類いまれなる蒼を宿す
未だ未完成な稀代の蒼
俯く事を知らず  
身の裡に眠れる獅子を飼う
頭を垂れず前を見据える切っ先の双眸





unfinished BLUE








 リョーマはテニススクールに出掛ける為の身支度をしながら、不意にベッドボードの上に置いてある、青い時計に視線を向けた。
 時刻は9時。今までのリョーマなら、短い春休みの朝の時間帯、この時間に起きている事の方が稀だった。けれど、今は違った。
 かつて自分が暮らしていた場所に旅立って行く桃城を思えば、リョーマは立ち止まっている事など、出来なかった。それは桃城が単身アメリカに行く意味を、正確に理解しているからだ。
 自分の道を歩きながら、先に有る未来の時間を重ねる為に、桃城はテニスを選び、世界へと歩いて行った。別段、共に在る手段がテニスに拘る必要は、なかったのかもしれない。けれどそれが器用なくせに不器用な桃城らしい答えなのだと、リョーマが知らない筈はなく、そしてまた、それは掲げられる願いと情愛の深さを物語っているかのようで、切なさが湧いた。
 それでも、桃城の実力がなければ、今回のアメリカ行さえ叶う事はなかったのだから、桃城には世界に旅立つ実力が有る、そういう事でもあった。
「ホァラ〜〜〜」
 時計を見詰めるリョーマの視線に、ベッドの上でカルピンが小首を傾げ、不思議そうに鳴いた。       
「俺も本当、まだまだ」
 リョーマは、多少の意思を必要として時計から視線を外すと、深い溜め息を吐き出し、自嘲する。
 見送りには行かないと決めていた。先に在る時間を重ねる為に旅立つ桃城の出立に、見送りは必要ないと思ったからだ。これは、別れではないのだからと、自らに言い聞かせ、リョーマは意思で以て、走り出しそうになる想いを封じ込めた。
 別れではない別離。共に在る為に桃城が選択した結果は、多少の辛さと切なさを生みはしたが、それでもそれが桃城の不器用な誠実さなのだと、リョーマは知っている。そして、だからこそ、甘えを許してはくれない男なのだと言う事も、嫌と言う程知っていた。
 桃城の渡米を聞いたのは、本当にぎりぎりの事だったからだ。桃城はリョーマに相談する事なく留学を決め、構える様子も窺わせず、何でもない事のように、言ったのだ。 


