My Fair Lady

episode3act1 

orangery




 開け放した窓から入り込む微風が、ブルネットの柔髪をフワリと揺らし、通り過ぎていく。社交界で極上の
絹糸のような髪だと絶賛されているシエルのそれは、差し込む陽射が仄かに反射し、輪郭が微妙な金色に
滲んでいる。
 俗にいう天使の輪は、セバスチャンが朝夕手丹精込め手入れしている結果なものの、シエルに言わせれ
ば庭木の手入れじゃないということになる。その辺り、セバスチャンとシエルの意思疎通は、相変らず平行
線を辿っている。
 樹々を揺らす柔らかい風に、葉擦れが優しい音を響かせる。そんな優しい音を聴きながら、シエルは長い
ブルネットの髪をサラリと梳き上げ、デスクの時計を眺めた。
 時間は十一時少し前を指しているから、もうじきイレブンジズのお茶を持って、セバスチャンが顔を出すだ
ろう。シエルは軽く溜め息を吐き出すと、クッションのよく効いた椅子に細い背を深々と凭れた。
 午前の仕事を開始してから一時間。本社から送られてきた書類の殆どは、先日セバスチャンが生まれて
くる子供の為にと、親バカを発揮して作成した企画書の山が殆どで、絶対これは嫌がらせだとシエルが呻く
程度には、セバスチャンの企画書は種類も中身も充実しすぎていた。そして性質の悪いことに多岐に渡っ
ているから始末に悪い。
 他社との製品と比較した分析書と企画書の山は、確かに読めばセバスチャンの企画したものの方が遥か
に安全で、商品としての品質は上だと判るものばかりだ。けれど何も未だ生まれてもいない子供の為に、
此処まで企画を練る必要もないだろうにと、シエルなどは思ってしまう。それもタチの悪いことに、どうやら劉
や葬儀屋と言った人間も共犯らしく、中でも叔母であるマダム・レッドも荷担しているとなれば、凶悪さは二
乗どころか三倍増しだ。
「あいつも、生まれる前から……」
 親バカというのは、普通生まれてきた我が子に対するものの筈だ。確かに妊娠するのは女でも、その製
造過程は夫婦の共同作業だから、男親として愛情を注いでくれるのは素直に嬉しいし、愛されているのも
判る。けれど物事には順序だとか、根回しだとか、限度というものがあるのだと、悪魔の夫は今一つ、二つ
理解していない節が見受けられて、シエルは書類の束を見詰めると、深々と溜め息を吐き出した。そうして
下腹部にそっと手を当てる。
 双子なのだとセバスチャンは言っていた。男の子と女の子と、胎内に宿る生命は二人分だから、尚更体
調には気をつけて下さいと、セバスチャンは当たり前の表情をして言っていたが、当然そんな実感がシエル
にある筈もない。
「双子か……」
 初産の上に双子の出産。まして自分は元々が女だった訳ではなく、セバスチャンの魔力により遺伝子自
体を弄られているから、どれだけ安全な出産ができるのか?シエルが不安を覚えるのは当然の結果だ。
けれど同時に、自他ともに認める愛妻家のセバスチャンだ。不測の事態でも発生すれば、魔力でも何でも
総動員して、事態を収拾するだろうと、シエルは疑ってもいなかった。ある意味、そのくらいの覚悟と開き直
りがなければ、悪魔の妻などやってはいられないだろう。
「未だ胎動もないから、実感も湧かないけど…」
 それでも確かに二人分の生命が宿っているのだと思えば、セバスチャンがあれだけ神経を注ぐのは当然
なんだろうかと、シエルも何処か見当違いの感心をしていたから、担当医であるマドム・レッドや劉や葬儀
屋と言った、セバスチャンとシエルが結婚するまでの経緯を知る人間にとっては、いい加減にしろと呆れら
