死と再生 SCENE4











 五月の深夜は、もう冬の様な肌を刺す冷たさもなければ、春の生温い気配もない。
少し初夏の香りを吹くんだ風が、寧ろ心地好かった。
「何か、グッときましたね」
 医務院から大通りまでの短い距離を闊歩し乍ら、青島は不意に呟いた。
「何がだ?」
 青島の不意の呟きに、室井は怪訝気に隣を歩く端整な横顔を間視する。
「『君に間違ってるって言ってほしかった』何か、愛してるって単純な言葉じゃないだけ、凄い告白だったなって」
 我慢しきれなくなったのか、内ポケットから煙草を取り出すと、青島は綺麗な所作で火を灯し、紫煙を燻らせた。
 女性が多い医務院で、青島は煙草を吸う事をしなかった。
青島は、煙草を吸う時。女性が在るなら、必ず断ってから吸う。それが青島をフェミニストと、周囲から言われる原因の一つだ。無駄に優しいばかりに、被害者女性を勘違いさせる青島の優しさに、室井は今も身を灼く嫉妬を堪えている。その事を、青島も知っている。
 だから室井は、即座に青島の煙草を取り上げると、自ら咥え紫煙を燻らせる事に、躊躇いを見せない。
「だったら、今度からお前には、愛してるって言葉は、言わない様にする」
 大きく紫煙を燻らせ乍ら、室井は薄く瀟洒な笑みを、酷薄な口唇に飾り立てる。
「嫌ですよ。恋人同士はね、『愛してる』でいいんです。アノ二人は、恋人同志じゃなかったじゃないっスか。だからアノ告白はグッときた。それだけですよ。恋人同士は、常に愛してるって言って、確認しなきゃダメです。だからね、室井さん。俺には幾らでも、愛してるって言って構いませんよ」
 慣れた仕草で紫煙を燻らせる、年上の恋人の口許から煙草を取り上げると、
「あんたはダメッて言ってるのに。吸い始めたら、本数増えるばっかですよ。言ってるでしょ?」
「ヘビースモーカーのお前に、言われたくないな」
 クスクス笑うその面差しは、ストイックな官僚のスーツに身を包み乍ら、青島だけが知る、年上の恋人の表情だった。
「そうやって挑発して、俺のガラス並の理性、試さないで下さいよ」
「お前の理性がガラスより強度が脆い事なんて知ってるから、安心しろ」
 深夜で全く人通りのない簡素な住宅街の中、二人は街灯から離れた位置で立ち止まると、向き合っていた。
 天に切り取った様に浮かぶ半月だけが、互いの姿を映し出す照明だった。
室井は徐に瀟洒な指先を伸ばすと、年下の恋人が咥えている煙草を取り上げる。青島のスーツのポケットに入っている携帯灰皿に吸い殻を捨てるとソレを戻し、ゆっくりと細い腕を恋人の首に絡み付けた。
「褒美がほしいんだろ?」
「キス一つなんて、ナシですよ」
 子供じゃないんだからと、青島は深く笑むと、
「子供はこんな事しないな」
 室井は物柔らかい笑みを見せた。
「愛してます」
 長く節の有る指先が、秀麗で小作りな輪郭を撫で、包み込む。そして告げる言葉は綺麗で、これ以上綺麗な言葉はないのかもしれないと、室井の身の裡を切なさで疼かせた。 
「でも俺、室井さんから言われた台詞で、グッときたのって、アレだな」
 吐息が触れ合う間近で見詰め合うと、
「去年の、ホラ、すみれさんの婚約者が関わった事件。室井さん、俺に言ったでしょ?『諦めないでくれ』アレには少しグッときたな」
「安心しろ、これからも、言い続けてやるから」
 薄く笑うと、案外長い睫毛に縁取られた眼差しが、半眼閉じられた。それはキスをねだる仕草でしかない。
「諦めませんよ。あんたを愛してるから」
「私も、愛してる。お前だけだ」
 だから諦めないでくれと、室井は真摯な思いを心根の奥で告げていた。その思いを敏感に感じ取ったのか、
「諦めませんよ、絶対に。俺はあんたと生きて行く事を決めた。何回も、言ってるでしょ?」
 宥める様に告げると、細い姿態を抱き竦めた。
 オン・オフのスイッチりの切り換えの早い室井は、だから官僚という立場を現すスーツを身に付け乍ら、今は青島の恋人のものでしかない笑みを浮かべている。そんな室井だから、普段なら絶対有り得ない、道端でのキスに、身を任せている。
「んっ……」
 甘い吐息が一片零れ落ちた。刹那。ほっそりとした腕が、首筋から這う様に、幅広の背にしがみついた。











「江太郎、俺とお前の年齢差考えてしてくれって、何度も言ってるだろぉ?」
 ダブルベッドの真ん中で、俯せにつっぷしている田所は、方頬をシーツに押し付け、恨みがましい目付きで、隣で優游と紫煙を吐き出している司馬を見上げていた。 
