Famme Fatare

Little Lady
act1




 深まる季節に比例し、ゆっくりと色を変えていく自然の移ろい。赤や黄色に染まった樹々に落ちる陽射
は、淡い光を柔らかく散らし、マナーハウス全体を悠久にも似た琥珀色に包み込む。
 土の上に落ちた色とりどりの葉が、まるで絨毯のように敷き詰められた光景は、深まる季節の移ろい
を如実に物語っている。
 人の手に寄らない無為たる自然の光景は、一つとして同じものが存在しない。役目を終え落ちた葉は
腐敗し土に還り、新たに樹を育てる糧となる。自然の中で繰り返される循環に、無駄なものは一切存在
しない。それぞれが役目を持ち、その役目を終え、静かに土へと還る。その移ろいは脆く儚い反面、逞
しいくらいに綺麗で合理的だ。
「シエル〜〜もう、そんなに燥ぐと、また熱が出るわよ」
 病弱な自分の体質を受け継ぎ、数日前まで喘息の発作を起こして伏せっいた我が子は、けれど病弱
なくせに勝ち気で好奇心が強く、人見知りな反面、興味のあることには後先顧みない一面が存在する。
発作が治まった途端、生来のお転婆を発揮して、シエルは従姉妹のエリザベスと、真っ黒い大型犬の
セバスチャンと戯れ、秋色した庭の中をあちらこちらを駆け回っては、一時もじっとしていなで楽しそうに
している。
 そんな我が子に、母親であるレイチェルと、レイチェルの妹であり、シエルの主治医でもあるアンジェリ
ーナは、柔らかい苦笑を覗かせ、枯れ葉の散る庭に置かれた椅子に座り、子供達の無邪気な様子を眺
めていた。
「シエルは元気ね〜。姉さんの子供の時にそっくり」
 枯れ葉を両手一杯に拾い上げては、それをひらひらと散らして喜んでいる無邪気な姪は、数日前まで
喘息の発作を起こしていたとは思えない元気さで駆け回っている。それは幼い頃の姉の姿と瓜二つだ
と、マダムレッドの脳裏に幼い頃の記憶が甦る。
 姉のレイチェルも幼い頃はよく喘息の発作を起こし、伏せっていることが多かった。細面で色白の姉が
発作を起こして伏せっていると、更に顔色は蝋のように白く染まり、このまま死んでしまうんじゃないか
と怖かった。そのくせ姉は何処までも気丈で、苦しい発作の最中も苦い薬を我慢して服用し、泣き言一
つ言わなかった。そればかりか、泣きそうになって付き添っていた自分を気遣い、いつも優しく頭を撫で
てくれた。病弱であることと、性格の脆さは比例しないと、姉を見ていると実感として理解できる。例え
病気で心が弱くなってしまったとしても、生来の勝ち気さを失わなかった姉は、自分で倖せを掴み取っ
た。その生来の強さを羨ましく思う反面、時折羨望の入り交じった嫉妬も感じてしまうのは、初恋の相
手が姉を選んだからだ。けれど姉には、誰よりも倖せになって貰いたいと願う気持ちも嘘ではないのだ。だから病弱な姉が姪を生んだ時は本当に嬉しかったし、その分娩に立ち会った時は、本当に感動した。おそらくあの瞬間がなければ、自分が医師として今自立していることはなかっただろうことを、マダム
レッドは正確に理解している。
 姉の遺伝を受け継いだ姪は、時折喘息の発作は起こすものの、姉とそっくりで発作が治まるとベッド
で寝ているのは嫌だとばかりに庭で遊びたがり、今は元気に遊んでいる。それは何処までも穏やかな
秋の光景だった。
「懐かしいわね〜〜私達もよくああやって遊んだわよね」
 枯れ葉の絨毯と秋色に染まる木の葉。まるで悠久にも似た琥珀色の美しい季節は、感傷的になると
同時に、何処か優しい気持ちになれる気がした。それは人の温もりが恋しくなる季節だからなのかもし
れない。
「シエル、もうその辺りにしなさい。今夜はハロウィンなんだから、無理したら熱が出るわよ」
 言外に、そうしたら楽しいハロウィンパーティーはお預けよと告げれば、その意味は理解したのだろう。シエルはハーイと舌足らずな返事をして、エリザベスと手を繋ぎながら、母親と叔母の元に戻ってくる。
「もうじきお父様がお帰りになるわよ。そうしたらパーティーの支度をしないとね」
「お父様、やっと帰ってくるの?」
