CIEL









 深まる季節に比例し、澄んだ空気に高くなる空。まるで終焉など知らないように、無限の空間を連想さ
せる。そしてそこから落ちて来る、明度の淡い陽射。アプローチから延々と続く樹木は、今は移り変わる
季節を明瞭に物語り、赤や黄色に染まっている。それが明度の淡い陽射を透過すると、周囲は金色を
刷いたかのように光を散らし、マナーハウス全体を穏やかな秋色に包み込む。
 もう少し先の季節になれば、お祭り好きの使用人達が、庭園にクリスマスの装飾でもするんだろうなと、シエルは酷薄な口唇に無自覚な笑みを刻み付けた。
 カサリと足許で鳴る枯れ葉。まるで秋色の絨毯でも敷き詰めたかのように、色を変える自然の理。
 華美な装飾の類いを敬遠するシエルは、けれど自然が作り出す無為たる光景が案外と好きだ。貴族
の嗜みとして、必要最低限の装飾品の類いは身に付けているが、それ以外の装飾の類いを、シエルは
遠ざける傾向にあった。
 それは人工に加工された貴金属の類いを、素直に美しいとは思えなかったからで、表面を飾り立てた
加工品より、いっそ原石の方が綺麗だろうと言っては、セバスチャンを呆れさせることに成功しているく
らいだ。
 その反面、シエルは歴史が織り成す造詣は素直に褒めるし、語り継がれてくる芸術品にも、自分が
認めたものには素直な称賛を贈る。けれどそれ以外のことには興味が惹かれないのか、シエルが加工
品を褒めることは滅多にない。それが子供故の幼い美的感覚からの発露ではないこと程度、セバスチ
ャンは正確に理解していたから、呆れた溜め息を吐き出したとしても、何処か満足そうに笑うだけだった。
 自分が認めたモノへの価値。それはたとえヒトだろうが、ヒト以外だろうが、その辺りの秤がシエルは
素直で、ゼロの多さに換算される価値を持たない分だけ、人の言葉に左右されない価値観の基底が備
わっている。それは本物を見続けてきた眼識の確かさと同義語だろう。
 シエルは伊達に10歳で爵位を継ぎ、裏社会の秩序と呼ばれている訳ではなかった。世襲制で受け
継がれて行く王室の影は、けれど確かな眼識がなければ、裏社会を管理することは出来ないからだ。
それは悪魔であるセバスチャンが居ても意味は同じだ。
 有能な駒を動かす為には、騎手は更に有能でなければならない。それは足許を掬われない為にも、
寝首をかかれない為にも必要なことで、有能な執事に対する信頼とは、また意味を別にする部分だ。
 栄華と怨嗟が、同一線上に存在するファントムハイヴ家の血の系譜。その為、眼識の確かさというも
のも、歴代当主は求められてきた。それは幼くして爵位を継いだシエルも例外ではなく、そしてシエル
は歴代当主と遜色のない眼識をその歳で身に付けていた。それは表の事業であるファントムハイヴ社
の名を、短期間で英国中に広めることに成功した、錬金の才を見ても明らかだろう。
 だから尚更、虚栄を満たすだけの会席の類いに出席する苦痛が、シエルには存在するのかもしれな
い。見え過ぎるということは、時にはひどい痛みを伴うからだ。尤も、セバスチャンあたりに言わせれば、
それは理由の一つではあるものの、全てではないということになる。
 表の仕事と下される命と。それ以外のことに関しては、周囲が呆れる程に無頓着なシエルだ。ただ面
倒なだけかもしれない。爵位を継いでいるのだから、TPOに合わせた会話は操れて当然の理屈で、シ
エルも必要な時には、セバスチャンに叩き込まれた、或いは自らが書物で学んだ知識を披露することも
ある。勿論、内心で舌を出しながらではあるけれど。
「本当に素直に、育ったものだねぇ」
 隣を歩く華奢な子供は、足許で鳴る枯れ葉の音が楽しいのか、時々俯いては、その音の在処を見て
いる。それが裏社会の秩序と呼ばれているシエルとは真逆に位置する素直さで、葬儀屋は表情の見え
ない笑みを柔らかく刻んだ。
「なんだ突然?」
 不意に紡がれた言葉に、シエルは半瞬の間を置き、隣を歩く長身に視線を移した。
 セバスチャンとは別の意味で、黒い服しか身に付けない葬儀屋は、その職業柄身につけているとは
思えない、シエルに言わせれば悪趣味の類いの衣服を身に付けている。長い前髪に隠された表情を見
る事は適わないが、顔に走る傷跡に、彼がただの葬儀屋でないことは容易に窺い知れる。それでも、
その素姓を尋ねようと思ったことはない。
「小生が初めて合った時の伯爵は、それはそれは可愛いらしい、クソ生意気なガキ、だったからねぇ」
 前当主であるシエルの父親の代から懇意にしている間柄ではあるが、シエルの父親が幼い跡取りを
店に連れて来たことは一度もなかった。それは幼い子供を、極力血腥い家系に近付けたくはなかった
からだろうと、推し量るのは容易だ。
 いずれは受け継ぐ血の業ではあるものの、幼い子供に近付けたい親はいないだろう。まして栄華を極
める爵位は、その名前が抱える闇と意味が同じとなれば、尚更だろう。
 そこに在るけれど、掴めない幻影。実態を伴わないファントムの名は、まさに王室にとっての影そのも
のだ。連綿と受け継がれてきた系譜は、それはそのまま、王室の闇の側面と同義語だ。そして未だ途
切れない系譜は、王室が抱える深淵そのものであることを、葬儀屋ばかりか、シエル自身も正確に理
解していた。それがどれだけの茶番であるのかも。
「褒めているのか、嫌味なのか、どっちかにしろ」
 到底褒めているとは思えない葬儀屋の科白は、けれど口調は何処までも楽しげなものだったから、シ
エルは半瞬、憮然となった。
 人の死に絡む場所。それが事件絡みなら尚更、警察以外に情報が集まる場所と言えば、是非は別
にして葬儀屋になる。無論検死解剖は司法機関に関連した場所が請け負っているが、最終的に辿り着
く場所は葬儀屋だ。そしてこの性質の悪い葬儀屋は、解剖医の資格でも持っているかの如く、遺体に
残されたメッセージを読む事に長けていた。
 もう嘘さえ吐けなくなった、物言わぬ死体。かつては人間だったモノ。そこから託されたメッセージを読
み取る才。
 金銭に換算する情報料など欲しがらず、欲しがるものといえば、嘘か本気か判らない『極上の笑い』
ばかりで、奇妙な衣装ともども心底変人だとは思うが、それも才に見合う引き換えの代価なのかもしれ
ないと思えば、それはそれで仕方ないんだろうなと、シエルは半ば諦めの境地で溜め息を吐き出した。
「勿論、褒めているんだよ」
 可愛いねぇと笑えば、シエルの憮然さはますます深まるばかりで、それが葬儀屋を楽しませてしまう
のだという自覚は、生憎シエルには皆無だ。
「そんな科白は、女に言え」
「おやおや、何処でそんな科白を覚えたんだい?小生の知る限り女への讃辞なんて、伯爵から一番遠
いものだと思っていたよ」
 軽口に笑えば、勝ち気な眼差しが睥睨して来るのに、葬儀屋は前髪で隠れた表情の奥で、笑みを深
くした。
 サファイアのようだと形容される眼差しが語る、感情の在処。意図してのものか、無意識か。そのあた
りは判らないものの、感情の在処を語る眼差しの色など、シエルが他人の前で曝すことは滅多に無い。
それが素直な睥睨を向けて来るとなれば、可愛いやら、可愛いやら。無自覚な可愛さは性質が悪いと、葬儀屋が内心で微苦笑を刻んでいることを、シエルは知らない。
「手管の一つ程度、あの執事君から教えてもらったかい?」
 彼は詐欺師や悪党って言葉が、似合いそうな男だからねぇと笑えば、それにはシエルも同意なのだ
ろう。勝ち気な眼差しが面白そうに笑った。
「悪い男の、見本みたいだからな」
「これはまた随分、実感のこもった意味深な科白だね」
「事実だから、仕方ないだろう?」
「詐欺師や悪党って言うだけならまだしも、悪い男っていうのは、また随分な実感の仕方を覚えたもの
だね」
 隠すことのない科白に、葬儀屋は微苦笑を禁じ得ない。
あからさまな表情はないものの、実感のこもった科白は、経験から来るものだと判るからだ。
 一体どんな手管で幼い主人に実感させたのか、想像は容易だったものの、物腰柔らかい執事を変容
させるシエルもまた、セバスチャンに尋ねれば見解は別れるんだろうと思う葬儀屋の内心は正鵠を射て
