| 未来予想図 scene1 |
1998年初冬。前代未聞の副総監誘拐事件が起こった。 体制組織に対する挑戦的な犯行と、組織内部では元警察関係者、過激派による犯行に重 点を絞った被疑者特定が急務な中、検挙された被疑者は19歳の少年、誘拐された副総監 の息子の学友と言う顛末がついた。 そしてその事件の被疑者確保は、所轄署のノンキャリア刑事と、警視庁刑事部参事官のキ ャリアとが、組織に対して明確な造反行為を行った結果だった。 前代未聞の誘拐事件に、けれども組織の上の人間達にとってはそれすら政治要素が多分 に含まれた事案でしかなく、警察幹部13人は、薄暗い室内の会議室で、円卓を囲んで現場 に無責任な指示を出すだけだった。 それは現場の捜査員を混乱させる、現場捜査を知らない人間達の、無責任極まりない発 言でしかなかった。 『事件は、会議室で起こっているんじゃないッ!』 無責任な幹部達の命令に、真っ向から逆らったのは青島だった。そして青島の怒りを多分 に孕んだ声に、半瞬の間の後、毅然とした声で被疑者確保を命じたのはキャリアの室井だっ た。結果。二人は組織に対して明確な造反行為を叩き付けた事になる。それは二人にとっては、二度目の造反行為だった。 そしてその事件から数か月。近隣の所轄から『空き地署』と呼ばれて久しい湾岸署は、青 島と言う暴走刑事の名と共に、瞬く間に警視庁各所轄に広がった。 青島と室井の名は、今では101在る都下の所轄で、知らないものは在ないと言われる 程に、所轄の捜査員に名が知れ渡った二人だ。 組織の中では、警察庁長官の名も、警視総監の名も知らぬ者も多い中で、室井は警視庁 捜査員から、所轄の捜査員と、キャリアでは唯一名の知れ渡った官僚だった。そして今では 青島は、ノンキャリ警察官の代名詞の様に言われる様になっていた。 特に所轄の若い警察官にとって、青島は一種英雄に近い噂まで出回っていた。青島を知 る者が聴けば、その噂は爆笑出来てしまう類いのもので、爆笑した後にはその噂を一喝し、 『刑事は英雄じゃない』と、端然と告げてしまう位、真実性を欠いたものでしかなく、当の青島 本人は、周囲で騒ぎ立てられる自分の噂に、振り回される事は微塵もなかった。誇張される噂に、興味は持たなかったと言うのが、正直な所だ。 青島は、自覚しているのだ。刑事は英雄ではないと。英雄であってはならないと。 警察官の職務は、警察法に定められている様に、個人の生命、身体及び財産の保護に任 じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者逮捕、その他公共の安全と秩序の維持に当たる事 をもって、その責務とする。警察は、基本的に国民、市民の安全の確保と言うサービスを提 供する、治安維持を目的とする機関だ。 警視庁なら、その管轄は都民の安全と言う事になる。だからこそ、警察官は英雄にはなら ないし、なってはならない。正義の味方では在りたいが、正義の味方で在られる確立は果て しなく低い。警察に正義を求める市民は、少ないだろう。それは市民の信頼の上に胡座を掻 き、権威主義の名の元に不祥事を起こす警察に、正義を求める市民が少なくなっても、それ は警察組織自体の問題だ。 組織人で在る警察官の中ですら、否、警察官だからこそ、組織で正義が通用しない事を、 理解している者が多い。内実が理解出来るからこそ、精神的に組織を見放している者が多 いのが、警察組織の内情だ。 だからこそ、警察官である青島は、安易に英雄視される事を嫌った。正義がないからこそ、 正しい事が正しいと当たり前に通用しない組織だからこそ、年上の恋人が血を吐く思いで革 新を求め、組織の中で高潔を保っている姿を視てきているからこそ、誇張され安易に出回っ た噂を、青島は嫌っていた。 