『俺、高校は行かねぇから』


 軽い冗談でも言うかのように告げられた言葉。相反し、笑わない眼の底。その時、決して甘やかしてはくれないその男の強靭さに底冷えを味わった事を、桃城は知らないだろう。


『結局俺が一歩先に歩いても、お前すぐ追いちまうから、トータルしたら、やっぱ俺はお前の半歩後ろに居るんだろうな』


『でも俺は、それが丁度いいって思うよ』


『……あんた本当に莫迦だね。先に行くなら、追い越されるの前提になんてしてたら、蹴るよ』



 薄々、感づいてはいた事だ。曲者の桃城が、訊いた所で素直に応えてくれる筈もないから、敢て訊かずにいた事だ。けれど、気付いてはいた。桃城が、その道を選ぶ事は。
 昨年から、桃城のテニスは眼に見えて変わった。元々中学生レベルではなかったそのパワーテクニックに磨きがかかり、鋭さを増していた。熱くなればなるだけ、冷静になる桃城の洞察力は、試合最中、冷静に試合を運ぶ流れのポイントというものを適格に掴み、自分のものにする、一種動物的な嗅覚に長けていた。それが益々磨き抜かれ、切っ先のような鋭さを増していた。
 今なら判る。薄々感じていた答えを出されてしまった今なら、見えてくる事は随分と有る。
 どうして、南次郎が何も言わず、淡々と桃城の練習に付き合っていたのか。桃城が、何故南次郎に練習を教わっていたのか。今なら判る。
 別段、南次郎はコーチらしいコーチはしていなかった筈だ。リョーマ自身、南次郎と打ち合った時でも、アドバイスというものを、教えて貰った事はない。そして二人の練習を見てきたから、リョーマは知っていた。南次郎は、決して言葉でのアドバイスなど、桃城に一度もしてはいなかったと言う事を。けれど桃城はきっと、言葉ではない南次郎のテニスから何かを確実に学び取り、教えられていたのだろう。だから伸びた力があったのだろうと、判らないリョーマではない。
 実際、桃城はジュニア選抜に選ばれ、世界を相手に戦い、世界といもうのを肌で触れたのだから。けれど今思えば、それさえ南次郎が留学に出した、条件の一つだったのだろう。ジュニア選抜に選出されるだけの実力を身に付けろ。でなければ、世界では通用しない。きっと南次郎は、そんな事を言ったのだろうと、リョーマには見当が付いていた。
「ったく、やっぱ俺より曲者同士で気が合うんじゃん」
 そう思えば、多少の嫉妬の一つや二つ、覚えた所でバチは当たらないだろう。
 壁に吊して有る桃城の学生服に悪態を吐き出すと、細い腕が伸びる。指先の先で、ソッとそれに触れる。
 自分より一回り以上大きい学生服の、第二ボタンは綺麗に止められている。その第二ボタンというものの意味を、リョーマが知ったのは昨年手塚達が卒業する時に聴いたものだ。
 女子ならセーラー服のリボンという事らしいが、どちらも本命に贈る代物らしいと聞いた時。バレンタイン、ホワイトデー同様、下らない日本の風習だと思いはしたものの、実際桃城が見知らぬ何処かの女に第二ボタンを毟り取られていたら、きっと悪態では済まなかっただろうと、リョーマは苦笑する。
 随分矮小になったものだと思いはするが、何一つの感情も知らずに居たアメリカでの生活に比べれば、随分成長したのかもしれない。
 誰かに執着する意味も、愛する意味も、愛される意味も知って。切なさと痛みを抱き続ける強さも知って。もう随分、桃城には色々なものを教えてもらった。そしてきっと何より、内側を守ってもらった。一体いつになったら、与えてもらった優しいものを全部、返す事ができるだろうか?
「あんた本当に、悪党」
 触れる指先から伝わる熱など何一つないと言うのに、桃城の着ていた学生服に触れている指先には、確実に熱が灯って行く。
「俺の事死ぬ程大事にしてるくせに、簡単に置いてくんだから」
 簡単に、そんな事は嘘だ。簡単な筈はない。どれ程桃城が迷ったのか、判らないリョーマではない。ただ桃城は、そういった内面を曝す事はない、それだけだ。迷いを口に出す事もなければ、表情にも出す事はない。だからこその曲者で、悪党。
「オイ、リョーマ」
 リョーマの感傷を無視して、不意に扉が開かれる。
「何だよ親父、人の部屋黙って開けるな」
 相変わらず、気配を消す事に長けている南次郎は、リョーマにさえその気配を読ませない。そんな父親にリョーマは憮然と口を開いた。
「彼氏が居るわけじゃない朝っぱらから、いかがわしい事なんてなんもないだろ」
 これでもあいつが来てた朝は、気ぃ使ってやってたんだそ、そんな事を笑う南次郎に、リョーマの表情は益々憮然としたものになって行く。
「今日、見送りには行かないのか?」
 息子の姿を見れば、行かない事など判りきっている。
「今からなら、未だ間に合うぞ」
 それでも、そんな科白が口を付くのは、リョーマにとって、桃城がどれ程の位置を締めているか判っているからだ。
「らしくないじゃん親父」
 父親の科白に、リョーマは自嘲とも苦笑とも付かない笑みを見せた。
「あいつは本当、お前の事よくよく判ってんだな」
 深い苦笑が、南次郎の貌に刻み付けられる。
無精髭で誤魔化してはいるものの、南次郎は案外と童顔だ。
「あいつ挨拶に来た時、言ってたぞ。どうせお前は見送りになんてこなだろうからってな」
 流石夫婦、正解だな、そう笑えば、南次郎はベッドの上で不思議そうに二人を見ているカルピンを手招いた。
「ホァラ〜〜〜」
 トンッと軽い仕草でベッドから飛び下りると、カルピンはスルリと南次郎の足下に纏わりついた。
