もがれた翼







 夕暮れ時の繁華街は、いつも人通りが多く、駅前のショッピングモールは、帰宅途中の学生や、OL等で賑わっている。
 その中で、桃城は間違える事なく、車道に飛び出した子供の姿を見つけだした。見つけた途端、躊躇いも後先も考えず躯が動いていたのだろう。条件反射的に、車道に飛び出した子供を、助ける為に、桃城自身も車道に飛び出していた。瞬間。長い腕が子供を抱き込んだ時。桃城の正面には車が迫っていた。
 遠く傾く赤い夕焼け。急ブレーキの音。幾重かの悲鳴。
威勢よくアスファルトに叩き付けられた桃城と、救われた子供の、火の付いたような泣き声。倒れた桃城の頭から、ジワジワと広がる出血が、アスファルトに鈍い染みを形成して行く。
「桃先輩!」
 リョーマが覚えている光景は、其処までだった。
リョーマの、身の裡を切り裂くような叫びは、けれど桃城が到着した救急車に乗せられた時点では、叫びは収まっていた。
 車酔いしそうな救急車の振動の中、リョーマは感情を削ぎ落とした眼をして、車内に固定されているストレッチャーの中、意識を失っている桃城を凝視していた。
 失われてしまったかのように感情を映さない瞳。相反し、桃城の躯に掛けられた薄いケットを握り締める指先が、憐れを誘った。
 綺麗な形をしている爪の先が、白くなる程、桃城を覆うケットを握り締めている。それだけが、リョーマの感情を顕しているように思えたのだ。
 けれど救急病院に搬送され、桃城がストレッチャーに移され処置室に消えた時。リョーマの状態は更に酷いものになっていた。その時になって、彼等は漸く間違えに気付いたのだ。
「桃先輩、桃先輩ッッ!」
「越前君。大丈夫だから」
 救急隊員から要請を受けていた救急病院は、青学の救急指定医院にもなっている総合病院で、以前リョーマが不動峰戦で瞼を傷つけた時、受診した病院だった。
 桃城が処置室で処置されている間中。リョーマは閉ざされた扉を叩き続けていた。
 連絡を受けていた病院サイドは、当然慣れた行為で桃城を扱った。
 縫合の準備はされているし点滴も用意され、搬送と同時に桃城の腕には点滴が施された。処置が済んだら、様子観察の為の入院準備も整っていて、病室も用意されていた。
 簡単な縫合で、頭部X線とCT撮影に移動され、待たされている間も、リョーマが桃城を呼ぶ声が止まる事はなかった。
 叫びは掠れ、徐々に弱くなっても、叩く手だけは止まる威勢を知らないように、扉を叩き続けていた。
「越前!」
 普段は何かと呑気な面が多い堀尾も、流石に事態の異常さを、察し、リョーマを背後から羽交いじめに抑えていた。けれどリョーマと大して体格の変らぬ堀尾では、リョーマを押さえ付けるには限度があった。
「桃先輩ッッ!」
 ただ無心に、それしか知らない子供のような熱心さで、リョーマは処置室の扉を叩き続けている。
 看護師が宥めても、リョーマの耳には誰の声も届いてはいなかったのだろう。繰り返す作業のように、ただ桃城の名前を叫び、扉を叩き続けている。その様子は、むしろ憐れを誘う程のものだった。
 幸いにも、他の救急患者は救急外来には存在しなかったが、リョーマの叫びを聞き付け、何事かと飛び出してくる病院関係者は存在していた。
 処置に携わっていない救急外来の看護師が、見兼ねてリョーマを別室へと案内しようとしても、リョーマは処置室の前から離れる事を頑なに拒み、動く事をしなかった。
「越前君」
 見兼ねた不二が、珍しくも語調強くリョーマの名前を呼んでも、当然効果など欠片もある筈がなく、骨が折れてしまうのではないかと思える執拗さで、扉を叩き続けている。その姿は、その行為しか知らない無心の子供のソレで、誰の胸をも痛ませた。
 扉を叩き付ける手は、繰り返される作業に似ていると、不二には思えた。感じたのかもしれない。
 今のリョーマには、腕に掛かる負担など、計算できている筈もなく、叩き付けている腕や、鋭いショットを放つとは思えぬ華奢な手首に掛かる負担など、無関係なのだろう。叩き続けていれば、骨さえ折れてしまいそうな執拗さと熱心さで、リョーマは桃城を呼び続けている。けれど其処に情念じみた気配はなく、ただ親とはぐれた子供が、親を呼び続けている声を発しているように不二には感じられた。それが尚更憐れを誘っているのかもしれないとフト思う。
 薄々は、感じていた桃城とリョーマの関係だった。
