| 死と再生 SCENE3 |
「貴方を呼んだ理由は、そういう事ですよ、室井さん。恨むなら、月山を恨んで下さい。私に話し回してきたのは、彼女です」 藤村の説明を終えた時、秀麗な室井の貌は、厳しいばかりの表情を滲ませていた。 「新城に話しを回したのは、正解だったな月山君」 月山は、室井の台詞に綺麗な笑みを湛えている。 室井の台詞に、嫌味は決して含まれてはいない。月山の判断の正確さを、素直に賛辞していた。それは常日頃から、人間観察が出来ている。そういう事だった。 組織の不祥事が相次ぐ中。今回の事件を摘発出来る人物は、一課内なら、確かにキャリアの新城しか在ないだろう。 ノンキャリアとは言え、仮にも相手は、監察官室を内部機関に抱える、警務部所属である。不祥事が相次いでいる組織の中では、犯罪摘発より、組織防衛が最優先されるてしまう恐れが多大に有った。その事を、月山も理解しているのだ。 監察官室の機能全てを、此処に在る面子は信用してはいなかった。まして、相手が警務部所属の課長となれば、人事課の内部機関である監察官室が一番の痛手を受ける事は判り過ぎていた。例え相手が警務部厚生課課長だとしても、警務部は警視庁の中枢機関だ。マスコミに常に頭を下げているのは、所属部長と、人事を預かる警務部長だ。 警務部は、人事の裁量権があるだけに、組織に於ては中枢機関だ。その警務部所属の課長が、娘可愛さに轢き逃げ事件を揉み消した。まして藤村を強要した最初の事件の前科がある。きっとそれ以外にも、余罪はある筈だった。そんな事件は、特異な性格のものだから、月山の判断は正しいものだった。 今回の事件を事件として立証したければ、立証出来るだけの力量を持つ人間に話さなければ、握り潰されてしまう。その事を、月山は一番に考えたのだ。 「この件は、明日真下首席監察官に話しておく」 不祥事が続発している為に行われる会議だから、明日は警察庁長官官房首席監察官の話しが控えていた。そしてその首席監察官は、青島にも馴染みが深い、真下の父親だった。 不祥事が相次ぐ組織の中。監察機能の低下を憂えた吉田副総監の是非との推薦で、今年初めから、官房長首席監察官に異動した真下の父親だった。 「真下の親父さんなら、まぁ信用出来ますね」 「真下警視監、だろう」 自分の台詞に不謹慎に頷く年下の恋人を、室井は窘める。 それが全く無駄であったとしても、取り敢えず窘めてしまう室井だった。プライベート以外では、生真面目な年上の恋人の台詞に、青島は幅広の肩を竦めて応えただけだった。 「それで、どうするつもりだ、新城」 「もう一度、現場調査します。朽木野の娘の車体調べと、朽木野の一年前の事件も摘発します」 新城の台詞は揺らぎなく、端然としている。 「司法解剖で病死認定されてしまった被害者の現場回りなんて調べたら、すぐに事は露呈するぞ。まして轢き逃げは、交通警察の領域に入る。慎重にいかないと、無理だな」 「一課捜査員動かしたら、の場合でしょ?ソレッて」 「私も手伝って上げるわよ、管轄違うけど。朽木野の娘に近付く事は、女の私の方が容易いわよ。本当は、これ以上ない位、適任者在るんだけどネ」 チラリと、すみれの眼が、青島を間視する。その意味に気付いた室井が、 「青島は無理だぞ」 「アラどうして?」 すみれが笑う。 「目立ち過ぎる。娘に近付くのは容易いだろうが、朽木野の視界に入ったら、すぐにバレる」 「女性相手の聞き込みに、向いてるんだけどね、青島君」 すみれの台詞に、室井は半瞬だけ隣に腰掛けている年下の恋人を睥睨すると、俺は無実ですとばかりに、青島は室井を視た。 「仕方ないわよ、暴走刑事って有名な青島じゃ、朽木野も顔位知ってるでしょうからね」 そういう月山自身。