大切な人に今返せる言葉があるのだとしたら、

それは気取った「Thank you」という言葉ではなく、

「ありがとう」と素直な言葉を。

















     For you











 青春学園は、都内とは思えぬ広大な敷地に、創立者の意思が今も残る四季折々の花と木々が、学園周囲に埋め尽くされている。
 今の季節に咲き誇るのは、去年より半月は早く咲いた桜の花だった。
学園内を囲むように咲き誇る桜は、近辺では類を見ない本数埋められ、旅立つ生徒と、新たに希望を持って入学して来る生徒へ等分に分け与えられ、今を誇りに咲き乱れている。
 春霞の穏やかさは、周囲を白く霞ませる煙花の光景で、甘い香りを何処からともなく運んでくる風に舞う儚さは、淡雪のようにも見える。
 その儚さは、数日前の深夜。桃城を呼び出し、交わした激情を知る、凛然とした潔さは微塵も感じられない。ただ、緩やかな時間を刻み付ける穏やかさしか見えないから、確かに桃城の言う通り、桜には二面が有ると、リョーマは風に紛れて運ばれて来る薄紅色の花片を眺め、らしくない感傷に耽っていた。
 きっとこの儚までの穏やかな時間が、誰の胸にも郷愁を思い起させるのかもしれない。日差しの中で見れば、真白ではなく、淡く色付く紅。
 リョーマはコートに立ち、ゆっくり視線を空へと向けた。
桃城だけではなく、自分もこの青学テニス部のコートに立つのが今日で最後なのだと思えば、らしくもない一抹の淋しさが胸を過ぎるのに、リョーマは半瞬苦笑する。
 自分を育んでくれた随分多くのものが、このコートには詰まっている。
テニスは楽しいものなのだと、思い出させてくれたコート。父親の名に押し潰され、それでも足掻きながら、自己を肯定する為だけの道具になっていたテニス。けれど、本当はそんな事を抜きにして、テニスはとても楽しいのだと、此処で沢山のものを教えられた。
 其処に在る大切な人達。大切な人達が居たから、きっと楽しく伸びた力。成長し、自分のテニスを模索し、進化する事ができた。この柔らかい環境があってこそ、できた成長だろうと、今なら判る。
 もう随分大切なものが、此処には残されてしまった。それは眼に見えるカタチではない分、より深く身の裡に刻み付けられて行くものばかりだ。
 明日から、此処に自分と桃城が来る事はない。今日の引退試合を最後に桃城は旅立って行き、自分もまたテニス部を去る事になる。そう思えば、他愛ない会話の数々を思い出す。それは、別段何一つの代わりばえのしない日常で、有り触れた光景で、だからこそ、離れて行く今。身の裡の奥に無自覚に張り付けしてまった大切なものを、一つ一つ剥して行くのに、途方もない痛みと労力を強いられる。アメリカを去る時、こんな感傷を味わった事はなかったから、卒業すると言う感傷を、リョーマは今身の裡に置き換え、味わっていた。
 手塚達が卒業していった去年より、余程大きい淋しさを味わい、リョーマは制服でコートに立ち、周囲を眺めていた。
 韶光眩しい門出の季節。日溜に舞う薄紅の花片が、ハラハラ舞う風情を眺めていれば、その切なさは尚深まっていく気がした。
 どれ程大切なものを、この場所で教えられたか知れやしない。沢山の柔らかい降るような言葉。優しい腕。口ばかりだと思っていた級友が、実際ハードな練習に堪え切れず、一人二人と辞めて行く中、結局彼等は辞める事なく、新学期には最上級生になり、テニス部を引っ張って行く。
 これからどうなるのか在り様は見えない。けれど多難な事だけは判る。それでも、自分はこのテニス部を去る事に決めたのだ。誰の為でもない、自分の為に。それでも、誰もが責める言葉を言わないのが、不思議だった。


『オチビ〜〜〜〜』

 いつもいつも、ネコのような剽悍さで抱きついきた、スキンシップの好きな英二。


『それじゃラスト一周。ビリの人に、超特性汁ね』

 あの乾汁だけは心底勘弁してほしいと思った乾。その分析能力は、今でも得体の知れない頭脳だ。決して自分はあんなテニスはできない。些か化け物じみていると、いつも思っていた事を、乾は知っていただろうか?