れても仕方ないだろう。
 あれだけ周囲を巻き込んだ紆余曲折のあと、一人で歩かせるのも嫌だとばかりに、屋敷内の移動の度に、お姫様抱っこをされた身としては、些かシエルの感心の方向性も見当違いなのは確かな筈だ。
 生まれる前から親バカを発揮している旦那に、これで子供が生まれたら、どれだけ親バカになるのか、シ
エルには見当も付かない。今でも充分鬱陶しい生き物になっているというのに、これで更に磨きが掛かった
ら、悪魔で鬱陶しい生き物と指を突き付けて宣言してやると、シエルは内心で堅く誓っていた。
 それでも、愛されているのだと思えば、極自然と瀟洒な輪郭に柔らかい笑みが刻まれるのは、シエルが
倖せな証拠だろう。
 シエルがそんな感慨に耽っている時だ。デスクの上の時計が丁度十一時を指した瞬間を見計らったかの
ように、ノックする音と同時に、重厚な扉がゆっくりと開かれた。






□ □ □






 莞爾な笑みとともに差し出されたアヴィランドのケーキ皿。華やかで可愛らしいピンクの花が描かれたそ
れは、シエルというより、完全にセバスチャンのお気に入りだ。元々ブランドにさして拘りのないシエルは、
一切合切を旦那であり執事のセバスチャンに任せているから、シエルの日常を彩る大半はセバスチャンの
好みで埋められていると言っても、大きな間違いではないだろう。ドレスから香水、アメニティに至まで。
シエルを取り囲む日常品は、セバスチャンの好みが綺麗に反映されているものばかりだ。ティータイムに使
用するカップやケーキ皿も、その一つにすぎない。
 そんな可愛らしいピンクフローレのケーキ皿を見た瞬間、シエルは途端に憮然となり、綺麗な造作をいび
つに歪めた。
「セバスチャン」
「何でしょうか?マイ・レイディ」
 薄く細い肩が小刻みに慄えているのを見て取って、セバスチャンは莞爾と笑うと、ティーカップを音も立て
ずに差し出した。
 濃厚なミルクティーの香りが室内にゆっくりと広がるのに、けれどシエルの機嫌は地を突き抜ける威勢で
悪化の一途を辿っている。
「これは……一体どういう嫌がらせだ?」
 小刻みに慄える薄い肩は、何も出されたスイーツに感動した訳でもなければ、気分が悪い訳でもなかった
。サファイアの瞳は、目の前に置かれたスイーツの中身を嫌そうに凝視している。
「何で私が、奥さんに嫌がらせなんてすると思うんですか」
 いっそにっこりと擬音が響きそうな旦那の笑みに、けれどシエルは嘘くさいと一喝し、皿の横に置かれた
シルバーを取り上げ、それをスイーツの中央に突き立てた。
「奥さん」
 そんなシエルの煮詰まり具合など綺麗に見透かして、セバスチャンはやれやれと大仰に溜め息を吐き出
した。
 一流のレディとは思えませんねと嫌味を口にすれば、シエルの視線が剣呑さを増した。
「誰の所為かよく考えてみろ!」
「私の所為ですか?」
 引き攣った笑みに蟀谷に青筋が立つ威勢で、サファイアの眸が眼前の夫を睥睨する。けれどセバスチャ
ンはシエルの睥睨にしれっと素っ惚けた笑みを覗かせるばかりで、シエルは不機嫌な表情のまま、スイー
ツに突き立てたシルバーを引き抜くと、それをセバスチャンの眼前に突き付けた。
「奥さん、シルバーの使い方が間違ってますよ。ついうっかり凶器にしてしまいましたなんて言い訳は、通
用しませんよ」
「セバスチャン、昨日のスイーツのメニューを言ってみろ」
 戯言に等しい旦那の科白を生温くスルーして、シエルは憤懣やる方ない様子で口を開いた。
「昨日ですか?昨日のこの時間はシンプルにパンケーキでしたね」
