ARCANA
事実に張り付く真実価値






事実に張り付く真実の価値

ARCANA 1





 1851年。水晶宮で大博覧会を開催したイギリスは、以降ロンドンを中心に、未曾有の経済発展を遂
げていったが、発展する国内経済と反比例し、拡大する一方の格差社会はまた別の問題を生み出して
いた。
 貴族達上流階級の人間や、急速な産業革命の波に乗り、発展していく商家の屋敷が密集するロンド
ンのウェストエンドとは対極に位置して、産業革命の到来により、膨大な数の工場が建ち並ぶイースト
エンドは、労働階級の下層者が生活する零落の地と言えた。
 狭苦しい囲い地に伸びる細い路地。袋小路に細道と、ありとあらゆる小道が入り込んだ迷路と大差な
い貧困街。路地には泥棒と売春婦、放免になった犯罪者が溢れ返っている劣悪な環境。それが零落を
象徴するイーストエンドであり、華やいだ発展を遂げるロンドンのもう一つの側面だった。それはウェスト
エンドと真逆に位置して、まるで合わせ鏡の鏡像のように対照的だ。光が在れば必ず影が出来るという
作用どおり、イーストエンドはウェストエンドの影の側面なのかもしれない。
 その一地区のホワイトチャペルで、娼婦ばかりを殺害する、切り裂きジャックと呼ばれる連続殺人が発
生していた。
 劣悪な環境で、イーストエンドの中でも特に危険だと言われているホワイトチャペルは、けれど世間の
評価とは対照的に、殺人事件の発生率は極端に低い区域でもあった。それだけに人々の恐慌は並大
抵ではなかっただろう。
 切り裂きジャックと呼ばれ、世間を恐怖と集団ヒステリーに陥れた事件が発生したのは、1888年の
社交期。その前年、ロンドンで発生した殺人事件は約80件。けれどその中で、ホワイトチャペルで発
生した事件はゼロだったというロンドン市警の統計結果が出ている。
 危険地帯と呼ばれてはいるものの、殺人という凶悪犯罪の発生率は極端に低い不可思議さ。劣悪な
環境だけに窃盗や傷害は日常何処にでも転がっており、ロンドン市警に検挙される住人は少なくなな
いだろう。それでも殺人という凶悪犯罪が発生していないのは、在る意味で奇跡的なのかもしれない。
 元々連続殺人という考え方自体を持たなかった警察にとって、先例となるべき事案などある筈もなく、
プロファイリングという技法を持たない警察捜査は乱雑で未熟で、事件解決に繋がる端緒一つ見出だ
せてはいなかった。犯罪学も漸く黎明期を脱したばかりの状況では、当然指紋照会など未確立で、実
際の捜査に取り入れられてはいなかったくらいだ。
 集団ヒステリーが容易に発生する人々の恐慌と、それに半比例して、端緒一つ見つけられない警察
捜査。解決策一つ見出だせない警察への不満は増悪を伴い膨れ上がるばかりで、恐怖に陥った市民
に乗じ、政治犯が暴動を扇動する可能性は否定しきれない。その為、王室も黙ってはいられなくなった
のだろう。
 殺害された被害者は、王室から見れば痛手になるような存在ではなかった筈だ。下層階級に住む娼
婦など、王室にとっては無縁の存在で、同じ国民と思ってもいなかったかもしれない。
 劣悪な環境下では毎日多数の死者が出ている。特に産業が発展し工場が建ち並ぶイーストエンドの
死因は呼吸器疾患が半数を占め、それでも国は対応策をこまねいているのが現状だ。
 イーストエンドの住人は白い奴隷達とも呼ばれ、華やいだロンドンの影を象徴するイーストエンドは、ロンドンの殺人機械とまで呼ばれているくらいだ。
 王室にとって必要なのは、王制を存続させる為の貴族社会だ。急速な経済発展を遂げる国内では、
貴族もその階級に胡座を掻いて閑舒としていられなくなっている。王室が恐れるのは、階級だけはある
ものの、金を持たなくなった貴族達の造反行為と離解だろう。
 その為、『女王の番犬』と代々呼ばれるファントムハイヴ家の当主であるシエルの元に、女王からの
命が下った。その意味を、シエルは正確に理解していた。
 娼婦ばかりを狙った連続殺人。マスコミなどの情報機関に公表されてはいなかったが、臓器の一部
が持ち去られている猟奇殺人。世間を恐怖に陥れている事件そのものはシエルも勿論知っていたが、
裏に秘匿されている事実までは知り様がなかった。シエルがそれを知ったのは、都合よく情報屋代わり
に使っている葬儀屋からもたらされたものだ。
 女王が下す命の中には、事件に関する情報など入っていない。発生した事案に対し、早期の解決を
求める命が下るだけで、それはまるで、水が高い場所から低い場所へと流れ落ちるのと同じように、下
