My Fair Lady





 一日の疲れを癒すにはシャワーだとばかりに、温めのお湯に淡い薔薇のエキスを溶かし込んだバスタ
ブに長々漬かり込んでいたシエルは、シャワールームを出た早々、待ち構えていた悪魔で執事で旦那
でもあるセバスチャンに山ほど小言を食らい、鏡の前で渋面を作っていた。
 有能で万能。おそらく指先一つで世界を変える程の魔力だって有るだろうに、莫迦みたいに心配性の
悪魔は始末に悪い。そのうち妊婦の心得とか説き出すのかもしれないと思えば、溜め息の一つ程度出
てしまうのは許されるだろうと、シエルなどは思ってしまう。
「聴いてますか?心身を清潔に保つのは必要ですが、何事もすぎればいいというものではありません。
バスルームで貧血でも起こしたらどうするつもりですか」
 清潔な白いタオルで余分な水分を拭いながら、愛妻の自慢の髪を優しい仕草で拭き取っているセバ
スチャンは、鏡の中で顰めっ面を作っている愛妻に、深々と溜め息を吐き出した。
 見えない指で、聞こえませんとばかりに耳栓をしている恰好が目に浮かぶシエルの表情は、小言を
右から左へと綺麗に聞き流していることが丸判りだ。そんなシエルに、セバスチャンは根負けしたかの
ように、やれやれとがっくり肩を落した。
「以前はそんなに、長湯ではなかったでしょう?」
 朝晩とシャワーを使うくらい、シエルはシャワー好きだったが、決して長湯ではなかった筈だ。それが
最近ではやたらと長湯で、温めの湯を張ったバスタブにゆったりと漬かり、本まで持ち込んでいる有様
だ。一体どんな心境の変化だと思うものの、シエルの内心はセバスチャンにも判らなかった。
「リラクゼーションだろう?一日の疲れを取るのに丁度いいんだ」
 羽毛のように柔らかいタオルは心地好く、小言を言う口調とは裏腹に、思うより繊細な仕草でマッサー
ジされながら触れてくる指先に、全身の神経が弛緩していくのが判る。それはどれだけの小言も、愛情
の結果だと素直に感じ取ることができるからだ。だから最近では入浴後のこの小言さえ、シエルにとっ
ては有効に作用するリラクゼーションの一つになっているが、他人から見れば、殆どノリはピロトークに
近いだろう。劉や葬儀屋が見れば、間違いなく呆れて指を指して笑うに違いない。それくらい、二人の
間を流れる空気は甘いものだった。
「物は言い様と言いますが、まったく」
 余分な水分を拭い去るとおもむろにドライヤーを取り出し、セバスチャンは美容師さながらの手際で、
生乾きの髪を乾かし始めた。
 風圧で髪がフワリと舞い上がるところをブラッシングで丹念にブローする手際は、いっそ何処かの美容
師のように器用な職人芸だ。
「もう奥さん一人の躯じゃないんですから、心配させないで下さい」
 二人分の生命を宿しているとは思えない華奢な躯は、未だ妊婦というより少女のもので、腹部の孕み
もさほど目立ってはいない。着ている物と相俟って、見た目の印象はどう見ても幼妻だ。事実シエルの
年齢を考えれば、世間では幼妻の範疇だろう。それでもシエルの胎内には、悪魔と人間の子供が宿っ
ているのだ。それも一人ではなく、二人分の重みだ。
「だから温めのお湯にしているだろう?暑いお湯に短時間漬かるより、温めのお湯に長めに漬かる方が
効果があるって、マダム・レッドも言ってたから」
 あとはもう寝るだけだというのに、丹念にブローするセバスチャンの心の注ぎように少しばかり呆れな
がら、シエルはマダムレッドが言っていた科白を思い出す。
 入浴は一日の疲れを癒すリラクゼーションではあるものの、以前なら疲れた躯を癒すことより、時間を