湾岸署では、青島と室井が組織に革新を求め、理想を共鳴している事は誰もが知っている から、彼らも青島と室井に付いて回った、誇張され過ぎた噂を、鬱陶しいと思っている事は否 めない。 正しい事が通用しない。組織にとって捜査員は歩兵でしかないと言う上層部の扱いを、縦 割り社会の組織の中で傷付いている現場捜査員の姿を管理官時代視てきているからこそ、 室井は傷付く事を承知で、組織の革新を求め歩き出した事を、湾岸署の捜査員なら、誰もが 知っている。そして青島がその一旦を担い始めた事実も知っている。いるから、最初こそ面 白がって青島を揶かっていた署員も、何時しか誇張され一人歩きし出した噂に、辟易してい た。出回る噂に振り回され、何か在る都度に近隣の捜査員から噂話しを持ち掛けられていた 署員には、確かにその噂は鬱陶しい以外の何物でもなかっただろう。 青島が英雄でない事は誰もが知っていたし、英雄などではないからこそ、端正な貌を僅か に辛そうに歪め、事件に向き合って来た事を知らない湾岸署々員は在なかった。警察官とし てひたむきな真摯さを持っているからこそ、青島は常に真剣に事件と向き合い、傷付いてき た。 その傷を乗り越え刑事として成長し、負った傷の痛みも手放す事は出来ないのだ。だから 何時も事件に対峙する彫り深い横顔は、怖い程に真剣である事を知らない署員もまた、存 在しない。 そんな青島だからこそ、自分が一瞬でも英雄になったと思った事は、一度としてない。青島 にとって、アノ事件の造反行為は、決して他者の為の言動や行為ではなかった。自らの信念 と律法の為であって、それは正しい事をしたいと切望する青島自身の叫びであったから、警 察幹部に放った叫びは、決して捜査員を代表してのものなどではなかった。少なくても、青島 にとっては。けれど青島の叫びが、他者に勇気を与えたのもまた事実ではあった。 警察と言う組織は、体制組織故に所轄の捜査員の言動と行動だけで、一夕一朝で変る程 甘い組織ではない。けれど少しずつ、確かに周囲は変化し始めていた事を、湾岸署捜査員 はその肌身で感じ取っていた。ソレは確かに青島の齎らした功績と言えるかもしれないが、 けれど誇張される噂は、既に湾岸署々員にとっては迷惑に近い範疇の言葉だ。 アノ事件で、青島は重傷を負った。それこそ殉職していた可能性も0ではなかった。だから 湾岸署々員にとって、アノ事件は仲間を失う可能性を秘めていた寒々しい物でしかなかった。 たとえ青島が、3日間の徹夜で、室井の運転する公用車の後部座席で、すみれの膝枕で、 熟睡していたとしてもだ。 副総監誘拐事件は、署内に特捜本部が立ってい乍ら、湾岸署は本部からは締め出され、 その中で青島はその見事な分析能力に恵まれた推理力で、被疑者特定に辿り着いた。 その手法は、組織捜査の基本を欠いた、違法捜査と紙一重だった事は否めない。湾岸署 管内で起こった猟奇殺人の被疑者である日向真奈美から被疑者特定のヒントを貰った。それは確かに違法行為だから、後に青島から被疑者特定の顛末を聴いた時、室井の眉間に 深い皺を刻ませたのは言うまでもない。それに対し青島は『現場の捜査が臨機応変なのは 基本ですヨ』と、ヌケヌケと言い放ち、深く物柔らかい笑みを湛え、年上の恋人に深い溜め息 を吐かせた。 室井は、青島の台詞に眉間に皺を刻み、溜め息を吐き出し乍らも、青島の言う組織捜査を 正確に理解している。 湾岸署の面子は知っているのだ。青島がどういう経緯で被疑者特定に辿り着いたか。知ってい乍らも、青島の捜査に協力していたのだから、それこそ青島の言う組織捜査なのだろう。それは何も今に始まった事ではない。ないから、室井は年下の恋人の言う組織捜査を十二分に心得て、心得た上で苦笑を隠せずにいたのだ。 そして事件から数か月。湾岸署は以前の日常を取り戻し始めていた。 