女性キャリアであり乍ら、初の試みで一課捜査員として配属されてしまっているから、当然派手に動く事は出来なかった。 「娘との接触はすみれさんに任せて、俺明日現場行ってみますよ。それと鑑識課。鑑識の人間が、轢き逃げ事件。気付かない訳ない筈なんスよね」 これで確実に休暇は返上、恋人との逢瀬も返上かと、青島は内心こっそりと嘆息を吐いた。けれど、知ってしまった犯罪を、無視する事など出来なかったから、青島は休暇返上で捜査するしかなかったのだ。 「私は娘の車体、照会してみるわ。幾ら父親に事件握り潰してもらっても、そのまま事故車乗っていられる程、神経太くないでしょ。廃棄処分に掛けられてるか、或いは神経太くて廃棄してなくても、人一人撥ねてるんだから傷が残ってる。当然、何処かに修理出してるでしょう。あんたは鑑識から、現場から車体に結び付くものなかった、事故に結び付くものなかったか、しっかり聞き込んでくるのよ。あんた鑑識課の女の子に、顔利くんだから」 「別に俺、特別鑑識課の女の子と、仲いい訳じゃないっスよ」 室井の視線が僅かに冷たい気がすると、青島は必死になって月山に反駁した。 「そう?鑑識と仲良くて、情報下ろしてもらってるって、噂だけど」 「だったら月山さん、鑑識に嫌われてるって、評判ですね」 「私を誰だと思ってるのよ」 「まぁまぁ月山、本当の事なんだから」 横から黒川が、事態を掻き回す様に口を挟む。 「青島、しっかり事件解決したら、休暇返上で捜査した褒美」 其処で一旦室井は言葉を区切り、青島にだけ判る意味深な眼差しを投げかけると、 「何かくれるんスか?」 タチの悪い年上の恋人の性格を知り過ぎているから、青島は室井の意味深な眼差しの前に、半ば自棄になっていた。 「上に掛け合って、捜査手当だしてもらう様にしてやる」 これは二人にしか判らないピロトークだなと、すみれは内心呆れていた。きっと田所と司馬も同様だろう。そして三人は、久し振りの年下との恋人の情事を、事件で潰された室井の煮詰まりを理解した。理解したから、 愛されてるねぇ青島君と、すみれをなお呆れさせ、これだから年下の恋人にだけは甘いって言うんだと、室井の態度に、こっそりと溜め息を吐いた。 「公務員は、サービス残業も休暇返上もしません。健康増進が叫ばれてる世間では、有効的な有給休暇の昇華が言われてます。振替え休暇と、捜査手当の支給は当然です。褒美は別に下さい」 タチの悪い恋人の予想通りの答えに内心で脱力し、したからこそ、青島はシレッと、とんでもない言葉を口にしていた。 「グダグダ文句言うなら、私も同じだ」 青島の台詞に、恋人にしか判らない表情の変化で薄い笑みを刻んだ室井とは裏腹に、新城は渋面していた。そしてタチの悪さで最初青島に話しをフッタ室井は、青島と新城の台詞に、しっかりと眉間に深い皺を作っていた。 「よさないか二人共。取り敢えず、明日私は真下首席監察官に話しを通しておく。青島は鑑識に話し付けにいけ。内密に、絶対事を漏らすな。そういう相手を選別して話しを訊け。月山君は、朽木野の娘の車体を照会し、車体がどうなってるか調査だ。それと藤村先生。貴方を今此処で逮捕する事は、事件の性格上出来ません。貴方は自らの罪を供述した。貴方に逃亡の意思はないと見なし、自宅勾留にします。いいでしょうか?」 朽木野に実家の内情を金銭で釣られてしまった藤村は、自分に敬語を使用し、自宅勾留を確認する生真面目な室井に、警察は腐ってはいなかったのだと、実感した。それは組織の犯罪を摘発しようとする、室井や青島達を視たからだった。だから藤村は、 「申し訳ありません」 室井に、頭を下げた。 「今から、捜査本部を此処、監察医務院に置く」 端然とした室井の声に、 「マジッすか?」 