身喰いする餓え act2−1
踏み出した一歩の価値


















「越前〜〜〜オイ起きろって」
 情事の最中は放埒で奔放な面を隠さないリョーマも、両親の揃っている家で、昨夜程乱れるのは珍しい事だった。
 『犯して、掻き回して』そんな言葉を一体いつ覚えたのだろうかと思えば、今更かと、桃城は苦笑する。幼い性を開き、雄を受け入れ、受け止める術を教え込んだは、他の誰でもない桃城なのだから、そんな事は今更の範疇にも入らないだろう。
 リョーマに言わせれば、情交を重ねれば重ねる程、その瞬間は女に創り変えられて行くと言う事になる。けれどそんなリョーマの根深い深奥まで、桃城が見通せる事は当然なかった。
 それでも、『抱いてあげる』と言われた科白には、抱き犯しながら、包まれる安堵も確かに感じているのだと、桃城は昨夜実感してしまっていた。
 それは同年代の級友達から比べれば、羨望を通り越し、半ば呆れられる程、女と関係してきた回数も時間も多い桃城が、けれど女からは与えられる事のなかった類いの言葉だったからだ。
 柔和な胸も、豊満な肉体もない。甘い香水もなければ、エナメルの乗った爪も持たない未成熟な躯。けれどその内側は、どんな女も適わないものを秘めている。確かに、幼い性を犯しながら、抱かれているのかもしれないと、昨夜実感させられた気分を味わった。
 そんな甘い感傷など、今まで関係を持った女達に、感じた事はない。抱きながら抱かれる甘い懊悩。そんなものは、互いに肉の欲求をはらす、合意の上での関係で発生する筈もない。有るとすれば、少しだけ恋愛じみた駆け引きを楽しむ程度の事だっただろう。
 だから昨夜のリョーマの科白には、顔にこそ出さない事に成功したものの、桃城は実際背筋を灼く程の衝動を受けていた。生々しい程の衝動の向こう側に透かし見えたものは、踏み越えてしまった互いの境界線の在処で、その瞬間、日常というリアルなものは、綺麗に霧散していた。
 濃密な気配と淫蕩に耽溺する娼婦のような放埒さ。その背後に横たわるものの意味を、理解出来ない桃城ではなかった。それは鏡像を垣間見るかのように、桃城も同じものを抱いているから、リョーマの科白の背後に横たわるものが、簡単に理解できた。だからいつもは慎重に幼い性を開く桃城が、珍しくも昨夜は互いに耽溺し、愉悦に崩壊した背筋を灼く感触が、今も肌の上には燻るように残っている。
「桃先輩、煩い………」
 ネコのように丸まって寝ていたリョーマは、細い肩を揺さぶられ、邪険にその手を払う仕草を見せ、継ぎには鬱陶しげに、桃城に背を向けた。
「オイ、遅刻するだろうが」
 細い背を向けたリョーマに桃城が苦笑しつつ、ケットを剥ごうと手を掛けた時には、桃城の行動など見越した白い指先がケットを握り込んでいた。
 リョーマは片手でケットを握り込み、片手で横着にヒラヒラ手を振ると、おやすみなさいと、ケットの奥へと潜り込む。
「コラコラ」
「ヤダ」
「ヤダじゃないだろうが」
 ギシリと鈍いスプリングが音を立て、桃城がベッドの端に腰掛けケットを捲ると、白いシーツに翠髪が流れている。
 日本人でも、今時此処まで、烏の濡れ場色と言われる蒼味がかった綺麗な黒髪を持っている者は少ないだろう。けれど見事な黒髪とは相反し、リョーマの瞳は、色素の薄い蒼眸だ。
一体どういう血統なのか、リョーマ自身判っている事は、母親の遺伝、その程度だ。原子レベルで受け継がれていく代物など、判った所でリョーマにさした意味は持たないだろう。それは偉大な父親の血筋を、やはり原子レベルで受け継ぎ、それに意味などリョーマ自身が見出だしていない事と同じだ。判ったからと言って、何がどう変化する訳でもなかった。
「桃城部長は、心置きなく朝練に参加して下さい」
「部長言うなよ」
「事実なんだから、いい加減慣れなよ。堀尾達には『桃ちゃん部長』とか言われて、笑ってる詐欺師なんだから」
 手塚から部長職を引き継いだ桃城は、堀尾達一年生に『桃ちゃん部長』と呼ばれてはいるものの、実際『部長』の肩書きに慣れていない事をリョーマは知っていた。いたから、敢て言っているのだと、判らない桃城ではなかった。
「俺、今日マジで朝練休み」
「お前なぁ、だから言ったんだ」
「腰痛いし、躯怠いし」
 実際、精神的には呆れる程満たされていると言うのに、割く程開かれた下肢は付け根から腰の奥へと鈍い痛みが続き、幾度番い、桃城の楔諸共その精を受け止めたのかも判らない躯は、ひどく怠くて仕方なかった。まるで満たされた代償のようだと思えば、フト堪らない理不尽さも抱いてしまうリョーマだった。
 満たされたと思ったその渇きは、どうせ長時間胎内に止まってくれる事などないのだ。揮発するかのように、すぐに蒸発してしまう。足掻いた所で、繋ぎとめられるものなど、実際は何一つ胎内の何処にも残されてはいない。その理不尽さ。
「それで休むんだったら、俺だってそうだろうが」
 互いに番い、その瞬間だけは、肉体と言う境界線を超え交じわる行為は、確かに精神的に満たされるものを与えてくれる。けれど精神的な部分とは相反し、肉体は桃城もリョーマ同様、気怠さが残り、腰が痛んだ。その解離される矛盾が、何処か可笑しい。
「あんたはいいじゃん。気持ちよかったでしょ?」
 捲られたケットの中。リョーマはクルリと向きを変え、見下ろす格好で覗き込んでくる桃城を見上げた。
 酷薄な口許に漏れる忍び笑い。意味深な笑みを通り越したその忍び笑いを象る紅脣は、どんな娼婦も叶わないだろうと、桃城は深々溜め息を吐き出した。
「お前……頼むから、休みじゃない朝、そういう眼はマジやめてくれ」