優先させていた。入浴後の就寝までの僅かな時間も、書類と向き合っていたからだ。けれど今は違う。
多少なりとも担当医でもあるマダム・レッドの言葉を受け入れ、躯も心も、疲れを持ち越さないようにして
いる。それは全て胎内に在る子供達の為だ。
「温めのお湯に長めっていうのも限度があります。誰が本を持ち込んで読み終わるまでなんて言いまし
た?明日からは本の持ち込みは禁止です」
 推理小説短編集とやらを持ち込んだシエルは、それが読み終わるまでバスルームから出てこなかっ
たから、セバスチャンが心配するのも当然の結果だろう。第一バスタブなどで本を読んでいたら、湯気で
紙は皺になるばかりの筈だから、セバスチャンに言わせれば、無駄以外の何ものでもなかったのは言
うまでもない。
「……横暴だな」
「当然の配慮ですよ。嫌なら明日から私が一緒に入って、お背中を流して差し上げますよ。どうせもうじ
きそうなるんですし」
「……お前が髪を切らせないからだろう?」
 妊婦の髪は短いのが基本だ。それは臨月に近付けば否応なく出てくる腹部が邪魔をして、髪を洗うこ
とが困難になってくるからだ。けれどシエルは違う。セバスチャンがシエルの髪を切らせる筈もなかった。
「当たり前です。貴婦人方の間で奥さんの髪がなんと言われているか、自覚はあるでしょう?」
 水分が飛ばされた髪は、絹糸のような輝きを放つ。細く柔らかい髪は触れば一際滑らかで、指の隙間
をサラサラと音を立て流れていく。それを満足そうに眺めると、淡い薔薇の香がするヘアクリームを少量
掌に取り、セバスチャンは繊細な仕草でマッサージするように髪に含ませていく。そうするとより一層シ
エルの髪は滑らかになり、極上の絹糸のような輝きを帯びる。
「お前の趣味の結果だろう?」
 丹念にブローされドライヤーで乾かされた髪は、室内の淡い照明の中でも輝いているのが判る。何気
なく指に絡めて弄んでいる合間にも、セバスチャンは髪を掬い上げ、何やら編み始めた。まして趣味は
髪だけにはとどまらず、シエルを取り囲む日常品全てがセバスチャンの好みで埋め尽くされている。
 今夜初めて袖を通したこのナイト様マタニティードレスもその一つだと、シエルは鏡の中の自分を眺め、こっそりと溜め息を吐き出した。
 以前セバスチャン達が口を揃えて見当違いの感嘆を盛らした、姫コスプレより、今夜のこれはタチが
悪い。ドレス着ることに抵抗もなくなり、セバスチャンの取り揃えたドレスを着ることも、それなりに楽しい
と思えるようになったが、今夜のこれは些かどうなんだ?とシエルは最初眉間に皺を寄せた。
 フリルとレースがふんだんに使用されているナイト用のマタニティードレスは、下手をしたらベビードレ
ス並みの仕立で作られている白いドレスだ。それもつい先日、訪れたデザイナーに指示してセバスチャ
ンが一点もので作らせたものだから、もろにセバスチャンの好みが反映されている代物の筈だ。
 これが悪魔の趣味かと思えば、シエルが軽く眩暈に見回れてしまったとしても仕方ないだろう。似合
わないならともかくも、似合っているから殊更タチが悪いと思うシエルだった。何処からどう見ても幼妻だ。
「もう寝るだけなのに、何してるんだ?」
 だから趣味だって言うんだと内心で盛大に呆れながら、シエルは小首を傾げ、鏡を眺めた。
 器用なのは判っている。料理からスイーツ作り、裁縫まで、セバスチャンの守備範囲は広い。伊達に
有能で万能と言われている訳ではない指先は、器用に三つ編みを編んでいく。少なくとも自分には決し
て出来ない芸当だと、シエルは鏡の中のセバスチャンを見ていた。