 司馬と青島の寝室の好みは、きっと似ているのだろう。どちらもダークで統一され、二人とも濃紺のシーツを愛用している。それは常に清潔に洗われ、特に恋人が泊まりに来る夜は、必ず新しいモノになっている。そんな気遣いを、田所も室井も知っていた。いたから、愛され、大切にされている事を、自覚している。
「黒川の言う様に、お前送り狼だ」
「気付かれてて、言う事か。おっさん」
 黒川の、帰り際に見せた意味深な笑みは、明らかに自分達の関係を知っている笑みだった。尤も、バレて困るとは、司馬は欠片も思ってはいないのだけれど。
「ウチの女性陣は、案外鋭いからな」
「天野は、鈍いけどな」
「機微には鈍いけどな。監察医としては、成長してるぞ」
「それで、今回あんたは、珍しく失態を犯した。何やってたんだ?」
 監察医務院で聞いた話しを整理して、司馬は未だ恨めしげに眇めて来る田所に尋ねると、その眼差しは、刹那に反転した。
「同時期に、4歳の女の子の解剖が持ち込まれたんだけどな、母親がどうしても解剖してたくないって言ってて、意識がそっちに行っちまってた」
「遺族の意向を無視しての解剖は出来ない。あんたらしいな。それで、解剖所見報告見落としてたら、ザマないな」
 辛辣で遠慮ない司馬の言葉に、けれどその眼は、包み込む様な色を映し、田所を視ていた。
「監察医、失格だ」
 突っ伏していたベッドから、ゆっくりと上半身を起こすと、幅広い司馬の胸に、背を凭れる。
「珍しいな。あんたが素直に甘えてくれるのは」
 タチの悪さで司馬を挑発するのが田所の何時ものパターンだ。従兄弟揃って年下の恋人を挑発するタチの悪さを発揮している室井と田所だから、田所が素直に司馬に甘えるのは、極めて珍しかった。それだけ、今回の事件のダメージを受けている。そう言う事なのだろうと、司馬は乱れた前髪を梳き上げてやる。
「確かにな。死者の真実の声を聞くあんたが、一番近くに在た女房の声に気付かなかった事は、忘れられる筈ないな」
「お前は、どうだった?」
 深々と、幅広い胸板に背を預けていると、何とも心地好い感触に包まれる。ウツウツ目蕩む気配に、身を埋没させたくなる。目蕩む感触に埋没し乍ら、田所は珍しい程慎重に、躊躇いがちに、窺う様に、口を開いた。
「俺?石川の時か?」
 石川玄。曾て天真桜で司馬と医師としての価値観の違いから、衝突を繰り返していた医師は、けれど司馬の秘密の恋人でもあった。
 スキルスを発症し、気付いた時にはEND STAGEだった石川を、手術したのは司馬だった。だから石川は、ライバルで在り、秘密の恋人であり、患者であった。けれど石川は、術後肺塞栓を併発し、死亡していた。それを後悔していないのか?田所は初めて石川の事を口にしていた。
「後悔したことはないな。あいつは俺に、手術してくれって言った。どんな結果が出ても、あいつは後悔しないって眼をしてた」
「心臓専門のお前に、スキルスのOPE、任せたのか?」
 本来なら、有り得ない事だ。
「アア、中川部長の意向もあった。消化器の連中も、同じ消化器の石川のOPEはしづらかったんだろうな。珍しく反対は出なかった。だから俺がした。他の奴に、させる気はなかったしな」
「良く、冷静に対処できたな」
 愛する者のOPEをする事が、どれだけ苦痛を伴い逃げ出してしまいたいか。同じ医師の田所には、理解出来た。けれど、司馬は田所の台詞に、紫煙を燻らせると、苦笑する。
苦笑し、
「普通の奴なら、素人なら、どれだけ望んでも、愛する人間のOPEなんて出来ないだろう?出来ない事が、倖せかもしれないが、俺はそうは思わない。愛する人間の最期まで看取れる立場に、俺はアノ時Drになって良かった、心底そう思った。石川のOPEは、マーゲン(胃)全摘で成功した。だけど、術後の肺塞栓は防げなかった。心マ(心臓マッサージ)して、挿管して、それでもあいつを救えなかった。生きていてくれたら、例えベジー(植物人間)でも、脳死でも、其処に存在してくれたらいい。俺は必死だった。あんなに必死に生命と向き合ったのは、あいつが初めてだろうな。それでも救えなかった。その事を、俺は後悔してない。あいつの最期を看取れた事に、俺はDrって言う立場を理解した。それはきっと、石川が俺に遺こした、最期の言葉だったんだろうな」
 荒削りで精悍な面差しに浮かぶ深い苦笑は、冷淡と言う日常の印象から程遠い。
司馬が今過去の恋人を思い出している事に、些か面白くない田所だった。
 二人が付き合いだしてから、2年は経過している。けれど何時からこう言う関係になったのか?実際の所は深く覚えていないのだ。けれどその2年の間、互いの過去を話す事はなかった二人だ。
