| 未来予想図 scene2 |
「残っちゃいましたね」 視界から青島の姿はアッと言う間に消えていった。消えて半瞬後、雪乃は手を暖める様に マグカップを両手で包み込むと、ポツリと呟いた。 「神経後遺症が残らなかっただけ奇跡的だって、担当医は言ってたけど、でも青島君のアレ ッて、殆ど癖なんだよねぇ。痛みもない、痺れもない。日常生活に問題はない。歩くのにも走 るのにも支障はないから、青島君自身、言われなきゃ忘れてる」 副総監誘拐事件で、被疑者の母親に左腰部を刺された時。一時期は誰もが最悪殉職、良くても神経障害が残るだろうと、思っていた。 厚生中央病院の救命救急センターに、室井の運転による公用車で搬送され、センターから 直接手術室に運ばれ、手術が開始された。術後は感染症などの合併症の危険性があるが、 青島は幸いにも回復力は早く、早期離床でICUから一旦は消化器外科病棟に転棟したが、 すぐに警察病院の整形外科に転院になった。警察病院での青島は、大凡問題行動の多い 患者の部類に入るだろう。 リハビリ許可前に自己リハビリに励んでしまい、何度看護婦がそんな事は却って養後を悪 くするからと言っても、返事はするものの、全く態度は改めない青島だった。結果。松葉杖の 使用方法を完璧に間違え、狭窄腱鞘炎を併発し、両手関節にテーピングをしていた青島の 姿に、室井の眉間に深い皺を刻ませ、年上の恋人ばかりか、医師も看護婦も呆れさせた青 島は、けれど奇跡的回復で神経症状等の後遺症もなく、警察病院を退院し、日常生活こそ 一番のリハビリだと、警察病院の担当医から、丁重な診療情報提供書を持たされ、再び厚生 中央病院の整形外科外来にリハビリ通院していた。いたが、神経障害等の後遺症はなかっ たものの、左足を引き摺る癖が、残ってしまった。それが酷く室井を悲しませている事を、す みれは知っている。 仕事にも日常生活にも全く支障のないソレは、既に青島の癖だ。初期に松葉杖の使用法 を間違え、全体重の加重許可の出る前から自己リハビリに励んでしまった結果に近い癖だっ た。けれど室井にとって、それは年下の恋人の癖などではなく、もっと早くに自分が決断を下 し、地域に詳しい所轄に協力要請を掛けてさえいれば、青島が殉職するかもしれないと言う、凍り付く喪失の予感さえ孕んだ傷を負わせずに済んだ筈だと、室井の心に、眼に視えない 疵を残した。その喪失の予感を、未だ室井が完全に手放せないでいる事を知っているから、 青島はその癖を直そうと努力しているが、フトした弾みに出てしまう。 きっと室井の前では、極力左足を引き摺らない様に注意しているのだろうと、すみれは思う。 「まぁいいんじゃない?仕事にも生活にも支障ないし。言われなきゃ忘れてる位、本人気に かけてない癖なんだから。全然刑事らしく見えない青島君だから、却って刑事っぽくなったかもよ」 そう笑うすみれの笑みは、ひどく切なげなものを滲ませていると、隣に佇む雪乃はすみれ の白皙の貌を視ていた。 「それに、青島君の心配は、恋人がしてくれてるでしょ」 青島の秘密の恋人が、実は凛然とした印象とは裏腹に、年下の恋人には厳しく優しく、年 下の恋人の心配は自分だけがすればいいんだと思っている事を、すみれは気付いている。 青島の心配を他人がする事を、内心室井が気に入らない事を、すみれは心得ている。同僚 として心配するのは当然だけれど、それ以上の心配をされる事を、青島の我が儘な年上の 恋人は嫌いなのだ。 青島に言わせれば、美人で綺麗で可愛いけれど、それと差し引き0にタチが悪いらしい。 とことん年下の恋人を甘やかして、青島は甘やかされている自覚があるから、室井の愛情の 前に、溺れてしまわない様に、自戒しているのだ。そして室井も、年下の恋人を甘やかす事 で、甘えている自覚が有るのだろうから、結局どっちもどっち。互いの心配は自分だけがす ればいいと思っているのだから、愛し合っているのだろう。だろうと、すみれは内心羨望と溜 め息をコッソリ吐き出した。 「大変ですよね」 すみれの台詞に、雪乃は青島の恋人を思った。 「本当、大変よね、あんな暴走刑事の恋人なんて。なまじ外見がいいだけにモテるし。そんな 恋人の姿見て、焼け付く嫉妬抑えて、暴走見守って。事件で傷付いた表情してれば、自分 の胃痛を抑えて年下の恋人抱き締めてやる。そんな芸当、私には出来ない」 そんな芸当、青島に対して出来る人間は室井以外に在ないと、すみれは凛然な印象を崩 さない、青島の年上の恋人を思い出す。 冷ややかに磨き抜かれた硬質な気配を纏い付か せ、小作りで理知深い面差しには、黒々瞬く怜悧な双眸が嵌められている。何処から見ても 凛冽な印象が深いキャリア。それが何時からか、静邃で清涼な気配をも滲ませ始めたと気 付いたのは、青島と在る時の室井を見掛けた時からだ。 恋愛には縁のない様にしかな見えなかった、清廉潔白で高潔然とした室井を、ああも愛情 に溺れさせたのだから、青島は誠実に、真剣に室井を愛してきたのだろうなと、すみれは二 度目の溜め息を吐き出していた。 