レギュラー面子なら、薄々感じていた二人の関係は、けれどその関係を誰より慎重に扱っていたのが当の桃城だったから、誰もが気付いている関係を茶化して言葉に出す事はなかった。
 小生意気な後輩が、桃城にだけは様々な意味で表情を覗かせていたのも見知ってはいたが、あけすけな態度でもなかったから、誰もが尚更桃城の慎重さが珍しく思えたし、それだけとてもリョーマを大切にしている事も判ってしまった。
 人を構えさせない開放的な笑顔の内側に在る、ひどく冷静な桃城というものを知らないレギュラー面子もまた存在はしなかったから、尚更桃城の慎重さが可笑しかった。誰にでも気安く優しい分。桃城は他人に対する執着というものに薄かった。けれどリョーマに対しては違っていた。そしてリョーマも桃城にだけは違っていたのだろう。
 だからこの事態に、リョーマがどうなるのか?不二には珍しくも恐ろしいと感じてしまえる部分が存在していた。
 桃城の傷は、頭部の傷は出血が多く、酷く見えがちだが、大した事はないだろうと、処置中の医師は言っていた。
 桃城が助けた子供は、桃城が完全に腕の中に庇った所為で、外傷らしい外傷もなく、リョーマの泣き叫ぶ姿と意識を失い治療を受ける桃城の姿に、ただ謝罪の言葉を繰り返すだけだった。正面衝突を、桃城の身体反射能力に救わ、大事には至らなかった運転手は、現在所轄署の交通課で事情聴取中だ。
 問題なのは、桃城を呼ぶ事をやめないリョーマだけだろう。けれどそれが何より問題なのかもしれないと、不二には珍しい困惑と動揺が有った。
 せめて部長の手塚が居てくれたら、自分の動揺と狼狽は半減するだろうにと、委員会で遅くなると言っていた手塚を、理不尽にも内心で苦々しく悪態を吐く不二に、けれど罪はないだろう。
 手塚の事態収集能力は、誰もが認める所だ。でなくては、個性ばかりが強いテニス部を、纏め上げられる筈もない。せめて手塚がいてくれたら、リョーマのテニスに力を与えた手塚が居たら、自分には判らないリョーマの機微の欠片でも判ってやれたのかもしれないと、不二はリョーマの背後から細い手首を掬い上げた。
「骨が、折れてしまうよ」
 テニス選手にとって、腕は命に等しい。けれどリョーマは不二を見る事もなく、掬われた腕をもぎとるように、ただ遮二無二動かしている。
「不二先輩……」
 明らかな困惑と動揺、狼狽を張り付け強張ったリョーマの友人達の面差しが、縋るように不二に焦点が絞られる。
 彼等は、リョーマが桃城を執拗に呼び続ける意味を知らない。けれど実際の所で、内心の動揺を綺麗に隠しているだけで、不二にもリョーマが桃城を呼び続ける意味や理由というものは、判ってはいなかった。
 何がリョーマを駆り立てているのか?判っている事は、桃城がとても慎重に自分達の関係を扱い、リョーマを大切にしていた、その程度だ。察する理解から図れるリョーマの内心など、不二に判り得る筈もない。
 彼等二人の関係が、ただの先輩後輩でないのは判っている。だからリョーマが桃城に此処まで固執するのか、判らない部分ではない。けれど、桃城の頭部の傷は数針の縫合で大事には至らなかったし、処置が終了後のCT撮影でも、異常所見は何もなかったと、簡単な医師の説明を受けていた。
 小生意気すぎる程小生意気な普段のリョーマの冷静さがあれが、こんな事態には至らなかっただろう。もしかしたら、リョーマにも判らないのかもしれないと、掬い上げた非力な腕の細さに、不二は小柄な後輩を見下ろした。
 じきテニス部顧問の竜崎と、桃城の母親、リョーマの両親が到着するだろう。けれど、リョーマは呼び続ける事を止める保障は何処にもなかったし、止めないだろうとも思えた。
 何も映してはいない眼差し。桃城が空の瞳だと評した薄く蒼い眼には、何一つの色が映ってはいなかった。それこそ叫び叩き付ける行為は、繰り言と同じ作業なのかもしれないと、何も映さない感情を殺ぎ落としたリョーマの瞳に、不二は何とも言えない表情を刻み付けた。
「すみませんが」
 非力な細い腕。抗っても、撥ね付けられない程に非力な腕。そのくせに、叩き付ける事を止めない熱心さは、一体何なのだろうか?
「この子に、鎮静剤を打ってもらえませんか?」
 掬い上げられた腕を遮二無二振りほどこうとしている割には、離せと抗う抵抗の言葉一つない。もう声も掠れてきている。
 どれ程の執拗さと熱心さがあれば、此処まで呼び続けていられるだろうか?
