死と再生 SCENE2









「ぅんっ……青島…いい加減に……」
 室内に漂うのは、色濃い情事の残り香だった。
淡いベッドサイドの照明の中、漸く熱の失せ始めた雪花石膏の肌は、本来の白さを取り戻しつつあった。けれどそれは、些細な切っ掛けで再び熱を孕む危ういものでしかない事を、室井ばかりか、年上の恋人の肉体の隅々まで熟知している青島が知らぬ筈はなかった。
「だって、久し振りなんスよ。禁欲生活どれだけだったと思ってるんスか?」
 腕の中の裸体に、柔らかい感触で戯れを繰り返す。その口調は、内容程に切迫などはしていない。寧ろ鷹揚とした、優游ささえ感じられた。感じられたから、室井は徐に青島の腕の中で上半身を起こすと、クッションに薄く細い背を凭れ、
「3ヶ月になるか?」
「二月に逢って、以来です」
 室井に倣い、青島もクッションに身を凭れると、華奢な姿態を腕にする。
細身の姿態は抵抗一つなく、幅広い胸に収まった。その感触に愛しさしか湧かず、青島はベッドサイドから愛用の外国産煙草を取り出すと、綺麗な所作でマッチで火を灯す。
灯し、紫煙を肺一杯に吸い込み、吐き出した。
「俺って、誠実な恋人だと思いませんか?」
「何がだ?」
 青島の言外の意味など百も承知で、けれど室井は愉しげに問い掛ける。その面差しは、悪戯を仕掛け、親の反応をワクワクし乍ら待っている、子供の様な表情を滲ませている。いると、青島は思った。
「相変わらず、悪趣味っスよねぇ、室井さん」
 年上の恋人のタチの悪いその笑みと表情に、青島は演技して幅広の肩を竦めて応えて見せる。見せ乍ら、緩やかに紫煙を吐き出して行く。
「だってそうでしょ?恋人との遠距離恋愛で、3ヶか月も禁欲生活強いられても、浮気一つしないんだから。俺ってば恋人には誠実だと思いませんか?」
「禁欲生活しているのは、何もお前だけじゃないだろう?それともお前は、私がお前以外の誰かと、関係してるとでも、言いたいのか?」
 心外だと、室井は年下の恋人の口許から煙草を取り上げると、慣れた仕草でソレを咥え、紫煙を燻らせる。
 室井は、慣れてしまっていた。演技力のある年下の恋人との関係に、自らも演技する事に。だから青島は知っている。室井のその心外だと言う態度が、演技でしかない事を。
この会話が、既にピロトークでしかない事を。
「だってあんた、年下キラーっスからね。久我山って参事官も、あんたの事尊敬してますって表情してましたよ」
「何が年下キラーだ。第一久我山と会ったのは、去年のクリスマスの、あの一瞬だけだろうが。第一お前はどうなんだ?警視庁から所轄の婦警、被害者女性に想われて。タチの悪い優しさを女性に発揮する恋人を持つ私の方が、心配しても、不思議じゃないだろう?」
 半ばどさくさに紛れた告白に近い台詞を、シレッとした表情で、紫煙と共に紡ぐ室井に、青島は半瞬瞠然とし、次には深い笑みを滲ませる。
「心配してる?」
 覗き込み、窺う様に、小作りな貌を視ると、
「何で私が心配しなきゃならない?」
 吸い切った煙草を、手元のクリスタルの灰皿に押しつけると、次には深い笑みの背後に、淫蕩な娼婦を連想させる妖冶な笑みを横たえ、瀟洒な腕がスゥッと年下の恋人の首に回される。
「心配じゃ、ないの?」
 可笑しそうに、青島は笑む。ソレは幽邃で奥深い、男の色香を滲ませた笑みを纏い付かせている。
「愛されてる自信がなきゃ、お前の恋人はやってられない。前にも言ったな」
 クスリと艶冶に笑む笑みが、青島は呆れる程綺麗で淫蕩だと思った。
「愛されてる自信がなければ、愛してる自信がなければ、暴走刑事のお前の恋人なんて、やってない」
「すごい告白、聞いた気がする」
 室井は、何時だって青島に告げる言葉に、躊躇いは持たない。愛していると言う愛情の深さを言葉や態度、仕草で示す事に、欠片の躊躇いも覗かせない。
 言葉の必要性を、室井はちゃんと認識しているのだ。言葉を持たずに通じ合う愛情と言うものを、室井は信じてはいないのだ。
 ソレはキャリアにしては特異な程、刑事畑を歩いてきた室井だから、愛情から犯罪に走るケースを幾つも眼にしてきている。そんな室井だから、言葉なくして通じ合う愛情と言うものを、信じてはいなかった。