その夜は、奇跡的確立で翌日休暇が重なった青島と室井が、青島のマンションで久し振り の逢瀬を過ごそうと、定時を遥かに、タップリ2時間は残業した青島が、足取りも軽く、湾岸署 を後にした夜の事だった。 「人が当直だって言うのに、サイテー」 青島が湾岸署を後にしようとした矢先。盗犯係の当直だったすみれが、横着に椅子の背に 凭れたまま、青島の背後から細い腕を伸ばし、トレードマークのモスグリーンのコートを引っ 張った。 「何、すみれさん?俺久し振りに定時で帰れるんだから」 足取り軽く刑事課を出ようとした途端。背後からコートを引っ張られ、青島は危うくバランス を崩し掛け、背後を振り返る事を余儀なくされる。され乍らも憮然とはせず、半ば慣例行事の 会話の様に、肩を竦め、眼前の・顔を眺め見た。 「知らなかった、青島くんの定時って、午後も8時を回った時間だったのねぇ〜〜」 6時が定時の所轄の勤務体制を考えれば、8時を回った時間が定時と言う青島の、普段の 残業時間が忍ばれる台詞に、すみれは半ば呆れ顔で、・顔にタチの悪い笑みを浮かべて見 せる。 「俺が規定の6時に帰れた事なんて無かったの知ってて、そういう台詞言う?」 バランスを崩し掛けた青島は、眼前で余りにタチの悪い笑みを浮かべているすみれの台詞 に、彼女と変らぬ呆れた表情を浮かべ、肩を竦めて見せる。 小柄で綺麗な貌をしているくせに、こんな時のすみれの表情は、ニッコリとした莞爾な笑み ではなく、どうも印象がニヤリとしたタチの悪さを意識してしまう青島だった。 だから青島はすみれの台詞以上に、そのニヤリとした余りにタチの悪い笑みに、呆れてしま うのだ。 黙って立っていれば、大抵の男はスンナリ騙される印象を誇っているすみれは、女性から 見ても小柄で華奢な肢体に、小作りな面差しは、白皙で整っている。男から見れば、守って やりたいと言えるタイプだろう。けれど外見の印象から、男が女性に求める優しく穏やかな性 格は、残念乍らしてはいなかったと言うのも、また事実だった。 その性格は、刑事と言う仕事がらも災いして、勝ち気で負けず嫌いで、無茶と無謀は青島 と変わりないと、湾岸署トップを嘆かせる事には、青島と並び、遺憾ない才能を発揮している すみれだった。けれど、女性特有の優しさと穏やかさがすみれにある事を知らない署員も、 湾岸署には存在しない。 自身が世間から騒がれているストーカー犯罪の被害者だった経験もある彼女は、今では その傷を克服し、刑事としての仕事を頑張っている。一時は警察と言う体制組織に対する失 望はあった彼女は、昨年の副総監誘拐事件で、室井と青島の二人が、傷付き乍らも、必死 に成し遂げようとしている現実の前に、潔く辞表を破り捨て、晴れやかな笑顔で正面を向い たのだ。 すみれは、仲間でありたかった。青島の、室井の。 旧態依然な組織の前で、二人が成し遂げようと、必死に足掻き、傷付き乍らも決して諦め ない、組織の革新を求める二人の、仲間でありたかった。ありたかったのだと、アノ瞬間、奇 妙な程、意識した。だから今は、刑事と言う仕事に誇りを持ち、職務に就いている。そして今 では青島同様、秘密の恋人持ちだ。すみれの恋人の正体を知るのは、青島と、雪乃だけだ った。 そして高校時代、演劇部に所属していた彼女は、演技が得意だった。その見事な演技力 は、概ね職務で発揮されている事からも明らかで、盗犯係の彼女は、被疑者相手にその顔 にものを言わせた演技を誇っていた。 だからこそ、彼女の演技に騙される人間は、湾岸署ばかりか、管内で多発し、以前すみれ に検挙されている窃盗の常習犯ですら、鮮やかな巴投げを披露され、外見に惑わされるとい う愚を冒すものではないと言う教訓も教えられていた。 そんなすみれを知るからこそ、青島には眼前の笑みは、ニッコリした印象ではなく、ニヤリと した、タチの悪い物にしか視えなかったのかも知れない。 