深 海 魚












 今までも、それに気付いていなかった訳でも、気にならない訳でも決してなかった。
訊いても仕方ないと思う輩や、訊けば自分と比較して、適わないと思う輩や。好奇心丸出
しで訊いても、未だ自分達には未知の領域で、判らないだろうと思う輩がその場所には
混在していて、結果、桃城の背や腕に、無造作に付けられ、その存在を主張している人
物のことを、誰も訊けないでいた。だから誰もが互いに顔を見合わせつつ、深々溜め息を
吐き出してしまったとしても、罪はないだろう。
 桃城が、名前すら明かさず、大切に大切にしている秘密の恋人は、新入生はともかく、
校内では知らない者は居ないと言われる程、浸透してしまったものだったからだ。
 今日のは特に凄かったと、口には出さないものの、誰もが内心感じたものに大差はない。そして自分と比較して、溜め息を吐き出した。
 隣接している高等部に、四月に進学してしまった元レギュラー陣でも居れば、反応は違
ったものになっただろうか、彼等がいない今、誰もが内心盛大に溜め息を吐き出してはみ
ても、軽口に紛らせ、それを訊くのは、躊躇われた。こんな時、進学してしまった元レギュ
陣は偉大だったのだと、改めて痛感する羽目に陥るなど、誰もが想像しなかっただろう。
 最上級生になり、益々精悍さに磨きの掛かった桃城は、骨格に沿い、綺麗に筋肉の付
いている背や腕に、此処最近派手に跡を残している。その跡の意味が判らない程、彼ら
も子供ではなかったものの、それが半ば以上、嫌味と牽制が含まれているものだと判ら
ない程度には子供だった。
「桃ちゃん部長の背中、なんかすごい跡ついてたよな」
 人間スピーカーと言われて久しい堀尾も、場所が教室で、周囲に何かと口煩い女子が
いる中、話題の中身が中身の所為か、声は自然と密められたものになっている。
 相手が堀尾だけに、一瞬先の行動の予測は不可能に近いと、人間PCの異名を誇る乾
にそんな科白を吐かせた堀尾も二年になり、後輩が出来た所為なのか、多少なりとも状
況判断ができるようになったのかもしれない。以前だったら間違えなく、周囲の状況など
考えなかっただろう。
「堀尾君、よく見てるね」
 堀尾とは対照的に、そういう話題に多少引け目を感じるカチローが、呆れながら乾いた
笑みを見せている。とは言っても、健全な発育をしている中学二年ともなれば、異性やセ
ックスに興味があって当然の年齢だ。自分達に一番近い部活の先輩の背や腕に、どう見
ても、情事の最中に付けられたとしか思えない爪痕や噛み跡が残っていれば、無責任な
興味と好奇心が煽られたとしても、それは仕方ないだろう。まして桃城は、堀尾達の好奇
な視線の意味に気付きながら、隠すことをしなかったから尚更だ。
 桃城に、見せびらかす子供じみた意図はなかっただろうが、惜しげもなくリョーマに付け
られた爪痕や噛み跡を残すのだから、好奇心旺盛な年頃の子供には、些か刺激が強い
代物だったのかもしれない。
「桃ちゃん部長、秘密の恋人居るって噂だし」
 堀尾とカチローの科白に、相槌を打ちつつ肯定しているのは、カツオだった。
「それを桃ちゃん部長、隠さないし」
 桃城の『秘密の恋人』説は、今では中等部で知らない人間はいないと言われる程、校
内では浸透してしまったものだった。まして桃城自身、噂を否定しないのだから尚タチが
悪い。
 桃城には、どうやら名前も明かさない程、大切にしている秘密の恋人がいるらしい。
その噂は中等部にとどまらず、隣接している高等部でも流れているのだと、リョーマが不
二と英二に聴かされたのは、つい二週間前のことだった。