 言葉は嘘を付く。真実の想いは、言葉では中々伝わらない。想いの全てを言葉には出来ない。ソレは曖昧で複雑な感情が混融しているから、全てが言葉に出来る訳ではない。巧く言葉に出来ない事の方が多いのだ。それを理解し、しているから、室井の言葉には躊躇いがない。
 愛していると言う気持ちを、欲しいと言う情欲の深さを、室井が隠す事はなかった。ないから、二人きりのプライベートな時間。オン・オフのスイッチの切り替わる切替えの早い年上の恋人のタチの悪さは、青島を脱力させる事が少なくはない。
 日常、官僚組織で清廉潔白で高潔に佇む室井は、我慢を強いられている。だからこそ、年下の恋人とのプライベートな時間、室井は青島に対して我慢する事がない。
 甘やかしたいだけ年下の恋人を甘やかす事に、躊躇いはない。年下の恋人を甘やかす事で、室井は癒されている事を自覚している。いるから、今も淫蕩で艶冶な気配を滲ませ、青島の首に瀟洒な腕を絡め、薄い笑みを湛えている。
「お前と逢えない時間。私がどうして堪えているか、知らないだろう?」
 薄く細い笑みは、背後に妍冶で妖蠱な気配を滲ませている。そのくせに、瞬く眼差しは物柔らかい情欲を滲ませ、年下の恋人の端整な輪郭を凝視している。その眼差しの深さと言葉の意味に気付き、青島は半瞬節句する。絶句し、
「あんたの口から、そんな台詞が出るとは思わなかった」
「忘れてるんじゃないのか?私だって、生身なんだ。信念曲げない年下の暴走刑事の事を想って、私がどうしてるかなんて、お前は考えた事もないんだろう?」
 首筋に回した瀟洒な腕が、その指先が、今は端整な輪郭を愛しげに撫で、包み込んでいる。包み込み、吐息が触れ合う間近で見詰め合うと、その眼差しは切ないばかりの光彩を湛え、自分を見詰めてくるのに、青島は胸を鷲掴みにされたショックで、言葉が瞬間には出なかった。けれど一瞬後には奥深い笑みを滲ませ、
「室井さん」
 腕にする痩身を抱き締めた。
「お前だけじゃない。私だって、禁欲生活してるんだからな」
 抱き締められた腕の中、室井はひどく倖せそうな笑みを滲ませている。その笑みの前に、青島も身の裡から湧く幸福感に、それも互いの愛情が在るからなのだろうと、実感していた。
「俺もだよ、室井さんだけだから」
「判ってる」
 物理的距離が開こうと、室井は青島の愛情の深さを疑った事は、一度としてなかった。青島も、室井の想いを疑った事はない。
 官僚という立場と、警視庁一激務と言われる一課捜査員の恋人との関係は、世間の遠距離恋愛の恋人達の様に、週末毎に逢える関係ではなかった。大阪と東京に別れ、それこそ2、3ヶ月に一度逢えればいい方だ。まして二人の関係は、世間で言えば、十分異端と言える関係でしかない秘め事の部類に入る。
 異端。
その言葉が、室井も青島も嫌いだった。
 同性同士の恋愛は、それこそ異端の部類に入るだろう。けれど、自分達の愛情は真摯で真剣なものだから、異端と言う言葉で括られたくはなかった。なかったからこそ秘密の恋をし、その関係だけに溺れない理性で自戒し、互いに誇れる警察官でありたいと、傷付き苦悩し乍らも、深い眼差しで正面を向いている互いを知っているから、二人は互いの関係を異端と言う言葉で片付けられたくはなかった。
 だからその想いはより深く透明で、静謐で切ないくらいに真剣な想いを滲ませていた。その想いを、世間の尺度だけで片付けられたくはなかったから、二人はその関係を隠しているしか出来ない。けれど、その関係を後悔した事は、一度としてなかった。
 初めから、異端と言われる事を覚悟でした恋愛だから、その関係を後悔した事は、一度としてない。そんな軽い恋愛ではなかった。かといって、生涯一度と言う、トレンディードラマのキャッチコピーの様な、却ってその言葉が軽い響きを帯びてしまう様な、恋愛でもなかった。
 同性で互いに社会的立場がある。世間の治安を維持する警察官として、その関係は組織にも社会にも決して受け入れられる事はないだろう。それを承知で、二人は愛し合っているから、互いの愛情を疑う事など、したくはなかった。
「愛してる。室井さんだけだから」
 腕にした華奢な姿態が愛しくて、青島は濃紺のシーツの上に、年上の恋人を横たえる。
