生誕祭
act3











 広大な領地に聳え立つ造形物。暗い夜に沈み込む屋敷は、けれど黒々と塗り潰された輪郭だけを、
月明りの下に浮かび上がらせている。
 盛り上がりに盛り上がっていたシエルの誕生パーティーは、エリザベスとフランシスの帰宅により終わ
りを告げ、屋敷は先刻までの喧騒が嘘のように、深夜の静寂に包まれている。主役のシエルより大騒
ぎしたバルト達は、勿論サロンの後片付けなど綺麗に放棄し、今は夢の中の住人だ。この屋敷の迷い
ネコは、フィニアンに連れて行かれ、体よく湯たんぽ代わりにでもされているだろう。
「坊っちゃん、ミルクティーをお持ちしました」
 重厚な扉を静かにノックすると、聞き慣れた声が即座に返される。その声を確認すると、セバスチャン
は音も立てない所作で扉を開き、室内の様子に僅かに眉を顰めた。
 幼い主人が眠りに付かない限り、シエルの自室から照明が消えることはない。とりわけ読書好きとい
う訳でもないだろうが、ベッドに入ってすら本を読むことをやめない、セバスチャンに言わせれば悪癖の
一言に尽きる行為を、シエルは毎夜繰り返す。その為、シエルの部屋から照明が消されるのは、半ば
セバスチャンによる強行の結果だった。
 キスを施しても下手をしたら『区切りが付くまで待て!』と、イヌが待てを強要されるに等しい状況も珍
しくはないから、毎夜セバスチャンが強制的に本を取り上げ、濃厚なキスで溺れさせ、セックスへと縺れ
込む。その過程も毎夜すぎて、二人の間ではそこからが既に睦言に等しい、情事の始まりのようなもの
だった。だからその時まで、シエルの部屋から照明が落ちることはない。それが今夜に限り、室内は夜
の静寂に沈み込み、デスクに置かれた照明だけが、周囲を仄白い浮き上がらせている。後は部屋の隅
にある暖炉の炎がパチパチと音を立て、温もりの在処を知らせている程度だ。
「待ってたぞ」
 扉に対し、ほぼ正面の位置に有るマホガニー製のデスク。それを挟んで向こう側に置かれているのは、座り心地に配慮した特注の椅子で、シエルが待ちくたびれた様子で腰掛けている。
 些か行儀悪くデスクの上に片肘を付き、右手は銀製のフォークを持っている。それを暇潰しのようにユ
ラユラと揺らしながら、シエルは莞爾と笑ってセバスチャン出迎えた。
「坊っちゃん?」
「極上のスイーツには、ミルクティーがないと美味さも半減するからな」
 仄白い明かりに照らし出された繊細な貌は、悪戯を思い付いた子供のような表情をして、そのくせ何
処にも子供らしさなど持たない忍び笑いを浮かべている。
 ユラユラと揺れる、暇潰しの玩具のような銀色のフォーク。セバスチャンの眉が更に顰められる。
「スイーツ、ですか?」
 一体いつそんなものをシエルが持ち込んだのか、セバスチャンに心当たりは何処にもなかった。
 形は崩れ、見た目だけなら残骸にしか見えないバルト達特性のケーキは、けれど味は失敗しなかっ
たらしく、エリザベスにもフランシスにも好評だった。それを持ち込んだのかと思えるが、シエルがそんな
ものを部屋に持ち込んだ記憶はなかった。
 盛りに盛り上がった誕生パーティーは、最後にはその目的さえ忘れ去られていた感が拭えず、無礼
講と言えば聞こえはいいが、あれでよく厳格なフランシスが黙っていたと関心する程度には、この屋敷
の使用人は、侯爵婦人に礼を弁えていなかった。それでもフランシスは楽しそうで、小言一つ言わずに
帰っていった。あれはあれでこの屋敷の使用人達の謎な部分だと、セバスチャンは心底関心したくらい
だ。
 侯爵夫人にも侯爵令嬢にも、お世辞にも礼儀を弁えていたと言えない彼等は、けれど不思議と他人
に不快感を与える雰囲気はないのか、なんとなく微笑ましく笑ってすませてしまう一面がある。きっとフ
ランシスも、そんな部分に小言も言わなかったのだろう。ある意味で、巧く騙したなと思わなくもなかった
が。