 小さい温もりを抱き上げると、南次郎は笑って口を開いた。
「お前も、パパ居なくて淋しいよなぁ」
「……親父、カルピンに変な事、吹き込むなよ」
 親子だとよく笑う南次郎は、時折そんな科白をカルピンに向ける時があった。
「何言ってんだ、お前ら三人揃ってると、親子だっただろうが」
「だから、何処が」
「お前カルの奴抱いてる時、必ず赤ちゃん抱っこなんだよな。そんであいつがその横に鷹揚立っててみろ。立派に新婚夫婦じゃねぇか」
「あんたのその脳味噌、桃先輩と同じにブッ飛んでるよ」
「ハハハ、あいつもそう言ってたか?」
「親父がそう言うからだろ」
「こいつだって、随分あいつにゃ懐いてただろうが」
「そりゃあの人、天性のタラシだから。動物だって、得意なんだよ」
「パパは単身赴任で、帰るの当分先だからなぁ、ママも来年はパパの後追ってアメリカだし。子供は可愛そうだよな」
 カルピンをあやすように抱きながら、南次郎は嘯いて笑っては、リョーマの不興を買っていた。
「このクソ親父。何がママだよ」
「あいつがパパなら、お前ママだろ」
「あんたの頭は、桃先輩以上に腐ってるよ」
 呆れたリョーマは、これ以上莫迦な親父は相手できないと、無視する事に決め込んだ。
「っんで、お前本当に行かないんだな?」
 今までの軽口から一変した南次郎の声に気付かないリョーマではなかった。
「しつこい」
 リョーマは南次郎の科白に淡如に応えると、テニススクールに行く為の身支度を整えた。
「まったくお前達も、ガキのくせに」
 子供のうちから、本気の相手に巡り会ってしまう事もある。けれどそれは本当にまぐれだ。大抵は恋に恋する火遊びで終わってしまう。けれどリョーマと桃城は違う事に、随分初期から、南次郎は気付いていた。
 どちらがかが、恋に恋する思考だったら、断ち切れていただろう二人の繋がりは、自分が思っていたより遥かに強く強靭なものだったのだと、南次郎は淡々と身支度を整えていくリョーマを見て、そう思った。
 今を一緒に居る事の方が余程楽な事だろうに、敢て先を見据え今を別れて行く二人の強靭さは、自分が思っていたものより余程強く、そして真摯で切ないものを秘めていたのだと、南次郎は思い知る気がした。でなければ、到底手を貸す事などなかった。ガキの下らない絵空ごとだと、一笑しただろう。
「別れじゃないから」
 告げる言葉に籠る声は、何処か凛としたものが滲んでいた。
「今あの人がアメリカに行くのは、別れじゃないから」
 まっすぐ桃城の制服を凝視し告げる科白は、身の裡に刻み付けるかのようで、フト南次郎には痛々しい姿に見えた。
「俺だって、来年行くし」
「戻る、じゃねんだな?」
 アメリカ国籍を持っているリョーマにしてみれば、『行く』というより『戻る』と言う言葉の方が、適切な筈だ。けれどリョーマは敢て『行く』と言うのだから、その意味は深い。
「行く、んだよ」
 桃城の制服から、ゆっくり視線が南次郎に向けられた。その視線の深さに、南次郎は半瞬息を飲んだ。
 リョーマの有り様というものを、何より綺麗に映し出すものが、色素の薄い蒼い双眸だと判ってはいたものの、一体いつから一対の眼は、こんなに深いものを滲ませていたのか、気付く事はなかった。
 華奢な身を決して脆弱に見せる事のない、研ぎ澄まされた冷ややかな瞳は、今は静謐なものを滲ませている。
「あの人はあの人の道を歩いてくし、俺は俺で歩いてくから。あの人、結局最後の最後で、俺の事甘やかしてくれないから」
 詐欺師だし、そう笑うリョーマに、南次郎はクシャリと髪を掻き乱す。
「鬱陶しい」
 桃城以外にその仕草をされるのは、鬱陶しい以外の何者でもないから、リョーマは無下にも南次郎の手をはたき落とした。
「俺の事大事にしまくってるくせに、俺がテニス棄てる事は、決して許してくれない」
 南次郎相手に、どうしてこんな事を言っているのか、話しているリョーマ自身不思議だった。
「だから親父は、桃先輩に教えてたんだろ?」
 きっと自分より随分前に、南次郎は桃城の目指す場所を、判っていたのだろう。そう思えば、やはり腹の立つ事もあるのは、仕方ないだろう。
「さぁな?」
 リョーマの問いに、南次郎が応える事はない。
「別に桃先輩だって、俺に見送り来いなんて言わないし、きっと来なくていいって思ってるよ」
 それは別に下らない感傷ではないだろう。桃城ならきっと、『こんなとこ来てる暇、お前にないだろ?』そんな風に言う事が、リョーマには判るからだ。
「そうか」
「俺には立ち止まってる暇なんて、ないんだから」
 与えてもらった優しいもの全てを返せる術があるのだとしたら、それはきっと自分は立ち止まらず、歩く事程度だろう。
桃城が望み、祈る程深く願ってくれるように、自分もテニスを続け歩いて行く。その程度だ。だからもう、自分は立ち止まる事はできないと、リョーマは自覚していた。
「行くから」
 テニスバッグを担ぎ、リョーマは南次郎の横を擦り抜けて行く。
「ったく、強情っぱりが」
 横を擦り抜け歩いて行く綺麗な後ろ姿を凝視し、南次郎はこっそり溜め息を吐き出した。けれど二人が確実に次の季節を歩き始めた事を、南次郎は知っていた。
 ガキの恋で終わらせない為に、歩き出した先に有るものは、戦場のような場所だ。
切っ先程に細く狭い頂点を目指して歩く道。ガキの感傷と激情だけでは、到底辿り着けない遠い場所だ。

