刹那、トサリと乾いた音を立て、裸体は抗う仕草一つなく、シーツの波間に埋もれた。
 伸し掛かる幅広い胸。包まれれば、同性なのに可笑しい程安堵してしまう腕。熱を孕んでいる下肢。
 年若い恋人が、長い禁欲生活の中、その性をどう処理していたのかなど、室井には考える必要のない事だ。
 一時の戯れに、誰かに手を出せる程、青島は器用ではないし、不誠実ではない。捜査で発揮される演技力も、互いの前で演技と知れる演技をする以外。出来る青島ではないから、禁欲生活の中、その性欲処理に誰かを求めれば、室井に気付かぬ筈はなかった。だから今青島の眼差しが色濃い情欲を滲ませている事に、室井は薄い笑みを浮かべ乍ら、愛しさしか湧かなかった。湧かないから、情欲に歪む彫り深い面差しを見詰め、刹那にスゥッと細い腕が、繊細な指先が、端整な造作を包み込んだ。包み込み、
「愛してる」
 迷い一つない真摯で透明な言葉は、これ以上ない程綺麗に青島の胸を打った。
綺麗だと実感し、倖せだと痛感する瞬間だった。その瞬間、だから年上の恋人は、自分を甘やかす術を十二分に心得ているのだろうと、端整な造作に物柔らかい笑みを湛え、青島は室井の口唇に己のソレを重ね、瀟洒な指先がスルリとその背に回った瞬間だった。
 一瞬、二人の動作が硬直した。貪る口唇が、半瞬僅かに離れた刹那。
「……鳴ってるぞ…」
 捜査一課の捜査員である年下の恋人の携帯から流れる、某アニメソングの呼び出し音に、室井は深い溜め息を吐き出し、半瞬後、硬直している年下の恋人に呟いた。
「今日本部解散したばっかです。明日から3日間の休みが支給されてます。俺は今、休暇中です」
 何も聞こえないと、青島は耳を塞いでしまいたい気分だった。年上の恋人との、3ヶ月ぶりの逢瀬に、甘やかな気配を嘲笑するかの様に鳴り響く携帯の音に、青島は泣き出したい気分で、室井を見下ろした。
「未だ今日、だろう?休暇は明日からだな」
 眼前で情けない表情をしている年下の恋人に、室井はタチの悪さを発揮し、唐紅に色付く口唇に、薄く細い笑みを刻み付ける。
「室井さ〜〜ん、勘弁してよ。俺本気で泣いちゃうよ?」
 薄く華奢な肩口につっぷし、青島はほっそりとした姿態を抱き締めると、
「お前に、呼び出し音が無視出来る勇気があるなら、構わないぞ」
 一課捜査員である青島は、室井との約束の為、組織革新の為、正しい事をする為には、自らの階級をあげる必要に気付いた。気付いたから、意地と根性と、年上の恋人のタチの悪いディベードによって警部補に昇進し、昇進と共に、新城や島津に一課に引っ張られている。
 そんな青島だから、呼び出し音を無視出来るとすれば、それは確かに勇気だろう。
そして青島は、自ら傷付く事を承知で、より深い社会正義と真実と向き合っている刑事だから、携帯を無視できる筈がないと、室井は薄い笑みを湛えている。自分の愛した男は、そういう男なのだと。
 離れたくないと駄々をこねつつ、事件が起きれば、僅かな後ろめたさと、真摯な眼差しで自分を抱擁し、現場に飛び出して行く刑事だ。
 そういう男を自分は愛したのだと、室井は肩口に埋まる男の髪の毛を掻き混ぜると、半瞬後に引っ張り上げる。
 慣れた感触で指の間を流れて行く、年齢と職業にマッチしない長めの髪は、掻き混ぜると年下の恋人の体臭にもなってしまっている外国産煙草の香りがして、室井の鼻孔を擽り、心根の奥を切なくさせる。
 確かに。捜査本部が解散し、休暇が支給された刑事が呼び出されるとなれば、それ相応の事件に違いないのだ。
「相変わらず、タチ悪いんだから」
 これで自分がいらぬ勇気を発揮すれば、冷笑と共に、その関係すら破綻してしまう事位、青島には判り過ぎていた。二人の関係は、常に甘い懊悩に曝されているのだ。
「ハイ、青島です」
 青島は、紅脣に弧を刻み付ける繊細な輪郭を眺め、嘆息を付きつつ、ベッドボードの上に放り出しておいた携帯を手にすると、ボタンをプッシュし、通話に切り換えた。
 ソレは、昨年のクリスマス。遠距離恋愛の恋人との連絡の為、通話機能がクリアーなものにと、買い換えた携帯だった。同機種の物を、青島は室井にも贈っていた。それ以来、定期的に連絡をとり、取り敢えず、遠距離恋愛の恋人同志を満喫している二人だった。
