| さくら |
春の霞んだ闇夜の中。ソレは一際凛然とした毅然さで月影を映し、皓月さながらソコに佇んでいる。 蒼い帳の中、悠然と伸びる枝には幾重もの白い光を灯し、周囲を煙花さながら霞ませる。そのくせ淡煙とした光景の中。ソレは透明な静謐さで閃燐と花を散らせ、沈黙を語ってくる。それが視る者に月と闇を意識させ、常闇の底に沈み込む錯覚を起させる。けれどそれは不思議と、陶然とした心地好さをも感じる事で出来た。 幽境。フトそんな言葉が、桃城の脳裏を過ぎった。 それ程周囲は深閑とした静寂と、蒼く静謐な淡寂に守られ、音なき音を沈黙の中で語っていた。そのくせ、ソコには逝瀝とした気配は微塵もなく、ただ静かに、穏やかなたたずまいに佇んでいる。その潔さは、何処かリョーマと似ていると、桃城は苦笑する。苦笑し、大樹の根元に背を預け、天を仰いでいる姿に、桃城は尚深い苦笑を深めた。けれど桃城の内心など素知らぬ顔で、リョーマは瞳を閉ざし、天を仰いでいる。 そのあまりに静かな年不相応な横顔は、昨年の冬のリョーマと同じものだと、判らない桃城ではなかった。 何かを蓄えるかのように、遠く高い蒼に、瞳を閉ざして見上げていた綺麗な横顔。今のリョーマは、アノ日と同じものを、桃城の眼前に曝け出していた。 凛然と浮き上がる白い光景に、静かに溶け込むリョーマの姿。気配そのものを白い光景に埋没させてしまうその姿に、桃城は苦笑と同時に、半瞬息を飲み込んだ。 人込みに紛れれば、リョーマは綺麗に気配を消す事を知っている。それがリョーマの意識的なものなのか、無意識下のものなのかは判らないが、リョーマは綺麗にその気配を絶ってしまう事が有る。どれ程の群れの中に居ても、見失う事などないと思う一方で、見出だせないかもしれない不安が過ぎるのもいつもの事だ。 一体その華奢な身の裡に、何を蓄えているのかと思う。 揺るぎない綺麗な立ち姿。時折揺れる眼差し。それでも。迷い迷って足掻く事を放棄しない眼差しは、ここ最近、益々切っ先の鋭さを滲ませている。けれどそれは不思議と鞘を持たぬ抜き身でもなければ、近付く者全てを両断する鋭利さは、微塵もない。ただ淡々と、研ぎ澄まされて行く切っ先の細さと強さが、色素の薄い蒼い双眸に宿っている。それはまるで、これから先歩く彼の姿を露呈しているようで、リョーマの意思を無視して与えられた天からの才が、身喰いするかのように、彼自身を傷付けていかないように、願う事しかできない気がした。 「桃先輩?」 リョーマが気配を絶つなら、桃城はそれ以上に、気配を絶つ事が得意だった。人込みに気配を埋没させると言う点では、桃城のそれは、リョーマの更に上を行くだろう。けれど実際、互いにそんな自覚はないのだ。 「思ったより、早かったっスね」 曝け出している横顔から受ける印象そのものの声は何処か深く、それは桃城の胸の奥に、静かに落ちて行く。 白皙の貌に嵌められた一対の眼は、天を見上げたまま、ゆっくり開かれていく。 ハラハラ音もなく舞う白い花片。黒々伸びる枝に咲き誇る白い花が、瞳に映る。白い花で埋め尽くされてしまった視界には、空さえも見えない。 見えるのは、月のように凛然と輝く白い花。それだけだ。 「お前、急にこんな場所に呼び出して、一体何かと思うだろうが」 深夜に近い時間帯。不意になった携帯に映った簡潔明瞭な文字。 二年近く付き合った時間を想起しても、リョーマが夜中に 『逢いたい』などと言うメールを送ってきた事は、一度もなかった。 一体何が有ったのか? 来る途中自転車を飛ばして来てはみたものの、呼び出された場所に来てみれば、リョーマは桜の大樹の根元に腰掛け、天を見上げているから、それが何を意味するのか、判らない桃城ではなかった。