される命は常に一定方向にしか流れない。元より、『裏社会の秩序』と呼ばれ続けているファントムハイ
ヴ家の当主に、それを拒否する権利は与えられていなかった。ファントムハイヴ家の爵位を継ぐというこ
とは、『裏社会の秩序』とやらの穢汚を引き継ぐことを意味しているからだ。
 だからシエルは情報を集積することから始めなくてはならず、そして集めた情報は、思ってもいなかっ
た猟奇性を示していた。
 連続殺人というだけでも充分異常だったが、それ以上に猟奇性を示していたのは、ただ殺害を目的と
したのではなく、どう考えても、臓器を持ち去ることを目的としているとしか思えない、その執拗なまでの
異常性だった。
 喉を掻き切り被害者を死亡させ、それでは飽きたらず死体を切り刻み臓器を持ち去る。死者への冒涜
も甚だしい凄惨さは、まるで悪魔のようだと言われているが、悪魔はそんな無駄なことをしないとだろう。
 少なくとも自分の知る悪魔は、そこまで人間に執着していないことを、シエルは知っていたからだ。
 殺害した被害者を切り刻む。それはそれだけ長く殺害現場に居たことを意味している。そこまでして長
くそんな場所にとどまり臓器を持ち去るなど、到底人間の業としか思えない精神の闇を感じる。悪魔はそここまで人間に執着などしないだろう。
 悪魔は総じて享楽的だ。殺害過程にそれを認めたとしても、魂を奪ってしまえば後は不必要の筈だ。
弄ぶなら、捕らえた魂を弄べば済む筈だ。殺害した死体を切り刻むという残忍さで弄ぶ意味は何処にも
ないだろう。
 人間に執着するのは、いつだって人間だ。それが愛情であれ、増悪であれ。ベクトルの方向は様々だ
ろうが、執着という一点で意味は同じだ。そのことをシエルは身を以て知っていた。
 人間は何処まで言っても、所詮人間ってことだなと、まるで大英帝国の世紀末を象徴するような事件
に、シエルは小さく苦笑し、吐息を漏らした。
 繁栄と栄華を極めた帝国に翳りを落とす昏い影。例え小さな石でも、投げ込めば大きい波紋を呼ぶの
は容易だ。まさに今回の事件は小石だったのかしれないという嫌な予感が胸を過ぎる。
 起きる波紋が一体何かは判らないものの、波紋が起きていると推し量るのは可能だ。その波紋が何
処まで広がっていくのか?女王が下した命は、それを早急に止めることだ。
 そして優秀と評される執事を使い調べさせた結果、臓器を持ち去る手際の良さから、医学に精通して
いる者。事件当夜にアリバイのない者。そして臓器を持ち去る儀式性から、秘密結社や黒魔術に関係
する者。それらを列挙して辿り着いた人物は一人だけだった。
 ドルイット子爵。
 階級制度が絶対な貴族社会の中で、王室を頂点に、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵という階級が存
在する。子爵は下から二番目であるが、産業革命が急速に到来している現在、階級だけでは貴族の生
活も成り立たなくなっている。その中で子爵家はそれなりに事業は巧く回転しているのか、社交期の終
わりに盛況なパーティーを催している。無論ただでパーティーを開ける筈もないから、シーズンの終わり
にパーティーを開けるということは、そのまま財力の在処を物語っているのと同義語だ。
 人脈作りと虚栄を満たす誇示と優越。それが社交パーティーの主題だ。
そうして社交界の華と呼ばれる叔母のマダム・レッドの協力を得て、ドルイット子爵のパーティーに潜り
込んだシエルは、そこで目的の人物に接近し、予想通りの事態に陥っていた。
  内蔵が歪む程、ウエスト部分を絞り上げているコルセット。それだけでも充分息苦しい代物だという
のに、細首から左右の手首に回された縄で更に躯を拘束され、目隠しまでされた状況では、いい加減
さっさとセバスチャンを呼び付け、全てを終わらせたい心境に陥っていたとしても当然だろう。けれどここ
で終わっては切り裂きジャック事件は解決しないことも判っていたから、シエルは辟易としながら周囲の
様子を慎重に窺っていた。
 どれだけの広さがあるか判らないが、部屋全体を包む甘ったるい匂いは、恐らくアヘンの類いか何か
だろう。周囲を覆うざわめきは、猟奇殺人に荷担する人間の禍々しさは微塵も感じず、下種な好奇心に
塗れている。それが薄いドレス越しの肌身に伝わり、シエルをひどく不快にさせた。
 視姦されている生々しさが、薄い肌身に突き刺さる。まるで見知らぬ男達の手の中で玩弄される卑猥
な気配に、薄い肌が無意識に逆立っている。

