赤い月
act1










「オイ、リョーマ、お前、顔色悪いぞ」
 朝から疲れた様子で自室からリビングに姿を現したリョーマに、早朝から横着に縁側で寝転がり、新聞を読んでいた南次郎が、珍しく飄々とした揶揄を滲ませない生真面目さでリョーマに問い掛け、攅眉する。
 帰国してから、見る事の少なくなっていた、リョーマの表情の落ちた貌の内側を、南次郎は思い量る。尤も、量った所で、察する程度の理解にも程遠い部分しか、判らなかった。眼に見えない部分に残された疵は、リョーマの華奢な外側からは、一切、何一つ見えてはこないものだ。
 アメリカでリョーマの身に起こった事実に、心理療法の進んでいるアメリカは、けれどリョーマにとって良い影響を与えない事を誰より早い段階で見抜いた南次郎は、リョーマが中学入学と同時に帰国する事を決め、恩師の竜崎の元にリョーマを託す形で、青春学園中等部に、本人の意思は無視して放り込んだ。
 入学に関し、何の相談もなかった父親に、最初こそ怒っていたリョーマも、通学し始めてその怒りは収まってきていた。
 事件以来失ってしまったリョーマの笑顔は、青学テニス部に入部してから、徐々に取り戻されていたから、南次郎も彼の母親も、安堵していたのだ。
 南次郎に世界の在処を示した竜崎の元で過ごす生活は、リョーマを少しずつ癒してくれたのだろうと。けれど実際、心の疵がそんな簡単に消える事はないのだと、南次郎は表情のないリョーマの顔色の悪さを見て、改めて思い知った気がした。それでも明確な心配を、南次郎が言葉に出す事は少ない。それは、言葉にした時点で、リョーマを追い詰める結果になる事を、正確に理解しているからだ。
「別に………」
 享楽的な飄々さばかりを全面に押し出しているくせに、目敏い父親の視線に、リョーマは内心舌打ちすると、いつもの一本調子の声で答えた。
 甦った悪夢に、リョーマは眠る事などできなかった。眠ればまた終わりのない悪夢に苛まれそうで、恐ろしかった。ただそれだけが救いの言葉だとでもいうように、一晩中、桃城の名前を呟いていた気もするが、記憶は何処か不鮮明で、混濁している。実際、救いなど有りはしないと、リョーマは嫌と言う程知っている。
 何度も何度も叫んで悲鳴を上げ、哀願を口にして、結局救われなかったのだ。嫌と言う程、リョーマは現実を突き付けられ、絶望にも慣れてしまった。けれど実際慣れた筈の絶望も、桃城と言う存在の出現によって、失う怖さを覚えてしまった。それが更に絶望を深めて行く事を、リョーマは昨夜の悪夢で思い知らされた。
 今思い出しても、全身が鳥肌を立て、総毛立つ懍慄さが生々しい程だ。甦った悪夢に、リョーマは桃城の顔を、正面に見る事はできない気がした。罪悪と後ろめたさと、そして幾重かの恐怖が付き纏う事は、認めない訳にはいかなかった。悲鳴にならない悲鳴を上げ飛び起きて、桃城だけは大丈夫などと言う根拠は何処にもないのだと、思い知らされた気がした。
 幾人もの男に犯された躯。逃れられない疵を持っているのだと桃城が知ったら、どうするかなど、考えなくても判る事だ。余程の物好きでもなければ、離れて行くだろう。
 アノ事件以降、他人との接触が怖かった。無表情の内側に常に他人を警戒し、そして恐怖し、極力接触を拒んできた。犯された半年は、それこそ立ち直れない絶望を味合わされた。
 南次郎の伝で入院した病院で、繰り返された悪夢。
終わらない再生ビデオを、不鮮明な画像で見せつけられているかの様だった。その都度浅い眠りの中で悲鳴を上げるリョーマに、泣き出しうな表情で、抱き締めていた母親を思い出す。
 自分と同じくらい、両親は傷付いただろうと、今なら冷静に思えるリョーマだった。
泣き出しそうになりながら、必死に泣くまいてとして、自分を抱き締めてくれた母親の細い腕。いつでも飄々とした態度を崩さない南次郎が、無精髭を生やし、憔悴していた。
 もしかしたら、両親は自分以上に傷付いただろうと、今なら思える。
守るべき子供を守れなかった両親の呵責。現に、南次郎には隠し事はできない。無表情の下に這う、悍ましい悪夢を適格に言い当てられた気がした。それでも、明瞭な言葉を突き付けて来る事はなかった。常に飄々とした態度を崩さない感触が伝わって来るから、尚更、言えない気がした。