 昼休みや放課後、都合など無関係に呼び出され、桃城が告白されているのはリョーマ
にとっては最早日常茶飯事、恒例行事のようなものだった。 桃城とそういう関係になる
前から親しかった距離に居たリョーマにしてみれば、明け透けな笑顔を作為的に、それこ
そ惜しげもなく披露する桃城の曲者ぶりに騙され、隠された本質も知らずに見掛けで告白
する女子に、いちいち嫉妬していられないというのが本音だった。だから桃城に関する噂
が高等部まで流れていると聴いた時、リョーマは心底呆れた程だ。
「桃ちゃん部長の『秘密の恋人』説って、去年の秋頃から出回った噂だよね」
 邪気のまったく無い表情をして、カチローが確認するように口を開く。
 他人を構えさせない、開放的な笑顔を作る桃城は、その気安さから女子に人気が高か
った。
 全国区のテニス部レギュラーで、今では手塚から部長職を引き継いでいる。カリスマ的
な存在感と、圧倒的なテニスの技術を誇り、中等部卒業と同時にアメリカにプロ留学した
手塚の後を引き継ぐのは、生半可な精神値ではないだろう。けれど桃城は気負いも覗か
せず、副部長の海堂と二人三脚で、テニス部を巧く運営していた。そんな桃城が、モテな
い要素を見つける方が、リョーマにはひどく困難な作業に思えた。青学テニス部レギュラ
ーというだけで、モテる要素には十分だということを、リョーマは知っていたからだ。まして
今は部長になり、告白回数は新年度になってから、既に片手ては足りないことも、リョー
マ知っていた。
「恋人居るから付き合えないって、断ってるって」
 大抵の流言飛語は、娯楽性が満たされれば消失する。それが噂というもので、週刊誌
やワイドショーがいい見本だろう。けれど桃城の噂は消えるどころか、生徒間の共通認識
として定着してしまった。噂が噂にとどまらず、今では校内で浸透してしまった一番の原因
は、桃城自身に有った。
 桃城に告白する女子は、断られてすんなり引き下がる程、おとなしい性格をしていなか
った。元々雑踏の賑わいを連想させる桃城の気安さに惹かれ、告白する女子が殆どだか
ら、告白を断られ、おとなしく納得する女子は殆どいない。それも友人関係の延長線で告
白してくる女子も少なくは無いから尚更だった。
 最初こそ、『付き合えない』の一言で断っていた桃城も、食い下がってくる女子にいちい
ち説明するのも面倒で、恋人が居るからというストレートな断りをするようになった。それ
が夏も終わり、秋の訪れを告げる時期だった。
 恋人が居る。けれど名前も年齢も明かさない。その顛末が 『秘密の恋人』説に繋がっ
ていた。その噂に拍車を掛け信憑性を与えたのは、桃城の親しい友人関係の中でも、誰
も桃城の恋人の名前はおろか、姿を見たという人間はいなかったからだ。
 親しい友人にも漏らさない恋人の名。どんなタイプの女かと訊かれれば、美人な小生意
気とだけ答えているから、桃城の 『秘密の恋人』説は、今でも消えることはなかった。
ましてそれは事実でしかなかったから、桃城は流れる噂をそのままに、弁解や釈明など、
潔い程一切放棄している。
「あのさ」       
 些か憮然とした態で、リョーマは自分の机の周囲で群がる級友達に声を掛けた。
二年のクラス替えで、リョーマは一年当時から級友だった堀尾に加え、カチローとカツオ
が同じクラスになった。ましてその中には、桜乃と朋香も混じっているから、リョーマに言
わせれば絶対作為的だと、新年度のクラス替え表を見た時、内心で拳を握った程だ。
その時脳裏を過ぎったのは、テニス部顧問の竜崎の姿だった。
 飄々とした父親の恩師で有るだけに、竜崎スミレは底が知れない。校内で絶大な権力