(これも全部、あいつの所為だ)

 生々しいまでに突き刺さってくる卑猥な視線の前に身を曝し、シエルが忌ま忌ましげに舌打ちする。 
男に抱かれることを知らなければ、突き刺さる視線の意味など知らなくて済んだ筈だ。
 肉体の繋がりが契約の範疇なのか判らないものの、セバスチャンに抱かれるようになって作り替えら
れていく内側の脆さを、シエルは嫌という自覚している。
 器の性別に雌の中身。毎夜の仮初の行為に深まっていく愉悦。快楽に慣らされた肉体は、愛情の有
無など無関係に、慣れた指先に容易に反応する。
 その時だけは、儀式のように手袋を外す長く細い指。セバスチャンの左手の甲に刻まれた契約の印と、自分の右眼に嵌められた契約書。繋がり合う肉体の中で、意思も意識も混融し、契約は二重三重に
縒り合わせられていく。
 肉を番ったからと言って、より強固になるものなど一切ないだろうに、求めてしまう誘惑に勝てない弱
さ。作り替えられていくのだとすれば、それはまさしく内側の最も脆い部分だ。
 シエルの意思など無視して、あっさり官能に色付く肌。悪魔の性器を咥え込み、浅ましく蠢く胎内。
どれだけ嫌だと拒んでみても、細腰を押さえ付けられ、最後には胎内に射精される。他の男など知りよ
うもないから比較などできないが、誰かを身の裡に咥え込み、その精液を吐き出されるというのは、こん
なにも生々しいものなんだろうか?
 異界の住人とはいえ、ただ一人の男に雌にされた内側。
それをしてまるで未分化のヘルマプロディートスだと静かに笑ったのはセバスチャンだ。その意味する
根深さは判らないが、褒められていないことだけは判った。かと言って、哄笑を含まない微笑みは、事
実を事実として告げる淡如さしか持ち合わせていなかったのも同時に判ってしまったから、それがセバスチャンに見える、シエル・ファントムハイヴという生き物の姿なんだろうと、奇妙な納得の仕方をしたのをシエルは覚えている。「駒鳥、気付いているんだろう?」 
 頭上から揶揄を含んだ声が降って来るのに、シエルは反射的に顔を上げた。けれど目隠しをされた視
界に映るのは濃い闇だけで、僅かな光が差し込んでくることもない。そのくせ肌身の上を嬲っていく下
種な視線は可笑しい程に瞭然で、その不快さに吐き気さえ感じる。
「楽しいことを知りたいという好奇心旺盛なお嬢さんには、とても楽しい場所だと思うよ?」
 口調だけは好青年なものの、滲む気配は卑猥さを丸出しにしている浅ましさに、子爵は気付いてもい
ないのだろう。
「なんでこんな……」
 慄える声を紡げば、脆弱な生き物を手の内で扱う高慢さを滲ませ、ドルイット子爵は哄笑を深めた。
「金になるからだよ」
「お金……?」
 ドルイット家の資産状況は調べられる限り調べたが、表向きの事業々業績は、伸びて得るとは言えな
いが、落ち込んでいることもない。破産に追い込まれる貴族が多い中で、それは上々ということだろう。
経済革命が到来している現在、業績が伸ばせなくても、常に安定していることは大切なことだからだ。
「階級の上に胡座を掻いていられなくなった貴族も多いが、相変わらず金と暇を持て余している貴族も
多い。最近では企業家も増えたからね。こういう会員制の秘密パーティーがいい稼ぎになるんだよ、好
奇心旺盛な駒鳥」
「……そんな…」
 大袈裟に怯えて息を飲んで見せれば、下種な嗤いが深くなるのが判る。簡単に手の内を見せる男だ
と思えば、世間を恐怖のどん底に陥れている張本人とは、どうにも思い難い。
「さぁ駒鳥。楽しいことを教えてあげるよ、その幼い躯にね。なに、心配はいらないよ。君はマダム・レッ
ドの大切な姪っ子。ちゃんと帰してあげるよ。どうせ一度は誰もが経験する通過地点だ。経験豊富な殿
方に身を任せるのも、賢い女の生き方というものだよ」
 何も知らない幼い処女。それが男達に弄ばれ引き裂かれる時、一体どんな悲鳴を張り上げるのか。
とても愉しみだと下種な笑みが浮かぶ。
「………悪趣味……」
 ボソリと呟いたシエルの声は、子爵には届いていなかった。シエルは凌辱の恐怖になど、欠片も怯え
てはいなかった。むしろ冷静に周囲の状況を観察していたことを、子爵は気付きもしなかっただろう。
 甘い言葉を囁き、この部屋に連れ込んできた少女達は、誰もが同じ反応を返した。身の上に起きた事
実に悲鳴さえ上げられず、男達の欲望の前に処女を引き裂かれ、幾人とも知れない男達の玩弄に、最
後には息も絶え絶えに死んで行った。
 シエルもそんな少女達の一人で、悲鳴さえ上げられず慄えているのだろうと、ドルイット子爵は疑って
もいなかった。恐らく此処に監禁されたのが少年だとしても、辿る運命に少女達と差異のない反応を示
しただろう。
 けれどシエルは違う。伊達に凄惨な状況から一人生き延び、一族の怨嗟と業を、小さい躯に背負って
生き続けている訳ではなかった。
 冷静すぎる洞察力は、視覚が閉ざされている分、五感がいつもより敏感に機能し、衣擦れの音一つを
も聴覚は拾い上げる。感覚を研ぎ澄ませれば、閉ざされた視界と周囲の距離感は消え失せる。それを
シエルは経験上判っていた。
 元々十歳にして爵位を継ぎ、ファントムハイヴ家の事業を拡大させていった錬金の才は、取り巻く環境
から世情を読み取り、無意識に取捨選択されてきた洞察の結果だ。それは十歳の子供が持つには過
ぎる才で、一人生き延びた裏社会の幼い王に、周囲の大人達が恫喝されるのも当然の結果だった。
「最初は怖いだろうが、慣れればうんと気持ちよくなるよ」
 楽しませてあげるよと嗤いながら、バサリと布を引き剥ぐ音が響く。その瞬間、視界を奪われていた瞳
に鈍い光が差し込み、同時に、周囲のざわめきが耳に痛い程突き刺さった。
「ご静粛に、お集まりの皆様。お待ち兼ねの商品です」
 本日の目玉商品ですよと付け加えれば、絡み付く視線の浅ましさは生々しい程だ。視姦というより、
見えない触手で肌の上を玩弄される不快さに、シエルは忌ま忌ましげに舌打ちした。
 凌辱の恐ろしさは微塵もないが、込み上げる吐き気にも似た嫌悪は堪え難い程だ。自分が下種な男
達の欲情の的だと思うだけでも、別の意味で悍ましさが湧く。けれどそんな最中、シエルは唐突に気付
いてしまったことがあった。