 空港という場所はまるで幾つかの分岐点のようだと、去年手塚の見送りに来て感じた事を、再び後輩を送り出す為訪れた場所で感じる事に、不二は少しだけ苦笑した。
 国内ではなく国際線が入り乱れるフロアーは、多種多少の人間が通り過ぎて行く。
「オチビの奴、遅いなぁ〜〜〜」
 結局地元の駅にも姿を見せなかったリョーマは、空港にも現れる事はなく、英二はもうすぐ始まる搭乗手続きの時間に苛立ちながら、一人周囲を窺っていた。
「桃も、ちゃんとオチビに連絡した?」
 していない筈などない事は、誰より英二がよく判っている。だからこれは無駄な心配だと言う事も、判っていたつもりだったが、桃城の落ち着いた科白に、今度は憮然となった。
「あいつなら、来ませんよ」
「来ない?にゃんで?」
「そう言ってたのか?」
 柳眉を潜め、大石が問い掛けると、桃城は困ったように髪を掻いた。
「来るって、言ってなかったんで」
「にゃんだよそれ」
「普通言わなくても、来るだろ?」
 流石の乾も、表情のみえない眼鏡の向こうで、少しだけ困惑しているのが判った。
「俺も来いって言わなかったんで」
「莫迦かお前は」
 まったく莫迦だと、海堂は思う。入学当時、互いの実力を認め、だからライバルとして存在していた筈だ。けれど桃城は変わった。リョーマと言う存在を得て、一段も二段も成長していった。リョーマと言う存在を得たが為に、桃城がただの子供ではいられなくなってしまった事も、桃城のライバルだった海堂が気付かない筈はない。そのリョーマに来いと言わないあたり、桃城は成長したのだと思えば、ライバルとしては、些か取り残された気分にもなる海堂だった。
「っるせぇよ。あいつはいいんだよ、来なくて」
「ったくお前達は、二人揃って莫迦だねぇ」
 教え子の門出に、竜崎も訪れていた。青春台駅では、堀尾達も見送りに駆け付け、盛大に泣かれた。 
「どうしようもない大莫迦だ」
 きっと今頃リョーマは春休みに入った直後から通い始めたテニススクールに行っているのだろうと、判らない竜崎ではなかったから、より二人の強靭さに気付いてしまった。それだけ本気と言う事で、その想いは、切ないばかりに綺麗だ。
「桃」
 まあまあと英二を宥めながら、不二が桃城に差し出したものがあった。
「これ…」
 差し出されたものには、見覚えが有った。去年手塚が旅立つ時も、この場所で不二が渡していたものだ。
「来年は、あの子にも、渡す事になるね」
 莞爾と笑って不二が差し出したものは、ミニアルバムだ。これなら手荷物の中に入れても大した邪魔にはならないだろう。
「まぁさ、挫けそうになったら、これ見て頑張りなよ」
 手塚にも、そういって渡したのだ。
渡されたソレを桃城が開けば、其処には懐かしい光景ばかりが綺麗に写し出されている。
 笑っているリョーマの笑顔。他愛なく戯れているテニス部員。そんな日常の有り触れた光景が、綺麗に焼き付けられている。そして最後のページに在るものは、未だ桃城が二年で、手塚がいた頃、全国大会で準優勝した時の集合写真だった。
「ありがとうございます」
 何よりの贈りものだった。英二や不二達が高等部に進学しても、変わらない付き合いは当たり前のように続いていて、こうして見送りに来てもらっている。きっとこんな日常がとても愛しいのだと、アメリカに行ったら思う事は一入だろう。
「元気でな桃」
 搭乗手続きの開始が、喧騒ばかりのロビーにアナウンスが入った。
「無理しないで、ほどほどが、いいよ」
「負けたら、承知しねぇぞ」
「負けるか」
「月並みだけど、頑張れ」
「あっちの水に慣れるまで大変だろうけど、頑張ってくれ」
「精々、悔いのないようにしっかりおやり」
 それぞれが持てる言葉で桃城の門出の言葉を掛ける中、最後に桃城は深々頭を下げた。
 きっと思い出すなら、今を思い出す。どれ程時間が経ってしまっても、思い出すなら、この優しい人達を思い出すだろう。思い出すなら、この場所を思い出す。自分を育み育て、そうして旅立つ強さを与えてくれた場所。
「行ってきます」
 桃城は頭を上げると、一人一人を焼き付けるように視線を合わせ、そしてクルリと背を向けた。