 互いに、大切な人間を失っていると言う事は、知っていた。いたけれど、深く詮索はしなかった。過去を気に掛ければ、まして互いに忘れがたい相手を失っていると言う事実を深く詮索すれば、互いに辛くなる事を知っていたから、二人は過去を話す事を何処かで避けてきていた。けれどその関係が、今少し変わりつつ在る事を、二人は予感していた。
 互いの過去を見詰め、大切な者を失ったという痛みを昇華し、医師と言う、人間の生死に関わる職務を真っ当し乍ら、二人で新たな生を見詰めていきたいと、二人は今切望していたのかもしれない。
「あんたは、違うのか?」
 キュッと、吸い終わった煙草を、クリスタルの灰皿に押し付け火を消すと、背後からやんわりと、細い姿態を抱き締める。
「俺はなぁ」
 死者の真実の声に耳を傾けていた。けれど、物言う生者の言葉は何一つ気付かなかった。まして愛する人間の声を、聞く事が出来なかった。その事実が、今も田所を苛んでいる。
 だから司馬の強さに、田所は惹かれたのかもしれない。
「女房の声は、確かにあんたは聞けなかった。だけど、普通の奴なら其処で終わりだ。
何で、どうしてって後悔し乍ら、それでも其処で終わりだ。だけどあんたは違った筈だ」
「アア、そうだな」
 司馬の言外の意味を理解し、田所はそうだったなと、胸に回る長い腕に、己の指を重ねて頷いた。
「俺は、妻の最期の声を、聞く事の出来る立場に居たんだよな。でもなぁ江太郎。真実って奴は難しくてなぁ。俺は未だ妻の声が、聞けないでいるんだ。それでも俺はお前とこうしてる。俺は、不誠実なんだろうな」
「ボケてるなよおっさん。それこそ生者の傲慢ってもんだ」
「ボケてるかぁ?」
「遺こされた者は、生き続ける義務があるんだ。生きて行く為には、昇華してかなくちゃならないものは、山とある。あんたはその痛みを忘れずに、監察医として死者の声を聞く事に生かす術を知ってるだろう?だったら、それでいいんじゃないのか?所詮死んだ者の全ては判らないさ。まして自殺はな。全て判ると思うのは、それこそ生者の傲慢ってもんさ。真実は難しいから、探し続けなきゃ辿り着けない。あんたはその事を、理解してると思ってたんだけどな」
 有能な監察医が、今回の失態を犯した一旦が、今でも女房の自殺を引摺っている事だった。
 日常飄々としている印象の強い田所が、けれど女房の解剖を施行出来る強さを持ち乍ら、心に傷を負い、人の温もりを欲する人間だと、知っている。
「今回、あんたは解剖拒否した母親の声を優先した。だけどな、死因を特定する事を最優先する監察医として、あんたの判断はどうだったかと俺は思う。女房の遺体を解剖したあんただから、遺族の気持ちが判るって言うのは理解出来る。だけどな、あんたは監察医だ。母親の虐待による虐待死の可能性もあった遺体だ。だとしたら、あんたは死者の声を聴くって言う、死者の声を最優先する監察医として、死因を特定する責任があった筈だ。万が一、虐待死だった場合、母親が事件の露見を恐れて、解剖拒否していた可能性だって、あんたは考えなきゃならなかった筈だ。だけどあんたは遺族としての、生者の声を優先した。それは、あんたらしくないと俺は思う。女房の事を忘れろとは言わない。だけど仕事にそれを引摺るのは、関心しないな。それで他の事件の解剖所見のチェック怠って、もう一つの事件が葬りさられる所だった。まぁ、今田耕市って言ったか?アノ事件は、警察が事件隠蔽さえしなきゃ、何も問題がなかった事件だけどな。警察が正しく機能してれば、防げた事件だ。だけど解剖した遺体に対して責任を持つのは、監察医にある筈だ。確かに今回、所見報告書のチェックを怠ったのは、 あんたの失態だな」
 珍しく饒舌な司馬の台詞だった。辛辣でさえある司馬の台詞が、けれど田所には心地好かった。
 司馬がこんなに饒舌なのは、恐らく自分の前だけだと、田所は確かに傲慢だろうなと、薄く笑う。笑い、緩やかに抱き締めてくる腕の中で、姿態を反転させると、
「いい子だな、江太郎は。おじさんは嬉しいよ」
 本当に、石川という恋人の死を乗り越え、司馬は一段も二段も医師として成長したのだろう。だからこれからの医師としての司馬の成長は、自分が支えたいと思うのは、きっと生者の傲慢なのだろうと、田所は痛感していた。
「言ってほしそうだったからな。あんたダレかに、言ってほしかったんだろう?」
 見詰めてくる面差しは、自分より5歳も年上と思えぬ程、幼いと貌をしていると、司馬は思った。乱れた前髪が白い額に翳りを作り、なお幼さを強調し、田所を年齢不詳に見せている。