 白い手袋を嵌めた指先を口許に当て、僅かに考える素振りを見せながら、セバスチャンが笑った。
「添えられたジャムは、オレンジマーマレードだったな」
「アフタヌンーティーは、オレンジで甘みをお付けしたチーズケーキでしたね」
「夕食のデザートは、オレンジムースだった」
「そうですよ」
 それが何か?と、いっそ優美とさえ言える微笑みを向けられ、シエルが嫌そうに繊眉を吊り上げる。
 何もかも見透かしていながら、とんでもない悪魔だと、シエルは内心で悪口雑言を叩き付けた。
「だったら、今僕の前にあるスイーツはなんだ?」
「見てお判りになりませんか?困りましたねぇ」
「セバスチャンっ!」
「そんなにオレンジタルトがお気に召しませんでしたか?」
「誰が気に入るか!」
「私の記憶違いでしたか?奥さんはオレンジタルトがお好きだった筈ですが。でしらオレンジのミルフィーユ
でもお出ししましょうか?」
 アフタヌーンティー用に用意してありのすからと告げるセバスチャンに、シエルは今度こそ落涙したい心境
で、がっくりと薄い肩を落した。
 立て板に水。先日妄想に等しい企画を口にした時と同じように、今のセバスチャンには何を言っても、恐ら
く通用しないだろう。その妄想が形を成すと、デスクの上に揃えて隅に寄せられた書類の山になるんだなぁ
と、シエルが泣き出したい気分になったのは当然なのかもしれない。
 数日前ロンドンに行った際、新鮮なオレンジが手に入ったと言っていたが、まさかそれがこんな形で連日
スイーツに活用されることになるとは、流石にシエルも予想出来なかった。これでは殆ど嫌がらせの領域だ。何に対しての嫌がらせかは判らないが。
 オレンジジュースに、オレンジマーマレード。デザートとしてシンプルにフルーツの盛り合わせで出される
時もあれば、スイーツとして活用される時もあるものの、此処数日シエルが口にしている食事の半分以上はオレンジ系だ。勿論三食の食事のメインは妊娠中のシエルに必要な栄養素とカロリーが計算されている
が、スイーツやジャムなどで出される代物は、此処数日、オレンジばかりだ。無類のスイーツ好きのシエル
にしてみれば、これが嫌がらせや嫌味じゃなくって何になるんだと、憤懣やる方ない様子になるのも、もっと
もだろう。
「奥さんは、オレンジの意味をご存じですか?」
 けれどセバスチャンはそんなシエルの内心など綺麗に見透かしながら、何処か静邃な気配を滲ませてい
る。
「……知ってる…」
 セバスチャンの科白に、シエルは半瞬の間を置き、渋々と言った態でオレンジタルトに口を付けると、憮然
としたまま口を開いた。
「でしたら、私の気持ちもお判りですね」
「それとこれとは話しは別だ。百歩譲って今日がオレンジデーだったら、一日くらいはオレンジ三昧にも付き
合ってやる。だけど此処連日オレンジじゃないか。いい加減飽きる」
 無論連日出されるスイーツがオレンジでも、創意工夫されているのは嫌でも判る。食べればそれはそれ
で美味しいし、満足もしてしまう。けれどこうも立て続けでは嫌味にしかならないと、シエルはタルトを口にし
ながら、溜め息を吐き出した。
「悪魔のくせに、心配性なんだお前は……」
 莫迦と小さく呟いて、シエルは目の前のオレンジタルトを眺めた。
 オレンジに込められた意味が判らないシエルではなんったが、一体何にこんなに心を注いでいるのかと思
えば、不意に視界が滲む気がして、シエルは慌てて切り分けたタルトを一口口に放り込んだ。
 オレンジの甘みと酸味がほどよく口の中で溶けていく香ばしいタルトは、それでいてさっくりとした食感を
