| 死と再生 SCENE1 |
「見損なわないで。私を誰だと思ってるの」 久し振りに聞く、月山紀子の決め台詞だった。 栗毛に染めたショートカットに、細身の肢体。けれどそれが脆弱でひ弱な印象を与えないのは、整った白皙の貌に嵌められた一対の眼が、活力に溢れているからだろう。 その両眼から放たれる視線の鋭さと毅然さに、藤村は薄い笑みを刻み付けた。その薄い笑みは、月山の台詞を喜んでいるかの様に、誰の眼にも見て取れた。 「でも、そうね。私だけが動いても、事は揉み消される。相手が本庁警務部課長じゃね、まぁ、厚生課課長だけど」 下品に舌打ちすると、月山は内心の苦々しさを端整な美貌に浮かべていた。 本庁警務部人事課の内部機関には、監察官室がある。 神奈川県警の警察官の覚醒剤汚染の隠匿から始まって、新潟の女性監禁事件、埼玉県桶川の女子大生殺人事件の調書偽造など、昨年から警察不祥事がマスコミに取り沙汰され、警察の信用は失墜し、警察庁長官は交替した。あげく、特別監察制度発足に伴い、各地が特別監察に割り当てられたその先で、真下関東管区警察局長の後任にあたる人物が、新潟の女性監禁事件が警察に通報された当夜。新潟県警本部長達と、麻雀していた事実が発覚。そしてマスコミ発表は偽造され、病院職員から警察への通報を再三に渡って冷淡に無視し、揚げ句、それが数年も前に行方不明になっていた少女だと知った途端。 警察はマスコミに対し、病院からの通報によってすぐに駆け付け、女性の身元を照会したと発表。それが後に事実と異なると知れたのだ。結局、特別監察制度は、機能していなかった事を、内外に知らしめた結果を生んだ。 国家公安委員会への情報強化も、意味を持たなかった事実も発覚した。監察に当たっていた先の人間と、事もあろうに接待ばかりか麻雀まで興じていた関東管区警察局長の処罰を、安易に決めた公安委員会に対し、世間の風当たりは強かった。そして漸く、室井が以前から上に対して発言していた、警察外からの監察チェックシステムの草案が、警察刷新会議内でも議論され、監察制度の在り方が審議されて行く事になった。その為、警察法改定要項草案が打ち出され、議会提出も間近になっている。 「どうするつもりだ?」 重々しい田所の口調に、けれど月山は薄い笑みを意味深に湛え、 「言った筈よ、警察にも信念はある。何時だって、現場捜査員はそう思ってるのよ。だから、巻き込まれてもらう事にする」 意味深な忍び笑いだと、田所は思った。その意味深な笑みが、何とも月山らしいとも思った。 今回の件は、自分にも責任がある事を、田所は痛感している。監察医務院の部長職にあり乍ら、解剖所見報告書を、最終チェックしなかった。それは重大なミスの筈だった。 藤村は、幾ら優秀で脳分野の研究では評価が高いといっても、杉裕里子同様、非常勤の嘱託医でしかない。嘱託医が解剖した場合、医務員の人間が立ち会い、最終的には自分が所見調書をチェックしなくてはならなかった筈だ。それを新人の天野の後学の為立ち会いをさせただけで、詳細なチェックはしなかった。それは確かに、自分の責任だった。だったと、田所は痛感した。 死者の最期に託された真実の声を聞くと言うのが、田所の信念であった。その筈が、杉が藤村の態度の違和感に気付かなければ、一人の人間の真実の声を聞き逃し、その人間の生命を奪った犯罪を、見逃す所だった。 真実の声を聞く事は難しい。言葉を発声出来る生者の声を聞く事も難しいのに、物言わぬ死者の声を聞く事は、もっと難しい。 生きた人間は嘘を付く。嘘を付いた自覚なく、人は嘘を付き続けて生きて行く。だから、生者の真実の声を聞く事は難しい。けれど、声を言葉として言語認識を持つ生者の言葉を聞く事に慣れているから、死者の声を聞く事は、より難しい。 物を言わぬからこそ嘘は付かないと言うのは、単純な考えでしかない。声を聞く人間の精神が曇っていれば、真実の声など正確には伝わらないのだ。伝わらなかった場合、真実は闇に葬り去られる。或いは歪められてしまうのだ。 真実の声を聞きたいと言う熱意だけでは、聞く事は出来ない。そんな簡単に、真実には到達出来ないのだ。だから聞き手側の技能がより要求されるのは当然で、それが監察医だった。その事を、誰より心得ていた筈の田所の、確かに今回の失態だっただろう。 