「そうだな……俺は、そう言ってほしかったんだ」
 苦笑とも笑みともとれる深い眼差しを作る田所は、その刹那、幼い印象がガラリと変化する。
 司馬の容赦ない言葉は、けれどこれ以上ない程の労りが被せられている事に、気付かぬ田所ではない。
「江太郎」
 不意に田所の面は、薄い笑みを刻み付け、細い腕が幅広い肩に回る。スゥッと顔を突き出し、意味深な笑みを飾り立てると、密やかな声が紡がれる。
「お前が行き倒れたら、俺が責任持って、解剖してやる」
 物騒な台詞を紡ぎ乍ら、田所の笑みはタチの悪い艶冶な気配にすり変わっている。
 吐息が触れ合う位置で紡ぎ出された台詞に、司馬は苦笑する。苦笑し、
「だったら、あんたが脳死したら、俺が責任持って移植してやる。ドナーカード作っといてくれよ、おっさん」
「移植?お前…」
 司馬の台詞に、田所は不意に真面目な貌をし、様々に変化する年上の恋人の表情に、司馬は完成された大人の笑みを湛え、
「アア、部長からな、移植医にならないかと、話しがきてる。移植医になるなら、最低2年は渡米する様だな。心臓専門の俺だから、心臓移植医に向いてるってな。年齢から考えても、専門移すなら、今を逃したら無理、だからな」
「受けるのか?」
「断る理由がないしな。日本に移植が根付かない要因は、国民性と医療不信だ。欧米で移植技術を身に付けて、移植医になるのも悪かぁないって思った」
 淡々と言う司馬の内心が、悪くないというそれだけの理由の筈がない。
 救えなかった恋人の生命。その痛みを、司馬は未だ持ち続けている。だからこそ、救える生命は、一人でも多く救いたい。その為に、移植の必要を、司馬は考えたのだろう。
 臓器移植法制定後。6例目の移植が日本でも行われた。けれどその件数は、諸外国には於て、比較にならぬ程に低い。それは生命倫理に於ける国民性が、諸外国とは違う点が誘因している。
 脳死を個体死と捉える欧米諸国と比べ、日本は心臓死が個体死として成立していたから、今すぐに脳死を個体死とする事には、時間がかかる。
 死の判定基準に対する医療不信も、あるのだろう。生命倫理と言う点で、日本はその国民性が作用して、個人の価値として、個人が深く考える事がなかった国柄だ。それは多宗教に於ける宗教観も作用している。移植は、これからの医療だ。その医療に、司馬は立ち向かおうとしているのだ。
「何時だ?」
「今年中にはな、渡米する予定だ」
「そっか……」
 そっかと、田所は呟き、コトンと、広い肩口に額を押しつけた。その子供の様な仕草に、司馬は鷹揚に笑むと、サラリとした癖のない髪を梳き、
「待っててくれるか、おっさん。一緒に来てくれとは、流石に言えないしな」
「プロポーズみたいだな、江太郎」
 埋めた肩口から顔を上げると、田所は子供の様な幼い貌に、クスリとした笑みを飾り立て、
「早く帰ってこないとな、おじさん歳だからな」
「あんたなら大丈夫だろう?ただ心配なのは、初物食いのあんたが、俺の居ない間、浮気しないで待ってられるか。それ位だな」
「お前、年上に言う台詞か?何が初物食いだ」
「あんたの母校のT大医科研の病理医で、俺に似たのが在たって言ってたな。真逆あんた、手ぇだしてないだろうな」
「アア、アノ病理医な、お前の若い頃に似てて、可愛いぞ。俺の後輩だし、素直だし。病理なんて、法医学同様、日の目のみない医療分野だしな。其処に新卒で来る奴は、珍しいからな」
「フン、臨床ダメだったんじゃないのか?在るからな。研修中に患者死んじまって、臨床嫌んなる奴」
「お前ねぇ。それ言ったら、おじさんもそうか?」
「あんた救命医認定持ってただろう?確かに急性期医療は、継続医療の臨床現場とはまた違うけどな。それでも臨床には変わりない。だけど病理は、違うだろう?」
 病理は、警察で言えば鑑識に近い。検査で採取した体内組織から、様々な疾患を割り出すのが病理だ。けれど、病理は日の目の当たらぬ縁の下の力持ち的分野だから、法医学同様、なり手が少ない。その病理医に、田所の出身校であるT大医科研の組織病理研究部門に、新卒の病理医がきた。それがまた司馬の若い頃に似ているらしいと、田所が先日喜々として話していた事を、司馬は忘れてはいなかった。
「そう言う素直な所が、おじさん大好きだなぁ、江太郎。待っててやるから、早く帰って来い」
 よしよしと、田所は司馬の頭を撫でてやると、
「そう言う挑発してると」
 司馬は、田所のほっそりとした姿態をあっさりと組み敷くと、田所は薄い笑みを刻み付け、下からスゥッと腕を差し伸ばす。
