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聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 天には光を 地には愛を 歌には希望を 右手には救済 左手には契約 日付変更線間際の時間帯。冬の深夜は、研ぎ澄まされた透明な空気に満たされている。 「……今度は何処だ?」 切り裂きジャック事件の時、突拍子もなくタワーブリッジに連れ出され、多少なりとも空間転移の免疫 もできたが、足許のない頼りなさは些か心許無く、シエルはセバスチャンの膝の上に横抱きにされてい る。 冬の冷気に翻るコートの裾。けれど頬に触れる空気さえ、研ぎ澄まされた冬独特の冷気を伝えてくる ことはなかった。 「上を見て下さい」 「上?」 意味深な科白に頭上を見上げ、シエルは瞠然となった。 落ちてきたら、中世の断頭台さながら、間違いなく首が落ちるだろう鉄の塊。それは夜の闇に沈み込ん でいる為、判別は難しかったが、黒々とした輪郭が長い鉄状の塊だろうと予測が付いた。 頭上から斜めに落ちる影。視界を制限される中、一体何だと美眉を顰め、シエルは周囲に視線を移し た。 決して軽くはないだろう、黒々とした塊。そこを軸に視線を下げれば、どうやら自分が腰掛けている位 置と接点が有るのか、交わっている部分が有る。更に視線を移せば、何やら描かれているのが見て取 れた。 「……?」 けれど視界一杯に広がるそれは縦の線にしか見えず、シエルはキョトンと小首を傾げた。 「もうじき、今日も終わりです」 訝しげにしている幼い主に緩い笑みを滲ませると、白い手袋を嵌めた指先が、隣接している部分を示 した。 濃い闇に、全体の輪郭を浮かび上がらせている凹凸。点が集約している淡い明りは、けれど豆粒程 度にしか見えない。 切り裂きジャック事件の折、問答無用で連れて行かれたのはタワーブリッジだった。けれど今見下ろ す点に等しい灯は、あの時より更に小さい。辛うじて光だと認識できる程度だ。ということは、少なくとも タワーブリッジより高い建築物の上ということになる。 「坊っちゃんの誕生日を見送るのに、相応しい場所ですよ」 「セバスチャン……?」 頭上の長い鉄の板。改めて自分達の腰掛けている場所を覗き込むように見下ろせば、足場のない下 肢が虚を切る。 凝視して覗き込めば、吸い込まれそうな深淵。まるで奈落の入り口に立つかのような、底のない闇だ けが、足許に延々と続いている。 闇の中に翻るコートの裾。冷気を運ばない風が吹き上げて来るのに、シエルが咄嗟にセバスチャンに しがみつけば、頭上でクスリと小さい笑みが漏れる。それが忌ま忌ましくて、しがみついた腕に力任せ に爪を立てた。そうすれば、更に緩い笑みが零れ落ちた。 「落ちたりしませんから、大丈夫ですよ」 「あれは……」 指し示された指先。その先に在る凹凸のカタチ。真上から見ることなど初めての経験で、恐らく建築に 携わった人間でなければ、この場所から見下ろすことなどできないだろう。 「お前まさか…時計台か?」 輪郭だけで判断するなら、横長の建築物は、おそらくウェストミンスター宮殿だろう。だとしたら、自分 達が腰掛けているこの場所は、この距離から考え合わせれば、時計台しか該当しない。タワーブリッジ より高所であり、尚且つ指し示された建物がウェストミンスター宮殿だと仮定すれば、宮殿に付属する 時計台だと考えれるのが妥当だろう。 「ええ、前回のタワーブリッジより、天に近い場所です。約50メートルは高いでしょうか?」 その所為で月に手が届きそうですよと、スラリと伸びた指先が天空を差した。つられて見上げたシエ ルは、無機質な月の光と、冷ややかに瞬く星の光に、圧倒されるかのように暫く魅入っていた。 「何処かの妖精のようじゃないですか?大人になりたくない子供の霊だか、妖精だか判りませんが、人 間の少女とこの時計台で深夜にデートするシーンがあったので」 「……ピーターパンか?」 悪魔のくせに、なんで児童書を知っているんだと、シエルは眉を寄せた。 幼い頃。児童書の類いは母や乳母に読んで貰った記憶はあるが、自分で読んだことはない。だからも う随分古い記憶だったが、確かそんなシーンがあったように思う。 「坊っちゃんの誕生日の演出には、ぴったりかと思いまして」 サプライズはお気に召して頂けましたか?と、ワインレッドの双眸が静邃に瞬くのに、シエルは何とも 言えない貌をする。 「現在時刻は23時45分。時計台の長針が丁度水平線になる時刻です。この時刻でなければ、ここに 座るのは、ちょっと難しいですからね」 「お前…やっぱり莫迦だろう……」 ケーキはオプションだと言い切ったセバスチャンの、本当に見せたかったものは一体何なのか?シエ ルには判らない。