「それは……」
 リョーマの対応に困惑していた看護師が、不二の科白に更に困惑を映し出す。
本来なら、受診患者でない限り、リョーマのような人間は、排除するのが病院の立ち場だったからだ。
 事故現場に居合わせたのであれば、聴取関係は警察の仕事で、患者でなければ、冷たい言い方をすれば、病院には無関係と言える。まして桃城の身元は不二が医師に伝え、母親が到着する以上。叫び続け、他の患者や治療の妨げになるリョーマの存在は、本来なら速やかに帰宅してもらうのがベストになる。
「この状態では、帰すにも帰せません」
 物騒な真似の一つでもすれば、気絶させると言う手段が、残されてはいるのだけれど。
それは幾ら何でも病院と言う場所では強行すぎる手段だろう。
「手続きを」
 仕方ないと吐き出される看護師の溜め息に、不二はリョーマが以前受診している旨を告げた。以前受診しているから、カルテ作成の手間は少なくとも省ける筈だった。
 受診と言う形をとるのが病院の立場だと、知らない不二ではなかったが、それでも一つ一つに手間の掛かるロスに、内心辛辣な舌打ちを下品に漏らした。
「不二先輩……」
「大丈夫だよ。もうすぐ竜崎先生も桃の親御さんも到着する。越前君の両親もね」
 不安そうな視線を傾けてくる後輩に、そう納得させるしかなかった。
 大丈夫などという言葉が、今のリョーマの状態では、余りに安易な言葉だと百も承知しているが、リョーマが桃城の名前を繰り返す意味も理由も判らない彼等には、不安を煽り立てるだけの言葉を、不二が言える筈もなかった。
 何がどうしたら『大丈夫』なのだろうか?告げた不二にすら、判りはしなかった。リョーマの状態が、一過性のものだと願う事しかできない気がした。
 医師や看護師が『大丈夫』だと、桃城の状態を説明しても、決して大丈夫だという保証がリョーマの内側で成されなかったのだろう、呼び続けている行為は。それだけに、リョーマの状態が大丈夫だとは、とても不二には思えなかったのだ。けれど、そう言う事しかできない先輩という自分の立場を、動揺で見失ってしまう事はできなかった。そうしては、やはり手塚が居てくれたら、事態はもう少しはマシな状況になっていたのではないだろうか?そう思った。
「おいで」
 掬い上げた非力な腕を、鋭いショットを繰り出すとは思えぬ細過ぎる手首を握り、柔らかい声と溜め息が吐き出し、不二はリョーマを処置室の内側へと連れて行く。
 開かれた扉に、けれどリョーマは瞠目としたまま、凍り付いたように足が動く事はなかった。呼び続けていた声が、一瞬途切れる。
「越前?」
「リョーマ君?」
 不審と怪訝がリョーマを凝視する中、リョーマの声が慄えて細い声が紡ぎ出されて行く。
そんなリョーマの細い声を、彼等は初めて聴いた。きっと桃城自身、聴いた事はないだろう。
吐息で囁く訳ではない、か細い声と言うものは。
「桃先輩……」
 瞠然とする蒼い瞳が、憐れさを刻み付けて行く。
「越前君?」
 何も映してはいなかった瞳の奥に、恐怖にも似た揺らぎが生じたのを、不二は見逃さなかった。
 戻って来てくれるだろうかと、願いを込め、色素の薄い空色を眸を凝視する。
 閉じ込められてしまった彼の内側から。一瞬で圧縮されてしまったのだろう、感情の大部分の奥底から。
 慄えている眼差しの奥。揺らいだ感情の奥底に張り付いているのは恐怖に思えた。何にしても、殺ぎ落とされていた感情の一端が戻ってきてくれた事は、喜ぶべきものなのか、答えは出ない。細い切っ先の上に立つ華奢な姿しか想像できはしないから、尚更アンバランスな不安定さが印象付けられて行く。
「桃は、あそこに居るんだよ」      
 竦むように動かない躯を半ば抱くように腕を回せば、予想以上に線の細い姿態が、不二の腕に収まった。
 未成熟な躯だと思えば、けれどこの華奢な生き物の内側は、既に雄を受け入れる快楽を知っているのかと、下世話な想像をしてしまう不二だった。
 何がリョーマを駆り立てているのか。一片でも判れば、彼を呼び戻す方法は、判るのかもしれないのに。
 想いでもなく、何かもっと違う方向性のものを纏って呼び続けられていると感じる違和感の正体の欠片でも判れば。
 リョーマを、呼び戻す事は、可能だろうに……。
 ああ本当に、手塚が居てくれたら、不二は其処で深い溜め息を吐き出した。