「待っててやるから」
 嫌に真剣な眼をしていると、司馬は思った。その背後に、淋しさが垣間見える気がして、司馬は半瞬絶句し、次には静邃に笑い、
「俺の帰る場所は、あんたのココだな」
 下から両腕を広げて抱き締めてくる細身の姿態に、司馬は切実に思った。帰る場所が在ると言う事を。
 帰る場所が在ると言う事は、至極倖せな事なのだと。
「あんまり待たせると、おじさん。浮気しちゃうかもしれないなぁ。だから早く帰ってこい」
 母校の病理医に関心を寄せたのは、それが出会った頃の、司馬の若い頃に似ていたからだ。一度中川に紹介された司馬と、二度目に出会った司馬は、余りの印象の違いに、最初は判らなかった。何かあったと言う事だけは推測出来ても、何が有ったかは判らなかった。最初紹介され、次に出会うまでの数年を、田所は知らない。だから余計、司馬の若い頃に似ていたその病理医に、関心が寄った。それだけの事だった。
 結局、惚気でしかないのだ。
「了解」
 密やかな声で囁くと、司馬は田所に深く接吻た。










「朽木野さおりの車体が、廃棄処分に掛けられてて、助かったわ。図太い神経でそのまま乗られてたら、どう考えても押収しなきゃ調べられなかったもの」
 医務院応接室での、月山紀子の台詞だ。
「こっちも鑑識の証言です。鑑識主任の話しだと、やっぱ現場は交通事故の可能性があったそうです。遺体発見場所の河川敷の公道で、急ブレーキの後が発見されてますし、被害者撥ねた時の衝撃で、ガードレールにもぶつけたらしくて、レールこすった後と、ライトの細かい残骸が残ってました。それを鑑識が押収してますから、遺留品として鑑識に朽木野さおりの車体と検証してもらいました。勿論内密にね。鑑識主任の話しだと、朽木野に交通事故の可能性を話したらしいですけど、解剖で病死と判定されたと一喝されて、不信に思ったらしいんですけどね。それ以上追求はできなかったって言ってました」
 こんな苦い思いを、現場捜査員は飲み込んでいかなくてはならないのだと、室井は不意に苦々しい思いが湧いた。
 聡明な面に浮かぶ苦い表情に、だから室井は官僚であると同時に、警察官なのだと、青島は年上の恋人に、愛しさが湧いた。
「廃棄処分に出された車体ですから、業者も素直に車体押収に応じました。それを鑑識の遺留品と検証。被害者の腰に残るバンパー創と、ズボンに付着したオイル、共に一致です。鑑識が遺留品として残しておいた車体の残骸とも一致してます。車体にも、しっかり傷が残ってます。全て一致です」
 青島の説明は、余計なものを一切省いた端的なものだった。
「それは、朽木野の犯罪を立証できた。そう言う事だな?」
 田所の、台詞だった。
 医務院には、昨夜の面々が集まっていた。
「真下首席監察官には、今日話しを通しておいた。竹森が、過去の件も含め、朽木野の監察に付いた」
 竹森は、室井の首席監察官時代の部下である。監察官室最古参の竹森を、室井は信頼していた。
室井の後任の首席監察官は、官僚主義の人間だと嘆いていたが、今は真下の父親が首席監察官に就いているから、彼等の矜持が失われる事はないだろう。だろうと、室井も青島も思っていた。
「逮捕状が降りたぞ」
 突然、予想しなかった来訪者に、新城も月山も慌てたが、青島と室井は平然としていた。ということは、どちらかが島津に連絡をいれた。そう言う事だと、新城は瞬時に判断した。
「青島から連絡を貰った」
 島津の太い声に、新城は一瞬だけ青島を睥睨した。その新城の視線に、
「だって、最終的には一課長に内密って訳にはいかないじゃないっスか。物証固まったし、さっさと逮捕状請求した方が、いいと思ったんスよ」
 何かあれば、一課長がドロをかぶる必要がある。その事を理解しているから、青島は島津にさっさと連絡を入れておいたのだ。最終判断を、一課長に報告しない訳にはいかない。けれど、それは、青島の建て前である。
 本当は、自分達が勝手に動いて連絡いれなかった場合、タヌキ親父が拗ねるんだよなと、青島は不謹慎な事を内心で思っていた。いた事を知るのは、室井だけだ。そしてそれは確かに、事実だったのだ。
「朽木野愃一の、犯人隠匿、証拠湮滅、贈賄、公務員法違反。朽木野さおりの保護者遺棄致死、藤村正美の公文書偽造、収賄、それぞれ逮捕状を請求した」
 ブリーフケースから逮捕状を取り出した島津は、数枚の逮捕状を室井に差し出した。
「一課長、本部長は私ではなく、新城ですよ」
 苦笑して、室井は逮捕状を新城に渡すと、島津は意外そうな表情をした。