いた。
「詐欺師や悪党は、形容だろう?」
「つまりは、優しくて最低なヒトタラシって言うことだね」
 それは確かに悪い男の見本だねと笑えば、シエルは心底嫌そうに溜め息を吐いた。
「意味を捩じ曲げて解釈するな」
「小生はきちんと解釈したつもりだよ。物腰柔らかいし、誰にでも人当たりはいいけど、執事君はああ見
えて、案外冷淡だろう?」
「……何でそう思う?」
 淡如な科白は、目に見える事実を告げるかのように躊躇いがない。そんな科白に、シエルが僅かに
攅眉する。
「眼がね」
「眼?」
「笑ってない時があるからね」
 何もかも見透かしたかのように、黒とも赤とも判別の付かない色を乗せた指先が、内緒だよと悪戯気
に笑って酷薄な口唇にソッと押し当てられる。
「興味がないのか共感できないのか、そのあたりは判らないけどね。口許が穏やかに笑ってても、執事
君の眼は、無機質な時があるからね」
 特にマダム・レッドの葬儀で見せたセバスチャンの眼は、幼い主人に何か含む部分があるのか、無機
質な眼差しをしていた。
「まぁ、あれも感情の波の一つと、受け取れないこともないし、無機質ではあるものの、感情が死んでる
訳ではないからね」
「……葬儀屋…」
「気付いてないと思ったかい?生憎小生は葬儀屋だからね。生きている者と、死んでいる者の区別は
容易なんだよ。それがたとえダレでもね」
 たとえ生きていたとしても心を喪失っていれば、それは躯が機能しているだけの動く器だ。逆に死体
が雄弁に言葉を語る時もあるのだ。もう嘘さえ吐けなくなってしまった死体は、真実の在処しか語れ
ない。
「だけど執事君は、伯爵には過保護だからね」
「……過保護…」
 セバスチャンに対する評価は、主人に対する忠実さも然る事ながら、構造化された行動様式にあると
いっても過言ではないだろう。シエルの眼から見ても呆れる程、セバスチャンは有能な執事を完璧に演
じている。悪魔が完璧に執事を演じる。それはそれでどうなんだ?と、時々思わないでもないが、上流
階級の女性達の噂になる程度に、セバスチャンは完璧な執事をこなしている。けれどその中にシエル
に対する過保護さなど、聴いたこともなかったから、シエルが葬儀屋の科白に、半瞬眼を点にしてしまっ
たとしても、罪はないだろう。
「無茶で無鉄砲。臨機応変と言えば聞こえはいいけど、結構大雑把な面のある伯爵の行動を、完璧に
フォローできる執事なんて、彼くらいだと小生は思うよ?」
「………その科白も、勿論、褒めてるんだろうな?」
 どう聴いても褒められている気がしないのは、その科白に込められた中身に、多少なりともの自覚が
あるからなのだろう。シエルは葬儀屋の科白に嫌そうに渋面を刻んだ。
「勿論、褒めているんだよ。危険な状況であればある程、伯爵は他人にその役目を肩代わりさせたりし
ないからね。結果の有無に関わらず、伯爵は自分の行動に責任を持っている。見ていて怖い程、潔い
姿だね」
 そしてそれが有能と評される執事の危惧になっていることを、気付かない葬儀屋ではなかった。
「それでも止めないんだから、たた甘やかしている訳ではないんだろうし。最終的には、許容量が広い
んだろうね」
「……広いかどうかは、甚だ疑問の余地が残るな…」
 切り裂きジャック事件の捜査時、被疑者として浮上したドルイット子爵邸に女装し潜入した際、監禁さ
れブラックマーケットのオークションに掛けられた経緯がシエルにはあった。その時下種な男達に視姦さ
れたことを、セバスチャンは迂闊に男達に触れさせたと言っては、理由にもならない理不尽な理由を並
び立て、その晩は朝方まで嬲られた。
「あれが…許容量の広い男の態度か……?」
 当時を振り返り、ボソリと呟くシエルに罪はないだろう。シエルに言わせればあれは立派に不可抗力
の領域だ。たとえそれがセバスチャンから見て、行き当たりばったりな行動だとしてもだ。
「理性的な執事君が暴走したとなれば、それはそれで、伯爵が大事ってことの裏返しだと思うよ」
 それって惚気かい?ボソリと呟いたシエルの呟きをきちんと聞き咎めた葬儀屋の科白に、シエルは憮
然となって口を開いた。
「そこが根本的に間違った解釈だって気付け」
 大事にされている自覚の一つや二つ、シエルもちゃんと持っている。けれどそれはあくまで契約の中
身の問題で、大事にされているのは、悪魔の美学とやらの延長線だ。それが不満だと思うことはないも
のの、悪魔の美学とやらは理解できない。
 有能な執事が主人を大事にするのは当たり前で、まして契約が絡んでいれば尚のこと、セバスチャン
が自分を大切にするのは当然の結果だろう。躯を繋ぐ行為も契約の延長線で、巧く一致した利害の結
果だと思っていた。けれど最近、そうと割り切れない感情があることも、シエルは気付いていた。
「あれだけ有能な執事君なんて、英国中探したって見つからないだろうに。それこそ執事学校から、講
師の引き抜きがかかっても、可笑しくない逸材だと思うけどね」
「今の所、そんな引き抜きはないな」
 伯爵家の執事相手に、堂々と引き抜きを掛けられる神経の持ち主も、そう多くはないだろう。まして曰
く付きの名家と呼ばれるファントムハイヴ家に使えている執事など、どれだけ世間で有能だという評価を
得ていたとしても、引き抜きたい代物でもない筈だ。
「それは良かった」
「お前が良かったっていうのは、間違ってるな」
「これ以上ないくらい、理に適ったものだよ」
 ハートマーク付きの語尾を口にすれば、シエルが不気味なものでも見たかのような貌になる。それを
面白そうに眺める葬儀屋は、心底シエルを構うことが楽しいのだろう。
「どのあたりが理に適ってる」
 ああ言えばこう言う。反駁にも満たない科白を口にするのは、葬儀屋も劉もセバスチャンも差異はない
なと、シエルは半ば勝手にしろという気分で聴いていた。
「それは勿論、此処に来る理由の何割かは、執事君の極上のスイーツと、晩餐が目当てなんだから。
勿論可愛い伯爵の拝顔も目的の一つではあるけどね」
 しれっと告げられた科白に、シエルは半瞬、遠い眼をした。
ロンドンから離れた訪問の目的がそれかと思うと、どうにも自分の周囲に集まる人間の底の無さは得体
が知れない。劉といい、この葬儀屋といい、得体が知れないこと夥しい。勿論その最たるものは自分の
執事ではあるものの、あれは悪魔なので除外だと、シエルは内心で憮然となった。
 言い募ってみた所で、セバスチャンは決して手の内など覗かせない男だ。言えば言うだけその距離は
遠ざかる気がして、シエルは結局、何一つセバスチャンに関して知り得るものはなかった。それが時折、胸の奥を痛ませる。
 相手のことは一向に見えてこないのに、此方の手の内は丸判り。まるでマジックミラーと大差ない不
可視の領域だと思えば、有能な執事も、自分の名が冠たる幻影と差異はないなと、シエルは半瞬だけ、泣き出しそうに自嘲を刻んだ。
「…だから、悪い男なんじゃないか……」
 優しくて冷淡。冷ややかで体温なんて感じさせないと思えば、莫迦みたいに過保護で、頼みもしない
のに深夜の散歩に連れ出され、綺麗な夜景なんて見せられて。そのくせセックス最中のセバスチャン
は、躯を繋げた分だけ遠ざかる気がして、いつだって自分が悲鳴を飲み込んでいることを知らないだろう。
「まったく本当に、素直に育ったものだね」
「褒めているっていうなら、意味が通じるように話せ」
 蒸し返された会話に苦々しげに舌打ちすれば、葬儀屋は優游と笑うばかりで、それがシエルの神経
を逆撫でる。
 自分を取り巻く環境の中、群がる大人達に素直だと言われたことは一度もない。あからさまな誹毀を
口にされたことはなかったものの、受け継いだ爵位とともに、悪意を持って噂され続けている自分の通
り名の一つや二つ、判っている。
 悪魔に魅入られた子供。
それは両親から親族まで殺害された惨劇の中、一人生き残った自分に対する畏怖と奇怪さの顕れだと、シエルは知っていた。
 意識、無意識に関わらず、人は異質な存在を嗅ぎ分ける。悪魔と契約し、その悪魔に抱かれ、器の
性別に反して作り替えられた雌の中身。