「私の目の保養ですよ。心配させた罰だと思って下さい」
「物が言い様なのは、お前の方だな」
 三つ編みだけでは飽き足りないのか、左右対称にブルーのリボンまで結んでいくセバスチャンの丹念
さに、シエルは微苦笑を滲ませる。それは曰く付きのリボンだったからだ。
 サムシング・フォーの一つであるサムシング・ブルーのリボンは、シエルというよりセバスチャンのお気
に入りで、二人だけの時間を過ごす時、セバスチャンはこのリボンをシエルに飾ることが多かった。
「女の子が生まれたら、ガーター・トスで、ヘアバンドを作って差し上げますよ」
 きゅっとリボンを結ぶと、愛妻を可愛らしくしたことで満足したのか、セバスチャンはにっこりと笑みを浮
かべた。
「一体何年先の話しをしているんだ」
 貴族の結婚式で、世俗的なガーター・トスを本気でやるとは思わなかったが、シエルが身に付けたガ
ーターを、セバスチャンは今も生まれてくる娘の為にと、大切に保管している有様だから、これで娘が生
まれたら自分がウェディングで身に付けたガーターでヘアバンドが作られるのは決定的だと、シエルは
遠い眼をした。
「大体悪魔のお前が、何であんな世俗的なこと知ってるんだ」
 世俗的も世俗的。花婿が花嫁のドレスに潜り込み、手を使わずに花嫁が使用しているガーターを外す
という、到底貴族の結婚式ではあるまじき行為だ。それを何故かセバスチャンは喜々として楽しんでい
たから、シエルから見れば得体が知れないこと夥しい。そしてそれを止める人間は、生憎シエルの周囲
には誰一人として存在しなかった。厳格なことで有名な父方の叔母であるフランシスも、呆れながらも
止める言葉を発しなかった。勿論劉や葬儀屋、マダム・レッドに至っては、愉しむことはあっても止めるこ
となど有り得ないから、シエルは純白のウェデティングドレスの中に、花婿を迎え入れる結果を余儀なく
された。
「マダム・レッドからお聴きしたんですよ。何でもご友人の結婚式でそれをされたとか。周囲は盛り上が
ったと大層愉しげにお話されていましたので」
 しれっととんでもない科白を口にされ、シエルは半瞬オッド・アイを円くした。まさか身近に落とし穴が
あるとは思わなかったからだ。
「マダム・レッド〜〜〜」
 勘弁してくれ。今更シエルは破天荒な叔母の性格を思い知り、がっくりと肩を落して落涙した。
「まぁ結果的に周囲は盛り上がりましたし、盛況じゃなかったですか」
「貴族の結婚式が盛況でどうする!」
 新作売り出しのセールじゃないんだぞ。シエルが憤懣やる方ない様子で鏡の中の旦那を睥睨しても、
罪はないだろう。
「今更ですよ、もう済んだことですし。いいじゃないですか。ガーター・トスは、赤ん坊に使用すると幸福
になれるって言われてますし。子供達が倖せになれると思えば」
「双子だろう?一つしかないんじゃ意味がないな」
 要はブーケ・トスと同じで、ガーター・トスは、花嫁が左足に付けていたガーターを、男友達に投げると
いう趣向で、残る右足のガーターは大切に保管し、子供が生まれたらヘアバンドにすると幸福になれる
と言われているお呪いのような習慣の一つだ。
「ヘアバンドですからね。女の子に使用するのが普通でしょうね」
「差別するな」
 生まれる前から男親の感慨かと呆れながら、シエルは少し張り出した下腹部に手を置いた。
「大丈夫ですよ。セシルには私が着けたタイをプレゼントしますから」
「セシル?」
 始めて飛び出す名前に、シエルがキョトンと小首を傾げれば、セバスチャンは少しばかり早まったなと