だから暫くの間、白い花に埋没しているリョーマを見ていた。見ていればいるだけ、綺麗な生き物だと思う反面、夜中に呼び出した意味が見て取れて、切なさが湧いた。 アノ日と同じ表情だと言う事に、すぐに気付いた。何かを身の裡に蓄えるかのような、静謐に研ぎ澄まされた穏やかな貌。判れば、リョーマが何を求め、自分を夜中に呼び出したのか、桃城に判らない筈はなかった。 昨年も来た場所だ。 最初に連れ出したのは、夜桜だった。それから二人で何回か訪れ、一人先に世界へと歩き出した手塚は間に合う事のなかった遅い開花に、昨年不二達と来た花見。 まるで其処だけ時間の流れが違うかのようにゆったりとした光景や風景。穏やかな日溜の中。淡く舞う紅の花片。その二面性を最大限に発揮する花を、韶光と呼ぶに相応しい光景を、桃城は他に知らない。 煙花さながら、淡い穏やかな時間を象徴するかのように、薄紅に色付く花片がゆったり舞う光景は、不二の科白ではないが、『天女の憧憬』と言うに相応しいものだろう。 相反し、蒼い闇に輝く桜は、昼間の薄紅色など見間違えかと思う程、気高い真白さを輝かせ、それは凛然とした月を連想させる。 そんな二面性に飛んだ花を、桃城は桜以外に知らなかった。それは何処かリョーマと似ている姿だと、フト思う。 穏やかで綺麗で、月のように凛然と佇む潔さ。リョーマに言っては、呆れて笑われた科白は、けれど実際桃城としては、かなりの部分で本気が交じっていた。 「逢いたいって、メール送ったでしょ?」 桃城の科白に、色素の薄い眼差しが、眼前に立つ桃城をまっすぐ見上げ、笑った。 実際、リョーマが此処に来ようと思い立ったのは、不意の行動だった。 どうしても今見なくては見られない光景だと思えば、無性に見たくなったというのが本音だ。 夜中に近い時間帯なら、花より酒によった花見客も居ないだろうと、こっそり部屋を抜け出せば、相変わらず父親である南次郎には不思議と全てが筒抜けなのか、呆れられながら見送られた。 何かと物騒な世の中で、リョーマが夜中に出掛ける事を、けれど南次郎は一度も止めた事はない。だから今夜も『帰りはちゃんと彼氏に送って貰え』そんな他愛ない言葉に見送られた。 「今年は、間に合ったから」 「……お前…」 去年は手塚が世界に飛び立つ時。生憎三月になっても寒い日が続き、桜の開花は三月も下旬の事だった。 卒業式から数日後に旅だった手塚には、生憎見る事のできなかった光景が、けれど今年の暖冬で、桜は随分早い時期に開花して、今が丁度見頃を迎えていた。 「去年、約束したでしょ?」 昨年の春。夜桜見物と桃城に誘われたその真白い花片の燐然に圧倒された事を、リョーマは覚えている。交わした会話の隅々まで覚えている事は不可能でも、見せて貰った綺麗な光景は、忘れる事はない。焼き付けるように、身の裡に焼き付いている。 だからリョーマは、桃城の二度の誕生日、物を送った事はない。焼き付ける程に綺麗な光景を、日常の延長線に位置している有り触れた光景を、いつだって間違える事なく、桃城の身の裡に焼き付けてきた。 そして昨年の桜の季節。交わした約束が合った。 『今年も来年も再来年も、ずっと見れるさ』 「あんたさ、あの時には、もう決めてたんでしょ?」 薄々、感づいていた事だ。けれど言葉に出し尋ねても、桃城が応える筈はない事など、リョーマには嫌と言う程判っていたから、直接言葉に出して訊く事はなかった。けれど、誰より桃城の傍らに居て、リョーマが気付かない筈はない。きっと南次郎も知っているのだろうと思えば、腹の一つや二つ、立つ事だって有るのだ。 「本当にさ」 溜め息を吐き出すように笑うリョーマのその笑みは、桃城の背筋をゾクリと焦がすものが、滲み出ていた。