死者の最期の声を聞く事に必要な技能や精神。 その事を、自分は一瞬でも忘れてはいなかったか? 田所はきつく口唇を噛み締めた。 所詮生者は傲慢なのだと。所詮生者の声を聞く事しか出来なかった。それは、田所の監察医としての根幹を揺さぶった。 死者が最期に辿り着く場所。それが監察医務院であり、法医学である。その為の監察医制度である。 病院以外でなくなった場合、或いは病院でも入院から24時間以内で死亡した場合、検死解剖が必要とされる。それは行政解剖、司法解剖に分かれるが、大学の法医学教室、或いは此処、監察医務院に運ばれ、適正手続きの元、検死解剖が施行される。 法医学は、医療分野としては基礎医学に分類されるが、近頃では公衆衛生をその領域分野に受け持つ社会医学領域に分類される事が多い。 死体の裏には、万が一にも病死以外の死因が隠されている可能性がある。その為に必要なのが行政解剖であり、犯罪の色濃い死体に対して行われるのが司法解剖である。その為の監察医制度。正しくは死体解剖保存法第八条である。 保健所が地域の生活環境を整え、予防医学に貢献する公衆衛生なら、監察医制度は監察医が警察と一緒になり、変死者の死因を究明する事により、住民の不安、不審を一掃し、死者の生前の人権を擁護する。それと共に、社会秩序を維持している。それが監察医制度である。この制度は、行政上極めて重要で不可欠な制度ではあるけれど、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸と、五大都市にしか施行されていない。 そしてその特定医務院である此処、関東監察医務院の部長が、嘱託医の検案調書を根から信用し、最終チェックを怠った事は、田所の死者の最期の声を聞くと言う信念に反していた。いた筈だった。だから田所は、今厳しい表情を崩さない。 監察医として、警察の不正に手を貸した藤村は当然許せないが、自分に対しても腹が煮えていた田所だった。 死者の声を聞く、真実の言葉を聞くという信念を、自ら閉ざしてしまったも同然の行為だったのだ、今回の失態は。それはやはり生者の傲慢、だったのかもしれない。 「巻き込むって、誰をですか?」 杉の隣で、天野が窺う様に声を掛けた。その天野の台詞に、月山やはり意味深な笑みを浮かべただけで、細身のスーツの内ポケットから銀色の携帯を取り出すと、短縮ダイヤルをプッシュした。 短い呼び出し音で、相手は出た。 「月山です、ちょっと面倒な事件が起きました。監察医務院まで来て下さい」 「何処に電話してるのかしらね」 コソッと、黒川が杉に耳打ちすると、 「信念持ってる、警察官にでしょ」 意味深な台詞を口にした。 「信念持ってる、警察官?」 杉の台詞に、天野と黒川は互いに顔を見合わせる。 監察医務院は、確かに月山以外にも一課刑事の出入りはある。けれど皆解剖立ち会いなど喜ぶ筈もないから、早々に引き取ってしまう。詳しい内容を、解剖担当者から聞こうとはしないのだ。詳細は検案書として提出してくれ、そんな短い言葉で引き取ってしまう。けれど月山は違っていた。 何でも事件にしたがると言われてはいるが、月山はあらゆる可能性から、死者を視る術を心得ているのだ。 死者が最期に遺こして行く最期の声、真実の声を聞くというのが田所達監察医の信念なら、彼ら監察医の聞いた声以外にも、声を聞こうとするのが月山だった。 犯罪の可能性は一片もないのか?譬え僅かでも、犯罪の可能性はないのか?そう考えるのが月山紀子だ。それは行政官としての資質を求められるキャリアに在って、女性キャリアでは、珍しいだろう。ましてキャリアが一課捜査員をしているなど、月山が最初のテストケースだった。そんな月山は、キャリアと言う名に溺れる事のない、或る意味優秀な現場捜査員だった。だから監察医務院にも頻繁に出入りし、解剖担当者から直接解剖内容を聞いていくのだ。そんな現場捜査員を、彼らは月山以外にも、もう一人知っていた。 「アッ、もしかして、青島さん?」 思い付いた様に、天野が呟くと、 「違うでしょ」 即座に杉が否定する。 「違うんですか?でも、信念持ってる警察官って……」 彼女には、青島以外該当者は存在しなかった。 「キャリアの月山が、今回の面倒で呼び出す人間よ。