半瞬後、呆れた青島の声が確認する。 「捜査会議に本部が必要なのは当然だろう。此処は適当な場所だ」 「適当、ですか?都内で事件が起きれば、解剖此処に持ち込まれる率、高いですよ。 休暇中の俺や新城さんや、幹部会議に出席で上京してる室井さんがウロ付いてたら、バレますよ」 「何も正面から堂々と出入りしろとは言ってないぞ。関係者通路から出入りすればいいだろう。医務院関係者しか出入りしない通路だ。正面玄関からは裏手になる。解剖室は地下だし、応接室は二階だ。捜査員が出入りするとすれば、解剖立ち会いの為の解剖室だけだ。慎重にしていれば、顔を会わせる心配はない」 端的で淡如な室井の声に、青島はまぁそうですけどねと、頭を掻く。 スッカリ室井は捜査本部長になってしまっている。室井を呼び出した時点で、新城は室井に捜査指揮権を任せるつもりだったのだ。けれど、室井は指揮権を持つつもりはなかった。あくまでオブザーバーでいるつもりだった。だったから、新城と室井の間に、意識の落差が存在しても、仕方のない事だった。 「新城は、明日から休暇だと言っていたな」 室井の確認の声に、新城は頷いた。 「だったら、緊急要件は、新城の所に情報を回せ」 「何故私なんですか?」 「私は、会議出席中で、警視庁にとっては部外者だ。部外者の私が、指揮権を持つ事は出来ない」 室井の台詞は、確かにもっともなものだった。 どれだれ警視庁で室井の名が有名でも、今の室井は大阪府警の人間だった。警視庁に関わる事件の指揮権を、当然持てる立場にはなかった。その室井に、連絡をいれたのだから、新城は室井を信頼していると言う事なのだろう。 相次ぐ不祥事の連続で、警察は瀬戸際に立たされている。 監察制度の見直しが急務の中。警察庁より幹部召集で、会議が開かれている最中の、事件だった。 マスコミの矢面に立たされているのが、概ね刑事警察である以上。刑事部長の部長職に在る人間の責務は重い。けれど、現場経験の少ないキャリアばかりが役職に付いているから、危機感は自らの既得権の保身が最優先思考になっている。いる事に、室井は、キャリア制度の見直し自体が必要だと、発言した。その発言に、瞬時に反応出来た人間は未だましだった。誰もが瞬時に室井の発言内容は理解出来ず、理解した時には震撼した。それはキャリアの発言ではなかったからだ。そして誰もが室井の名を、今更乍らに思い出していたのだ。警視庁では知らぬ者の在ないキャリア。副総監誘拐事件の折には、所轄署の刑事と組織に対して明確な造反行為を行った。そして昨年初夏には、刑事局長の池神と、総務審議官の高嶋の二人を、殺人幇助として地検に告発。旧態依然な組織の中で、慣例と前例を覆しているキャリア。 政治取引には応じず、自らの正義を心に持ち、縦割組織の弊害を発言する勇気を持ったキャリア。副総監と真下警視監の推薦により、出世コースの大阪府警の刑事部長に、歴代最年少で就任。早々縦割り構造の弊害と、監察制度の見直し草案を実施。もてる権限をフル稼働させ、現場捜査員と本部捜査員の意識改革を計っている官僚。 室井が大阪府警就任以来、府警は粛正の嵐が吹き荒れている。それだけの革新的行動力を持つキャリアは、官僚社会にあっては珍しい。そしてその実力は早々に現れ、着任二か月で、合同捜査会議を速戦即決させ、薬物対策課、府警捜査一課、所轄の刑事を使い、薬物犯罪を摘発。裏に犯罪組織の影が見えた事から、現在もその事件を継続している。以来、室井の改正草案は府警本部長の眼に止まり、初期稼働されている。 出世コースの大阪府警に、一度は訓告を受け、次には降格処分を免れた官僚が、刑事部長と言う、刑事警察の役職に付いた。