を誇っている竜崎は、新人教員の指導主任でもあったし、長年私立の青学に在職し、まし
て全国区のテニス部顧問で、青学の名を売るのに貢献している所為でか、中等部はおろ
か、隣接している高等部や、都内の外れに位置している、巨大なキャンパスを持っている
大学部、大学院にも絶大な権力を誇っていた。それはストレートで人脈でもあった。何故
なら、竜崎の教え子などが、教員として母校に就職しているからというのも理由の一つだ
ろうし、彼女が理事の一人に名を連ねているのも理由に数えられるだろう。尤も彼女が理
事の一人であるの事実を、リョーマは知らない。けれどリョーマにも何か感じる部分はある
のか、作為的なクラス分けは、絶対竜崎の意見が通った結果だろうと、疑っていなかった。そして事実はリョーマの推測とほぼ変わらないものだった。
「そういうの、プライバシーの侵害っていうんじゃないの?」
 よく其処まで他人の話を好奇心と興味本位だけで、無責任に会話の中心に持ってこら
れるものだと、リョーマは聴きたくなくても聞こえてくる堀尾達の会話に半ば呆れていた。
「お前は、気にならないのかよ」
 呆れ顔をしているリョーマに、堀尾は絶対お前変だよというように、リョーマを眺めた。堀尾に言わせれば、中学生で、性的な部分に興味の薄いリョーマは、淡白すぎるということになるが、リョーマに言わせれば、それは見当違いも甚だしいという言うことになる。
「別に」
「リョーマ君は、桃ちゃん部長の恋人、見たことないの?」
「なんで?」
「だってリョーマ君、桃ちゃん部長と一緒に居るから」
 去年リョーマがテニス部に入部した時から、桃城はリョーマを構い倒している。それは誰
の眼から見ても明らかだった。特にリョーマといつも一緒に居ることが多い堀尾達にして
みれば、桃城のリョーマへの関わり合方は、過保護という域のものだった。少なくとも、喜
々として、後輩の送り迎えを自転車でしてしまう先輩等、彼等は聴いたことはなかった。
そして先輩にそんなことをさせて平然としている人間も、堀尾達は見たことはない。そんな
桃城とリョーマだから、桃城の友人達より近い距離に居るだろうリョーマなら、桃城の秘密
の恋人を見たことがあるのかもしれないと思ったのだ。
「フーン」
 カツオの科白に、リョーマは面白そうに笑う。
此処で桃城の秘密の恋人が自分だと言ったら、彼等はどんな表情をするだろうか?
「桃先輩の恋人は」
 興味津々で凝視してくる堀尾達に、リョーマは可笑しそうに笑うと、
「あの人の秘密の恋人は、勝ち気で小生意気で美人の別嬪。それで焼き餅焼き」
 シレッと言った。この科白は、初詣の時、英二が桜乃達に語ったものだった。
「越前、お前有ったことあるのかよ」
「さぁね」
 堀尾の科白に、リョーマは忍び笑いを漏らした。きっと桃城が見たら、そんな表情は他
人の前でするなという類いのものだったが、リョーマのその笑みの意味に彼等は気付か
ない。
「でも、あの人の恋人は、最後には自分のことしか選べない、自分勝手な冷たい奴だよ」
 これも正月の時、言った科白だった。
正月の冷たい空気の中。澄み渡った風一つない穏やかな快晴の下、告げた言葉だった。
 そんな科白に深い苦笑で、誰もが利他では有り得ないと、桃城に言われた。だからお
前は優しいのだとも言われたその科白の意味を、リョーマは今でも完全には判らないで
いる。
 優しいのは桃城だろうにと思う。我が儘を言っては穏やかな深い苦笑で髪を梳く桃城の
方が、リョーマには幾重も優しいと思えた。
 誰にでも見せる、明け透けな笑顔とは相反する穏やかな苦笑。髪を梳く節の有る長い
指。
 あの時から、自分はどれだけ変わってしまっただろうか?