 寒々しく開かれた空間の入り口。白さばかりが眼に痛く弾かれている光。消毒薬の匂いを感じる。以前瞼を傷つけられた時、ヒヤリと冷たく齎らされた消毒薬と同じ匂いだ。
 無菌を連想させる病院は、けれど決して無菌などでは有り得ない。外部から幾重もの人間が、毎日毎日雑菌とウイルスを持ち込ん来る場所だ。無菌などである筈も、清潔である筈もない。むしろ其処は汚濁に満ちた病原菌の巣窟に等しい場所だ。だから殊更院内は消毒薬で清められているだけの話しで、無条件に清潔などは有り得ない。作り出されている清潔を感じられる場所と言うだけだ。
 纏わり付く消毒薬の匂いに、大切な匂いが掻き消されそうで、忌ま忌ましかった。
腐臭じみた生温い液体の温度や匂い。清潔に清められてなどしまったら、永久に失ってしまいそうで、怖かった。だってもう自分には、この臭いと一瞬与えられた感触しか、桃城のものは残されてはいないのだから。
 呼んでも叫んでも、返事一つされなかった。
アノ白い空間に放り込まれたら、掌中に残された切れ端の欠片程の桃城のナニかが、全て削り出されていってしまう。そんなとりとめのない恐怖にも似た感情が、足許を竦ませている。
「桃先輩……」
 白く寒々しい空間は、桃城の気配など何一つ感じさせてはくれない。
 おいでと、溜め息混じりに言われた言葉が 誰のものかも判らないのに、前に進める筈もない。
 握られている手首の一部が酷く痛い。離してほしくて腕を捩っても、それは容易には振り解けない。その為の言葉が、吐き出せない。今他の事を叫んだら、大切な言葉を見失ってしまいそうで、他の言葉が叫べない。
 捜しに行かなきゃ。だから捕える腕を離してほしいのに。
たった一人、たった一つ。バカみたいに自分を大切にしてくれた人の名前しか、今は呼べない。