そしてフト、湾岸署では自分以外にはすみれの後輩であり、今では気の合う友人でもある 雪乃しか知らない彼女の秘密の恋人は、すみれのこの演技力を何処まで知っているのかと、苦笑する。 「なぁ〜〜に、その笑い方」 青島の苦笑に、すみれは半瞬だけ攅眉する。 「否ね。ダレかさんは、すみれさんの演技力を何処まで知っているのかなってね」 「ダレかさんの前では、演技なんて必要ないの」 攅眉したすみれは、次には莞爾とした笑みを刻み付けた。 「言うねぇ〜〜すみれさんも。ソレ惚気」 「青島君だって、大切なダレかさんの前で、演技なんてする?まぁ尤も、青島君の秘密の恋 人は、青島君の演技なんて簡単に見透かしちゃう人だけどね」 「判ってるじゃない、すみれさん」 「何よそっちこそ、惚気じゃない」 青島の肯定の台詞に、すみれは呆れた表情を見せる。見せ、 「ダレかさんは、年下の恋人に夢中だから、青島君の演技なんて簡単に見透かして、自分の 前で演技した事、怒るんだろうけど」 「良く出来てるねぇ、人間観察」 すみれの台詞が、正鵠を射すぎていて、青島は幅広の肩を竦め、端正な輪郭に苦笑を浮 かべて見せる。それすら演技だと、すみれは簡単に見透かして笑う。笑い乍ら、 「これでも、刑事だから」 莞爾とした笑みの背後から、先程のニヤリとした笑みで眼前の青島を見上げると、 「二人共、愉しそうですね」 刑事課の入り口から雪乃が入ってきた。 雪乃の服装は行動的なパンツスーツのすみれとは対照的に、ミニスカートの濃紺のスーツ だ。一見見ただけならリクルートスーツに見える。手には近所のコンビニの袋が在った。 雪乃はお嬢様然として、とても刑事課の刑事には見えないし、少林寺拳法を修得している 様には視えない。けれど雪乃はすみれに触発され、警察官になる道を選んだ。刑事課ではすみれと二人紅二点だから、係を超え、夫々協力しあっている。 雪乃が刑事課に配属される以前は、女性刑事が必要な時は、問答無用ですみれが駆り出 されていた。そしてすみれを駆り出す刑事は青島が断然多かった。それだけ青島が常に事 件に追われている証拠ではあるが、強行犯の青島の事件をすみれが手伝う謂れはない筈 が、被疑者・被害者が女性の場合には当然女性刑事が必要になる。そして刑事課の女性刑 事はすみれしか存在していなかったから、すみれは盗犯係と強行犯係の二つに所属してい る様なものだった。刑事課々長の袴田でさえ、すみれの事はそう思っている節が多大だった。尤も、後からしっかり手数料と称し、ランチを奢らせるという、青島の財布を軽くさせる行動に躊躇いないすみれだったから、雪乃が強行犯係に配属され喜んだのは、真下だけでなく、 青島も同じだった。 これですみれにたかられる事はないと、真下とは別の理由で喜んだ青島だったが、流石す みれに触発され警察官になった雪乃だけの事はあった。 『ランチでいいですよ』すみれと何一つ変らぬ台詞を、雪乃は莞爾とした笑みを浮かべ口に する事に逡巡がなかったから、青島は『これじゃぁすみれが二乗だ』と、一時期は本気で頭を 抱えていた。そして結局はすみれと雪乃の二人に、財布を軽くさせられている青島だった。 それで年上の恋人に泣き付けば、『相変わらず、モテるじゃないか』と、笑って甘やかされる だけだったから、青島はムキになって女性陣に協力を頼まず事を遂行しようしても、結局最 後は二人にたかられている結果になっていた。そんな雪乃だから、湾岸署の男性警察官で、無謀な夢を見たのは真下だけだった。 そして誰もが既に疑問視すらしなくなった事実は、夜勤の警察官は、刑事課の刑事であっ ても制服着用を義務付けられている事を、全く放棄している事だった。 青島が夜勤で制服を着用している事など一度もない。青島にとって、夜勤は残業の延長で しかない。そしてすみれが制服を着るのは気分の問題でしかなかったから、何時しか二人の 悪影響に、雪乃も制服着用を放棄していた。