 誘惑しか感じさせない眼の深さ。底に滲むものに、背筋が灼かれて行く。けれど此処であっさり理性を放棄してしまう程、桃城もガキではなかった。それは関係してきた遍歴の賜物が、理性の部分で働いた結果だろう。とは言っても、これが休日の朝なら、理性など綺麗に放棄しているのは疑いようもないから、切替えの早さは、曲者度と比例しているのかもしれない。
「何で?」
 クスクス笑いながら、細い腕が桃城に向かって伸びる。白く細い腕が、スルリとした感触で首筋に回るのを、尚溜め息を吐き出し、桃城は応えた。
 桃城はもうすっかり制服を着込んでいる。一体いつシャワーを済ませたのかと思えば、所詮互いの関係は両親にモロばれだから、自分を起す随分前に起き、浴びたのだろうと、判らないリョーマではない。
「したくなっちゃう?」
 リョーマが首筋に回した指先の先に力を込めれば、桃城は苦笑と共に、身を傾げて来る。それでも学校の有る朝、それこそこれから大急ぎでリョーマの支度を済ませなければ、部長の桃城自身が朝練に間に合わないという時間帯では、悠長にしている事はできないから、せめてもの抵抗のように、桃城の腕は、華奢な身を挟んでベッドに肘を付き、それ以上の距離が塞がらないよう態勢を保っている。そんな桃城を、リョーマはクスリとした笑みで、可笑しそうに見上げている。
 実際そんな程度の距離が、防波堤の役割などしてはくれない事など、桃城自身判ってしている建て前だ。ましてもっとタチの悪い事に、リョーマの眼差しの深さは、淫蕩な気配を色濃く滲ませながら、涼しい部分を残しているから、尚タチが悪いし始末に終えない。いっそ娼婦性だけなら、この状況の中では、救われる事の方が多いだろう。
「休むのか?」
 大仰に溜め息を吐き出し桃城は身を起すと、細身の姿態を腕に緩やかに抱き締め問い掛けた。
 実際、失神させる程、無茶をさせた自覚の多大な桃城だから、幼い性を開いた罪悪は深まるばかりだ。そして何処か気遣わしげに声を掛けてきた桃城の微妙な声のトーンを、リョーマが感じ取れない筈はない。
 セックスに関し、リョーマは何より桃城に気遣われる事を嫌う。あくまで対等で有ろうとするその精神が、受け身だけではいさせないのだろう。それでも、雄の欲望を胎内に受け止める事で、相手を抱き締めるという、女の感覚を素直に受け入れているのだから、桃城から見れば、その柔軟性は計り知れないものを秘めている。抱いてあげると言われた科白は、そのままリョーマの虚勢ではない吐露だから、尚身の裡に秘める強さは計り知れない。
「………あんたって、本当にサイテー」
 リョーマを抱き締める桃城の腕には、欠片も情欲の色はない。そのくせ抱き締めてだけはくるのだから、タチが悪い。無駄に優しい男は始末に終えない。悪い男の見本だと、リョーマは内心毒づいた。
 ガラスケースにおとなしくしまわれている自分ではない事など百も承知して、桃城はこうして気遣ってくる。それが時折リョーマには堪らない焦燥を抱かせる事を、桃城は何処まで理解しているのかと思えたが、それでも理解して尚、精神衛生の為に問い掛けているのだと笑う桃城を知っているから、尚タチが悪いと思わずにはいられないリョーマだった。
「あんたホストとか似合うよ」
 精神的に自立した年上の女が、桃城の好みだと知ってる。
プライドの高い桃城の事だ。女のアクセサリーに収まっている筈はないから、それなりにランクの高い相手をしてきた事は、何げないエスコートからでさえ、窺い知るのは容易な事だ。
そうと判ってしまった時、リョーマの腹がどれ程煮えたのか、そんな部分は無自覚なのだから、肝心要な部分は致命傷だと、思うリョーマだった。けれど、年上の女から見れば、きっとそんな部分が、可愛いと映ったのだろう。
 ガキが背伸びして大人の真似をしているのではなく、精神的に大人であろうとする桃城が、ガキの部分を残している事が、きっと可愛いに違いない。
「女衒じゃなかったのか?」
 中学一年生が、日常生活には必要のない言葉ばかり、南次郎に教わり記憶しているリョーマだ。ホストならまだしも、女衒が似合うとシレッと言われた時には、流石の桃城も呆れた程だ。
「結婚詐欺師とか」
 精々掴まらないようにね、そう笑うと、リョーマはネコのような身軽さと仕草で、桃城の腕から抜け出した。
「シャワー浴びて来るから」
「………お前その格好で行くなよ」
 腕の中から失せた温もりに、少しばかりの未練を感じつつ、床に下り立ったリョーマの姿に、桃城は苦笑する。
 南次郎に言わせれば、いい加減鬱陶しいからとっとと同棲しちまえと、とても中学生の息子とその先輩に向かって言う科白ではないだろう科白を吐き出す程、越前家への宿泊回数が増えている今、リョーマの部屋には、桃城の日常品が一つ一つ増えていた。
 パジャマに下着、歯ブラシ、バスタオル、好きなCD。整髪するのに使用する大きめの鏡にムース。果てはお気に入りのシャンプまで、ちゃっかり風呂場に持ち込まれ、今ではリョーマも使用している有様だ。近頃では、数枚の服さえ置かれている状況では、南次郎が半ば同棲と言っても、全面的に間違ってはいないのかもしれない。
 そんな風に、必要の無いものも有るものも構わず、リョーマの室内には少しずつ、桃城の日常が持ち込まれている。それはリョーマにとって、気分の悪いものではなかった。反対に、桃城の家に置いてあるリョーマの日常はとても少ない。
 パジャマは桃城のを着れば事が済む。タオルもそうだ。置いてあるのは、歯ブラシ程度だ。
 だからこうして桃城が泊まりに来た時。二人だけになってしまう隔絶された空間で、リョーマが身に付けるものは、桃城のパジャマの上着だけだ。それは幾度となく洗濯され、もう桃城の匂いより、遥かにリョーマの匂いが馴染んでいる。
「何で?」
 桃城が使ったタオルは、もう湿っていて使えない。諦めて、リョーマは箪笥の引き出しから、洗い立てのバスタオルを取り出しながら、可笑しそうに桃城を振り返った。
「判ってて訊くな」
