My Fair Lady
episode1

〜〜その執事、愛妻











 清涼な朝の訪れを告げるように囀る鳥の声。それは空気が澄んでいる所為か透き通るように綺麗に響
く。柔らかい羽ばたきの音が鳴ると枝が揺れ、それは同時に、窓に映る緑の暉影をちらちらと揺らし、絨
毯の上に光を曝す。折り重なる樹々の表面に乗る朝露に日差しが差し込むと、其処彼処で光の乱反射
が見られ、周囲の空気の色さえ緑に染まる。
 そんな清涼で穏やかな朝の風景の中、淡い陽射が入り込む室内で、セバスチャンは愛妻のブラッシン
グに余念がなかった。
 一体いつの間に作ったのかシエルには甚だ謎なものの、結婚初夜の翌日の朝には、この部屋は完璧
に整えられていた。
 寝室の壁をぶち付いて地続きで作られた広いパウダールームは、扉一枚で寝室と行き来出来るように
コネクティングルームとして作られている。
 淡いアイボリーで誂えられた化粧台は、化粧セット一式とセットで、どう見ても象牙製だ。お揃いのクロ
ーゼットも眼に優しいアイボリーの象牙製で作られている。けれど室内全体の色彩は、落ち付いた雰囲気
の蒼で統一され、巧く調和が保たれていた。
 結婚式翌日この部屋に通された時、流石のシエルも言葉を失い絶句した。一体いつの間に主である自
分に秘密でこんな部屋を用意していたんだと呆れたからだ。プレゼントですよと言われても、まさしくこの
屋敷は自分の所有で、セバスチャンにプレゼントされる謂れは何処にもない。それでも、化粧台から何ま
で、用意されたものは真新しい新品で、今まで使っていたものは何処にも見当たらないから、それはそれ
で新妻に対するセバスチャンなりの心遣いだうろと、シエルは溜め息とともに色々諦めたのだ。それでも
毎朝の日課として自分の髪を楽しげに梳いているセバスチャンには、呆れを禁じ得ない。
「……お前も大概、変わってるな」
 いつか鼻歌でも歌い出すんじゃないんだろうか?そんな様子さえ窺えてしまうセバスチャンの姿に、シ
エルは内心諦めの境地で溜め息を吐き出した。
 良い意味でも悪い意味でも、結婚は人を変えると言うが、それは人外の悪魔にも有効だったのかと、シ
エルは内心で遠い眼をした。
 それはそうだろう。一体何処の貴族の屋敷で、今は妻になった相手の髪を、毎朝喜々としてブラッシン
グする夫が居るだろうか?ましてセバスチャンは悪魔だ。人間界の伝承に照らし合わせて考えてみても、
誰もが予想さえしないだろう。
 通常何処の貴族の屋敷も、女主人の身の回りの世話は、数人のレディズメイドと決まっている。少なく
ともセバスチャンのように、妻の髪を楽しんでブラッシングしている夫は居ない筈だ。世間体がどうこう言う
以前に、そんな労力を貴族は知らないからだ。
 連綿と受け継がれていく血筋を重んじるのが貴族だ。生まれながらに階級と言うものが存在する英国で
は、貴族は生まれた時から貴族だから、身の回りの世話をされることには慣れていても、間違っても誰か
の世話をすることはない。
 けれどセバスチャンは違う。勿論悪魔で人間ではないが、妻になった自分の髪を毎朝ブラッシングする
悪魔というのも如何なものか?とシエルなどは思ってしまう。それはどう見ても日課というより、立派に趣
味の領域にしか見えないからだ。これで枝毛の一本でも見付けようものなら、朝からトリートメントが待っ
ている。日課として朝の入浴は欠かさないが、朝からシャンプー・リンス以外に、時間の掛かるトリートメン
トなどされたら、全ての予定と手順が狂ってしまうのは明らかだ。
「そうですか?奥さんの髪をブラッシングするのは、夫たる私の権利。誰にも邪魔はさせませんよ」
 ニッコリと音が響きそうな柔らかい笑みを鏡ごしに向けられ、シエルは更に溜め息を深くした。
嘘か本気か今一つ判別の付かない科白は、けれど本気の科白に違いない。
「それとも、私以外の誰かに、この髪を触らせてもいいと?」
 呆れた様子で溜め息を吐いている愛妻の様子を鏡ごしに見詰めると、セバスチャンは莞爾と笑った。
そうすればシエルが更に呆れた様子で肩を竦めるのが判る。