 ここ一週間あまり父親のヴィンセントは所用でロンドンのタウンハウスに赴いていて、マナーハウスに
戻っていなかった。その父親が漸く戻って来るのに、シエルは素直に喜び、母親に抱き付いた。
「今回は長かったわよね」
 女王の番犬という裏の顔を持つ姉の夫は、その裏の顔とは裏腹に、愛妻家で子煩悩だったから、滅
多なことでは妻子だけを残して一週間もマナーハウスを留守にすることは稀だった。その義兄が今回は
一週間、ロンドンのタウンハウスに赴いていたことが、マダムレッドには少しばかり不思議だった。
「会社の用事で、どうしても手が離せなかったらしいのよ」
 ころころと銀鈴を転がす玲琅さで笑うと、レイチェルは抱き付いてきた愛娘の頭を優しく撫でてやる。
「それに今日はお客様もお連れするって言ってたし。その方と会っていたのかもしれないわね」
「お客?」
 愛妻家で子煩悩なヴィンセントは、病弱な妻と子供のことを思い、滅多に屋敷を長期で明けることもな
ければ、貴族にありがちな夜会を盛大に開くことも殆どないから、ハロウィンに客を招くとは初めてのこと
だ。大抵は極々身内の人間を集めてパーティーを開くことが殆どだ。その彼が客人を連れて来ると言う
ことは、余程大事な客人で、妻子に紹介しておきたい相手なのだろう。
「お父様、お客様連れてくるの?」
 屋敷に他人を連れてくることが殆どない父親が、客を連れてくることは珍しいから、シエルはサファイ
アブルーの瞳をキョトンと見開き、愛らしく小首を傾げた。
「伯父様がお客様連れてくるの?珍しい〜〜」
 艶やかな毛並みが美しい、靭やかな漆黒の大型犬と戯れながら、エリザベスが無邪気に笑う。
従姉妹のシエルと遊ぶ為、頻繁に屋敷に出入りしているエリザベスも、伯父が客人を連れてくることは
殆ど初めてのことで、シエルの愛犬のセバスチャンの毛並みを撫でながら、眼を輝かせている。子供心
にも、伯父がどんな客を連れてくるのか、興味があるのだろう。
「昨日旦那様から連絡がありましたよ。お嬢様に引き合わせたいお客様がいらっしゃるとのことでした」
「私と?」
 好好爺とした印象の強い家令のタナカが笑い掛けると、シエルは小首を傾げて不思議そうにタナカを
見上げた。
「シエルと引き合わせたい相手って?」
 タナカから姉へと視線を移すと、レイチェルもその相手は知らされていないのか、ニッコリと笑って細い
首を横に振った。
「私も旦那様がどなたを連れてくるのか聴いてはおりませんが、今後の為にも、お嬢様と引き合わせて
おきたいとお仰っておりましたので」 
 とは言え、当主のヴィンセントが誰を客として招いたのか、大体の予想がタナカには付いていた。それ
は決して口には出せないものの、今後を考えるなら、シエルと顔合わせはしておく必要のある相手だっ
た。
「男の人?女の人?」
「殿方と伺っております」
 エリザベスがエメラルドの瞳をきらきらと輝かせて見上げてくるのに、タナカは好好爺とした笑みを崩さ
ずに口を開いた。
「キャ〜〜男の人だってシエル!素敵な人だといいわね!」
「まったく、子供でも女は女ね」
 従姉妹に抱き付き喜ぶエリザベスに、シエルは従姉妹が何故そんなに喜んでいるのか理解できず、
やはりキョトンと小首を傾げている。
「でも、シエルには未だ判らない様子ね」
 エリザベス程に興味がないのか、キョトンとしているシエルに、レイチェルとマダムレッドは互いに顔を
見合わせ、苦笑する。
「素敵な人って?」
「シンデレラやオーロラ姫に出てくる王子様みたいな人。素敵にハンサムで恰好いい人よ」
 いつか白馬に乗った王子様が、私を迎えに来てくれるの。瞳をきらきらと輝かせて、何処か夢でも見
ているかのような従姉妹に、シエルは『フーン』と、あまり興味ない様子で生返事をすると、エリザベス
はもうシエルってばと、ぎゅうぎゅうと抱き付いた。
「苦しい、リジー」
「ああん、でもシエルには、素敵な婚約者がいるから、王子様は必要ないのね〜〜」
 婚約者の三文字に、途端にシエルは何処か苦い様子で眉を寄せた。
「シエルは、彼はお気に召さない様子ね」
 姪の苦り切った様子にマダムレッドがくすくすと笑えば、その隣でレイチェルが苦笑する。