「桃」
 雑踏に消える桃城の背に、英二の声が叫んだ。
「アーア。泣いちゃった」
 英二にとっては、桃城は後輩の中で一番仲の良かった存在だ。淋しくない筈はなかった。それでも、堪えていたのだろう。
そんな英二に、桃城は右手の親指を経て、サムズアップを送った。
「俺泣かないって決めてたのに」
「別にいいんじゃない?泣いたって」
 消えて行く桃城の背を見送りながら英二が呟くのに、不二が笑う。
「不二は泣かなかったじゃん」
 去年この場所で手塚を見送った時、やはり泣いたのは英二だ。そしてそんな英二を宥めていたのも不二だった。
「それはね、手塚に散々確認させたから」
 帰る場所を確認させた。というより、確認させられた。
「オチビも来なくて、頑張ってるのに」
「人それぞれなんじゃないの?きっと一度くらい、あの子は桃の前で泣いてるよ」
 確信はないけれど、そんな気がした。きっとリョーマは誰にも見せない幾つもの表情を、桃城にだけは曝して来た筈だ。そんな二人だから、今更きっと見送りなど、必要とはしなかったのだろう。
「泣くと、綺麗になるってよ」
「?」
「心がね」
「不二〜〜〜」
 莞爾と笑うらしくない不二の笑みに、英二は少しだけ脱力した。
「俺も聞いた事が有るよ」
「大石?」
「泣いた分だけ、心が綺麗になるってね」
「涙には、浄化作用が有るとも言うしな」
「まったくお前達、高等部に行っても、相変わらずだな」
 そう言えば、この子供達はもうとっくに自分の元を離れているというのに、昨日も明日も、一緒に居る気分にさせられると、竜崎は少しだけ呆れた。
「ホラ。そろそろ帰るよ」
「え〜〜〜」
「何がえ〜〜だい菊丸」
「だって、桃の飛行機未だ見送ってない」
「仕方ないねぇ」
 どれが桃城の搭乗した機なのか、判りはしないと言うのに。
「オチビもさ、見てるかな?」
「見てるんじゃない?」
 英二の科白に、不二が笑った。















