手負いの獣
act1








 随分と長くなった夕暮れが、ビルばかりの池袋に影を落す。ビルの群れから切り取った様に
覗く夕暮れは、もう随分と太陽は地平線に姿を隠し、雄大な残照が周囲を明るく照らしている。それが無機質なビルに反射し、長い影が地上に影を描いている。それでも、故郷の夕暮れ
と都会の夕暮れは、一段も二段も趣が違う。真の意味で夜の闇のない都会の夕暮れは、そ
れさえ自然の摂理と言うよりは、無機質な演出のように見える時がある。
 そんなことを思いながら、暮れ行く太陽の軌道を眺め、帝人はもう何度目になるか判らない
溜め息を吐き出した。
 首なしライダーに、自分が土台を作り上げた、色のないカラーギャングのダラーズ。
去年高校進学と同時に上京し、目まぐるしい変化に、漸く落ち着いて周囲を見渡せれるように
なった時には、もう季節は巡り、再びの春を迎えていた。その間には色々なことがあった。
 首なしライダーと言う都市伝説。リッパーナイトと呼ばれた、連続切り裂き魔事件。そして黄
巾賊やら、絵空ごとではない、カラーギャングの存在。
 非日常に憧憬のような想いを抱いていたことは否定しない。上京すれば、取り巻く環境が変
れば、何か変るかもしれないと言う想いを抱いて、親友からの誘いに、両親を説得して上京し
たのも事実だ。だからと言って、大切な存在と引き換えなんて、何も望んではいなかった。
 紀田正臣。自分が唯一親友と呼べる存在は、彼だけだった。女性全般を愛しているという軽
口とは裏腹に、面倒見がよくて、色々と教えてもらった。彼以外の人間から上京を勧められて
も、おそらく自分は上京などしなかっただろう。 
 けれどその相手は、突然理由を語ることなく、訊く暇も与えられず、自主退学して、姿を消し
てしまった。一体何があったのか?考えても、彼の悩みに何も気付いていなかった自分には、
知りようもなかった。携帯のアドレスも変更されてしまったらしく、何度ボタンをプッシュしても、
耳障りな音声を伝えてくるだけだった。
 そうして初めて、自分は親友と呼ぶ相手のことを、何も知らなかったのだと思い知らされた。
いつも一緒にいたから、知っている気分にさせられていただけの話で、実際は何も知らなかっ
た。彼が上京してどういう中学生活を送っていたのか。どういう想いで、来良に誘ったのか。
何も知らなかったし、尋ねなかった。神経程の細い繋がりが切れてしまえば、親友と自分を繋
ぐものは一切存在しない。
 案外と、人と人の繋がりなど、そんなものなのかもしれない。切ろうとすれば、いつでも切れ
る。それも自分の意思など無関係に、ただ一方的に。自分と親友のように。
 特に携帯に依存して繋がり合うような関係は、アドレスを変えてしまえば、何もかもが切断さ
れてしまう。或いは、自分が毎晩出入りしている新宿の情報屋のチャットのように。
 確かにそこに在るけれど、触れることはできず、今すぐに消えてしまっても不思議ではない
仮想空間。以前ダラーズを作ったメンバーが消えてしまった時のように。案外あっさりと、人と
人との繋がりは、切断されてしまう。
 あの時に判っていた筈だった。神経の切っ先程度の繋がりは脆弱で、希薄なものだと。繋が
っていようとする意思がなくては、成立しない関係なのだと。あの時に嫌という程実感した筈だ
と言うのに、親友と言う二文字で、自分は関係を怠った。実際親友が何を悩み、自主退学に
至ったのか、自分はその欠片程度も判りはしない。いつも軽口に紛らせていた言葉に誤魔化
されている間に、親友は消えてしまった。その腑甲斐無さを、昨夜チャットで話したら、甘楽と
言うハンドルネームを使用している情報屋は、面白い、けれど的を得たことを言ってきた。


『人がしようと思ってしてやれることなんて、本当は金の工面程度だよ。見え易いって意味でもね。あとは君の親友が決めることじゃないかな?』


 そんなふうに話していたが、思えば、折原臨也と平和島静雄という関係は、面白いものだと
ふと思う。
 池袋最強の平和島静雄と、新宿を拠点とする情報屋の折原臨也。この二人には絶対に近
付くなと、親友からきつく教えられていた。
 池袋で生活していれば、喧嘩人形と呼ばれる静雄と遭遇する確率はゼロではないが、折原
臨也という、新宿を拠点に活動している情報屋と遭遇する確率は極めて低い。だから余程の
確率でなければ遭遇しないだろうと言われていた。けれど情報屋とは、あっさりと遭遇し、そし
て情報屋と犬猿の仲だとされる池袋最強と呼ばれる平和島静雄とも遭遇した。そして二人の
話しを漏れ聞いて総合すると、どうやら高校時代からの犬猿の仲で、その喧嘩は数年に及ぶ
と言うのだから、聴いた当初は、気の長い話しだとさえ思ったくらいだ。
 憎悪にしろ愛情にしろ、そこまで長く誰か一人を思っていられると言うことは、ある意味で特
別な気がした。
 凝り固まった想念の結果。そういう見方もあるだろうが、それでも自分はそこまで誰か一人
に憎しみを傾け、長年喧嘩など続けている根性は続かない。まず気力で続かないだろう。
誰か一人に憎しみを傾けることは、とても精神を磨り減らすだろうから。自分には到底真似は
できない。自分ならおそらく、何処かで妥協点を見付け、理由を作って許してしまう。或いは自
分の中で切り捨てる。
 けれどこの二人は違うのだと知った時、ある意味で特別なんだろうと思えた。それは一方が
確実に相手を殺してしまえれば、関係はそこで終るからだ。或いは面倒に手を染めるのが嫌
なら、無視すれば済むことだ。自分の中でその存在を切り捨ててしまえば、関係は続かない。
けれど未だに喧嘩が続いていると言うことは、互いの関係を、互いが切り捨てていない証拠だ
ろう。そこに在るのは、一体どういう心理なのか?