フェアリーサークルを見せてさしあげますよと意味深に微笑まれても、その根深い意 味は何一つ判らないものばかりだ。 短針と長針が交わる接点。長短揃って一つの時刻を告げる交わり。けれど自分達にそんなものは永 久に与えられないことも、シエルはよく判っていた。どれだけ時間を重ねて同じ月日を過ごしても、永久 に交わらないものなど、幾らでも転がっている。 重い鉄の塊が僅かに動いた振動が伝わった時には、場所は鮮やかに入れ替わり、今まで腰掛けて いた針の上から、円い時計版の縁に移動していた。 「時計の針には見えないな…」 細い背が撓うほど真上を見上げても、時計台の針だという実感が湧かないのは、あまりに近すぎる距 離感の所為だろう。 どう見ても、重い鉄の塊にしか見えない。落ちてきたら、間違いなく首が落ちる。時計台なんて、地上か ら見上げるから、形を成して見えるのだから。 「この距離ですから、そうかも知れませんね」 近すぎる距離に、見失いがちになるものは幾らでもある。他人との関係は特にそうだ。物理的にも精 神的にも近すぎる距離は、境界というものが不明瞭になり易い。そしてそこから生じる摩擦は甚大だ。 それと同じで、距離感が近すぎると、却って照準が合わず、全体像を捉えにくい関係も発生する。例え ば、自分達のように。 契約者と言えば聞こえはいいが、要は悪魔の獲物だと、シエルは正確に理解している。死んだら安 息はなく、魂は未来永劫、闇を彷徨う。それが悪魔と契約し、自然界の理に背いて魔力を使用する代 価だ。けれどそうと認識し、悪魔と契約する者は案外と少ない。だからシエルのような子供は特異なの だ。シエルにとっては極当たり前のことも、誰もが同じ認識を持てるかと言えば、答えは否だ。 「坊っちゃんは、パーツを構築するのが得意な方ですから」 誰にでも簡単なことが、シエルにとっては難しい。それは言い換えれば、誰にでも難しいことが、シエ ルには容易だということだ。 パーツを繋ぎ合わせ、連なる事象として相関図を描き、全体像を即座に捉える。それは誰もが容易に 行える作業ではなかったが、反対に、全体像を分解しない段階で捉える困難さが、シエルには存在す る。 それと同じで、口で告げても、躯を繋げても、距離が近くなればなるだけ、酷くなる一方のシエルの内 側の見えない欠け。大切にすればするだけ、それは不安定になっていく。 誰にとっても難しいことが容易なシエルは、切っ先の上に立つバランスは絶妙でも、誰かを心に棲ま わせることには不慣れで危うい。 「相変わらず、お前の思考回路も判らないな」 それは劉も葬儀屋も意味は同じで、意味不明な思考形態の人間ばかりだ。一人ばかり悪魔も混じっ ているが、意味不明という部分で一括りだ。 「そうですか?坊っちゃんはカタチで現すことのできるものより、こう言ったものの方が、お好きかと思っ たんですが」 いつか壊れてしまうものより、記憶に残る綺麗な光景。どうせシエルの内側に残すなら、そんなものが 残ってほしいと思うセバスチャンの内心を、勿論シエルは知らない。 上書きされていく分だけ、増えていく魔法の言葉。それがシエルの枷になるように。 「僕の為っていうなら、スイーツで十分だ」 「いつも作って差し上げてるじゃないですか」 やれやれと、未だ根に持っているかと、セバスチャンは苦笑を禁じ得ない。 バルト達が料理を作ったのはいいが、キッチンは戦場後のような惨状で、一体何をどうしたらここまでに なるのか、いっそ感心したくらいだ。それを磨き上げるのに夢中で、ある意味、らしくなく失念していた自 覚は在る。まさかシエルがキッチンに探しに来るなど、思わなかったからだ。 「もういい。お前とこの話しをすると、腹が立つだけだ」 交わらないものなど、こんなに簡単に転がっている。誕生日という概念がない悪魔に、その特別性を 求めてみても埒もない。 「どうせ悪魔なんて、木の股から生まれるんだろうから、誕生日なんてないんだろうしな」 「………一体いつの時代の話しですか」 「事実には遠くても、誕生日なんてないって意味じゃ同じだろう?不死に近いお前達にとって、自分の生 まれた日なんて、さして意味のあるものじゃないんだろうし」 悪魔の定義が定まらない以上、既存の伝承に当て嵌めて見れば、悪魔に誕生日など可笑しい話だ。 「そうですね。確かに私達は人間程に、自分の生まれた日に執着はありません」 だからと言って、別段木の股から生まれる訳じゃありませんよと、セバスチャンは緩い微苦笑を覗か せる。 「ですが、坊っちゃんの誕生日くらい、一緒に見送りたいと思ったのも、本当ですよ」 アナタの大好きな事実ですと笑えば、シエルは半瞬、遠い眼をして、眼前の暗闇を見詰めた。 自分が立つ脆弱な場所と同じで、足場のない足許。底のない闇。真の深淵は天空にある筈だというの に、眼前の暗闇を見詰めていると、人の棲む地上にしか真の深淵などない気分にさせられる。 