まるで心臓の真上に、見えない刃を当てられた気分だ。 綺麗で意味深で、冷ややかで恐ろしいそんな曖昧な笑みが、綺麗な造作に象られている。 知り合ってから二年経っても、リョーマは相変わらず華奢で薄い。何度番っても、その線の細さに、今でも壊してしまわないか、莫迦な心配をしてしまう桃城だ。 「あんたってば、悪党」 スルッと、リョーマの細い腕が伸びる。 ハラハラ舞う白い花片が、細い腕を掠めて落ちて行く。 「風邪引くぞ」 伸びた腕に、桃城はリョーマの眼前で膝を折ると、細い腕はねだるように首に絡み付き、桃城を押し倒していた。 「越前〜〜〜〜」 こうなる事はほぼ予想していたのか、桃城は頭部を打つ事もなく、土に上に倒れ込み際、薄い細い躯を片腕で簡単に抱き込んでいた。 「幾ら春っても、この時期は花冷えって言うんだ。寒いし、風邪引くぞ」 胸の上に乗り上げた格好のリョーマに、桃城は苦笑する。 「あんたがくれたこのコート、暖いから、大丈夫でしょ」 何より、こうして触れる部分から、浸食されるように、熱が伝わってくる。 「奪ったの、間違いだろうが」 去年の正月に奪われたハーフートは、成長過程にあるリョーマにも些か小さくなり始め、今年の正月、去年同様、桃城りクローゼットから奪っていったのは、やはり代わりばえしない黒いハーフコートだった。 「どうせあんたには、小さいんだし」 昨年まで桃城が着ていたコート。こうして毎年、奪い取ってやると、リョーマは笑った。 「お前さ、実際こんな場所で何してる?」 そんな事など今更訊くまでもないだろうが、ついそんな言葉が滑り落ちた。 昨年交わした約束の在処など心得ている。桃城が訊いたのは、その有り様だった。 「抱かれてる気、しない?」 桃城の胸板から顔を上げ真上から覗き込むと、リョーマは問い掛けた。 昨年から、随分桃城は成長した。それは肉体的にもさる事ながら、精神的に随分成長していた。成長した内面が綺麗に滲み出て、精悍だった面差しは、随分大人の輪郭を深めている。それがリョーマには少しだけ腹立たしい事でもあった。 追いつけない永遠の落差。たった一つの差は、けれど此処に来て、どうしようもない距離を感じさせられた。 「何にだ?」 「桜」 覗き込んで笑うリョーマに、桃城の節の有る長い指が、繊細に縁取られた輪郭を撫でて行く。 真白い花が、音もなく降り続く。その光景の中、笑うリョーマの笑みが、桃城には鮮やか過ぎた。 「静かで、気持ちいいっていうか、随分心地好かったよ」 桜に抱かれている気分は、そのまま去年の他愛ない約束を抱き締めているようなものだ。桜に抱かれながら、実際リョーマが思っていた事は、桃城との過ごした様々な時間で、終結するのはいつだって『笑っていろ』と、下らない願いを掲げてくる、莫迦みたいに優しい笑顔。そして、罪悪を手放す事もできないくせに、それでいて雄の情欲に塗れた顔をして、自分を抱く桃城の熱さ、それだけだ。 「眼ぇ閉じて花の音聞いてると、あんたに抱かれてる気がする」 「……越前」 リョーマの顔を見上げれば、黒々伸びた枝に灯る白い花の群れが映る。 それは月が朧の春の闇夜の中では、さながら月の光のように見えた。 深閑とした風情に埋没しいると、常闇に沈み込む心地好さが肌身を包んでくる。底のない蒼い闇と、静謐な白い花は、真冬の月を連想させる。 「お前……」 一体どれ程の時間、リョーマは此処に居たのだろうか?抱き締めた細い躯は、すっかり冷えている。 そんなリョーマの上に、絶える事なく白い花は、燐光を発しながら、降り続けている。月のようで、それでいて雪のように儚くも映る。何処か幻のような光景は、けれど間違えようもない現実なのだと。