幾ら信念持ってる警察官でも、彼じゃ無理よ」 「アッ、そうか、青島さん」 「そっ、彼はノンキャリ。今回みたく、幹部の不祥事をどうこう出来る立場にはない」 信念を持っている青島を、彼女達は知っている。 湾岸署当時から、警部補に昇進人事で捜査一課に来てからも、月山と森田の次に、監察医務院への出入りが多いのは、青島だ。その青島と変わりなく出入りしているのは、一課3係主任刑事の上代榊の筈だった。 青島も月山同様。解剖立ち会いをし、担当者から直接言葉を聞く事を心得ている捜査員だった。立会件数も、湾岸署当時から数えると、相当数の筈だった。そして従兄弟に天真桜の心臓血管外科医をしている司馬江太郎を持っていて、素人には関心する位、医療と言うものを学んでいる青島だった。彼なら、10年経ち警部になっていれば、優秀な刑事調査官として、検視官になれるだろうと、彼女達は密かに思っていた。 けれど10年後の青島は、警部昇進と同時に、新宿署の刑事課課長を経て、警視昇進で一課管理官をしている筈である。 脱サラして刑事になった青島だから、その昇進はエリートな筈だ。けれど青島は常に現場に関わる、被害者の痛みを忘れぬ刑事として成長し、52歳で一課長になるのは、未だ誰も知らぬ未来だった。その時の警視総監は、当然室井だった。 「とにかくッ!」 携帯に向かい、月山が焦れた様に苛だった声で、半ば叫んでいた。その声に、喫驚した様に天野は月山を視た。 誰もが、月山に視線を集中させている。それは藤村も例外ではなかった。 警察官の不祥事隠匿を強要されていた藤村だから、今更警察の正義など、信じてはいなかった。けれど、彼女の毅然とした言葉に、警察の正義は失われてはいなかったのかもしれないと、藤村は自分でも不思議な程、心根が落ち着いている内心を意識した。 「すぐに来て下さい、詳しい説明は来てからしますッ!」 叫ぶ様に言うと、月山は携帯を切った。 「まったく」 威勢良く携帯を切ると、月山は華奢な携帯を内ポケットにしまった。 「誰に、連絡したんですか?」 天野が、月山に訊くと、 「管理官」 「新城管理官か?」 藤村と対座している田所が、月山の台詞に尋ねた。 新城管理官と言えば、従兄弟の室井の後任で、一課管理官になったキャリア管理官だった。その新城が、室井や青島に触発され、最近では室井弐号と言われて久しいと、田所の耳にも届いていた。 「今日やっと抱えてた捜査本部解体したから、丁度良かったわ」 丁度よかったと断言するのは、月山一人だけだろう。他の面々は、夜分に面倒ごとに呼び出される新城に、誰もが半瞬だけ同情してしまった。それは当人の藤村も例外ではなかった。 そして新城が憮然とした面持ちで、監察医務院に現れたのは、月山が電話してから、一時間近く経ってからだった。 「やっとご登場ね」 待ちくたびれたわと、上官にも悪びれない態度の月山は、医務院の応接室のソファーに腰掛け、苛だたしげな様子で、スッと綺麗な所作で立ち上がった。 「何だ一体」 月山の声に、新城も苛立たしげな様子を隠す事はなかった。その新城の背後に、小柄で華奢な女性が佇んでいるのに、天野は瞠然となった。 「噂には聞いてたけど、そっくりねぇ」 天野と、新城の背後に控える女性を交互に見比べ、黒川が感嘆する。 「始めまして、湾岸署の恩田すみれです」 「天野ひかるです。青島さんから聞いてたんですけど、喫驚しました」 憮然とした新城とは裏腹に、控えていた小柄で華奢な女性は、明るい笑顔をしていた。 この明るく小柄な女性が、刑事だとは、到底見えない天野だった。 「私も。青島君から聞いてたけど、直接会うのは、初めてだもん、喫驚した」 天野の台詞に、すみれも笑う。その笑みが、刑事という厳しい職務に当たる女性とは思えぬ程、綺麗だと天野は感じた。 月山も華奢すぎる程細身だけれど、眼前の自分と酷似する女性は、それ以上に小柄だった。けれど、天野は知らない。すみれが合気道の段持ちで、湾岸署刑事課では有名な巴投げの持ち主である事を。そんな綺麗な笑みを湛えるすみれは、自分の横に並び立つ、未だ渋面している月山の上司だろう新城に、平然ととんでもない台詞を投げ付けた。 「何時までも、ブッチョウ面してるんじゃないのよ、賢太郎ちゃん。それでなくても、とっつきにくい印象なんだから」 そのすみれの台詞に驚いたのは、天野だけではない。 