 第一シエルの髪を毎朝ブラッシングしてきたのは、何も今に始まったことではなかった。シエルと契約し、執事という立場に収まった時から、それは毎朝繰り言のように繰り替えされてきた毎朝の日課だから、
今更拘る部分でもないだろう。
「ブラッシングは、ただブラッシで髪を梳けばいいというものではありませんよ」
 シエルの為にと取り寄せたシャンプーとリンス、トリートメント一式は、薔薇の香りが柔らかく漂う、髪の
栄養にもいいとされる製品だ。できる限り天然素材の商品を使用したいと思うのは、髪の為でもあると同
時に、シエルの胎内に宿る子供達への愛情の結果でもあった。
 香料ばかりは極上でも、髪への品質を一切顧みない商品など、到底シエルに使う気になれなかったか
ら、吟味に吟味を重ね、今の商品に辿り着いたセバスチャンだった。尤もそれは何もシャンプーだけに対
する拘りではなく、シエルを取り囲む日常品全てにそうだったから、シエルはもう口を挟むのも莫迦莫迦し
くなり、開き直りの境地に達している。劉に言わせれば、仏の心境と大差ない。それをして結婚は人を変
える見本が此処に居る。そういうことになるらしい。
「……権利っていう問題か?」
 元々の髪質か、毎朝毎夕のセバスチャンの手入れの結果か判別は付かないが、長い髪は極上の絹糸
のように滑らかで、癖一つない。確かに鏡越しに見ても艶やかで、サラリとしているのがよく判る。だから
と言って、ブラッシングの権利を主張する旦那の心境は、今一つも二つも判らないシエルだった。そのあ
たり、夫婦間の意思疎通はゼロに近い。
 髪に対する執着という訳ではないだろうし、大事にされているのも嫌という程判っているが、一瞬『毛フェ
チか?』と埒もない想像をさせられる程度には、セバスチャンは髪に煩い。
「問題ですよ。奥さんを起こして、こうして髪を整えるのが私の毎朝の日課ですから。これがないと私の手
順が狂うんです」
「……僕の手順は一切無視か?」
 シレっと口にされた科白がセバスチャンの本音だと判るから、シエルが心底呆れてしまったとしても、仕
方ないだろう。
「奥さんの手順は狂わないじゃないですか?毎朝決まった時間に起こして差し上げて、アーリーモーニン
グティーを召し上がって、入浴されて。規則正しい時間ですよ。手順が狂うとすれば、駄々を捏ねた奥さん
が、素直に起きない時だけですよ」
 シエルの起床時間は8時30分と決まっている。それはシエルと契約してから不動の時間で、そこから
一時間、アーリーモーニングティーを飲んでからバスタイムと、シエルの行動は日々一貫している。それ
が乱れる時は、大抵シエルが駄々を捏ねる時と決まっている。
 別段寝起きが極端に悪いという訳ではなかったものの、シエルは時折年相応な駄々を捏ね、寝起きの
悪い時がある。それがシエルの無自覚な甘えなのか、他の要因なのか判らなかったが、シエルは時折
起床時に駄々を捏ねる。尤も、それが可愛いやら可愛いやら、誘っているのかと勝手な解釈をして、結局
下肢を開かせてしまうのはセバスチャンの方だったけれど。
「あれは……っ!」
 サラリとした口調に、白皙の貌が紅潮するのが判る。
前夜の生々しい情交の跡に、どうしても気怠い躯が起きることを拒否してしまうだけの話しで、駄々を捏
ねている訳ではなかった。そんなことは百も承知で、好き勝手な解釈をして朝から求めてくるどうしようもない悪魔に、結局は逆らえないのだ。
 エロ悪魔、詐欺師と内心でとれだけ罵っても躯は素直で、慣れた愛撫に従順に反応するから始末に悪
い。それもこれも、全部この悪魔の所為だと、シエルは憮然となった。尤も、現在はシエルの担当医でも
ある叔母のマダム・レッドから、安定期に入るまでの夫婦間の夜の交渉は誤法度と言い渡されているか
ら、セバスチャンも自重してはいたのだけれど。
「本日は本社から書類が届く程度で、忙しくありませんから、おとなしくしていて下さいね」
 室内の陽射に輝く髪に満足したのか、セバスチャンは化粧台にブラッシを戻すと、サイドの髪をサラリと
梳き上げ、トップに纏め、仕上げに髪飾りで止めると、レースのケープを取り外した。
「おとなしく?お前は何処かに出掛けるのか?」
 鏡の中で莞爾と笑っているセバスチャンに、シエルはキョトンと小首を傾げた。