 虚栄を満たすしか能のない上流階級の貴族達から見れば、自分の存在は確かに異端であり異質だ
ろう。けれど悪魔と契約し、抱かれる関係を後悔したことは一度もない。あの時そうしなければ、自分は
間違いなく死んでいた。
 腐臭漂う血の海。燃え盛る炎。轟音と共に崩れ落ちていく館。生まれた場所へと還って逝った大切な
人達。見送るしか術のなかった自分の血を吐く痛みなど、噂しかできない貴族に判る筈もない。
 そして契約した悪魔を都合よく使いまくっている所為か、セバスチャンからは我が儘だと小言を食らう
のは年中だ。あまりに始終の為、いい加減セバスチャンの小言は、右から左へと綺麗に聞き流す機能
まで身に付いてしまった。
「伯爵が今こうして此処に立っているのは、勿論伯爵の類い稀な洞察の結果ではあるけれど、執事君
が大切にしてきた結果でもあると思うよ。伯爵の存在そのものが証みたいなものなんだから、そんな痛
そうな表情はするものじゃないよ」
「……?」
「誰だって他人に厳しく、自分には優しくするようにできているっていうのに、本当にどうして、こんなにい
い子に育っちゃったんだろうね」
 これも執事君の育て方が良かった所為だろうかねと嘯いて笑う葬儀屋に、シエルは硬質な眼差しで
眇めた。
「伯爵は誰より自分に厳しいからね。だから誰かに肩代わりさせたりしないし、自分で突っ走っちゃうん
だろう?それが素直じゃなくって、何だって言うんだい?」
「……素直の意味の解釈が、お前は世間と違うだけだろう?」
 つまりそれは自分の感情に従って突っ走るっていう意味での素直かと、葬儀屋の言外にシエルは嫌
そうに瀟洒な面差しを歪めた。
「小生に見える伯爵を端的に言うと『素直』って言うだけの話しで、事実にすぎないと思うから口にしてい
るだけだよ」
 言外の多すぎる葬儀屋の科白に、シエルは無視を決め込んだ。
「勿体ないねぇ」
 綺麗に黙殺された科白に、けれど葬儀屋は気分を害することもなく奥深く笑うと、サファイアのようだと
形容される眼差しを覗き込んだ。
「……何だ…」
 不意に視界を塞がれ、シエルが攅眉する。
「宝石の類いが大好きな貴族達が、こんなに綺麗な宝石を見逃してるなんて、愚の骨頂だと思ってね」
「………お前も詐欺師がやれるな」
 そんな科白は女相手に言えと、シエルは心底辟易した様子で、視界を追おう貌を鬱陶しげに押しどけ
た。
「悪魔に魅入られるのも無理はないだろうね。これだけ綺麗な石なら」
「寝言は寝て言え」
 今回の事件解決の功労者だった葬儀屋の希望で、散歩に付き合っていたが、流石に意図の見えな
い会話に疲労を感じ、シエルは無言でクルリと背を向けた。
「ほら、素直じゃないかい?小生の解釈は何も間違っていないって証だね」
「……死体相手の仕事だからって、許される会話じゃないぞ」
 社会という仕組みの中で生きていく以上、他人の内界に土足で踏み入らない深慮は必要なことだ。
そしてそれが、接する社会と摩擦を少なくする最善の方法だ。
「それは死体に対する認識不足というやつだよ。生きてる人間と違って、死体は嘘を付かないからね」
「そういうことじゃない」
「伯爵はもう少し、自分の存在というものを知らないといけないよ」
 やれやれと大仰に溜め息を吐けば、シエルは硬質な眼差しで葬儀屋をまっすぐ凝視し、静かに口を開
いた。
「悪魔に魅入られた子供っていうだけで充分だ」
 裏社会の秩序。女王の番犬。怨嗟に等しい幾重もの呼び名に込められた意味以上のものなど、シエ
ルには判らなかった。
「誰もが簡単にできることが、伯爵には難しいようだね。自分を大事にするなんて、誰だって当たり前の
ことだっていうのに」
 それは生物全てが持つ、生まれながらの防衛本能だよと、葬儀屋が笑えば、シエルはその意味が判
らないのだろう。硬質な視線が、不審気に眼前に佇む長身を凝視する。
「ファントムハイヴ家を継いだからって、誰もが簡単に裏社会の秩序に収まっていられるっていう訳じゃ
ないってことだよ。裏社会の住人は、権力なんかでは動かない。それこそ法の陽も当たらない場所の住
人だからね。それを束ねるに必要なのは、権力でも人徳でもない」
「……代々ファントムハイヴ家は裏社会を管理してきた」
「それはそれで、奇跡的なことだとは思うけどね。歴代当主に受け継がれてきた血の業っていうやつだ
ろうね。まるで遺伝子に組み込まれた、作為や意図みたいじゃないかい?」
「何が言いたい?」
「資質の話しだよ」
「資質?」
「言い返れば、裏社会を管理できるだけの深淵を見極める眼を持っていることが必要不可欠な条件だっ
ていうことだよ。深淵に近いことこそ、裏社会の王たる資質だって言うことだね」
 多少なりとも自覚はあるだろう?そんな風に笑えば、シエルは無感動な眼差しで葬儀屋を一瞥するだ
けだった。
「善悪の理は、表裏一体の鏡像と同じだっていうことは、伯爵が一番よく判ってることじゃないかい?
それが法の通用しない場所なら尚更ね。要は視座の違いだっていう程度だよ」
 だからこそ、裏から表を視る眼が、王室には必要だったのだ。王室の影と呼ばれ、闇の系譜を受け継
ぐファントムハイヴ家は、事実に張り付く真実も嘘も、見極める眼が必要とされた。
「だから、死を呼ぶんだよ」
「…貴様…!」
 哄笑さえ感じ取れる葬儀屋の口調に、弾かれたように顔を上げれば、けれど葬儀屋はシエルが予想
したのとは全く違う静邃な気配で佇んでいて、シエルは半瞬、感情の持って行き場所を見失った。
「人が簡単にできることが、一番難しい伯爵には、貴族達の茶番はどう映っているんだろうね?この、綺
麗な石には、何が見える?」
 真実も嘘も、事実に張り付く碌でもない代物だと判っている幼い伯爵の眼には、世の中はどう映って
見えるのだろうか?葬儀屋にはそれが不思議でならない。
「………それはお前の過大評価だ。僕だって自分が一番可愛い」
 それこそお前の眼に映る僕はどんな存在だと、シエルは綺麗に装飾されているとしか思えない葬儀
屋の内側にある自分という存在が、少しばかり憐れになった。
「誰もか簡単にできないことを、当たり前のように見抜いてしまう伯爵には、説得力のない言葉だよ」
 自分を大事にするなんて、一番簡単なことだろうに。シエルにはそれが難しい。そして人の奥に潜む
悪意や害意を、当たり前のように見抜いていく眼は、誰もが持っていない才には違いない。
「関わる事案でも、表の仕事でも。伯爵は見えない流れをその眼に映しているみたいだからね」
「生憎、お前との会話の流れは、全く掴めないな」
 意図しての流れだという程度のことは判るものの、中核に在るものが判らない。それがシエルを少し
ばかり苛立たせた。
「お前はもう少し、人との会話を成立させる術を身に付けろ」
 相手の感情など置き去りに進められる会話は一方的なもので、これも常日頃物言わぬ死体を扱って
いる弊害だと、シエルは本気でそう思っていた。
「簡単なことだよ。小生は本気で、伯爵を尊敬してるって伝えたかっただけだからね」
「……完全に嫌味だな」 
 僅かに腰を屈め、視線を合わせてくる眼差し。長い前髪で葬儀屋自身の眼差しの在処は欠片も判ら
ないが、語られた言葉が真実を語っていると判らない程、シエルは無知ではなかった。
 欠片も見えない眼差しと真逆に位置して、傾けられる穏やかな感情の在処。見せないくせに、見せて
くる柔らかさ。
 それが葬儀屋の真実だと判るから、シエルは半瞬瞠然となり、次には吐息のように細い声を滲ませる。それは何処か諦めの混じった声音をしている。
「人の善意は素直に受け取るものだって、教えられなかったかい?」
「生憎、素直じゃないんでね」
「伯爵は、考えてみたことはあるかい?」
 軽い口調に紛らせ告げられた、静邃に包み込ませた真摯な声。それに気付かない程、シエルは鈍く
はなかった。まっすぐ窺うように、蒼瞳が葬儀屋を凝視すれば、その視線の素直さに、葬儀屋は穏やか
に肩を揺らした。
「伯爵をこうも綺麗にこの場所に存在させているのは、一体なんだろうね?」
 揶揄を含まない淡々とした静謐な声は、シエルが初めて耳にする葬儀屋の声で、これが葬儀屋の持
つ本質なのだろうと、シエルに語っていた。