近くなってしまった距離の分だけ、失う怖さが付き纏う不安など、今までなら知らずにいた。けれど知ってしまった今、それは二度と手放せない。桃城と関係した当初は、いつでも
離れられると思っていた。誰かに何かを傾けるなど、ないと思っていた。テニスだけをして
いれば、それで良かった。強くなるということは、そういうことだと思っていた。テニスのこ
とだけを考え、テニスの技術を磨いて。それだけで十分だと思っていたし、テニスをする以
上のものなど、必要ないと思って生きてきた。けれど桃城と関係を持ってしまった随分早
い時期に、それだけでは人は生きていけないのだと教えられてしまった。
「越前、そんなの桃ちゃん部長の耳に入ったら、いくらお前でも怒られるぞ」
 桃城がリョーマを過保護に扱っているのは知っていても、流石に恋人のことをそんな風
に評されたら、怒るだろうと堀尾は攅眉する。堀尾の科白に、カチローとカツオも、頷いて
いる。
 幾ら桃城がリョーマを大切にしているのは判っていても、後輩と恋人を天秤に掛ければ、そり比率など訊くまでもない筈だった。これで恋人より後輩に傾くようでは、それは秘密
の恋人では有り得ない。
「怒らないよ、本当のことだから」
 怒らない分、桃城は深い苦笑で笑うことなど、リョーマには判りきっていた。いつだって
桃城はそうだ。リョーマにとっての桃城の笑顔は、世間がそうと評する、太陽なようなと形
容されるものではなく、大人びた深い苦笑の方が、余程印象深かった。それはリョーマだ
けが知っている、桃城の微苦笑だからだ。
 桃城は、自分より余程優しい。優しいから、切なさしか募らない。それは身を揉む恋情な
のだと、今ならリョーマにも判るものだった。
 切なく恋焦がれる痛みなど、今までなら知らずにすんでいた。満ちる為に欠ける餓え。
その理不尽な道理など、知りたくは無かった。満ちた餓えは一瞬で、刹那には補完もされ
ずに欠けていく。空洞を埋める筈の行為は、其処が到達点でないのを指し示すように、次
の瞬間には更に激しい餓えに襲われる。その空洞が、今ではなくてはならない餓えにな
っていると、桃城が何処まで理解しいるのか、リョーマには判らない。桃城もそうだろうか
と考え、自嘲するばかりだ。桃城は、決してそんな手の内など、見せてはくれない悪党な
のだから。
「リョーマ君、なんか機嫌悪い?」
「あ〜〜〜お前案外拗ねてるんじゃないか?」
「何ソレ」
 堀尾の素頓狂な科白に、リョーマは半瞬らしくない程キョトンとした貌で、煩い級友を凝
視する。問われた意味の半分も、リョーマには理解できない内容だった。機嫌の悪い自
覚もない。
「お前、桃ちゃん部長と仲いいだろ。盗られた気分なんじゃないか?」
「アア」
 そういうことかと、苦笑する。客観的に見たら、そういう見方も有るのかと、リョーマは他
人事のように自分を外側から眺めた。
 桃城の秘密の恋人である自分が、自分に嫉妬しても無意味だ。桃城に想いを寄せる女
に嫉妬しても、それこそ無駄と言うのも判っている。
 桃城は決して不誠実ではない。恒例行事のように女に呼び出され、告白されているそ
の悪党ぶりに、それこそ嫉妬しても意味はない。嫉妬しなけばいけない不安など、リョー
マは桃城から与えられてはいなかったから尚更だ。
「案外お前も子供だな」
 何も知らない堀尾が、訳知り顔で話すのが可笑しくて、リョーマは笑い転げたい気分に
なる。
 無邪気に他人の恋路に口を挟んでいられる程、彼等は子供で、餓える程誰かを求めて
しまう恋情など、知らないのだ。恋は綺麗なものだと信じていられる彼等が、リョーマには
少しだけ羨ましかった。
 自分が桃城というたった一人の男に女にされ、今話題にしている情事の跡を付けた張
本人だと言ったら、幼い彼等は一体どんな表情をするだろうか?想像して、リョーマはま
た笑った。
 綺麗なものなどない醜い内側を、桃城はいつだって大切にする。桃城に向かう恋情は、
女の醜ささえ宿し、浅ましくなっていくばかりだというのに、桃城は相変わらず莫迦みたい
に慎重に扱おうとする。だからいつだって、挑発せずにはいられないというのに。
 ………仕方ない人……。