 現在は、大阪府警所属の自分を、島津が此処に在る事を疑問にも感じなければ、指揮を執っているとも疑わないのだから、自分が警視庁に在籍していた間。どれだけ組織に対しての造反行為を行ってきたのか?室井は苦笑するしかなかった。
 苦笑し乍らも、室井の貌に刻まれたソレは、不快なものなど何一つ浮かべてはいない。苦笑し乍ら、室井は逮捕状を新城に差し出した。
 新城は、渡された逮捕状に眼を通すと、
「明朝、朽木野親子の逮捕に向かう。藤村正美に関しては、出頭要請を掛ける。それでいいですね?」
 それは島津に確認するのではなく、室井に向てのものだった。
「今回の本部長は君だ」
 自信を持てと、言外に滲ませた室井の声に、新城は背を押された気分になった。
 今まで何度と無く、青島と二人で造反行為をしてきた室井の言葉だから、確かな重みがあったのかもしれない。尤も、それは褒められた事ではないのかもしれないけれど。けれど新城には、確かに背を押された気分がしたのだ。
「青島、月山。明朝朽木野の元に向かうぞ」
「マスコミ対応は、私の仕事になるんでしょうな」
 ヤレヤレと、島津は溜め息を吐いているが、幹部の犯罪を揺るぎなく摘発する部下の姿に、警察の正義を思い出していた。そんな気分にさせる彼等に、自分も以前は持っていた組織への正義を、島津は思い出していた。思い出したソレは僅かな照れを孕んではいるが、決して不快なものではなかった。
「一課長、今日真下首席監察官に話しは通してあります。朽木野には、既に監察が付いてます。マスコミ対応には、真下首席監察官も、同席される筈です」
「そうですか」
 相変わらず用意周到だと、島津は笑う。けれどそれは嫌味なものなのなど欠片も含まれてはいない。
 島津は、此処に室井が在る事に、何の疑問も感じていない自分を、今更乍ら不思議に思った。此処に室井が在ると言う事実を、極当たり前の風景として自分が受け入れている事に、不思議な気さえした。けれど、室井が在たからこそ、事件解決は速戦即決出来たのだろうと、島津は疑わない。
 島津は感じているのだ。2、3年経ったら、室井は確実に警視庁に復帰する。その時には、組織を革新出来る力を身に付け、戻ってくるのだろうと。それは最早島津にとって、予感ではなく、確信だった。
「それでは、明日朽木野の逮捕に向かう。逮捕時間は明朝7時。朽木野の登庁前に行う。青島と月山は、一課に6時集合、以上」
 新城の凛冽とした声に、青島は室井の管理官当時の指揮を思い出す。捜査会議終了時『以上』と毅然とした凛冽さで告げていたのは、室井だった。
「一課長。明日午前中、記者会見を設けて下さい。マスコミに気付かれる前に、報道してしまう事が得策です」
 多発する警察不祥事の中、世間の非難が集中しているのは、その隠蔽体質だ。だから室井は、マスコミに感付かれる前に、こちらから報道姿勢を示す事がマスコミ対策として必要だと、告げていた。それは確かに、組織を守る官僚の思考だ。
 隠蔽体質が全面に報道されているマスコミに、警視庁捜査一課は、幹部の犯罪に対しても、毅然とした態度で逮捕出来ると、マスコミに印象付ける事。決して隠蔽ばかりの体質ではないと告げる事。
 起きてしまった幹部の犯罪を隠すより、マスコミを利用し組織を守る術もある事を、室井は心得ている。それは確かに官僚の思考形態だろう。けれど、きっと普通の官僚なら、事件の摘発などに乗り出す事はないのだ。
 事実を隠蔽し、部外秘に朽木野を懲戒免職にするだけの筈だ。けれど室井は、マスコミを利用する方法を心得乍ら、朽木野の犯罪を摘発する事の出来る、勇気と強さを持った官僚である。
「真下首席監察官には、既に明日の逮捕は伝えてあります」
 青島から物証の報告を受けた時点で、既に室井は明朝の逮捕を予想し、真下首席監察官に報告していたのだ。だから二人の間では、既にマスコミ対応策も練られている。
そう言う事なのだろう。
 その手際のよさは、真似出来ないと、新城は室井を視ていた。その新城の視線の意味に気付いた室井は、
「私は君より場数を踏んだ。それだけの事だ」
 それだけの事と言う室井の言動や行動が、どれだけ組織に影響を与えているのか自覚し乍らの台詞に、新城は呆れるしか無かった。組織に対しての造反行為に対して、場数を踏んだと言う台詞が、既に普通の官僚世界からは掛け離れている。ソレを自覚し乍ら、薄い笑みさえ湛え告げる室井に、新城は畏怖さえ覚え始めていた。
「それでは明朝に」
 室井は席を立った。釣られて青島も立ち上がる。
「それじゃあ新城さん、明日6時」