 青島が電話に出た途端、室井はゆっくりと青島の腕から抜け出して行く。腕から失せた温もりに、青島は切なげな眼をして室井を見れば、室井も同様の色をしている。いると、青島は思った。思ったから、その眼差しの深さが青島を倖せにし、なお深い切なさと愛しさを抱かせて行く。
 青島の腕から抜け出すと、フローリングの床に放り出してある、年下の恋人の濃紺のパジャマの上着を、ケットの中から細い腕を伸ばして取り上げると、上半身を起こして身に付ける。その様子を、青島は追視している。
 青島のパジャマには、外国産煙草の香りが染み付いていて、不意に室井の肉の奥を、甘く疼かせて行く。
『遅いッ!』
「新城さん〜〜〜?」
 室井の後任である、一課管理官、新城の、聞き慣れてしまった何処か苛だたしげな声に、青島は予想外の人間からの電話に、らしくない程素頓狂な声を上げる。
青島のらしくない反応に、ベッドから抜け出そうとした室井も、珍しい物でも視る様な目付きで、青島を視ていた。
「何スかぁ〜〜?捜査本部解散して、俺休暇中です」
『休暇は明日からだろう?未だ残り30分有る』
 新城の、今しがた年上の恋人と交したと同じ台詞に苦笑し、苦笑した次には、嫌な予感に端整な輪郭は攅眉していた。
 攅眉し、渋面したまま、青島はベッドボードに置いてある腕時計を取ると、時刻を確認し、正確なスペックを誇るハミルトンの秒針が、確かに未だ本日は残りが30分ある事に、深い溜め息を吐き出した。
「事件スか?」
『室井さんと一緒か?』
「ハァッ?」
 新城から突然飛び出した名に、青島は再びらしくない声を上げると、隣で様子を窺っている、秀麗な輪郭を凝視する。その眼差しに気付いた室井は、不思議そうな表情を浮かべている。 その面差しは、これ以上ない程に無防備で、年上の恋人のその無防備さが、自分の前でだけだと思うと、青島は長い腕を伸ばし、ほっそりした姿態を腕に抱く。抵抗一つなく腕に収まっている細っそりした躯を抱き乍ら、
「何で俺が室井さんと一緒なんスか?」
 シレッと言う事に微塵の躊躇いも見せず、青島は新城に尋ねていた。
『会議で、今日から4日間、上京してるだろう?』
「それで何で俺と一緒に在るって事になるんですか?室井さんの携帯、鳴らしてみたんスか?」
 情事の最中も、室井の携帯は一度として鳴ってはいない。
いないと言う事は、ホテルに直接電話をして不在を知ったか、すみれの入れ知恵で、端から自分に電話を寄越したかの筈だと、青島は思っていた。
『所轄の刑事と暴走した室井さんだからな。上京したら、お前と酒位呑んでると思ったんだが?』
 新城は言外に、違うのか?と尋ねている。それ以上の含みがあるのかないのか、判断の付かない青島だった。だったから、溜め息を吐きつつ、
「在ますよ、此処に。代わりますか?」
 青島の声に、どうやら新城の電話が、自分にも関係が有ると判断した室井は、不意に真面目な表情になり、携帯に耳を押しつける。
『否、代わらなくていいから、室井さんと二人で監察医務院まで急行しろ』
「何スか?監察医務院って事は、変死体でも上がったんスか?」
 それならそれで、在庁勤務の捜査員に電話してくれと、内心の思いが深い溜め息となって、現れていた。
『グダグダ言うな。お前向きの仕事だ。とっとと室井さんと急行しろッ』
 そう告げると、新城からの電話は切れていた。
「相変わらず、せっかちっつうか、あの人も」
 切れた携帯を呆然と眺め、半瞬後青島は呟いた。その呟きに、
「どうした?」
 室井は事件かと?攅眉している。
「否、詳しい事言わないんスよ、新城さん。室井さんと二人で、監察医務院に急行しろって」
 何が何だか判らないと、青島はポリポと頭を掻く。
3ヶ月ぶりの恋人との情事を邪魔したのだから、理由位聞かせろと、青島は叫びたい気分だった。けれど、新城の声は苛立たしげで、その反面、何処か生真面目に緊張しているのが窺えた。
 今朝方解決し、解散した捜査本部の管理官として、自分同様多忙だった新城は、同じく明日から休暇が支給される筈だった。その新城からの電話と言う事は、彼も呼び出されたと言う事なのだろうと、青島は判断していた。
 一課管理官を呼び出す相手と、事件の関連性は何なのか?