□ □ □





「ああも綺麗にあの子の内側を守って、あの場所に立たせているのは、一体どんなチカラなんだろうね」
「何でしょうか?」
 優雅な仕草でマロンパイを口に運びながら、不意に思い出したように劉が独語するのに、ミントンのテ
ィーカップににミルクティーを注ぎながら、セバスチャンは莞爾と笑って問い掛ける。
「珍しい組み合わせで、散歩をしていると思ってね」
「彼は今回の功労者ですから。一緒に庭を散策したいという申し出を、坊っちゃんも無下にはできなかっ
たのでしょう」
 すっかり秋色に染まった樹木は、明度の淡い陽射を透過し、其処彼処で黄金の光を散らしている。
赤や黄色、茶色に色付く自然の移ろいは、どれだけ科学が進歩したとしても、人が作り出すことは不可
能な繊細な美しさを持っている。
 装飾品の類いになど興味を示さないシエルは、けれど人の手の因らない自然の造詣が案外と好きだ。裏社会の秩序と呼ばれるシエルからは、それは縁遠い光景に思えるものの、幼い主人の感性が恐
ろしい程際立っていることを、セバスチャンは正確に理解している。だからこそ、深淵に佇む幼い王が怖
いのだということも。
 そんなセバスチャンの内心など素知らぬ顔で、ワインレッドの視線の先では、そろそろ冬の足跡も近
付く秋色した庭園で、葬儀屋と談笑しているシエルの姿が在った。
 大きく設計された窓から降り注ぐ陽射。ガラスに反射し屈曲する熱が伝えてくる暖かさは、日中ならそ
こが温室と錯覚してしまいそうになる心地好さを伴っている。その証拠に、窓際に置かれたソファーでは、勝手知ったる他人の屋敷とばかりに、劉が閑舒と寛いでいる。
 エンパイアイエローに包まれた庭園で、一体何を話しているのか。シエルと葬儀屋という組み合わせ
は確かに珍しいものの、葬儀屋が何の考えもなくシエルを散策に誘ったと思う程、セバスチャンも劉も、
葬儀屋という人物を見た目どおりに受け止めてはいなかった。
「彼も謎の多い男のようだからね」
 少なくとも世間一般の葬儀屋は、顔に疵など持ってはいないだろう。偶発的な事故により付いた痕と
もとれなくはないが、恐らくあの疵は、そんな可愛いものではない筈だ。少なくとも、劉にはそう感じた。
「そうですね」 
 軽口に紛らせた劉の科白は、けれど冷静すぎる視線がそれを綺麗に裏切っている。敢えて見せてい
る手の内だろうと容易に知れるそれは、少なくとも自分の前では隠す必要もないと感じている劉なりの
譲歩なのだろう。
 気紛れか信用か、そのどれでもないのか。劉の中の変化は判りようもないが、劉は劉でシエルを大
切にしていることだけはセバスチャンにも判っていた。だからこそ、自分とさして大差ない気配や感触を
感じる葬儀屋を、劉は厳しい視線で見ているのだろう。
 窓の外を眺める視線は、気安い口調で周囲を誤魔化すことに長けている劉にしては珍しく、無機質と
も言える視線が観察する鋭利さで葬儀屋に焦点を絞っている。
 一抹の興味と警戒心。整然とした矛盾を極当たり前のように存在させている劉の中身に、セバスチャ
ンは内心で微苦笑を漏らす。
「坊っちゃんの情報屋ですから」
 謎が多いのは仕方ないでしょうねと、劉の淡々とした視線を横目に、セバスチャンは静かに口を開い
た。
 尤も、謎が多いのは劉も葬儀屋も同じだったから、二人共セバスチャンの中で同類項にされているの
は言うまでもない。
「死体を扱うことにかけては、超一流ということかな?」
 シエルが都合よく情報屋として使っている葬儀屋とは、切り裂きジャック事件の時、初めて顔を合わ
せた。
 奇抜な衣装と言動に紛らせ、周囲を綺麗に誤魔化しているが、自分同様、手の内など簡単に覗かせ
ない男だと容易に知れた。そして今回の事件で、確かに葬儀屋はシエルがその申し出を無下にできな
い程度には、功労者だった。
 解剖医以上に、人体というものに精通している深邃さ。人を人として形作る骨格筋や臓物の分類では
なく、器を構成する全要素を熟知している知識の深さは、一歩間違えれば、知恵の実を食ったエヴァと
大差ない。腐敗しない死体の謎も、その一環で判りきっていたのだろう。そんなものは恐らく、葬儀屋で
なければ出せなかった答えの筈だ。アレは少なくとも、今の英国では、禁断の法には違いない。そして
それを熟知しているということは、やはり葬儀屋も表の住人ではないのだろう。
「さぁ、それは如何でしょうか。私には判断しかねますが」
「おや、君でも判らないことがあるのかい?」
 この世の理の全てまで知ってますっていう表情してるじゃないかい?そんな風に軽口を叩く劉に、
セバスチャンは薄い微笑を滲ませる。
「買い被って頂いては困ります。私はあくまで執事。死体処理のことなど、門外漢ですよ」
「それはまた、死体処理以外の理は、熟知しているような口振りだねぇ?我から見れば、裏の裏まで見
通す、油断のならない性格をしていると思うけどね。少なくともあの子に関して完璧なフォローができる
程度には、精通しているだろう?色々と」
「裏の裏と言うのは、つまりは表なのでは?」
 クスリと小さい笑みを漏らせば、劉は意味深な笑みを刻み付け、ミルクティーをに口を付けた。
「視座の違いだよ。有能な執事君だから、勿論その辺りのことはちゃんと判っていると思うけどね。法の
光も当たらない裏社会から見れば、表こそ裏。君が言った科白だよ。何が正しいと判断するのは個人
の自由だってね。だとしたら、裏の世界の住人にとっては、表こそ裏だということにならないかい?」
「言い抜ける手札は握っている。そういうことでしょうか?」
 一筋縄ではいかない相手だと判っていたが、臆面もなく言って除けるあたり、劉は相変わらず得体が
知れない。そのくせ明け透けであり、何処か慎重な部分も合わせ持つ男は、不思議と人を構えさせな
い気安さが備わっている。それもこの男の手管だと思えば、それはそれで面白いと思うセバスチャンだ
った。
「深淵にとっては、曇りのない純白こそ汚れだっていう程度に、単純な理屈だよ。汚れが黒だと誰が決
めた?純白が清純な処女だったら、王室の影なんて、端から必要ないだろう?」
 だからあの子は綺麗なんだろうし、君を傍らに置くんだろうと、劉が意味深な笑みを覗かせるのに、セ
バスチャンは半瞬呆れた苦笑を滲ませる。
「あの子は、自分の存在の価値っていうものに、まったく頓着を払わない子だからね」
 幼い身で引き継ぐには、ファントムハイヴ家の爵位は軽いものではなかった筈だ。伯爵という立場も然
る事ながら、爵位を継いだと同時に引き継ぐ王室の穢汚は、僅か十歳の子供が引き継ぐには重たい荷
物で枷だっただろう。それでもシエルは当たり前のような表情をして、その爵位を受け継いだ。その揺ら
ぎのなさが綺麗だと思うと同時に、見る物を震撼させてしまうのだと、恐らくシエルは気付いてもいない
だろう。
「存在価値、ですか?」
「足許の見えない闇。距離感の掴めない社会の仕組み。あの子はそんな化け物みたいなものを、それ
でもそのままのカタチで理解しようとする。自分の立つ位置をソコと決めた揺らぎのなさが、あの子を裏
社会の王として立たせているんだと思わないかい?」
「坊っちゃんは、切っ先に立つ人間ですから」
 盤上の駒。騎手であるシエルもまた王室の影として、線上に立つ存在だ。それは負の系譜と呼ばれ
る爵位を継いだ時から、シエル自身自覚していることの一つだ。
「あの子の中に、危険と安全を計る機能はない。誰だって自分を中心に物事を計る生き物だっていうの
に、あの子にはそれが欠けている。だからあれだけあっさり、誰にも肩代わりもさせずに、深淵に手を伸
ばすんだろうけどね。まるで代価のようじゃないかい?」
 裏社会の王として、シエルの一言で動く人間の数は劉でさえ正確な人数は把握できていない。恐らく
シエル自身が考えている以上に、その人数は多い筈だ。けれどシエルは手にしたチカラを使役すること
はない。
「代価、ですか」
 魂を引き換えに結んだ悪魔との契約など知らないだろうに、あっさり代価と口にする劉にとって、シエ
ルという生き物はそう見えているのだろう。それは物事の本質を迷わず見抜く眼を持っているに等しい。
「望む望まないに関わらず、あの子には才がある。一番手っ取り早く理解するなら、ファントムハイヴ社
の事業拡大を短期間でやってのけた、錬金の才だろうね。金銭に換算できる分だけ、誰の目にも理解
が容易だ。だけどそれもあの子の持つ極一部だろうと我は思うよ。王室の影なんていうものを差し引い
ても、充分裏社会の王に君臨できる、表と裏の狭間に立つ才がね。その才と引き換えに、あの子が支
払い続けている代価は、一体なんだろうねぇ?」
「劉様は、一体なんだと思われますか?」
「模範回答で言えば、魂かな?」
「……魂、ですか?」
「取り様は個人の自由だって言ったのは、執事君だろう?魂なんて一言で言っても、目に見える物じゃ
ない。命そのものか、人を人として形作っている心か、感情か、意思か。その全てを引っ括めて、魂とも
言えるからね。生命が在るから生きているのか、何かを成し遂げる為のチカラが生命なのか、永遠の命
題だと思わないかい?あの子の才の代価として簡単に要約してしまえば、危険と安全を計る意識の欠
如、だと我には見えるね」
「無茶で無鉄砲な部分は、確かに困りものですが」
 当人は臨機応変な行動だと主張するが、周囲の人間にはどう見ても、行き当たりばったりな感が拭え