 セバスチャンが傍に在れば、状況に応じて嫌でもおとなしくさせられてきたから、そんな科白がセバスチ
ャンから出ると言うことは傍に居ない時だと、シエルは正確に理解している。
 執事役を完璧に演じられる悪魔というのもどうかと思うものの、英国社会に精通しているのも甚だ謎だ。
その上生まれ育った家系の理まで正確に熟知している得体の知れなさは、今もって謎のままだ。そんな
状況で、セバスチャンは自分が裏社会の王として君臨することには何処か神経を尖らせている面が見受
けられ、女王の命が下ったからと、安易に裏社会に手を伸ばすことには慎重だったから、状況に応じては、シエルの思うままに行動できないことも少なからず存在していた。そんなセバスチャンが、自分の傍を
離れる時は、余程の事情だろうと察するのは容易だったものの、次の瞬間、シエルはセバスチャンの科
白に脱力する羽目に陥った。
「ええ、ロンドンに」
「ロンドン?」
 ファントム社の仕事は忙しいが、セバスチャンがロンドンに向かわなければ処理できない問題は何処に
もないから、シエルは鏡越しに向けられる笑みに、益々理解できないと訝しげな表情を作った。
「色々買い物もありますし」
「………セバスチャン!お前また下らないもの買い込んでくるつもりか?」
 愛されていると言えば聞こえはいいが、時折その愛情が変化球で飛んで来るから始末に悪い。愛情っ
て重いんだなと、シエルがしみじみ実感したのもそんな時だ。
「下らないものなんて、買った覚えはありませんが?」
「下らないものばっかりだろうが!生まれる前から哺乳瓶やら、ベビーベッドやら、ベッドメリーやら買う必
要が何処にある!」
「生まれてからでは、遅いからですよ」
 鏡越しにニッコリと笑えば、シエルが憮然となるのが判る。それが可笑しくて、セバスチャンはシエルの
腹部にそっと腕を伸ばした。
 息づく生命を実感する時が来るなど、考えても見なかった。ましてそれが自分の血を分けた子供となれ
ば尚更だ。
「これも愛情というものですよ」
 子供を持つ親の感慨というものが初めて理解できましたよと、嘘か本気か判らない科白に、シエルの眉
間に深い皺が刻まれる。
「まぁ、敵情視察も兼ねての買い物ですが」
「……敵情視察?」
 意味深な笑みに、シエルが眉間に皺を寄せたまま、鏡の中のセバスチャンを凝視する。
「ええ。ファントム社もこれを機会に、ベビー用品に着手しても宜しいかと思いまして。説得力もありますよ?オーナーである奥さんが妊娠した訳ですから、その立場からより使いやすいものを改良するというのは」
 立て板に水の威勢で淡々と話すセバスチャンに、シエルは半ば遠い眼をした。愛情と仕事と同じ天秤で
計れないものを、同じ天秤で計られているような感じだ。
「視察という観点から見てみると、他社の製品は改良点が多々ありますからね。生まれて来る子供達に
より良いものを与えたいというのは、万国共通した親の願いではないでしょうか?」
 そっとシエルの下腹を撫でれば、シエルが複雑そうな表情をして、白い手袋を嵌めた手の甲に爪を立て
た。
「痛いですよ」
 手の甲に立てられた細い指先に、ちっとも痛そうな表情など覗かせず、セバスチャンはクスリと小さい笑
みを滲ませる。
「子供を理由に使うな」
「嫌ですか?出来れば私は我が社の製品をこの子達には使わせたいんですが?改良点ばかりが目立つ
他社の製品を使うのは、安全面で心配ですから」
 品質管理は安全管理と同義語だから、生半可な製品を生まれてくる子供達に使う気にはなれなかった
というのが、セバスチャンの素直な本音だ。
「今から生産ラインに乗せれば、ぎりぎりこの子達が生まれて来る時には間に合うでしょうから」
 めっきり本気のセバスチャンの科白に、シエルは内心で落涙したい心境だった。
 紆余曲折あった結婚までの過程では、堕胎さえ考えたシエルだ。悪魔に愛情は成立しないと思ってい
たから、現在は担当医になっている叔母であるマダム・レッドに、堕胎を切り出したこともあったくらいだ。
けれど諸々の結果、今はこうして穏やかな日々を送るまでになっている中、待ち望まれて生まれて来る
子供は、確かに愛されているのだと思う。けれど他社の製品が信用できないから、この際我が社で製品