そしてそれを咎める湾岸署職員も、存在しなか った。 「お帰り〜〜」 待ってましたと、すみれは雪乃から袋を受け取ると、ガサガサと買い物を机に並べて行く。 その中には、すみれのお気に入りのワサビラーメンやキムチラーメンが有った。他にも夜食 用にと雪乃が買い込んで来たサンドイッチやお菓子が机に並び、刑事課紅二点の彼女達の 食欲に、青島は呆れた様にすみれの机に並び上げられていく食物を眺めた。眺め、 「何か、夜勤ってより、これから泊まり込みで夜通しお喋り大会しますって雰囲気だよ、コレッ て」 素直な感想を漏らした。 「失礼ね、か弱い女性が夜通し仕事しようって時は、これくらい食べないと持たないの」 「……か弱い………?」 すみれの台詞に、ダレが?とは賢明にも口にしなかった青島だったが、すみれと雪乃には しっかり内心の台詞が伝わってしまったらしく、 「か弱いじゃない、十分」 「そうですよ、青島さん。女性にダレがなんて、失礼です」 「……言ってないよ……」 「言ってるも同じじゃない。そりゃさぁ、青島君の大切な年上のダレかさんは、小食でしょうけ ど〜〜」 すみれはニッコリと青島に答えると、 「よく知ってるじゃん」 先刻同様、すみれの台詞に間違いはない。ただし、注釈が付く。 室井は確かに小食だ。一時は食事に興味がないのかと心配した程だ。そして今では年下 の恋人の暴走に常に胃痛を味わっている室井は、胃を痛めると理解して乍ら、何も言わずに 捜査の前線に飛び出す年下の恋人を見守っているから、その胃痛は確信犯で、そして自ら 手放すことの出来ない痛みにまでなっているから、年下の恋人に溺れている自覚は有るの だろう。溺れてい乍らも常に危険が付き纏う捜査現場に、真っ先に飛び出す年下の恋人を 黙って見守っているのだから、その本質的強さは計り知れない。そして眼前の女性陣二人 の食欲には、並の男では太刀打ちで出来ないのだから、青島も室井共々例外ではなかった。すみれと雪乃にかかれば、青島とて一緒にランチをして、『食欲ないの?』と訊かれてしまうのは、日常会話だ。青島でさえそうなのだから、室井など小食以前の問題になるのかも知れない。 特に特捜本部に詰めていた管理官時代の室井は、忙殺される職務に食事に割く時間は極 めて低く、所轄で出される仕出し弁当すら口にする時間も貴重だと、片手に箸、片手に資料 と、極めて低い食生活を慣行していた。そのくせ年下の恋人には食事は大切だと言う矛盾を 孕み、室井同様乏しい食生活を送る青島に、度々食事の事を口にしていた。 警察官僚として、常に凛然とした印象を纏い付かせている室井は、決してそうは見えない だろうが、料理が趣味だった。それもプロ並の腕前を誇っているから、室井の官舎のキッチン には、料理に必要な専門道具がしっかりと収納されている。が、概ねそれが使用されるのは、年下の恋人の為に料理をする時にしか発揮されていないのが実情だった。そして青島のマンションに訪れる頻度も高い室井は、ちゃっかり青島のマンションのキッチンにも、それ相 応の料理道具を揃えてしまっていた。だからそれをして青島に『通い妻』と言われてしまうの だと承知しているから、室井は確信犯でしかなく、そして自らの乏しい食生活を顧みる事なく、年下の恋人には食事の大切さを説いてしまう室井の矛盾もまた、想像に容易かった。 料理が趣味のくせに、自らの為には料理をするのは面倒だと、年下の恋人を脱力させる発 言を繰り返しているから、尚タチが悪い。 管理官時代の激務に比べ、現在の室井のポストは刑事部の参事官だ。 参事官は、会議と判子押しが仕事の完全な役職だ。本来なら、定時出勤、定時退社をして 可笑しくないポストだ。けれど室井は、会議と判子押しだけをしている程、おとなしい性格をし てはいなかった。