 まったくこいつはと、桃城は脱力して見せる。
リョーマには一回り以上大きい桃城のパジャマの上を羽織れば、確かに丈はリョーマの膝付近までくるから、問題がないと言えばないのだろうが、南次郎にその姿を見咎められるのは、勘弁してほしいと思う桃城に、罪はないだろう。遊ばれるネタを、提供するようなものだ。
「新婚みたいで、丁度いいんじゃない?親父が早く二人目見せろって、騒いでるし」
 勿論一人目は、カルピンに決まっていた。
「越前〜〜〜〜」
 一体どういうコミュニケーションを取っているのか、数少ない言語で、親子間のコミュニケーションを成立させている南次郎とリョーマの事だ。どうせロクな会話などしていない事は、桃城には丸判りだ。
 南次郎とリョーマの事だ。本気で本当に必要な時。言語を媒介にした会話などしない事は何となく判る。きっとそんな時の会話は、テニスだろうと思う桃城の推理は、決して間違ってはいなかった。
「ねぇ?」
 ドアノブに手を掛けたリョーマが、不意に何かを思い出したように、ベッドサイドに腰掛けている桃城に向き直る。
「どした?」
 濃紺のパジャマから伸びる剥き出しの白い下肢は、やけにリアルを強調して、桃城の視界を奪っていた。
 失神してしまったリョーマの身を清めた為、その下肢に、桃城の犯した凌辱の痕跡はない。元々リョーマの肌に、あからさまな情交の跡を残す事のない桃城のキスマークは、いつだって決まって脚の付根だ。
「……あんた、今、スケベ親父の眼ぇしてる」
 鏡見てみれば?そう呆れるリョーマの科白に、けれど桃城に反駁の余地はない。
「まったく…今更…」
 下肢どころか、肉の奥の奥まで暴かれて、桃城が知らない部分などないだろう肉体だというのに。今更下肢など眺めて何が楽しいのか、リョーマには良く判らなかった。
「少しは自覚してくれ」
 靭やかな下肢は、それだけで人目を引きつける綺麗なものを持っている。未成熟な姿態に沿い、薄く付いている筋肉。二本の下肢がコートを伸びやかに走る姿は、剽悍に荒涼を走るネコ科の小動物をも連想させる。そのくせリョーマに自覚など欠片もないのだ。
「だったらあんたもね。二泊三日、俺居なくて、ハメ外さないように。バカな女に、既成事実なんて作られないようにね」
「…………お前なぁ」
 言うに事かいて何て事言うんだと、桃城は脱力する。
「第一、俺の肩や背中に、こんだけ派手に跡残して、言う科白か?」
 シャワーを浴びてみれば、リョーマの残した痕跡は、桃城が思っていたものより遥かに多かった。
 肩口に残された歯形。肩から背に掛け、残る爪跡。どれこれも、言い訳など効力のない程、くっきり情交の跡が残っていた。これでは級友達に揶揄される以上に、下手な詮索をされるのは判りきっている。
「いいんじゃない?だってあんた『秘密の恋人』居るって、もっばら評判で、近頃あんたにアタック掛ける莫迦な女は減ったでしょ?」
 リョーマと付き合い出して、桃城が振った女の数は、両手を使って二周しても未だ足りない程だ。断ってすんなり引き下がる女なら未だ利口だが、理由を聴かせろと言い寄る女は始末に終えない。どんな局面でも、引き際というものは存在する。まして泣き出されたりしてみれば、男の負けと相場は決まっているから、桃城は近頃では学習して『恋人が居るから』と最初から告げる事にしていた。
「秘密の恋人のお前が言うな」
 名前を明かさない秘密の恋人持ち。近頃校内で浸透してしまった噂は、けれど事実の一つにすぎない。
「電話とか、しなくていいから」
 大仰に溜め息を吐く桃城を眺め、リョーマが告げる。
昨夜の情交で、すっかり言う事を忘れていた。有る意味、リョーマにとっては肝心な事だ。
そしてそれはきっと、桃城にとっても肝心な事だと思うリョーマの内心は、間違ってはいなかった。
 リョーマの科白に、桃城は深い苦笑いを刻み付けた。その苦笑が大人びて見えるから、リョーマは益々内心でサイテーと毒づく事になる。
「たった二日だし」
 たった二日、けれどそれがどれ程長いか、考え出したら取り留めがなくなってしまう。それが近くなった距離の代償なのかもしれないと、昨夜激しく抱かれながら、判った気がした。
 きっと今までなら、二日間の距離が長い。そんな事を、リョーマが感傷的に思う事はなかっただろう。そしてこれから一体どれだけの代償を、身の裡から削り出して行かなくてはならないのかと考えれば、喪失の予感さえ抱いてしまう。失うものなく得るものなど、何一つないと思っているリョーマのその思いが、桃城を哀しませる痛ましさだと、けれどリョーマは知らない。
「あんたこそ、二日間、俺を思って焦がれてなよ」
 だから桃城の肩に噛痕を残し、背に爪痕を残した。番う最中には意識できなくても、シャワーを浴びた今なら、桃城にその意味が判らない筈はないだろう。着替える都度、風呂に入る都度、精々級友達にでも揶われればいいと思って、リョーマは跡を残したのだ。誰とも判らぬ存在に対しての無駄な牽制ではなく、桃城自身に対して。
 それは桃城を信用しているとか、いないとかとは別の次元で、そういう事は理屈ではない。自分が餓えるのと同じ想いで、餓えればいい。リョーマはそう思って、残したのだ。
「あんたの事なんて、欲しがってられない」
 そう言うと、リョーマは扉の向こうの日常に消えて行った。隔絶された空間が、日常に続く扉を開けた瞬間だけ垣間見せた、リョーマの曖昧な笑み。その笑みに、桃城は内心らしくない舌打ちをする。まして浮かべた当人に自覚は皆無だから、見せられた桃城にしてみれば、罪悪の一つや二つ、湧くと言うものだろう。
 少しだけ泣き出しそうに笑った笑みなど、リョーマに自覚はない。その在処が判るのが、見せられた桃城だと言うのだから、罪悪と舌打ちは、当然の結果、なのかもしれない。