『やっぱり君は、油断できないや』

 雨の中の対戦。それはこっちの科白だと、あの時思ったものだ。強いと言うより巧いと思わせる不二のテニスセンスは、やはり天才的なのだと思い知った。


『部長である手塚を補佐するのが、副部長の仕事だからね』

 何故テニス部にマネージャーが居ないのか、それはテニスの技術と変わらぬ卒のなさと視野の広さで、大石が全てを背負っていたからだと思い知ったのは、一年の秋の時だった。


『フシュ〜〜〜』

 あの粘り強さと精神力と体力。桃城の喧嘩相手は、イコールで随分桃城と言うものを理解していた海堂。互いにライバルだと思えなければ、ああ喧嘩はできないだろう。


『越前、お前のテニスを見せてみろ』

 まるで、端然と突き付けられた、刃のようだった手塚の科白。あの時、乗り越える壁の形を教えて貰った。一人先に世界へと歩き出した手塚の部長としてのカリスマと、それを支える実力は、今世界で実力を発揮し始めている。


『お前はお前で、ダレかじゃないだろ?俺なんてお前が笑ってれば、案外倖せだぞ』

 手塚に続き、自分より一歩歩き出してしまった桃城。
半歩自分の後ろに佇み、同じものを見ようとしていた筈の桃城は、更に強い想いで自分との事を考えていてくれたのだと気付いた時。自分がどれ程切ない思いを味わったのかなど、言葉にもできない。



「俺は、追いつくよ」


 空に向かって伸ばした手の先。広がるのは、遠く夢のような綺麗な蒼。薄い紗のような白い雲に、所々霞んだ色が見え隠れする春の空。幾重かの切なさを生み出す遠い色。


『お前の眼、空みたいだな』

 そう笑った笑顔。救われていたのは、自分の方だ。
どれ程近しい距離であれば、その瞳の色に気付いただろうか?気付く事の方が、余程少ない他人の中で、桃城はすぐに言い当てた。


「あんたも、立ち止まらないで歩かないと、蹴り倒すから」


 無限に広がる空。伸ばした手の中に在る未来。
未来は決まってなどいないから、掴み取るものなのだと笑った桃城の笑顔。自分の内側を、誰より守ってくれた者。その強靭さに気付いたのは、案外と遅かった。そして今。更に強い思いで、守ってくれようとしている。
 今までなら、誰かに守られたいと思った事はない。誰かを守りたいと願った事もない。
けれど、今切実な部分でそう願う。
 アメリカに居た当時、下してきた鉄槌を思い出せば、尚そうだろう。自分よりテニスの強い奴でなければ付き合わない。そう宣言し、鉄槌を下して来たのだから。誰かに守られる安堵も、誰かを守る心地好さも、当時の自分は知りはしなかった。そう考えれば、多少なりとも成長したのだろうか?


「俺達に、今必要のない言葉は、限界、なんでしょ?」


 羽などなくても、人は誰だって歩いて行ける。その速度に個人差は有っても、必ず辿り着く。
 大切なのは、ダレかが存在する居場所。








「オーイ越前、何してんだよ」

「リョーマ君、桃ちゃん部長の卒業式、始まっちゃうよ」

 いつまで経っても戻って来る様子のないリョーマに焦れ、堀尾達がリョーマを呼びに来た。もう桃城達の卒業式の時間が近付いて、下級生は、講堂に集まり始めている。

「今行く」 

 振り向き応え、そしてまたコートに視線を戻す。

「忘れないから」

 教えてもらった大切なもの全部。

「ねぇ?」

 きっと面と向かって素直に言う事はできないから。
優しい笑顔。柔らかい言葉。いつだって、見返りもなく差し出されていた腕。一体どれ程の時間を掛ければ、与えてもらったものを、返す事ができるだろうか?
 考えても、今は未だ判らない。だからせめて。



「ありがとう」



 旅立つ人に贈る言葉は、飾った『Thank you』と言う言葉でなく、素直な『ありがとう』を。
 誰より、何より自分を愛してくれる人に贈る言葉は、きっとそんな言葉で十分だろう。
 淡い花片が揺れ、静かに舞う、春の穏やかな日溜の時間。
来年自分は何を思い、感じ、旅立って行くだろうか?
 リョーマは焼き付けるようにコートを凝視し、そうして吹っ切るように、クルリと背を向け歩き出した。