 滑走路を徐々に疾走する機体。周囲の景色が物凄いスピードーで流れて行く。離陸する一瞬の浮遊感は、エレベーターが上昇する時の感覚と何処か似ていた。
 上昇するに従い近付く空。遠く続く綺麗な蒼が、今はとても近くに在る。けれどそれは何より愛しい薄蒼の双眸を持つリョーマの色ではなく、やはり夢のように遠い色だった。
 桃城は、流れて行く景色から視線を手元に移した。手荷物の中に入れたミニアルバムを、とても丁重な仕草で、表紙を捲った。
 一番最初に映っているのが、何処か小生意気な愛しい笑顔のリョーマには、不二らしいと笑った。だとしたら、去年旅立つ手塚に送ったこのページには、不二自身の写真が張り付けられていたのだろうか?
 そしてゆっくりと捲っていくページには、他愛ない日常の光景が映っていた。
 不二の趣味がカメラで、映しているものは人物より風景が多いと聞いた事が有る。けれど、今此処にこうして映っているのは、他愛ない日常に溶け込む懐かしい仲間達だった。
 リョーマに抱き付き、鬱陶しそうな表情もするのに、振り払わず諦め顔をしている姿。
凛と背筋を伸ばしコートに立ち、正面を見据えている冷ややかな双眸、その横顔まで、綺麗に映している不二の写真の腕は、素人の桃城が見ても、凄いと思えるものだった。
 気難しい顔をしながら、実は部員の事を乾以上に詳細に把握していた手塚程、自分は大した部長ではなかっただろうと、桃城は写し出された手塚の姿に、そう思えた。それでも、これからテニス部を引っ張っていく後輩達に、何か残せただろうか?手塚程に、残せるものは持ってはいない。それでも、何か残せたらと思う。
 乾汁片手に笑う乾の姿。乾はご丁寧にも、高等部にいってまで、時折練習を覗きに来ては、乾汁を作っていった。だから新入生で、彼等と面識のない一年まで、乾汁の恐ろしさは知っていた。
 テニスの技術もさる事ながら、その卒のない性格で、部長の手塚をアシストしていた大石のその手腕がなければ、手塚もあそこまで部長職に専念はしていられなかったのかもしれない。 撮っているのが不二だからなのだろう。彼の写真はとても少ない。それでも少し映っている不二は、相変わらず柔和な笑みを見せているが、彼の本質は実際真剣のソレだ。穏やかな笑みに踏み込めば、問答無用で斬り捨てられる。ただそれは抜き身ではなく鞘を持っている為、気付ける人間は少ない、そういった類いのものだ。
 マムシという渾名は、一体いつ付いたのだろうか?思い出せないが、いつもいつも喧嘩をしては、周囲を心配させた。けれど言葉に出す事はなかったが、ライバルだったのだ。それこそ毎日喧嘩して、日課になってしまう程だ。
 パワーと言う点では、自分と変わらぬ力を持っていた河村。高等部に進学したら稼業を手伝うからテニスは辞めると言っていたのに、結局テニスは続けている。そして傍らでちゃんと鮨職人の修行もしているのだから、大したものだろう。今日も手伝いがあるから空港まで行けなくてゴメンと、青春台駅まで見送りに来てくれた。
 そしてリョーマといつもいる一年生トリオ。実際、彼等が此処までテニスを続けられるとは思っていなかった。名門で有るテニス部は、名門で有る為に、その練習も半端ではなかったからだ。けれど結局最後までテニス部に残ったのは彼等なのだから、大したものだ。
「………!」
 ゆっくり捲って行くページは、どれもが桃城の胸に懐かしいものばかりを与え、今ではもう瞼が熱くなっていた。
 空港ロビーで見た時は気付かなかったが、最後のページから二番目のページには、それぞれの手書きの寄せ書きが挟まれていた。そこには、二学年上で、実際一緒にテニス部に居た事のない大和祐大のものも有った。
 書かれていた文字はたった一言。漢字ならば二文字、『無二』ただそれだけだった。
頑張れとも、何とも書かれてはいないその二文字には、聞き覚えが有った。
 かつて自分がリョーマに言い、そして彼もまたリョーマに言っていた科白だ。