思いながら、それでも外見は取り繕うこともせず、極当たり前の科白を告げるかのように優美な笑みで
口を開いた。
「子供の名前ですよ」
「はぁ?」
 しれっと口にされた科白に、シエルはらしくない程瞳を見開き、背後を振り返った。
「男の子の名前はセシル、女の子はマリーウェザー。もう決めているんですよ」
 にっこりと微笑まれ、シエルは余りといえばあんまりな事態に口をぱくぱくとさせると、威勢よく立ち上
がり、セバスチャンに詰め寄った。
「お前〜〜子供達の名前を勝手に決めるな!」
 その権利の半分は、自分のものの筈だ。
「おや、奥さんには不評ですか?セシルは奥さんと私の名前を取り入れた綺麗な名前だと思うんですが」
「不評とか気に入らないとか、そういう問題じゃないだろう?」
「でしたら、セバスチャンジュニアにでもなさいますか?」
 貴族の中には代々受け継がれる名前もあるから、それはそれで不都合とも言えないが、それでは子
供に名前を付ける楽しみが減るというものだ。
「セバスチャン、お前、親が子供に名前を付ける意味を知っているか?」
 そっと引き寄せられるままに任せながら、瀟洒な面差しが渋面を刻み、ワインレッドの双眸をまっすぐ
に凝視する。
「存じてますよ。親が子供に一番最初に贈る、贈り物ですから」
「判ってるなら、何でお前一人で決めるんだ!」
「それは奥さんにもプレゼントしたかったからですよ」
「僕に?」
「セシルとマリーウェザー。セシルは奥さんと私の名前から。マリーウェザーは、やはり女の子は可愛ら
しい愛称が宜しいですし」
「それとこれと、僕にプレゼントと何の関係がある」
 意味不明だとばかりに渋面を深くすると、酷薄な口唇が弧を刻み、白い瞼にそっと口唇が寄せられた。
「貴女を散々泣かせましたから。悪魔である私の子供を生んで下さる貴女にも、子供達にも、早く人格を
持たせたかったんですよ」
 言葉にされないシエルの不安。もしかしたらシエル自身はもう自覚などしていないかもしれないものの、シエルが抱えてきた不安は、セバスチャンもよく判っていた。だからこそ、シエルの長い入浴をセバ
スチャンは嫌う。以前シエルはバスタブに水を張り、人為的に流産を誘発しようとしたことがあったから
だ。
「今夜言うつもりは、なかったんですが」
 ちょっと口を滑らせましたね。セバスチャンは穏やかに笑った。
「セシルとマリー。私はいつもそう呼んでいたんですよ」
 優しい仕草で、愛妻の下腹部をそっと撫でる。触れる都度、心の中で唱えるように呼んできた名前だ。散々にシエルを泣かせて不安にさせてきたから、せめてもと言う想いがセバスチャンの中にもあった。
「男がマタニティーブルーになるなってこの前言った」
 らしくない程、慎重に触れてくる掌。名前なんてもっと先の話しだと思っていたら、もう勝手に決められ
ていて、それも大切に込められた名前だと判るから、シエルは結局苦笑することしかできなかった。
「仕方ないな」
 言葉に出されることのなかった名前とは言え、触れる都度そう呼ばれていたら、今更違う名前を付け
る訳にはいかないだろう。
「気に入って頂けましたか?」
「今更変えられないだろう?名前は魂そのものなんだから」
「ええ、私が貴女に名前を頂いたのと同じように」
「引っ掛かる物言いだな」
「いい名前だと思っていますよ?貴女を守って亡くなったナイトの名前ですからね」
 ですから今度は私が永遠に、貴女と子供達を守りますよ。セバスチャンがそう笑えば、シエルは少し
ばかり呆れた貌を覗かせ、フリルとレースがふんだんに使用されたドレスの腹部にそっと手を添えた。