「婚約者って言っても、ままごとの延長線の話しだもの」
 時折屋敷に訪れる子爵が連れてくる子供が、たいそう娘を気に入り、将来は花嫁に〜〜と言った他
愛ない話しが、何故かそのまま婚約者という話しに繋がってしまっただけの話しで、実際貴族同士の繋
がりとしての閨閥の意味も持たない、子供のままごとの延長線の戯言に過ぎない。婚約者として、正
式に両家で取り決めをした訳ではないのだ。
「まぁ、悪い子だとは思わないけど、シエルの相手にどうかって言うと、かなり迷うわね」
 装飾語が華美な傾向にある子供は、些か頭の作りがどうにかなっていないか、時折その言動が心配
になってしまうが、総じて見れば、まぁ無難な点には違いないだろう。少なくとも姪に対して一途なのは
評価できる。但し、華美な装飾語がなまじっか女を喜ばせるポイントを稼いでいるから、将来フェミニスト
で、女タラシになる可能性は高確率だろうことも想像に容易い。
「ああ、旦那様がお戻りになりましたよ」
 黄昏色に包まれた午後の陽射の中、馬車の音がゆっくりと近付いてくる。家令のタナカは主人を迎え
るべく、シエル達に一礼すると、ゆっくりと馬車が停まる玄関前まで戻っていく。その後ろ姿を見送りな
がら、エリザベスが興味津々といった様子で、相変わらず瞳を輝かせていた。







□ □ □





「お帰りなさいませ、旦那様」
「ただ今、今回ちょっと長く留守したけど変わりは?シエルは喘息の発作を起こしたって聴いたけど、元
気になったみたいだね」
 出迎えたタナカに莞爾とした笑みを見せると、ヴィンセントは庭先から聞こえる元気な声に、柔らかい
微苦笑を刻んだ。
 タウンハウスに行く少し前、一人娘は風邪を罹いて微熱を出し、どうやらそこから喘息の発作を起こし
たらしいが、大したことはなかった様子で、元気にはしゃぐ声が聞こえてくるのに、ヴィンセントは柔らか
い笑みを覗かせた。
「エリザベス様とアンジェリーナ様がお見えになり、賑やかでございますよ。シエル様は今夜のパーティ
ーを、とてもお楽しみのご様子で。これからお支度しようと思っておりました」
 それとと、タナカは馬車から降りてくるもう一人の人物に視線を向けた。
「旦那様がお客様をお連れすると伝えましたら、特にエリザベス様がお楽しみのご様子で、先程からお
待ちです」
「おやおや、シエルじゃなくって、リジーがかい?」
 馬車から降りた男に視線を向けると、ヴィンセントは肩を竦めて見せる。妹のフランシスの娘であるエ
リザベスは、何処か硬質な印象が強い妹とは裏腹に、賑やかで砂糖菓子のような少女だ。
「私の次にファントムハイヴを引き継ぐのはあの子だから、そろそろ引き合わせておこうかと思ったんだ
けど」
「英国の制度では、女性は爵位は継げないのでは?」
 ヴィンセントに続いて馬車から降りた男が、ひんやりと小さい笑みを覗かせる。
「それはね、どんな世の中も、持ちつ持たれつの例外はあるから、だよ」 
 どんな世界でも、例外というものは存在する。綺麗事だけでは回らないのが世の中だ。そして例外中
の例外として、ファントムハイヴ家も存在する。特に英国の貴族社会に於いて、ファントムハイヴ家は、
存在自体がファントムと呼ばれるに相応しい家系と言えるのかもしれない。
 女王の番犬として、王室の穢汚を一手に引き受け、裏社会の巨大なチカラを使役している王室の鏡
像。その存在は、まるで水面に浮かぶ月と同じで、そこに在るけれど触れることは叶わない。そういう意
味で、ファントムハイヴ家は幻影と意味は同じだ。そしてだからこそ、爵位を継ぐ当主が不在では困るの
だ。そして困るのは、ファントムハイヴ家を掃除屋として存在させている王室の方だろう。
 王室の穢汚を引き継ぐ、裏社会の王という立場を欲する莫迦は多いが、誰もが簡単に勤まる訳では
ないから、当主不在で困るのは王室だ。法が陽の当たる場所でしか機能しない以上、表の法に成り代
わり、裏社会の秩序を保たせることのできる人間が必要不可欠なのだ。それでなくては裏のチカラが表