冷えた躯がその在処を伝えてきていた。 「桜の下に埋まってるのが、あんたなら良かったのに」 桜の下には屍が埋まっている。その屍を養分に、だからこれ程見事な花を咲かせるのだと、去年の春、笑っていたのは不二だった。 不二は、どうだったのだろうか?一人世界に歩き出した手塚を見送って。訊きたくても、訊けない問いだ。訊いたとしても、あの独特の柔和な笑みの下に、全てを隠してしまうだろうから、その内心を語って貰える筈はない。 薄々感づいていたそれに、けれど感情が追いつくかと言えば、決して追いつく事などないと、今更痛感したのは、やはりそのたった一歳の年齢差に、歯噛みする時だ。 「そしたら俺は、この花片全部持ち帰って、それで済むのに」 触れてくる指先の温もりに、残せるものは一体何だろうか?いつだって、柔らかいものばかり与えられ、身の裡側を守られて、一足先に旅立って行く桃城に、自分は一体何を差し出してやれるだろうか? 掲げられる願いに、笑顔だけでは安すぎる気がした。だから、無性に見たくなったのだ。儚さと等分に分け持つ、凛然とした月のよう白い花を。 見せて貰った綺麗な光景の中で。 「あんた本当に詐欺師」 最後の最後まで、嘘を突き通すのが詐欺師の鉄則だ。そして桃城は、最後の局面になって、漸くアメリカ行を告げてきた。薄々感づいていた事も、桃城の口から告げられると、その衝動は、リョーマ自身が思っていたより、大きい物だった。 昨年の春。手塚達が卒業し、手塚が一人旅立って行った時。無自覚に身の裡の何処かに張り付けてしまったナニかが、柔らかく剥がれて行く一抹の寂しさを味わいはしたが、痛みなどなかった。けれど今感じる物は、切ないばかりの痛みだ。 「越前……」 静謐に笑う笑みの向こう側。背後に横たわるリョーマの機微を、読取れない桃城ではなかった。 「でもお前は、すぐに追いつくだろ?」 サラリと、指に馴染んだ髪を梳き上げ、引き寄せれば、リョーマは笑った。 「当然。あんたクズクズしてたら、俺はすぐに追いついて、追い抜くから」 実力の世界に年齢は関係ない。 「戦場だよ」 これから歩いて行く道は。目指す道は、先に行けば行く程険しく、切っ先の細さを増して行く。馴れ合いでは渡ってはいけない実力の世界。 「俺はあんたを一番に選ぶ事はできなかった。どうしてもテニスが一番になる」 「俺は、だから安心してるさ。お前がテニスを選んでくれて」 誰にでもなく、何にでもなく、感謝した。自分ではなく、リョーマが一番にテニスを選んでくれて。思考領域を限定してしまう枷には、なりたくはなかったのだから。だから、足掻くと決めていたのだ。願いを実現する為に。 互いの道を歩いて行く中で、依存する事なく、生涯共に居る方法を。 子供の絵空事だと笑われる覚悟で、南次郎に打ち明けたのは、去年の三が日の事だった。けれど南次郎は笑う事はなかった。ばかりが、身震いする程底のない眼で、容赦なく語った事は、一つだった。 『吹っ切れた眼ぇしてるな』 開口一番言われた科白がそれなのだから、もう随分前に、南次郎には、自分でも考えてしなかった部分を、見抜かれていたのかもしれないと、桃城は飄々とした曲者を思い出す。 そして言われた科白と言えば、掴んだ手を離すなら、言い訳も理由もなく手を離せと言われたのだから、本当に曲者だ。 今回のアメリカ行に関し、顧問の竜崎共々、骨を折ってくれたのも南次郎だった。 『いい舅だろ?』 ヌケヌケと笑った南次郎の底の知れない大きさを、痛感するのもいつもこんな時だ。 一体どれ程の時間が経てば『テニスだけが人生じゃない』と言える強さを身に付けられるのだろうか?けれど実際、南次郎の思惑を昨年正月に聞いた時。