失わない。
「オレンジはレモンと同じくらいビタミンがCが豊富ですから、妊娠中はどうしても低下しやすい免疫力のア
ップにも繋がりますし、コラーゲン生成を助けてくれて、お肌にもいいんですよ」
 デスクを挟んで俯く瀟洒な面差しに緩やかな笑みを見せると、絹糸のようだと社交界で羨望の的になって
いるブルネットの髪をサラリと撫で、セバスチャンはデスクを回り込んで、椅子に腰掛けている華奢な躯をフ
ワリと抱き上げた。
「セバスチャン?」
 突然の浮遊感に眼を円くしたシエルは、けれど次の瞬間、セバスチャンの膝の上に横抱きにされている
恰好に、慌てた様子で立ち上がろうとして、失敗する。力など欠片も入っているように見えない長い腕に緩
やかに抱擁され、逃げ出すことができなかったからだ。
「昼間から盛るな!」
 第一僕は妊娠中だぞと、シエルは抱えられた膝の上で駄々っ子のように抵抗し、けれど情欲の欠片もな
い慣れた腕の感触に、瀟洒な面差しが訝しげにセバスチャンを見詰めた。
「セバスチャン?」
「こうしたい気分なんですよ」
 くすりといつもの笑みを刻み付け、セバスチャンは未だ握られているシエルの指からシルバーを掬い取る
と、切り分けられた一口サイズのタルトを、淡く彩られた愛妻の口許へと運んだ。
「……僕は子供か?」
 らしくないセバスチャンの様子にシエルは渋々といった態で口を開くと、静かな動作でタルトが口の中へと
入ってくる。それをゆっくりと味わいながら咀嚼すれば、此処連日食べさせられているオレンジのスイーツと
はいえ、やはりセバスチャンのスイーツは絶品だと、内心で苦笑する。
「オレンジは常緑樹ですから結婚に結び付いて、婚礼の花束に使用されることもあるんですよ」
「倖せの意味を持つって言いたいんだろう?」
 黄金のような綺麗な果実とは裏腹に、その花は清楚な白い花だ。
「豊穣の果実として、子宝祈願の果実でもあるんですよ」
 知っていましたか?そんな風に笑い、セバスチャンがシエルの下腹部にそっと手を添えれば、シエルは半
瞬呆れた様子で眼を円くして、次には小さい吐息を吐き出した。
「聖母マリアの果実とも言われてる」
 やんわりと触れてくる掌。胎動など未だない胎内に宿る命の実感は薄いものの、自分ではない他人の生
命が宿る重さはよく判る。それが一度は堕胎を覚悟した生命となれば尚更だ。
「それで連日オレンジか?」
 セバスチャンの指からシルバーを奪い取ると、シエルはタルトをパクリと頬ばった。
「飽きたんじゃなかったんですか?」
「飽きた、だけど今はこれしかないんだから仕方ないだろう?」「仕方ないから、ですか」
 仕方ない。是非は別にして、シエルは諦めることに慣れすぎている。過去が取り戻せないのと同じように、それは失ってきたものが多すぎるからだ。男としての性別さえ、シエルは前触れもなく切断されているの
だ。絶望に慣れ過ぎてしまったから、仕方ないと諦めることも、受け入れることも容易なのかもしれない。
そう思えば、自分のとの関係さえ、その結果にすぎないのかもしれない。それが時折らしくない程、悪魔の
自分さえ不安にさせるのだとシエルは知らないだろうと、セバスチャンは内心で苦笑する。
「なんでお前は今になって、そんな下らない心配してるんだ?」
 旦那の内心を見透かして、シエルが何とも言えない貌をする。妊婦の自分が不安になるのは判る。けれ
ど張本人のこの悪魔が何をこんなに心配しているのか、シエルには理解出来ない。不安になるのも心配す