その後ろ盾に、副総監と、時期副総監候補の真下警視監が在る。と言う事は、室井は紛れなく、吉田副総監の後継者と言う事になる筈だ。そして吉田副総監は、次期警視総監候補だったから、その後継者と言う事は、室井は既に何代か後の、警視総監候補と言う事になるのだろう。 監察制度改正審議に当たっては、室井は副総監から府警での監察制度の見直しを求められていた。本来、室井は不祥事が続出した神奈川県警に異動予定だった。けれど、官僚にとって室井の存在は既に恐怖を与える程のものになっていたから、一部の派閥から、これ以上神奈川県警の不祥事を引き出されては堪らないと、強い反発が湧いた。 流石の副総監も、官僚の派閥をごり押ししてまで、室井の神奈川異動は出来なかったのだろう。だからこそ、裏取引的に、出世ーコースルートの大阪に、早々乗せてしまったのだ。そこいらの裏事情は、流石に政治が取引されている筈である。清廉潔白なだけでは、出世出来ないのも官僚世界の歪みだ。そしてその組織の上の歪みは、そのまま下へと縺れ込んでいるのだ。 その歪みが、今回の事件の様な、警察不祥事を生み出している。いるから、室井は室井なりに官僚の正義を持って、発言していた。慣例と前例ばかりの組織の中、その発言がどれ程の波紋を呼ぶか百も承知で、室井は発言する勇気を持っていた。 「判りました、鑑識から情報とれ次第、新城さんに回します」 室井が指揮権を持つ立場にない事など、端から承知していた青島は、それでも今回の事件の指揮を執るのは室井だろうと、思ってもいた。 室井は今回、オブザーバーに徹するだろう。 新城は室井と青島によって、キャリアの傲慢を打ち抜かれた官僚の一人だ。打ち抜かれたソレを認める勇気の在る官僚だった。けれど、未々室井程に、発言の勇気も革新の為の行動力を持てる官僚ではなかった。だから新城は、室井を呼び出した筈なのだ。なのだと、青島は疑ってはいない。そして室井の意図は、青島には適格に見抜けていた。 幹部の犯罪摘発。その為に必要な要素。事件の性格を把握し、秘密裏に捜査を進める。それだけの技量を、新城にも求めたのだろう。それは新城が、官僚組織に位置し乍ら、現場捜査の仕組みを理解し始め、幹部の犯罪摘発に躊躇いを見せないと判断したからの采配なのだと、青島は理解していた。でなければ、室井はたとえ部外者であっても、自らが指揮権を持った筈だ。以前に、新城が月山から呼び出しを受ける筈もなかった。 だから幹部犯罪の摘発に必要な指揮権を知れと、室井は新城に言いたいのだろうと、青島は室井の意図を読み取っていた。 室井が副総監後継者と囁かれているなら、青島は所轄からは室井の懐刀と言われているのだ。それは室井が大阪に異動した今でも変わりなく尾鰭が付いて出回っている噂だった。その尾鰭は、二人が暴走した結果だった。そしてその結果は、二十数年後、揺るぎない立場で確信を以て、畏怖と驚異で囁かれている筈である。 室井警視総監の懐刀である、一課長の青島と。 その努力を、青島は怠らない。室井が組織革新に乗り出した時、自分が刑事警察の中心に在る必要があると。だからその為の努力を、怠った事はない。 「私も、森田使って、車体照会して、車体の行方、追ってみるわ。まぁこればっかは、娘が車体手放してなかったら、どうしようもないけどね。その確立だって、0じゃないから」 「そしたら鑑識動かして、証拠堅めしてから、押収したらokでしょ。鑑識は、絶対何か感付いてる。情報取ってきますよ」 「何度も言うが、秘密裏に動け」 室井の声は、苦い口調を崩さない。 青島は、同業者の、まして幹部の犯罪に関しては、厳しい眼を持っている。持っているから、秘密裏に動く行動の仕方を、十二分に承知していた。 