『手を離すなら、理由も言い訳も一切しないで、今すぐ離れろ。今なら、未だ間に合う』


 『今なら未だ間に合う』の言葉に強調された裏側は、今しか間に合わないと同義語だと、南次郎の科白の意味を、読み取れない桃城ではなかった。
 何故あの時だったのだろうか?
南次郎から切り出された、鋭利な刃のような言葉。底の見えない眼。飄々とした印象ばかりが強い南次郎の、それこそ真骨頂だろう姿。侍と称えられた賛辞に含まれる幾重かは、その姿に対してのものだったのかもしれないと、対峙したあの時、桃城は理解した気がした。
 研ぎ澄まされた刃先を連想させる姿は、まさしくリョーマはこの男の子供なのだと、思い知った。
 無自覚に、身の裡に眠れる獅子を飼う姿。勇ましい猛々しさも雄々しさもなく、ただ其処に在るだけで、冷ややかな熱さを纏い、研ぎ澄まされた静謐さでコートに立つ姿は、魂を射ぬかれて行く感触さえ有る。前を見据え、揺るがない眼差し。逆境に在っても、頭を垂れないその強さ。


『それは、覚悟の位置だって、思っていいんだな?』


 息子を男に託す事など、通常なら有り得ない。どの親でも反対するだろうし、最悪、地方の寮付きの中学にでも転校だろう。けれど南次郎は最初から反対はしなかった。言われた言葉は大抵が揶揄ばかりで、その中に嫌悪や牽制など、欠片も含まれてはいなかった。その南次郎が初めて訊いてきた言葉がそれだ。見据えられ、身震いする程、容赦のない視線は、まさしく刃だ。

『今更手放せる程、俺は往生際は良くありませんよ』

『上等だ』


 表情を読ませない眼の底。確かな感触で、背を押された。
踏み出す一歩の距離と、半歩後ろに佇む距離。距離の価値を、あの時程、痛感した事は、なかったのかもしれない。
 何故あの時だったのか?


『俺は』

 スラリと伸びた指先の先。ピンと張った一本の弦のように、けれど切れてしまいそうな張り詰めた感触など微塵も覗かせる事なく、空に伸びた綺麗な指先。


『上に行くよ』

 胸に刻み付けられた姿。綺麗な生き物だと何度実感したか判らない光景の中でも、最上級に位置する冬の夕暮れに立ち尽くした姿だった。



 あんたは………?


 フト揺れた眼差しに問われた言葉に気付いて、けれど言葉に出す事はなく、桃城はあの時リョーマを抱き締めた。





「まぁ精々、俺も足掻くさ」
 きっとあれが、タイムリミットだったのだろう。離れて行ける距離の。そういうものは、当事者ではなく、第三者の方が適格に透けて見えているだろう。だから南次郎が切り出した言葉なのだと、今なら桃城にも判る事だった。
 だからあんな風に、泣き出しそうに笑う笑みなど、してほしくはなかった。ましてそれが無自覚だから、痛々しさは計り知れない。
「だからお前は、お前でいろよ」
 リョーマを構成するパーツ。リョーマをリョーマとして成り立たせているもの。それは誰の意図も思惑も無関係に、結局リョーマが選んで、カタチを成しているものだ。
「お前はお前で、ダレかじゃないんだからな」
 変化が成長であるように。安定と定着は別物だから、後退する事なく、進化し続けて行く強さが成長であるように。身の内側から削り出されて行く脆弱な強さと引き換える事なく。何ものとも引き換える事のない強さを、桃城は願った。そしてその一方で、そんな解離的な矛盾を飲み込めてしまう強靭さなどなく、疵を曝け出し歩いて行ってほしいという、整然とした矛盾を、桃城はリョーマに願っていた。
 羽なんていらないと、毟り取る潔さ。あの孤独な魂に誇れる程度には、足掻こうと思うし願う。どれ程言葉を募っても、それでなくてはリョーマには何一つの一切も、通じない事を、桃城は知っているからだ。
 リョーマは、安易な言葉などで誤魔化されてはくれないし、安心などしてはくれない。時折、もっと子供であってくれたならと思う面は多々存在するものの、一歩踏み出したリョーマに、そんなものは通用しない。
 戦場へと続く道へと踏み出した一歩の重さと価値を、判らない桃城ではなかった。リョーマが最も綺麗に映る場所。躊躇いもなく、鉄爪を振り下ろす場所に回帰されてほしいと願うからこそ、桃城も歩き出す事を選んでいる。その事を、どうか忘れないで欲しいと、桃城が願っている事を、リョーマは何処まで理解しているだろうか?桃城にも判らなかった。判っている事と言えば、頑なに、身の裡に持っている喪失の予感を手放さないリョーマに、言葉はむしろ邪魔になる。その程度だ。
 いつか互いは離れて行くのだと信じ込んでいるリョーマの内心に、安心を与えてやれるとしたら、時間を掛けてさえ行動するしか術はない。言葉ではなく、カタチに出来るものを。カタチに出来る、確かなナニかを。
 一体何を与えてやれるだろうか?自らの意思を無視して与えられた天性の才能に対して。代わりに、傷ついてやる事さえできないと言うのに。
「今更もう、手放せないからな」
 脆弱な部分と、痛々しい程の強さを等分に身の裡に抱き締め、手放さずに歩こうとしている綺麗な生き物。今更、手放せる筈はなかった。切り棄てる事もできずに疵を曝しながら、それでも踏み出した一歩の価値の重さを、何処まで理解しているのだろうかと思えば、きっと理解していないに違い事は窺い知れて、桃城は苦笑する。
 意志を持って踏み出した一歩の価値。やがてその一歩が、黄金を生み落として行く事を、桃城は知っていた。