リョーマは薄い口唇に、溜め息を宿した。それは何処か甘く、苦いものが混じり合っている。 
 桃城を胎内の深みまで受け入れ、満たされた瞬間から味わう餓え。上り詰め愉悦に崩
壊するのはたった一瞬だ。たった一瞬で、内側から喪失していく恐ろしさを、きっと桃城は
知らない。死海に吐き出される桃城の生命の残骸が、身の裡から流れ出て行く恐怖を、
桃城は知らない。この身の何処を切り刻んでみても、生命を宿す海はないというのに、吐
き出されていく残骸。それさえ愛しくて恐怖なのだと言ったら、きっと桃城は泣きそうに笑
うだろう。
 宿す海もないのに抱かれる快感と、等分に分け与えられる怖さ。そんなものを知ったの
は、教えられたのは、桃城にだ。初めて桃城を受け入れた時の生々しいまでの恐怖を、
桃城は知らない。
 何も知らなかったら、ラクだったのには違いない。けれどもう戻れない。たった一人の男
を身の裡に受け入れる、快感とは違う場所で感じていく泣き出したい程の餓えを、知らな
かった頃にはもう二度と戻れない。
 記憶とか、そんな部分を差し引いても、桃城のことはきっと忘れられない。その名が指し
示す姿形を忘れてしまっても。名が象るそのものを忘れてしまったとしても。


『取り敢えず、付き合ってもいいよ』


 そんな言葉を自分を守る盾にしていられたのは、ほんの僅かな時間だけだった。今で
はもう手放せないその餓えは、いずれは愛しさにまで転換されてしまうのかもしれない。


「堀尾も、まだまだだね」
 恋愛なんて、綺麗なものなんて一つもない。そんなことも知らない幼い子供達。桃城の
背や腕に無造作に付けられている情事の跡の意味さえ知らない。
「なんだよ越前」
 リョーマのいつもの科白に、堀尾は憮然となった。堀尾が更に反駁しようとし時、ホーム
ルーム開始のチャイムが鳴った。



















 文武両道、全力で学び、全力で遊べという校風を誇る青学は、近隣では氷帝と並ぶ私
立の名門だった。幼等部から、大学部までの一環したエスカレーター方式の教育は、毎
年外部進学者を募っている。けれど私立の名門だけあり、外部試験の困難さは、私立の
入試テキストにも毎年名を連ねる程、ひねこびた出題でも有名だった。外部試験同様、進
学の為の内部試験も存在する。エスカレーター式と言っても、一定の学力がなければ上
には進学できないシステムになっている。そのシステムを導入しているからこそ、青学は
一定の学力を生徒の誰もが維持できているのだ。けれど学力重視に偏らないのも、青学
の売りの一つでもあった。
 外部試験の難しさでは有名な青学の、今年の外部進学希望者数は、過去最多数を誇
っていた。その理由を面接で尋ねれば、誰もが去年の真夏に繰り広げられた、テニス部
の全国大会のことを上げていた。誰もがあの真夏の死闘に魅せられ、青学テニス部に入
部するのを夢見て、進学を希望してきたのだ。だから女子より圧倒的に男子が多かった
のかと言えば、テニス部員の見目の良さも手伝ってか、女子の進学希望者数は、男子よ
り遥かに上回っていた。
 だから今年の青学は、今までより外部進学者を抱く結果になり、それはテニス部に集中
していた。けれど流石に全国大会優勝校の練習は半端ではなく、4月には50人近くいた
新入部員は、5月も下旬の現在では、半数近くに減っていた。夢だけでは青学テニス部
では生き残れないのだと、誰もが思い知るのは早かったのだろう。
 そしてテニス部は、全国区とは言え、学園から特別扱いをされてはいないから、部室は
他の部活と同等のスペース数しか与えられてはいなかった。入部者数が増えた一時は、
流石に部室を広げようかという案が職員会議の席上で出たものの、その案を不必要と一
喝したのは、テニス部顧問の竜崎だった。
 どうせ夢見てテニス部に入った新入部員が、今年も全国を目指す青学の練習に付いて
こられる筈もないと、脱落者数が出るのを見越しての発言だったと、桃城達が耳にしたの
は全国間際のことになる。それが顧問の言う科白かと、呆れたのは言うまでもない。南次
郎に言わせれば、今でも『鬼ババア』だ。
 だからテニス部の部室は、朝夕の練習後は密集地帯になっていた。嫌でもくっついて着