人から生まれ、人へと還る悪意と善意。個から発生し、全を生み出す、人の思惑。 「さっきから言ってるその科白。意味不明だぞ」 第一見送るってなんだ?とシエルが小首を傾げれば、セバスチャンはやれやれと大仰に溜め息を吐 いた。 「たまには童話とか児童書とか読まれたら如何ですか?星の王子様とか、読んだことはございまんせ んか?」 シエルの自室の書棚には、子供らしくない本ばかりが並んでいる。執務室の書棚は更に論外で、経 済学と書類しかない。 「…今更なんでそんなのもの読まなきゃならない」 文学小説や推理小説の何処が悪いと、憮然となる。 「これでも私は、独占欲が強いんですよ」 「聴いたことも、見たともないな」 独占欲が強かったら、平然と劉や葬儀屋という人種を、安易に自分に近付けて鷹揚に微笑んではい ないだろう。まして望む望まないに関わらず、自分には婚約者が在る。 「坊っちゃんの大切なエリザベス様やフランシス様に混じって誕生日を祝う程、生憎、私の心は広くあり ません」 「お前といい、劉といい、葬儀屋といい。もっと判るように話せ。何の為の言葉だ」 莫迦にされているとは微塵も思わないが、通じない言葉は意味がない。言葉は気持ちを伝える唯一 の手段だからだ。その点、三人が三人とも同じで、要領というか、精度事態に問題があるのか、伝わら ないことにも意味はあるとばかりに、自己完結した言葉で語ってくるから始末に悪い。 「もうすぐ今日も終わりです。坊っちゃんが生れた十三年前の今日が終わる。派手なパーティーもいいで すが、十三になった初めての夜を、一緒に見送るのもロマンだと思いまして」 「ロマンを語る悪魔んて、最悪だ」 ロマンから一番遠いだろう存在にロマンを語られても、嘘くささが付き纏うだけで、慰めにもならない。 これが本気なら尚のこと、性質が悪いだけだと、シエルは無自覚に口唇を噛み締め、俯いた。 大切にされている自覚なら、劉や葬儀屋に言われるまでもなく、持ち合わせている。けれどそれが契 約関係にある主従だから大切にされているのだとも判っているから、胸が軋む。 それ以外を求めても、この悪魔に伝わるものは一切ない。だからこの問題は何処まで行っても平行線 で、交わる部分は見付けられない。 「ロマンの一つくらい、悪魔だって語りますよ。悪魔は芸術というものに造詣が深いんですよ?芸術はロ マンなくして成立しません」 まるでシエルの内心を読んだかのように、セバスチャンがブルネットの柔髪を梳き上げる。 「やはり冷えてますね」 サラサラと擬音を響かせ、揺れる髪。深夜の冬の冷気。足許から吹き上げて来る風。自分達の周囲 に存在する空気を操作しても、どうしても髪は冷たくなってしまう。 全てが万事という訳にはいかない。シエルは悪魔の魔力は万能だと思っているらしいが、この世に万 能など存在しない。絶対は、おそらく神の領域にも存在し得ないだろう。 「叔母様が……」 サラリと髪を梳かれ、小さい声がポツリと漏れる。 「叔母様が言ってた」 「フランシス様が?」 長い前髪に隠された表情は見えないものの、シエルがどんな表情をしているのか、セバスチャンには 判る気がした。 闇夜に浮き上がる、瀟洒な白い面差し。躊躇いがちに、小さい声で話すシエルの言葉を、セバスチャ ンは静に聴いていた。 「誕生日は、自分を生んでくれた母親に感謝する日でもあるって」 悪魔に母親や父親が在るのか判らないから、こんな感傷がセバスチャンに伝わるとも思わなかった。 「だから、今日くらい笑っていろと言われた」 母親に感謝するように、笑っていろと微笑んだフランシスの優しさ。 「僕は今まで、そんなこと、考えたこともなかった…」 誕生日に祝福されるのは当たり前で、母親への感謝など思ってもみなかった。 「そうですね。出産というのは、女性には命懸けですからね」 どれだけ科学が進歩したとしても、出産に付き纏う危険率はゼロにはならない。何処までも原始的な 生みの苦しみは、太古の業を引き摺っているかのようだ。 「……そうなのか?」 「ええ」 「よく知ってるな」 流石に出産に立ち会ったことはないから、幼いシエルに実感などできる筈もない。 「坊っちゃんも、いつか判る時が来るかもしれませんね」 あの可愛い婚約者が、シエルの子供を生むことにでもなれば、否応なく直面する現実だろう。 「お前は……」 「流石の私でも、そんな経験はありませんよ。幾ら悪魔でも、生物学的に不可能ですから」 「そっちじゃない!」 誤魔化すなと憤然やる方ない様子で睥睨してくる蒼い瞳に、セバスチャンはクスリと小さい笑みを滲 ませる。 「何を心配しているのか判りませんが、私の血を引く者などおりません」 「そんな心配、誰がするか」 「おや、違うんですか?」 下らない心配ばかりしていると思っていたと嘯けば、ブルネットの柔髪が縁取る白皙の貌が渋面する。 