『お前の瞳、空みてぇ』

 そう笑った悪党を、捜しに行かなきゃ、いけないのに。
手にこびりつく生温い腐臭ではなくて、空色と笑ったタラシの詐欺師を、捜しに行かなければ。
 
今捜さなくては、永久に戻ってここない気がするのに。



「桃は、あそこに居るんだよ」

 前触れなく、聴覚に入り込んだ声。
あそことは、寒々しく開かれた、きつい消毒薬の匂いしかしない、白い空間の向こうだろうか?
 不意に包まれる感触は、半ば引きずられるようだった。
足が動かないのに、引き摺られて行くのは堪らない。自分の身の裡で拒んでいるから、動かないのに。どうして、無理矢理あの場所に連れて行こうとするのだろう?
行きたい場所は、何処か判らないけれど。
居場所一つ知らないけれど。
けれど明確に判っているのは、白々しく寒々しい、人の手によって意図的に清潔が保たれている空間ではない事は確かだ。
 何処に行くのが最善かなど、何一つ判らないけれど。
でも口を開いている白い空間ではない事は、確かだ。
アノ場所に、桃城が居る筈もない。


「桃先輩ッ!」

 覚えていないと……。


 この名前の在処を。心の内側に、ちゃんと、ちゃんと、刻み付けていないと。
叫んでいないと、瞬時に指の隙間から消えてしまいそうで。自分は薄情だから。答える言葉も、応える術も持っていたのに、明確に伝えなかった言葉と想い。
 大切に、大切にされていた事を嫌と言う程判っていて、ただ甘えてばかりで。薄情だから、忘れてしまうきっと。
 だから、叫んでいないと。呼び続けていないと。骨が折れても構わない。隔絶される扉一枚壊す事もできない非力な腕だけれど。叩き付けて、叫び続けて、呼び続けていなくては。
 甘えているだけで薄情だった自分は、簡単に忘れてしまうから。大切な名前も、大切な居場所も、全部。
 捜しに行かないと、そう思うのに、足はまったく思いとは違う方向に歩かされてしまう。



「君、抑えてね」
 感情一つない、抑揚を欠いた声が聞こえる。
抑える?誰が?何を?
 そう思った瞬間には腕は捕らわれて、鋭い痛みに躯が撥ねた感覚は有ったが、それは急速に得体の知れない場所に引き摺られて行くように、突き落とされていった。