ないシエルの行動原理は、相変わらずセバスチャンとは認識相違が生じている。きっとこの問題は延々
と平行線を辿るだろうなと、劉はまったく他人様の心情で、内心で笑った。
「坊っちゃんは、迷いが弱さだと思ってますから」
 王室にとっての意味合いを別にすれば、事案を解決するという一点に於て、シエルが行う作業は探偵
のそれと差異はない。
 一見バラバラに見えるピースの断片を拾い集め、それを連なる事象として再構築する。それは探偵の
理と意味は同じだ。そしてその過程で、シエルはまるで迷うことに罪悪でも抱くのか、セバスチャンの背
筋を冷やす行動を当たり前のようにしてのける傾向が強かった。
 無茶で無鉄砲な行動原理の基底には、シエルにしか判らない論理があるのは判る。けれどそれが他
人にどう映るか、シエルは頓着していない。それがセバスチャンの危惧になっているのだと、シエルが
気付くことはないだろう。
「素直ないい子に育てたものだと関心するよ」
「少々、素直に育てすぎましたね」
 嫌味と讃辞が混融する科白に、セバスチャンは緩い微苦笑を刻み付けた。それは劉の隠すことのな
い吐露だと判るからだ。その鷹揚な微苦笑には、憐れみさえ感じ取れる。
「もう少し利己的に育てておけば、少なくてもあの我が儘な無鉄砲ぶりの何割かは、なかったでしょうか
ら」
 そうすれば自分と危険の距離感程度は、計れただろう。そしてシエルが負う痛みは、もっとうんと少な
くてすんだ筈だ。痛みを痛みと認識する程度には、危険と安全を計れただろう。
「我が儘な行動を、利己的って言うんじゃないのかい?」
「自衛を計る秤も持たない我が儘は、利己とは呼べません。坊っちゃんが動くのは、いつだって他人の
為ですから」
「下される女王の命は、あの子の環境には、直接影響なんてしていないからね」
 だから執事君も最終的にはあの子に甘くできているんだねと、劉は何処まで判っているのか、甚だ謎
な笑みを滲ませる。
「あの子の立場を推し量れば、確かに迷いや揺らぎは禁忌だろう。あの子が自分にも周囲にも曖昧さを
許していないように」
「人は迷う生き物ですよ、劉さま」
 だからこそ、迷いのない眼差しで、迷わないと断言したシエルには背筋が冷えた。生き延びる為には、迷うことも必要なことだと、セバスチャンは知っているからだ。
「まぁ、迷うから古来から幽霊とか成仏とかって言葉が存在するんだろうし。昇華できない想念がカタチ
を作るんだろうしね」
 あの子の怖い所は、行動に迷いのない部分だよねと、劉が大仰に溜め息を付けば、セバスチャンもそ
の点には同意なのだろう。端整な面差しが、緩い笑みを刻んだ。
「迷うこともできない子供だから、綺麗なんですよ」
「おやおや、辛辣だね。それはとどのつまり、最終的にはあの子には甘いってことと意味は同じだ」
 硬質とも言える微笑みは、それがセバスチャンの本質なのだろう。冷ややかな切っ先のような気配は、有能と評される執事が見せる初めての気配だ。けれど劉は別段驚いた様子など覗かせず、飄々と
している。
「坊っちゃんを綺麗に立たせているのは、代々受け継がれてきたファントムハイヴ家の業を受け継ぐ自
覚と覚悟」
 先へ行けば行く程、細くなる切っ先の線上。足許に幾重もの骸を築きあげながら、底の見えない闇に
立つ意思。
「揺らげが終わることを、坊っちゃんは判っているんです」
 言語に置き換える理解はしていないだろうが、動物の嗅覚にも似た本能で、シエルは理解しているだ
ろう。
「深淵にとっては純白さえ穢れ。では狭間に立つ人間にとって、穢れは一体なんでしょうね?」
 陽射の当たる場所でしか、法はその効力を発揮できない。そして本当に法の力が必要なのは、その
陽射の当たらない場所だ。王室の影として裏社会を管理するシエルという生き物は、だからこそ裏社会
の秩序そのもので、番人なのだ。
「……流石、有能な執事君だ」
 淡々と佇む気配と、抑揚を欠いた整然とした口調。瞬きを忘れた眼の底から放たれてくる眼光の冷や
やかさは、劉でなければ、万人を懾服させることができるだろう冷然さを帯びている。
「劉様が以前お仰った科白そのものですよ」
 冷然とした気配がガラリと変容し、セバスチャンは優美な微笑みを酷薄な口許に乗せる。
「だったら、あの子の内側をああも綺麗に守っている者は、一体どんなチカラ、なんだろうね?」
 人が生み出す善意と悪意。それは対極に位置しながら、その本質は鏡像のように同じモノでできてい
る。そんな化生と差異のない人の感情を、そのままのカタチで理解しようと、深淵に伸ばされる無防備
な手。
 栄華と怨嗟。善意と悪意。そんな相反するモノに囲まれ狭間に佇む意思は、一体シエルの何処から
生み出されてくるのか?
 一族の惨劇の中、一人生き残った幼い生き物。壊されただろう心を修復し、守り育て立たせている者。
「坊っちゃんを守っているものは」
 相変わらず、手の内など欠片も見せないくせに、見透かしたように笑う劉が、けれどセバスチャンは不
思議と嫌いではなかった。
「ファントムの名を理解して、それでも前に進もうとする意思、でしょうか」
「おやおや、本気でそんな科白を言ってるんじゃ、あの子の片想いだなぁ。慰めついでに、我がもらって
しまおうかな」
 くつくつと笑うと、劉の視線が窓に伸び、おや?という表情になった。
「珍しいのが居るものだ。ペットかい?」
「ああ、違います。迷いネコです」
 劉の科白に視線を移せば、葬儀屋と談笑しているシエルの腕には、いつのまにか黒猫が抱かれてい
る。
「迷いネコ?」
「ええ、いつのまにか住みついてしまいまして」
 それは嘘だ。迷い込んだ猫に餌を与え、結果的にこの屋敷が仔ネコにとっては安全だと認識させてし
まったのはセバスチャンだ。
 そんなセバスチャンに、餌などやるなと言いながら、その実シエルがフラリと訪れる黒ネコを気に入っ
ていることなど、セバスチャンには丸判りだ。表の仕事と、裏社会と。狭間に佇む二重構造の有り様の、息抜きにもなっているのだろうと察するのは容易だ。
「あの子に動物って言うのも、珍しい取り合わせだねぇ」
 生き物より死体ってイメージが強いんだけどねと軽口を叩けば、悪趣味ですよと、セバスチャンが窘め
る。穏やかな微笑みは、けれど色素を映す双眸は、欠片も笑ってはいなかった。
「あの子に体温のあるモノっていうのは、どうにもイメージからかけ離れていてね」
「そーいうのは、世間では偏見と呼ばれるんですよ、劉様」
「偏見、ねぇ」
 大仰に肩を竦めて溜め息を漏らし、劉の視線はシエルを映している。
「名前は付けているのかい?」
「いいえ、迷いネコですから。ただ皆好き勝手に呼んでますよ」
 フラリと餌を求めて訪れる仔ネコは、使用人にも気に入られているのか、バルドやフィニアンはよく餌を
やっている。
 セバスチャン信奉者の感のあるフィニアンと、セバスチャンに仄かな想いを秘めているメイリンは、迷い
ネコが漆黒なのを幸いに、セバスチャンと呼んでいるし、流石のセバスチャンもその名前の由来は知ら
ないが、バルドはロデムと呼んでは餌を与えている。シエルは何も呼ばない変わりに、腕を伸ばして躊
躇いもなく抱き上げる。
「それは微笑ましい光景だね。それじゃぁまるで、家族みたいなものじゃないかい?」
 それじゃぁ私はセバスチャン二世とでも呼ぼうかねぇと劉が笑うのに、端整な造作にセバスチャンは曖
昧な表情を刻んだ。
 その曖昧で複雑な表情は、面白半分にネコに名前を付けたことか、家族に込められる意味に対して
か、それは劉にも判らなかった。
「あの子を取り巻く環境は複雑でも、あの子を守っているチカラは、言葉にできるくらいに簡単なものだよ。幾つかの選択の上に成り立つ真実より、遥かに単純だ」
 理解しているくせに、認識していないんだね執事君はと、劉は面白そうに笑った。
「坊っちゃんに言わせれば、嘘も真実も、事実に張り付く碌でもない代物らしいですよ」
 曖昧な表情を端麗な造作の下に隠したセバスチャンは、劉の科白に緩い笑みを滲ませる。
「そろそろ坊っちゃんをお呼びしましょう。あまり放置しておくと、後で我が儘が倍返しになりますから」
「その我が儘が可愛くて、あの子自身自覚してない願いとは正反対に大切にしているくせに。素直じゃ
ないねぇ」
 何を何処まで見透かしているのか、内心など欠片も覗かせない手管には、正直関心する。自分相手
に此処まで軽口に紛らせ、見える事実を言い当てた人間は、セバスチャンの記憶する限り、劉が初めてだった。
「坊っちゃんをお呼びしましょう。劉様も坊っちゃんに構ってもらえなくて、拗ねておいでのご様子ですし」
 クスリと小さい笑みが酷薄な口唇から零れ落ちるのに、劉は半瞬、憮然となった。
「私は別に拗ねてなんていないよ」
「おや、そうでしたか?私相手に愚痴を漏らしていらっしゃったのかと思いました」
「私もあの子みたいに、ちょっと我が儘を言っただけさ」
 あの子の我が儘に比べたら、可愛いものだろう?と鷹揚に劉が笑えば、心底呆れた様子で、セバス
チャンは溜め息を吐き出した。
「これ以上駄々捏ねられても困りますから、お二人を呼んで参りましょう。得体の知れない者同志、劉様
と葬儀屋は、話しがお合いになりますよ」
 そう笑うと、セバスチャンはサロンを後にした。
「私から見れば、君が一番得体が知れない存在だけれどね」
 くつくつ笑うと、劉は温くなったミルクティーを飲み干した。