「セシルにマリーか」
 口に出せば、未だ胎動もない子供達の生命の重さを感じる気がして、シエルは花が綻ぶような笑みを
浮かべた。
「ええ、早く会いたいと思っていますよ」
「マダム・レッドが言ってた通り、男はせっかちだ」
「それくらいしか、心配できないからですよ。それにやはり、愛する女性が自分の子供を生んでくれるっ
て言うのは、男にとっては嬉しいことですし」
「莫迦」
 臆面もなく告げられる科白に少しばかり白い頬を紅潮させ、シエルは緩い抱擁から逃げ出すと、ター
ンする優雅さでクルリと背を向け、ベッドへと歩き出した。その途端、シエルの動きが固まった。
 サファイアとワインレッドのオッド・アイが、胸元を掬う旦那の指を見咎め、繊眉が少しばかり跳ね上が
る。
「……何をしている」
 背後から腕を回され、下から掬い上げる様に両胸に触れられれば、シエルの疑問も最もなものだろう。そこに情欲の色香が微塵もなければ尚更だ。
 むぎゅっと擬音が響く威勢で、まるで胸囲でも計るかのように触れてくる指。悪戯でも情欲でもなく、ま
さしく胸のサイズを計っているとしか思えない旦那の指に、シエルは眉間に皺を寄せた。幾らなんでも
突然すぎる。
 寄せてあげるブラの測定じゃないんだぞ。シエルが内心でそう突っ込んでしまったとしても、仕方ない
のかもしれない。それくらいセバスチャンの指先に情欲はなく、形よく張り出している双つの胸の孕みを
下から掬い上げ、しげしげと言った様子で、視線が胸元に落ちている。
「理想のバストまで。もう少しですね」
 上から覗き込むように見下ろせば、大きく開いた胸元からは、形良く張り出しているバストが窺える。
更に下から掬い上げるように持ち上げれば、くっきりと谷間ができる。
「充分だ。これ以上必要ない」
 夫婦と言えど、安定期前の性交渉は、担当医であるマダム・レッドから誤法度と言われているから、
親バカを発揮しているセバスチャンが悪戯に求めてくるも思わなかった。それにしてはいちいち触り方が
嫌らしいのが気に入らない。第一理想のバストの意味が、シエルには理解不能だ。大体何処の誰と比
べて理想のバストとやらを言っているんだと、覗き込むように見下ろしてくる視線に眉間に皺を寄せれば、セバスチャンは何を言ってるんですかとばかりに、しれっと口を開いた。
「子供の為ですよ」
 クルリと躯の向きを変えられ真顔で告げられた科白に、シエルは呆れた様子で遠い眼をした。
 一体何処までが本気で、何処からが嘘か。そー言えば真偽に絶対性なんて何処にもないっていうの
は、推理の基本原則だったなぁと、完全に他人様の意見を内心で思い浮かべながら、シエルはめっき
り真顔の旦那を凝視する。きっと半分本気で、半分は嘘の科白に違いない。残りの半分は、男の下ら
ない幻想だろう。もしかしたら、幻想などという綺麗な言葉ではなく、妄想なのかもしれない。
「……聴きたくもないが、根拠は?」
 何がどう子供の為なのか、シエルにはまったく判らない。
女性が持つ肉感的な躯付きをしていない自覚はあるが、それにコンプレックス感じたことはないから、
子供の為と言われても、何がどう子供の為に繋がるのか、判らないこと夥しい。
 そんなシエルに向かい、セバスチャンはやはり大真面目な表情をしている。
「吸い付くとき、大きい方が良いに決まっているでしょう」
 何を今更そんなことを。真面目くさった顔でそう口にされた科白に、シエルは半瞬言葉を失い、
「お前がだろう?」
 エロ悪魔!そう叫び上げると、付き合いきれないとばかりに大股でベッドへと歩き出した。
「こら、待ちなさい」