『それはどちらも君の手で、それは無二と言うんです。無二とは、二つと無いと言う意味なんです』


 未だ桃城が二年で、リョーマが一年の時だ。関東大会初戦でぶつかった氷帝戦を終わった時、初めて大和に会った。その時、奇妙に訳知り顔でリョーマにそう告げた大和祐大は、何の事はない。彼も井上と変わらぬ越前南次郎のファンだった。そしてただのファンではなかったのだと知ったのは、去年の正月の事だった。彼も随分先を見据えているのだと思えば、流石手塚が尊敬する人物だとも思えた。
 ポタリと、アルバムの上に水滴が弾けた。その時初めて、桃城は自分が泣いている事に気付いた。
「何だよ、俺もまだまだだな」
 静かな国際線には、ビジネスマン姿の人間が多い。隣の席は空席で、桃城は誰に遠慮する事もなく、涙を流し、フト小さい窓を見た。
 流れて行くのは蒼い空ばかりだ。何処までも続く綺麗な蒼。この空の下、リョーマはテニスをしているだろう。
 類い稀な蒼。色素の薄い完成されてはいない未完成なその蒼が、桃城は何より綺麗だと思った。身の裡に眠れる獅子を飼い、まっすぐ正面を見据える蒼。その蒼が完成される時は、きっと彼が世界の頂点に立つ時だ。それもきっとそう遠くはない未来だろう。だから今、離れていく事を、どうか許してほしいと、夜桜の中。吐き出されたリョーマの激情に塗れた涙を思い出し、桃城はそっと呟いた。
「愛してるよ」
 そう言えば、面と向かい告げた事はなかったのかもしれないと、今更思えば、苦笑しか湧かない。リョーマが吐き出したあの激情の中でさえ、自分は告げなかったのだから。
けれどきっとリョーマは、そんな言葉など欲しがる事はないだろうから、桃城は遠く続く空の蒼に、呟いた。















 鋭い打球が弾け、リョーマは淡々とコートを出て行った。
周囲のざわめきも何もかも、今のリョーマの耳には入らない。このテニススクールに通う者で、リョーマの名前を知らない者は存在しない。既にリョーマは、中学テニス界ばかりか、高校テニス界でも一目置かれる存在だ。以前のリョーマなら、そんな周囲の喧騒や安易な称賛など、鬱陶しいものでしかなかっただろうが、今は違う。大して気にはならなかった。どう言っても、そういうものは否応なく付いて回るものだと、有る意味、諦めと同時に悟ったからだ。
 だからリョーマは淡々とコートを出るとベンチに向かい、ペットボトルに口を付けた。


『お前、ファンタばっか飲んでるなよ』


 そう言いながら、ファンタを奢ってくれた悪党はもう居ない。だからリョーマが今口にしているものは、桃城が好んで飲んでいたポカリスエットだ。
「これだって、相当甘いじゃん」
 悪態を吐き、そんな時、小さい音が聞こえる気がして、リョーマはフト空を見上げた。
白い雲が淡く遠い色を霞ませる中、小さく飛び行く鉄の塊が映る。それを見た瞬間、リョーマは走り出しそうになっていた。それを必死に意思の力で押しとどめた。
 莫迦莫迦しい事だ。あの鉄の塊の中。桃城が乗っている事はない。
 もしも、なんて考えてみる。もし、青学に入らなかったら、もし桃城に出会わなかったら、日本に来なかったら。今自分はこの場所に立っている事はない。きっとテニスの楽しさも、人を想う優しさも痛みも何も知らず、きっとつまらない人間になっていただろう。触れ合う位置から生み出される感性も知らず、ただ周囲の安易な称賛に憎しみさえ覚え。もし、桃城に出会う事がなかったら、人を愛する事も知らなかっただろう。
「ねぇ?」
 頭上をもの凄いスピードで遠ざかる鉄の塊を視線で追い掛け、リョーマは笑った。
「俺は追いつくから。ちゃんと辿り着くから。あんたは其処で、待ってて」
 遠く綺麗な夢のような蒼。様々な色が交じり合い出来上がる空の蒼。空の色みたいだと笑った悪党には、一体どんな風に自分の眼の色は映っていたのだろうか?完成されてはいないだろう色素の薄い蒼は。
「一年なんて、きっとアッと言うまだよ」
 だから追いついて辿り着いて、そして追い越してみせるから。
リョーマは笑うと、細い腕を空に向かって伸ばした。指の隙間から零れる光。その手の中に未来を掴み取る為に。