「教えろ」 「はぁ?」 胸倉を掴む威勢で詰問され、ワインレッドの双眸が点になる。 「お前の誕生日だ。在るんだろう?」 「残念ながら、お教えする訳にはまいりません。こちらの世界も色々と制約がありまして」 真実の名前を教えるのと同様、生まれた日付を教えることは、禁忌の一つとされている。まして人間 の世界に当て嵌めたカレンダーを持たない以上、正確な日付を伝える術はない。 「秘密ばっかりだな、お前は」 まるでセバスチャンの答えなど最初から判っていたように細い吐息を付くと、小作りな頭が小さい擬音 を響かせ、幅広い肩口に埋まった。 「僕のことは、僕の知らない部分まで知っているくせに、僕はお前のことなんて欠片も知らない」 それが少しばかり悔しいと、思うシエルだった。 「存じてますよ。この口唇が私の愛撫に狂って、どれだけ可愛らしい啼き声を上げるのか。この細い腰 が、雄を受け入れて悦がるのか、坊っちゃんの深い部分まで、存じてますよ」 「………そんなことばっかりだな」 科白の中身とは裏腹に、端麗な面差しに浮かぶ静謐な微笑み。下らないことなら幾らでも口にするく せに、肝心な部分になると、容易に手の内を見せない悪魔。 「明日」 「ん?」 細い肩をやんわり包まれ、頤を掬い上げられる。穏やかな笑みを浮かべるセバスチャンと眼が在って、シエルきキョトンと小首を傾げた。 「明日、十三歳になったご報告を、しなくてはなりませんね」 「…セバスチャン…」 「二年前のあの日から、行かれていないでしょう?」 魂の入っていない抜け殻。シエルは墓標をそう思っているのか、二年前のあの日から、両親の眠る墓 に訪れたことはない。 「気持ちですよ。確かにあそこに魂はありません。それは生きている人間の感傷です。ですがその感傷 が、生きている人間にとっては、意味のある時もあるんです。」 むしろ生きている人間にこそ意味はあるだろう。千年王国復活という、宗教的な意味合いは抜きにし ても。 「フランシス様のお仰る通り、笑って差し上げなさい」 アナタ自身の為にと、静謐な微笑みを刻み付ける悪魔に、シエルは泣き笑いの表情を見せた。 丁度その時だ。頭上で派手な音が鳴り響くのに、シエルはビクリとセバスチャンにしがみついた。 「セッ…!セバスチャン!お前、何考えて!」 聞き慣れた鐘の音。冬の深夜。澄み切った空気を振動させ鳴り響く音は、まるで天から降ってくるよう な音をしている。けれど本来なら、鐘は深夜には鳴らないものだ。それが鳴っている時点で、誰の仕業 か判らない筈もない。 「言ったでしょう?十三年前の今日、坊っちゃんが生れた日を、一緒に見送るのに丁度いい場所だと」 0時丁度に鳴り響いた鐘の音。今日と明日の境など、目に見えるものは一切ない。それでも確実に時 間は過ぎ、今日は昨日になっていく。 「だからって、深夜に鐘なんて鳴らすな」 天から降るかのような澄んだ音が、夜の静寂と冷ややかな冷気を振動させる。まして間近で聴いてし まえば、どれだけの小さい音も、大音量でしかない。 「特別な日ですから、特別に鳴らしたまでですよ」 「非常識だ」 「おや、私は悪魔で執事ですから。そんなことは今更です」 シレッと言ってのけたセバスチャンに、シエルは反駁を諦めた。どうせどんな局面でも理路整然と言っ てのけるセバスチャンに、口で勝てた試しなど一度もない。 「来年は、お誕生日の瞬間を、一緒にお祝い致しましょう」 その時もまた鐘を鳴らして差し上げますよと、非常識の上塗りなことを微笑んで告げられ、シエルは諦 めたように、肩口に顔を埋めた。 「……どうせお前は昨夜と同じで、僕の読書時間を取り上げて、僕を姦すことに専念するに決まってる」 この詐欺師と、シエルは苦く笑う。 裏社会の秩序。女王の番犬。幾重もの通り名で呼ばれる自分の存在を、シエルは決して過信していな かった。恨まれる覚えなら幾らでもある。それが逆恨みだとしてもだ。だから確かな明日など、シエルは 信じてはいなかった。例え自分を最期まで守ると約束している悪魔が傍らに居たとしても。魔力の有無 に関わらず、駄目な時は駄目なのだ。神にも悪魔にも、絶対の領域など存在しない。 大切な人達が、自分の目の前で血の海に倒れ伏しても。紙のように燃えて炭になっても。自分は何も できなかった。後を追うことも、泣くことも。悪魔に救われ生き延びた生命。分けた差異が偶然か作為か 判らないが、死ぬ時は死ぬ。それだけだ。 「希望が生きる糧になるんですよ。たとえそれがどれだけ下らないものでも」 目線の下に在る、白く華奢な細首。一体何が詰まっているのか、疑いたくなってしまう小作りな頭。 「ご覧なさい」 そっと促すように耳朶に顔を近付け囁けば、過敏な反応を返す躯に、小さい笑みを滲ませ、セバスチ ャンは眼前の闇を指し示した。 