初めて愛した貴方の為に
飾りも付けずに贈る言葉



















 移ろい行く季節を実感するのは、きっと既存の暦などではなく、こうして肌身で感じ取るものなのだと、もう何回か思ってきた事を、リョーマは反芻するように、この光景を少し離れた場所から眺め、思っていた。
 オレンジに色付き始めた空。太陽が最後の残光を映し、地平線に姿を隠していく時間。
卒業式後の引退試合というものが、昨年から慣例化しつつあるテニス部の引退試合だ。卒業式は終わったというのに帰宅する事もなく、先刻まで、在校生、卒業生のかなりの人数が、テニス部コートフェンスの周囲に群がっていた。
 それも桃城達の引退試合が終われば、人の波は消えて行った。今コートに集まっているのは、テニス部員と、そうして今では高等部で活躍している不二や英二という、前年度のレギュラー面子だった。
 不思議な事に、彼等が卒業し、入れ替わりに入ってきた一年生も、高等部で活躍している彼等を知っていた。それが何故かといえば、試合の時には殆ど必ずといっていい回数で顔を出していた彼等であり、プライベートな面で、桃城やリョーマが、彼等と会っている事も知っているから、極自然と、一年生達も、不二や英二の存在を知っていた。
「桃、卒業おめでとう」
 何処か感慨深げに、高等部の制服を身に付けている英二が、桃城に抱き付いた。
 英二と桃城は、先輩後輩という中でも、とりわけ仲が良かった事を、当時の面子は誰もが知っている事で、だから英二にしてみれば、一人アメリカに旅立つ桃城という後輩の存在は、感傷も一入なのだろう。
「まさか桃がね。手塚に会ったら、たまには連絡しろって言っといて」
 つい昨日のように、桃城が入学してきた当時を思い出せる気がした。
入学当時は未々成長過程の未成熟な粗さが目立っていた桃城は、気付けばもう随分、大人の印象を刻み付けている。それは大切な存在を見付け、守ろうとする精神が、彼を子供にさせてはおかなかった事を、不二は知っていた。
「桃城、卒業の記念に、これをやろう」
 意味深に笑って一枚のヒラリと紙切れを手渡す乾のそのメモに、
「乾先輩〜〜〜〜苛めっスか?」
 桃城は勘弁してくれと、悲鳴を上げる。
何が書いてあったのかなど、誰にも一目瞭然の乾の行動だ。
其処に書かれているのは、乾特性野菜汁のレシピだ。
「オチビ〜〜〜ダメじゃんそんな場所で、黄昏てたら」
 リョーマが、桃城と海堂に集まる人の群れを、外側から眺めるように見ているのに気付いた英二は、今の今まで一緒にテニスをしていた以前の表情と何一つの変わりのない声でヒラヒラ手を降り、リョーマを手招いた。
「越前も、もうこのコートに立つ事は、ないんだな」
 元副部長らしい気遣いで、大石がリョーマに笑い掛ける。
青学の一年生ルーキーと言われていたリョーマも、四月には最上級生になる。
 相変わらず小柄な姿態だ。けれどその華奢な姿態から生み出されるとは思えない鋭いスピードは、此処最近の彼のテニスを見れば、更に研ぎ澄まされたものを宿している。もう彼の才能は、中学の部活と言う場所では、収まらないものなのだと、誰もが認める所だ。
 だからリョーマのレギュラージャージを見るのも、今日で最後なのたと思えば、誰の胸にも切ない感慨が湧く。
「テニスをするのに、場所なんて、関係ないっスよ」
 感慨深げに呟いた大石の科白に、リョーマはそう返した。
「越前」
「何スか?」
「お前にもこれをやろう」
「………いらないっス」
 特性野菜汁のレシピなど、有り難い筈もない。あの独特の味には、散々な目に有ってきたのだ。
「健康には、いいんだぞ」
「あんたのそれは、不健康極まりない」
 ボソリと、海堂が呟くのに、乾は面白気に笑った。
「海堂は高等部に来るんだから、俺がちゃんと特性汁は飲ませてやるから」
「いらないッ!」
 思い切り否定し、海堂が桃城に向き直る。
「オイ、コラ」
「何だよマムシ」
「グズグスしてっと、お前こいつに追い抜かれて、置いてかれるぞ」
 それは海堂らしい手向けの言葉だと、判らない桃城ではなかった。
「お前こそ、高校行って、喧嘩相手居ないからって、手ぇ抜いてると、笑うぞ」
「そりゃこっちの科白だ」
「皆、今日はウチに来てくれよ」
「ウワ〜〜〜タカさんの鮨」
「俺も結局高校でもテニスしてるけど、店の手伝いで、たまに握ってるんだ」
「そりゃいいや、今夜は宴会」
 英二が笑った。そんな光景を、やはりリョーマは少し離れた場所から眺めているのに、桃城はもう随分前から気付いていた。
「越前」
 何を思い、少し離れた位置からリョーマが見ていたのか、気付かない桃城ではなかった。
「何スか?」
 呼ばれ、リョーマはゆっくり桃城に近付いた。
「ホレ」
 バサリと、桃城は三年間着込んだレギュラージャージを脱ぐと、リョーマに差し出した。
「お前にやるよ」
「俺に?」
 差し出された、リョーマには大きいレギュラージャージ。
受け取り、桃城を窺うように見上げれば、桃城は深い笑みをしているだけだった。
 もう自分も、この見慣れた青いジャージを着る事はないのだ。明日から立つ場所は、違うコートだ。けれどもしかしたら、このジャージを着て、練習はするのかもしれない。
「第二ボタンの代わり」
「だったら、全部下さい」
 桃城の着ていた制服ごと。
「言うねぇ、オチビも」
 すごい告白、英二がそう笑う。
「桃、第二ボタン死守したって聞いたからね」
 欲しいとねだって来た女生徒は後を絶たないとも聞いたが、そのどの声にも、桃城が頷く事はなかった。
「当然スよ」
「言うようになったな、越前も」
「ったくお前も」
 クシャクシャと、桃城が髪を掻き乱す。
「あんたの全部、俺にくれるんでしょ?」
「クリーニングはしねぇぞ」
「したら意味ないっスよ」
「オチビ〜〜成長しちゃったんだねぇ」
 さめざめと泣く真似をして、英二がリョーマに抱き付けば、不二がその隣で、
「案外一挙に関係が進展しちゃったのって、桃と越前かもしれないね」
 これは手塚に教えてやらないと、そんな風に不二が笑う。
「そだ、桃とオチビ。明日は俺達に付き合えよ」
「何スか?第一俺も菊丸先輩達だって、明日終業式じゃないっスか」
「だから午後」
「花見、しようと思ってね。今年は、間に合ったから」
「主役二名が居ないんじゃ、ちょっと困るからね」
「明日は、特性散らし寿司、持ってくよ」
「いいっスね、それ」
「だな」
「桃も越前も、鮨が目当てなのか?」
「冗談っスよ、大石先輩。勿論、明日行きます」
「んじゃ取りあえず、今は場所をタカさんの家に移して」
 英二の科白に、ゆっくり桃城の脚が、フェンスの近くに有る後輩に向けられる。