(……そう言えば……)

 毎夜繰り返される行為の中、自分を見詰めてドレスの内側の肌を引き裂く妄想を孕ませている男達の
ように、セバスチャンが欲情を覗かせたことは欠片もない。忌ま忌ましい程理性的で、自分の身の裡か
ら痛みと快楽の両方を巧く引き摺り出して行く。それも悪魔の手管なのかと思えば、一体どれだけの人
間と関係してきたんだと些か呆れないこともない。中には悪魔の子供を生んだ女の一人や二人、居た
のかもしれない。正気を保っていたのかは判らないが。

(経験豊富な殿方に身を任せるのが、賢い女だって?)

 そーいうのは自我のない莫迦というんじゃないのか?と、シエルは状況も忘れて内心で呆れた。
 社交界の華と称賛され、下僕志願者が後を立たない行動力の塊のような叔母見て育っていれば、自
然と女性に対する価値観が高くなっても当然なのかもしれない。
 経験豊富と言うのなら、それこそ百年は軽く超えて生きている生き物に慣らされた自分の方が、余程
経験豊富の筈だ。

(僕が犯されたら、あいつはどんな表情するんだろうな?)

 毎夜睦言と大差なく「淫乱な躯だ」と繰り返される言葉の真偽など計りようもない。後ろだけで達する
快楽の根深さを教えられた躯が、他の男にも同じ反応を返すのかと問われれば、シエルには判らない
としか答えようがないからだ。
 繰り返されるセックスに一体どんな意味が込められているのか?最初は何処か儀式めいていたよう
に思う。初めての快楽と、雄を受け入れる痛みとに悲鳴を上げ続けていた。けれど今となっては手近で
手軽に使用できる、睡眠薬のようなものだ。
 契約か享楽か、そのどちらをも含むのか。セックスに対する意味を、セバスチャンは何も語らない。
最初の時も、なんとなくで始まってしまったように思う。そして流されて続けている関係を一体何と呼ぶ
のか?

(巧く一致した利害の結果、かもしれないな…)

 抱かれるという意味は、少なくともシエルにとって、それは強制的に意識を手放すことと同義語だ。
快楽に流され、そして泥のような眠りに落ちる。それだけだ。セバスチャンにとっては何だろうかとフト思
う。
「怯えているのかい?可愛い駒鳥」
 囁かれる言葉に、シエルがこいつは心底の莫迦だと、内心辟易していたことを、子爵は勿論知らない
だろう。
 世間という場所に投げ込まれた小石。波紋を呼び込んだ小石は、けれどこの男にそんな技量がある
だろうか?
 医大を卒業しているのだから、頭の方はそれなりに使えるのかもしれない。けれど犯罪を起こす技量
や度量となれば話しは別だ。
 犯罪に対し、度量というのも可笑しい話ではあるものの、凶悪犯罪であればあるだけ、被疑者が持つ
精神の闇が重要になってくる。心に深淵を持つ人間が、まして死体を解体するような精神構造の人間
が、これ程整然とお膳立てをして秘密パーティーとやらを開けるだろか?金が稼げるからと即答した子
爵の科白は、ある意味で正常すぎる答えだとシエルには思えたからだ。 金は無いより有るにこしたこ
とはない。そして利鞘を弾き出す為、秘密パーティーを開く。行為自体は犯罪に属するが、動機は誰も
が思い付く程度にシンプルなものだ。そしてそのシンプルさが、猟奇殺人と呼ばれる切り裂きジャック事
件とは、どうにも結び付かない違和感だった。
 切り先ジャックに殺害された被害者の線から洗っても、繋がりはなかった。無差別に相手を選んでい
るのか?それとも当人にしか理解できない選択基準が存在しているのか?何分社交期の終わりに下
された命だった為、調査の的も絞りきれているとは今一つ言いにくい。単純に推察できるピースを羅列
した結果、医学に精通し、事件当夜アリバイもなく、秘密結社や黒魔術に関係している人間という、極
めてシンプルな人間像に行き当たった。勿論警察もその線で捜査しているだろうが、自分のように手持
ちの駒に異界の住人がいる筈もないから、捜査は難航している。それだけの話しで、さした差異はない
だろう。
 捜査の基本は、推論に対する答えの消去と、更なる推論の積み重ねだ。集積される情報の中から、
疑問に対する答えを見つけ、一つ一つ消去していく。そして更にその上に推論を積み重ねていく地道な
作業だ。それだけに相関図を描き間違えると、答えに辿り着かない危うさと背中合わせだ。そしてどう
にも相関図を掴み損なっている嫌な感触がシエルは拭えないでいた。 セバスチャンが集めた情報の
中、確かに列挙した条件に見合うのは子爵ただ一人だった。

(だけど、最初から相関図を描き損なっていたら?)