開発してしまえというのは、些か極論すぎるものだろう。それもセバスチャンの本気が判るから尚更だ。足
しげく通うロンドンのデパートから購入してくる乳児製品はその為だったのかと、シエルはがっくりと細い
肩を脱力させる。
「それに奥さんのマタニティードレスも注文しなくては」
「この前もそんなことを言って、デザイナーが来たじゃないか」
 全て一点もののシエルのドレスは、お抱えのデザイナーによって仕立て上げられているが、デザインか
ら生地の吟味まで、仕立て以外を行っているのは、他の誰でもないセバスチャンだ。
「そろそろお腹も目立って来る時期ですし」
「………何でお前がそんなことを逐一知ってる?」
 夫婦であれば、それは簡単に判ることだったものの、どうにもセバスチャンの科白は言外があり過ぎで、額面とおりには受け取れない。
「その程度のことは、育児書に書いて有りますよ?奥さんも読んでるじゃないですか」
「……お前も読んでたのか?」
「夫たるもの当然です。それでついでに我が社でも育児書の開発もしようかと思いまして」
「……お前がそんなに育児熱心だなんて知らなかったな」
 育児書の開発、そう来るかと、シエルが半ば自棄くそで呟けば、セバスチャンが優游と笑って口を開いた。
「今の育児書は一方的な発信ばかりで、内容的には充実しているとは思いますが、それだけでは物足り
ないように感じたので」
「……お前の方が、母親じみてきたな……」
「読者の質問コーナーなども充実させて、出産前後の本をそれぞれ出してみては如何かと思います。出
産前の妊婦と、出産後、育児不安に悩む母親と。母親の不安はどちらも同じでも、中身は変わるでしょか
ら。そういった視点を軸に扱う育児書はありませんから。マダム・レッドにもご協力頂いて、創刊号を作っ
てみようかと思います」
「……それはもう決定事項か?」
 ファントム社のオーナーである自分を通り越しての企画に、シエルは些か憮然となった。
 子供達に注がれる愛情は過剰だと思うものの、素直に嬉しいとは思う。けれどこれで子供が生まれてき
たらどれだけこの悪魔は親バカになるのか予想も付かない。ある意味、此処までこの悪魔が親バカにな
るとは予想もできなかった。
 普通考えないだろう。悪魔が親バカなど。もっと有り体に言えば、悪魔に愛情が成立するとも思っていな
ったから、愛されている実感に、時折言い様のない不安が付き纏うのも事実だ。
「今日あたり企画書が回ってきますから、眼を通しておいて下さいね」
「この確信犯!」
「マタニティーブルーの奥さんに企画の話しをしても、却って不安にさせるだけかと思いましたので」
 言葉が足りなかった自覚はあるが、まさか堕胎まで覚悟していたシエルの内心まで推し量ることはでき
なかったから、セバスチャンの中にも苦い思いがあったのだと、シエルは知らない。
「今日は届く書類に眼を通す程度で、さして忙しくはないと思いますが、私が不在の間に勝手に動き出さ
ないで下さいね」
 シエルは今も裏社会の番人として、女王の命が下れば動かなくてはならない立場に在るから、万が一
にも自分が不在の間に不吉な手紙でも届いたら、シエルが勝手に動かないという保障は何処にもない。
それがセバスチャンの気掛かりだった。
「煩い、僕は子供か?」
 化粧台の上に置かれた時計は、既に9時を回っているから、これ以上旦那の下らない小言を聴いてい
たら、全ての手順が狂うことになりかねない。
 シエルは深々溜め息を吐き出すと椅子から立上がり、ターンする優雅さでくるりと向きを変えた。
「子供ではないから、心配なんですよ」
 心底呆れた様子のシエルにくすりと苦笑すると、セバスチャンはほそりした躯を緩やかに抱き締める。
 情欲の色香を微塵も感じさせない抱擁は柔らいばかりで、シエルは駄々を捏ねる子供さながらのセバ
スチャンに、呆れた吐息を吐き出しながら、邪険にその腕を振り払うことはしなかった。
「アフタヌーンティーまでには戻ります。後のことはタナカさんにお願いしてありますから、何かあったら彼
に言って下さい。ですが、彼で処理出来ない問題が起こった場合は、必ず私を呼ぶように。いいですね?