を浸蝕し、抗争が起きることになる。そうならないようにする為、ファントムハイヴ家は歴史の裏側で、脈
々と存在し続けているのだ。
「それはそれは、とても貴族らしい発言で安心しましたが、眼に入れても痛くない程、大切になさってい
るご令嬢を、時期当主になさる覚悟が貴方にあるとは思いませんでしたよ」
 愛妻家で子煩悩。裏社会の王と言う二つ名を持つ男は、莫迦みたいに一人娘に甘い父親だ。そのヴ
ィンセントが、よく次期当主を令嬢に据える気になったものだと、内心で感心する。
 女王の番犬、裏社会の王、悪の貴族。指し示される通り名は多々あるものの、要は血腥い裏仕事に
従事するという意味だ。
「目に入れても痛くない程、大切になさっているご令嬢を差し出すとは、貴方も見上げた忠犬ですね」
 流石女王の番犬ですねと嘲笑すれば、ヴィンセントは物腰柔らかい貌に不釣り合いなくらい、性質の
悪い笑みを浮かべて口を開いた。
「その為の君だろう?我が家の歴史を誰より知る悪魔。君はファントムハイヴ家の歴史そのものだから
ね」
 連綿と受け継がれてきた血の業。まるで王室の鏡像のように、その穢汚を引き継ぐことを宿命とする
一族は、その代価のように悪魔をも魅了する一族だった。
「血濡れた家系の濃い血は、私達悪魔にはこれ以上ない程の甘露。貴方がた一族の持つ黄金律の魂
は、それだけの価値がありますよ」
 魔を惹き付け、魅了する一族。悪魔間でも噂になってしまうくらい、ファントムハイヴ家一族は、悪魔好
みの魂を保有していることで有名だった。それは裏を返せば、指先一つで悪魔召喚をできる一族として、名高い意味を持っていると言うことだ。それも低級ではない、高位の悪魔を簡単に召喚し、操作する
術も心得ていた。そうして代々の当主は、悪魔と契約して裏社会を、引いては王室にさえ気付かせない
くらいあっさりと、英国という国を手中に納めている。その手際のよさと、周囲に気取られない遣り様は、
この一族の持つ業と引き換えのようなものだろう。そしてそんな血の業が気に入って、かなり以前から、
歴代のファントムハイヴ家当主と取引してきた。当主が交替する都度契約を更新し、代価と利害を取り
交わし。ここ数百年、この一族が契約している悪魔はたった一人だ。もしかしたら、召喚するのさえ面倒
だと思っているのかもしれない。代々悪魔を召喚する術を後継に引き継ぐくせに、手間を惜しむのもこの
一族の特徴だ。
「だったら、あの子も頼むよ。あの子はおそらく、歴代当主の誰よりも、その才能があると思うよ」
「ご令嬢が?」
 単なる親バカとは思えない意味深な科白に眉を顰めると、ヴィンセントは更に意味深な笑みを重ねた。
「あの子はね、自覚していないけど、推理が得意なんだよ」
 従姉妹のエリザベスが、童話の中のお姫様に自分を投影し、いつか王子様が現れるの〜〜と夢見が
ちな発言をしている隣で、シエルは推理小説を読んでいるような子供で、どうせ会えるならホームズが
いいと、ボソリと呟いては、周囲の苦笑を買ってしまうような子供だ。
「裏社会の王の発言とは思えませんね。小説は所詮何処までいっても紛い物、架空の世界ですよ。温
室育ちのご令嬢が、本物の悪意に触れて無事でいられるとは思えませんが?」
 伯爵家の、それも名門とされる貴族の幼い令嬢が、人の悪意や憎悪に触れることはないだろう。両親
の愛情に包まれ育っている子供は、誰もが自分を愛していると思っている筈だ。そんなに子供に、人の
悪意を直視するような裏社会の王が勤まるとは到底思えない。
「それはあの子自身の資質の問題だからねぇ」
 何処までが本気で、何処までが冗談か。軽やかな口調は不明瞭すぎて、その境目はひどく曖昧だ。
悪魔をしても時折このヴィンセントの科白は、判断に迷う一面がある。
 物腰柔らかい柔和な外見とは裏腹に、伊達に裏社会の王と畏怖されている訳ではない男の裏の顔
は、大切にしている妻子には決して見せない冷徹な一面が存在する。ニッコリと笑って人を切り捨てる
ことなど造作もない。そのくせ軽やかな苦笑は何処か楽しげで、簡単に手の内を悪魔にさえ悟らせない。
「それにさ、君も死神に魂持って逝かれるのは面白くないだろう?」