元々、犯罪捜査は、秘密裏に行うのが原則だ。派手に動いて、被疑者を刺激し、第二・第三の犯行をさせる訳にはいかない。何処に被疑者が在るか判らないから、捜査が慎重に行われるのは当然だ。でなければ、何処から情報が漏洩するか判らないのだ。だから、室井が今口にした台詞は、当然それ以上の内密な行動をとれと、言外に滲ませているのだ。 「慣れてますから」 年上の恋人の、苦々しい面を横目に、青島はシレッと言ってみせた。 慣れてしまった。幹部の犯罪摘発に慣れ、その為の秘密裏の捜査にも慣れてしまった青島は、けれど周囲に与える衝動の大きさを、理解してはいなかった。いない事が、室井の眉間に、深い皺を刻み付ける。 そんな事慣れる事じゃないだろうと、新城も月山も内心叫んでいたが、口に出すのが空しいのは、それが事実に他ならないからだ。 所轄署の捜査員だった青島は、一課異動になってから、漸く丸半年が経過したばかりだから、所轄でどれだけの暴走行為をしていたのか思い出すと、室井は深い溜め息を吐き出した。その暴走に絡み、官僚組織の中では異端とされている室井はと言えば、やはり暴走の自覚は薄いのかも知れない。 「慎次、コレを証拠の一つに使え」 ポンと、田所は手にしていたファイルを放って寄こした。それは被害者である今田耕市の、解剖所見だった。 室井の手元を、青島も覗き込む。 ファイルを開けば、脳の写真が貼付された、解剖所見が在る。室井や青島には門外漢の解剖分野も、監察医の田所がこの写真をチェックしていれば、所見が偽造された事は、その場で判った筈だったのだろう。そして藤村は、すぐに事が露見する様な写真を残して貼付している。 藤村は、誰かに犯罪を気付いてほしかったのだろうか? フト青島は思った。 それが下らない感傷の一部だとは、思えなかった。きっと藤村は、誰かに犯罪を気付いてほしかったのだろう。そして杉が気付いた事を、きっと喜んでいのかもしれないと思うのは、感傷なのだろうなと、青島は内心苦笑する。 どんな理由があったにしても、藤村の行為は犯罪だ。そして警察官であり乍ら、娘の事件を揉み消す朽木野の犯罪は、許される事ではなかった。 「この解剖所見に、朽木野の犯罪の証拠能力を求めるなら、何が必要だ?」 室井は、手元のファイルに視線を落し、瀟洒な指先が素早いスピードでページを捲って行く。それは、自分の手元のファイルに視線を落としている、青島への問いだった。 一課管理官時代、本来キャリアなら、決して立ち会う筈のない解剖に幾度となく立ち会い、解剖担当者から話しを訊いてきた室井がたら、検案調書を読むスピードは、供述調書を読むと変わらぬスピードで読んで行く。そのスピードの早さと集中力に、室井のその読解力の早さを知らぬ、青島やすみれ以外、彼の従兄弟の田所以外の面々は、新城ですら、驚きを隠せないでいる。 「朽木野によって、公文書偽造を強要された事を、立証しなくてはならない。娘の轢き逃げ事件を立証しても、それを朽木野が握り潰した事実を見付けなくてはならない。その為には、藤村先生。貴方の証言が証拠になります。貴方が朽木野によって、一年前の事件と今回の事件で、解剖所見の虚偽報告を金銭取引した事を、証言しなくてはならない。出来ますか?」 その瞬間。青島の眼は、藤村をまっすぐに凝視している。 それは感情の波一つ揺らぐ事のない、淡々とした声と眼をして、磨き抜かれた鋭利さと硬質さで、藤村の眼球の中心を射抜いている。その青島の視線の凛冽さに、不意に藤村は、正義など無いと思っていた警察官の正義を、見付けた気分にさせられた。 「そのつもりで、話しました。私の罪は、これ位では消えないでしょう」 青島の、揺るぎない眼差しの前に、藤村は半眼視線を閉ざした。