからこそ手塚は言い切ったのだろう、リョーマのテニスはコピーだと。
 盗んだ技術を再構築し、自らのものにできなければ、リョーマのテニスはソコで終わる。
その事を、手塚はよくよく判っていたのだろう。だからこそ、腕の怪我が完治したばかりの時間を割いて、リョーマにそうと気付かせたのだろう。けれど些か気付かせたのが手塚だと言う事が、少しだけ不思議に思えた。
「不二先輩?なんスか?」
 静まり帰った放課後の教室。ジッと自分を凝視する不二の視線に、色素の薄い蒼味がかった双眸が、不思議そうにプリントから顔を上げ眼前の不二を凝視した。
「ン〜〜桃の言った事を、思い出してたんだよ」
 確かに、こうして覗き込めば、その双眸が蒼味がかっているのが判る。無防備に見上げてくる眼差しに、不二は意味深な笑みを刻み付けた。
「桃先輩?」        
 西陽が入り込む教室は、静まり返ったオレンジの淵に沈み込んでいるかのようだった。
一年の教室の丁度真ん中の位置に、リョーマの席はあった。自分の席に着いて、その前の席にはリョーマに向かって椅子を回転させた不二が座っている。
 不二の意味深な笑みの前に、リョーマは今度は攅眉し口を開いた。不二のこの手の笑みには裏が在る事を、知らないテニス部員は存在しない。
「気になる?」
 意味深に不二は笑う。
青学テニス部No2と言われる不二のテニス技術は、リョーマをも凌駕している、名実ともに天才だった。リョーマ曰く、テニス部に化け物が二人居ると言う事になるが、桃城に言わせれば三人と言う事になるから、リョーマ自身に化け物と言う自覚は皆無なのかもしれない。
 けれどその不二は、容貌は怜悧に整い一見すれば優しげな造作をしているが、中々の曲者である事もリョーマは心得ていた。テニス部員で、不二の二面性を知らない者は存在しないから、此処で、桃城の名前が出る事が、リョーマに警戒心を抱かせた。
「別に」
 素っ気なく言い放つと、再びプリントに向かった。
「空の瞳だって、言ってたよ」
 莞爾に笑う不二の笑みに、リョーマは間視する。
「不二先輩」
「やっぱり気になる?」
「不二先輩が言い出したんスよ」
 些か憮然としたリョーマの声だった。
リョーマが手にしているプリントは古典の授業で配られたプリントだった。そして帰国子女のリョーマは国語が苦手だった。特に古典は意味不明な領域に属している。そして対して不二は古典が得意だった。リョーマの課題プリントを教えて上げるよと、拒否のできない笑みを向けて言い出したのは不二だった。そして早めに切り上げられた練習後、一年の教室でリョーマは不二に古典を教わっている。
「桃も君と同じで、理数系得意だからね」
「答えが一つしかないから、楽なんスよ」
「フーン」
 やはり意味深に笑う不二だった。
「桃は君をよく見てるよね。僕も言われなきゃ、気付かなかったよ。これでも観察力はいい方なんだけどね」
「別に考える程のもんじゃないんじゃないスか?俺アッチの血、交じってますし」
「でも、よく見てると思うよ。こうして覗きこまなきゃ、蒼いなんて気付かないから」
 こうしてと、少しだけ顔を上げたリョーマの顔を覗き込むように、スゥッと品のよい顔を突き出して笑う不二に、リョーマは素っ気なく顔を伏せた。その反応に、不二はクスクスと愉しげに笑っている。
「そうスか?」
 淡々と会話を繋いで、リョーマは課題プリントの回答欄を埋めて行く。            
蒼瞳の事など、桃城は気付いて当然だ。至近距離に覗き込めてしまう距離を持っていて、可笑しくはない関係だからだ。