正直の発想の広さに、桃城は戸惑った程だ。 『未々日本は、テニス後進国だ。日本で世界に通用する選手を育てるのは、まだ無理だ。だからお前達には、精々役にたってもらうからな』 飄々とした笑みの背後に横たわるのは、真剣なものばかりで、だから桃城は思い知った。南次郎は選手ではなく、その裏方に回る道を選んだ事を。何の事はない、誰より曲者なのは、南次郎なのだ。リョーマは何処まで知っているのだろうかと思えば、知らないに違いないと、桃城は思う。 「ねぇ、俺からの手向け、いる?」 もう随分一緒に居て、一緒に居る事が当然になって、切り離す事に血を流す労力を強いられる。 内側を守ってくれた者。これからも守ってくれる者。先に在る時間の為に、歩き出した桃城に、残せるものはとても少ない。 与えて貰った全てを返す事はできない。結局、最後は自分はテニスを選んでしまう。それでも、どうしても消しされない桃城への想い。全てを切り捨て、桃城を選んでいたなら、きっと今、こうして居る事は、できなかっただろう。 なんて互いに身勝手で、容赦のない願いを胸の内側に抱き込んでいるのかと、こんな時可笑しくなる。 「何くれる?」 いつだって、リョーマは金品に置き換える事のできる、代物を贈ってきた事はない。それは些細な言葉だったり、綺麗な有り触れた光景だったり、胸の奥に焼き付いては離れないものばかりを、贈られて来た。 自分の事にも周囲にも無頓着なくせに、それは反則に近い程、リョーマはそういうものを綺麗に分け与えてくれる。 「俺はテニスしか選べないけど、でも、テニスの次にあんただけだから。テニス以外には、あんただけでいい。俺を愛して傷付ける事が出来るのは、あんただけだから」 吐き出す事程に強い言葉。今まで溜め込んで、言葉にされる事のなかった激情を、一挙に吐き出すかのように、リョーマは吐き出して行く。そして途切れた言葉の次には、酷薄な笑みを垣間見せ、 「あんたは知ってた?本当は俺があんたを殺しちゃいたい程恋い焦がれてるとか、本当はテニスを切り捨てても、あんたを選びたかったとか。全身全霊掛けて、あんただけだって。それでもテニスを選ぶ事を願うあんたを、殺したい程憎んでるとか。あんた知ってた?俺があんたの意思さえ喰って、あんたの全部を欲しがってるなんて」 激情を吐き出しながら、リョーマは冷ややかな笑みを刻み付ける。 「自分の道を歩けなんていうあんた、今すぐ殺して、此処に埋めて、自分のものにしたいなてん思ってるって」 「知ってるよ」 リョーマの激情とは裏腹に、桃城の声はひどく冷静で、そして穏やかにリョーマを包んでいる。 「それでもお前が、テニスを選んで歩いてく事は」 『ゴメンな』と呟いて、桃城は白皙の面差しを包み込む。 「悪党」 「お前の為なら、命程度、簡単に差し出してやるんだけどな。でも俺は、気付いちまったからな」 一緒に歩いて行きたいのだと。儚い夢物語ではなく、現実を二人で生きて行きたいのだと。感性を無視した場所から、触れ合う距離を無視した場所から、何一つの感情は生まれやしない。だったら、儚い夢のような没落を願うより、痛みを伴うものを、桃城は願った。 「お前の親父さんがな、お前にテニス教えたの、今は何となくその理由が判るよ」 玩具を持つより先に、ラケットを玩具にする子供だったと、その時ばかりは眼を細め、笑った南次郎を桃城は覚えている。 『子供なんて、親の玩具だ』そう言った南次郎の科白の片鱗が、今垣間見える気がした。 きっとても単純な動機だったのだろう。乗り越える壁とか、男親の感傷などと言うものより、それはきっともっとずった単純なものだった筈だ。 「だったら、あんたは一番に俺を愛して。