 静脈に打ち込まれた薬液が、逆流した血液に混じって再び静脈に戻って行った瞬時には、リョーマの姿態はカクリと崩れた。
 救急外来の奥のベッドに寝かされている寝顔を見下ろして、不二は改めて綺麗な貌だと思った。
 リョーマを構成する要素の中、何より彼を彼として位置づけている冷ややかな熱を生み出す双眸が閉ざされれば、その貌は驚く程幼いと初めて知った。そう思えば、桃城が慎重になる訳だと、考えさせられる不二だった。
 小生意気な態度と口調。その小生意気さが虚勢ではない実力を兼ね備えたリョーマのテニス。それ故に、誰もが忘れがちでは有ったが、リョーマはまだ12歳、今年の春、漸くランドセルを卒業したばかりの子供なのだ。まして帰国子女というレッテルと、何より、父親が元プロテニス選手だという好奇と羨望の対象にさえされかねない、ラベルを張られていたのだから。桃城が互いの関係に慎重になるのも頷ける。
 リョーマのベッドとは少しばかり距離の有る位置を窺えば、桃城は覚醒していた。丁度起き上がる所だった。
「桃?」
 小声で囁けば、桃城は自分の置かれた状況が瞬時には把握できなかった様子で、視線が彷徨って、ゆっくり周囲を巡って、不二の元へと焦点が絞られた。
「不二先輩?」
 幾分掠れた声が不二を呼んだが、その声の小ささとは相反し、不二を凝視する桃城の双眸は、力感は失せてはいないから、確信のない根拠さで、不二は大丈夫だと思った。
 桃城は頭部を傷付けはしたけれど、何一つ失ってはいない。やはり大丈夫でないのは、リョーマの状態だけだろう。
 自分の置かれた状況を、再び周囲に視線を巡らせ考えれば、元々状況把握能力の有る桃城の事だ。瞬時に自分の置かれた状況を思い出した様子だった。
「越前?」
 飛び下りる威勢で寝台から降りると、リョーマに元に近寄って、幼さばかりが強調される寝顔を凝視する。
「どうして…?」
「大変だったよ」
「桃ちゃん先輩」
「お前ら……」
 頼りなげに見上げてくる後輩の姿と、リョーマの寝顔を交互に眺め、最後に視線が説明を求めるように不二に戻った。
「聞こえなかった?」
「?」
「呼び続けてたんだけれどね」
 骨が砕けてしまうかと危惧する計算も働かない執拗さと、子供の無心さで、声が掠れてしまうまで、たった一人の名前を、呼び続けていた。
 不二の声に、桃城の節の有る長い指が、繊細な白さを弾く面差しに伸び、乱れた前髪を掻き上げる。
「血…」
 衣替えした白いシャツに付着する血液を見咎め、柳眉が顰められる。
「手に付いたのは、無理矢理洗って落としたんだけど」
 その合間さえ、桃城を呼び続けていたリョーマだった。
「桃ちゃん先輩は、大丈夫なんですか?」
 思い出したような科白に、不二もそう言えばと、苦笑で肩を竦めた。
 桃城の外傷より、リョーマの状態に思考が回ってしまい、桃城の傷の具合にまで気配りが届かなかった。
「エッ?俺は大丈夫ですよ。それより」
「アア、あの子供は、外傷らしい外傷もなくてね。母親が泣いて桃に謝っていたよ」
「良かった」
「って…言い続けていられるかな?」
「不二先輩?」
「この子がね、怖くてね」
「ずっと、呼んでたんですよ。リョーマ君。桃ちゃん先輩の事」
「褒められる行動では有るけど、この子の前ってのが、失敗だったかもね」
 桃城は知らないし、当然彼の行動は称賛に値するものだ。
桃城が飛び出さなければ、子供は確実に母親の前で車に引き摺られ、無残な屍になっていただろう。
 けれど、身の裡の何処かを削り出して行くかのようなリョーマの声を、桃城は知らない。知っていたら、良かったと、言えただろうか?
 救われた生命。同時に、壊れたものが、有るのかもしれない。