藤村の言葉に、青島は頷くと、田所に視線を移す。 「田所先生、この件では、先生も責任を問われるかもしれない」 解剖所見報告書の、最終チェックを怠った。その為に、被害者の今田耕市は、内因性の脳出血と診断され、その為に河川敷の階段から転落したと片付けられ、事件性は否定された。 事件の真意が失われた事を考えれば、田所も無事ではいられないかもしれない。その事を、青島は確認している。 「神奈川の監察医務院で、監察医の司法解剖による不祥事が明るみに出ました。今回の件が表に出れば、監察医務院も信用を失う。それでも」 平気かと、青島の言葉に、室井は田所を凝視する。 「アア、当然だろう。俺も覚悟はしているさ」 従兄弟の真摯な眼差しに、田所も真摯な眼差しを返した。 「部長……」 田所の真摯な声には、躊躇いも揺るぎも無い。その事が、天野を何とも言えない思いにからせた。 「天野、覚えて起きなさい。監察医は、常に死者と向き合う事。死者の最期の声を聴く事。それが私達の仕事。死者だからこそ、私達の精神に曇りがあれば、真実は歪められてしまう。生きた人間じゃないから、話せる人間じゃないから、私達は常に公平でなくてはならない。生者の声は誰にでも聞ける。だけど、死者の声は私達、監察医にしか聞けない。その責任の重さを、しっかり見詰めなさい」 田所の潔さに、杉は天野に淡々と告げる。 死者への思い入れは、今天野にとってプラスとして出て来ている。けれどその思い入れが、主観でのみ突き動ごかされているばかりでは、何時か真実を見失う。その事を、杉は天野に示唆していた。 「ハイ」 杉のこう言う場での口調は淡々として、抑揚がない。だからこそ、それが杉の内心の思いなのだと、天野は知っている。いるから、天野は生真面目に頷いた。 その杉の言葉は、黒川や月山に言わせれば、天野が来る前までは、冷淡な研究者の印象に近かった杉が、思いきり天野を甘やかしていると言う事になる。それだけ、杉が天野に期待している。そういう事になるのだろう。 「私も、質問していいでしょうか?さっき月山さんにも訊きましたが」 其処で藤村は、半眼閉ざした眼差しを開き、室井を凝視する。 「私が今話した事は、貴方の属する組織を、根っこから揺さぶる事になる。私を逮捕すれば、貴方自身、危うい立場に立たされるかもしれない。それでもいいですか?」 不祥事の続出している警察だからこそ、組織防衛が何より建前にされるだろう。不祥事の続出している現在だから、更にその不祥事を更新させる事件は、下手をすれば関わる人間も組織の中で危うい立場に立たされる筈だ。その勇気が、室井達にあるのか? けれどこの質問が今更である事は、訊いた藤村自身が一番よく判っていた。 「不祥事で、一番苦しい思いをしているのは、組織の底辺を支えている、現場の警察官達です。私は、彼らの矜持や正義を守りたいと思います。それが官僚システムの本来のあり方だと、考えています」 知ってしまった犯罪を無視は出来ない。組織の中での自分の立場など、藤村が心配する事ではないと、室井は言外に滲ませる。それは室井にとって、今更でしかなかったのだ。 組織に対しての造反を、今更と言える程度に、室井は官僚組織の中で、畏怖と驚異の対象になりつつあるのだ。何代か後の警視総監候補と囁かれている室井は、組織の中にあって、清廉潔白で高潔。不正を許さぬ強い意志と正義を持ち、犯罪摘発に当たっている刑事部長だ。 そして現在、警察庁でスタートした監察制度の抜本改革のモデルケースとして、大阪府警で刑事部長職にあり乍ら、本来なら警務部人事課の内部機関である、監察官室の制度見直しを改正草案で打ち出し、初期稼働させた人物である。 