「この広大なロンドンそのものが、フェアリーサークルのようだと思いませんか?」 「…セバスチャン……」 囁き程度の声で促され、顔を上げれば、指し示される虚空。光が辛うじて判別できる程度の点。それ が等間隔に連なって、周辺に散らばっている。 こうして眺めていると、天と地の境目も判らなくなる暗闇だ。吸い込まれていくような、それでいて上っ ていく様な。そんな取り留めのない感覚がある。 「善意も悪意も飲み込んで、人の手によって作り出されている連環。誰にとっても一番身近なフェアリー サークルですよ。醜悪で愚かで、それでいて莫迦莫迦しい程、エネルギーが費やされている」 本当は誰もがその場所に在るのだと気付けば、少女を生け贄にすることもなかっただろうに。 「僕は、止められなかった」 使い魔に操られていた可哀相な伯爵婦人。救おうと思えば、救えた筈だ。 「それこそ傲慢というものですよ。あのご婦人は覚悟していた。自分が使い魔に操られていることも。 死ぬことも。ですから、アナタが罪の意識を感じることは、傲慢以外の何にもならない」 慰めなのか、本音なのか。淡々とした静謐な声や表情から推し量ることはできなかったが、労られて いることだけは奇妙に伝わった。 一体どれだけの犠牲を払えば、失われた生命が戻ると信じたのだろうか?在りもしない幻想に、どれ だけのものを注ぎ込んだのか。 願いや祈り。憎悪と怨嗟。一体何をどれだけ費やせば、起きる筈のない奇跡が叶うと信じたのか。 フェアリーサークルなど、ありもしない幻想のチカラを信じてまで。 「人の世そのものが、広大なフェアリーサークルと同じだと気付けば、有り得ない奇跡など望まずに済 んだでしょうに」 「お前だって在るんだ…妖精だって、在るだろう……」 何かに縋り付きたい気持ちはよく判る。自分に置き換えれば、それは瞭然だ。 「ええ、それは居ますよ。ですが彼等の姿は、今の人間には見えませんよ。それに」 柔らかい微苦笑を漏らすと、セバスチャンはシエルの視界を背後から腕を回すことによって塞ぐと、胸 元に引き寄せる。 「悪魔でも、死んでしまった生命を生き返らせることは不可能です。そんなことは、誰にもできません。 劉様が面白いことをお仰ってましたよ」 「劉が?」 塞がれた視界。気付いているのか、いないのか、これはセバスチャンの癖の一つで、シエルはこの慰 めにも似たセバスチャンの仕草が、嫌いではなかった。 「生きる為に生命が在るのか。何かをする為のチカラが生命なのか。永遠の命題だと」 「生命なんて、最期まで足掻くようにできている、碌でもない代物だろう?生きているから生きている」 「坊っちゃんにかかると、ロマンも生命の命題も、一括りで片付けられてしまいますね」 「お前が碌でもないことを言うからだ」 「悪魔でも、死んだ人間を生き返らせることはできません。だから坊っちゃん」 その瞬間、微かに変わった声音に、シエルは咄嗟に顔を上げた。塞がれた視界でセバスチャンの表 情は見えなかったが、それだけに変化した声音は、常にない響きを帯びていると感じ取れた。 「セバスチャン?」 白い手袋に視界を塞がれたまま、ほっそりした小首を傾げられる。 「アナタは最期まで足掻いて下さい」 「……僕はお前の獲物だ。足掻く必要なんて、何処にもないだろう?」 「私は一人で死なせてやる程、親切ではありませんよ」 縫い音を感じさせない長い指が、そっと細首に絡んだ。 「アナタを最期まで守るのが私の役目」 片手で締め殺せてしまう細すぎる首。 「セバ…スチャ……」 やんわり締め付けられる首筋に、呼吸が乱れた。 「言ったでしょう?迷わないというなら、痛みを負う前に呼びなさいって。勝手に生命を放棄されては困り ます」 「…お前の美学を…満足させてやる義理はない」 主人を守るのは契約の為。契約を完璧に遂行させることこそが、悪魔の美学。人間に対する、まして 獲物である契約者に対する情など持ち合わせていないだろうに、勘違いさせる優しさは、天性の詐欺 師だとシエルは苦く思う。 「愛情だろうが、憎悪だろうが、利用できるものは何でも利用して、アナタは勝ち続けていかなくては。 坊っちゃんは裏社会の王なんですから」 「サイテーだ、お前」 けれどそれはフランシスにも言われた科白だ。 愛撫と大差ない柔らかい締め付けに喉が鳴る。細い両腕が求めるように、セバスチャンの背に回される。 「んっ……」 首筋から細い頤を掬い上げられ、落とされる口唇。視界を塞がれたまま、口唇も塞がれ、否応なく全 身でセバスチャンを感じ取る結果に繋がった。 ピチャリと淫猥な音が響き、絡み合う舌。掻き回される狭い口内。白い喉元が何かを求めるように嚥 下する。 「母親というのは、世の中で不思議な存在ですね」 「そうかもしれないな…」 子供の為に、他の子供を犠牲にした母親。母親になれず、堕胎した娼婦を殺害した叔母。