テニスより何より、俺だけを愛してよッッ!」 自分はテニスを一番に選ぶ事しかできなかった。だから桃城には、テニスは二番目にしてほしいなんて、とても身勝手なものだと百も承知している。それでも。 「死んでも、俺だけを愛して」 頬を包む桃城の指先が、ゆっくり瞼に触れて行く。繊細な輪郭を流れて行く、一筋の光の軌道。 「あんたにしか、見せないよ。俺の涙なんて」 本当は、誰にも見せるつもりなんてなかった。 「反則だぞ」 今まで分け与え、見せてくれたどんな光景より、痛々しい綺麗な光景。 それでも、誰も知らないリョーマの涙なのだと思えば、胸の痛みと同時に、愚かな想いさえ感じる事が出来る。 「俺は一足先に行くけど」 流れて行く涙。相反し、綺麗に笑う笑みに、胸が締め付けられる程、切なさが増す。 一年の距離が長い。けれどきっとアメリカに行けば、そんな事は言っていられない生活が待っているだろう。 「あんたなんてすぐに追いつくし、追い越すし。だから、グスグスしてたら、蹴りますから」 「すまないな、色々押しつけちまって」 今の青学では、全国に行けるだけの実力を持った選手はいない。きっと今年、全国に行ける事はないのかもしれない。だから本当なら、リョーマはアメリカに戻る選択も出来たのだ。けれどリョーマはそれをしなかった。 「別に、言われる事じゃないっスよ。俺は俺の道を歩くんだから」 「言うじゃねぇ?」 小生意気な笑みが、どうしようもなく愛しいのだと思えば、もう決して手放す事などできないと思い知る。だからこの別離は、未来に続く為のものだった。 「中学くらい、日本で卒業しようと思ったのは、俺の意思だから。結局テニス部に残る事は、やめちゃったけど」 リョーマの実力で、全国に行く可能性の薄いテニス部に残る事は、誰が考えてもプラスにはならない。その実力は、既に昨年の秋から、国際大会で証明されてしまっている。 実際、リョーマには南次郎を通じ、USTAからの話しも来ているのだ。 元々がアメリカジュニア大会4連勝という実力を持つリョーマだ。世間が放って置く筈もない。 だからリョーマは、南次郎の勧めるテニススクールで実力を磨き、遠征をする事になるだろう。それを責める者は一人も居ないのは、リョーマの実力が既に国内に置いては稀代な事を知っているからだろう。 「ねぇ桃先輩」 結局、テニス部内で、桃城を桃先輩と呼んでいたのはリョーマだけだった。堀尾達は、いつの間にか『桃ちゃん部長』と呼ぶ事に慣れていた。 「この桜、俺達のこんな想いも、宿してくのかな?」 去年、雨の中酔興にも花見に来た時、桃城が行っていた科白だ。 「この桜はずっと此処に在るから、どれだけ時間が経っても、会いにくればいいさ」 きっと宿る思いは、そういうものなのだろう。 人が失せても行き続けて行く記憶。其処に佇む幾多の想いは宙に溶け、生きて行く。 「そん時にはきっと、今夜の事を、思い出すさ」 最初で最後だろうリョーマの涙。激情を吐き出す痛々しさと、等分に在る綺麗さ。 この桜の下を、去年は何回来ただろうか? 夜桜を見に来て、雨の中酔興に来て。そして手塚の抜けた面子で花見に来て。きっとそういう楽しかったりちょっと切なかったりする気持ちは、此処に来れば出会う事はできる。 「この桜な、俺がちっこい頃から、此処にあんだよ」 だからこの先20年、30年くらい大丈夫さ、桃城はそう笑う。 「桃先輩」 ゆっくり重なると吐息。少しでも、想いが伝わるように。 焼き付けたい想いが、焼き付くように。言葉ではきっと足りはしないから。 そんなリョーマの内心を見透かすように、桃城の腕がリョーマを強く引き寄せた。 白い花が降り積もり 思い出が終わらない |