「………過保護過ぎ、呆れる」
「相変わらず、だねぇ」
 朝練ギリギリ、滑り込みで間に合った桃城とリョーマの姿に、呆れたのはその場の全員で、言葉に出したのは容赦のない36コンビだった。
 引退してからは、部長を引き継いだ桃城や海堂の遠慮からか、頻繁に顔を出す事の少なくなっていた、三年生元レギュラー陣は、今は思い思いのジャージを羽織り、コートに顔を出している。最近ではもっぱら増設されたストリートテニス場に入り浸っている様子で、同じような各校の三年生達が出入りして、ストリートテニス場は、有る意味、全国大会の延長線のような面子の顔触れが揃っている。誰もが夫々の高等部へと進学する事が決定しているから、高等部でも顔を会わせる。そう言う事になるのだろう。
「バカかお前は」
「そういうお前は何だよ」
 呆れる海堂に、莫迦はお互い様だと、桃城は反駁を試みる。それでも以前のように、剥き出しの闘争心を見せなくなった二人は、案外バランスよく互いの肩書きを心得、手塚や大石達三年生から引き継いだテニス部を、運営しているのだろう。
「本当、オチビ甘やかされまくって」
 二人揃って朝練に現れるのは、それこそ今更で、誰にも見慣れた光景だったが、今日という日、わざわざリョーマを送りに来る為に現れた桃城には、誰もが呆れた。まして少ない時間をテニスに費やそうとしているのだから、テニス莫迦にも程があるとは英二の科白だが、決して他人様の事を言えた義理ではなかった。
「別に、俺が頼んだ訳じゃないっスよ」
 レギュラージャージを羽織ったリョーマは、英二の科白に憮然となる。リョーマにしてみれば、今日は心底休みたかったのだ。それでも結局こうして来ているのは、意地が半分以上の割合を占めている。まして手塚が桃城の代理で現れる日に休みでもしたら、それこそ後日何を言われるか判ったものでは無かった。放課後、問答無用で、校庭三十周と、アノ抑揚を欠いた声で言われるのは、判りきっている。
 手塚が指し示し見せてくれた、昨年夏の全国大会での一幕。『柱になれ』と言われた意味を知らないリョーマではない。
 精神的に満たされた翌日、休んで良い立場ではない事程度、理解していたとは言え、久し振りに、アノ抑揚を欠いた端然とし声で、校庭を走らされるのもたまにはいいかもしれないと、桃城が聴いたら呆れそうな科白を、内心思っているリョーマだった。
「桃も、今日くらい、手塚に任せとけばいいのに」
 結局、少しでもテニスをしていないと落ち着かないのだろう桃城に、不二は笑う。
「桃、土産楽しみにしてるからにゃ」
「温泉饅頭ですか?」
 背後から戯れるように抱き付いてきた英二に、桃城が笑う。去年のスキー教室で、英二達は、テニス部の後輩先輩達に、地元名産の置かしを買ってきてくれたのだ。
「桃先輩、其処で遊ばれてるなら、付き合って下さいよ」
 相変わらず、36コンビは桃城に甘い。何だかんだ言っても、手塚の後部長職を引き継いだ桃城を、巧くコントロールしている。そんな久し振りの光景を眺め、リョーマが桃城を促した。
 二年生がスキー教室に出掛ける今朝。二年生の集合時間は、いつもより30分は早い。早い生徒では、ボチボチ姿を見せ始めている。桃城と海堂が、悠長にしている時間は、そう多くは無かった。
「桃城、海堂、お前達、時間は大丈夫なんだろうな?」
 戯れている桃城達に、気配なく現れた手塚と大石が、相変わらずだと苦笑する。
 三学期になり、学期末試験が有るとはいえ、卒業式を待つだけの手塚達三年にしてみれば、こうして朝練に出る事は久し振りの事だった。とは言っても、手塚が其処に在る事に違和感がない当たり、桃城も海堂も、部長、副部長という職務に、馴染んではいなかった。多分それは誰にとってさえ、同じ印象を抱いただろう。
「部長、今朝はすみません」
「………桃城、今はお前が部長だ」
 いい加減慣れろと、手塚の眉間に皺が寄る。
「ア〜〜〜」 
 ポリポリと蟀谷を引っ掻き、ハハハと、乾いた笑いが桃城から漏れる。
 手塚を前にすれば、『部長』という言葉しか出ないのは、桃城に言わせれば仕方ないの一言で済んでしまう。悪びれた様子のない桃城に、手塚の皺は益々深くなる。
「桃先輩、するのしないの?」
 久し振りにコートに現れた手塚に目線だけで挨拶すると、リョーマが桃城を呼んだ。
「オチビ、俺が相手したげよっか?」
「いいっス」
 今日当たり、加減もなく柔軟をされたら、流石のリョーマでも腰に響く。その事を一番判っている元凶に頼むのが無難だったから、リョーマは一言で英二の誘いを断った。此処で頼んでしまったら、何かと聡い英二の事だ。昨夜の桃城との、常より激しかった情交のあらましなど、簡単に筒抜けになってしまう。そんな事態だけは、流石のリョーマでも、御免被りたかった。でなければ、桃城の不在の二日間、英二のオモチャにされるのは火を見るより明らかだ。
「フーン」
 ネコのような眼が、意味深な笑みを含み、リョーマを眺めた。眺めてから、一人納得して去って行く。それでも、そんな一言だけで内心を見透かされた気分になって、リョーマは桃城を睥睨した。
「俺の所為か?」
 リョーマのアップを手伝い始めた桃城は、ついついボソリと呟いた。英二の意味深な笑みなど見慣れたもので、あれは完全に丸判りに判った合図のようなものだ。
「違うとでも?」
 気遣い押される背。背後から囁かれる声に、やはりリョーマも小声で返す。
「この場合、共同責任なんじゃねぇ?」
 挑発したのは、リョーマの方だという桃城の反駁は、けれどこの場合、リョーマに通用する筈はなかった。
「俺の方が、腰痛いし、怠い」
「お前のソレは、半分は自業自得」
「あんた、よくそんな無責任な事言えますね」
 気遣い押される背をチラリと振り返り、振り返った時。リョーマの口許に浮かんだのは、睥睨する眼差しとは裏腹の、忍び笑いだった。
「………だからお前なぁ」
 二人の時なら見慣れているそれも、こうして部活に出ている時、リョーマがそんな笑みを見せるのは初めての事で、桃城は深い溜め息を吐き出した。
「処女も娼婦も大好きなくせに」
「………」
「俺を女にしといて、よくそういう無責任な事、言えるっスね」