「本当、青島さんの被害者への優しさって、勘違いしますよね」 雪乃が知るだけで、青島が被害者に勘違いさせたケースは、両手では足りない。青島の 無自覚な優しさは犯罪者並だと、雪乃は薄い肩を微苦笑と共に竦ませる。その雪乃の台詞 に、 「本当、タチ悪い男よ」 すみれも過去を思い出していた。 逮捕した被疑者にストークされ、怯えた日々が、すみれには有った。そんなすみれに、これ からも刑事を続けるなら、その傷と向き合い、被疑者を逮捕する事だと、青島は諭した。そし てすみれは野口を逮捕し、今も刑事として頑張っている。 野口に付けられた右前腕部の傷を、すみれは外科的手術で治療してはいなかった。野口 に傷付けられた腕の傷は、形成外科の瘢痕手術を受ければ、綺麗に治ると医師に説明され たが、彼女は手術を受けなかった。それは刑事として、犯罪者を取り締まる彼女が、不意打 ちに傷付けられた事に対する、刑事としてのプライドだったのかもしれない。けれど以前のす みれは、その傷を見る都度、野口に傷付けられた恐怖を思い出していた。 刑事である自分が、被疑者に傷付けられた痛みは、すみれの心の疵となって残った。そし て結婚間近の婚約者とも婚約を白紙に戻した。けれど何時しかすみれは、その傷と向き合え る様になっていた自分を知った。それは青島と真下の協力により、野口を逮捕した時からだ。その時から、その傷は恐怖を孕むものではなくなっていた事に気付いたのは、随分経って からだった。 火曜日が怖かった。背後に人が立つ事が恐怖だった。愛した人間とも別れた。何時も右腕 の傷を見る都度、恐怖と悔しさで涙が零れた時も有った。けれど何時しかその傷と、すみれ は向き合える様になった。なっていた自分に気付いたのは、何時だったろうか? ストークは怖い。それは他人事ではなく、自らが被害者になった経験を持つすみれだから こそ、被害者の心の傷も痛みも理解出来る。それだからこそ、その傷を見る都度。すみれは 刑事である自分を思い出す。思い出し、その傷を克服させてくれた青島の存在が、自分を力 づけている事にも気付いた。だからすみれも勘違いした。 アノ時、すみれが野口により再び襲われた時。湾岸署の誰もがすみれを心配した。けれど すみれを直接野口の恐怖から立ち直らせたのは青島だった。すみれの心の傷を真剣に考え、野口逮捕を諭した青島に、確かにすみれは一時惹かれた自分を意識した。青島の真剣さに、勘違いした。けれど青島の優しさは自分だけにではなく、被害者の誰にも向けられる事 に気付いたのも早かった。 自分だけが特別だった訳ではないと、すみれはすぐに青島のタチの悪い優しさに気付いた。不躾で、無遠慮な程に、青島は優しいのだ。特に被害者が女性の場合はより顕著だ。だか ら青島が事件で関わった女性被害者は、大概の確立で青島の優しさに勘違いする。青島の 優しさが、被害者に向けられる刑事としてのものだと気付く女性の場合はいい。けれど判らず 勘違いしたまま、青島に告白し、泣いた女性の数も、案外に多い。 青島は誤魔化さない。愛している恋人が在るから駄目だと、相手を勘違いさせたままに有 耶無耶にはしない男だ。けれど女性がそれでも引き下がらない場合。優しい面差しの背後か ら、冷ややかな気配を纏い付かせ、迷惑だと、キッパリ断る事の出来る男でもあった。それ で目の前で女性が泣いたとしても、慰める事などしない、毅然さや泰然さを湛えている。 青島は基本的にフェミニストだ。女性には無条件で優しいと言っても、大凡間違いとは言え ない、フェミニストである。けれど事が勘違いからの発端で、女性から告白された場合。時に は凛冽な面差しを覗かせる事に躊躇いはない男だ。それが青島の室井への愛情なのだろう。そんな青島を知るからこそ、室井は身を灼く嫉妬にも堪えられるのだろうと、すみれはフト 室井が羨ましいと思った。青島に微塵も心を残してはいない彼女は、けれども真剣な二人の 関係に羨望を感じてしまうのだ。自分も青島に負けない、秘密の恋人持ちのくせにだ。 「すみれさん、青島さんの恋人って、もしかして同業者なんですか?」 「秘密」 「狡いすみれさん」 「こればっかりはね、ダメ」 勘の鋭い雪乃に、すみれは顔に笑みを湛える。 「他人の恋愛にかまけてなくても、雪乃さんには、真下君が在るでしよ?さっきだって真下君。帰るのにグスグズ言ってたじゃない」 今夜当直の雪乃に、帰宅する真下は何だかんだと言っては帰らなかった。そんな真下を、 雪乃は子供みたいと窘め、窘め乍らも幸せそうに笑い、途中まで送ってきた。その帰りに、コ ンビニに寄って、大量の食べ物を買ってきたのだ。 「すみれさんも、ネ?」 「私はねぇ〜〜」 ズズッと、少し伸びてしまったキムチラーメンを啜り、 「賢太郎ちゃん、忙しいんだもん。特捜幾つも抱えてて、此処の所は電話もしてないし、掛か ってもこない」 署内では青島と雪乃しか知らないすみれの秘密の恋人は、知ったら誰もが仰天する、室井 弐号と呼ばれて久しい室井の後任管理官の、新城賢太郎である。 「すみれさん、どうして新城さんなんですか?」 