 どれだけ推論を重ねても、最終地には辿り着かない。
被疑者自身にしか理解出来ない明確な基準が存在していたとしたら、描いた相関図は違ってくるのか
もしれない。
「何を考えているんだい?駒鳥?」
 猫撫で声に背筋を撫で上げられる気分の悪さに、シエルは俯いた。それをどう解釈したのか満足そう
に嗤うと、子爵は正面に向かって口を開いた。
「鑑賞用として楽しむも良し。愛玩するも良し。儀式用にも映えるでしょう。バラ売りするのもお客様次第」

(儀式用に、バラ売り?)

 お客次第だということは、集まっているのだろう客の中に、切り裂きジャックはいるのだろうか?
「ここまでの商品はなかなか手に入りませんよ。瞳の色は美しい空を映した海と、深き森のコントラスト。ただ今お見せいたしましょう」
 子爵の蕩々たる科白に、シエルは内心で攅眉する。
左右の瞳の色の違いを判っているということは、意識を失っていた間に、瞳を見られたということだろう。
そのくせ躯は見なかったのか、男だと気付かれた様子もない。それともドレスを着た少年を嬲る、小児
愛姦の変態でもいるのだろうか? 
 左右の瞳の違いを、この男はどう解釈したのか。遺伝によって受け継がれたオッド・アイとでも思った
のか。他人から見ても、右眼に埋め込まれた契約書は見えない。それはシエル当人とセバスチャンに
しか見えないことで、鏡に映しても、機能を失った淡いエメラルドの瞳が、鏡の奥から見返してくるだけ
だ。けれど黒魔術等に精通していれば、多少なりとも疑った筈だ。
 確かに遺伝により左右異なった瞳を持つ者はいるのかもしれない。けれど確率的には果てしなく低い
筈だ。むしろそれよりも非現実的とはいえ、悪魔との契約を疑っても可笑しくはないだろう。昔から魔女
の瞳は翠と相場は決まっている。元々悪魔崇拝など非現実的な部分に趣を置いている人間の集まりだ。先にそれを疑っても可笑しくは無いだろう。それをしなかったということは、少なくとも子爵は黒魔術と
は無関係で、此処は単なるブラックマーケットの巣窟なのだろう。
 勿体ぶった様子で、ゆっくり外されていく目隠し。閉ざされていた視界に急激に差し込む光の強さ。
反射的に瞳を閉じ、次にはゆっくり慣らすように開いていく。
 揺れる音さえ響きそうな長い睫毛。白い瞼の奥から現れた左右異なる宝玉。その様子に、正面に座
る客達から、称賛にも似た吐息が零れ落ちた。
「スタートは1000から」
 正面に並べられた椅子には、紳士淑女と思われる人間達が、シエルの瞳に魅入られた様子で凝視し
ている。男だけだと思っていたが、酔興にも女までいるのには正直呆れた。
「2000」
「3000」

(ただのブラックオークションか……)

 次々と跳ね上がっていく金額と比例して、興奮していく室内の空気を、シエルは冷静に観察していた。
 ブラックマーケットのブラックオークション。人身売買をする組織なら、規模にもよるだろうが、臓器も扱
うだろう。娼婦達を殺して臓器を売る。考えられなくもない線だが、どうにもピースがしっくり嵌まらない。
「4000」
「私は5000払う」
 耽溺した様子で高値を付けていく男達。自分の一体何処にそんな価値があるのか、シエルにはまっ
たく理解できなかった。
 社交界の中でも口にするのは禁忌だとされているファントムハイヴ家の一人生き残った子供だと知っ
たら、此処にいる客達は競って凌辱の限りを尽くして壊そうとするか、恐れて退くかのどちらかだろう。
 当主とその妻。親族一同が揃って殺害された血濡れた名家。社交界で口に出すことを躊躇われる理
由は幾つか存在するが、その最たるものは、奇跡的に一人だけ生き残ったシエルに対する奇怪さだろ
う。
 燃え跡からでも判別できた夥しい血の量。焼死した複数の遺体。その中で生き残った子供は、神に
魅入られたか、悪魔に魅入られたかのどちらかだろうと、当時シエルは好奇な視線に曝されていた。
そして『裏社会の秩序』と呼ばれ、裏社会を統べるとされてきた家系だけに、悪魔に魅入られたんだろう
と、悪意を持って囁かれてきた。

(悪魔に魅入られて…)