 眼前で怪訝な表情をしているセバスチャンを面白そうに眺めると、細い指先が、おいで、おいでと、手
招きする。
「誕生日の締め括りのスイーツだ。美味いぞ」
 デスクの上に置かれた時刻は、あと一時間もすれば日付が変更される時刻を示している。
 暇潰しのように弄んでいたフォークを、ブスリと音を立てる威勢で膝の上に持っているケーキに突き立
てると、ざっくりと掬い上げ、シエルはセバスチャンの真ん前に突き出した。
「食べてみろ」
「坊っちゃん?」
「極上のスイーツだ」
 これを見付けた時、自分の胸がどれだけ痛んだのか、この悪魔には欠片も判らないだろう。不可能な
ことなど何もなさそうに見えるくせに、肝心な部分をあっさり取り零していく。
 要らないとさえ思ってもらえなかった極上のスイーツ。それはセバスチャンの内側が綺麗に反映され
てでもいたのか、まるで切り捨てられたように無造作に放置されていた。それが自分に対するセバスチ
ャンの内側のようで、本気で息が詰まった。
 魂と引き換えの獲物。流れる時間は常に一定だというのに、悪魔であるセバスチャンとの間では、時
間軸さえ差異がある。百年は軽く超えて生きている悪魔にとって、自分は長い時間を過ごす為の玩具
に等しい存在だろうと、突然の行為に、らしくなく眼を点にしているセバスチャンに、シエルは更にフォー
クを突き出した。
「では」
 怒っているのか、哀しんでいるのか、シエルの言外から読み取れるものは何もない。それでも判るも
のと言えば、美味しいというスイーツを、美味しそうに食べていないことだけが瞭然としている。
 突き出されたフォークの先端に突き刺さる、生クリームまみれのケーキ。白いクリームに黒く混じって
いるのは、おそらくチョコレートだろう。
 言外に隠された、無言の要求。
主の食器に口を付けるのもどうかと思うが、この幼い主が頑固なことも判っているから、セバスチャンは
内心でこっそり溜め息を吐くと、ケーキに口を付けた。瞬間、端整な造作がらしくない遽然を浮かべるの
に、シエルは酷薄な口唇に綺麗な孤を描いた。
「……これは……」
「人間の料理なんて、お前に興味はないだろう?お前は食事なんてしなくったって、死なないからな。
それでも、自分の作った物くらい判るか?」
 感情の乗らない無機質な声は、シエルが必死になって感情を押し殺しているからだ。そうしないと子
供の八つ当たりにしかならない我が儘が、口を付いて叫んでしまいそうだったからだ。
「坊っちゃん……何処でこれを」
 無機質な声と、辛辣な中身。シエルが必死になって押し殺している感情の波が、まるで共鳴するかの
ように周囲の空気を振動させる。
「放置していたお前が訊くか?お前を探すようにフランシス叔母様に言われて、キッチンに行った時に見
付けた」
 そう言って、シエルは膝の上に乗せていた皿をデスクの上に無造作に乗せると、再びケーキを掬い上
げる。
 シルクハット型のチョコレートとステッキ。ホワイトチョコで作られている薔薇。土台になるケーキの上に、おそろしく手の込んだ装飾をされたそれは、まるで繊細な細工物のようだっただろう。その一角が、
作り主によって崩されていなければ。
「坊っちゃん……」
 諦めたかのような吐息が、酷薄な口唇から零れ落ちた。
「お前には、判らないだろう?」
 自嘲とも苦笑とも付かない曖昧な笑みを浮かべ、細い吐息混じりの声が漏れ落ちる。
「どうせお前には僕もケーキも、さした意味の違いなんてないんだからな」
「それは、バルト達が料理を作っていましたから、必要ないと思ったまでですよ」
 実際それ以外の他意はない。バルト達が大量に料理を用意していたから、シエルには不要だと思っ
ただけで、押し殺されている感情の在処が、セバスチャンには本気で判らなかった。それでも判ってい
ることが有るとすれば、シエルが泣くこともできない程、哀しんでいるという事実だけだ。
「必要ないと思うなら、どうして消しておかなかった?お前のチカラなら、その程度何でもないだろう?