 例え話に紛らせチャットで尋ねたとしても、おそらく上手く誤魔化されてしまうだろう。親友の
悩みも知らずに失ってしまった自分より、二人の関係は眼に見えている分だけ直截で、どんな
心理が働いているにせよ、自分と親友のように、何も話すことなく切れてしまうような脆弱な関
係ではないのだろう。それが少しばかり羨ましい。自分は親友にも、好きな相手にも踏み込み
拒絶することを恐れて、表面綺麗な付き合いばかりをしてきていたのかもしれない。あの二
人のように、殴り合うような関係を築けていたら、親友は悩みの欠片程度は、話してくれてい
ただろか?
 そんなふうに自問自答を繰り返し、いつもとは違う経路を通って帰宅している途中だった。
不意に細い路地の奥から異質な気配を感じ、帝人は路地裏の、更に置くの細い路地に足を踏
み入れた。
 いつも行き帰りに使用している通学路と道を変えたのは、少し一人になって考えたかったか
らだ。家に帰って思索しても、気持ちが重くなるばかりだったから、気分転換の意味も兼ねて、
帰りの経路を変えてみた。
 上京するまで池袋という場所は、歓楽街と言うイメージしかなかっものの、歓楽街として有名
なのはほんの一部で、そこから少し脇道に入れば、未だ昔ながらの佇まいを残している場所
も少なくはない。高層マンションと昔ながらのマンションやアパート。そう言ったものが混融して
いる場所。それが都心の歓楽街の素顔だ。
 普段なら決して踏み入れない細い路地の奥。そこから漂ってくる仄かな匂いは、覚えがあっ
た。
 錆びた鉄の腐臭。それは明らかに血の匂いだ。こんな路地裏で血の匂いをさせているなど、
尋常ではない。どういう理由があるにしろ、隠れていると思うのが妥当だろう。本来なら関わり
にならないのが得策で、知らないふりをして通り過ぎてしまうのが賢い遣り様の筈だった。
けれど見て見ぬふりをして行き過ぎてしまったら、更に大きい後悔を背負い込む気がして、帝
人は恐る恐る、路地裏に足を踏み入れた。
 細い路地は明度の淡い春の陽射を綺麗に遮り、ひんやりとした空気が纏い付く。確実に強く
なってくる腐臭に眉を顰め、帝人は細い路地の奥まった場所に蹲る黒い固まりを見付け、恐る
恐る声を掛けた。
「あ……あの……」
 躊躇いがちに声を掛け、そこで帝人は吐息を飲み込んだ。
足を投げ出し、行き倒れのように蹲っている人間には、嫌と言う程、見覚えがあったからだ。 
「い……臨也さん!?」
 よく見れば、黒い固まりと化した姿は、臨也のコートだった。
「……やぁ、帝人君?」
 掛けられた声に顔を上げれば、そこにはひどく驚いた表情をした幼い貌があるのに、臨也は
血の色を失った表情に笑みを刷いた。
 誰か近付いてきているのは判っていたが、気配から追っ手ではないことは判っていた。血痕
を残すような莫迦な真似はしなかったから、相手も簡単にこの場所を捜し当てられないだろう
ことも判っていた。だからちょっと傷の痛みが癒えるまでの一休みと迎えを待っている間、まさ
か来良の後輩に見付けられるとは思ってもいなかった。竜ヶ峰帝人は、ある意味本当に非日常に愛されているか、引き摺り込まれるべき人間なのかもしれない。普通偶然のレベルで、
遭遇する事態ではない筈だ。
「な……何…何してるんですか!怪我!怪我してるじゃないですか!」
 黒い服を着ているから判りにくいものの、臨也の黒いシャツには、じわじわと血が滲んでいる。よく見れば、腹部を押さえている臨也の白い手も、血だらけになっている。
 帝人は慌てた様子で制服のポケットからハンカチを取り出すと、臨也の手をそっとどかせ、そ
れを腹部に押し当てた。そうすれば、臨也は僅かに顔を歪めた。けれど苦痛の声は漏れなか
った。
「アハハハ、優しいね、帝人君は」