無茶はしないで下さいね。もう貴女一人の躯ではないんですから」
 少しばかりきつく告げると、シエルは呆れた様子で『判ってる』と頷いた。
「それでは行って来ますから、いい子にしてて下さいね」
「………生まれる前の子供に、何を語り掛けてるんだお前は」
 下腹部を柔らかく撫でられ語り掛けられては、シエルが脱力してしまったとしても罪はないだろう。これ
が普通の夫婦なら納得もするが、セバスチャンは悪魔だ。最近では人間界の伝承を裏切るのが趣味なん
じゃないのか?そんな風に思えてしまう程度に、セバスチャンは悪魔らしくない親バカぶりを発揮している。これで子供が生まれたら別の気苦労が二乗になるなと、シエルは遠い眼をした。そしてそれが正鵠を
射ていたと気付くのは、子供達が生まれた後のことになる。
「そんなことはありませんよ。ちゃんと育児書をお読みになりましたか?胎教は必要不可欠なんですよ。こ
うして語り掛けると、愛されてるんだと胎児にも判るらしいですよ?やはり育児書は誰が見ても見やすい
工夫が必要でしょうね」
 深々溜め息を吐き出すセバスチャンに、溜め息を吐きたいのは僕の方だと、シエルは大仰に吐息を漏ら
した。
「早く行け!それでとっとと帰って来い」
「畏まりました」
 サラリと柔らかい髪を梳き上げると、セバスチャンは腕からシエルを開放する。
「鳴呼、言い忘れていたことがありました。今日辺り劉様と葬儀屋がお見えになると思いますよ」
「お前は〜〜二人を監視役にでも呼んだんだろう?」
 無茶で無鉄砲だと言うのが、劉と葬儀屋の共通した意見だったが、シエルに自覚は皆無だ。例え性別
が変わったとしても、裏社会の番人であり続けるシエルにとって、劉と葬儀屋は今でも以前と変わらぬ位
置関係が保たれているから、様々な意味で、監視役には適任だろう。
「呼んではいませんよ。私がちょっと所用で不在になると言っただけです」
 それだけ言えばあの二人には通じるだろうと、それはセバスチャンが算出した結果だ。
 自分が不在の間に、万が一にも女王から命が下りでもしたら、シエルは確実に勝手に動くことが判るか
ら、それはセバスチャンの張った予防線だ。あの二人ならシエルを押し止どめる役目ができなかったとし
ても、盾にはなり得ると判断したからで、それはセバスチャンのらしくない信頼の結果でもあるのだろう。
「だから、勝手に動いたりしたら承知しませんよ、マイ・レイディ」
 呆れているシエルに苦笑すると、セバスチャンは薄く開かれた口唇にそっと柔らかい口吻を落した。








□ □ □







「へぇ〜〜それで執事君はロンドンに行ってるんだ」
 相変わらずバカップルだねぇと、ダージリンを口にしながら、葬儀屋が見えない表情の奥で柔らかく笑う。けれどそこに揶揄う口調は何処にもなく、新婚夫婦を微笑ましく眺める眼差しが注がれている。それが
少しばかりシエルの癪に触った。
「今からそんな親バカじゃ、子供が生まれたら大変だろうねぇ」
 噂で聴いてはいたが、そこまで親バカだったのかと、劉は少しばかり乾いた笑みを覗かせる。これでは
シエルの気苦労は子供が生まれた時点で二乗だろうなと、推し量るのは容易だからだ。
 劉と葬儀屋が訪れたのは、シエルの執務が一段落を迎えたイレブンジズの11時を少し回った時刻だっ
た。勝手知ったる他人の屋敷とばかりに、出迎えたタナカに案内させることもなく、二人はシエルの執務
室に訪れていた。
 結局二人が訪れて、仕事の合間のお茶という訳にも行かず、シエルは二人の相手をする羽目に陥って
いた。これも無理をさせない為のセバスチャンの手管かと思うと、些か頭痛ものだと思うシエルだったが、
セバスチャンの科白に、当たり前のように訪れてくる二人組も充分得体が知れない。
「それで、その企画書は回ってきたのかい?」
「ああ……」
 劉の科白に渋面を滲ませると、シエルはデスクの上の書類の束の中から数枚の紙切れを取り出し、二
人に放り投げるように突き付けた。
「おやおや、レディが随分乱暴だ」