「ともあれ、桃城は何事もなくて良かったよ」
 連絡を受け駆け付けたテニス部顧問の竜崎と、桃城の母親がも医師の説明を聴き終えた所だった。其処には委員会で遅くなると言っていた手塚の姿も在った。
「でも俺2〜3日は入院っスよ」
 もうなんともないと言う桃城に、けれど医師は頭部外傷は受傷後に症状を発する場合もあると言う理由で、観察目的の入院を言い渡していた。
 尤も、X線での骨折も、CT上、硬膜外血腫等の所見もなかったのだから、帰宅は可能な事だったのだけれど、桃城がテニス部員であると聴いた時から、医師は安静と観察目的の入院を決定していた。
「それで丁度いい。お前さんは暫く部活を休めと言っても、休める玉じゃないからね。当分病院で安静にしといで」
 桃城の頭部は、ガーゼが覆われている。
「桃城さんは病棟の方で、入院のオリエンテーションがありますから」
 入院手続きをする旨を看護師が桃城の母親に告げると、カルテとX線の袋を手に、入院受付事務に、桃城の母親を案内して行く。
「問題は、こっちって事かい?不二」
 視線を移した先には、鎮静剤を投与され強制的に眠らされたリョーマが居て、其処には父親の南次郎が付き添っていた。
「こいつも、入院って訳には、行かないのか?」
「南次郎。お前さんは何年経ってもその性格は変んないね」
 不二から、リョーマの状態を話されて尚。端然としている姿に、竜崎スミレは苦笑する。
「もちっと心配も顔に出さなきゃ、伝わらない事も有るよ」
 相変わらず、年数を重ねた分。面の皮も厚くなっていると、かつての教え子の姿に、スミレは益々苦笑する。
 心配を、していない訳はないだろう。明確に、桃城と息子であるリョーマの関係を早々に見抜いていた南次郎の事だ。
 アメリカに居た当時には見る事の少なくなっていたリョーマの小生意気な笑顔や何かを、桃城に感情を預けきっていたリョーマを知っているだけに、態度にも言葉にも出さないリョーマの不安定さと言うものを、南次郎は誰より知っていた筈だった。
「俺の」
「自分の所為だなんて思うのは、それこそ傲慢だって、覚えとくもんだ」
 桃城が、リョーマを見下ろし、口を開いた時、遮ったのは南次郎だった。
「それでも自分の所為だってんなら、責任とって、こいつの傍を離れない事だな」
 どんな事になっても。絶望に哭いても。
「まったく、お前さんは、ほとほと嫌になる程、変らないねぇ」
 それが厳しさを滲ませた南次郎の気遣いだと、桃城が判らない筈はなかった。
「桃城」
 嘆息を吐くスミレの横で、今の今まで事態を見守っていた手塚が、口を開いた。
こう言った配慮の出来る所が、手塚の手塚たる所以だろう。テニスの技術もさる事ながら、落ち着き払った泰然さは、中学生のものではないだろう。
「お前は当分部活は休みだ」
「部長〜〜」
「当然だ」
「まったく何の為の入院だと思ってんだい。ホラ、お迎えだよ」
 スミレの科白に視線を動かせば、病棟の看護師だろう歳若い看護師が、桃城の母親と一緒に、桃城を迎えに来ていた。
「越前の事」
 頼むとは言えない事は承知していた。
リョーマには保護者である南次郎が迎えにきている。まして桃城はまだリョーマと一つしか違わない年齢で義務教育中の子供だ。けれど、精神的な部分で切実にそう思うし願う。
「退院したら、迎えに行くからな」
 密やかにひそめられた声と指先が、繊細に縁取られた白皙の貌を撫でて行く。 
その桃城の姿に、周囲を取り囲む大人達に、リョーマの友人である堀尾達も、漠然と彼等の関係に気付いたのかもしれない。 声が掠れ、腕が傷付くのも構わず、感情を殺ぎ落としながら、掲げる無心さで、リョーマは桃城を呼び続けていたのだから。 けれど、同性同士の関係にまでは、至らないだろう。
「笑ってろよ」
 空のような眼差しで、笑っていてほしい。
もう既にペナルティーを侵してしまった自覚の一つや二つ在る。呼び続けていたと言っていた声に、応えられなかった時点で、アウトの気もするけれど。
 小生意気な口調と態度で、冷ややかな熱を孕む眼差しで笑っていてほしい。けれど。壊してしまってはいないだろうかと、フト桃城らしくない危惧が湧いた。
 折れる程に無造作に扉を叩いていたと聴いた。呼び続けていたのだと言えば、応えられなかった失敗は生々しい程で、呑気に脳浸透を起こしていた自分に腹が煮える。
 脆弱ではないと思える。アメリカで父親の名に押し潰されず、テニスを続けてきたリョーマの事だ。決して脆弱な精神値ではないだろう。けれど、他人に感情を預ける行為自体が初めてだろうリョーマにしてみれば、先延ばしにして応えてはこなかった人間の崩れて行く姿に湧いた感情が何か、桃城には判る気がした。その圧縮された感情に、押し潰されてしまったとしたら、リョーマの何処かは壊れてしまう気がした。
「んじゃ、俺早々に復帰しますから」
「無理して倒れたら、またこいつ泣かすだけだって事は、肝に命じとけ、青学一の曲者君」
 シニカルに笑う南次郎に、桃城は適わないと肩を竦めた。