 両親を気遣う程度には、周囲の状況が見えるようになった分だけ、少しでも立ち直ったと思いたかった。けれどそれは実際、上辺だけだったのだと、悪夢で思い知らされた。
 もう二度と、誰かと想いを交わす事などできないと思っていた。そんな感情は、もう誰にも持てないと思ってきた。誰とも、分かち合えるものはないと思っていた。けれど桃城に告白され、別に嫌いじゃないと応え、反面、リョーマは内心桃城の告白に嬉しさを感じていたから、想いを交わす感情と言うものを思い出していたのかもしれない。けれどそれは同時に、悪夢を再生させたのと同じ事になってしまう、薄氷の上に立つ脆弱なものを意味していた。いた事を、リョーマは今実感として理解した。
 頭上で輝く赤い月。生温い夏の風。背より高い叢。下肢を引き裂く激痛に、喰われると思った。壊されると思った。けれど実際喰われ壊されて行くのは、これからなのかもしれないと、慣れた筈の絶望に、リョーマは口唇を噛み締める。 
「………桃先輩……」
 右手が無意識に左手首を握り締める。縋るように呟かれた小さい声は、リョーマの意識にはなかった。
 近付きたいと願った距離は、けれど実際は遠のくばかりで、これからは手も届かない場所に追いやられてしまうだろう。それはリョーマには、確信に近い、身震いする程の予感だった。誰かに感情を預けたいと願いさえしなければ、きっとゆっくり忘れていけるものだったのかもしれない悪夢。
「そろそろ、桃先輩が来るんじゃないのか?」
 ダイニングで呟いたリョーマの声は、南次郎には届かない。けれどまるで読唇術でもできるかのように、南次郎はその名を口にした。した瞬間、華奢な躯が慄えたのが判った。同時に、南次郎の視線が、左手首に伸び、何とも言えない表情を半瞬だけ浮かべた。
 南次郎には、薄々判っている桃城とリョーマの関係だった。元々個人主義の性格をしていたリョーマだったが、事件以来、他人と接触する事を極度に警戒し、そして恐れていた。そんなリョーマが青学に入学以来、笑顔を取り戻し、交遊関係も広がっていた。
 その最たる者が、毎朝リョーマを迎えに来る桃城だと、南次郎は冷静に桃城を観察していた。
 青学に入学し、半月足らずで物好きにも後輩の送り迎えを喜々としているテニス部の先輩。けれど注意してみていれば、桃城がただの先輩ではない事は、かつての青学一の曲者の南次郎には、簡単に見抜けてしまえるものだった。
 事件以来、周囲に無関心なリョーマは、その反面、自分に向けられる視線や言動には敏感になっていたから、桃城の自分に向けられる笑顔が、ただの後輩を思うものではない事は、簡単に判る筈だった。けれど南次郎の眼から見て、リョーマは驚く程、桃城に対して無防備だった。
 他人に警戒心を抱き、接触する事に対して恐怖しか湧かないリョーマにしてみれば、桃城に対しての無防備さは、大した進歩だった。そのまま他人に感情を預ける術を、少しずつ取り戻し、疵を癒して欲しいと願っていた。けれどそれはもしかしたら、リョーマにとっては更に過酷な状況を生み出してしまうものなのかもしれないと、不意に南次郎はらしくなく恫喝される。
「そんな顔してっと、心配されるぞ」
 何気ない顔で新聞に視線を移しながら、南次郎はダイニングテーブルに用意された好物の和食をゆっくりと食べ始めたリョーマを眺め、内心溜め息を吐き出した。
 アメリカ育ちの愛妻は、基本的に洋食が好みだ。しかし事件以降、極力息子の好物の和食を食卓に出す事が多くなった。
 落ちた表情の内側を読む事は、曲者の南次郎でも容易ではない。けれど憔悴している事だけは、嫌でも判る事だった。
 リョーマは最後まで自分を疵つけた人間の名を口に出す事はなかったが、南次郎には言葉に出されなくても、自分の息子を傷付けた相手が誰かの見当は付いていた。けれどリョーマが口を開かない以上、むやみに相手に詰問しても、更にリョーマが傷付くだけだと判っていたから、事件は表に出される事はなかった。
 事件を知っているのは、極小数の人間だけだ。そしてその少数の人間の中には、南次郎の恩師である竜崎スミレも含まれていた。