注ぎ込ま れた悪意も熱意も、個の中から発生し、容易に他を巻き込んでいく恐ろしさ。 自分の母は一体どうだっろうか?記憶の中の母親は、柔らかい輪郭が繊細な面差しで、綺麗な微笑 みを映している女性だったように思う。けれどもし、二年前。生き延びたのが母親だったら、やはりあの 伯爵婦人と同じことをしただろうか? 「坊っちゃん」 塞いだままの視界に、シエルは嫌がる様子も見せない。 「誰だって自分に一番優しくできているっていうのに。アナタは誰もが簡単にできることが、できない人 ですね」 「……僕だって自分に優しいし、自分が大事だ」 相変わらず意味不明なことを言うと、シエルは反駁する。 「自分のことを許すこともできないアナタが、自分に優しいなてん言うものじゃありません。伯爵婦人の 最期は、自ら選んだ結果です。アナタが背負う必要は何処にもない。そんなこと、あの女性も、望んで いませんよ」 「別に背負ってない。ただ、曖昧な点が多くて気になるだけだ」 それは葬儀屋にも言った科白だ。そして盛大に呆れられた。 「言ったでしょう?終わった事案は情報として止どめておくことが大事だって。それができなければ、い つか足許を掬われますよ」 謎を謎のままにしておけないシエルの性質は、まさしく探偵の業だ。自覚の有無は別にして、シエル という生き物は、まさしく生れるべくして、ファントムハイヴ家に生れた子供だ。 深淵に佇む切っ先の意思。事案に関われば関わる程、シエルの内側から消え失せていく警戒心と、 自己への執着。その引き換えに、研ぎ澄まされていく才。 「あの女性は、自分のしてきた行為の罪深さも十分判っていた。なのに僕は、助けられなかったんだ」 だからと言って、犠牲になった少女達が、戻ってくる訳ではなかったけれど。けれど公の場で、裁判を 受ける責任も義務も権利も持っていた。 「判っていたから、最期は笑っていたんだと思いますよ。何処かホッとしたような、安らかな死に顔でし たから。あの女性は苦しんでいた。だから坊っちゃんに事件を解決してもらって、きっと何処かでホッとし てたんでしょう」 結果は回答を視るまで判らないと言うのなら、回答はあれですよと、セバスチャンはシエルの視界か ら手を取り外した。 確かに曖昧な点は多いし、背後には蠢く闇が感じられるが、少女を犠牲にした殺人事件は終わった 筈だ。少なくとも今回の事件は、シエルの本来の仕事ではない。どちらかと言えば、エリザベスから持 ち込まれた事件に対するボランティアだ。その所為で、シエル自身も危険な目に在った。 「まぁ私としては、坊っちゃんの姫コスプレがもう一度見られましたので、目の保養でしたが」 「……変装だ!」 二度としないと誓った変装を、あっさり覆される事件にぶち当たったのには正直驚いた。殆ど嫌がらせ だとさえ思った程だ。 「物は言い様。変装だろうが、コスプレだろうが、女装には変わりありません」 シレッと告げるセバスチャンに、シエルは苦々しげに舌打ちする。そうして閉ざされた視界を開放され、眼前の光景を眺めれば、天地の境界線などないかのような一面の闇。 まるで切り取ったように浮かぶ冷ややかな白い月。気の遠くなるような年月を掛け、地球に届けられ る無機質な光。 「結局お前のプレゼントってなんだったんだ?」 「………坊っちゃん…」 今更思い出したように真顔で訊かれ、端整な面差しが緩い微苦笑を刻む。 「一日遅れで許してやるから、アレがいい」 アレと差し示した細い指先は、まっすぐ天空を指差した。 切っ先のような白い光を放つ、石の球体。 「流石の私でも、月は無理ですよ」 苦笑する。シエルとて本気で取ってこいと言っている訳ではないだろう。 「…落ちてきそうで落ちてこない。近そうで遠い。冷ややかに研ぎ澄まされて、お前そのものだ」 そして月は満ち欠けを繰り返すことから、古来から不実の象徴でもある。嘘は吐かないが、詭弁が得 意な悪魔にそっくりだ。 「満ち欠けを繰り返すなんて、まるで坊っちゃんそのものじゃないですか」 「僕の何処が」 無論シエルは知らなかったが、それは対峙した最中、セバスチャンが赤い神の死神に言った科白だ。 「満ちれば欠けるのは道理。欠けた部分は、個そのものですよ。満ちて欠け、そしてまた満ちる。繰り言 のように繰り返されるそれは、まるで生命の営みそのものじゃないですか」 意味深に微笑むセバスチャンの、その根深い真意はすぐには伝わらなかったのか、シエルはキョトン と幼い表情で、端整な造作を凝視している。そして半瞬の間の後、意味深な科白の中身が判ったのか、白皙の貌が紅潮する。 「おっ……、お前…!言うにことかいて!」 「事実ですよ。満ち欠けの道理なんて、そんなものです」 「……即物的に言うそれの、何処がロマンだ」 「判らなければ、坊っちゃんは未だお子様と言うことですよ」 ニッコリ笑い、アメジスト色の右眼に口唇を寄せる。 