 緊張感の全くない、青島の笑顔と台詞だった。
半歩先を歩く室井の薄い背を追いかける様に、青島も応接室を後にする。
「素敵ね。あれで恋人持ちじゃなかったらね」
 とは、黒川が室井を評した言葉だった。その台詞に、僅かに驚いたのは月山で、
「恋人、在るの?」
 堅物で生真面目と言う評判の室井の恋人の噂など、聴いた事のない月山だった。対して田所は、黒川の観察力に、舌を巻いていた。これでは自分と司馬の関係も、見抜かれているに違いない。
「気付かない月山の方が、刑事として観察力が鈍いわよ」
 杉の台詞だったから、田所はこの女性二人には、確実に司馬との関係が知れてしまった事を認識した。 
「ベタ惚れでしょうね、あの様子じゃ。お互いに」
「何故判る?」
 新城も、室井の恋人の話しなど、今まで聴いた事は無かったから、眼前の意味深に笑う女性二人の台詞に、怪訝な貌をしている。それは一課長も例外ではないらしい。
「判るわよ」
 コロコロと笑う黒川だった。
「青島に遠距離恋愛の恋人が在るのは一課じゃ有名だけどな」
 生真面目が服を来ている印象の強い室井の恋人の話しは、管理官当時の彼を知っている島津も、聴いた事はなかった。逆に、軽い印象の強い青島が、ベタ惚れに愛している恋人が在るらしいと言う噂は、一課長の耳にも届いていた。
 ナンパで軽い印象の青島が、誠実に恋人を愛している事も有名だから、人は見掛けでは判らないと、島津は笑う。
「取り合えば、管理官。明朝の逮捕を頼みますよ。私は記者会見の準備を朝から進めます」
 既に手筈は整っているも同然だった。
「今回は、ご迷惑お掛けしました」
 最後に、田所が島津に頭を下げる。その生真面目さに、流石室井の従兄弟だと、誰もが思った。
「いえ、こちらこそ。警察不祥事などみっともない事に巻き込んでしまいました」
 以前に比べれば、島津も随分室井と青島の影響を受けていたのだろう。威圧的な態度は微塵もなく、素直に頭を下げる田所に、軽い会釈で応えている。
「それでは明日」
 島津は医務院を後にし、新城達も医務院を退散した。
全ては明日だった。








 初夏の匂いを含む風が心地好く、少しばかり肌寒さを感じる5月の朝。朽木野は突然の来訪者に、驚愕を露にした。
「朽木野愃一、犯人隠蔽、証拠湮滅、贈賄、公務員法違反で、逮捕状が出ています。同じく朽木野さおり、保護者遺棄致死で、逮捕状が出ています。貴方に協力した藤村監察医にも、公文書偽造と収賄容疑で、逮捕状が出されています。本庁まで、ご同行願います」 
 逃げ道はないと、端然な新城の台詞に、逮捕状を示したのは、青島だった。
 凛冽なまでの口調で理路整然と、反駁の余地一つ無く、澱みない口調で話す新城に、朽木野は顔色を失った。
「パパッ!」
 さおりは、呆然と玄関先に立ち尽くしてしまった父親の躯を揺さぶった。
「私は何も……ッ!何も知らない」
 娘の悲鳴に、朽木野は悪足掻きの反駁を叫んでいた。
「藤村医師からの供述がとれています。娘さんが廃棄処分に出された車体も押収し、鑑識課から、現場で採取された車体の残骸と検証してます。悪足掻きはみっともないですよ」
 内心の腹の煮え具合をどうにか宥め乍ら、青島は意識し淡々とした口調で朽木野と対峙していた。
 それは新城が知る、日常的に青島の見せる笑顔からの印象とは、対極にある鋭利さと硬質さを全面に押し出した、凛冽な態だった。
「最後くらい、諦めよくしなさいよ、警察官でしょ!あんたみたいな警察官がいるから、現場捜査員は苦労すんのよッ!」
 青島の意識しての冷静さとは裏腹に、月山の台詞は容赦がない。女性キャリアには珍しい程、月山は現場好きだった。根っから事件が好きなのだろう。
「諦めて下さい。警察庁の首席監察官室が、昨日から貴方の監察に入ってます。一年前、貴方が藤村医師に強要した被疑者遺棄致死に関しても、裏付け調査中です。貴方の犯した犯罪は、立件されます」
 淡々とした抑揚ない青島の声は、凛冽を極めていた。
今度こそ朽木野は顔色ばかりか表情も失い、フラフラと玄関先に崩れ落ちた。
 娘の悲鳴と泣き声に、けれど朽木野はもう駄目だと、呟きを繰り返すだけだった。



 朽木野の逮捕から数時間後。警視庁では9階に常駐されている各新聞、テレビなどの警視庁記者クラブを会見室に集め、異例とも言える記者会見が行われた。
 会見室に常備されている長机に控えていたのが警視庁警務部長であるが、その隣に控えていたのが、警察庁首席監察官だと知った時、マスコミは会見の異例さを理解した。