 魅入られたかどうかは別にして、あながち間違ってはいない。確かに自分はセバスチャンという悪魔と
契約し、その悪魔に抱かれて内側から作り替えられている人間だ。
 そんな人間に高値を付けて売り買いするなど莫迦げていると、シエルは酷薄な口唇に薄い笑みを刻
み付け、ゆっくりと口を開いた。
 サファイアのような蒼い瞳と、エメラルドのような淡い翠の瞳。おとなしくしていれば瀟洒な少女に見え
るだろうシエルの瞳に宿るものが、これ以上ない程無機質なものだと気付いたら、彼らは恐らく本能的
な恐怖を感じ、逃げ出しただろう。けれど甘ったるい匂いが充満する室内で、まともな思考力を持ってい
る人間はいなかった。
「セバスチャン」
 瞬きを忘れた無機質な視線が虚に伸び、酷薄な口唇が動いた。
「僕はここだ」
 抑揚を欠いた声に温度はなく、無機質な声が静かに漏れる。その瞬間、儀式めいて室内に灯されて
いた燭台から一斉に炎が消え、室内が暗闇に包まれる。突然の暗闇に周囲から悲鳴が上るが、今ま
で視界を奪われ暗闇にいたシエルには、空間から浮き出るように現れた輪郭がはっきりと見て取れた。
 不意に暗闇になったことで客はパニックを起こし、醜い悲鳴が室内を満たす。今まで脆弱な少女を金
で売り買いしていたことなど忘れたかのような有様を、シエルは淡々と眺めている。
 雑音に等しい悲鳴。椅子が引き倒される音。次に聞こえたのは、骨を折る特徴的な鈍い音と、耳障り
な絶叫だった。
「やれやれ」
 苦笑とも哄笑ともとれる耳慣れた声が聞こえた瞬間、燭台が再び仄かな光を灯した。
光の中に佇む見慣れた黒服。燕尾服ではなかったものの、コートを羽織った体躯は、確かに女性にモ
テル要素をふんだんに持ち合わせている男だ。
「折ったな?」
 何をとは言わない。鈍い音が響いた直後に、ドルイット子爵の絶叫が響いたのだ。セバスチャンが骨
を折ったことは明瞭だ。
「折った程度で済ませたことを、褒めて頂かなくては」
 色素を透過するアルビノのような双眸に浮かぶ、冷ややかな微笑みと緩い苦笑。サフィアのようなと
形容される瞳が瞬きも忘れてジッと凝視してくるのに、セバスチャンは呆れた様子で口を開いた。
「本当に捕まるしか能がありませんね、貴方は」
 つい先日、イタリアマフィアにも囚われたシエルは、非力で何の力も持たない子供のくせに、こういっ
た局面で自らを囮にすることを躊躇めらわない潔さを持っている。
 危険に身を曝せば曝す程、シエルの内側から綺麗に消え失せていく警戒心。女王の番犬として事件
を解決する為と言えば聞こえはいいが、要は自分に対して執着できないのだ、その自覚の有無は別に
して。そのことをセバスチャンは正確に理解している。
「呼べば私が来ると思って、不用心すぎるのでは?」
 人間が持ち得ない異界の力。悪魔という駒を手に入れたから不用心なのだと思えば気苦労が減るこ
とは判っているが、どうにも幼い主は全てに於いて不用心すぎる。
 天から与えられた過ぎる程の錬金の才。その代価のように、シエルはそれ以外のことにはあちこち大
雑把だ。
 広大な屋敷にたった数人の使用人。その使用人も役に立っているんだかいないんだか、今一つ、二
つ、首を捻ってしまう部分は否めないが、シエルは高慢な不遜さで彼等に接することはなかった。きっと
シエルはシエルなりに、どうにも賑やかなあの使用人達を大切にはしているのだろう。
「もう少し、警戒心というものを持って頂かないと」
 下された命を解決する為に策を練っているようにも見えるが、どうにも行き当たりばったりな感が拭え
ないのは何故だろうと、セバスチャンは籠に囚われているシエルを凝視する。
 イタリアマフィアに拉致された経緯は、屋敷内からの拉致とはいえ、充分行き当たりばったりな行動だ
った。そもそも相手を挑発して出方を見るという相手任せの行動は、行き当たりばったり以外の何者で
もないだろう。今回も状況だけを切り取ってみれば、前回とさした差異はない。
 確かに悪魔という奥の手を持っていれば、無茶も王手を打つ最短距離だと判っているが、自己を顧み
ない躊躇いのなさが、セバスチャンには気掛かりだった。要は結局、シエルは自分自身に執着が持て
ないのだ。それはあの時の後遺症に他ならない。 血の海の中に佇んでいた幼い子供。一体どういう
状況だったのかは判らないまでも、周囲に倒れ伏していた人間達を見れば察することは容易だった。
まして幼い子供は泣くこともできず、茫然自失と魔方陣の中で佇んでいた。
 壊すことは簡単だった。見捨てることはもっと容易だ。逃げ出すという思考さえ持てなかった子供は、
あのまま放置していたら両親と共に逝けただろう。
 連綿と受け継がれていく原罪のように、負のエネルギーさえ人間の生命活動に直結してる業の深さ。
善悪というものは対極に位置しながら、その本質は可笑しい程同じものでできている。どれもが個の中