満ち欠けの道理。躯を繋げれば繋げた分だけ、自覚のない欠けを抱え込んでいくシエルの不安定さ。 シエル自身自覚している欠けなど、セバスチャンから見えるそれに比べれば、ほんの僅かなものだ。 そのくせ誕生日だなんだと、子供の八つ当たり以上のものなど持たない叫喚を向けてくるくせに、肝心 な部分は綺麗に取り零していく。自分の感情一つまで。 「見えない物は綺麗に見えるくせに、肝心な部分はまるで見えない。困った方ですね、坊っちゃんは」 「何なんだ、お前はさっきから。お前が意味不明なことばっかり言ってるからだろう?」 「仕方ありませんね。私は気は長くないんですが、坊っちゃんにかかっては、気が長くならざるおえませ ん」 様々な意味に於いて、それは当て嵌まる。危険と安全を計る秤を持たないシエルの中身に至っては、 否応なく気は長くなる。 「……理不尽だ」 哄笑を含まない小さい笑みは、けれど褒めれている訳でも、嘲笑してる訳でもなく、眼に見える事実を 話している気分にさせられる。 「そろそろ戻りましょうか?」 サラリと梳き上げた髪は、やはり冷たい。寒さを感じないよう空気は操作しているが、あまり長く深夜 に出歩いても、明日に持ち越す疲労が大きくなる一方だろう。 「そうだな。未だ受け取ってないものもあるしな」 大人のプレゼントをくれるって言ったよな? 意趣替えしとばかりに、性質の悪い忍び笑いを向ければ、セバスチャンは半瞬、瀟洒な貌を凝視し、次 には深い微笑みを刻み付けた。 「ええ、一つ大人になった坊っちゃんに、最高の快楽を」 「僕を雌にした責任くらい、ちゃんととれ」 器の性別に相反し、作り替えられていく雌の中身。女の性器と大差なく作り替えられた胎内。最も脆 い部分までその手を許し、作り替えられていく中身を何処かで悦んでいる歪み。 「坊っちゃんは、昼は娼婦で、夜は淑女ですからね」 尽くし甲斐がありますよと、セバスチャンは意味深な笑みを向ければ、普通反対じゃないのか?と、シ エルは攅眉する。 「昼は淑女で夜が娼婦だろう?男の理想だな」 「お忘れかもしれませんが、坊っちゃんも男の子ですよ」 シエルは自分を雌と表現する時がある。それは嫌味半分だったり、隠された本音だったり、時々に応 じて意味合いは変わるが、作り替えられていく中身という点で、意味は同じだ。どれだけ綺麗事を羅列 しても、シエルの肉体は、その幼い胎内は、持ち主の意思に反して、女と大差ない機能を果たす。 「生憎、お前しか知らないからな」 作り替えられていくのが肉体だけなら未だ救われる。心まで作り替えられたら、待っているのは女の 業と大差ない。マダム・レッドが堕ちた深淵のように。 いつか自分も、その深淵に身を投じるだろう。どんな意味合いでかは、判らないが。 「他も、知りたいと?」 「独占欲が強いんじゃなかったのか?」 サラリと口にすれば、セバスチャンは満足そうに笑い、柔らかい頬に舌を這わせた。 「ええ、私は独占欲が強いので。アナタが他の男に犯されでもしたら、アナタの命がなくても自分の意 思で、ちゃんと相手の男には報復して差し上げますよ」 「物騒な科白を、あっさり口にするな」 世間話の種にされる程度の軽口は、けれど笑って言うには、あまりに物騒な科白だろう。 その場合どんな方法が用いられるのか判別も付かないが、死んだ方がマシだと、殺してくれと懇願する ような遣り様で報復することだけは明瞭だった。 「主の命に忠実なんじゃないのか?」 大体悪魔が傍らにいて、自分が他の男に襲われる筈もないだろう。 「判ってませんね?坊っちゃんの意思が働いた結果であっても、許さないと申し上げているんですよ?」 「……お前の美学は何処に行った」 忠誠心など欠片もないだろう悪魔は、けれど与えられた役割を完璧にこなすことが美学だった筈だ。 その一環で、嘘を付くなと言えば嘘は付かない。主人の命に従うことが、悪魔の美学だからだ。けれど 茶番と詭弁は得意だから始末に悪い。 「言ったでしょう?私の心は坊っちゃんが思っているより広くはないと」 何処までが本気で、何処からが嘘か。その境界線はあまりに不明瞭で、シエルには判らない。 「アナタは私の大切な獲物。横から手を出されて見逃すような真似、悪魔の美学に反するんですよ」 「………お前も大概、厄介だな」 それじゃあまるで、執着しているように聞こえると、シエルは真意を計りかね、コテンと小さい頭をセバ スチャンの胸元に凭れた。 「厄介とは、随分な言い草ですね」 「僕の誕生日に、自分の欲を押し通したお前に言われる筋合いはない」 慣れた仕草でサラサラと梳かれる髪。 誕生日の終わる瞬間を、誰かと見送るなんて思ったこともない。 「やっぱりお前、人でなしの悪党だ」 「なんですか、その言い草は」 劉や葬儀屋から要らない言葉ばかり教えられているなと、セバスチャンは苦笑する。 