だから、既得権と保身を最優先に考える官僚組織の中で、室井の行動や言動は、周囲に驚異と畏怖を与えている事を、室井自身自覚している。今回の事件が表に出れば、警視庁捜査一課のキャリア管理官、他数名の捜査員が、内密な捜査を進めたとされる筈だ。けれどその裏に、室井の影を見付けだせる官僚は、少なくない筈である。 何せ丁度、室井が上京していた時期の事件なのだ。部外者の室井は、けれど昨年秋まで、警視庁参事官職にあった。その事実を組み合わせれば、誰もが室井の存在を裏に感じ取る筈である。その時更に、室井という名の官僚は、同じ官僚に驚異を与え、それは何時か畏怖の対象にもなるだろう。なるだろうと、青島は隣に佇む秀麗で理智深い横顔を、静かに見詰めていた。 「今更よね、室井さんの造反なんて」 すみれの台詞に、それは確かに今更なのだろうと、今まで話しを聞いていた藤村にも、判っていた。いたから、確認したかったのかもしれない。 犯罪を犯した藤村に対しても、真面目に答える室井を、青島は愛しいと思った。思ったからこそ、室井を守れるだけの、支えられるだけの力量を求め、足掻き続けているのだ。 「それでは、明日から捜査を開始する。くれぐれも、秘密裏にと言う事を忘れるな。でなくては、朽木野の犯罪を立件出来ない。その事を、忘れるな」 新城の言葉に、青島も月山も、力強く頷き返す。彼らのその力強い頷きに、今度こそ藤村は心底から安堵し、自らの犯罪を彼らに委ねる事が出来た気がした。 「藤村先生は、私が自宅まで送りましょう」 今まで部外者を自覚し、おとなしくしていた司馬が、始めて口を開いた。 「司馬君、君も健在の様だな。噂は色々聞いているよ。良いDrになったとね。君は、私のようになってくれるなよ」 「エッ?知り合い、なんスか?」 藤村の言葉に、青島は二人を交互に視た。田所と杉以外は、やはり不思議そうに彼等を視ていた。 「アア、俺の先輩。序でに言えば、俺と杉は、K大医学部の同期生だ」 「エ〜〜杉先生、K大出身だったんですか?」 初耳だと、天野は杉を視れば、杉は司馬の言葉に微苦笑している。 「佐和子は元気?」 天真桜の麻酔科医である大槻佐和子は、一時期司馬の恋人として同棲中の仲であり、誤解され易い司馬の理解者である。 そして杉は、薄々司馬と田所の関係に、感付いていた。 「元気だろう?近頃は峰と一緒になって、遊び歩いてる様だな」 研修医と呼ばれる時期を卒業した峰春美は、司馬にとっては今でも研修医だ。 石川亡き後、消化器外科から心臓へと専門を移し、司馬の指導により心臓外科医として頑張っている。その吸収力はスポンジの様に素直で、教えた事を次々と消化して行く。 峰は将来、いい心臓外科医になるだろうと、司馬は内心思っていた。 「それじゃぁ、もう遅い。俺は帰るぞ。おっさんも支度しろよ。若くないんだ、送ってやる」 天野にとって、司馬江太郎という医師は、不思議な医師だった。部長の田所を掴まえ、平然とおっさんと呼ぶ。それを田所が咎める事なく許している。それもそう呼ばれる事を、田所が決して嫌がらず、寧ろ好んでいる事が判る。そんな時の田所は、酷薄な口唇に物柔らかい笑みを湛えている様に、天野には視えた。感じた。それが不思議だった。 どんな関係が二人に在るのかと思うのは、世間一般の興味と好奇心だった。けれどそれを直接二人に聞く事は、出来ずに在た。 田所に訊いても、笑ってはぐらかされるのは判りきっていたし、司馬にはちょっと怖くて訊けなかった。杉なら何か知っているのだろうと思っても、綺麗な造作に薄い笑みを覗かせるだけに違いないと、天野は知っていた。 「モテるわねぇ部長。でも送り狼には、気を付けるのよぉ」 すっかり冷めきってしまった珈琲を一気に飲みほし乍ら、黒川が意味深な笑みを飾り立てている。