 意味深に笑うヴィンセントの視線に、まったくこの人間はと、深々と溜め息を吐き出して、半瞬だけ遠
い眼をした。
「歴代当主の中でも、貴方ほど、性質の悪い当主はいませんでしたね。悪魔ばかりか死神さえ手懐け
て。これでは他の悪魔と二重契約していたとしても、可笑しくはありませんね」
 やれやれと大仰に溜め息を吐き出せば、ヴィンセントは可笑しそうに笑った。
「まぁ、できなくはないけどね」
 でもそうしたら君は前代未聞の悪魔認定だよねと、にっこりと笑う性質の悪さを、この男の妻子は永久
に知ることはないのだろう。いっそいつか機会があったら、見せてやりたいとさえ思うくらい、ヴィンセント
の性質は、悪魔から見ても享楽的だった。短い人間の生命を甘受し、謳歌している。
「私の魂は死んだら好きにしていいから、精々葬儀屋と張り合ってごらんよ」
 長い銀髪を揺らし笑う葬儀屋は、死神の中でも伝説の存在で、唯一死神の釜を持つことを許されてい
る男だ。
「貴方のような人間は初めてでてよ。流石悪魔をも手玉に取るファントムハイヴ家当主ですね」
「おや、その科白から察すると、君は私に手玉に取られていたんだ」
 それは初耳だなと、ヴィンセントは嘯いて笑う。
「判りました、ご令嬢のことは、今日吟味させて頂きましょう」
 契約の継続作業は、ただ漫然と行われてきた訳ではないのだ。その都度相手を値踏みし、自分が契
約するに相応しい相手か、仮初にも悪魔の主人に足る人間か、値踏みし秤に掛けられる。そうして歴代
当主は悪魔と契約を更新してきたのだ。それはヴィンセントも例外ではなかった。
「皆様中庭にいらっしゃいます」
 馬車から降りて中庭へ歩く道すがら、まるで長年付き合ってきた友人と話をするような2人の会話を背
後で聴きながら、タナカは半分呆れ、半分感心していた。
 悪魔と人間。捕食者と獲物。その関係が、会話だけを聴いていると、何とも他愛ないものに聞こえる
から不思議だ。それなりに物騒な会話の中身だというのに、二人の口調は軽口を叩き合う程度のノリで
しかない。まるで気心の知れた友人同士の会話だ。案外と、気が合っているのかもしれない。
 飄々とした主人は、大切にしている妻子に見せない裏の顔を隠し持つ男だから、案外と人外の者との
方が、気安いのかもしれない。
「お父様〜〜」
 中庭に回った途端、愛らしい声が聞こえるのに、ヴィンセントが柔らかい視線をシエルへと向けた。  
 琥珀色の陽射に包まれた光景の中、長いブルネットの髪を揺らして父親に駆け寄ってくる愛らしさ。
両親や周囲の人間に惜しみない愛情を注がれているのだろう。まっすぐな性質が伺える。
「ただいまシエル、お母様の言いつけをちゃんと守って、いい子にしていたかい?」
 駆け寄ってくる愛娘を抱き上げれば、ブルーのドレスがひらひらと揺れる。その足下には、漆黒の犬が
主の隣に佇む人影をまっすぐに見上げている。
「お帰りなさい、伯父様〜〜」
「お帰りなさい、あなた」
「今回は長かったのね義兄さん、こんにちは」
「ただいま。アンにはまたシエルが世話になったようだね」
 妻の妹であり女医でもあるアンジェリーナは、シエルの主治医で、病弱なきらいのある娘を何かと気
遣って屋敷に出入りしている。
「熱も下がったし、発作らしい発作もなかったし、もう大丈夫」
 今夜のハロウィンパーティーを楽しみにしていた所為か、普段よりシエルは聞き分けよく2日間はベッ
ドの住人になっていた。尤もそれは2日間だけで、熱がひいたら遊びたくて仕方ない様子で、見舞いに
来ているエリザベスと一緒に屋敷内を遊び回っていたという顛末が付く。
「今日は皆に大事なお客様を紹介したくて、お連れしたんだ」
 シエルを降ろすと、ヴィンセントは隣に佇む長身に視線を動かし、それから家族に視線を移した。
「ミカエリス伯爵。我が家とは古い付き合いがある方だよ」
 ご挨拶しなさいと、シエルの小さい頭を撫でてやると、シエルは深いサファイアブルーの瞳を瞬かせ、
父親の隣に佇む長身の男を見上げると、次にはにっこりと笑い、優雅な仕草でドレスの裾を摘んで、レ
ディらしく微笑んだ。