替える羽目になるから、より桃城の背や腕に付けられた跡が良く見えるという顛末が付く。
 背や腕に付く、生々しい爪痕や、肩口に付く歯形。首筋や胸元に付く鬱血の跡。裸体を
惜しげもなく見せ合う部室の中、周囲を見渡しても、桃城以外、誰もそんな跡を持っては
いない。
 桃城の『秘密の恋人』説が出回った当時、桃城を良く知る友人知人から受けた賛辞は、
お前もこれで身を固めとけと言う、中学生に贈られるとは思えない科白と、何処までそん
な関係が長続きするんだという、ものだった。
「ねぇ、桃先輩」
 今も放課後の練習後、大石から副部長職を受け継いだ海堂と、竜崎と三人で来月のラ
ンキング線の話し合いを終え、戻ってきた所だった。
 二年になったリョーマ達は、去年桃城が二年当時、新入部員だったリョーマ達の面倒を
見ていたのと同様、今はリョーマ達が新入部員の面倒を見ることになっていた。それは中
等部テニス部は、縦割り関係を学ぶべきところという位置付けが明確になっているからだ。高等部に行けば、選手としてより実践的な技術や精神力を求められるから、新入部員
の扱いは異なってくる。現に進学早々高等部レギュラー陣は、不二達の手により総入れ
替えを余儀なくされていた。その不二達はと言えば、一年でもレギュラーは部活前後のコ
ート整備や後片付けは免除さいうシステムになっている。実力の差異が明瞭なのは高等
部のテニス部の有り様だった。
 丁度桃城が戻ってきた時、リョーマ達は一年生に細々した指示を出し、一足先に部室に
戻ってきた所だった。コートでは、一年生が不慣れな手付きで、それでも楽しげに練習後
の後片付けをしている。誰もが疲れた様子は窺えるものの、疲れた表情をしてはいない。
今年も地区予選が始まる青学テニス部の練習は、これから益々苛烈になって行く。今疲
れていては、先が続かない。
 海堂と二人で戻ってきた桃城は、リョーマの隣で着替え出した。それはリョーマが昨年
テニス部に入部した時から、不動の位置になっている。
 桃城が周囲の好奇な視線も気にせず、威勢良くレギュラージャージを脱いだ時だった。
ニンマリ笑って声を掛けたと思った次の瞬間には、周囲がギョッとする行動にリョーマは出
ていた。
「コラッ!越前!」
 意味深に笑ったリョーマは、左手人差し指で、桃城の背をスゥッと撫で上げていた。不意
打ちに撫で上げられた桃城は、半瞬ビクリと筋肉を動かしたものの、さした驚いた様子は
見せず、どちらかと言えば、タチの悪い悪戯に脱力している様子だった。けれど周囲はそ
うはいかない。 
「えっ………越前…!」
「リョーマ君!」
 二年になり、二年生トリオという呼び名に若干変わった堀尾達が、リョーマの行動に悲
鳴に近い奇声を上げる。桃城の友人の荒井達も、リョーマの行動に唖然となって口を開
いていた。
 誰もが朝練の時から気になっていた桃城の、此処最近、くっきり残されている情事の跡。気になりはするものの、デリケートな部分だけに踏み込めない領域を誰もが意識しない
訳にはいかなかったから、誰もが揶揄さえ出来ずにいたのだ。それをこともあろうに、ダイ
レクトに触れたリョーマの行動は、部員達の顔色を失わせるには十分すぎた。
 桃城がリョーマを莫迦のように過保護にしているのは、新入部員以外には判りきってい
た事実だったし、五月も下旬になれば、新入部員も部長である桃城が、リョーマを大事に
しているのは判り始めていた。
 特に桃城の友人である荒井達などから見れば、桃城のリョーマへの構い方は、過保護
の域を超えているものにしか映らない。桃城がリョーマを過保護にする理由は判らなくて
も、過保護にしている事実は明瞭すぎた。それこそ眼に入れても痛くない程、桃城は一つ
年下の後輩を慎重に扱い、莫迦が付くくらい、甘やかしまくっている。以前新入部員一人
を過度に甘やかすのは問題じゃないのかと言った荒井達に、桃城は肩を竦めて答えただ
けだった。
 その荒井達ですら、桃城の背や腕に付けられている跡を、揶揄することも出来ずにいる
中、幾ら桃城が過保護に甘やかしているリョーマとは言え、軽い仕草で触れられれば、桃
城とて黙ってはいないとだろうと誰もが思い、桃城の怒声に耳を塞ぐ者さえいた。それくら