それは今では警視庁勤務の警察官なら、知らぬ者は在ないと言われる程、浸透してしまった室井の印象だ。 昨年初冬の副総監誘拐事件以来、警察組織に於いては警察庁長官の名も、警視総監の 名も知らぬ者も少なくない現場の捜査員達に、唯一知れ渡った官僚の名は、室井だった。 そんな室井だからこそ、たまに定時退庁などすると、彼の部下は一体何事かと、怪訝な表 情をする程だ。そして概ね室井が定時退庁する時は、年下の恋人の非番の時、或るいは翌日が非番の日だ。そんな時の室井は、官舎に訪れる年下の恋人の為にキッチンに立つか、 年下の恋人のマンションに向かうか、二つに一つだ。 新木場の青島のマンションに向かえば、マンションに置いてある部屋着に着替え、普段食 生活の乏しい年下の恋人の為、キッチンに立つのが習慣だった。 だからすみれの台詞は注釈が付くのだと、青島は内心で思い、今頃官舎のキッチンに立っ ているのだろう年上の恋人の事を思うと、愛しさしか湧かなくなる。 「さっきも言ったでしょ?刑事だから」 「そうでした」 「まぁでも、ダレかさん。自分の食事棚上げして、青島君には煩く言ってそうだけど」 そのすみれの台詞は、確信的だ。『間違ってないでしょう?』と、眼前の青島をチラリと間視 している。その眼差しに、青島はよくよくすみれは人間観察出来ていると、内心舌を巻いた。 「年下の恋人には、厳しく優しくがモットー、だもんねぇ。目一杯、恋人に甘やさかれてるもん、青島君」 コロコロと、玲瓏な音を響かせ、すみれは笑う。 「どうせ俺は、年上の恋人に目一杯甘やかされてる男ですよ。でも仕方ないっしょ?俺が甘 えないと、あの人完全拗ねちゃうんだから」 「腹立つ〜〜人が夜勤だってのに、幸せそうな顔して惚気ないでよ」 明日青島が非番な事を考えれば、今夜二人が逢う事など、考える以前に、すみれには簡 単に予想出来てしまう。 全国広しと言えど、青島と室井の秘密の関係を知る人間は、すみれだけだ。だから青島が どれだけ年上の恋人に甘やかされ、甘える事で、年上の恋人を甘やかしているか、想像に 容易い。そして年上の恋人を愛したが為に、刑事として急速に成長している事を知っている のもすみれだった。それは時にはすみれを切なくさせる程に、真剣な愛情を育んでいる二人 だ。だから明日青島が非番な事を考えれば、今夜二人が久し振りに逢う事など、すみれには 簡単に判ってしまうのだ。 「すみれさん、それ理不尽って言うんだよ。定時2時間も残業した俺に向かって」 「何言ってんのよ。さっき自分で『久し振りに定時で帰れる』って、ダレかさんからクリスマスにプレゼントされた時計見乍ら、言ってたじゃない」 「そうだよ、俺が漸く帰れるって時に、邪魔したのすみれさんじゃん。俺の普段の残業時間が 忍ばれるよ、本当」 今更思い出した様に、青島が白いシャツの袖を少し捲って時間を確認すれば、8時半を回 っている。 「私だって同じ。残業時間、変らないじゃない」 「幾ら残業しても、公務員の残業代はたかが知れてる」 「そのくせ規定時間以外はサービス残業」 報われないと、半瞬だけ空しくなってしまう二人に、雪乃がクスクスとした笑みを浮かべ、す みれの机の上に、小さいトレイを置き、今は主の在ないすみれの隣の椅子に腰を落とした。 トレイの上には、ワサビラーメンとキムチラーメンが乗っている。その横には、大きいマグカ ップが置かれ、香ばしい芳香が立ち上ぼっている。 「ありがとう」 雪乃に礼を言うと、すみれはマグカップを手にとり、一口口に含むと、飲み下す。 「ア〜〜美味しい」 「本当、湾岸署って、珈琲は美味しいですよね」 刑事になって日の浅い雪乃も、刑事課の珈琲が美味しいのは、きっと何処の所轄にも誇れ ると思っている。それはすみれも同様だった。 「青島君が、ムキになって改良に励んだからね」 盗犯係の女性刑事のすみれに、近隣周辺の所轄から、捜査要請が掛かることは稀だった が、今まで勤務してきた所轄でも、湾岸署程、美味しい珈琲を淹れている所轄に、お目にかかった事はない。