「ごきげんよう、ミカエリス伯爵。シエルです」
「こんにちは、小さいレディ」
 年齢より幾分華奢で小柄な姿は愛らしく、裏社会の王たるヴィンセントが親バカになるだけのことはあ
る。優雅に会釈する振る舞いは、貴族のレディらしく、幼い中にも洗練された美しさが備わっている。幼
いながらに洗練された断ち振る舞いは、薫るような物腰をして、陽射に透けた花片の淡さを思わせる。
 膝を折って目線を合わせると、シエルは長い睫毛を瞬かせ、正面の男をじっと見詰め、それから小首
を傾げてニッコリと笑った。父親譲りの闇に沈み込みそうなブルネットの柔らかい髪が、その瞬間フワリ
と舞い、深まる秋色の光を散らして綺麗に揺れる。
「ミカエリス伯爵のお名前は、なんて仰るの?」
「名前、ですか」
 長い睫毛に縁取られたサファイアの双眸が覗き込むように見詰めてくるのに、男は沈吟すると、大き
い手で柔らかいブルネットの髪を梳き、やんわりと笑って口を開いた。
「リトル・レディは、私にどんな名前が似合うと思いますか?」
「似合う名前?」  
 問われた言葉に、シエルはキョトンと不思議そうに端正な貌を凝視し、次には足下におとなしく佇む黒
く大きい犬を見詰め、再び正面に視線を移すと、
「セバスチャン」
 愛らしい声で笑った。その言葉にヴィンセントは肩を振わせ笑いを怺え、母親のレイチェルやマダムレ
ッド、エリザベスは唖然とした表情でシエルを見詰め、家令のタナカだけが、ホッホッホっと、好好爺とし
た笑みを湛えていた。
「セバスチャン、ですか?」
 それが愛犬の名前だと言うことはすぐに知れた。吠えることなく、まっすぐ漆黒の眸を向けてくるシエ
ルの忠犬は、上級悪魔相手に、挑むように、それでいて物静かな貴族のように、端然と見ているからだ。まるで計るような眼をしている。
 人間より異質な者を捕らえる嗅覚や本能が発達している動物は、悪魔の中でも高位の存在で在るセ
バスチャンを見れば、畏怖と畏敬で恐慄し、平伏すのが普通だ。けれどシエルの愛犬は違う。吠えるこ
ともなければ恐れることもなく、計る目をしてセバスチャンを見ている。犬の分際でとは思うものの、その
度胸は気に入った。
「シエル、お客様に失礼よ」
 レイチェルが慌てて『ごめんなさい。ご気分悪くしないで下さい』と謝れば、セバスチャンは貴族らしい
振るまいを崩さず、優雅な物腰でやんわりと笑ってブルネットの髪を梳いてやる。そうして隣で必死に笑
いを怺えているウィンントに苦虫を噛み潰したような視線を向けると、
「笑いたかったら、笑ったら如何ですか」
 と溜め息を吐き出した。
「レディ、何故私は貴女の大切になさっている愛犬と同じ名前なんでしょう?」
「セバスチャンは、私のナイトなの」
 足下に伏せている愛犬の名前を話してはいない筈だと言うのに、確信を持って問われた科白に、シエ
ルは半瞬驚いてキョトンと小首を傾げた。けれど正面で笑う男にとっては、そんなことは別段問題になる
ようなことでもなく、造作もなくできるんだろうなと、シエルは何となく思った。
 父親より背も高く、落ち着いた物腰は父親と同じ匂いを持っている。何がということなく、感じることが
できるのだ。
「はぁ……犬がナイトですか」
 迷いのない即答に、セバスチャンの隣で更にヴィンセントが肩を顫わせ笑いを怺えているのに、セバ
スチャンは内心で『笑いたかったら、笑え』と忌ま忌ましげに舌打ちする。
「だから」
「シエル、お客様に失礼よ」
 邪気もなく笑う娘に、困った様子でレイチェルが窘めるのに、セバスチャンが微苦笑を深めた。
「大切なナイトの名前を付けて頂いて光栄ですよ、リトル・レディ」
 小さい躯をそっと抱き上げ立ち上がると、長い髪が光を散らして柔らかく揺れる。闇に沈み込みそうな
色合いをしているくせに、明度の淡い陽射を透かすと、それは不思議と金とも蒼銀とも判別の付かない
微妙な色に染まる。
「お父様より大きくて、セバスチャンみたいに黒くて」
 抱き上げられたセバスチャンの瞳を覗き込むと、端正な貌には、一対のワインレッドの眼が在る。まる