 竜崎は、南次郎からリョーマの事件を聴き、憔悴しきった様子で、南次郎には無自覚だったのだろうが、彼女が間違える事なく察した教え子からのSOSを放置する事はなく、彼女は電話口で、南次郎に帰国を促したのだ。
 今でも南次郎にとって竜崎は恩師であり続けている。いつまで経っても子供扱いをされる事に腹の立つ事もあるが、それでも、子供でいられる事に安堵できる、数少ない存在だった。
 そして毎日飽きもせず、リョーマの登下校の送り迎えをしている桃城は、リョーマをとても大切にし、互いの微妙なラインと言うものを心得ている様に窺えたから、リョーマの顔色のさえない表情では、心配するだろうと言う事も、想像できた。
「……別に、心配される事ない」
 心配など、今更必要はない。
桃城にも両親にも、誰にも。されたからと言って、何一つ状況が好転される訳ではなかった。それは自棄でも投げやりでもなく、リョーマが両親に対して持つ、一種の後ろめたさだった。
 子供を守れなかった両親が、背負ってしまっただろう呵責。別に、背負う必要も、負い目を持つ必要も何もない。事件以降、必ず食卓に並ぶ和食料理のように、何も負い目を持つ事はないのだ。
 噛み締めるように呟いたリョーマの科白に、南次郎は何一つの言葉は返さなかった。
 そんな時、リョーマを呼ぶ桃城の声が、大きく響いた。







「桃先輩?」
 慌てて朝食を摂ったリョーマは、そのままテニスバッグを片手に、玄関を飛び出した。
尤も、到底昨夜の悪夢によって、食欲などゼロに等しく、大して食べられはしなかったが。そんなリョーマに、桃城は怪訝な顔をし、片手で自転車のサドルを持って、白皙の貌を覗き込んだ。
「お前、顔色悪いぞ」
 リョーマの顔色は、桃城から見れば、ひどく生気のないものに見えたし思えた。
「そうっスか?」
 適格に見抜いてくる桃城に、リョーマは内心舌打ちし、無意識に視線が逸らされる。
甦った悪夢を、悟られたくはなかった。覗き込まれれば、後ろめたさが湧くと同時に、全てを見透かされる恐怖が付き纏う。
 甦ってしまった悪夢は、そのままリョーマに犯された恐怖と痛みを、生々しい苛烈さで脳髄より何より、肌身の上に思い出させ、無意識に近付く人間に対し警戒を抱かせてしまっていた。
「大丈夫か?」
 軽口を叩くリョーマは、それでもいつもの小生意気な悪態とは程遠いように感じられた。
血色のない何処か憔悴した様子。小生意気な態度と軽口を、平然と叩くリョーマとは、一段も二段も違って見える。
 桃城の腕が不意に伸び、リョーマの長い前髪を梳き上げ、白い額に触れた。瞬間、リョーマの姿態が強張ったのが、桃城に伝わった。
「越前?」
 色素の薄い瞳に、一瞬走り抜けた怯えの影を、桃城が見逃す事はなく、怪訝な貌は、更に深まって行く。
 よくよく見れば、リョーマの色素の薄い眼差しは、薄い蒼みがかった色をしている事に桃城は結構早い時期に気付き、尋ねた事があった。
 プライベートを訊かれる事は、きっと好まないいだろうと漠然と判っていたが、色素の薄い綺麗な空のような瞳のルーツを、尋ねたいと思った。その時既に、眼前の小柄で、けれどテニスの腕は自分には追いつけない実力と天性の才を持っている後輩に、心を囚われていたのだろうと桃城は思う。その時リョーマは、半瞬不思議そうな表情をして桃城を見上げ、母親がハーフで有る事を教えていた。何でそんな事を尋ねるのが、理解できない、そんな表情をしていたリョーマに、桃城は苦笑し、そっか、とだけ笑った。
 テニス部の誰より、リョーマとの距離が近い自覚は桃城にも有った。無意識だろうリョーマは、自分を呼ぶ時だけ『桃先輩』と呼ぶ事からも、それは明らかなように思えた。そして気付いた想いに最初こそ戸惑いもしたが、けれど大切にしたいと願ったから、その想いを口に出してしまった。その想いに対し、リョーマは別に嫌いじゃないと答え、だから、この距離からゆっくり初めて、それでいいと思っていた。
 しかし今リョーマが見せた怯えに、桃城は半瞬だけ戸惑いを現していた。怯えを与えてしまうような何かを、含んでいただろうか?