お前にとってこのケーキなんて、消す必要もないくらい、どうでもいいものだったんだろう?だから無造作
に放置してたんじゃないのか!」
 自分の為に作ったバースデーケーキを、あっさりと切り捨てられる程度に、セバスチャンにとっては、
所詮どうでもいい代物でしかなかったのだろう。そう思うと、どうしようもない感情の波が押し寄せてくる。
「どうせお前になんて、僕の気持ちは判らない!」
 意識の底から突き上げて来る感情の波が、臨界点を超えるのが生々しく判る。
セバスチャンが嘘を付いていないことは、嫌という程判っている。それがセバスチャン言う所の、悪魔の
美学とやらの根幹だからだ。
 だからこれが、子供の八つ当たり以上のものなど持たないことを、シエルは正確に理解している。
それでも、理解が納得に繋がるかと言えば話しは別で、感情の部分は何一つ納得していなかった。
「僕の誕生日に、僕の為に作ったケーキを、簡単に棄てられるお前だ。どうせお前にとっては、僕もその
他大勢の人間と何も変わらないんだろう?この契約書を持っているっていうこと以外!」
 毟り取る威勢で眼帯を剥がすと、契約書が埋め込まれた綺麗なアメジストの瞳が現れる。
 機能など一つもないくせに、雄弁に感情の在処を語る瞳。血統の正しさを受け継いだ蒼瞳に、上書き
された悪魔との契約。
「そうだと言えば、アナタは納得しますか?」
 叫喚するシエルを冷静に見詰め、セバスチャンは静に口を開いた。その瞬間、シエルの瞳が見開か
れ、息を吸い込む音が大きく響いた。
「アナタは、神に見捨てられた幻影。悪魔に魅入られた獲物」
 だから私は嘘など付きませんよと、冷ややかな微笑みが、端整な面差しに深く刻み付けられる。
「何を勘違いしているのか判りませんが、私が坊っちゃんに嘘を付く必要など、何処にも有りません。
それも申し上げたように、バルト達が必要以上に料理を作っていましたから、不要と思ったまでのこと。
そんなに召し上がりたいのなら、明日作って差し上げますよ」
「………お前に誕生日なんて言っても、判らないんだろうな」
 自分の気持ち一つ届かない悪魔。何をどう言い募っても、きっとセバスチャンには伝わらないと、シエ
ルは半眼、瞳を閉ざした。
 諦めたかのような、細い吐息混じりの声。長い睫毛が涙を怺えているのか、哀しげに揺れる。
「僕も誕生日の意味なんて、今日まで考えたこともなかった…」
 だから悪魔であるセバスチャンを責める権利など、本当は何処にもないのだ。けれど気付かされてし
まった意味がセバスチャンには一切届かない哀しみに、胸が押し潰されてしまいそうだった。
「時間を超えて生きるお前に、そんなものは必要ないからな…」
 答えの出ない平行線。所詮、悪魔は悪魔でしかなく、人は人でしかない。悪魔であるセバスチャンを、
人の理に巻き込み答えを求めても、回答など出る筈もない。近似値が何処に在るのかさえ、計れるもの
は一切ないのだから。
「お前にとっては永遠に等しい時間でも、僕達人間にとって、今日という日は二度とない。明日お前が
同じものを作ってくれても、それが同じ意味を持つことは二度とないんだ」
 たかがスイーツに意味など求める人間の思考など、悪魔に理解しろということ事態が無理なんだろう
と、シエルは泣き出しそうな表情で自嘲する。
「お前に、僕の気持ちなんて判らない…。でも、お前が悪い訳でもない…。だからこれは、ただの八つ当
たりだ」
 下らない感傷だと、瀟洒な面差しに深い自嘲を刻み付けると、シエルは皿の上のケーキにフォークを
突き立てる。
 万能で有能な執事。詠唱破棄で魔力を使用できる部分を見ても、恐らく悪魔としての地位も高いのだ
ろう。尤も悪魔の定義が人間界の定義と重なるとも思えないから、実際は判らないが。
「……可能性は結果を見れば判る。けれど回答を視るまで、結果の有無は判らない。それがアナタの
持論じゃなかったんですか?」
 謎を謎のままに放置しておけないシエルの性質。発生する事件。下される命。個の中から引き摺り出
され、カタチを成す人の悪意。事件というパーツを連なる事象として再構築していく天の才。