□ □ □






 謎掛けのような、それでいて、何処にも謎などないかのような静謐な声で問われ、シエルは半瞬、す
ぐには葬儀屋の科白が理解できなかった。訝しげな視線でまっすぐ凝視すれば、葬儀屋はシエルの華
奢な左手を掬い上げた。
「非力で細い指には、この指輪は重たい枷にしか見えなかったけれどね、守りにさえならない」
「離せ!」
 ファントムハイヴ家の家紋を象った指輪を、まるで首輪のようだと嗤ったのは、他の誰でもない葬儀屋
だ。
 代々当主にのみ受け継がれてきた業深き指輪は、まさしく女王へと繋がれる為の足枷なのには違い
ない。けれどそれを他人にそうと指摘されて嬉しいかと言えば、話は別だ。
「伯爵を綺麗にこの場所に立たせているのは、何もこの足枷でしかない、指輪ではないだろう?」
 家紋を象る綺麗な指輪は、けれど見掛けとは相反し、映し出されるものは深い淵だ。
「お前が言った科白だろう?女王に繋がる首輪だって」
「小生には今だって充分そう見えるよ。紛れもない首輪。だけど伯爵がココと決めた場所に綺麗に立っ
ているっていうこととは、不思議と無関係にも見える」
「……?お前は、人に判るように話す気が全然ないだろう?」
「判らないのかい?」
「自己完結した会話の中身なんて、判るか」
 今日だけで何度、葬儀屋のコミュニケーションツールの少なさに辟易しただろうかと、シエルは半瞬、
遠い眼をした。
「確かにこの指輪は、伯爵を女王へと繋ぐ鎖だ。赤い色をしているかは別にしてね。だけどそんなものと
は無関係に、伯爵は選んだだろう?ココに在ることを」
「だからココって言うのは何処だ?」
 どうにも言外が有り過ぎる葬儀屋の科白は謎が多すぎて、元々関わる事案以外のことでは、周囲に
も自分自身にも無頓着な一面があるシエルには、理解しにくいこと夥しいばかりだ。
「深淵」
 低く静かに告げられた声に、シエルは半瞬、息を飲み込んだ。それは軽口に紛らせてばかりの葬儀
屋の口調とは打って変わり、あまりに静邃で真摯なものだったからだ。
「裏社会の住人の誰より、伯爵は深淵に近い位置に在る。同時に、表にも属する人間だ。裏と表の狭
間に位置する線上の駒。まさに切っ先に立つ人間ということだよ」
「お前はさっき、資質がどうとか言ってなかったか?」
「伯爵は唯一無二のラインだ。分離された情報を繋ぐね」
「……やっぱり、お前の話は判らないな」
 自己の律法か既存の哲学か。どちらにしろ葬儀屋の科白の中身を推し量る困難さに、シエルは深い
吐息を吐き出した。
「そう難しいことじゃないよ。小生はいつだって、眼に見える事実しか語ってはいないよ」
「その前髪に隠された眼じゃ、見える視野も視力も限定されるな」
「事案に関わると視野狭窄を起こして、つい無茶で無鉄砲な行動に走っては、有能な執事君を泣かせ
てる伯爵より、幾分もマシだと思うけれどね」
「……セバスチャンの奴……」
 どうしてそんなに詳細まで詳しいんだと思えば、漏洩元は一人しか存在しない。 
「有能な執事が、主人の行動を他人に漏洩するか」
「別にそんなの秘密でも何でもないだろう?伯爵が視野狭窄なんて、誰でも知ってる単なる事実なんだ
から」
「視野狭窄って言うな」
「行き当たりばったりよりマシだろう?」
「臨機応変って言うんだ。お前といい、セバスチャンといい、劉といい、人を歩く迂闊みたいに言うな」
「結構なことだね。自覚があるっていうのは」
 怡然と笑う葬儀屋に、シエルは辟易と溜め息を吐き出した。セバスチャンには良く言われる科白だっ
たものの、第三者から指摘されると、面白くないこと甚だしい。今度からもっと無鉄砲に走ってやると、
内心で拳を握り締めてしまうシエルだった。
「有能な執事君が、影のように付き従ってる伯爵に言う科白ではないけれどね」
 優游と笑う葬儀屋は、次の瞬間、奇妙な真摯さでシエルを覗き込み、薄く細い腕を掬い上げた。
「この指輪は、伯爵が受け継いだ業の証だろう。連綿と受け継がれてきた、血の業そのものだ。だけど、これだけはちゃんと覚えてて欲しいと思うよ」
「…葬儀屋?」
 常にない真摯な口調に、シエルは前髪に閉ざされ見えない表情の奥を窺うように、まっすぐ凝視する。
「人は手に持てる荷物だけしか持てないように出来ている。両手に掬って歩いて行けるだけの荷物しか、未来へは持って行けない生き物だ。それこそ墓場まで持ち込めるものなんて、最期の最期、懺悔に
等しく語られる真実程度だ」
 だからねと、そこで葬儀屋は言葉を区切ると、掬い上げた非力な腕を離した。
「手に余る荷物は、持てないということだよ、誰だってね。持ち切れない荷物は、時には誰かに預けるこ
とも必要だ。執事君でもいい、小生でもいい。あの中国人でもいい。何が必要で不必要か、選択しなが
ら持って行けるだけの荷物を選んで歩くことが人生だよ」
「……一体何処の哲学だ?」
 お前と人生論を語るつもりはないぞとシエルが攅眉すれば、葬儀屋は意味深に笑った。
「小生の持論だよ。色々な死体を見てきたからね」
 殺害された死体。病死した死体。安らかな死を迎えた死体。中でも葬儀屋が一番多く見てきた死体は、殺害遺体だ。マダム・レッドが引き起こした被害者の遺体も、全て葬儀屋は見てきている。
「本当に必要なものなんて、そう多いものじゃない。まして墓場まで持っていこうなんていうものはね」
 緩い微苦笑は、実感のこもったものなのだろう。深邃な科白に込められた意味は、けれどシエルには
未だ判らない様子で、細首を傾げ、葬儀屋を見ている。
「死というものに直面しているとね、生きるということが見えてくるんだよ。生と死は表裏一体、鏡像だか
らね。対極に位置していながら、根っこは同じだ。生きている人間は嘘を吐く。意識、無意識に関わらず。だけど、死体は嘘さえ吐けない。真実しか語るものが、もうないんだよ」
「……お前の専門は、主に殺害された遺体の処理だからな」
 無残に殺された死体の数々を、葬儀屋は日々見てきている。解剖医に劣らない知識量は、その結果
でしかないと見誤る程、シエルは無知な子供ではなかった。尤も、解剖医でさえ判断不明な異状死体
を見極める眼は、葬儀屋の才もあるだろうが、死体を見続けてきただけでは説明できないことも、シエ
ルは正確に理解している。
「死体は生きている人間以上に言葉を語る。勿論読み取る側の技能も才能も必要だけどね。同じ物を
見ていたって、見方一つで意味さえ変わる。真実が一つじゃないようにね。だけど定義や法則で覆せな
いものがたった一つだけある。それが死だ」
 誰の上にも平等に訪れる、定義で覆せない最終地点。それは万物共通の理だ。
「まぁ尤も、そのうち時代が進めば、不死なんてものも、可能かもしれないけれどね」
「……不死……」
「死なないことが倖せか、不幸せかは、個人の価値の問題だからなんとも言えない。もっと先の未来に
行けば、そんな神の領域に近付く術の一つ程度は、見付かるかもしれないよ。何せ人間っていうのは、
その是非は別にして、浅ましい程、貪欲にできているからね。今回の事件のように」
 意味深に笑う葬儀屋に、シエルは苦く舌打ちする。
「土に還ることのできない死体もまた、不死みたいなものだと思わないかい?」
「何が正しいと決めることは、僕の仕事じゃない」
「正しいと信じてるからこそ、王室の影、なんて、してるんじゃないのかい?」
 嘘は嫌いでも詭弁は得意だろうと葬儀屋が笑えば、けれどシエルは淡々とした表情を崩すことなく、
静かに口を開いた。
「世の中に絶対的に正しいことなんて在りはしない。お前が今言った科白だろう?定義や法則で変わる
ものは幾らでも在る。それでも覆せないものは死だけだって。見え方と立ち位置だけで、真実の有り様
だって簡単に変わるんだ。何が正しい、正しくないって言うなら、どれもが正しくて、どれもが間違ってる。個人の価値の問題に、僕が口を挟める道理はない」
「理路整然と矛盾を突き詰めて、それでも進むことのできる伯爵だから、口にできる科白だね。そここそ
深淵で、切っ先の上だ。矛盾と論理というやつだよ」
 相反する分離された情報を繋ぐことのできる存在は、裏にも表にも属するシエルにしかできないことだ
ろう。けれど当人だけが自分の存在価値をまったく理解できていない。その矛盾に、葬儀屋は緩い笑み
を覗かせた。
 見えているくせに、視えていない。そのくせ矛盾だらけの社会の仕組みを、そのままのカタチで理解し
ようと無防備に深淵に伸ばされる非力で華奢な腕。
 これでは有能な執事君は大変だろうなと、サロンで劉の相手をしているセバスチャンに視線が伸びた。
「それに未だ、伯爵は諦めてないんだろう?」
 意味深な問い掛けに、けれどシエルは葬儀屋が何を口にしているのか見誤ることはなく、今更訊くな
とばかりに、そっぽを向いた。その幼い仕草が、葬儀屋の笑みを誘うと、シエルはきっと気付いてもいな
いだろう。
「可能性があるなら、調べるのが僕の仕事だ」
「調べれば、可能性の結果は自ずと見える。でもそれに支払う代価は膨大かもしれないよ?」
「………お前、何か知ってるのか?」
 サファイアの瞳が睥睨を向ければ、けれど葬儀屋は莞爾と笑って、心外だねぇと軽口に口を開いた。
「小生は無料奉仕で奔走する、伯爵の躯を心配しているんだよ。今回の事件は、別段伯爵が動き出す
必要のなかったものだ。少なくとも、女王からのお呼びが掛かった訳じゃない」
 元々婚約者であるエリザベスが持ち込んだ事案に、シエルが興味を持った、それだけのことだ。それ
も本来、事件かどうかも曖昧な事案だった。それが関わった発端だったが、葬儀屋から見れば、どうに
も巧妙に仕掛けられた意図を感じて仕方ない。
「まして曖昧さを嫌う伯爵にしては、珍しい」
 二年前の後遺症だと自覚して尚、シエルは周囲に集う人間に曖昧さを許してはいない。極端に嘘を
嫌う潔癖さは、その後遺症の最たるものだ。そのシエルが、事件とも区別のつかない事案に、婚約者
から持ち込まれたものだとはいえ、自ら首を突っ込んだのは驚嘆に値する。だからこそセバスチャンは、
極力シエを事件から遠ざけたかったのだろうと、推し量るのは容易だ。
「その曖昧な部分が多いからだって悟れ」
 莫迦かお前はと、呆れた睥睨を向ければ、葬儀屋は見透かした様子でくつくつと笑うばかりで、それ
がシエルの勘に触った。
「あの事件のラインは一つじゃない。時間が意図的にずらされている。曖昧でも、可能性を確認する為
の線には違いない」
「やれやれ、だから探偵の業と同じだって言われるんだよ。執事君に言われなかったかい?終わった事
案は情報の一つとして止どめておくことも必要だって」
「………何処まで聴いてる」
 それは確かに、マダム・レッドの事件が解決した際にセバスチャンに言われた科白だったが、何故葬
儀屋が知っているかとなると謎ばかりだ。
 セバスチャンが漏らしたとは、どうしても考えにくいからだ。二人だけの秘め事に縺れ込んだあの夜の
会話を、セバスチャンが漏らしたとは、シエルには思えなかった。そしてセバスチャンが、自分がマダム
・レッドに関連した事案に関わることを、内心快く思っていないことも薄々気付いているから尚更だった。「何も聴いてはいないけど、あの執事君なら言いそうだ」
 だから小生も一つ忠告をさせてもらうよと、葬儀屋は右手の人差し指を、シエルの酷薄な口唇にそっと
押し合て、謎めいた笑みを口唇に乗せた。
「謎は謎のままにしておくことも、時には必要なことだよ」
 秘密を打ち明けるような密やかさで、葬儀屋は酷薄な笑みを覗かせる。
「貴様、何か知ってるんじゃないだろうな?」
 例えば、謎にしておきたい事実の欠片を。
「小生は伯爵が関わる事件の一切に興味はないよ。関心ごとは、そうだねぇ」
 謎めいた笑みを色濃く滲ませると、葬儀屋は瀟洒な面差しを覗き込み、
「伯爵自身。ってことにしておこうか」
「……離れろ」
 鬱陶しいと顔を押し退ければ、葬儀屋は固執することもなくあっさりシエルから離れ、しみじみとした様
子で呟いた。
「本当に、素直ないい子に育てたものだよ」
 執事君の有能さに関心するねと葬儀屋が笑えば、シエルは心底嫌そうに舌打ちし、歩き出した。
 そんな矢先、茂みの中で聞き慣れた声が響くのに、シエルが小首を傾げた。
「ネコの声だね」
「セバスチャンが餌をやるからだ」
「ホ〜〜あの執事君がネコに餌ね。それはまた随分人間らしい部分も有るものだね」
 無機質な印象ばかりが眼に付くセバスチャンが、ネコに餌を与えているというのも、なんとも微笑まし
い情景な気がした。
 カサカサと足許で鳴る枯れ草。黄色や赤に色付く樹木。明度の淡い陽射が樹々に触れる都度に、其
処彼処で零れ落ちる光。 そんな穏やかな秋深い光景は、シエルをらしくない感傷に誘う。葬儀屋から
死に付いて語られた所為もあるのかもしれないと、すぐ近くから聞える仔ネコの声を探して、シエルは周
囲に視線を彷徨わせた。 