と言う事は、黒川も薄々自分達の関係に気付いているのだろうと、田所は洞察力の鋭い女性二人に、薄い肩を竦めて見せた。 司馬と田所に促され、藤村は立上がると、杉が応接室を出て行く背を、呼び止めた。 「藤村、貴方何で、あんなすぐバレる様な嘘を付いたの?」 杉の、どこか辛そうな声に、藤村はゆっくり杉を振り返る。 「脳の出血が内因性かそうでないかなんて、ちょっと調べればすぐに判る事よ」 そう詰め寄る杉に、藤村は微苦笑を刻み付けた。その意味を、杉は辛そう見詰め、 「本当に隠すつもりなら、誤って石段から落ちた為の、外因性の出血とすればよかった筈よ。でも貴方、内因性なんて、すぐに判る様な嘘……まるで、わざと嘘を気付かせたかったみたいじゃない」 杉の綺麗な面は、泣きそうだった。藤村の微苦笑の意味に気付いてしまったから、杉は泣き出しそうで、泣くまいと必死だった。 藤村は、恩師だ。自分を監察医に育ててくれた、恩師だ。 杉は藤村に、監察医の責務の重さを教えられたのだ。その藤村の犯罪に、杉はいたたまれなかった。そして、今薄い笑みと微苦笑を滲ませている藤村のその意味に気付き、なおいたたまれなくなる。切なくなる。 「君に、間違ってるって、言ってほしかった」 藤村は、そう笑った。その笑みと言葉に、杉は自分が外科から法医学に専門を移した時、藤村に言われた言葉を思い出していた。アノ時杉は藤村に、『君は間違っている』そう言われたのだ。 「ありがとう」 そう笑む藤村は、誰の眼から視ても潔い姿だった。 「慎次、面倒かけてすまんな。後はお前達の仕事だ。頼む」 田所は、これから厄介になる室井の立場を思い、頭を下げると、室井は椅子から立上がり、田所に向かって言葉なく頷いた。そして田所と藤村は、司馬に促され、監察医務院から姿を消した。 「俺達も、帰りますか。もう午前2時です。室井さんだって、朝からまた会議なんだし」 そう言うと、青島は室井を促した。 「新城、後はお前の仕事だ」 室井が新城を見れば、新城は生真面目な貌をし、室井を視ていた。 「それでは明日の夜、また此処で。収穫がある事を、期待してるぞ」 それは新城ではなく、隣に佇む年下の恋人に投げ掛けた言葉だった。 「ちゃんと褒美下さいよ」 室井だけに判る小声で囁くと、室井は青島に薄い笑みを湛えて見せた。 「それじゃあまた明日に」 室井は、さっさと歩き出すと、 「んじゃ俺も帰ります」 青島は室井の後を歩き出した。 「私達も、帰ろうか。賢太郎ちゃん」 ウ〜〜ンと、伸びをすると、すみれはスッと立ち上がる。 何時しか苺八つ橋の箱は、すみれの手の中にある。どうやら気に入ったから、持って帰るつもりらしい。今まで飲んでいたカップは、何時の間にか綺麗に洗われていた。 「……持って帰るのかソレ?」 「美味しかったわよ」 「気に入ったら買ってやるから、置いていけ」 第一それは、司馬が田所の土産にと買ってきたものの筈だ。 「さっきくれるって言った」 どうやら田所に、貰う約束を取り付けたらしい。食べ物に関して、すみれは相変わらずちゃっかりしていた。 「それじゃぁ、明日ね」 ヒラヒラと手を振ると、すみれは新城を促して医務院を退出する。後に残されたのは、何時もの4人メンバーだ。 「私達も、帰ろうか」 黒川がバックを肩に引っ掛けると、 「月山、絶対に、今回の事件、立件して」 「私を誰だと思ってるの」 杉の、何処か思い詰めた様な面差しに、月山は笑う。 それは揺るぎない力感を滲ませた、両眼に活力を滲ませた笑みだった。 その笑みと、今しがた出て行った青島達の力強い笑みに、彼女達は、今回の警察不祥事が、立件される事を疑わなかった。 |