 不祥事が生じる度に、マスコミに深謝するのが人事を預かる警務部長の仕事でもあるが、今回は自分の部下の失態に、下げる頭もなかっただろう。
 警視庁での異例な記者会見に、マスコミも世間も震撼したが、室井の予想通り、幹部の犯罪にも毅然とした態度で検挙し、それを隠蔽する事なく外部に報道したと、警視庁のソレは一定の評価を受けた。けれど、課長職の人間が、娘可愛さに被害者を病死扱いにし、隠蔽した事実は言語道断だと非難は集中した。 暫くは、警視庁もマスコミ対応に追われ忙しいだろう。
そんな夜の事だ。
「スピード捜査で解決したんスから、約束通り、ご褒美下さい」
 室井が会議を終え、ホテルに戻る事なく、青島のマンションに付いた時。
 朽木野の捜査を引き継いだ青島が、残りの休暇を満喫したいと、年上の恋人が合鍵で室内に足を踏み入れた瞬間。待ち焦がれたとばかりに細身の姿態を抱き締めての台詞だった。
 玄関先で不意打ちに抱き竦められてしまった室井は、けれど年下の恋人のそんな行動も予測していたのか、抗い一つない。ないから、
「仕方ないな」
 抱き締められれば、室井とて、拒む理由は何一つないのだ。その証拠に、年下の恋人に抱き締められた肌は、疼いている。飢えていたのだと、実感させられずにはられない瞬間、だった。 そして室井は、静邃に笑う。ソレは青島が見惚れる程、綺麗な笑みだった。
「愛してる」
 恋人同志は、何回でもその言葉を言うのだと、昨夜言っていた青島の台詞に応える様に、室井は綺麗な笑みを湛え、静謐な気配に埋没し、年下の恋人の首筋に、スーツを着てさえ細い腕を回した。
 首に絡まる細い腕を視、視線を辿れば、眼前には綺麗に笑う年上の恋人が在る。その瞬間、青島は倖せだと実感する。
 優しい感情が心根の奥から湧いてくるのを感じる。その感情は、穏やかな優しさに包まれた愛情なのだろう。
 抱き締めた肌を貪り、意思も意識も混融させてしまいたいと望み乍ら、細い姿態を何処までも穏やかな愛情で包みたいと、青島は願わずにいられない。
 貪りあう様な愛情ばかりだった筈なのに、ソレは気付けば何時しか穏やかな優しい感情をも従えている事に、二人はこんな時に気付くのだ。
 大切な人が腕に在て、綺麗な笑みを湛え、愛してると言ってくれる。それが倖せなのだと、青島は痛感している。その倖せを逃したくないから、どれだけ犯罪捜査で傷付き、痛みを孕んでも、青島は室井を理解したいと、足掻いて行く事しか出来ないのだ。それが室井に切ないまでの愛しさを抱かせる。
「愛してます」
 だから青島も、その言葉を綺麗に返す。その言葉に、室井も幸せそうな表情をするから、確かに互いに愛し合っているのだろうし、愛し合っていると疑う事のない強い絆が、二人には在るのだろう。
「キスだけの褒美は、ナシっスよ?」
「子供はキスなんてしないだろう?」
「今時の子供は、キス以上の事してます」
「だったら、仕方ないな。お前は、子供だからな」
 だからキス以上の事でもするかと、些かパラドックスじみた室井の台詞に、青島は嬉しそうに笑った。
 子供の様な笑みだと思い、けれどその笑みが、甘い子供の笑みだけではないと、室井は知っている。
 犯罪現場に飛び出せば、その笑顔は瞬時にすり変わる事を、室井は知っている。
 捜査現場の青島は、常に真摯な苦悩と痛みを孕んでいる。
だから何処か辛そうな横顔をしている事が多い。時折弱音を吐いても、投げ出す事など決してないから、その痛みや苦悩は深まるばかりである事を、室井は心得ている。だからこそ、必死に足掻き、社会正義の言葉の意味を模索し、真実を追求する年下の恋人を、黙って見守っているのだ。
 見守り、寄り添い、室井は室井の求める正義の為。組織の中で傷付き乍ら、革新の発言を繰り返す事の出来る、強さと勇気を秘めた官僚だった。
 そんな室井は、青島とのプライベートな時間になれば、凛冽とした官僚の仮面を取り去り、柔和な笑みを見せる。その笑みを前に、青島は愛されていると実感する。
「それじゃぁセオリー通り、キスから」
 耳のよい年上の恋人の耳朶を甘噛み囁くと、  
「子供のお前を甘やかすのは、大人の私の仕事だな」
「甘やかして下さい、今夜は目一杯」
 言外に、覚悟して下さいと言う青島の宣言に、
「今夜位は、甘やかしてやる」
 互いに久し振りなのだからと、室井は綺麗な笑みを湛えた。 数分後。室内を満たすのは、甘い情事の嫋々の嬌声と、甘い囁きだけだった。


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