 そんな部分が、まるで探偵の業のようだと、シエルは気付きもしないだろう。その時シエルの頭の中
で、一体どんな連環が描かれているのか、それはセバスチャンにも判らないことだ。 不明瞭な社会の
仕組み。人から生み出される悪意と善意。そんな化生と大差ない代物を、それでもそのままのカタチで
理解しようと、深淵に伸ばされる細い腕。
 その時自分が、一体どれだけの危惧を抱いているのか、シエルは一切理解していない。
 平行線を辿るというなら、この問題も十分な平行線で、だからお互い様だろうと思うセバスチャンだっ
た。
「ままならないことの方が多いんですよ、生きているのが長くなればなる程ね」
 端整な面差しが、色濃い自嘲を刻み付ける。
少なくともシエルに関しては、ままならないことの方が恐らく多い。
「……?」
「生憎私は悪魔ですから、アナタ方人間の感情は、正直よく判りません。坊っちゃんが何をそんなに哀
しんでいるのかも」
「……お前が僕にケーキを焼いたのは、どういう理由だ?」
「誕生日は、お祝いするものですから」
 長く生きた年数分だけ、加算される経験値。長く人間界に居れば、儀式めいた祝い事の一つや二つ、
嫌でも覚える。
「……でも誕生日をなんで祝うのか、お前は理解してないんだろう?」                 
「それくらい、判りますよ」
 莞爾と笑うと、セバスチャンは思い出したようにミントンのティーカップにミルクティーを注ぎ入れていけ
ば、周囲に淡い薫りが立ち上ぼる。
「十三年前の今日、坊っちゃんが生まれていなければ、私はこうして坊っちゃんに会うことはなかったん
ですから」
 お誕生日おめでとうございます。
セバスチャンが優美な微笑みでティーカップを差し出せば、シエルは半瞬、眼を点にして、キョトンと小
首を傾げた。
 薄く細い肩の上で、ブルネットの柔髪がサラリと揺れた。
「僕に会わなかったら、別の人間を獲物にしてただろう?」
 偶然か気紛れか、自分が召喚したのかさえ判らない悪魔は、血の海の中に突然と現れた。
 見捨てることも、殺すことも、選択肢は幾らでもあった筈だ。それでもこうして自分の傍らに在る悪魔。
自分と出会わなかったら、他の人間を契約者に選んでいたのだろうか?そう考えれば胸が軋む。
「そうかもしれませんし、違うかもしれない。架空の問題に提示できる回答はありませんよ」
 それが恐らく、シエルの根幹に位置する哀しみなのだろうと推し量るのは可能でも、どうしてそこで哀
しむのか、セバスチャンには理解できない。
 架空の未来を想像しても、出せる答えも所詮は架空だ。『もしも』という回答が許されない切っ先の上
に立つシエが、そんな問題が建設的でないこと程度、判らない筈もないだろうに。
「無茶で無鉄砲、我が儘が得意な主ですが」
「……何だ急に」
「私はアナタのそんな部分を、気に入っていますよ」
 手に余る荷物を抱え、それでも他人に肩代わりさせない潔さ。連綿と受け継がれてきた血の業を、正
確に理解している聡明さ。それは痛ましさと同義語だ。けれど痛々しいからこそ綺麗なのだと、整然とし
た矛盾を等分にしている幼い生き物。こんな存在は、今まで契約してきた人間の中にはいなかった。
「マイロード」
 優美に微笑むと、セバスチャンは酷薄な口唇をシエルのそれに重ね、味わうように濃厚なキスを贈っ
た。
「ぅんん……」
 狭い口内を思う様掻き回され吸い上げられれば、細い吐息のような嬌声がくぐもって響く。
「…んっ…、やっ…、んぅっ…」
 椅子の上から引き摺り上げるように抱き上げられ、デスクの上に細腰が乗る。
 濃厚な愛撫に等しいキスに、細い指先が縋るようにセバスチャンの襟元を握り締める。
「んぅっ……んっ……」
 歯列をなぞり、絡め取られる舌。幾度となく角度を変え深くなっていくそれに、喉が鳴る。
キスで誤魔化された気がして、やっぱりこいとは天性の詐欺師だと、内心で盛大に罵倒する。
 散々好き勝手に口唇も舌も弄ばれ、漸く開放された時には、罵倒する内心とは裏腹に、弛緩しきった
躯はセバスチャンの腕に脱力するように凭れていた。