 桃城にだけ聞こえるように、小さく潜められた声。相反し、誘惑するかのような忍び笑いに、桃城は半瞬絶句し、薄い背を押す手が止まる。
 桃城は内心で拳を握り締め、反則だと叫びつつ、忍び笑いを漏らすリョーマを凝視していた。した時、昨夜の『抱いてあげる』と、挑発的な科白の背後に、何処か清涼な部分を残して囁かれた、淫蕩の淵に埋没したリョーマを思い出させ、ゾクリとした慣れた感触が、桃城の背筋を灼いて行く。
「俺を、女にしたの、あんたでしょ?」
 何処か得体の知れない、日本人形のような薄い笑みは、完全に忍び笑いだ。紅脣にひっそり色付く薄い薄い、切り取ったような笑みは、どんな笑みよりタチが悪い。なまじな娼婦など、足許にも及ばない壮絶な忍び笑いなど、手連手管に慣れている桃城とて、初めて眼にするものだった。
「…………越前さん…」
 ガクリと項垂れる程度の脱力で済んだのは、桃城の手連手管に慣れた理性の賜物だろう。
「重い」
 脱力しつつ、ガクリと背に増した重みに、リョーマは淡如に言い放ち、それでも決して振り払う事などなく、薄い笑みを漏らしている。
「悪いのは?」
「どうせ俺が、全部悪いよ」
「当然」
「ったくお前は」
「小生意気で娼婦が好みでしょ?昼は聖女で淑女、夜は淫乱な娼婦が大好きなんだから、文句言われる筋合いじゃないっスよ」
「………越前〜〜〜」
 幾ら小声で潜められているとはいえ、此処まで言われると、めげると言うものだ。
「あんたの秘密の恋人は、美人で勝ち気で、焼き餅妬きの負けず嫌いだそうだから、頭悪い女に、精々気を付けるように」
 ついうっかり誘われて、ついうっかり乗られないように。
リョーマは脱力しいる桃城に追い討ちを掛けた。
「ったく、本当お前は、いらない言葉ばっか、覚えてるよな」
「そういう桃先輩だって、じゃない?この科白覚えてるなら」
 初詣での時、英二が言っていた科白を、そのままリョーマは真似ている。そうと判るのだから、桃城も覚えていると言う事だろう。
「無理すんなよ」
 スキー教室の集合時間は、そろそろ限界を迎えつつ有る。
海堂が乾とのアップを終え、立ち上がるのが視界の隅に映った。 無理しかしないリョーマの勝ち気な性格を心得ているから、桃城は念を押すように言い含めると、
「誰にもの言ってんの?」
 リョーマは挑発的に笑うだけだった。最初から最後まで、リョーマは気遣われる事を嫌う。
「俺に」
「何それ」
 慎重にも程が有ると、リョーマは呆れて薄い肩を竦めた。
「俺に、じゃないの?」
「保身の為、だかんな」
 気遣われる事を嫌うリョーマを知って尚そう言うのは、結局自分の保身の為だと、桃城は苦く笑う。残して行くリョーマが無理をする事など筒抜けだから、言わずにはいられない桃城だった。
「あんたやっぱサイテー」
 意識がクリアになればなる程不明瞭になって行く境界線など、既に踏み越えてしまっているというのに、踏み越えてしまった先に見えたものは、更に慎重に扱おうとする姿なのだから、タチが悪いにも程がある。
 無駄に優しい男は天性の詐欺師だが、上辺だけではない優しさは、やはりタチが悪いし始末に悪い。愛され大切にされたいと欲する、裏返しの優しさではない、無駄な優しさを兼ねた要素は、此処で誰にでも発揮されれば、最早立派に悪党の領域だ。
「あんたの将来、やっぱ詐欺師」
「アホ」
 正月に掲げた願いを、きっと口にする勇気が持てるのは、それこそ本当にギリギリだろう。手放す気などさらさら有りはしないが、それでも、終わる季節は必ず来る。新しい季節を迎える一歩は、必ず来るのだ。未だ勇気がなくて、口に出す事はできないけれど。それでも、一歩の価値の自覚もなく、歩き出したリョーマに誇れる程度には、意志を持って踏み越えて行こうと桃城は思うのだ。
 自分達が未だ知らなくていい言葉は『限界』で、未来を掴み取る為に必要なのは、前へと進もうとする意志でしかない。
その程度の事は、判っていた。待っていても、何も始まらない。そんな簡単な言葉なら、桃城は十分に理解していたのだ。だからこそ、簡単に言葉に出す事は、何処か躊躇われた。
「さてと」
「行くの?」
 結局、最悪的に甘い男なのだと、リョーマは背後で立ち上がった桃城を振り返り、倣って立ち上がった。
 スキー教室で不在の二日間、手塚達にテニス部を任せたのだから、本当なら、桃城が朝練に顔を出す必要はなかった筈だ。それでもこうして部活に参加し、自分のアップに付き合っただけで終了した朝練に、リョーマは桃城の慎重さと気遣いに苦笑する。
 どれ程の軽口を叩いても、それが自分の為だと言うリョーマの内心は、決して間違ってはいなかった。そんな時、リョーマがいつも歯噛みする事を、桃城は何処まで知っているだろうか?
 たった一歳の差と似た、追いつかない身長差に、フト焦燥が湧く。追いつけない永遠の落差を見せつけられる気分で、リョーマは桃城を見上げた。
「越前」
 桃城は見上げて来る小作りな顔を覗き込むと、耳元に口唇を寄せた。
「浮気すんなよ」
「バーカ」
 耳に心地好い低い振動を伝える声。それは何処か昨夜の情事の最中を思い出させ、リョーマの背筋が顫えた。
「あんたの、名前も知らない秘密の恋人は、そんなに安くはないんだよ」
 クツクツ可笑しそうに笑うリョーマを視ると、桃城はバサリとレギュラージャージを脱いだ。
一度だけレギュラー落ちして、復帰して以来。桃城がレギャラージャージを着ていない事はない。
「何?」
 突然の桃城の行動に、リョーマが怪訝に見上げた視線の先で、桃城はレギュラージャージを差し出した。
「預かっといてくれよ」
「……手塚部長呼んどいて、俺に代理しろって?」
「いい経験だろ?」
 そろそろリョーマも慣れていい筈だと、桃城は思う。
『青学の柱になれ』と、手塚がリョーマに告げた科白の意味を桃城は知っている。詳細など語られた事はなかったし、語って欲しいと問い掛けた事など一度もないが、去年の氷帝戦を見れば、手塚がリョーマに託したものが一体ナニを意味するのか、判らない当時のレギュラー陣は居なかった。
 桃城は、正確に理解している。リョーマのテニスに力を与えたのは手塚だと言う事は。だから去年の氷帝戦終了後、リョーマは今にも泣き出しそうな表情を見せていたのだから。