から発生し、エネルギーに変換される、感情という名の化生にすぎない。 
「僕が契約書を持つ限り、僕が喚ばずともお前は何処にでも追って来るだろう?」
 契約書は、悪魔が契約人を見失わぬ様につける痕。契約書は眼に付く場所にあればあるほど、強い
執行力を持つ。それは言い換えれば、眼に付く場所に契約書がある限り、絶対に悪魔からは逃れられ
ないということだ。
「僕はお前の獲物だ。みすみす誰かに殺されるようなマヌケはしないだろう?」
「胸を張って言われるには、些か心外な科白ですね」
 鳥籠を模した大きい籠の中、ピンクのドレスを着た幼い子供。非力な子供を頑丈な鳥籠に閉じ込め、
風切り羽でも切り落とした高慢さで征服欲を満たしていたのだろうか?だとしたら悪趣味もいい所だと、
セバスチャンは床に転がっている子爵に視線を向ける。
 片腕と片足を左右対称に折られた為、子爵は激痛に転げ回った揚げ句、無様に失禁して今は置物の
ように失神している。
 やれやれと大仰に吐息を吐くと、セバスチャンの指が鳥籠に伸びる。力などまるで入っていないかの
ような仕草で触れた途端。頑丈な鉄の籠は、玩具のようにグニャリと歪んだ。
「事実だろう?」
「何処へでもお供します。最期まで」
 疑問符を付けながら、確認の意味しか持っていないシエルの科白に、セバスチャンは緩い笑みを深め
ると、鳥籠の中から華奢な躯を引き寄せた。
「たとえこの身が滅びようとも、私は絶対に貴方のお傍を離れません。地獄の果てまでお供しましょう」
 瞬きもせず凝視してくる眼差しの深さは、子供が何かを一心に祈るのと何処か似ている。だからこそ
意地悪にも、つい大切に守ってやろうと思ってしまうのだ。シエルの自覚のない内側の願いを知りなが
ら。
「私は嘘は言いませんよ」
 二年前の後遺症は、シエルの内側に見えない疵となって今でも抜けない刺のように突き刺さっている。
 自分自身に執着を持てないのと同じように、潔癖なまでに嘘を嫌うシエルの内側の見えない疵。
 世の中は不透明で曖昧なもので構成され、明瞭となるものは、むしろ犬猿される傾向にある。理屈に
適うことが、イコールで正しいとも限らない。人の心に絡む問題は特にそうだ。
 けれどシエルにとって、それは最大の禁忌と同義語だ。善悪の有無や、その是非とは無関係に、曖
昧で不明瞭な有り様を、シエルは関わる人間に許してはいない。
「人間のようにね」
 一度壊れてしまったものは、どれだけ精巧に繋ぎ直したとしても、完璧な再現は不可能に近い。必ず
何処かに歪みが生じる。それが人の心の有り様なら尚更だろう。
 心は見えない分だけ、当人にも判別不明な疵の深さを持っている。下手をしたら、疵が付いている自
覚さえ曖昧だ。華奢で非力な幼い主人のように。
「それでいい。お前だけは僕に嘘を吐くな。絶対に!」
 悪魔に嘘を吐くなと要求することが、どれだけ非常識かという自覚はある。けれどそれは譲れない境
界線のようなものだ。
 過去を引き摺るつもりはないものの、思い出す過去の映像に胸が痛む。けれどあまりに慣れ親しんで
しまった痛みは、既に引き剥がすことも適わないくらい、身の裡に根を張っている。
 視界を染める血の海。焼け爛れていく肉の焦げた匂い。濃紺な闇を染め替える威勢で燃え盛る炎。
崩れていく屋敷は、まるで聖書の創世記に登場するバビルの塔の終焉のようだった。
 過去も未来も何もかもを飲み込んで、轟音と共に崩れ落ちた館。生まれた場所へと還って逝った人達。
「御意。ご主人様」 
 まっすぐ凝視してくる視線の強さは、シエルの頑なさの顕れだろう。セバスチャンは恭しく頭を下げると、心得てますよと頷き、端整な貌に忍び笑いを刻んだ。
 嘘は吐かないが、隠し事はある。それが100%の茶番だとしてもだ。謎掛けが持つ価値に気付く気付
かないは、シエル自身だ。 セバスチャンは静謐に微笑むと、細すぎる躯を静かに抱き上げた。
「セバスチャン?」
 一瞬の浮遊感と同時に、気付けば長い腕に抱き上げられているのが判り、シエルはキョトンと小首を
傾げた。
 薄く細い肩の上で揺れるブルネットの長い髪。空気を微かに揺らし、淡いピンクのドレスがフワリと舞う。
「既に警察には連絡しておきました。じき到着するでしょう」
「なら長居は無用だな。僕らが居ては猟犬共もいい顔をしないだろう」
 ドレスを着て、男の腕の中で口にするには色気の欠片もない科白だと思うものの、それは逆にシエル
らしすぎて、セバスチャンは苦笑を禁じ得ない。
 警察関係者に覚えの悪い自分という存在を、シエルはよく判っている。
警察が解決できない事案に子供が関与するだけでも充分な非常識だったが、それをさっさと解決してい
くとなれば、非常識の上塗りだ。幾重ものツールを持つ警察より数段早く事件の全容に辿り着き、当た
り前の顔をして事件を解決していく。それが若干12歳の子供となれば、体制組織の面子は丸潰れだ。