「何がとっつきにくいだ」 すみれの台詞に、益々新城は眉間の縦皺を深めて行く。 「賢太郎ちゃん〜〜〜?」 近頃めっきり前任の管理官と似てきたと評判の新城は、確かに以前は間違う事のない組織人で、行政官としての手腕が求められる警察機構の中、疑う事のない官僚だった。けれどその新城は、何時からか、前任管理官の室井と同じ途を歩き出していた。いたと誰の眼にも判る様になったのは、副総監誘拐事件以降だった。確かにそれ以前の新城は、官僚でしかなかった。 そんな新城は、室井弐号と言われて久しく、同時に、湾岸署の女刑事と付き合っているとの噂が出回った。出回った時、最初誰もがそんな流言飛語を信じなかった。けれどその噂の出所が、事もあろうに一課長だと知れた時、誰もが耳を疑った。 それは昨年の夏の終わりの事だ。青島が一課に来る少し前の事件が湾岸署で起った時、すみれは捜査員の前で口を滑らせた、『賢太郎ちゃん』と。その事実がその場に言わせた一課長と他の捜査員から伝わり、今では誰もが新城の恋人が湾岸署の女刑事だと言う事を知っている。故に、湾岸署は『キャリアキラーの空き地署』などと、ありがたくもないネーミングを与えられていた。 「っで?面倒な事とは何だ?」 渋面したまま、新城は月山を視ると、応接室の奥に座っている人物に、初めて気付いた。気付き。 「一倉さん……?」 真逆と言う響きを帯びた声が、無自覚に零れ落ちる。落ち、 「……違うな」 半瞬後に、自らの言葉を否定した。 「私も最初に会った時は、喫驚したわ。一倉国際部二課長とそっくりなんだもの」 月山の台詞は、今は苛立たしげな気配はなりを潜め、ソファに腰掛けている藤村を視ていた。けれど上官の前に佇み乍ら、その口調は、常と変わりない。 「本当、一倉管理官にそっくり…」 新城の先輩である一倉正和は、現在長官官房国際部、国際二課長の職務に就いている。 すみれにとって、一倉は雪乃が関わった薬物事件の、薬物対策課の管理官でしかなかったから、今でも管理官としか言わない。その一倉と言えば、新城にとっては先輩に当たるから、時折会う事もある。けれどその時ですら、すみれは一倉を『管理官』としか呼ばない。その事に、いい加減新城も一倉当人も、訂正する事を諦めていた。 所詮すみれも青島が所属していた湾岸署の捜査員なのだと、見当違いな諦め方をしていたのだ。 そんな風に思わせてしまうのが、湾岸署だった。署長の神田の放任主義が、そのまま湾岸署のカラーになっている事に新城が気付いたのは、やはり副総監誘拐事件以降だ。 青島と言う一介の捜査員が、何故室井と言うキャリアの眼にとまったのか?何故キャリアの室井が其処まで所轄の捜査員を気に掛けるのか?新城はアノ事件で思い知った気がしたのだ。 五百人足らずのキャリアが運営管理する体制組織を、底辺で支えているのは、名もない所轄の警察官達なのだと。市民の安全を守る為に、生死と向き合っているのは、名もない現場捜査員達なのだと言う事を、アノ事件で新城は痛感したのだ。 所轄の捜査員は、組織の歩兵でしかない。けれど、そんな彼らが組織の底辺を支えているから、組織は組織として成り立っているのだ。だから室井は気付いた現実の前に、無視する事が出来なくなってしまったのだろう。だろうと、新城は自分の前任に当たる一課管理官の室井の姿を思い出す。 室井に、所轄の現実を教えたのは、脱サラして刑事になった、所轄の捜査員の青島だった。 気付かされてしまった所轄の現実、延いては刑事警察の捜査現場の現実を、無視できなくなってしまった室井だから、組織防衛の建て前と、既得権を最優先する官僚機構の中。上層部から疎まれ様と、声を出す勇気と強さを手に入れ、発言してきた。 縦割り構造の弊害を。捜査員は、歩兵ではないと。 迅速な被疑者検挙が最大の防犯と言われる刑事警察の中では、初動捜査が爾後を左右する。けれどその初動捜査には縦割り構造の弊害が付き纏う。その現実に、被疑者検挙が遅れる懸念を、室井は痛感していた。けれど当初の室井は、そんな革新を口に出す事はなかった。常に磨き抜かれた鋭利で硬質な眼をして、淡々と捜査員を動かしていた。 室井は、キャリア初の一課管理官のテストケースだった。 