すみれの横で、ワサビラーメンを啜り、雪乃は署内では青島同様すみれの秘密の恋人の 組み合わせに、コッソリ窺う様に小作りな横顔を覗き視る。 「ん〜〜〜?」 ズズッとラーメンを威勢よく啜り込むと、すみれは行儀悪く箸を持ったまま、右手でマグカッ プを手に取った。取り、 「どうしてかなぁ〜〜」 雪乃の問いに、すみれは半瞬凝思し、器用に箸とカップを持ったまま、既に温くなってしまっ た珈琲を一口啜り、 「気付いちゃったから、かなぁ〜〜」 マグカップを置くと、再び残りのラーメンを口にする。 すみれはの所作は綺麗だ。威勢よく食べるが、箸の使い方は綺麗で器用に使っている。 そのすみれの横顔を、雪乃は不思議そうに視ている。 「青島君刺されて、室井さんの運転で搬送されて、青島君救命センータから手術室直行で、 室井さん本店に帰っちゃったじゃない?」 今でも忘れられない室井の表情を、すみれは思い出す。 青島と二人、被疑者の少年宅へと向かい乍ら、被疑者確保の命令を室井の口から引き出 し乍ら、その少年を前に、青島は被疑者確保を躊躇った。被疑者逮捕の時こそ油断してはな らないと、散々和久に言われ乍ら、青島は確保を躊躇い、結果。被疑者の母親に刺され、重 傷を負った。 後から駆け付けた室井が、少年の部屋の扉を開いたアノ一瞬。すみれは確かに視た。 絶望に歪んだ秀麗な貌は愕然と立ち尽くし、日常は官僚然とした凛冽なまでの毅然さを崩 さぬ室井が、自らの流す血の中に崩れている青島を視た刹那。今にも泣きそうに聡明な貌 が歪められた。 アノ一瞬だけ、室井は確かに官僚ではなく、青島の愛する、年下の暴走刑事を愛している、恋人のモノになっていた。いたと気付いたのは、すみれ以外には、出血と痛みで意識が朦 朧とし乍らも、駆け付けた室井に被疑者確保を告げた青島の二人だけだろう。気付いたから こそ、青島は心を痛めた筈だ。 常に捜査の前線に飛び出し、大小様々な生傷の堪えない青島を、それでも黙って見守っ ていてくれる、年上の恋人を悲しませた。 被疑者確保の時こそ油断が生じるから気を付けろと、和久に散々言われ乍ら、一瞬の逡 巡により、青島は生命を落とし掛けたのだ。それは自分の失敗だと、その失敗で室井に泣き そうな表情をさせた。きっと室井の心を深く傷付けた事を誰より正確に理解出来る青島だか らこそ、室井の傷を思い、傷付けた自分に対して怒りと痛みを覚えた筈だ。けれどすみれは 知らない。 室井を傷付け、下手をしたら独り遺こして逝かなくてはならなかった。その想いが、室井の 精神を傷付けた己の軽率さが、死ぬ事に対して何よりの恐怖に勝った。アノ一瞬垣間見せた 室井の泣きそうな表情を、青島は生涯忘れないだろう。忘れる事など出来ないだろう。そし て室井も、忘れる事は出来ないのだ。肉が血の色を乗せ、倒れ伏していた青島の姿を。決し て忘れる事など出来ない。それは室井だけが知る、心の痛みだ。 そしてすみれはアノ事件で、室井同様、傷付いた官僚を知った。それが新城だった。 室井は、一瞬だけ垣間見せた貌を隠し、青島を厚生中央病院に搬送する為、自らハンドル を握った。泣いている暇などなかった。けれど確かに室井が動揺していたのは、後になって 考えれば誰もが簡単に判る筈で、救急講習上級の筈の室井が、ろくな救急手当ても、救急 車も手配する間もなく、自らハンドルを握り、搬送した。その事実だけでも、室井の動揺ぶり は、後から考えれば、誰にでも判った。その室井は、けれども青島を病院に搬送し、手術室 に運ばれるのを見届けると、芯が入った様に背筋を伸ばし、凛とした毅然さを滲ませ、警視庁 へと向かった。すみれが後から新城に聴いた話しによれば、室井はそのまま、青島の血痕 の付いたシャツとコートを着替える事もなく、刑事局長の池上の元へ向かったという。それが どれ程相手に不快感を与えるかを承知で、室井は敢えて青島の血糊りの着いた姿のまま、 池上の元へ向かったのだと。 現場捜査員は、犯罪検挙の為の駒ではない。歩兵ではないのだ。市民が安全に暮らせる 様に、常に命がけで捜査をしている人間なのだ。上層部の下らない縄張り意識で、一人の 捜査員が生命を落とす所だった。池上がそんな事を理解す筈もないと知り乍ら、室井は血痕 の付いた姿で、微塵の躊躇いなどなく、池上の元へと向かった。そんな室井の姿が、新城に 与えた影響は大きい。正確には、青島と室井の二人に、キャリアの高慢を完全に打ち抜か れていたといっても過言ではないのかもしれない。そしてきっと、新城は羨ましかったのだろ う。羨ましかったのだと、きっと後から気付いた筈だ。気付いた感情に戸惑い乍ら、それでも 新城は一課管理官として、現場捜査員から求められる立場を理解し始め、気付いた感情を 受け入れた。 『兵隊は、犠牲になってもいいのか?』 新城は無意識に、けれども怒りを込め、受話器を叩き付けた。叩き付け、毒々しげに、吐き 出す様に口を開いた。 組織人であり、行政官色の強いキャリアの新城が、始めて現場の捜査員を思っての言葉 だった。その新城の台詞に、その場の全員が驚いた。