そしてグルメツアーで慣らした味覚の持ち主二人を納得させる珈琲の味は、一重に青島が改良を加えた結果だった。 「そうなんですか?」 すみれの台詞に雪乃は初耳だと青島を見上げると、青島は 『参ったな』と、髪を掻いてい る。ソレはフトした弾みに見せる、青島の癖の一つだ。 「青島君、ニコチン中毒と一緒に、カフェイン中毒だから。不味い珈琲は許せないってね。まっ、尤も。ダレかさんから何時も美味しい珈琲淹れてもらってるからだろうけど。それで不味い 珈琲には我慢出来なくなっちゃったんでしょ」 『ネッ?』と、すみれは青島を見上げると、やっぱり青島は困った様な表情を見せているの に、すみれは内心『ビンゴ』と呟いていた。 何時の頃からか、青島は刑事課の珈琲の味に煩くなった。最初はその意味がすみれにも 判らなかった。 それは未だ室井が管理官時代の頃で、特捜本部が立つと、青島がよく珈琲を室井に持っ ていっているのを見掛けた時だ。 言葉の少ない室井が、『美味しい』と素直に青島に言っていたのを聴いた時から、室井の 台詞に、青島が嬉しそうに笑っていたのを見掛けた時から、薄々二人の関係に気付いてい たすみれに確信を与えた。だから青島が珈琲の味に煩くなったのは、室井が青島に常に美味しい珈琲を淹れてやっていた結果なのだろうと思っていた。今まで訊く機会を逃していた 答えに正解を見出だし、室井は青島以上に美味しい珈琲を年下の恋人の為だけに淹れてやっているのだろうとも確信したすみれは、今度ご馳走になろうとも、ちゃっかり思っているのだ った。 「青島さん、青島さんの恋人って、ダレなんですか?」 突然、前起きなく、雪乃は素直な疑問を口にした。途端、すみれと青島は互いに顔を見合 わせ、 「秘密の恋人だよ」 すみれの横に並ぶ様に座る雪乃に視線を移し、サラリと口を開いた。 「それ、答えになってませんよ」 「だって、それ以上でもそれ以下でもない、俺の大切な秘密の恋人なんだもん」 「皆、青島君の恋人、知りたいのよね。タラシの青島君に、秘密の恋人が在るってね。色々 訊かれる。何だか皆な変な誤解して、私の所に来るから」 「すみれさん、知ってるんですよね」 青島の恋人の事を意味深にダレかさんと呼ぶすみれだから、当然青島の、噂になっている 秘密の恋人の正体を知っているのだろうと、雪乃は隣のすみれを伺い視た。けれどその横 顔は予想通り、紅脣に意味深な笑みを象っているだけだった。そしてソレは、少しばかり切な さをも滲ませていたから、雪乃は半瞬だけ戸惑う自分を意識した。 「知ってる。青島君の大切なダレかさんは、年下の恋人に溺れてて、それでも溺れきらない 強さがあって、確信犯のタチの悪さで、年下の恋人目一杯甘やかすのが趣味。タチ悪いよね ぇ。甘やかすのが趣味だから、際限ないし」 どうして其処まで詳しく室井の事を知っているんだと、一瞬青島はマジマジとすみれを凝視 する。凝視しても、やっぱりすみれは白皙の貌に、ニヤリとした笑みを湛えているだけだった。 すみれは、知っているのだ。 恐らく室井は、際限なく青島を甘やかしているだろうと。だからこそ青島は、室井の愛情に 溺れきらない様に、自戒しているのだろうと。年上の恋人を愛したからこそ、室井の苦悩を理 解したいと、急速に刑事の横顔を深めたのだろうと、すみれは知っているのだ。そしてソレは 間違ってはいないのだ。 青島は、何時だって自戒している。 優しい恋人の愛情に溺れきって流されない様に。年上の恋人を失望させない様に。必死に 踏み止どまっているのだ。そして自分が際限なく甘やかしても、その愛情に溺れきってしまわ ない青島の強さを認めているから、室井はタチの悪い確信犯で、年下の恋人を甘やかすの だ。