 くつくつと楽しげに笑う葬儀屋は、瀟洒なテーブルの上に放り出された書類を手にとって、らしくない様
子で蟀谷を引っ掻いた。
「これはまた……念入りっていうか、企画書っていうより、決定書だねぇ」
 微にいり細にいり整微された書類の中身は、葬儀屋がらしくない乾いた笑いをしてしまう程度に、セバ
スチャンの知謀があからさまに見える決定書だった。あとはシエルがOKを出せば、製造ラインに今すぐ
乗せられる代物だろう。それくらいセバスチャンの書類は、体裁が整っていた。
「この分じゃ、製造ラインの確保も当然してあるんだろうねぇ」
 下手をしたら製造ラインの確保どころか、サンプルの一つや二つ、もう作っているかもしれないと思う劉
だった。
「紆余曲折して回りを心配させたわりに、ラヴラヴで羨ましい限りで何より」
「何処がラヴラヴだ」
「伯爵の自覚がない程度にはね」
 自覚がないからバカップルなんだよと、葬儀屋が長いプラチナブロンドを揺らした。
「それにしてもジャンルが幅広いねぇ。執事君はこれ全部ファントム社で着手するつもりかい?」
「僕が知るか。子供達の為とか言って、あいつは僕を通り越して、勝手に決めたんだから」
 ヒラヒラと劉が呆れた様子で振っている書類は、離乳食に関しての企画書だ。
「手軽に取り扱える離乳食品って言うのは、確かにお手軽で魅力的だとは思うし、粉ミルクの改良も成文
調べて色々してあるとは思うけど、こぅ、根本的に、何か違うと思うんだよねぇ。基本的にファントム社は玩
具、製菓メーカーだし」
 無機質で低音、冷ややかな視線が人外を思わせた執事は、今もその最初の印象を決して裏切らない
持ち主ではあるが、シエルという愛妻を得て子供が出来た時点で、何かが大きくずれた感触が拭えない
のは、決して気の所為ではないだろう。
「あくまで執事ですからっていう常套句が、あくまで親バカですからっていう威勢だね、執事君の過保護ぶ
りは」
 一騒動も二騒動も起こしてくれた張本人は、結婚した途端、それまでの騒動は一体何だったんだと文
句の一つや二つ言っても許されるだろう程度に、シエルに対して過保護だ。
「子供用玩具から、乳幼児でも安全に遊べる玩具を目指すらしい……」
 別段それは何も悪いことではないし、これを機会に、玩具メーカーとしての裾野を広げるのも経営拡大と
いう意味では無難だろう。けれど何も一足飛びに全てを取り扱おうとするのは、極論に飛び過ぎるというも
のだ。
「これなんて凄いよ。紙オムツだって。オムツかぶれを考慮して考案された通気性抜群の品物らしいよ。
一体何処でそんな実験してたんだろうねぇ。今からこれじゃぁ、子供達が生まれたら、伯爵は本当に大変
だねぇ」
「女の子が生まれたら、それこそ嫁にやらないって言い出し兼ねない変貌だりだね」
 流石にそれ程親バカじゃないよねぇと笑う劉と葬儀屋の科白が、けれど正鵠を射ていたのだと判明する
のは、もう少し先の話しだ。
「言うな…僕だって頭が痛いんだ……」
 まして生まれてくるのは双子の男女だとセバスチャンから既に聴いてしまっていては、背負い込む気苦
労は二乗どころか三乗だ。
「でもさ、伯爵は嬉しいよねぇ?あれだけ周囲を巻き込んで大騒ぎしたんだから」
 眼前のソファーに腰掛けているシエルは、何処から見ても極上のレディで、憮然としている表情までもが
可愛らしく見えるから不思議だ。
 瀟洒なラインを描く白皙の貌に長い睫毛。隻眼はどうしようもないが、長い睫毛が縁取るサファイアの瞳
は、以前より深みのある明るさを持っている気がした。言葉遣いこそ気取らない相手の前では僕と言って
いるものの、それも必要に応じてしっかり使い分けられ、社交の場では呆れる程完璧なレディを演じてい
る。その所為でか、シエルの裏社会での通り名は、最近では裏社会の王から、レディ・プレジデント、やら、裏社会の女王やら、裏社会の女神やら、割と好き勝手に呼ばれている。一々反駁するのもバカバカしく、好き勝手に呼ばれる通り名を訂正することはないものの、シエルが内心で面白く思っていない程度の
ことは劉と葬儀屋には丸判りだ。それでも、歳のわりに幼い外見から、シエルは到底人妻には見えない