8人在籍している一課管理官の中。休暇が支給された管理官、それもキャリアの管理官を呼び出すとすれば、その事件の性格や輪郭が、何となく思い付く青島だった。それはきっと、未だ腕にしたままの室井も同様なのだろうと、攅眉している聡明な貌を視て、青島は思った。
 概要が窺える感触のする事件。
キャリア管理官である新城が呼び出された事件の性質は、恐らく、キャリアが絡まなくてはならない事件の性格を現している筈だと言うのは、組織の幹部の犯罪を幾つか眼にし、室井と共に摘発してきた青島だから、考え付く理由だった。けれど、青島は気付いてはいない。それが徹底した階級制度と旧態依然な組織にとって、どれ程特異であるか、けれど青島に、自覚は薄い。
 体制組織故に、慣例と前例が重んじられる組織の中。二人の行為は確かに、組織の上の人間にとっては、造反行為に違いなかった。その造反行為最大の造反と、新城や島津を深々溜め息を吐かせたのは、昨年初夏。長官官房総務審議官の高嶋と、刑事局長であった池神の二人を、第三セクター絡みの事件で、その開発事業に公共事業参入していた國吉財閥とのマネーロンダリングと殺人幇助で、二人の幹部の犯罪を、地検特捜部に内部告発した事だろう。           
 旧態依然な組織の中にあって、二人の行為は確かな造反であり、けれどだからこそ、底辺を支える数多い現場警察官にとって、室井と言う官僚の公平性や行動力は、信用と信頼を数多く集めた。
 現在の室井は、警視庁を離れ、大坂府警本部刑事部長と言う肩書きが付く。
昨年の神奈川県警の不祥事から始まって、次々と警察の不祥事が明るみになっている現在。世間の非難に漸く室井が以前から発案していた特別監察制度が実施された矢先。
新潟女性監禁事件で特別監察にあたっていた筈の、関東管区警察局長が、新潟県警本部長他、幹部達の接待を受け、女性監禁事件が発覚した当初も、料亭で麻雀をしていたと言う顛末に、警察の信用は地の底を突き抜けてしまった。
 監察に当たっていた筈の人間が、ろくな監察もせず、接待と麻雀に勤しんでいては、監察制度など意味はない。外科的処置を職務とする監察官の責務など、否定されてしまう。
 監察官は、警察官の犯罪を許さないと言う、断固とした強い意志が要求される。それが責務であるから、室井はかつての部下達を思い出した。
 半年ばかり、首席監察官という位置に付いていた当初。首席監察官室の部下達は、常に強い意志を持ち、監察に当たっていた。その事を知るから、室井は新潟の女性監禁事件に纏わる事件で不祥事を招いた関東管区警察局長に、憤りを感じずにはいられなかった。
 その処分の甘さについても、国家公安委員会にも世間の非難は集中し、そんな矢先。埼玉県桶川で起きた女性殺害事件も、以前よりストーカー被害を受けていた被害者女性の告訴を取り消す様に働きかけ、殺害されてしまってからは、調書を偽造していた事実が発覚し、既に警察の信頼回復は果てしなくゼロに近い。
 警察に対する国民の信用は最早回復不可能に近い。その事を悟ったからか、国は漸く重い腰を上げ、学識見識者からなる、警察刷新会議をスタートさせた。それは以前から、室井が発案していた事でもあった。
 室井は早い時期から、警察の監察制度に疑問を感じ、組織外からの監察の必要性を、強く感じていた。それが漸くスタートした形だ。
 そして相次ぐ警察不祥事に対し、全国幹部会議が都内で開かれ始めたのが、今日だった。その為に、室井は上京していたのだ。
 会議が終了してから、室井は退屈なばかりの他の幹部達との会食に出席していた。
その会食は、全て公費だ。無駄な経費だと思っても、口に出して言う事も出来ない事は多い。必要経費だと言われれば、それ以上反駁は出来ない。それでも以前より、必要経費として会食費用が落ちる金額はグッと少ない。室井の上官に当たる、大阪府警本部長である服部は、室井の言葉に 『君の言いたい事は良く判るよ』と苦笑した。けれどだからといって、警察庁へ、会食費用の削減を言い切れる立場にない事は、理解している室井だったから、会食中は淡々と過ごしていた。そして会食が終了と同時に、室井はさっさと青島のマンションに足を向たのだ。
「俺呼び出すのは未だ判りますけどね。室井さん呼び出すとなると、何が出るのか…」
 新城が室井と二人で来いと言ったからには、新城一人では荷が重い事実が起きた。
そう解釈しても間違いないのだろうと、青島は思っていた。青島の内心を知れば、自分一人で問題はないと断言する新城を、容易に想像出来る青島だった。
 それでも、室井と二人で来いと言う新城は、やはりその事件の性質上、幹部の犯罪について摘発する経験を持つ室井の力を、借りたいと言う事なのだろう。だろうと、青島は解釈していた。
「何があったんだ?」
 室井は、青島の隣で渋面している。
「とにかく、監察医務院に行きましょう。田所先生も、居るんでしょうし」