その重責と、どれだけ理解しようとしても受け入れられる筈のないキャリア管理官の立場に、室井は大切な想いを忘れ掛けていた。けれど、そんな室井に真っ向から反駁出来たのは青島だった。 子供の様な正義だと、新城は思っていた。けれどその青島の正義が、誰より真摯で苦悩なものを孕んでいると理解したのも、副総監誘拐事件の時だった。以来、新城は確実に青島と室井という二人に、キャリアの傲慢を打ち抜かれていた。打ち抜かれた現実の前に、けれど新城はそれを受け入れる勇気を持っていたキャリアだった。だから近頃はめっきり前任管理官と似てきたと、島津を嘆息させている事に、遺憾ない才能を発揮している新城だった。 「漸く捜査本部解散したその夜に、私を呼び出すんだ。たいそうな厄介事なんだろうな?」 眼前に佇む瀟洒で涼しげな面差しをしている月山紀子は、間違う事なきキャリアとして新城の後輩だった。そしてキャリア初の試みとして、一課捜査員としてのテストケースだった。 警視庁一激務とされる一課捜査員を、この細身の女性キャリアは、その破天荒な性格で飄々とこなしている。譬え他の捜査員から疎まれようと、月山紀子は挫けない、『勝てば官軍』を座右の銘とする女性キャリアだった。だから激務の一課捜査員の中にあっても、めげる事なく日々激務をこなしている。その精神力の強さを、新城は内心評価していた。 「たいした事件よ」 月山の隣で、淡如な声がする。 「誰だ?」 「杉裕里子、監察医務院の非常勤監察医」 淡々とした声で、杉は自己紹介する。セミロングのワッフルヘアに白皙の貌は、白衣を来ていなければ医師には見えないだろう。けれど白い瞼の下に在る一対の眼は、淡々とした深い知性を湛え、新城を凝視している。 「何があった?」 杉から月山に視線を移すと、新城は攅眉したまま口を開いた。 「私が説明しましょう」 新城の、事態を敏感に感じ取った何処か緊張した声に、田所が始めて口を開いた。 田所の声に、新城はゆっくりと視線を移す。 何度か訪れた医務院で、最初この田所新作を眼にした時。新城は素直に驚いた。何故かと言えば、その造作は、自分のよく知る室井に似ていたからだ。 室井と田所が従兄弟と知っても、心構えなしに田所を視ると、つい『室井さん』と言いそうになる新城は、今も危うくそう言いそうになり、それを敏感に感じ取った田所が、小さく苦笑する。苦笑し、すぐにその面差しは引き締められる。 「実は……」 そして田所は話し始めた。 多摩川河川敷でおきた変死体事件の解剖所見を、藤村が偽造し、虚偽の検死解剖報告書を作成した事実を。そして部長職にある自分が、嘱託医の所見報告を、確認しなかった失態を、田所は新城に淡々と説明した。 「っと言うわけよ。大した面倒事でしょ?」 大した面倒ごとと言う台詞を、全く無視した淡如な月山の声音は、その名に月を持つだけあって、涼しげで、何処かヒンヤリとした感触を持っている。 「その面倒に、私を巻き込むつもりか?」 腰掛けた応接室のソファの上で、新城は深々溜め息を吐き出した。 何時しか面子は夫々応接室の椅子やソファに腰掛け、田所の話しを黙って聞いていた。聞き終えた時、僅かの沈黙の後に、新城は深い溜め息を吐き出したのだった。 「幾ら厚生課々長といっても、相手は本庁の警務部所属。今回の犯罪を立証するには、足固めが必要な筈。事件にするには、証拠固めが必要。じゃなかったら」 「揉み消される、かっ……」 すみれの淡々とした声に、新城は深い溜め息を再度吐き出した。 「大変ねぇ、賢太郎ちゃん。青島君以外に、こんな面倒引き起こす人、私初めて視た」 見当違いの感嘆を、確かにすみれはしていたのかもしれない。 青島が湾岸署に配属して以来。湾岸署は日常の警察署では考えも付かない、大掛かりな事件が起きているのだから。そしてそれが既に湾岸署の日常になってしまった頃、青島は警部補に昇進し、警視庁捜査一課に異動になった。今では青島は月山の同僚となり、直属上司の3係々長の有田の胃を痛めさせている。そして室井は、青島の捜査一課異動と同時に、大阪府警本部刑事部長として、異動していた。 それは多分に、上層部の意図が介入した人事異動だった事は、疑い様がない。けれど、それが上層部の意図介入だけではなかったのだと知れるのは、もうすぐだった。 