し、まして妊婦には見えない。
「嫌味かそれは…」
 セバスチャンの用意したスイーツを堪能しながら葬儀屋が口を開けば、それが正論だけに面白くないシ
エルだった。
「嫌みじゃなくて、単純な事実だよ。伯爵は本当のことに関しては、オーソリティーなんだから」
「……嫌味なら嫌味だって言え」
「嫌味を嫌味って言ったら、嫌味にならないよ」
 優雅な所作でティーカップに口を付けて笑う劉は、けれどそれが決して嫌味ではないのが判る。それは
シエルに注がれる視線が、柔らかいものばかりを滲ませているからだ。まるで歳の離れた妹に対するよう
な遣り様が、益々シエルを憮然とさせる。
「結局、嫌味なんじゃないか」
「マタニティーブルーも悪阻も脱っしたって執事君は言ってたけどねぇ」
「煩い」
 惚けた劉の口調に、シエルは憮然となってソファーから立ち上がり、セバスチャンが企画した書類をデス
クに戻すと、再びソファーに腰を落した。
「ダメだよ、そんな乱暴な動作しちゃ」
「イライラは胎教によくないって育児書に書いてあるよ」
「……お前達…実は裏でセバスチャンと共謀してないだろうな」
「それくらい常識だよ、常識」
 シエルの睥睨に、けれど劉と葬儀屋は疑り深いねと笑ったが、シエルは内心で確信していた。
こいつらバカだ。シエルが心底思ったのは言うまでもない。
 一体何を好き好んでいるのかと思う。裏社会の秩序と呼ばれる自分と、裏社会の一部の管理を任せて
いる二人と。本来気安くできる間柄ではない筈が、二人は極当たり前のように接してくる。それでも見誤
らない距離感の上で構われていることもよく判っているから、シエルは二人を別段遠ざけることはしなかっ
た。それはセバスチャンとはまったく別の意味合いで、大切にされている程度のことは判っているからだ。
「小生達にも、少しはその子達のことを心配する権利はあると思うから言うんだよ」
「何せ伯爵は、我にクスリを寄越せとまで迫ったくらいなんだから」
 中国四千年の歴史があるなら、堕胎薬の一つや二つ有るだろうと、切羽詰まった表情でシエルが劉に
迫ったのは、つい最近のことだ。
「まぁ、そんな都合のいいクスリがあったとしても、伯爵に渡した時点で、執事君に殺された気もするけど
ね」
 それも恐らくラクには殺してもらえなかっただろう。無機質で低温な双眸を持つセバスチャンは、冷やや
かな印象を裏切らない酷薄さで、相手を寸刻みにするだろう。
 端から見れば充分バカップルだと言うのに、互いだけがそれに気付かない。肝心な部分で言葉が足り
ないセバスチャンとシエルだ。行き違った感情は、周囲には傍迷惑以外の何物でもなかった。
「何せ二人、下手したら三人、あの世に送りかねないからね」
 シエルの胎内に宿る二人の胎児と、シエル自身と。そんな都合のいいクスリがあったら、三人を喪失う
可能性もあったセバスチャンだ。ラクに殺してくれる筈もないだろう。
 時折見え隠れするシエルへの愛情の深さは、目に見える部分の過保護さとは別にして、何故か切なさ
さえ垣間見える。それが何処からくる感情かは判らなかったが、セバスチャンのシエルに寄せる想いの在
処は、目に見える部分ほど、安易でもなければ安くもないのは見ていれば判る。
「…何で三人なんだ……?」
 セバスチャンと自分は胎児が男女の双子だと判っているが、劉と葬儀屋が知る筈もないから、当たり前
のように二人と言っている劉の科白に、シエルは訝しげに繊眉を顰めた。
「何がだい?」
 シエルの科白に、劉と葬儀屋が不思議そうな貌をする。二人にしては、らしくない程、キョトンとしている。
「都合のいいクスリがあったら、何で三人なんだ?」
 普通に考えれば、二人の筈だ。
「だってその子供達と、伯爵と」   
「子供二人と伯爵と、足算すれば三人だよ」
「だから」
「もしかしたら無自覚かい?伯爵は子供達って複数形で言ってるよ。双子ってことじゃないのかい?」
「人間離れした執事君だから、てっきり胎児の数まで把握ずみだと思ったんだけど、小生の思い違いだっ