るのも、その権利は自分にある筈だと、シエルは疑っていなかったからだ。
「怖くないですか?」
 長い髪をさらさらと梳きながら、セバスチャンはタルトを頬張る愛妻の綺麗な横顔を眺めた。
 命数の決められた寿命しか生きられないシエルを幾度見送ってきたか、その都度自分がどれだけ絶望し
たのか、勿論シエルは知らない。それはシエルが知らなくていい、理不尽な生命の理だからだ。その存在
が今腕の中に在るのは途方もない幸運だと思うものの、果たしてそれがシエルにとって最良の結果だった
のかと言えば、セバスチャンに自信はなかった。
「怖いに決まってるだろう?」
 けれどそんなセバスチャンの内心を見透かしているのか、シエルは科白とは裏腹に、ひどく柔らかい瞳で
セバスチャンを見詰めると、「バーカ」と可愛らしい軽口を叩いた。
 シルバーの先に刺したタルトをセバスチャンに向ければ、シエルのそんな仕草に苦笑し、セバスチャンは
差し出されタルトを口にする。
 仄かな甘さと酸味がほどよく効いたタルトは、シエルのお気に入りだ。
「お前は全然何も言ってくれなかったし、あまつさえ顔も名前も知らない男からの縁談をセッティングしたり、
かと思うと、気違いみたいに僕を犯して」
 生んでほしいとも、堕ろせとも言わなかったセバスチャンの身の裡など、当時の自分には余裕もなくて、
推し量ることは何一つできなかった。それは自分にも胎内の子供にも興味がなかったからだと信じて疑わ
なかったから、セバスチャンの内心など推し量ることはできなかった。何より相手は悪魔だ。人間と同じ情
など持ち合わせている筈もないと、当時は疑ってもいなかった。そうかと思えば、求婚してきた顔も名前も
知らない男との縁談を進めようとしたり、そのくせ、セバスチャンという男を躯の隅々まで覚えこまされるか
のように、一晩中嬲られ、犯された。
「……犯すは、ひどい言い様ですね」
 セバスチャンが苦笑すると、勝ち気な視線が不意に揺らぎ、淡い花片を連想させる口唇が、柔らかい弧を
描いた。
「お前があんな無茶をして、よく子供達が堕りなかったか、今考えると不思議だな」 
 不思議というより、いっそ生命の謎だとシエルなどは思ってしまう。
 セバスチャンは何も語らなかったが、自分が妊娠していたことは知っていた筈だ。そこを様々な体位で突
き上げられて、よく流産れなかったものだと今なら思う。決してマダム・レッドには言えないなと、シエルは
半瞬、クスリと笑った。
「無茶されて子供達が堕りていたかもしれないってことも、自分が堕ろしていたかもしれないことも、今考え
ると怖くて仕方ない」
 未だ下腹部に触れているセバスチャン手の上にそっと掌を重ね、シエルはフワリと静かな笑みを浮かべ
た。
 どちらにしても、そんな結果になっていたら、今此処に自分はいなかっただろう予感がシエルにはあった。
そしてそれはきっとセバスチャンも同じ気持ちなんだろうなと、なんとなく感じ取れた。
 親になるって、つまりはこんな気分を通過することなのかもしれないなぁとなんとなく思えば、不意に明度
の淡い陽射の中、穏やかに微笑む母親の姿が脳裏を掠めた。
 諸々の事情も含め、悪魔と契約したばかりか、その悪魔の子供を妊娠し、婚姻した報告は言ったものの、
最近は何かと忙しくて、墓参りどころじゃなかったと思い出す。親不孝だなと、少しばかり思うものの、きっと
墓参りなんて感傷的なものは、望まれていないこともなんとなく判る。
「何が生まれるか、判りませんよ?」
 何が詰まっているのか、時折その軽さに不安になってしまう細い躯には、確かに二人分の生命が宿って