ソレは二人を、数度目の分岐点に立ち尽くさせる事になるのだと、当人達も未だ知らない未来だった。 「アレと一緒にしないでよ。少なくとも私は、刑事部参事官と一緒に暴走して、刑事局長や総務審議官を、地検特捜部に告発なんてした事ないわよ」 すみれの台詞に、月山は心外だと反駁する。その反駁が、甚だ見当違いである事を、月山自身承知している。承知しているから、涼しげな面差しに薄い笑みを浮かべていた。 昨年初夏。青島と室井は、池神刑事局長と、高嶋総務審議官の二名を、殺人幇助として、地検特捜部に告発している。その告発の裏で、新城や島津が動いていた事を知らぬ一課捜査員は、存在しない。だから月山は巻き込む相手に、迷う事なく新城を選んだのだから。 月山の台詞に、新城は苦い面を崩さない。そんな新城の隣で、すみれは可笑しそうにクスクスと笑っている。それが綺麗だと、天野は不意に思った。 「嬉しいでしょう?賢太郎ちゃん」 「何が嬉しいんだ?」 「だって、青島君もこの頃大きい事件引き起こさないし、おとなしいじゃない」 幹部相手の大立ち回りなど、もう二度と御免だと、新城は苦々しげだ。 第一、警視庁都下の一所轄の刑事課捜査員が、組織の幹部の犯罪事実に気付いてしまう事の方が、余程特異なのだ。 池神と高嶋の犯罪から始まり、元警察OBの娘が引き起こした殺人未遂事件の、幹部による揉み消し事件と、青島が気付いた犯罪は、組織を根底で揺るがす犯罪が眼に付く。 そして今新城が聞いた話しは、昨年夏の終わり。青島が解決した事件の一つと良く似ている。 新城にしてみれば、幾ら現場捜査員の現実に気付いたからと言って、組織を根幹から揺るがす特異な事件に、積極的に関わりたい筈もなく、けれど気付いてしまった犯罪を無視出来る筈もなかった。 そんな新城が、数か月後。警察組織の汚染に立ち向かい、室井や青島と代わらぬ暴走をする事を、今は誰も知らない。 「藤村の証言だけじゃ、弱いって事?」 月山の隣で、杉が不意に口を開く。 「弱いな、解剖所見偽造証言だけじゃな。確実に朽木野の娘が事件を引き起こし、朽木野自身が隠蔽した事実を掴まなくては、事件は簡単に揉み消される。事件を事件として立証するには、この場合、現場から確実に朽木野の娘が事件を引き起こしたと言う、証拠を掴まなくてはならない。そしてそれは、相手に知られる事のないよう、秘密裏に行わなければならない」 田所の、淡々とした声だった。 監察医の田所が、此処まで警察の事件に対する、証拠能力や証明力の必要性を理解している事に、少しばかり驚いた新城だった。それは室井の従兄弟だからだと言う事では、説明は付かないだろう。 淡々黙々と告げる田所の口調は、何処か室井と似ていた。 造作が似ているだけではないナニかが、似ているのかもしれない。しれないと、新城は眼前に佇む田所を視て思った。 田所の抑揚ない淡々とした声は、逆に彼の内心を綺麗に物語っている。 死者の最期の声を聞く監察医が、危うく真実を捩じ曲げる事に、気付かず手を貸す所だったのだ。 死者の声を聞く男が、一番近しい人間の真実の声を聞き逃していた。その痛みを、田所は未だ手放せずに持っている。持っていたから、同時に運び込まれた幼児の解剖拒否に絡む遺族の心情に、気をとられ過ぎていた事実を、田所は認めている。 医師や看護婦、人間の生死に関わる職務の人間は、どんな時も私情を挟む事は許されない。それを一瞬でも、忘れてはいなかっただろうか?田所は悔咎しているのだ。 生死に関わる職務に於いて、個人の死生感が確立されなければ、それは医療者としては或る意味失格とも言える。けれど逆に、その死生感に振り回されない、冷静な精神と判断力をも必要とされ、要求されるのが医療現場だ。 自らの死生感に惑わされる事なく、人間の生死に関わる。 それが医療者の職務であり、責務である。けれど、田所は自らの私情を挟み過ぎていた。それが今回の失態に繋がったとは一概には言えないが、一旦を担ってしまっていたのだろうと、田所は悔咎していた。 自ら妻の遺体に誓った筈だった。 死者の声に耳を傾ける。人が持つ真実の声に、耳を傾ける。 語られる事の難しい真実だからこそ、より耳を傾ける事を、自らに課した筈だった。その筈が、生者の声にのみ耳を傾けていた。それが田所を苦しめる。 医療は通常臨床としての継続医療を基本とする。 