たかい?流石の執事君でも、そこまで人外魔境じゃなかったかな?」
 てっきり性別まで把握しているかと思ったよと、葬儀屋は極当たり前の表情をして笑った。
「僕が?」
 セバスチャンとの会話では当たり前になってしまった科白を、この二人の前でも使っていた記憶は、け
れどシエルにはなかった。それはそれだけシエルにとって、この二人が気安い距離感に在るからだろう。
そのことを劉も葬儀屋も見誤らないから、シエルの無自覚さに、穏やかに笑っているばかりだ。
「まぁさ、執事君も生まれてくる子供達が可愛くて仕方ないんだろうし、プラン事態は完璧に体裁も整って
いるから、一つ一つ積み重ねてみればいいんじゃないかい?あの執事君だから、伯爵がOK出さなくても、裏で画策しそうだし。だったら構えて関わっちゃった方が、気分はラクだと思うよ。その方が胎教にもい
いだろうし」
「有能で完璧、何事にも万能な執事君が、ああも変貌するなんて、ちょっと拝めないからね」
 バカップルで微笑ましいねと、葬儀屋が長いプラチナブロンドを揺らした。







□ □ □







「お二人とも、今日はお疲れ様です。本日のアフタヌーンティーは、ロンドン市場で新鮮なオレンジが手に
入りましたので、シンプルにオレンジケーキにしてみました。紅茶はハロッズのブレンドNo.14でミルク
ティーをお淹れしました」
 そう言って、アフタヌーンティーより少しばかり早い時刻に出されたスイーツは、シンプルなオレンジケー
キだった。
「やっぱりお前、二人を呼び付けたんじゃないか」
 セバスチャンの科白に、シエルが苦り切った貌で、オレンジケーキを口にする。それは口の中でスポン
ジが柔らかく溶け、爽やかなオレンジの香りが広がるスイーツだった。けれどシエルは知らないのだ。今
後延々と、オレンジのスイーツが出されるのだということを。
「呼び付けられた覚えはないんだけどね。執事君から昨夜連絡を貰ったんだよ。今日所用で出掛けるって
ね」
 相変わらず執事君のスイーツは美味しいねと、すっかりセバスチャンのスイーツの虜になっている葬儀
屋は、らしくない程うっとりした貌で、ケーキを口にしている。
「愛妻家の執事君は、伯爵を一人残して出掛けるのには不安があったらしいから、察しただけだよ」
 シレッととんでもない科白を口にして、劉が香ばしいミルクティーを一口含む。
「やっぱりお前ら、共謀してるだろう」
 憮然となってシエルがセバスチャンを睥睨すれば、けれどセバスチャンは穏やかに笑っているばかりで、シエルは益々憮然となった。劉と葬儀屋は『ぬれぎぬだ』と、笑ってばかりで、心なしか目が泳いでいる。
「書類は目を通して頂けましたか?」
「どうせ反対したって、用意周到なお前のことだ。もう製造ラインも確保して、サンプルの一つや二つ作っ
てるんだろう?」
 それくらい推し量ることは容易だと、シエルは吐息を吐き出すと、ソファーからデスクへと向かい、書類の
束をセバスチャンに突き付けた。それに目を通し、セバスチャンが莞爾と笑う。書類の全てには、シエル
のサインが綺麗に書かれていたからだ。
「急務なのは紙オムツでしょうかね。あとはベビードレスと」
 めっきり本気の口調のセバスチャンに、シエルが大仰に溜め息を吐き出した。生まれる前からこれでは、子供達が生まれたら、あくまで親バカどころか、鬱陶しい生き物になりかねない。
「ベビーベッドもあるね」
「……やっぱりお前ら、グルじゃないか」
 苦々しげにシエルが呟けば、そんなことないよ〜と間延びした語尾で劉が笑う。
 底を掴ませない得体の知れなさが劉と葬儀屋には備わっていたが、ここ最近、何かとセバスチャンと意
気投合している節が見受けられ、シエルから見れば嫌な予感が夥しい。これで子供達が生まれたら、鬱
陶しくなるのは何もセバスチャンだけではないのかもしれない。
 そう想い、けれど堕胎まで考えたあの切羽詰まった状況を考えれば、今はバカみたいに穏やかな時間
に包まれて、これも倖せなんだろうなと薄い笑みを覗かせながら、シエルは優しい仕草で腹部をそっと撫
でた。