誰より驚いたのは、室井と新城という、二人のキャリア管理官を見てきた、一課長の島津だろう。 警察という、体制組織を円滑に運営する能力を求められるのがキャリアだ。都道府県が運 営する地方警察にキャリアを送り込み、地方集権型の警察組織を中央で総括する行政能力 を求められるのが警察官僚だ。だから逆に官僚が下を気に掛ける事などない。常にキャリア は安全な位置から現場に対して指示を出す。だから現場捜査員の苦労も、生死の表裏一体 性など、理解出来る筈もない。そんなキャリアの中で、警視庁一激務といわれる捜査一課管 理官に、自ら志願するキャリアなど、室井だけだった。その後任に新城がなったのは、偶然 に過ぎない。だから新城は、最初室井の後任と言う立場を嫌った。 キャリアは行政官として、組織を運営管理する為の制度だから、現場を指揮するなど、現場 捜査員との軋轢などこれ以上ない程の面倒だと思っていた。けれど青島が重傷を負い、室 井が青島の求める言葉を口にする強さや勇気を認めた時から、新城は少しずつ変った。 結局、新城が室井を殊更卑下した様な台詞を口にしていたのは、室井自身への羨望や憧 れの裏返しだったのだと、新城自身気付いた。そして暴走ばかりが悪目立ちする青島と言う 刑事の暴走の意味も、アノ時理解した気がしたのだ。理解した途端。今まで子供と変わりな い自らの気持ちに気恥ずかしささえ感じ、現場を理解しようと、現場捜査員に眼を向け出した 。だから湾岸署では、室井弐号と言われて久しい新城だった。 「青島君が一般病棟に転棟して、すぐだった。賢太郎ちゃん、青島君の病室の前でウロウロ してたの」 「新城さんが、ですか?」 室井以上に張り詰めた、何処か緊張感と威圧感を手放さない新城の印象に、『ウロウロ』と 言う言葉がしっくりする筈もなく、雪乃は細い麺を操る箸を止め、すみれを視た。 「青島君の病室に入ろうか、入らないで帰ろうか、可笑しい位にウロウロしてた。信じられる?私もこの眼で見なかったから、賢太郎ちゃんがウロウロしてるなんて、信じられなかった」 今でなら、管理官として所轄の特捜本部に訪れる新城の、何時も緊張感を保っているその 面差しの下に這う、根深い機微を読めるようになったから、アノ事件以後。回復した青島の見舞いに訪れれた新城の様子を、理解出来る様になったすみれだった。 「それで、どうしたんですか?」 「当然、青島君の病室に放り込んだ。アノ時の賢太郎ちゃんの戸惑った表情ったら、今でも 思い出すと可笑しい」 そう笑うすみれは、確かに優しい笑みを湛え、そのくせに、ラーメンを食べ終わると、サンド イッチに手を伸ばす。その仕草がすみれらしく、雪乃は尊敬する先輩に、やはり穏やかな笑 みを見せている。 「きっとアノ時、可愛いって思っちゃったのが、敗因」 「敗因、なんですか?」 「だって、よりによって賢太郎ちゃんよ。室井弐号とか言われて、所轄に対して不信の塊で、 挑戦的で威圧的。その反面。敵愾心隠せなくて、そんな賢太郎ちゃんの事、可愛いなんて思ったの、敗因以外のなにものでもないじゃない?」 青島が室井を可愛いと言う台詞の意味が、アノ時すみれは判った気がした。 室井を可愛いと言う青島の台詞が、最初すみれは判らなかった。何時だって官僚然とし、 嫌な位の毅然さと凛冽さを湛え、捜査本部で指揮を執っていた室井だから、青島が年上の 恋人を可愛いと表現する言葉が、俄かには信じられなかった。けれど、青島に触発され、徐 々にその仮面を引き剥がされた室井は、確かに時折、凛然とした雰囲気を手放す時があっ た。その一瞬の仕草が、実は可愛いと気付いてしまったすみれは、漸く青島の言葉に納得 がいった。そして室井との共通した可愛さを新城に見出だしてしまい、内心アノ時のすみれは 自分の意識に戸惑ったのだ。 青島の病室の前をウロウロしていた新城の姿に、すみれは戸惑い乍らも、素直に『可愛い』そう思ってしまったのだ。 湾岸署では何時も渋面し、威圧的で何処か挑発的な姿勢を崩さなかった新城が、所轄の 捜査員の見舞いに来たのに、躊躇いと戸惑いを映している姿など、可愛と言う言葉以外には、思い付かなかった。そして素直にその台詞が口を付いてしまい、新城の眉間に深い縦皺を刻ませたのは、言うまでもない。 「何となく、すみれさんの言葉、判る気がします」 すみれより一足遅くラーメンを食べ終えた雪乃は、すみれ同様の食欲を見せ、サンドイッチ に手を伸ばした。 「真下君が撃たれた事件で、雪乃さんずっと付き添ってたもんね。情も移っちゃう」 「私、それまで真下さんの事はいい人だって思ってたけど、特別な感情はなかった筈なんで す」 雪乃が湾岸署と関わった切っ掛は、父親が殺された事件でだ。アノ時。被害者の遺族であ り、父親の殺人現場を発見してしまっ雪乃は、失声症を患い、厚生中央病院に入院した。 被害者のたった一人の身内である彼女に、室井は被疑者と変わりない厳しい口調と態度で 接した。室井の冷冽な態度に、被害者の遺族である雪乃は、益々心を傷付けられた。そん な雪乃を励ましていたのは、青島だった。 力になると、守ると言ってくれた。