いる。
 悪魔と人間の子供はまさしく間の子だ。一体どんな姿形で生まれてくるのか見当も付かない。けれどそう
告げれば、そんな内心など蹴散らすかのように、淡い口許に透明な微笑みが浮かんだ。それは虚勢も何も
なく、シエルの内心の覚悟を静かに伝えてくるものだったから、セバスチャンはその強さに、半瞬ワインレッ
ドの双眸を見開く羽目に陥った。
「子供に決まってるだろう?」
 今更何を言ってるんだ?キョトンと小首を傾げた拍子に、長いブルネットの髪が柔らかく揺れる。緩い風に
揺れるそれは、差し込む陽射を透過して、淡い光を散らしていく。
「…シエル……」
 見た目の幼い少女の外見とは裏腹に、気高く強い、綺麗な魂。だからこそ永遠とも思える時間、シエルに
焦がれて求め続けた。
「お前の方がマタニティーブルーみたいだ。マタニティーブルーは妊婦の特権だろう?」
 細い指先がそっと端正な輪郭に触れ、覗き込むようにワインレッドの双眸を凝視する。
 肝心な部分では何も語らないワインレッドの双眸。時折それがひどく切なげに自分を見ていることを知って
いるものの、その切なさが何処からくるのか判らない。それが時折自分を不安にさせるのだと、セバスチャ
ンは何処まで知っているだろうか?今もそうだ。それは今更下らなすぎる心配というものだ。
「僕はお前を選んで、お前の子供を生む覚悟をしたんだ。悪魔の子供を生む覚悟なんて、愛してなきゃでき
ないって、ちゃんと覚えとけ」
 此処まで言って判らなかったら離婚してやる。花が綻ぶような笑みを向ければ、ワインレッドの双眸がらし
くない程見開かれ、次には緩い自嘲を刻んだ。
「元気なベビーを生んで下さいね、奥さん」 
 白く細い指先を掬い上げ口吻ると、膝の上に乗せた細い躯をやんわり抱き締め、小作りな頭を引き寄せる。肩口に顔を埋めさせれば、小さい笑みに髪が揺れる。
 光を散らすブルネットの長い髪。自分の心配などあっさりと蹴散らして、深奥に触れてくる静かな決意。
もしかしたら、シエルには勝てないのかもしれないと思う。
「お前も案外、大きい子供みたいだな」
 図体のでかい男が見せる、子供のような甘えた部分。まして相手は悪魔で、人間でさえない。それでもこ
んな姿が自分を安心させるのだから仕方ない。ちょっと可愛いとさえ思ってしまう。
「男でも、マタニティーブルーになるんですよ」
 焦がれ続け、求めた魂。それが自分の子供を宿しているとなれば尚更だ。過剰な心配は却ってシエルを
不安にさせるだけだと判っていて、やはり心配せずにはいられない。それでも一時よりは落ち着いたのだ、
これでも。シエルを一人で歩かせたくないと思っていた内心に折り合いをつけて。
「子供達が生まれたら、一緒になって甘えるなよ」
 生まれる前の子供達に、今から莫迦みたいに親バカぶりを発揮しているくせに、子供が生まれたら一緒
になって甘えたことを言い出しそうな旦那に、シエルは半瞬、遠い眼をした。
「それは自信がありませんね」
「……おい…」
 にっこりと音が響きそうな威勢で、極当たり前のように告げられた科白に、シエルは嫌そうに眉を寄せた。
 そんな場面、幾らでも想像できすぎてしまうからだ。
莫迦みたいに子供達を甘やかす反面、子供と一緒になって甘えてくる旦那。考えるだけで鬱陶しい生き物
だ。下手をしたら、一番手が掛かるのは、セバスチャンかもしれない。
「奥さんを甘やかすのも、奥さんに甘えるのも、夫たる私の特権ですからね、マイ・レイディ」
 元気なベビーを生んで下さいね。
セバスチャンは呆れるシエルを緩やかに抱き締めた。