『坊っちゃん……』


「セバスチャン?」
 不意に聞えた声に、シエルの視線がサロンに移る。そこには劉の相手を押し付けてきたセバスチャン
が、何やら劉と談笑しているのが視界に映る。
「どうかしたかい?」
「今…セバスチャンの声がしなかったか?」
「小生には、聞えなかったよ」
 幻聴が聞えるなんて、未だそんな歳でもないだろう?そんな軽口に紛らせれば、シエルは憤慨した様
子で、遠慮もなく葬儀屋の脚を踏み潰した。


『アナタがもう少し大人になったら……』


「なんだ……これ…?」
「伯爵?本当に大丈夫かい?」
 呟くようなシエルの独語に、葬儀屋が訝しげにシエルと、サロンで劉の相手をしているセバスチャンに
視線を向ける。けれどセバスチャンはシエルの様子には気付かないのか、劉の相手を続けている。


『私を必要とする時が来ます』

『だからその時まで、アナタに魔法を掛けましょう』

『さぁ、眼を閉じて……』

『刻が来たら、アナタの魔法は解けるようになります。その時は迷わずに……』


「セバスチャン……?」
「伯爵、気分でも悪いかい?執事君を呼ぼうか?」
 不意に立ち止まり、セバスチャンの名を呟くシエルに、葬儀屋は訝しげにシエルを覗き込んだ。
「いや、何か思い出し掛けたことがあって……」
 エンパイアイエローに彩られた穏やかな季節。淡い陽射が光を散らす光景には不釣り合いな、黒い燕
尾服を着込んだ男。端麗な造作に、色素を溶かし込んだかのような、ワインレッドの双眸。その双眸が
柔らかい色を灯し、何かを優しく囁いていた。
「一体いつの記憶だ…?」
 記憶というには妙に霞んだ光景の中に在って、事実か虚構か判別が付かない。判っていることは、霞
んだ光景の中に響いた声は、聞き慣れたセバスチャンのものだという事実だけだ。
「そろそろ中に入ろうか?」
「お前が碌でもない話に付き合わせるからだ」
「そーいうのは、八つ当たりっていうんだよ。大人げないと思わないかい?」
「僕は子供だ」
 幾分顔色が優れないように見えるものの、口調は至って小生意気で、葬儀屋は肩を竦めた。
「子供扱いすれば本気で怒るっていうのに、我が儘だねぇ」
 やれやれと大仰に溜め息を吐けば、焦れた様子で仔ネコが茂みから姿を現すのに、シエルが声も掛
けずに細い両腕を差し出せば、何処かセバスチャンの印象と重なる黒ネコは、甘えた鳴き声を上げなが
ら、シエルの腕に飛び込んだ。
 トサリと響く軽い音。腕に触れる小さい温もり。半瞬だけ、シエルの口許に小さい笑みが覗いた。
「黒ネコなんて、あの執事君に何処か似ているね。迷いネコだろう?その割に随分毛並みが綺麗じゃな
いかい?」
「セバスチャンが餌なんてやるから、居着いて困る」
「ああ、皆総出で、可愛がってるんだ」
「………」
 図星を言い当てられ面白くないのか、シエルは憮然とした様子で、腕の中に飛び込んできた黒ネコを
眺めた。
「名前は?」
「さぁな。皆好き勝手に呼んでるからな。フィニアンやメイリンはセバスチャンとか呼んでるし、バルトはロ
デムとか呼んでたな。タナカは、タマとか呼んでるな、確か」
「おやおや、何とも微笑ましい光景だねぇ。それで執事君はなんて呼んでるんだい?」
「名前を呼んでるのは聴いたことがない気もするが、餌をくれる相手って認識してるんだろう?あいつの
姿見つけると、走り寄って行くからな」
 小さい首。柔らかい温もり。喉元を擽ってやれば、ゴロゴロと甘えた声を上げる。
「それはまぁ、何とも、家族みたいなものだねぇ。伯爵のことも、名前なんて呼ばなくても腕に飛び込ん
でくるくらい警戒心がないんだから、余程可愛がってるんだろう?ネコは人一倍警戒心が強い生き物だ
から」   
 伯爵もネコみたいな所があるから安心なのかねぇと、笑えば、自覚が有るのか、シエルはますます憮
然となっていく。
「認識していなくても、ちゃんと判ってるようで安心したよ」
「何だ?」
「誰かを心に棲まわせることなんてなかった伯爵が、こうして傾けるダレかを持っている。誰かを心に棲
まわせるなんて、相手の心にも棲んでいるのと意味は同じだろうからね。両想いで安心したよ」
 良かった良かったと、何やらシエルにはまったく意味不明の言葉を吐いている葬儀屋に、シエルは意
味不明だとばかりに小首を傾げ、終いには意思疎通不可とばかりに、葬儀屋に背を向けた。
「下らないこと言ってないで、戻るぞ」
 お前の話にはもう付き合えないと匙を投げたシエルは、丁度迎えに来たセバスチャンに腕の中の黒ネ
コを突き付けた。
「お前が餌なんてやるから、懐いて困る」
「いきなり理不尽を言われても、対処しかねますよ坊っちゃん」
 いい加減葬儀屋と放置状態では機嫌が悪化するだろうと迎えに来れば、不意に可愛がっているネコ
を突き付けられ、セバスチャンはらしくなく眼を点にした。 
 思っていたよりシエルの機嫌は底を突き抜けていたのか、瀟洒な面差しには歳相応の憮然さんが滲
んでいる。それがセバスチャンの笑みを誘った。
「何を笑っている?」
 背後でクスリと笑う聞き慣れた声に、シエルが睥睨を向ければ、セバスチャンも葬儀屋も、歳相応の
シエルの反応が可愛いやら可愛いやら、何処か困った様子で笑いを堪えている。
「今日のスイーツはなんだ?」
「坊っちゃんのリクエスト通り、上質の栗を使用したスイーツをご用意致しました。マロンパイと、マロンシ
ャルロット。マロンペーストをふんだんに使用したモンブラン。それとマロンムースに、パフェがお好きな
坊っちゃんには、マロンパフェもご用意してありますよ」
 突き付けられた仔ネコを腕に抱き、音が響きそうな威勢で莞爾と微笑むセバスチャンの内心を推し量
ることはシエルには容易だ。少なくともセバスチャンの内心は、ただの意趣返しだと判るからだ。
 それが悪魔のやることかと、呆れた様子で遠い眼をするシエルは、けれどセバスチャンの行動が、自
分を心配する裏返しだと自覚しているから性質が悪い。
 嫌味なまでに栗を使用したスイーツは、栗を使用したスイーツを食べたいというシエルのリクエストに
応えた結果だったが、羅列されたラインナップに、葬儀屋は些か辟易した様子で胸を押さえた。
「さぁ坊っちゃん、参りましょう」
「お前が餌なんてやるから見ろ。お前が買い主だと思ってるぞ」
 安心しきった様子で、セバスチャンの腕にある仔ネコに、シエルはらしくない感情を覚え、内心で自嘲
する。
 漆黒の闇を湛えた黒髪。真っ黒い燕尾服は、それが闇夜なら、輪郭さえ綺麗に周囲に溶け込ませて
しまう。セバスチャンの印象そのものの黒を持つ仔ネコは、確かに何処かセバスチャンと印象が似通っ
ている。
「貸せ」
「坊っちゃん?」
 腕からひったくられた仔ネコは、それでも嫌がらずにシエルの腕で甘えている。随分懐いたものだとセ
バスチャンが思えば、シエルの蒼い瞳が睥睨を向けた。
「可愛い迷いネコの後を掃除するのも醍醐味だろう?」
「……またそういう理不尽をお仰る」