『お前の眼、蒼いな』

 思い出したように、桃城が言う台詞だ。後に続く言葉も毎回決まっている。

『空みてぇ』

『ハイハイ』

『お前なぁ、なんだよその面倒って台詞は』

『耳にタコです』

『食っちまえ、っんなもの』

 情事の最中、聴き飽きる程聞かされてきた台詞は、返す言葉も毎回変わりない。毎度のやり取りに、既に情後の言葉遊びに転じている会話だった。
 桃城には言われ慣れているリョーマも、桃城以外の人間に齎らされるその台詞に、不思議な気分に陥った。同時に、不快と言う言葉が浮かんだ。
 瞳の事など、言わなければ判らない程度の蒼だ。その判らない程度の蒼を知っているのは、桃城だけでいいと思ったからだ。

『それを他人にアノ、バカ男』
 
 内心盛大に悪態を吐き捨て、殴ってやると、机の下で、拳が握り込まれた。
明るい笑顔をしているくせに、本性はとんでもない悪党でタラシで人でなし、青学一のクワセ者だ。そのクワセ者が、一体どういう経緯で不二に自分の瞳の事を話したのかと想像すれば、ロクな結果はでない気がした。
 此処はおとなしく口を閉ざしているのが利口で得策と言うものだろうと、リョーマは再びシャープペンを走らせた。
「桃の為に訂正しておくけどね」
 机の下で拳を握るリョーマの事など、不二はきっと見透かしていたに違いなく、滅多に表情を崩す事のない涼しげな面が、やはり愉しげに笑ってリョーマを見ている。
 言われて気付いた蒼い瞳。
蒼天と言う蒼さではない分、ちゃんと至近距離で見ないと判別の付かないソレ。どれ程の距離が在れば、その蒼さに気付くだろうか?
 不二は色素の薄い眼差しが、紙の上を行き来するのを眺めている。
「別に喜々として、桃が喋った訳じゃ、ないからね」
「んな事、判ってるっスよ」
 そんな事は判っている。
自分達の関係を、とても慎重に扱っている桃城の事だ。喜々として話す事はないだろう事など、言われなくても判っている。
 悪党でタラシでサイテーな人でなしの相手だ。そんな事は、判っている。他人に言われる筋の事じゃないと思えてしまう程度には、些か胸を灼く気分の悪さを味わってしまう。
「ヘェー」
「不二先輩、教えてくれないなら、桃先輩の所、行くっスよ」
「そんなに会いたい?」
「テニスしたいんスよ」
「桃と?」
「どうしてそう限定するんスか?」
 プリントから視線を上げず、リョーマは淡如に口を開く。
「違う?」
 クスリと笑み、不二はサラリとした柔らかい髪を梳いた。
途端、リョーマが心底嫌そうにその手を振り払う。勝ち気な双眸が、不二を睥睨する。
「その瞳、確かに空みたいだねぇ」
 クツクツと笑い、スッと顔を近付ける。
リョーマを構成する要素の中で、きっと何より綺麗なものは、この冷ややかに研ぎ澄まされた瞳だろうと不二は思う。
 薄い蒼味を帯びた双瞳は、けれど硝子のような脆弱な部分は持ってはいなかった。
冷ややかな熱を帯び、深みを増す鋭利な輝き。試合最中のリョーマが何より綺麗だと実感する一瞬の熱さや、彼が彼をして構成される部分が何より色濃く他人の眼に曝されるのも、この瞳だ。けれど誰も、彼の瞳のルーツを正確に辿る蒼い色を浮かせている事に、気付きはしなかった。
 そう思えば、桃城は随分とこの小生意気な後輩を大切に大切に、そして慎重に扱っているのだろうと言う事が判る。
 軽口を叩きながら、言葉は選んで話されている。一見乱暴なようで、けれど決して言葉自体に荒さはない。
 傷付けないように。紡ぎ出されて行く取り返しつの付かない言の葉で、傷付けないように。何処か慎重に扱っているのが可笑しい程だ。
 この小生意気とも言われている後輩が望めば、その生命さえ簡単に差し出しそうな程、慎重に扱っている。何処か危うい関係と見えるのは、一体どういう理由なのか?不二にも判らなかった。
 惚れたら負け。
そんな単純な関係ではない気がした。当人達は、きっとそんな事すら意識してはいないだろうけれど。
「サイテー……」
 リョーマはボソリと呟いた。
      