『どうせ俺は、ガキだから』

 手塚が負けた事が信じられないという意味合いではない、泣き出しそうな表情の下に隠されていた感情を、判らない桃城ではなかった。それは少なからず、桃城自身抱いたものだから、察しが付いた。


『悔しい……悔しい……悔しい…ッ!』

 噛み締めるように呟かれ、繰り返された言葉の在処を、桃城は判っている。リョーマにとって、手塚という存在は、絶対的な位置を占めている存在なのだと、痛感したのも、きっとアノ時たろう。それは桃城と関係する、恋愛感情じみた部分は一切含む事のない、テニスに対しての絶対的存在。
 それはライバルという言葉とは違う類いのものだろう。どちらかと言えば、南次郎のソレと似ているのかもしれない。リョーマが乗り越える壁のカタチ。そう考えれば、テニスに於ける父親みたいなものなのかと、苦笑した事も、桃城は覚えている。南次郎にしろ、手塚にしろ、リョーマは自覚のないファザコンなのは、間違えようが無いのかもしれない。


『だからお前、零式見せたんだろ?』

 未完成の零式ドロップショット。それはリョーマの意地で表れなのだと、あの時理解した。きっと自分自身に刻み付け、手塚に対しての了解の意味。
 リョーマの、手塚に対しての信頼とか距離とかを、決して欲する事はないけれど、自分とはまた違う結び付きが、確実に二人の間には存在している事もまた事実だと、桃城は思うのだ。 信頼とも信用とも違う絆は、一体何と呼ばれるべきものだろうか?桃城にも判らなかったが、リョーマにとっての手塚の位置を、読み違える事はないだろうとも思えた。



「お前も、そろそろ慣れてもいい頃だろ?」
 数か月後には新入生も入ってきて、リョーマは嫌でも先輩になるのだ。手塚が導いたように、桃城は後輩を導き、そして柱は、更に強い精神力で、揺るぎなく立っていなくてはならない。たとえ虚勢でも、張り続けていれば、それはいつかきっと真実になる。
 薄く華奢な背に背負うものの重さ。きっと自分では計り知れないものを、リョーマは手塚によって背負わされ、そして自らの意志で、背負う事を決意した。その顕れが、手塚の伝家の宝刀の零式を打つ事なのだと、桃城はあの時痛感したのだ。だからもう慣れてもいい筈だとも思うのだ。
「桃先輩、本当に…」
 サイテーと、リョーマは小声で呟いた。
結局、甘やかしてはくれない男なのだと、こんな時痛感する。莫迦見たいに慎重に扱い、それこそ、その慎重さは、時折ガラスケースに入れられている気分さえ感じるといのうに、こんな時、決して甘やかしはくれない。最後の最後で、結局桃城は、テニスを放棄させてはくれないのだ。無駄に優しいくせに、最終的には甘やかしてはくれない、厳しい男なのだとリョーマが思い知るのは、いつだってこんな些細な局面だ。