 何やら多大な誤解をさせてしまったらしいが、セバスチャンにはシエルの憤慨の理由が今二つくらい
理解できていなかったから、この辺りの二人の意思疎通はゼロ以下だ。このノリで此処まで辿り付くの
に、紆余曲折あった二人だ。劉や葬儀屋にバカップルと言われるのはこの為だと、二人は欠片も理解
できていなかった。そんな部分が二人はとてもよく似ている。
「何も奥さんが貧乳なんて言ってないでしょう」
「…言ってるじゃないか」
 背後から再び胸を掬われ、シエルは舌打ちする。コンプレックスは欠片もないが、真顔で言われて嬉
しい科白でもなかったからだ。
「言ってませんよ。吸い付くときに大きい方が良いのは決まってますし、胸の谷間はないより有るにこし
たことはありません」
「だからそれが言ってるんだろうが」
 どうせ貧乳だと開き直れば、やれやれとセバスチャンは溜め息を吐き出した。
「豊満すぎる肉感的なバストは、生憎私の好みではありませんよ。まぁ胸の谷間で窒息したいっていう
コアな男なら別でしょうが、奥さんの胸は形も綺麗ですし張りもある。軟度も私には丁度いいですよ」
「変態かお前は!」
 整然とした口調で言われると、どうにも変態度が増す気がしてならない。何事も整然と告げればいい
という物ではないのだ。悪魔で親バカに変態が加わってしまったら、ただの間抜けだ。
「この先幾らでも、私が大きくして差し上げられますし」
「だからその科白が変態だって言うんだ」
「事実ですから、仕方ありませんね」
 むぎゅっと再び下から双つの胸の孕みを掬い上げれば、綺麗な谷間がくっきりとできる。
「ちょっ…」
 他愛ない悪戯に、けれど性感の弱いシエルは簡単に煽られ、白い頬が羞恥と性感に淡く染まる。
「感じて下さるのは嬉しいですが、未だマダムからお許しは出ていませんよ」
「だったら触るな!」
「もう少ししたら解禁になりますし」
 胸から手を離したと同時に、緩い抱擁で華奢な躯を拘束すると、白い項に口唇を落す。そうすれば腕
の中でシエルが顫えるのが判る。
「解禁言うな」
「そうしたら、乳腺マッサージをして差し上げますね」
 幾らでも感じて下さって構いませんよ。そう笑う悪魔に、シエルは思い切り下品に舌打ちすると、セバ
スチャンの足を踏み付けた。
「痛いですよ」
「痛い様にしたんだ」
「まったく、困った奥さんですね」
 拗ねないで下さいと囁くと、セバスチャンはシエルの反駁など一切無視して、軽すぎる躯をフワリと抱
き上げる。二人分の生命が宿っているとは思えない程に軽い躯は、一体何が詰まっているのかと思う
程に軽い。
「セバスチャン!」
 バタバタと暴れれば、フリルをたっぷり使用したドレスが舞うだけで、シエルは憮然となって抵抗を諦
めた。
「おとなしくしていなさい。もう遅い時間ですから、今夜はおとなしく寝て頂きますよ」
 バスルームで推理小説は堪能したでしょう?そう笑うと、セバスチャンは天蓋付きの広いベッドの上に
華奢な躯をそっと下ろした。
「理想のバストだなんだって言って、子供が生まれたら文句言うなよ」
 絶対お前は言いそうだと、らしくない程慎重に下ろされたシーツの上で、シエルは悪戯を思い付いた
子供のように笑った。
「僕の胸が大きくなっても、優先順位はあくまで子供達だからな」
 ふふんと笑えば、セバスチャンはシエルの物言いに半分呆れ、次には意味深な笑みを浮かべながら、細い躯に体重を掛けないように覆い被さり、何事かを囁いた。
「子供にこの胸の谷間の良さは判らないでしょう?」
 クスリと笑うと、セバスチャンは言葉もなく呆れる愛妻の胸元に顔を埋めた。