で色素が抜け落ちてしまったアルビノのような双眸は、一瞬だけネコの眼のように縦に伸び、不可思議
な光彩を帯びた。それが不思議で、シエルは細く小さい指先を、ワインレッドの双眸に伸ばした。
「どうしました?」
「伯爵の瞳、不思議な色をしてる」
 紅茶の色より更に深い、ワインのようなレッド。けれどボルドーのように濃くはない。そんな微妙な色合
いは、何故かとてもこの男に似合う気がした。同じ赤でも、好んで赤い色を身に付ける叔母のアンジェリ
ーナとは、まったく赴きが違う。
「ウサギのような赤い眼」
「ウサギ……」
 長い間生きているが、この瞳をウサギのようだと言われたことは初めての経験で、セバスチャンは緩
い微苦笑を滲ませている。そんなセバスチャンの隣で、ヴィンセントが必死に笑いを怺えて肩を顫わせ、
母親のレイチェルやアンジェリーナは、セバスチャンが子供の他愛ない言葉に気分を害した様子がない
ことにホッとしている。そしてエリザベスは、ボーとなってセバスチャンを見ていた。
 端正な面差しをしているセバスチャンは、物腰が柔らかい優雅な気品を兼ね備え、外見だけを見るな
ら、その佇まいは、何処から見ても十分に上流階級の青年貴族で通用する。実際、女王の番犬として
裏社会に君臨しているヴィンセントに従い、夜会に潜入した時などは、何処から見ても優雅な気品に溢
れた貴族にしか見えず、女性からの誘いが後を断たないという顛末が付くから、エリザベスがセバスチ
ャンの外見に惑わされてしまったとしても、仕方ないだろう。
「彼をウサギに譬える人間は、シエルくらいだろうね」
 とうとう堪り兼ねて笑うヴィンセントに、セバスチャンは苦虫を噛み潰した表情で苦笑し、そんな2人の
様子に、シエルはキョトンと小首を傾げてサファイアブルーの瞳を瞬かせている。
「でしたら私は、さしずめ白ウサギならぬ、黒ウサギという所でしょうか?」
 リトル・レディと笑うと、シエルはフワリと花が綻ぶような笑みを覗かせ、
「でも伯爵は、ナイトだと思うの」
 と、小首を傾げた。
「レディの大切なナイトの名前を頂いたからには、ナイトになりましょう」
「セバスチャンと同じ、真っ黒で大きくて恰好いいけど、夜の色みたいだから」
「おや、アリス定番の言葉遊びでしたか」
 夜のNightに、騎士のKnightを引っ掛けたそれは、アリス特有の言葉遊びだろう。けれどヴィンセント
が親バカを発揮して推理が得意だと言っていた科白は、あながち間違ったものではないのかもしれない。それは本質を見抜くという意味を帯びるからだ。そしてシエルは間違えることなく、自分の本質を見抜
いている。夜の闇を引き連れ歩く悪魔の自分の本質を。
「でしたら、リトル・レディは、アリスでしょうか?それともハロウィンに因んで、キティでしょうか?」
 魔女の使い魔とされる黒猫は、ハロウィンの仮装の定番だ。
「秘密」
 ニッコリと可愛らしい笑みを向けるシエルに、セバスチャンは白い額にキスを贈ると、
「ではレディには、私のスイーツをプレゼントしましょう」
 小さい躯を足下へと降ろした。
「スイーツ?伯爵が?」
 伯爵が自らスイーツを付くるなど、聴いたこともない。母親のレイチェルは時々クッキーやパイを作って
くれるが、当主がキッチンに入ることなど、貴族社会では有り得ないことだ。幼いシエルでも、それがど
れだけ特異なことかはよく判るから、愛らしい貌を訝しげに歪め、セバスチャンを見上げた。
「ええ、特技なんですよ。今夜レディにお出ししましょう」
 小さい頭を優しく撫でると、隣でヴィンセントが何処か複雑そうな表情を刻み付けた。
「彼のスイーツはそこいらのパティシエより美味しいけど、滅多なことではその腕を奮ってはくれないか
らね。シエルは余程気に入られたみたいだね」
 案外とこの悪魔はロリコンか?と、ヴィンセントが内心で遠い眼をしてしまったくらい、セバスチャンは
引き合わせたシエルを気に入った様子でいる。これなら次にシエルが当主になった時も、セバスチャン
は契約を続行するだろう、その魂と引き換えに。その事実を知った時、シエルは自分を恨むだろうか?
生まれ付いた家系の血腥い歴史を嘆くだろうか?