冷冽な態度で接してくる刑事達に、雪乃は警察に対して 悁悒以上に深い失望と絶望を感じずにはいられなかった。そんな中で、青島の言葉は泣き たい程に優しく心を包んでくれた。だから雪乃は言葉を取り戻す事が出来た。青島の存在が、雪乃を力づけたのは偽りではない筈だ。だから雪乃は素直に青島を慕った。慕ったその感情が、恋と呼ばれる種類の物だったのか?今の雪乃は当時の自分の機微を思い出せない。けれど確かに恋だったのだろうと雪乃は思う。 被害者の遺族として関わり、次には自ら覚せい剤の売人容疑で、警視庁生活安全部薬物対策課の一倉に無理矢理警視庁に連行される所だった。それを救ってくれたのも、青島だった。 あの時の青島が、どれだけ恐れ知らずに一倉に盾突き、誰もが知る法律を、誰もが使用し ない方法で、自分が警視庁に連行される所を、ギリギリの所で引き止めてくれたのか。 刑事になったからこそ、雪乃には警察と言う組織の歪みが、少しずつ理解出来る様になっ ていた。いたからこそ、アノ時の青島の行動が、下手をすれば始末書などでは済まされない 事であったのだと、痛烈に理解できた。それでも青島は自分を庇ってくれたのだ。その青島 の気持ちを、女性である雪乃が勘違いしない筈はなかった。それも青島に救われたのは二 度目の雪乃なら、被害者に向けられる刑事としての青島の気持ちを勘違いしたとしても、そ れは不思議ではない。寧ろ当然と言えるだろう。 青島の、被害者に向けられる眼差しの深さや、女性被害者を勘違いさせる無遠慮な優しさ を、今では雪乃は同僚として視てきて、そして巻き込まれてもいる。いる分だけ、青島のタチ の悪い優しさに、深々溜め息を吐き出している。 青島の近くに在る女性の同僚はすみれと雪乃だけだから、青島の気持ちに勘違いした被 害者や、青島狙いの女性警察官や馴染みになってしまった厚生中央病院の看護婦達から、 青島の事を訊かれる機会は、すみれ共々に多い雪乃だ。青島の恋人だろうと、甚だ勘違い した言葉を聴かれる事も少なくはない。その都度すみれと二人で溜め息を吐く事も多い。 知れば青島に恋する事がいかに無謀な事か。聡明な雪乃に判らぬ筈はない。けれど当時 の自分は、きっと青島に恋していた筈だと、雪乃は過去を振り返る。 だから振り返った過去に、自分の気持ちが青島に傾いていたのだろうと思い、その傍らで、雪乃は思い返せば思い返すだけ、記憶の中の青島は、今ではもう刑事の姿でしかなかっ た。 刑事として、それ以上に、本来誰にでも無遠慮に優しいのだろう青島の、その不躾な程の 優しさは、常に被害者の痛みを大切にする事から起結している。 刑事になって、杓子定規の綺麗事では決して回らない組織の内情的な歪みを理解し始め た雪乃は、だからこそ今までの青島を知るに付け、刑事としてどれだけの暴走行為を行って きたのかも理解出来た。署内で聴く青島に纏わる噂は、暴走刑事との印象が多い。けれど、 同僚刑事として青島を視れば、その暴走の意味も考えさせられた雪乃だ。 青島の暴走は、自らの信念と律法が主軸にある。正しい事がしたいという極めて単純な信 念は、けれども善悪が複雑に絡み合い、その分価値基準も曖昧で解離的な現代社会で、そ れを実行出来るだけの行動力と自己責任能力がなければ、貫けない勇気と強さが必要不可 欠だ。 だから青島の暴走と言う意味は、常に真剣に事件に関わったいるが為のものだと、雪乃は 気付いた。そんな青島の真剣な横顔を視てきたからこそ、今過去を振り返れば、雪乃にとっ て、青島は恋心を抱いた相手ではなく、被害者の為、自らが後悔しない為に、形の伴わぬ、 輪郭を描く事さえ困難な社会正義を、足掻き苦しみさえ孕み乍ら、必死に模索している刑事 の姿でしかなかった。なかった事に気付いたのは何時だろうか?思い返しても、やっぱり判 らない雪乃だ。そして気付けば、何時も自分を見守っていてくれた瞳が在る事に気付いた。 それが真下だった。 「本人気付いてないだけで、あれで真下君人気あるのよねぇ」 今夜の湾岸署は、珍しい位 に閑散としている。刑事課の電話のベルも鳴らない。だから刑事課紅二点の当直の二人は、何時しか恋愛話しに夢中になってしまっていたのかもしれない。 警察にとって一番いいのは、閑舒な時だと言う。事件が起きなければ、犯罪に苦しむ人間 は生まれない。だから警察にとって、閑暇な時間は大切な事なのだという。彼女達二人が閑 語出来る今夜は、市民もまた夜の闇に見守られ、安穏な眠りの淵に在ると言う事だろう。 「何たって、キャリアで将来有望株。凡庸な外見とは裏腹に、流石東大法学部出身の頭脳。 真下君って、キャリアで幹部候補生のくせに、所轄に馴染み過ぎて、青島君の悪影響受け て、そこらいのキャリアにはない頭の柔軟性があるし。キャリアのくせにネットオタクで、この 前の事件だって、青島君に頼まれてネット検索して、坂下始の存在突き止めたの、真下君だ し」 すみれの言う様に、真下はヒョロリとした痩せた外見をして、自分では女性にモテないと思 い込んでいるが、湾岸署では青島と比較対象の部類では及ぶ筈もないが、それなりの人気 を誇っている。