「頼むな」
 ポンと、軽い動作で、桃城の手が堀尾達の頭を撫でて行く。
「桃ちゃん部長〜〜〜」
「バーカ、泣くなよ」
「桃城、今日は私は忙しくて駄目だけど、明日は途中から花見に参加させてもらうよ」
「ヘーイ」
「ったく、お前がアメリカとはねぇ」
 南次郎から聞いた時、些かその行動に驚きはしたものの、桃城は手塚の認める青学の曲者だ。リョーマをどれ程大切にしているのか竜崎は知ってもいたから、その選択と行動には、自分にはもうできない若さを感じては、羨ましく思ったものだった。
「俺は、俺の道を歩いて行きますから」
「いっちょ前に、言うねぇ」
 真摯な眼差しに込められた願いが、どれ程深いものであるか、知らない竜崎ではなかった。
 子供の絵空事だと笑う事の方が、多分簡単な事だっただろう。それでも敢て桃城は困難に道を歩き出そうしている。その強靭さには、実際頭が下がる。
 子供の時、本気の相手に巡り合う事も有るのだと、二人を見ていると思い知らされる気がした。それでも甘えた関係に依存する事なく、互いの道を歩こうとしている姿は、だから綺麗だと思わずにはいられない。
「今まで、ありがとうございました」
 深く背を曲げ、頭を垂れる。
「まったく、年なんてとるもんじゃないね。涙腺が緩んで、仕方ないったら」
 いつからこんなに大人になっていたのかと、眼前で頭を下げる桃城を凝視し、竜崎は思った。
 大切な存在を見付けた時から、桃城は随分精神的に成長を遂げていた事は判っていたつもりでも、その成長の大きさを、こうして見せつけられると、深い感慨ばかりが胸を締め付けて来る。
「まぁ頑張ってやりな」
 きっと桃城には、こんな程度の言葉で十分だろうから、竜崎は笑うと、クシャクシャと整髪剤で整えられている桃城の頭を掻き乱した。