「さて、問題はこいつ、だろうな」
 華奢な躯を抱き上げれば、クタリと重力に従い、腕がダラリと伸びる。一切の力が入っていない人間の躯は、重いものだ。
「リョーマも、無理させんじゃないよ」
 スミレにとっては、リョーマは孫みたいなものなのかもしれない。かつての教え子の子供。まして自分が世界へと背を押し出した南次郎の子供だ。
「まぁ、頼まれちまったし」
「バカだね、お前は相変わらず」
 ヤレヤレと、溜め息を吐き出した。
結局、南次郎は全てを見透かしていると言う事で、他人に感情を預けてしまったリョーマの在り用を、正確に理解しているのかもしれない。
「傾ける思いってのを、知って欲しいとは思ってたけど、こういう形じゃなかったんだがな」
 アメリカに居た当時、付いて回った自分の名前が、リョーマを押し潰してきた事を知っていたから、そう願ってきた。
 どれ程の努力と情熱があれば、押し潰されなかったのだろうかと、南次郎は、幼い寝顔を凝視する。
 受け継がれていく確かな血の形。原子レベルで受け継がれていく才能と言うものは、実際どれ程有益なものなのだろうか?持って生まれた資質や、生まれた環境や、けれど当人の努力なくしては、その才能すら磨かれはしない。だとしたら、リョーマはどれ程血を流したてきただろうか?
 無責任な称賛や、安易な羨望を贈られて、それさえ付いてまわる父親の名の呪縛から逃げ出す事はできなくて、それでも捨てきれなかった情熱で、テニスを続けてきたのだろう。
 それ故に、リョーマにとってのテニスは、自分を取り戻す手段になっていた事を、南次郎は知っていた。そしてそれだからこそ、他人に感情を預けるという事を知らないリョーマだった。 だからこそ願って、帰国した。掲げる思いと言うものを、知ってほしいと思った。執着と言う言葉を知らない子供だから、知ってほしいと願った。けれど、それはこんなカタチで、現実を突き付けられてしまう苦いものではなかった。
 少なくとも、南次郎にとっては。
まるで翼をもがれてさえ、這いずる憐れさで、誰か一人を呼び続けてしまうような在処ではなかった筈だった。 









 深閑とした病室は、闇の奥底に沈み込む程静まり却って、それは何処か不気味なものさえ滲ませているようだった。
 入院する事自体が初めての健康体の桃城にしてみれば、病院の夜という空間は、初めての体験だった。
 個室に入院したから、就寝時間を過ぎても、ラウンドしてくる看護師の眼を誤魔化してさえいれば、テレビを観ていても苦情はこない。けれど、今の桃城はそういう気分では到底なかった。
 市内では唯一の総合病院で、救急センターを持っているこの病院は、近隣から搬送されてくる患者は多く、今も深閑とした夜の時間を切り裂いて走って来る、赤灯が付いたサイレンが滑り込んで来た所だ。
 そんな光景を、4階の病室から見下ろしていた桃城は、リョーマの事を思った。
 呼び続けていたと聴いた。けれど実際自分の耳には届いてはいなかったリョーマの声。
それでも、不思議とどんな声をしていたのか判る気分というものは、どんなものなのだろうか?桃城自身似も判らなかった。
 覚えているのは、悲鳴じみた叫びが背後から縋ってきた、あの瞬間の事だけだった。


『桃先輩ッッ!』

 引きつった悲鳴じみた声。泣き出しそうなソレ。


「お前…大丈夫だよな?」

 その時のリョーマの憐れさや、執拗な熱心さで叩き続けていたという姿を知らない以上。
桃城には想像しかできない事ではあったけれど。
「頼むから……」
 頼むから、笑っていて。
ただそれだけを、願うし祈る。 
 笑っていて。すぐに戻るから。
見失う事など、何一つありはしない。
南次郎に言われる事もなく、離れる事などできないし、頼まれても、離れるつもりはなかった。
 それがリョーマにとって、痛みを与えない限りは。
 翼をもがれ、それでも何処かに向かおうとするような、そんな憐れみや、哀しみを曝す事がない限り、離れはしないから。


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