 関東監察医務院と言えば、室井の従兄弟の田所新作が部長として在職している。
一課異動になってから、青島が監察医務院に解剖立ち会いに赴く度合いは、湾岸署の非ではなかった。けれど青島は、やはり慣れない。
 解剖に慣れないのではなく、人の死に慣れない。慣れないからこそ、より深く犯罪と対峙し、真摯な痛みと苦悩に身を曝し、傷付き乍ら、真実を追求しようと足掻いている。社会正義と言う言葉の意味を、模索している。それは真摯な願いや祈りさえ孕んでいる事を、室井は知っていた。
「判った。とにかく、急ごう」
 頷くと、室井は徐に思い出した様にベッドから素早く抜け出した。
自分より確実に一回りは大きい年下の恋人のパジャマは、細身の室井の躯には余る。その事が幸いしてか、室井はパジャマの上だけを羽織った、青島に言わせれば挑発的な格好で起き上がり、僅かばかり名残惜しげに、年下の恋人の温もりから抜け出すと、1フロアーの独身男性に似合う広さの室内を横切り、浴室に姿を消した。
 そんな室井の細い背を、青島は深い笑みと共に見送った。







「遅かったですね」
 監察医務院に到着し、応接室に足を踏み入れた瞬間。二人を出迎えたのは、待ちくたびれたと、僅かばかり苛立たしげな声をしている新城だった。
「アレ、すみれさん?っと………江太郎?」
 新城の横で、和やかに茶を啜っているのはすみれ一人だ。
その彼女の繊細な手には、生八つ橋しが在った。
 沈黙に閉ざされている応接室の中。和やかに茶を啜り、茶菓子を食べているのはすみれ一人で、誰もが彼女の態に、少しばかりの困惑を隠せずにいた。その面々の中、憮然としているのは新城で、彼は恋人のすみれの、全く他人事の様に事態を見守る客観性に、半ば慣れと諦めで憮然としている。
 何の事はない。新城とて、青島同様、恋人と逢うのは久し振りだったのだ。それを月山からの携帯に呼び出されて見れば、事件は面倒以外の何者でもない位の厄介事だった。それなのに、自分の恋人はちゃっかりと、部外者の手土産を食し、和んでいるのだから、その神経も精神値も計り知れないと、新城は深い溜め息を吐き出していた。
 以前は組織人として、行政職にしか興味を示さなかった新城の恋人が、所轄の人間だと知り、周囲同様、人も変わるもんだと思っていたけれど、すみれを視ていれば、何故新城が彼女を選んだのか、何となく納得してしまう月山だった。
 けれど他の面々は、近頃集中的にマスコミに騒がれている警察不祥事を、一つ更新してしまう今回の事件を前に、すみれが動じていない様子に、困惑を隠せないでいた。いたから、マジマジとすみれを視ている。
 姿形は似ていても、その精神値は天野以上だと、誰もが思ったに違いない。
天野もすみれ程に開き直りが出来ていれば、監察医として死者への思い入れも、冷静に聞けるだろう。けれどすみれ程に開き直られては、きっと天野の思い入れは倍増するしかないのだろうと、田所は内心天野の強さを羨ましく思っていた。
「何でお前が此処に居るんだ?江太郎」
 ザッと室内を見渡せば、関係者しか存在しない筈の応接室の中。青島にはひどく見知った人間が在た。
 新城の眼前のソファーに腰掛けている田所の隣で、鷹揚に佇んでいるのは、青島の従兄弟、都内の大学病院の分院に当たる天真桜病院で、心臓外科医として学会でも評判の高い、外科主任である司馬江太郎だった。
 心臓外科医として頭角を現して以来。ただ事ではない器用な手先でメスを操り、慎重であり乍ら大胆なOpeを展開するその腕と、医師としての緻密な優秀さに、司馬の名は心臓分野の医師として、マスコミにも取り上げられる様になった。けれど、本人は徹底したマスコミ嫌いだから、テレビなどに登場する事は一度としてなかった。
 青島と司馬は、従兄弟同志だけあって、造作が酷似していた。従兄弟同士でも、これ程造作が似るのも珍しいだろうと言う位、造作が似ていた。それは田所と室井も例外ではなかった。
 端整で精悍な輪郭は、青島も司馬もさしたる違いはない。
けれど、何処か突き放す冷ややかさを身に纏っている司馬と、人好きのする笑顔で、不思議と他人の警戒心を解いてしまう青島とでは、外見の印象は正反対だった。
 司馬には、淡々と佇む磨き抜かれた鋭利さが、外見の印象に出ていた。それは医師として、或る意味マイナスに違いない。
 医師に共感能力を求めるのが患者だ。けれど司馬は常に淡々とした冷静さを崩さない。それが時には患者に冷淡に映る事も少なくはないだろう。けれど、青島も田所も知っている。
 分野は違えど同じ医師と言う立場の田所には、司馬の純粋さが、時には哀れでさえあった。 
 司馬は、医療者として、誰もが通過する通過点で、立ち尽くしてしまった。人間の生死に関わり、幾人も患者の臨終に立ち会いながら、司馬は死に慣れなかった医師の一人だ。
 嫌でも人の死に慣れてしまうのが医師や看護婦、医療者達だ。医療者は、時には冷淡な意志をも必要とされる。