 シエルに言わせれば好きで関与している訳ではないし、事件が解決できれば誰がしてもいいだろうと
思うものの、体制組織はそうはいかない。何より面子が最優先されるのは、いつの時代も大差ない。
現場捜査員の中には、シエルと同様の考えを持つ者も居たが、それは少人数に限られていた。
 下らない面子だとは思うが、その面子が大事なこともよく判っているから、シエルはなるべく現場で関
係者と顔を合わせない配慮をしている。尤も、下された命以外に関しては大雑把なシエルだ。単に面倒
なだけかもしれないが。
「何を笑っている」
「いいえ、お嬢様があまりにらしすぎるので」
「お嬢様言うな」
 極自然に紡がれる科白に、シエルが渋面する。女装すると決まってから今まで。セバスチャンは殆ど
嫌味の域で、『お嬢様』という名称を口にする。最初こそ家庭教師という立場を満喫しているのかと思っ
ていたが、どうにも呼ばれる科白には言外がありすぎる。
「それでは、参りましょうか?」
「参りましょうって…?」 
「折角ドレスアップしているんです。深夜の散歩にお連れ致しましょう、お嬢様」
 小首を傾げ、不思議そうに見詰めてくる視線に意味深に笑えば、シエルは心底呆れた様子で溜め息
を吐いた。
「突拍子もないな」
 有能な執事が、突拍子もない科白を口にすることは滅多にないから、シエルはセバスチャンの内心を
探るように凝視した。
「…お前…何か怒ってるのか?」
 感情の揺らぎを覗かせる底の浅さなど、この悪魔には欠片もない。あるとしたら、敢えて見せている手
管だろう。
「執事の私が、主人に対して怒るなど滅相もない」
 それともその理由に心当たりがおありですか?そう笑えば、シエルの渋面は深くなる。
「じゃぁ、なんだ?」
 端然と口にされた科白は、けれどどうにも答えを強要されている気分に陥って、シエルは色素をその
まま映すかのような赤い双眸に焦点を合わせた。
 揺らぎ一つ見せない双眸の深さは、底の在処一つ見出だせない。そのくせそれは体温の低い悪魔の
冷たく優しい指先を思い出させ、白絹の肌が粟立って行くのを止められない。
「単純に、このシチュエーションを楽しみたいだけですよ、お嬢様」
「……」
 ああ言えばこう言う。もう何も言うまいと大仰に溜め息を吐き出すと、シエルは了承を示した。命令の
一言で屋敷へ直行することは幾らでも可能なものの、こんな状況で命令というのも情けない。
「しっかり捕まってて下さい」
 言い置くと、セバスチャンは大切なものを扱う丁重さで、華奢な躯を抱え直した。
「セバスチャン」
 空間を歪めているのか、割いているのか。或いは此処と他の空間の端を繋ぎ合わせてでもいるのか。悪魔の魔力に原理を求めても意味はないが、幾度となく目の当たりにしてきたセバスチャンの魔力に、自身が直接に関わるとなれば話しは別だ。
 深夜の散歩というからには、恐らく空間転移の魔力だろう。セバスチャン自身がその力を使う場面は
幾度となく見てきたものの、生身の躯が空間を転移することが可能なのか、多いに疑問の余地があり
すぎる。
「大丈夫ですよ。私が坊っちゃんを危険に曝したことがありますか?」
「いつもだろうが」
「それは坊っちゃんの行動原理との相違です」
 いきあたりばったりなのが得意なのは坊っちゃんでしょうにと大仰に溜め息を吐けば、シエルが嫌そう
に憮然となる。もしかしたら、多少なりともの自覚はあるのかもしれない。あくまで欠片程度の持ち合わ
せだろうけれど。
「臨機応変って言うんだ」
 取り敢えず反駁してみるが、効果のある筈もない。深い苦笑が反駁と同じ場所から返ってくるだけだ。
「さぁ、ちゃんと捕まってて下さいよ」
 なんなら抱き付いても構わないですよと穏やかに笑えば、シエルは憮然とした表情で細い腕をセバス
チャンの背に回し、意趣替えしだとばかりに、細い指先が爪を立てた。
 どれだけ爪を立てても、服の内側まで届かない指先。痛み一つ与えてやれない非力な腕。
不死がイコールで痛みを感じないことに直結しているかと言えば、それらに関連はないらしく、不死とい
う言葉も、どうやら悪魔を正確に表現しているものではないらしい。そもそも不死という概念自体が、人
間には理解出来ない概念だ。
 人は必ず死ぬようにできている。大切な人達が炎に飲まれ、還ったように。望む望まないに関わらず、人は誰もが最期を迎えるようにできている。だからこそ、生きてる間は生きなくてはならない。生命と
はそういうもので、それは簡単で単純な自然の理だ。
「精々丁重に扱ってくれ」
 空間転移を経験する日がこようとは思わなかった。都合よく悪魔自身を使いまくっているが、あまり経
験したい魔力ではなかった。
「御意、ご主人様」   
 掠めるように酷薄な口唇に口吻て、今度こそ二人の姿は子爵邸か消え失せた。入れ違いで捜査員が
大挙して臨場してきたが、床の上に転がる当主、その他の紳士淑女に、唖然となったのは言うまでもな
い。