搬送された患者の疾患を医学的見地でつき止め分類し、分類した疾患を治療する。その過程で、分類した疾患の爾後を予測し、今後の発症を未然に防ぎ、患者を再び社会生活に戻す役目を負っている。その為に、医師や看護婦は頻回にカンファレンスを持ち、綿密な医療計画を立てるのだ。 人間の生命を扱う医療者の倫理的責任の重さは、過去から繰り返されている。それは生命倫理の指針として、様々な条約が生み出されている。 世界医師会には『ヒポクラテスの誓い』を原形にした『ジュネーブ宣言』があり、世界医師会で採択した、『ヘルシンキ宣言』がある。 看護婦には、看護婦の母であるナイチンゲールの『ナイチンゲール誓詞』がある。 生命倫理の責任と重さから、様々な条約が採択されているのだ。公衆衛生の基本になる憲法第25条が、WHOの憲章前分を元にしているのを見ても明らかだ。 近頃福祉分野が発展し、囁かれ始めた言葉の中に、QOL (Quality of life)と言う言葉がある。対を成す言葉にSOL(Sanctity of life)がある。 QOLは原則として、生命の価値を相互的な存在としている。SOLは、患者の生命の価値は原則として平等であり、絶対的存在とみなす考え方である。それは脳死問題や臓器移植等の判断に於いての基本的論点である。 QOLは、ターミナルケア(臨終の看護)にのみ譬えられる言葉に間違われやすいが、それは生活の質の向上として、患者を安定した社会生活に戻す事を指し示している。 日常生活の継続を保ち、身体的、精神的苦痛を和らげ、人間としての生活の質を常に評価し、向上・維持させて行く事、である。 QOLについては様々な課題が残され、患者やその家族の個々の立場や感性を理解し、ケースバイケースで対処して行くことこそ、QOLの本質に繋がる発想とも言われている。 そんな医療の中、監察医が扱うのは、既に死している遺体だ。変死体として、検死解剖が必要とされる法的制度の元、検死解剖を行う。 監察医の職務は、患者を社会生活に戻すとされる臨床現場とは違う見地から、生命倫理を解かなくてはならないから、より難しい。その難しい職務と責務に誇りを持ち、死因を特定する事で、死者の最期の声、真実の声とするのが監察医だ。 臨床医が、患者の生命を救う事で、人間の生命と関わり理解するならば、監察医は搬送された遺体と向き合い、裏側から生命という重さを監るのだ。どちらも人間の生命を監ると言う事では、監察医も臨床医も変わりない。その関わり方が全く逆と言う点以外は、手にする生命の重さに変わりはないのだ。 遺体は直接的な言葉を持たない。言語としての言葉を話さない。だから常に厳しい技術や精神力が要求されるのが監察医だ。話せないからこそ、その関わり方を間違えてはならないのだ。それでなくては、到底真実には辿り着けない。真実は、誰もが辿り着ける安易な場所、言葉ではないのだ。 それを痛感していた筈の田所の犯した失態は、今後彼の疵となり、糧となって、監察医としての職務の厳しさと向き合っていくのだろう。 それは人間の生命と向き合う事、人間と向き合う事なのだ。なのだと、今天野は痛い程、田所の想いが胸に響いていた。 以前尊敬し、目標とする杉裕里子が言っていた言葉に、面白い台詞があったのを、不意に天野は思い出す。 医者は人からどんどん遠ざかっていく。 確かそんな台詞だったと、天野は思い出す。それは杉裕里子の同期生が、新薬開発を巡る事件で、焼死する少し前、レストランで夕食を摂り乍らの台詞だった筈だ。 けれど、天野は答えたのだ。 杉や田所達同僚は、常に真摯に人間の生命と向き合っている。何時も真剣に生命の重さと向き合っている。いるから、天野は彼らを視て成長している以上、人間から遠ざかるとは思えなかった。そんな台詞を言う医師が、不思議でさえあった。 けれど、医療現場はシビアだ。常に人が死んで逝く事が当然になり、人が死ぬと言う感覚に慣れてしまう。逆に慣れなくては続けられない専門職でもある。だから、何処か一部、神経が麻痺してしまうのかもしれない。杉の友人も、そうだったのだうか? 法医学、監察医は、医療業界の中でも、日の目の当たらぬ分野である。 日進月歩の延命医療の中。法医学は手遅れの医療とも言われている。けれど違うのだ。