「……お前はやっぱり、悪党だな」
 白磁の貌がうっすらと紅潮する官能的な表情。甘い吐息混じりの声で悪態を吐いても、それは逆に男
を喜ばせてしまうだけだとシエルは知らない。それがセバスチャンの苦笑を誘った。
「キスがお好きな坊っちゃんに、お誕生日のプレゼントを差し上げたのに、その言い草は酷いですね」
 性欲など無縁の表情をして、あっさり官能に色付く白い肌。何も知らない処女の皮を被った自堕落な
堕天。そのアンバランスさが、シエルの魅力に化けている。
「キスで誤魔化される女と勘違いするな。疚しいことがあればあるだけ、キスと優しさで誤魔化すのが男
だからな」
 精一杯の憎まれ口を叩くと、シエルは放り出す恰好になったフォークを手にして、再びケーキに突き刺
した。
「………ダレにそんな言葉を教えられました?」
 訊くだけ愚問だと判っている。頭の中には得体の知れない、飄々とした中国人と、同じく底の知れな
い葬儀屋の、意味深な笑顔が通り過ぎていく。
「葬儀屋に言わせれば、お前は優しくて最低なヒトタラシらしいぞ」
 言葉に出しても、その根深い意味は判らなかったが、要は詐欺師と言うことだろうと、シエルは勝手に
結論付けていた。
「………」
 長く生きてきているが、自分をそんな風に言った人間はいなかったなと、セバスチャンは半瞬だけ遠い
眼をした。
 悪魔の自分を掴まえて、詐欺師と言い切る人間も初めてだったと思い出す。そう言えば、いやらしい
顔と連呼されたのも初めての経験だ。
「坊っちゃんがどう思っているのか、私には判りません。言いましたよね?私にとっての真実が、坊っち
ゃんのそれには成り得ない。同じものを見ていたって、感じ方は夫々違う。受け取り方は、それこそ真
実と同じように、立ち位置によって異なる脆弱なものです。所詮誰にも、他人の心の中身なんて判らな
いんですよ」
「随分…突き放した物言いだな」
 甘い筈のケーキは、苦さばかりが付き纏う。明日同じ物を食べたとしても、同じ意味は二度と持たな
い。
「正論ですよ、取り敢えず」
 理屈に適うことが、正しいとは限らない。人の心に触れる部分は特に繊細にできている。けれど時に
は正論も必要なことだ。
「坊っちゃんも私の気持ちなんて、これっぽっちも理解できてないって意味と同じだと思いますから」
 事案に関われば関わる程、シエルの内側から削り出されていく警戒心。自己に執着を持てない代価
のように、研ぎ澄まされていく切っ先の才。
 それは二年前の後遺症そのもので、自覚のないシエルの願いの在処だ。だからこそ、意地悪にも大
切に守ってしまうのだと、シエルは気付きもしないのだから、立派にお互い様の領域だ。
 所詮誰だって、自分を中心に物事を計る。人間も、悪魔も、おそらく、神とやらも。
 苦笑とも自嘲とも判らない曖昧な笑みを浮かべれば、腕の中でシエルが嫌そうに眉を寄せる。それは
セバスチャンばかりか、劉にも葬儀屋にも散々言われてきた科白だからだ。そのくせ自覚の有無が今
一つだから、誰もが心配してしまうのだ。
「私と坊っちゃんを結ぶものは、確かにこの右目の契約ですが」
 古来から邪眼とされる紫の眼。高貴でありながら、死の意味合いも持つ真逆の色。
蒼と紫のアオッド・アイ。天上の色であり、聖母マリアの色とされる蒼。高貴でありながら、死の意味を
も与えられた紫。それはまるで整然とした矛盾を等分に分け、それでも切っ先の上に立つ意思を持つシ
エルそのものの色だと、セバスチャンは瀟洒な輪郭を片手で包んだ。
「時と場所が重ならなければ、起きなかった偶然です。だから架空の未来を憂えるより、これからも一緒
にいられることを喜ぶ方が、遥かに建設的ですよ」
 そう思いませんか?と端麗な微笑みを見せるセバスチャンに、シエルは少しだけ呆れた。
「……お前、実は莫迦だろう?」
 悪魔が運命論を唱えるなど、古来から語り継がれる伝承の中で、聴いたこともない。
何か巧く誤魔化されているのは判る。けれどこの詐欺師の悪魔の美学とやらは、契約に従うことらしい
から、今夜は誤魔化されてやろうと、シエルは最後の一欠片になったケーキを口に運んだ。