「ホレ。ご褒美」
 教室からリョーマが出て来た時。見事なタイミングで、リョーマの額に彼の好きな缶ジュースがヒヤリと押し当てられた。
「すみませんでした、不二先輩」
 クシャクシャとリョーマの頭を掻き乱しながら、桃城は笑う。そのリョーマと言えば、別段桃城の手を払う事もなく、褒美のファンタグレープのプルトップルを外し、口を付けていた。
「別にね、桃にお礼言われる事でもないと思うけど」
 きっと当人も意識していないだろう言葉に隠されている所有。その無意識さに、不二は可笑しくて笑った。
「越前、プリント終わったのかよ」
「……終わった」
 桃城はリョーマを待っていた間、どうやら一年トリオにテニスを教えていたらしい事を察し、リョーマは睨め付ける眼差しで桃城を見上げた。
「暇だろうが」
 無言の言葉が聞こえて来る気がして、桃城は苦笑する。
「桃先輩、やっぱ帰りマック変更」
「お前なぁ〜〜」
「モスにして下さい」
「あっちの方が高いだろうが」
「だから」
「越前、お前少しは遠慮しろよ」
 些か遠慮のないリョーマの台詞に、堀尾が口を挟むが、同級生の言う事を聞くリョーマではなかった。
「リョーマ君、遠慮ないから」
「別に」
 桃城の場合は、好んでしている気苦労だ。そうと認識しているから、リョーマの言葉に遠慮などない。
「それじゃ。帰ろうか」
 傾く夕日はもう随分とその姿を地平線の向こうに隠している。一日の終焉を終えつつ在る光の残り火が、雄大な黄金に輝いていた。








「越前君、思ったより古典大丈夫だよ」
 リョーマの上を通り越し、不二の声は桃城へと向けられている。
「そうっスか?国語はからっきし嫌いな奴ですけどね」
「だったら桃先輩にわかるんスか?鳥の気持ちや朝顔の気持ちなんて」
 自分の上を素通りし、何故不二が桃城に自分の課題プリントの報告をするのか考えれば、些かの憮然とした態が桃城を上目に見上げ、ボソリと呟いた。
「第一アレは、思った事書けばいいんだぜ?」
「そう言うから書いたら、点数サイテーでしたよ」
「…………でもアレ越前、お前が悪いよ」
 書く言葉に絹を着せなさすぎるリョーマの返却された国語の問題用紙を見て、呆れた堀尾だ。
「そういう堀尾だって、点数代わらなかったじゃん」
「お前よりマシだった」
「変らないね」
「やめなよ二人共」
「お前等も一緒に寄ってくか?」
 駅前に近付く道の向こう、リョーマの指定したモスはあった。
駅前のショッピングモールは、夕方で人が忙しいなく行き交っていた。買い物の主婦。帰宅途中のOLや会社員。
「今日はこのまま帰るっス」
「僕も帰るよ」
「んじゃ明日」
 其処で別れて終わる筈だった。
笑う桃城の隣には、チョコンと当然のようにこれからの予定を敢行する為リョーマが立っている。
 片手をヒラヒラ振り上げ笑う桃城は、けれどその時視界の片隅に小さい姿を捉え
「危ねぇッ!」
 叫び、気付けば走り出していた。
「桃先輩?」
 突然、歩道に音を立て、放り出されたテニスバック。一体何事かとリョーマが隣を見た時には、桃城の姿は車道に向かって走り出していた。
 夕暮れ時。交通量の多い車道に、躊躇いもなく走り出した桃城に、リョーマは半瞬では何が起こったのか理解できなかった。リョーマだけではなく、別れの挨拶を笑顔でしていた不二達は、桃城の行動に瞠目となり、
「桃ッ!」
「危ない」
 叫んでいた。
「桃先輩ッッッ!」
「危ない越前」
「リョーマ君!」
 桃城の後を追い、車道に飛び出そうとしていたリョーマを、寸前の所で堀尾達が引き止める。  
「桃先輩ッ!桃先輩ッッ!」
 引き止める堀尾の腕を振り払い、リョーマは車道に飛び出そうとする。
 何が起こったのか、半瞬では理解できなかった。
行き交う車のクラクションと周囲の悲鳴。リョーマ達とは反対の場所で、悲鳴を上げ、叫ぶ女性の姿と、火が付いたように泣く子供の鳴き声に、桃城が何をしようとしたのか理解した。
 母親の手から離れた子供は、車道に飛び出してしまったのだろう。交通量の多い夕暮れの車道に無防備に子供が飛び出したら、行き着く先は決まりきっている。
 甲高いクラクション。急激なブレーキに擦り着けられるアスファルトの嫌な音。子供を抱き、倒れ込む姿態。全てが一瞬の出来事だった。
「嫌だッ!桃先輩」
 堀尾の腕を振り払い、車道に飛び出す小柄な姿態を、背後から手首を握って引き寄せ封じたのは不二だった。
「桃先輩ッッ!」
 一斉に停まる車の群れ。周囲の喧騒が激しくなる。
不二に動きを止められリョーマは、けれど片腕が限界まで桃城に向かって伸ばされ、走り出そうと気が触れたように抗っている。
「おいで」
 暴れるリョーマの抵抗を封じ、停車した車の間をすり抜け走って行く。
「桃先輩!」
 桃城の腕の中で、子供が火が付いたように泣いている。けれど桃城はリョーマの悲鳴に、閉じた瞼を開く気配一つ見せなかった。その事が、リョーマの恐怖を募らせる。今まで一度たりとも、桃城がリョーマの声に応えなかった事はないのだから。
「桃先輩ッッッ!」
 倒れ込む桃城に、縋り付くようにアスファルトに膝を付き、腕を伸ばす。
背筋を這う凍り付く恐怖。足許が喪失して行く恐ろしさ。
目線の下で、桃城はピクリとも動かない。車内から慌てて運転手が降りてきて、子供の母親だろう女性が駆け寄って来る。
「ぶつかってないぞ」
 運転者は、慄える声で、言い訳を始める。