 一つ一つの事件に関わってはいられないと言っていた室井の台詞同様、医療者は患者一人一人に深くは関わってはいられないのだ。譬え受け持ち患者が死んでも、患者は一人ではないから泣いている暇などない。救えなかった生命の重さを、嘆いている事は許されない。救えなかった生命の重さを、次の患者に生かしていく。それが臨床医療だ。
 けれど司馬は、受け持ち患者の死に、何でもない風を装い乍ら、救えなかった生命に苦悩している医師だった。だからその苦悩を冷淡な仮面に隠し、佇む事しか出来ず、患者に接していた医師だった。
 そんな司馬だから、医師としては純粋なのだと、田所は知っていた。淡々とした理性的冷静さを装い、司馬は医師としては純粋だった。だから人の死に慣れない。慣れない司馬を、そのくせ淡々とした冷冽さで患者に接するしか出来ない司馬という恋人を、田所は哀憐を感じずにはいられなかった。
 けれど今の司馬は、数年前。彼の上司に当たる中川から紹介された当初より、数段医師として成長していた。
 石川と言う、曾てのライバルを失った喪失感からも立ち直った時。その眼差しは深い意志を浮かべていた。
 失ったライバルは、曾ての司馬の恋人だったのだろうと、田所は知っている。けれど、立ち入った事を、田所は何一つ訊かない。石川の死が、司馬を成長させる切っ掛けになった事だけは判るから、僅かな嫉妬を胸に抱いても、田所はその司馬の成長を見守り続けている。それは何処か、青島と室井の関係にも似ていた。
 けれど、田所は理解していないのだ。現在の司馬を支えているのが、自分の存在なのだと言う事を。
「何って。二泊三日の京都での心臓学会終わった足で、最終新幹線に乗って帰ってきたら、何時まで待っても、土産のソレ取りにこないから、緊急の解剖でも入ったかと思って、届にきた。ほっとくと、食事忘れるからな、このおっさんは。ソレ位なら食えるだろうと思って持ってきてやったら、何か面白い事してるみたいだったからな」  
 青島の問いに、司馬は端的に答えると、現在すみれが一人で抱え込んで食している生八つ橋を顎でしゃくった。
「苺八つ橋……」
 田所の悪食は相変わらずだと、青島は室井を視た。青島が室井を視た時、室井の視線は応接室の一番奥に注がれ、凝視していた。その視線を追いかけると
「一倉さんそっくりっスね」
 応接室の一番奥に腰掛けている人物に、青島は呟いた。
「何か……他人の空似大会って感じっスけど……」
 ポリポリと、青島は頭を掻く。
 真逆ビックリテレビじゃないよなと、不謹慎な事まで呟いて、室井に睥睨されてしまった青島だ。
「私の恩師の藤村教授。私を監察医に育てた医師よ」
 青島の呟きに、杉が簡潔な説明を施した。
「杉先生を監察医に育てたって割に、年齢、田所先生位じゃありませんか?」
 尤もな青島の台詞に、
「私が胸部外科から、法医学に専門移したからよ。その時に、藤村は法医学の助教授だった」
 杉はその理知深さを証明する様に、淡如な言葉を返した。
よくドラマなどで、外科は外科と一つで括られ、何でも手術をする様に描かれる事が多いが、医療は専門性が細分化されている。外科と言うだけで、全ての分野をOpeをする訳ではない。司馬の専門が心臓に限られるのに対し、杉が所属していたのは呼吸器外科だ。心臓も呼吸器も、外科と言う枠で一括りにするなら、胸部外科と言う事になるだろう。
尤も、細分化されすぎている医療だから、その名称も病院によって、呼び名が違ったりする事も数多い。胸部外科とする場合もあれば、循環器外科とされる場合もある。呼吸器外科、心臓外科と分かれる場合もある。
「それで、その藤村先生が、今回の事件に何か関係してる。そういう事っスか?」
 気を利かせた天野が、青島と室井に簡易のスチール椅子を開いて勧めると、青島と室井は室内に深く足を踏み入れ、腰掛けた。その瞬間には、男性には手際のよい性格を発揮する黒川が、二人に珈琲の入った白い陶器をカップを差し出した。その様を、月山は呆れた表情をして見ている。
 すみれは、司馬の持ってきた苺八つ橋をの二つ目に手を伸ばし、
「案外いけるわよ、コレ」
 シレッと言う事に、逡巡がなかった。そのすみれの台詞に、新城は深く眉間に皺を寄せ、月山はそんな新城に、すみれは案外、新城には勿体ない女性ではないかと思い、司馬は苦笑している。室井も青島も、らしい彼女の台詞に、微苦笑しか出なかった。
「勘は健在なようね、青島君」
 自らもカップを持ち中身を一口啜ると、黒川が笑う。
「勘じゃないっスよ。新城さんが俺と室井さんを呼び付けた。俺ならともかく、室井さん呼び付けるって事は、新城さんじゃ手に余る事件が起きた。そう考えるのが当然です。それにココには、俺の知らない医師が在る。って事は、その医師に関係がある。室井さん呼び付けた時点で、一課の手には余る事件が起きた。そういう事だと、俺は判断しましたよ」