「桃先輩。行くっスよ」

「オ〜〜待てって」

「遅い」



「相変わらずなんだにゃ」
 二人のやり取りに、英二がこっそり笑うのに、
「安心した?」
 不二がその隣で笑い掛けた。
「バレてた?」
「まぁね」
 部室で着替えてる桃城とリョーマと海堂を待ちながら、相変わらずな会話をしている二人に、英二は意味もなくホッとしていた。
「淋しくなるね」
「うん」
「でも、いつか来ると思うよ。この淋しさを通り越した場所で、手塚と桃と越前を、誇りに思って、一緒にテニスしたんだよって、そんな風に言う時がさ」
「うん、そうだにゃ」
 そしてそれはきっと、そう遠くない未来だと言う事も、判っていた。
「僕もね、したい事ちゃんと見付けたし」
「やっぱカメラするんだ」
「いいんじゃない?あんな綺麗な光景、写し続けて行くって言うのもさ」
「不二の写真って、風景専門だったと思うのに」
「風景だよ。あんな風に綺麗なね」
 青い空。綺麗な夕焼け。雄大に描かれていく自然の摂理を撮るのも確かに楽しいけれど、撮りたいものは違うのだと思った時。それさえ綺麗な風景なのだと気付いた。


「桃先輩〜〜」

 部室の入り口で呼ぶ声。

「今行くって」

「大体、菊丸輩先輩の事言えないじゃないっスか。ちゃんと荷物整理しとかないから」

 やれやれと溜め息を吐き出し、部室に戻って行く華奢な姿。



「何だかんだで、オチビって世話焼き女房?」
「そうかもね」
 リョーマに聞かれたら、盛大に呆れられそうな科白だ。



「相変わらず、あんたタラシ」

 紙袋に無造作に入れられている花束の山に、リョーマは呆れている。

「でも第二ボタンは死守しただろ?」
「そんなん当然でしょ」

 軽口を叩き合い、二人は部室を出てきた。その場所で、背後を振り返る。
 桃城にとっては三年間、リョーマには二年間、大切なものを育んできた場所だ。全ては此処から始まっているのだと、今なら思える。


『テニスコート、どっちスか?』

『目付き悪いなぁ。テニス部はあっちだよ』


 ファーストコンタクトは、そんなやり取りだった。
それが今ではもう抜き差しならない部分に浸食されている。


「さてっ、行くか」
「っス」 
 パタンと、桃城が部室の扉を閉めた。


「あんな風な日常が、すごく綺麗だって、思うよ」
「そうだにゃ」

 遠くない未来。世界にその名を刻み付けるだろう彼等に、誇れるように。今できる事を全力で、そう思う。






「桃先輩」
「ん?」
 呼ばれ頭一つ小さい顔を覗き込めば、リョーマはまっすく桃城を見上げていた。
「どした?」
 桃城を凝視し、けれど何も話そうとしないリョーマの瞳を覗き込んだ時、桃城は深く笑った。それは、声に出される事のないリョーマの口唇が語った言葉を、桃城は正確に読んだからだ。



『ありがとう』


 Thank youとは言わなかったリョーマの言葉の意味が、桃城には切ない程に愛しかった。





暮れなずむ街の光と影の中
去り行く貴方に贈る言葉

さよならだけでは淋しすぎるから
愛する貴方へ贈る言葉