 ダレか……。


「こいつが、いきなり飛び出すから」
「詳細は警察が来たら、そっちに言って下さい、警察の鑑識が入れば、そんな事はすぐに判ります」
 冷静に不二が対処する。冷静すぎる冷静さは、とても中学生のものではないだろう。


 ダレか助けて…。


「桃先輩ッッ!」
 心臓を握り潰されて行く恐怖に、リョーマは桃城の躯を賢明に揺さぶり立てる。呼ぶ声が今はもう悲鳴じみた泣き声に変っている事にも気付いてはいないだろう。
 ヌルリとした感触が、不快に手にこびりつく。車道を染める、桃城の血。
「嫌だッッ!」
 流れ出して行く生命の脈動。流れて出尽くしてしまったら?


 ダレカ…早く…タスケテ…。


「越前君!駄目だよ動かしたら。今救急車呼んだから」
 ボロボロ大粒の涙を流しながら、賢明に桃城を呼び起こそうとするリョーマに、不二は冷静に声を掛ける。けれど不二の声は、リョーマに届いてはいなかった。
 気が触れたように、賢明に桃城を揺すり立てている。その腕の中から子供が転がるように泣きながら抜け出して来る。母親は、呆然と事の重大さに、立ち尽くしているばかりだ。
「助けて……助けてよ!桃先輩をッッ!」


 ダレか、タスケテ…ハヤク…ハヤク…。


「桃先輩ッ!桃先輩ッ!」   
 叫びは血に濡れた悲鳴だと、誰もが思った。
「越前」
「リョーマ君」
 一心不乱に桃城に縋り付き、揺り動かしているリョーマを、彼等は必死に止める。
この状況を見たら、むやみやたらに意識のない桃城の躯を動かして良いか悪いかの判断は、彼等にはできた。けれどリョーマにはそんな余裕もない。
 いつだって余裕癪癪として小生意気と言われるリョーマが、何故此処まで取り乱しているのか彼等には判らなかった。
「桃先輩ッ!」
 視界を染める鮮やかな緋。
頬を伝う大粒の涙。揺り動かしても起きる気配一つ見せない大切な人。心臓を一瞬にして握り潰され、抉り出されて行く痛みと恐怖。
 遠くから、サイレンの音が近付いてきた。


 ダレかハヤク…ハヤク……。桃先輩をタスケテ…。




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