いる事を、本人だけが気付かないでいるのだ。青島も、真下が案外女性警察 官や、厚生中央病院の看護婦達に人気が有る事を知っている。キャリアで将来有望というだ けでは人気が出る筈もなく、それは一重に真下のキャラクターによるものだ。 湾岸署で有名なキャリアといえば、室井と新城の二大管理官だ。二人とも世間から向けら れる官僚の印象を失望させる事なく、本人達の性格を知らなければ、硬質で冷冽な印象し か読み取れない外見を誇っている。けれど真下は違う。 関東管区警察局長の父親を持つ真下は、何かある都度、父親の名を持ち出す事に一瞬の 逡巡も覗かせない。けれどそれは権威主義の官僚とは違い、真下が父親の名を持ち出す時 は、湾岸署の、大抵は独断専行と単独行動が得意な青島の、捜査の手助けをする為のもの でしかない。その時の真下は、躊躇いもなく明敏果断に父親の名を使用する。階級が絶対 な組織の中で、警視監である真下の父の名は、絶大な威力を誇っているのだ。 階級差別の徹底を図る事が、キャリア制度の仕組みの一つでもある。けれど真下は青島 や室井と出会い、近隣の所轄から空き地署と呼ばれる湾岸署独特のカラーを身に付け、驚く 程素直に所轄に溶け込んでいるキャリアだ。凡庸な外見に見せかけ、真下が中々の策士で ある事を、湾岸署の面子なら心得ている。そうして物事を素直に吸収する柔軟性を備え、飄 々と所轄に馴染みきっている。それは真下が腹部に持つ銃創からも判る事だ。 腹部に銃 創を持っているキャリアなど、警視庁広しといえど、真下くらいのものだろう。所轄でのキャリ アの扱いなど、警察庁からのお客様的扱いでしかないから、銃創を持っているキャリアなど、 在る筈もない。そんな真下だからこそ、本人が気付かないだけで、女性達に人気があるのだ。 「真下さん撃たれて、私アノ時警察官は、死と隣合わせなんだって、思い知ったんです」 雪乃は、父親の死体を発見している。そして3ヶ月足らずの期間、次には眼前で真下が撃 たれ、血塗れになった姿を視た。その時雪乃は痛感した。警察官は、市民の安全と引き換え に、自らの生命を死線に曝しているのだと。常に死と隣合わせで、市民の安全を守っている のだと。アノ時の自分は動揺してしまった。 専門職の人間は、その職種に合う様、経験則によって意識も訓練される。 警察官や医療関係者、消防士や救急隊員などは、人が死ぬという事実を、素人とは違い、 言葉での知識としてではなく、実際の事実として知っている。いるからこそ、逆に何時しか陰 惨な死体にも慣れ、被害者やその遺族の痛みにも慣れきって、忘れてしまうのかもしれない と、刑事になって日の浅い雪乃は思いしった。知ったからこそ、忘れてしまいたくなはなかっ た。そして青島が常に被害者に優しいのは、そういう事なのだとも理解した。 「怖くならなかった?」 「怖かったです。とっても」 「良く頑張ったよね、雪乃さん」 3ヶ月足らずで死という事実に直面した人間が、その怖さに取り込まれる事もなく、警察官 になる途を選んだのだから、雪乃は精神的に強いのだろうと、すみれは思っている。頼もし い後輩で、気の合う友人だ。 「真下さん撃たれて、看護婦さんから危ないから家族に連絡してくれて言われて、その時和 久さん捜査に出掛けちゃったんです。引き止めた私に、和久さん言ってくれました」 「刑事は被疑者を逮捕するのが仕事だ?」 「ハイ」 「和久さんらしい」 尊敬する老刑事の台詞らしかった。その老刑事も、現役は後半に譲り引退したが、湾岸署 で指導員とし、後輩指導、後輩育成に密かな熱意を燃やしている。 「アノ後姿、私今でも忘れられません」 真下を雪乃に任せ、捜査に出掛けた。誰もが真下を心配し、心配するからこそ、被疑者確 保を最優先したのだと言う事を、今の雪乃なら知っている。 「ウン、ソレ判る」 和久の後姿という印象なら、雪乃以上にすみれは視てきている。雪乃の言いたい事は、十 二分に判った。 「ねぇ雪乃さん、女は、守られるだけの存在だと思う?」 不意にすみれは、雪乃に尋ねた。尋ね、空になった二つのマグカップを手に立上がり、数 歩歩いて課長席の近くに在るドリップから珈琲を注いだ。カップから立ち上がる芳香が、心地 好かった。 「私、婚約破棄した事話したでしょ?その時の私は、未だ子供だった」 「すみれさん?」 手渡されたカップを受け取り乍ら、すみれの言葉に疑問が口を付く。 「雪乃さんはどう?守られたい?」 「私は……」 半瞬考え、 「守りたいです」 雪乃は物柔らかい笑みを見せた。 「女は、守られるだけじゃない。守る事だって、出来るのよね」 両手でカップを包み、すみれは半ば独語に呟いた。 「当然の様に守られるだけの存在は、嫌です。大切な人なら守りたいし、守られたい」 そう笑う雪乃が綺麗だと、すみれは何気に思った。綺麗に笑う事の出来る雪乃だからこそ、真剣に真下を愛し、愛されている自信が有るのだろう。 「エライ、雪乃さん」 「すみれさんも、そうなんでしょ?」 「だからね、昔の私は、未々子供だった」 「新城さんと、何かあったんですか?」 