 黒川の台詞に、青島は端的に答えた。けれど新城は、青島の淡如で端的な台詞に、嫌そうに攅眉する。
「っで、何が起きた?」
 室井は、新城に話しを促した。
「悪いな慎次。今回は俺の失態だ」
 其処で始めて、田所は室井に口を開いた。
 久し振りに会う従兄弟に押し黙ったままだった田所の姿に、新城が監察医務院に呼び付けた事自体が特異な筈で、従兄弟の田所が部長職を勤めている監察医務院絡みで何かが起きた。そういう事なのだろう。だろうと、室井は瞬時に理解した。
 室井にとって、田所は飄々とした印象の強い従兄弟だった。実家の救急病院を継ぐ予定で、救命医認定を執っていた筈の田所は、けれどその途を法医学に移してしまい、今では優秀な監察医だ。
 常に死者の尊厳を守り、真実の声を訊こうと、真摯に職務に当たっている医師だった。その田所が失態と言うのは、どういう事なのか?室井は攅眉する。攅眉し、自分と良く似た造作の従兄弟を凝視する。
「否、私の監察医としての意志が弱かった。それだけです」
 其処で始めて、藤村が口を開いた。造作が似ていると、その声音まで似る物なのかと、青島は不意に室井の同期の一倉を思い出した。
「田所部長には、何の非もありません」
「とにかく、何があったか、説明して下さい」
 室井の視線は、新城ではなく、田所を凝視している。
揺るぎない眼だと、田所は思った。それは藤村も同じだ。犯罪に対峙する刑事の眼だと、田所は不意に可笑しくなった。
 キャリアで、現在は大阪府警の刑事部長職にある従兄弟の室井は、その恋人の青島と同じ、刑事の眼をしていると、不意に可笑しくなったのだ。
 キャリアの従兄弟が、刑事の眼をしている事が、それが彼の年下の恋人と同じ眼差しをしている事が、田所の微苦笑を誘う。
「俺がな、解剖所見のチェックを怠った。それが今回の事件発覚を遅らせた。下手すれば、この事件は闇から闇に葬りさられる所だった」
「所見チェックを怠った?」
 田所の、常に死者と向き合う真摯さを知っている室井は、その口から齎らされた台詞に瞠然となる。
「田所は、藤村を信用して、所見チェックしなかったのよ」
 月山の台詞に、
「どういっても、それがミスなのは、変わりがないわよ」
「杉先生」
 冷静な杉の声に、慌てたのは天野だった。
「尤も、天野だけを執刀補佐させた私達にも、責任はあるわ」
 天野の慌てぶりを視界の端に捉え、杉は付け加えた。
「杉先生〜〜〜」
 慌てさせないでほしいと、天野は尊敬する杉の綺麗な横顔を視て、情けない声を上げる。上げ、
「執刀補佐していた私が、気付いていれば、こんな事にはならなかったんです」
「何言ってるのよ天野。頭なんてね、一番難しい分野なのよ。新人のあんたに簡単に判る位なら、私は苦労しないわよ」
 とは、黒川流の慰めなのだろう。
天野は、誰もが認める杉裕里子の秘蔵っ子だ。自覚がないのは当人にだけで、監察医務院の女性陣には、妹の様に可愛がられ、可愛がられているばかりではない成長を見せている天野に、誰もが靭やかな強さを見出だしているのだ。その若く靭やかな強さで、何時までも死者の声に、真実の声に、向き合ってほしい。純粋な強さを失ってほしくないと、誰もが願っていた。
 手遅れの医療と言われる法医学は、けれど死を悟れなければ、生と言う意味は悟れないのだと、此処に在る面々は理解していた。
 死は生の連続であり、自己の死を問う事は、自己の生を見出だす事に繋がる。自己死を乗り越えなければ、到底自己生には辿り着けないのだ。
 誰もが眼を背ける死に近いのは臨床医療だが、生に近いのは或る意味監察医なのだ。
 死者を見詰める事を職務とする彼らだから、その生前の声を聴こうと、死ぬ直前の声を聴こうと向き合う監察医だからこそ、生を見詰める事に繋がるのだ。
 哲学は死の練習であると言ったのは、ギリシャの偉人の言葉であるが、死への問いは、自己の生命の永遠の根拠に向かっての問いでもある。自己死を見詰める事が出来なければ、生に辿り着けない。それを彼らは痛感している。いるからこそ、常に死者の尊厳を守り、真実の声を訊こうと足掻いているのだ。
だから手遅れの医療と言われる法医学は、或る意味で、生への意味を問う分野である。
 臨床医が、生を通し、その連続性として死を見詰めるとすれば、監察医は、死から生を問うのだ。だからこそ、田所は今回の失態に腹が煮えていたのだ。危うく死者の真実を見失う所だった。尊厳を失う所だった。その失態が、藤村ばかりか自分に有る事を、田所は理解していた。
「何が有ったか、詳しく話して下さい」
「今度は、私から説明させて下さい」
 田所が口を開くより一瞬早く、藤村が口を開く。藤村の声がこれ以上ない程苦悩を孕んでいる事が判るから、田所は口を閉ざし、室井と青島は、よく知る人間に似た人物を視た。
「監察医として、私の意志の弱さが、招いた結果です」
 そして藤村は話し出した。