「別に…」
「別にって顔色じゃないぞ。無理するな」
 触れた額は、熱を伝えてはこない。
「丈夫っスよ」
 心配気に覗き込んでくる桃城の双眸を、正面に凝視できない後ろめたさ。思い出した悪夢は、素直な怯えを感じてしまう。怯えなど、桃城に大して持ちたくはないというのに、怯えてしまうのは、あの事件で嫌と言う思い知らされた雄のものではなく、過去を悟られてしまう怯えだと、リョーマ自身判っていた。
 過去の悪夢に全てを喰われ、壊れて行く予感が、足許を喪失させる程、恐ろしかった。
絶望など慣れている筈だったと言うのに、今桃城を失ってしまう事が、何より恐ろしいと思えた。だから、悟られたくはなかった、決してだ。
「仕方ねぇな、具合悪かったら、無理すんじゃないぞ」
 何を言ってもリョーマは頑なになるだろう事が、桃城には漠然と判っていた。だから大仰に溜め息を吐いて見せる。それが合図かのように、リョーマは身軽に自転車の後ろに乗っかった。
「桃先輩と試合できる程度には、大丈夫っスよ」
 軽口を叩き肩に手を乗せれば、いつも通り、桃城はひどく慎重にペダルを漕ぎ出した。
いつも桃城は慎重だ。後ろに座るのではなく、安定感の無い位置に立つリョーマを気遣い、莫迦な程、慎重になってペダルを漕ぐ。そんな桃城を見るに付け、好きだと告げられた言葉の裏に、雄の部分を感じ取れるものは何一つ無かった。
「桃先輩」
 肩に置いた手に視線が伸びる。
幅広い肩、長い腕。自分とは構成されるものが何一つ違う桃城の体躯。触れた掌中から感じる温もりは、視線を合わせれば見透かされる恐怖があるというのに、こうして視線の交わらない部分で桃城に触れていれば、軋む切なさが湧いてくる。 
 一緒でなど、有る筈がない。悲鳴を上げる自分を引き裂く事しか知らなかった雄達とは。
「試合、しよっか」
「アホ。お前顔色マジ悪いからな」
「そう思うんなら、丁度いいんじゃないの?」
「お前なぁ〜〜俺は仮にも先輩だぞ」
 ガクリと脱力してみせれば、背後でリョーマが笑うのが判る。
顔色の悪さに比例し、何処か憔悴している様子のリョーマを見た時、不意に抱き締めたいと思った。リョーマが見せた怯えは、そんな自分の中に潜むナニかを見たのかもしれないと、桃城は思った。
 帰国子女とはいえ、春まで小学生だったリョーマに突然告白して、こうしてゆっくり付き合う関係は、幼いリョーマにとっては、同性で付き合う事事態が未知の領域で、怯えさせてしまうのかもしれない。
 テニスの実力は、それこそ天性の才を持っているのだろう。元々父親がプロ選手だったから、血筋と環境というものが、生まれた時から備わっていたのは理解できる。尤も、其処には当然リョーマの努力と言うものかなければ、才能は決して磨かれはしない。だからリョーマが父親の名に押し潰されながら、努力した結果だと言う事は判る。けれど逆に、リョーマはテニス以外の事には、関心がないように思えたのだ。だから最初はそれが気になった。
 小生意気な態度と軽口は、生来の性格が当然そうなのだろが、実力に裏付けされているからこそできるものだろうとも思えた。けれどリョーマは、テニス以外の事には、呆れる程執着がない。それが何処かしら奇妙に思えた。