 それはとどのつまり、シャンプーもしない迷いネコを、屋敷に上げるという意味にしか聞えない。泥で汚
れたネコの足跡が屋敷中に残される可能性を考え、セバスチャンは遠い眼をした。
「私が居ると思って、やりたい放題では困りものですね」
 やれやれと大仰に溜め息を吐く執事に気分を良くしたシエルは、案外と子供だ。
「伯爵」
 そんな微笑ましい主人と執事の語らいを、二人の半歩後から眺めていた葬儀屋は、不意に華奢な背
に声を掛けた。
「先刻の件だけれどね。小生で役に立つなら、いつでも使われてあげるよ」
 無論極上の笑いが報酬だよと嘯いて笑えば、シエルはクルリとターンする優雅さで背後を振り返り、
酷薄な口唇に意味深な笑みを刻み付け、
「今更だろう?お前は僕の情報屋だ。精々こき使ってやるから、覚悟しておけ。これからこんなことは、
幾らでも起こるだろうからな」
 そう笑うと、隣を歩くセバスチャンに、意味深な笑みと共に視線を投げる。その様子を視界に捕らえ、
セバスチャンは深々溜め息を吐き出した。
「坊っちゃん」
 これの何処が素直ないい子だと思うものの、自分の感情に素直な顕れだと判るから、セバスチャンは
溜め息を吐くことで幼い主に反駁を試みた。尤も、そんなことが通用しないことは百も承知だ。そのあた
りの秤が、シエルは呆れる程に素直だ。
 シエルが動くのはいつだって他人の為だ。発生する事案の一つをとってみても、シエルを取り巻く環
境の外で起きている。それでもシエルは自分の為だと、動くことに躊躇いを見せない。その姿が、他人
にはきっと綺麗に見えるのだろうと、セバスチャンは正確に理解している。けれどシエルが何を代価にし
ているのか、劉も葬儀屋も、根深い部分までは理解していないだろうと、セバスチャンは思っていた。
 悪魔である自分と交わした契約の有無は抜きにして、事案に関われば関わる程、シエルの内側から
削り出されて行く脆さと引き換えの強さ。それが安全と危険を計りに掛けることを知らないシエルの代
価だ。そしてシエル自身、自覚のない願いを内側に抱いている。それは深淵に曝されれば曝される程、
シエルの内側に根を這っていく性質の悪い代物だ。
「無茶で無鉄砲が坊っちゃんの専売特許なのは判ってますが、行き当たりばったりな行動は謹んで頂
かないと困りますよ」
 呼べばいつでも辿り着けるが、シエルが呼ぶのは痛みを負った後だ。
「迷わないというなら、痛みを負う前に呼びなさい」
 安全と危険を計る秤を持たない幼い子供は、痛みを負う恐怖をも容易に手放してしまう。
「痛みは人の防衛本能に直結している代物だからね。要は生存本能と一緒だ。生きる為に必要なのが、痛みなんだよ」
 判ったかい?と笑う葬儀屋に、シエルは何とも言えない、困ったような曖昧な貌を見せた。
「小生より早く墓場に入る伯爵なんて、見たくはないからね」
 勿論、その時には綺麗に小生が埋葬してあげるけどねと笑えば、シエルは鋭利な眼光で葬儀屋を眇
め見て、
「安心しろ、お前の世話にだけはならないから」
 死ぬなら独りと決めていると、シエルはポツリと呟いて、クルリと背を向け屋敷へと歩いて行く。
「おや、苛め過ぎたかな?」  
「あまり関心できる冗談ではありませんでしたね」
「執事君も怒ったかい?」
「理屈に適う正論が、正しいとは限りません。特に主人のような存在には」
「だったら、ひっぱたいてやればよかったかねぇ?」
 くすくすと面白そうに笑う葬儀屋は、劉同様に得体が知れない存在だと、セバスチャンはシエルの華
奢な背を見凝め、歩き出した。


(独りで死なせてやる程、私は親切じゃありませんよ、坊っちゃん)


 最期まで傍らに居ろと頑なに告げるシエルからは、想像できない科白だったものの、シエルは本当に
危険な時。死を覚悟したら、恐らく自分を呼ばないだろうという昏い予感もセバスチャンにはあった。
 死期を悟った野生動物は、誰にも死骸を見せないよう、群れから離れて死んでいく。どうにもシエルに
はそんな印象が付き纏う。恐らく劉や葬儀屋の危惧も、そのあたりだろう。


「誇り高い女王の番犬は、一体どんな風に砕け散っていくんだろうね」
 先へ行けば行くだけ、細くなる切っ先。砕け散る瞬間、シエルは誰を呼ぶだろうか?
「何がお仰りたいんですか?」
 その口をいい加減に閉じろと、無機質な双眸が冷ややかに葬儀屋を凝視すれば、別段葬儀屋は驚い
た様子も見せず、セバスチャンの色素を刷いたワインレッドの双眸を面白そうに眺めた。
「深淵に近い分だけ、あの子は境界を簡単に踏み越えてしまう可能性がある。マダム・レッドがそうだっ
たように。一端足を囚われたら、恐らく溺れていくことを甘受してしまうだろう。あの子の立つ位置は、そ
ういう危うさが付き纏う。だから君という守護が付いている。どういう経緯でかは判る術はないけれどね」
 そうじゃないかい?と、長い前髪に隠された眸が、淡々と凝視してくるのに、セバスャンは冷ややかに
笑った。
「劉様と同じで、貴方も底の知れない男で安心しましたよ。なまじっかな相手を主人に近付ける訳には
いきません」
「それは何より。有能と評判の執事君のめがねに適ったのなら、幸いだ。小生が此処に来る理由の何
割かは、執事君のスイーツが目当てだからね」
 嘘か本気が判らない口調で笑うと、前方では中々後を追って来ないセバスチャンに焦れたのか、シエ
ルが振り向き様、大声でセバスチャンを呼ぶ声が響いた。


「セバスチャン!いい加減にそいつの相手はやめろ!」


 主人を放り出して、意思疎通不可能な男の相手なんてしているなと、シエルは腕に仔ネコを抱えなが
ら、大声で叫んだ。
「独占欲なんて知らなかった子が、本当に素直ないい子に育ったものだ」
「それが枷に繋がってくれれば、安心なんですが」
 迷わないと端然と告げたシエルの覚悟。誰にも肩代わりさせない躊躇いのなさが怖いのだと、シエル
が気付くことはないだろう。
「簡単だろう?繋げて見せればいいんだよ」
 そんなこと、悪党って呼ばれてる執事君の手管なら簡単だろうと、葬儀屋が笑いながらシエルの元に
歩いて行くのに、セバスチャンは苦笑する。
 他人の機微には疎いくせに、肝心な部分になると此方の思惑など綺麗に見透かすシエルのことだ。
簡単に独占欲が枷に繋がりはしないだろう。それよも深い業が、シエルには足枷となって繋がり、深淵
に続いているのだから。
「独りでなんて、死なせませんよ。生憎私はそんなに親切じゃありません。貴方が独りで死ぬのを望む
なら、私がとどめを刺して差し上げましょう」
 一緒に生きることは可能でも、一緒に死ぬことはできない。自分の知らない場所で、シエルが砕け散
ることは許せなかった。誰かの手に手折られることも。それが初めて人間に持つ独占欲だと、セバスチ
ャンは自分の内界の変容に自嘲を禁じ得ない。
「最期まで傍にいると、言ったでしょう?」
 私は人間のように嘘は付きませんよと、シエルが再び叫び声を上げる最中、セバスチャンは端麗な微
笑みを刻み付けた。