「TRICK or TREAT。今夜はハロウィンですから、可愛らしくおねだりして下さいね」
 そうしたらとびきりのスイーツをお出ししますよ、そんなふうに笑うセバスチャンに、シエルは満面の笑
顔を見せた。
「それじゃぁ私はちょっと彼と話があるから、シエルは皆とパーティーの支度をしておいで。今年はどん
な仮装をするのか、楽しみにしているよ」
 ナイトのようだと笑った相手が実は悪魔で、代々女王の番犬と呼ばれる家系と取引している悪魔だと
知ったら、シエルはどうするだうか?血濡れた家系に生まれたことを恨むか、嘆くか哀しむか。それでも、この悪魔はナイトには違いないのだ、様々な意味に於いて。そのことにいずれは気付くだろう。
 魂を代価に悪魔と取引し、自然に背く過ぎる魔力を使用した結果、その代償は陰惨な結果として跳ね
返ってくる。まるで最終的に釣り合いが取れるというかのように、歴代当主の死に方は、心穏やかなも
のには決してならない。だから自分も過去の当主と同じように、陰惨な最期を迎えるだろう。その覚悟
はできている。父親を介してこの悪魔と引き合わせられた幼いあの時、自分の命運を受け入れる覚悟
はとっくにできている。けれどそれを幼い娘に引き継がせなくてはならない覚悟は、また別のものだ。







□ □ □






「気に入りましたよ」
 タナカに案内され歩く屋敷の中で、セバスチャンはヴィンセントの隣でひんやりと笑った。
 長い廊下に差し込む淡い陽射が、毛足の短い絨毯の上に影を落ち、ちらちらと光の陰影を描き出す。
庭先ではシエルが従姉妹のエリザベスに抱き付かれている様子が覗けた。
「君ってば、案外とロリコンだよね」
 軽口に紛らせてはいるものの、まるで何かに引き合うように、セバスチャンとシエルが惹かれあったこ
とを、ヴィンセントは間近で感じ取っていた。
 今のシエルと同じ年頃、父親にこの悪魔と引き合わされ、以来何かと無理難題を言って来たが、この
悪魔がこんなふうに笑う場面には、お目にかかっていなかった。幼い娘がこの悪魔の中の何かを動か
したのだとしたら、それはもう運命のようなものなのかもしれない。
「私達悪魔が値踏みするのはその魂。無論容姿がいいにこしたことは在りませんが、虚栄の結果磨き
上げた美しさも、魂が濁っていたら話になりません。その点貴方がた一族は、呆れるくらい黄金律の魂
を保有している。それも連綿と受け継がれた宿業の代価でしょうね」
 くつくつと喉を鳴らす悪魔に、ヴィンセントは大仰に肩を竦めて見せた。悪魔が値踏みする魂に興味は
ない。黄金律がどうのと滔滔と語られても、それは眼に見えるものでなければ、人間である自分には、
一切理解不能なものでしかないからだ。
「折角ご令嬢のナイトの名を頂戴したのですから、ナイトらしく致しましょう」
「君本気?」
 悪魔にとって、名前は契約と意味は同じだ。契約者は悪魔に名を与え、名前によって悪魔を縛る。け
れどこの悪魔の真実の名を知らない以上、その効力はあくまで仮初にすぎない。その仮初の名をシエ
ルに求めた時点で、セバスチャンはシエルをたいそう気に入ったと言うことになり、事実上、契約は更新
されたようなものだろう。いずれシエルがその意思で以て、セバスチャンと契約しなくてはならない日が
必ず来る。それはこの連綿と受け継がれた血濡れた一族が背負う業だ。そしてその時、シエルはこの
悪魔に正式に名を与え、契約を結ぶことになる。
「ええ勿論。私は嘘は吐かない、貴方がた人間と違ってね」
 冷ややかな視線が窓の外を見詰め、静かな笑みを滲ませる。「私が貰いますよ」
「……一応言っておくけど、あの子には婚約者が在るんだけどね」
 ままごと遊びの延長線で、何故かシエルの婚約者として立候補した幼い子供は、時折屋敷に出入り
する子爵の子供で、呆れるくらい達者な口で、シエルに美辞麗句を贈っている。
「そんなことが、私に関係あるとでも?」
 たかが人間の婚約者程度、悪魔の自分には何の意味も持たない。
「アハハハ、そうしたら私は、君の義理の父親になるんだぁ」
 悪魔の中でもおそらく高位の悪魔だろうこの悪魔は、一体シエルの何処が気に入ったんだろうか?引
き合わせるまではまったく興味などなかったというのにも引き合わせた途端のこの豹変ぶりでは、恋に
不慣れな男が恋に陥ってしまった典型に見えて仕方ない。長い時間を生きてきて、それこそ男も女も自
由自在に陥落させてきただろうに、12月で10歳を迎える幼女に陥落させられたとしたら、それはそれ
で純情にすぎると言うものだ。もしシエルがこの悪魔を惹き付けたのだとしたら、悪魔にとってはある意
味で、シエルという存在は致命傷になるだろう。
「冗談もほどほどに」
 一体何を言い出すのかと思えばと、セバスチャンは呆れた表情を滲ませた。
「人間でも悪魔でも、あの娘を倖せにしてくれるなら、誰でもいいよ。君が倖せにしてくれるなら、それは
それで一番安全圏だとは思うしね」
 但し、泣かせたら承知しないよと、ヴィンセントは莞爾と笑った。