「私は悪魔ですから、人でなしなのは当たり前です」 優しいだけの私なんて、それこそアナタは持て余しますよと、セバスチャンは笑って囁いた。 「それでは人でなしついでに、坊っちゃんの十三歳の初めての日に」 そう笑って何処からとも取り出されたのは、シエルには見覚えのあり過ぎる、白い薔薇の花束だった。 「それは」 まるで光源のように、闇夜に浮き上がる白い花。 「ええ。大量に頂いたので、坊っちゃんのお部屋には飾りきれなくて。サロンや執務室に活けても、未だ 余りそうですし」 「お前の魔力の原理はどうなってるんだ」 種を仕込んでマジックを見せる魔術師なら判る。けれど何もない場所から、当たり前のように取り出さ れた花束に、シエルは慣れているとはいえ、呆れるしかなかった。 「企業秘密です」 意味深な笑みを深くすると、セバスチャンは薔薇の花束から花片だけを丁重に取り分けていく。 「何する気だ?」 余ったからと言って、何も花片を毟り取ることもないだろうにと、セバスチャンの意味不明な行動を見守 っていると、花片だけが綺麗に取り分けられ、在る筈の枝や葉は、何処へともなく消えていた。 「折角ですから、雪の代わりに」 取り分けられた白い花片。それを惜しげもなく虚空にばら蒔けば、まるで暗い闇の中に光を灯すかの ように、白い花片はヒラヒラと漂っていく。 深夜も過ぎた時間帯。天地の境目もない程、暗い闇しか存在しない虚空。それでも優游と浮かんでい る月の周囲だけは、何層もの光の輪が連なって、外側へ行けば行く程、光の層は淡い輝きへと変わっ ている。 天に近い時計台では、注がれる月明りもかなり明るく、濃紺な夜空が綺麗に見える。それでも、見下 ろす街並みは暗く沈み込み、深夜の静寂に誰もが寝静まっている。先刻セバスチャンが鳴り響かせた 鐘の音も、誰にも届いていないのかもしれない。 「綺麗だな…」 闇に舞う花。ヒラヒラと漂い、地へと落ちていく。本来気流は天に近付くほど増す筈だから、花片がこ んな風にヒラヒラと漂うことなど有り得ない。だからこれもセバスチャンの、底の見えない魔力の一つな のだろう。 「そうですね」 花片より何よりも、切っ先の上に立つシエルが綺麗だと、セバスチャンは思う。 安全と危険を計る秤一つ持たない幼い生き物。痛みすら自覚できない痛々しさ。その痛ましさが何よ り綺麗だという整然とした矛盾。 そんなものを身の裡に抱え込んで、それでも誰にも肩代わりさせいな潔さ。シエルという生き物を構成 する、それが重要な要素だとしたら、あまりに痛々しい未来を歩くだろう。 絶望を知る人間は、深淵に魅せられやすい。いつかその身を、足許に築かれていく骸に投じる誘惑に、シエルは勝てないかもしれない。 「いつまで…持って行けるんだろうな?」 セバスチャンの腕に抱かれているシエルが、静に呟いた。 「坊っちゃん?」 「タワーブリッジも、この時計台も、未来の何処まで持って行けるんだろうな?」 天災や人災。様々な理由で壊れることは幾らでもある。 そして記憶は上書きされ、常に変質していく脆弱なものだ。 「大丈夫ですよ。タワーブリッジも、この時計台も。未来まで続いていきますよ」 見ようと思えば、先の時間が見えないことはない。けれど、見たいとは思わなかった。根拠はないが、 おそらくこの時計台もタワーブリッジも、先の未来に続いていくものだろうという確信はあった。しいて言 えば、悪魔の勘だ。 「事件続きでしたから、年が明けたら、何処か旅行でも参りましょう。田舎の小さい屋敷でも、ホテルで もいい。坊っちゃんには休養が必要です」 自分を許すことなんて、誰もが簡単にしてのけるものだというのに、シエルにはそれが難しい。そして 事案に関わる都度に、小さい疵を抱え込んでいく。特にここ最近の関わり方は、尋常じゃない。扱う事 件の性質そのものが、まるでシエルに疵を残すことを目的としているような、何か意図が働いているよう セバスチャンにと見えて仕方なかった。 「湖水地方がいいな。ホテルは却下だ。何処か屋敷でも手配しろ。ホテルじゃお前のスイーツが食べら れないからな」 「心得ました」 おそらく免罪符など知らないのだろう。関わった事件を直截に受け取り、あちこち疵を作っていく。迷う こともできない、免罪符を盾に使うことも知らない、幼い生き物。だからこそ痛々しい程綺麗で、切っ先 のように研ぎ澄まされている。 「それでは、戻りましょう。バースデーのメインディッシュは、これからですから」 「一日遅れだから、利子が付くな」 勝ち気な眼差しが誘い掛けるように笑い、黒いネクタイを威勢よく掴んで引き寄せると、シエルは仕返 しとばかりに、悪魔の口唇に口吻た。 そして訪れた旅行先で、再び事件に直面することを、二人は未だ知らない。 「キミが誰かに殺されて死んだら、キミを大切にしているあの執事は、殺した人間をどうするんだろうね?」 |