死因を特定する事が、どれほど重要で責任が重いか?天野は二年監察医をして、痛感していた。 物言わぬ死者だからこそ、言葉を話せない遺体だからこそ、真摯にその死者と向き合わなくてはならない。それは決して手遅れの医療などではないのだ。 確かに、社会復帰を促す、患者を社会に戻す治療は、相手が死者であれば当然出来る筈はない。どれだけ医療が高度になったとしても、死者は生き返らないのだ。 生き返らないからこそ、語らう言葉を持たぬ、物言う事のない死者だからこそ、その尊厳は守られなければならない。 その責務の重要性を、天野は今。厳しく引き締められた面差しをしている田所から、教えられている気がした。 監察医二年目の天野は、未々私情で動く事も少なくはない。 一時期は杉を苛立たせた天野の死者への思い入れは、杉にとっては目標と言わせる事に成功した、羨望を含んでいる。 杉は、監察医の中でも、研究者に近いのだろう。 徹底して主観を省き、先入観を持たず、死者と向き合う事の出来るその冷静沈着さは、医師としては必要な理性である。けれど天野は、未々杉の足下には及ばない。 妻の遺体と向き合い、愛する者の遺体にメスを入れなくてはならない痛みを手放す事なく、死者の声を聞き続けている田所程に、天野の思い入れは冷静ではないのだろう。 それは未々主観と私情の入った、甘さを残している。けれど、その思い込みは決してマイナスではない。ないから、誰もが天野の力を認めてもいるのだ。 死者に慣れてしまう。死に慣れてしまう。人は何時か死ぬと言う事実に、医療者は慣れてしまうのだ。慣れる事が、自らが傷付かぬ、最大の自己防衛なのだ。けれど天野は違った。 常に死者に思い入れを残し、言葉を聞こうとあがいている。それは、杉や田所、黒川達にとって、羨ましい程の若さだった。その若さを、何時までも失ってほしくはないと、彼等が思っている事を、天野は知らない。 そして天野は、厳しい表情を滲ませ、口唇を噛み締めている田所の姿に、監察医は、主観でのみ動く事は許されない、厳しい立場である事を、沈黙に佇み見詰めていた。見詰め乍ら、思い出してさえいたのだ。 手遅れの医療と言われ、日の目の当たらぬ、後継者育成の難しいこの分野が、どれだけ生命の重さを握っているのかを。 田所の厳しい態に、不意に天野は泣き出したい程の衝動を味わっていた。 田所の痛み、杉の痛み、医師としの技術が完成されてい乍らも、犯罪に手を貸してしまった藤村の痛みを、天野は今敏感に感じ取り、彼らの真実の声に、不意に泣きたくなっていたのかもしれない。 「仕方がないな……」 月山と田所の説明を聞いた新城は、長く深い溜め息を吐き出すと、懐から携帯を取り出し、短縮ボタンをプッシュした。 その短縮Noの相手を知るすみれは、半瞬だけ呆れ、次には、 「知らないから〜〜」 薄く細い肩を、竦めてみせた。 「誰?」 月山は、すみれに問い掛ける。 月山に、初対面と言うすみれの印象は少ない。それは天野に造作が似ていても、決して印象が似ないすみれの雰囲気を、月山が既に受け入れているからかもしれない。 「青島君」 「ア〜〜〜〜〜?」 すみれの、ボソリとした声に、月山は素頓狂な声を上げる。上げ、 「何であいつなのよ」 「得意だから、青島君。幹部の犯罪摘発」 前科がありすぎる程にある青島だから、端から弁護などする気は欠片もなく、青島が聞いたら誤解だと叫びそうな台詞を、サラリと言い除ける事に、逡巡はないすみれだった。 「でもねぇ〜〜いいのかなぁ〜〜?」 意味有りげなすみれの笑みの、その真の意味を知る人間は、この場には存在しない。 それは恋人の新城とは言え、例外ではなかった。 「何?」 月山の怪訝な表情に、 「捜査本部、今日解散したのよねぇ。賢太郎ちゃんと一緒に」 「都合よかったじゃない」 シレッと言う、月山の台詞だった。 「よかったのは、良かったんだけどねぇ」 現在、新城が電話している相手の青島にとって、今日の捜査本部解散は、泣きたい程嬉しかったに違いない。 その意味を知るのは、当然すみれだけだった。だからすみれは誰にも話す事は出来ず、苦笑に誤魔化す事しか出来なかった。出来ないから、こっそり溜め息を吐き出して、細い肩を竦めて見せた。 そんなすみれを、月山は不思議そうに視ていた。 |