『悔しい…悔しい…悔しい……ッ!』

『そうだな』

 苦笑に紛らせ、触れてきた手。瞼を覆い塞ぐ、掌の温度。
こんな時まで、莫迦見たいに優しく慎重だ。


『あんな奴に』

 一瞬だけ垣間見えた、差し替えられた映像は、鮮やかすぎる過去の残像だ。
 夕暮れ時の高架線の下。告げられた声。見せつけられたテニスの技量と、それ以上の精神的な強さ。


『だからお前、零式見せたんだろ?』

 未完成の技を使った。もっと完成させたカタチで望むべき試合で、試作品としての意図とは外側の部分で、未完成の技を使用した。
                   

『大丈夫だよ、お前は未々強くなるし、部長もちゃんと復帰する』

 その言葉通り、手塚は全国大会後半には復帰した。そして春には、世界へと歩き出す。尤も、手塚の留学の件は、知っている人間は限られている。


『だからお前は、勝ち続けてけよ』

 勝ち続けて行く事は、追われる強さと怖さを知れという事と同義語だ。


『でも、いい試合だったと、思わねぇ?ライバルってのは、きっとああいう姿なんだぜ』 

 真剣で切り付けあうかのような試合を出来る人間同志でなければ、真剣勝負とはいえないし成立もしない。だからリョーマにとって、手塚はライバルではないのだろうと、桃城は思う。 




「土産、買ってくるからな。親父さんには、漬物頼まれたしな」
 登校際、玄関先で南次郎に掴まり、昨夜の情事は見事に筒抜けで、散々に揶われた。飄々とした笑いの中には、底冷えする刃はなかった。ただ新婚夫婦と盛大に笑われた事程度だ。
「親父の頼まれものなんて、聴く必要ないっスよ」
「そういう訳に行くか」
「あんた本当、『未来の舅』に気ぃ使いすぎ」
「お前実は、未だ年末の事、根に持ってるだろ」
「其処まで執念深くない」
「俺の秘密の恋人は、焼き餅妬きだからな。負けず嫌いだし」
「俺饅頭ね」
 差し出されたレギュラージャージを受け取ると、リョーマは憮然と笑った。
「あんた、子供にもちゃんと買ってこないと、パパ嫌い〜〜〜とか言われるかもよ」
「………タヌキに…って何買ってこいって?」
 ヌケヌケと笑うリョーマに、桃城が脱力して見せたとしても、きっと罪はないだろう。
 流石南次郎とリョーマは親子だと、こんな時実感させられる。二人とも、数少ない言語でコミュニケーションが成立する訳だと、奇妙に関心をする桃城だった。
「子供の好き嫌いくらい、あんたちゃんと把握してるでしょ?」
「ヘイヘイ」
 既に南次郎とリョーマの間では、完全に愛猫は桃城とリョーマの子供としての位置が定着しているらしかった。一体どんな親子会話だと思えば、やはり身になるものなどない気がした。




「桃〜〜〜戯れてるのもいい加減にしないと、手塚の雷落ちるぞ。海堂はとっくに集合場所に向かったし」
 リョーマの背後から気配なく近付いた英二が、ペタリとリョーマに張り付く格好で背に伸し掛かる。
「菊丸先輩 重いっスよ」
「流石桃の秘密の恋人は、勝ち手で負けず嫌いの焼き餅妬き」
 リョーマの背中にペタリと張り付き、ケラケラ笑う英二に、リョーマは途端に憮然とした貌になる。
「英二先輩〜〜俺居ない間、こいつ揶揄って、オモチャにしないで下さいよ」
「桃、過保護すぎだにゃ」
「違います、帰ってきて倍返しされるの、俺なんですから」
 情けない話しだが、自分が不在の間英二や不二にリョーマが構われたら、それはそのままダイレクトに、自分に八つ当たりの矛先が向けられる事を判っているから、桃城としては、無駄と知りつつも、釘の一つや二つ、さしておかない訳にはいかなかったと言うのが本音だ。
「桃先輩、早く行けば?」
 ヒラヒラと笑って手を振れば、背後で英二がクチクチ笑うのが判り、リョーマは邪険に英二を振り払う。
「桃城、お前はいい加減に行かないか」
 業を荷や下手塚が、眉間に皺を寄せ、桃城に声を掛けた。
「ダメだよ手塚。桃は、この子と別れ惜しんでるんだから」
 気配一つなく現れた不二は、憮然としているリョーマを指差し、莞爾と笑っている。
「不二先輩〜〜〜」
「代弁、してあげたんだけどね?」
「お前のソレは、歪めたの間違いだろう?」
 リョーマを構い倒している36コンビに、手塚は苦笑する。尤も、手塚の苦笑を識別出来るものは、不二以外には居なかったのだけれど。
「それじゃ、部長」
「桃城、いい加減慣れろ。そんな事でこれからどうするんだ」
 こうして時折部活に顔を出す時以外、稀に校内で顔を会わせる時ですら、桃城は躊躇いもなく手塚を『部長』と呼ぶから、手塚にしてみれば、いい加減慣れろと、溜め息を吐いても仕方ないだろう。
「無駄っスよ。桃先輩、未だに部長の自覚無いっスから」
「ヘェ〜〜〜例えば?」
 興味津々といった態で英二が訊くのに、
「んじゃ俺行きますから」
 桃城は慌てて駆け出して行く。
「逃げた」        
 駆け出して行く桃城の背に、リョーマはボソリと呟いた。
「甘い甘い」
 駆け出した後輩の背を眺め、不二が手塚に同意を求めるように笑うと、手塚は不二だけに判る表情で、やれやれといった表情で、溜め息を吐き出した。
「甘やかされてんなぁ〜〜オチビ」
「っるさいっスよ」
 手の中に残された桃城のレギュラージャージは、未だその体温を残していて、リョーマに何とも言えない想いを味あわせていた。