すみれの、普段にない台詞と、何処か物憂げな横顔に、雪乃は物柔らかい笑みを映し、尋 ねた。 「ウウン、何も。ただね、この頃よくそう思うの。何だねかぇ」 嘆息を吐くと、すみれは手にしたままのマグカップに口を付ける。温かい珈琲の香りとほろ 苦い味が心地好く浸透する。 2、3分の沈黙が在った。閑散とした署内は日常の喧騒とは一段も二段も趣が違う。空き地 署と近隣の所轄から呼ばれて久しい湾岸署は、近頃では空き地だった周辺にも建築物が増 えた。その中に、湾岸署は溶け込んでいる。 厳つい警察署の建築と違い、湾岸署は一見しただけなら洒落たオフィスの様にしか見えな い。此処が警察署と知らない人間なら、大凡何処かのオフィスと勘違いするだろう外観をし ている。けれど深夜も近い時間では、周辺の建物から明かりは消え、夜の闇の中では、煌 々と灯っている湾岸署は、周囲から浮き上がって見えるだろう。 「4月から、淋しくなるね」 刹那に、すみれが不意に口を開く。 短い沈黙は、緊張に張り巡らされたものではないから、心地好い感触が肌身に纏わりつい ていた。 「エエ、」 「とうとう真下君も、本店に異動か」 本当なら、真下は一年も前に警視庁に異動予定だったが、例の『拳銃発砲殺人未遂事件』 から異動が見送られていた。周囲からこのまま所轄に埋没か?とまで言われていた真下も、 いよいよ本店に異動の時期になっていた。 「雪乃さんと離れたくないとか何とか言ってたけど、いよいよか。淋しくなる」 署内では、青島を先輩と呼び、完全に青島の手下と認識されていた真下は、元コンピュー ター会社の営業をしていた青島とも、そちら方面での話しも合い、青島の暴走行為に手を貸 し、完全に悪影響を受け、所轄の裏技を身に付けていた。室井とはまた別の意味で、青島を 助けていた真下だったから、在なくなったら淋しいだろう。 「一課に行きたかったって、未だ言ってます」 クスリと、笑う。 「真下君、室井さん信奉者みたいな所あるから、同じ管理官なら、一課に行きたかったんだ ろうね。でも私は適材適所の人事だと思う、真下君の適性ピッタリじゃない?捜査二課は」 「エエ、私もそう思います」 警視庁捜査一課が、傷害、殺人等、凶悪事件を扱うのに対し、捜査二課は、収賄、汚職な ど、主に企業犯罪、経済犯罪等の知能犯を相手にするセクションだ。捜査方法も一課とは随 分違う。 捜査と言うより調査に適性のある真下なら、今回の二課異動は、その適性を考慮 した適材適所だと、誰もが思っていた。 「真下君も、成長したわね 雪乃に向けてと言うより、半ば独語に近い響きを漏らしたすみれ に、雪乃も言葉なく頷いた。 拳銃発砲事殺人未遂事件以降。真下の本店への人事が見送られていたのは、多分に真 下から父親への働きかけがあったからだ。湾岸署内部では、息子に甘いと評判の真下の父 は、刑事課に息子の席を設け、現在の真下の役職は刑事課々長代理だ。その真下も、自ら の指針を見付けたかの様に、本店への異動を父親に申し出た。所轄の水にあい過ぎた真下 が、自ら本店異動を父親に願ったのは、青島と室井の姿をつぶさに見てきたからにほかなら ない。 青島と室井が共鳴している事を知らない署員は、湾岸署内部には存在しない。その二人が 成し遂げようとしてる事は、他から見れば、絵空事に近い、到底不可能に思われる、組織改 革にある。 組織の底辺を支えるのは、年下の恋人と変らぬ多くのノンキャリアの警察官達だと、室井 は青島と関わる事で湾岸署にも深く関わり、組織の在り方を、上から下を見るのではなく、客 観的に見る事が何時しか出来るようになっていた。そして見えてきた事実から、眼を背ける 事が、出来なくなっていたのだ。 縦割り社会の弊害と、五〇〇人足らずのキャリアが、運営管理するだけの偏った組織の中。その組織を支えているのは、紛れなく組織の上からは歩兵としてしか扱われない多くのノ ンキャリア達だ。その事実に気付いた時から、パワーゲームを信条とする官僚社会の出世ル ートからは大幅に軌道がずれる事を承知で、室井は勇気を出し、発言してきた。発言するだ けの強さを、その時の室井は持ち得ていたと言う事だうろ。 そんな二人を視てきたからこそ、真下は本庁に行く決心を固めた。二人の成し遂げ様として いる現実の前に、真下は多少でも自分が役に立ちたいと思い始めたのは、何時だろうか? 真下は、二人に誇れる官僚でありたいと願い、その為に上に行く事に気付き始め、その途を模索し始めた。それは確かに、真下の成長なのだろう。だろうと、すみれも雪乃も、真下の成 長を認めていた。 「今年中に、もう一人湾岸署から在なくなるわね」 そう呟き、すみれは器用に上半身を捩じると、斜め後の席を視た。すみれの視線を追い、 雪乃も後方の席を眺めた。 「時間見付けて、勉強、してますもんね」 「本店のチャレンジャー精神を期待するなら、間違いなく、異動ね。室井さんは勿論だけど、 賢太郎ちゃんも推薦状書くって言ってたし。でもコレッて、前代未聞」 「何がですか?」 「昇進試験の成績は、ペーパー試験もさる事乍ら、面接が重要視されてるの。