 リョーマと一緒にいる一年生トリオなどと比較してみても、テニスの実力は抜きにして、リョーマは子供らしいナニかが、欠落しているように思えたから、桃城はリョーマが何処か危ういと思えたのだ。
 きっとそれがリョーマを気にかけた最初の感情だったのだろうと思う桃城だった。
肩に触れる自分より幾分も小さい手。これでよくあんなスピードのあるテニスができるものだと関心してしまう程小さい掌中と、細い手首。  
 その時桃城の脳裏にナニかが掠めた気がしたが、それは言葉に構造化される前に、霧散していった。
「たった一年早く生まれただけで、俺より少しだけ沢山の事知ってるだけじゃん」
 たった一年早く生まれ、学年が上だと言うだけで、選択もできずに決定させられてしまう事が、この年代には多い。歴然とした力関係というものが、学生間には存在する。そんなものは、実力がものを言う社会にでてしまえば、対した力関係ではないのだろうが、中学生や高校と言う多感な年代には、何より学年が重視される。                
「アホ、それが大事なんだよ」
「フーン」
「まぁ、実力主義で、実際そういう世界にいたお前にとっちゃ、不思議かもしんないけどな」
 アメリカで育ち、プロの父親を持ち、リョーマ自身、アメリカジュニア大会で連戦している以上。年齢に無関係な実力社会というものを、正確に理解しているだろうから、日本の体育会系の縦割り関係というものは、理解できないのかもしれない。
 何せリョーマが今まで身を置いていた社会は、それこそ『勝てば官軍』の世界だ。実力でランキングを上げ、国内ランキング線を勝ち抜いて行く世界。リョーマが帰属していた世界はそういう社会なのだと、桃城は知っていた。
「桃先輩も、大概変だよ」
「何だ?そりゃ」
「後輩に、此処まで言われて怒らないってのもね」
 普通怒るだろう。桃城と同級の荒井など、その典型だろう。何より、リョーマの入学式当日、新入生相手に、莫迦をやらかした相手だ。
「確信犯のお前が言うな」 
「別に、確信犯なんかじゃなっいっスよ」
 軽口でも叩いていないと、悪夢を思い出してしまいそうで、堪らなかった結果だ。そしてやはり確信犯なのだろうと、リョーマはこっそり内心で呟いた。
 桃城に大切にされている事など、告白される以前、案外早期に判っていた事だ。それがどういう意味に於いてか定かではないとしても、自分の内側の桃城の位置が特別なように、桃城の内側でも、自分は他の後輩とは意味合いが違うだろうと、リョーマは気付いていた。
 けれどまさか、付き合う関係になるとは思えなかったし、実際自分が受け入れられるとは、リョーマ自身、思えなかった。それでも、こうして付き合って、そしてもう悪夢を思い出して身震いしている。決して桃城には悟られてはならないし、悟られたくは無かった。けれど、離れていく事などできない矛盾。きっと近い内に、この曖昧な関係は破綻するだろうと、リョーマは無意識に、幅広い肩に置いた手に力を込めた。
「越前?どした?やっぱ気分悪いか?」
 肩に置かれている指先に、一瞬力が籠った事が判る。
「別に」
 軋む程の切なさと、残酷な程の優しさが、胸に痛かった。
 残暑の厳しい夏の終わり。それでも早朝の空気は真夏のうだる生温い熱さから、少しずつ秋の清涼なものを運んでくる。
桃城の体温に触れ、リョーマは今にも泣き出しそうな表情をして、口唇を噛み締めていた。