い、校内では桃城の『秘密の恋人』説は有名だった。けれど周囲の想像と、桃城の反応
はほぼ正反対にあった。
「お盛ん、ですね」
 脱力する桃城に、リョーマは相変わらず意味深な忍び笑いを浮かべている。それは桃
城だけが知ることを許されている、リョーマのタチの悪さだ。
「越前〜〜〜」
 今度こそ桃城は、ガックリとロッカーに懐いて脱力した。
お盛んなのは桃城というよりリョーマの方で、土日の昨日一昨日は、此処二週間、地を這
う不機嫌のリョーマの機嫌を取るのに、桃城は時間を割かなくてはならなかった。
 周囲の誰にもリョーマの不機嫌さは気取られないものの、桃城には明瞭に判るリョーマ
の不機嫌さだった。そしてリョーマの不機嫌の理由は桃城が原因だったから、桃城は苦
笑と共に、リョーマの機嫌を取るのに専念していたという顛末が付く。
 その張本人にタチの悪い笑みと共に、くっきり残された跡を撫でられれば、桃城が盛大
に脱力してしまったとしても、罪はないだろう。けれどやはり周囲はそうはいかない。
 普段と何一つ変わりない桃城とリョーマの軽口に、周囲は唖然となっている。リョーマが
恐れ知らずなのは判っていたし、小生意気なのも十分承知していたものの、此処までと
は思わなかったと言うのが素直な本音だろう。そしてリョーマの不躾な仕草を許してしま
っている桃城にも呆れた。甘やかすにも程があると、荒井達などは内心盛大に溜め息を
吐いているに違いない。
「ダレが、付けたの?」
 秘密の恋人?
刻まれる笑みに、桃城は深く溜め息を吐き出すと、無言で柔らかい髪をクシャリと撫でた。
 リョーマの不安定が露出している。それは桃城しか判らない些細なもので、テニスに影
響するようなものではなかったものの、此処最近、リョーマが不安定になる頻度は増えて
いる。今此処にリョーマしか存在しなかったら、桃城は間違いなく、細すぎる躯を抱き締め
ていただろう。
 リョーマが不安定になり出したのは、正月をすぎた辺りからだった。一つの迷いに答えを
出した瞬間から、新たな深みが待ち構え、リョーマを離さない。吹っ切れたと思ったのは、
たった一瞬だ。


『上に行くよ』


 冬の澄んだ空気の中。スラリと伸びた腕が指し示した場所。先へ行けば行く程、切っ先
を細くする戦場のような場所へと続く道。けれど其処が何より、リョーマがリョーマとして生
きて行ける場所だった。それがどれだけ、リョーマが望むものとは違ったとしても。リョーマ
は其処でしかきっと生きられない。
 屍を生み出し、その屍を踏み付け、暖かみ一つない玉座を目指す。上に行くということ
は、そういうことだ。敗者の怨嗟を身に纏い、リョーマは益々研ぎ澄まされていく。王とは
そういうもので、彼のテニスの才は、当人が望む望まぬものとは別の場所で、リョーマに
有り様を求め始めている。
 細い指先に隠し持つ鉄爪を、躊躇いもなく振り下ろせる場所。それがリョーマの生きて
いける場所だ。リョーマにとって、テニスは空気と変わりない。余りに身近に有り過ぎて、
有るのが当然のものだから、その存在の重要性に気付いていないのだ。失ったら、生き
た屍になるというのに。そんなリョーマを見たくないと思う反面。そんなリョーマを見たいと
も思う、二律背反が桃城の内側には有る。
 テニスを失い、正気を失い。桃城の内側には、理性だけではない薄昏い感情も有るの
だ。リョーマ程優しくストレートに悩んで見せないだけで、桃城にも、人並みに恋いうる相
手に対する束縛も執着もある。けれどそれ以上に、リョーマがリョーマとして綺麗に映る場
所を心得ている。それだけのことだ。


「ねぇ?桃先輩」
 甘えたような声と、タチの悪い忍び笑い。そのくせ内側に泣きそうに笑う子供の姿が見
え隠れしているのに、桃城は堪らない思いを味わっていく。
「俺の大事な、秘密の恋人」
 桃城は、クシャリと柔らかい髪を掻き乱すと、白いシャツを羽織った。
「……サイテー……」
 桃城の深い苦笑にリョーマは俯くと、口唇を噛み締めボソリと呟きを漏らした。


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