それに上司の 推薦状が必要不可欠。幾らペーパー試験の点数よくても、推薦状がなければ無理。その推 薦状に、幾ら上司ったって、本店一課管理官と、刑事部参事官のキャリアの二名の推薦状 付きって、前代未聞よ。直属の上司じゃないでしょ?遥か上のキャリアから、推薦受けるのよ、青島君。二人とも、造反行為もいいところ」 「造反、行為?」 「去年の副総監誘拐事件の青島君の行動は、組織の上にとっては明確な造反行為、でしょ?問題視されなかったのは、副総監本人と、真下局長の助力のおかげ」 「アッ…」 すみれの言わんとしている事を、刹那に雪乃も理解した。 「今回の青島君の昇進試験の推薦状書くって事は、昨年の副総監誘拐事件での青島君の 造反行為を、刑事部のキャリア二人は、間違いではなかったと認識している事になる。まして 島津の古狸も、推薦状書くって言ってるらしいから」 「一課長が、ですか……?ソレッて………」 ノンキャリ警察官の最高ポストと言われる警視庁捜査一課長の島津を、古狸と言うすみれ もすみれだが、雪乃ははすみれの 言葉の意味に気付き、暫し呆然とする。 「一課長とキャリア管理官、刑事部参事官三人が、組織の上は造反行為と認識している所轄 の暴走刑事の推薦状を書く。それ自体が組織に対しての明確な造反行為って映る筈。裏を 返せば、捜査一課でのアノ事件は、上と全く見解が逆だって、示す事になる。青島君を推薦 させるって事は、そういう事。昇進と同時に、一課に異動させるって事と、同義語だもの。言 葉に出す以上に、辛辣よね。造反行為って認識され、暴走刑事って識別されてる青島君を 推薦して、警部補に昇進させて、一課に引っ張る。青島君に広域捜査権を持たせるって事は、犯罪捜査の中枢に位置させるって事だもの。刑事警察の中枢で、犯罪捜査の聖域の本店一課に、造反行為をした刑事を異動させるって事は、これ以上ない、明確な意思表示だもの。青島君も、死ぬ気で頑張るしかないわよねぇ」 コロコロと、すみれは全く他人事のように玲瓏に笑い、笑い乍らもその白磁の顔は、何処か 切ない色を映している。 「大丈夫なんですか?青島さん」 昇進試験で一番の難関は、巡査部長への途だと言うが、警部補試験が簡単な訳では決し てないのだ。 警視庁の昇進試験は、SA式試験が用いられる。憲法、刑法、刑事訴訟法は当然乍ら、警 察学校では漢字試験が有る位だから、当然難度の高い漢字の読み書きも出題される。民法、民事訴訟法、一般教養までと、出題範囲は幅広い。 「大丈夫でしょ。これ以上ない位、優秀な家庭教師が付いてるんだから」 その優秀な家庭教師が、どんな方法で年下の恋人に昇進試験のディベートをしているかま では、想像出来ないすみれだ。 青島の昇進を誰より願い、助力しているのは室井だ。そして青島自身が切望している。以 前、刑事に成り立ての青島では、考えられない事だった。 嘗ての青島は、正しい事をするのに階級は関係ないと思っていた。上にいかなくても、正し い事は出来ると信じていた。それは優秀な成績を納めていた営業マンと言う職を辞め、警察 官になった青島だから、その想いは人一倍強い。だから正しい事をするのに、偉くなる必要 は感じなかった。けれど組織に半年も身を置けば、組織の歪みは嫌でも理解出来る。だから 青島が今階級をあげる事を切望するのは、自らの正しいと信じた事を貫く為には、階級権力 が必要だと、気付いたからなのだろう。そして室井の為なのだろう。 湾岸署内部では、暴走刑事と名高い青島が、けれども昇進試験に受かる事を信じない刑 事課捜査員は、在ないだろう。 青島は、一度は交番勤務に降格し、そして湾岸署に復帰してきた。その少し前、真下が撃 たれ、生死の境を彷徨った事件の少し前から、青島は怖い位に真剣な横顔を覗かせ、足掻 く程に焦燥している表情を見せる事が多くなった。それが青島の刑事としての成長なのだと 気付いた者は案外に少なく、後になって青島の成長に気付いた。けれど相変わらずの暴走 行為に、課長の袴田や署長の神田の胃を傷ませてもいるのも事実だった。 「青島君抜けたら、最悪ね、刑事課は」 「怖いですね……」 青島が、副総監誘拐事件で被疑者の母親に刺され入院した時の刑事課の惨状を思い出 すと、今から二人とも胃が重くなる。 単独、暴走の印象の強い青島は、けれども確かに優秀 な刑事だった。だったからこそ、青島の抜けた穴は、特に強行犯係にとっては、痛手などと言 う言葉が生温い程に、痛手であり、改めて青島の存在の重さに気付かされた刑事課の面々 だった。 暴走刑事と言う評価以上に、青島は明敏果断な猟犬だった。明敏果断さ故に暴走する刑 事は、けれど確実な情報収集能力と、分析能力を誇ってもいたから、常に確実な結果を弾き 出す事の出来る男でもあった。だから青島の抜けた穴は、痛手所か打撃だろうと、予想の付 くすみれと雪乃だった。 「まっ、でも頑張って貰わないと」 薄く細い肩を竦め、すみれは青島の席を凝視し、次に莞爾と笑った。それにつられ、雪乃も 淡い笑みを刻み付けた。 その夜の湾岸署は、珍しい程に閑舒だった |