だからこそタチが悪いと、時折年下の恋人を脱力させている室井なのだから。 きっと互いに自戒しているのだろうと、すみれは正確に理解している。 互いの愛情に溺れても、溺れきってしまったら、その関係は破綻する性格のものだと。 組織の中でも、世間的にも認められない関係だからこそ、常に二人の愛情は真剣で、真剣 だからこそ、二人の関係を知る唯一のすみれを切なくさせているのだ。 アレ程誰かを愛する事が出来たら、それは何時しかすみれに切ない想いを抱かせる憧憬 にすらなっていた事を、青島も室井も知らないだろう。そして湾岸署及び、青島が何かと世話 になる頻度の高い、既に掛かり付け病院になってしまっている、厚生中央病院の看護婦達 は、何かと噂の青島の秘密の恋人の事を、青島本人やすみれに訊いて来る。けれどそれが 公言出来る相手ではないから、二人の会話の中で、その秘密の恋人は、常に 『ダレかさん 』と、暗号や記号の様に呼ばれていた。それがまた謎に謎、噂に拍車を掛け、様々な憶測が 湾岸署内では飛び交っている。 青島に想いを寄せる、女性警察官は少なくないのだ。その人数は、きっと青島が自覚して いる以上に多い筈だと、身を灼く嫉妬に胃を痛めている室井や、すみれの方が、詳しいだろう。だから雪乃が青島の秘密の恋人に興味を持っていても、何の不思議もない。 青島が被害者を労る気持ちに裏はないが、労られる方は大抵勘違いをする位、青島は特 に女性被害者には無自覚な程、無遠慮な程に、優しかった。だから被害者として青島に関 わり、青島の警察官としての行動に勘違いした女性も多かった。そして雪乃も一時、青島の 気持ちを勘違いした。 一見軽い印象の青島が、実は秘密の恋人に夢中で、誠実に恋人を大切にすると知ったの は最近で、だから雪乃は青島の恋人は幸せなのだろうと、思っていた。だから訊きたかった のだ。青島の秘密の恋人を。けれど青島は深い笑みを湛えるだけで、何時も恋人の事は話 さない。だから秘密の恋人なのだと噂されるのだと、雪乃は内心嘆息を吐いた。 「それじゃぁ、俺今度こそ帰るから」 再度時計を見れば、既に9時近い。今頃室井が官舎のキッチンで、夕飯を用意しているの を考えれば、早く室井に逢いたいと、身の裡が疼くのをとめられない青島だった。 「ハイハイ、私達はこれからお喋り大会しようね、雪乃さん」 瀟洒で細い指をヒラヒラ振り、すみれが横着に口を開くと、 「恋愛に付いて、ですね」 ニッコリと、雪乃がお嬢様然とした笑みを見せる。 「仕事でしょ」 女性陣二人の台詞に、青島は僅かに脱力した。 「事件起きたら、青島君指名するから。携帯の電源OFFにしないでよ」 「頑張って、優しい恋人の所から、可愛い後輩の所に飛んで来て下さいね」 「……雪乃さん、ダメだよ、すみれさんの悪影響受けたら」 笑みを湛えてすみれに続いて口を開く雪乃に、青島はつくづくすみれの悪影響だと頭を抱 える。けれどそれは逆に藪蛇にしかならない台詞だ。 「悪影響ねぇ〜〜」 『フ〜〜ン』と、すみれが『そんな事言っていいの?』と、青島を間視する。 年上の恋人に悪影響を与えているくせにと言外に滲ませ、すみれは白皙の貌に忍び笑い を刻み付けると、やっぱりタチが悪いと思わずにはいられない青島だった。これが被疑者確 保の為ならか弱い女性を演じているのだから、つくづくの演技力なのだろう。 「とにかく。久し振りに恋人に逢うんだから、二人共邪魔しないでよ」 「それは私達に言う台詞じゃない」 「事件に言ってください」 二人揃って外見だけなら莞爾な笑みなのだから、この笑みに騙され、巴投げや拳法を食ら う被疑者が多いのは、頷ける。 「ハイハイ、それじゃ、俺今度こそ帰るから」 口ではこの二人には適わないと、青島は一瞬だけ幅広の肩を竦めて苦笑すると、モスグリ ーンのコートを閃かせ、二人の視界の前でクルリと背を向け、刑事課を出て行った。 |