 舌に乗る苦い甘さ。どう言い募っても交わらない明確な境界線のように。永久に交わらないものなど、
其処彼処に転がっているのだと、改めて気付かされる。
「今夜は、理不尽な言葉ばかりを聴きますね」
 莫迦と軽口を叩かれたことは幾度もあるが、心底溜め息を吐かれて言われたことは記憶にない。本当
に今夜は初めてのことばかりだと、セバスチャンは苦笑を禁じ得ない。
 そして燕尾服のポケットから銀製の懐中時計を取り出し、時刻を確認すると、セバスチャンは華奢な
躯をやんわり抱き上げた。
「それでは坊っちゃん、支度なさって下さい」
「支度?」
 デスクの上に半分乗る躯をすっぽり包まれ、反対側に降ろされる。唐突な言葉にキョトンと小首を傾げ
れば、セバスチャンは何やらクローゼットを漁り、シエルのお気に入りのコートを取り出した。
「セバスチャン?」
「誕生日には、プレゼントが付き物ですから」
 ニッコリと笑い、シエルにコートを着せ掛ける。
「それも経験から学んだことか?」
 カシミアのコートの次には、マフラーと手袋を付けさせられ、シエルはますます意味が判らないと、小
首を傾げている。
「誰だって生きていれば、経験から学ぶものですし、できなければ、それはそれで問題です。勿論、経
験を確かにする知識も必要ですが」
 それは悪魔だろうと人間だろうと、さした違いはないだろう。経験則が物をいう局面は幾らでもある。
自分の立場を有利にするのも不利にするのも、見極める眼が必要だからだ。そしてそれは経験則なくし
て磨かれることはない。
「ケーキは、まぁオプションみたいなものですから、同じ物は明日作って差し上げると言ったんですよ。
バルト達が大量に料理を作ってましたし。甘い物ばかりを召し上がられても困りますから。脳に必要な
栄養分は糖質でも、だから甘い物だけ食べてればいいっていう理由にはなりません」
 食事はあくまで栄養のバランスですと、何処かの栄養士のような真面目くさった蘊蓄を語る悪魔に、
シエルは目を点にする。何やら思わぬ方向から、変化球を投げられた気分だ。
「……悪魔が本気で栄養学を語るな…」
 何処までが本気で、何処からが嘘か。嘘は吐かないという悪魔だから全部本気の科白かと思うと、少
しばかり頭痛がする。尤も、嘘は吐かなくても詭弁は得意だろう。自分と同じように。
「坊っちゃんの食事の支度をしているのは私ですよ?勿論、栄養の配分も、カロリーも完璧です」
 甘い物に目がないシエルは、けれど偏食もなく、出されたものは綺麗に食べる。それは料理人に対す
る礼儀だと、貴族の立場に奢らず、両親に躾られたことなのかもしれない。
「………最悪だな……」
 色々な意味で最悪だと、シエルはがっくり肩を落とした。
「それでは坊っちゃん、参りましょう」
「今度は何処に連れて行くつもりだ?」
 深夜に近い時間帯。黒いコートを着せられ、ご丁寧にマフラーと手袋を付けさせられたことを考えれば、何処に行くのか判らなくても、意味は伝わった。
「秘密です」
 音が響きそうなニッコリとした微笑み。気付けばセバスチャンも黒いコートをしっかり身に付けている。
 長い腕が細い肩を抱き、指を鳴らすと、ベランダに繋がる窓が開く。
「いつの間にか、雪もやんでしまいましたね」
 暖炉によって暖められた室内の温度が、冬の冷気に一挙に下がる。頬に触れる凛然とした空気に、
薄い背が寒さで慄えた。
 夜になって降り出した雪は、けれど積る程降ることもなく、庭園を白く染めた程度だ。今は濃紺な闇夜
に、まるで切り取ったような悠然さで、白い月が浮かんでいる。
「夏ならともかく、冬に深夜の散歩もないだろう?」
 寒いのは嫌いだと、憮然となる。
「寒いからいいんんですよ。寄り添う温もりが気持ちよく感じられるでしょう?」
「………本当に最悪だな…」
 悪魔が温もりとか言うなと、シエルは不意に泣き出しそうな表情になり、俯いた。
「さぁ、参りましょう。フェアリーサークルを見せて差し上げますよ」
 ブルネットの髪に縁取られた繊細な面差し。俯いたそれには気付かないフリをして、セバスチャンは薄
く細い躯をやんわり包み込んだ。