 自分がこれから何をしようとしているか知れば、帝人は自分を助けたりはしないだろう。
昨夜チャットで話していたように、親友が離れてしまった原因は、自分にあるのだと知れば尚
更だ。尤もこの手の人種は、自分自身の寝覚めの為に、他人を見殺しにはできないタイプだ
から、自分が何をしようとしているか知っても、やはり同じ行動を取ったかもしれない。そういう
意味で、紀田正臣が帝人を大切にするのは頷ける。正臣にとって、帝人は帰るべき最後の砦、なのかもしれない。失えないからこそ、自分から離れた。何とも面白い関係だと思う。だから
こそ可愛いコマなのだ。
 そんなふうに思いながら、腹部を押さえる帝人の手が血で汚れる前に、臨也はそっと帝人の
手を退けた。
「臨也さん!」
 臨也の指は恐ろしい程に冷たくて、爪の色も血の気を失っている。それだけ今の臨也の状
態が悪いのだということ程度、知識のない帝人でも容易に想像が付いた。
「ダメだよ、そんな無防備に素手で他人の血液になんて触れたら。どんな感染症持ってるか判
らないんだからね」
「冗談言ってる場合じゃないですよ!」
「冗談じゃなくて、単なる事実だよ」
 焦りながら怒ったような帝人の表情に、随分器用な真似をするなと胸中で感心しながら、臨
也は悪戯気な笑みを浮かべた。
 別に冗談でも巫山戯ている訳でもないのだ。他人の血液に素手で触れることの危険性は、
医療にちょっとでも通じていれば、誰もが知っている単純な事実だ。相手がどんな感染症を持
っているか判らない以上、素手で血液に触れるなんていうのは、リスクを背負い込むようなも
のだ。感染した場合、治る場合も勿論あるが、治らないものも多い。その場合、一生リスクを
背負うことになる。その為医療や消防、警察と言った社会に従事する人間は、素手では決し
て他人の血液には触れないように訓練されてくる。
 帝人も非日常に憧れるなら、それくらいの基本的な問題は知っているべきものだろう。うっか
り感染症で死にましたなんて言うのは、冗談にしからならない。
「でもこのハンカチは借りておくよ。今度新しいのプレゼントするから」
「救急車…」
「はっ?」
「救急車呼びますね」
 携帯を取り出した帝人に、臨也は心底呆れた表情を浮かべると、携帯のボタンをプッシュす
る帝人の手をそっと制した。
「何処までも優等生な君らしいけど」
 やれやれと、臨也は小さく溜め息を吐き出した。
新宿を拠点に活動している情報屋とは言え、数年前までは池袋を拠点に活動していて、警察
に尻尾を掴まれる証拠などは残さなかったものの、状況的には著しく黒という証拠は色々と掴
まれている。その情報屋が深手を追って救急搬送されたら、これ幸いとばかに捜査員が事情
聴取に乗り込んでくることは判りきっていた。その辺りの判断と言うか、量りが鈍いのか、帝人
の優等生すぎる発言には、流石の臨也も眼を点にするしかなかった。これでは正臣が大切に
することしかできなかった筈だ。
「生憎と、俺は堂々と医者に行ける身分じゃないんでね」
「で……ッ、でも!そんな傷でどうするんですか!」
 こう話している合間にも、臨也のシャッは血が滲み、ハンカチなど、ものの数分で真っ赤に染
まってしまった。どれだけの傷かは判りようもないが、これだけ出血しているのを見れば、深手
だと判る。何より普段は底を掴ませないような飄々とした臨也が、こんな路地裏で蹲っている
のがその証拠だ。
「大丈夫だよ。迎え呼んであるから」
「む…迎えって……」
 迎えを呼んだとしても、医者に行けないのなら、意味はない筈だ。そんな言外が臨也には判
ったのだろう。臨也は血の気の失せた貌で、静かに苦笑を刻んだ。
「蛇の道は蛇って言ってね。知り合いに裏専門の医者がいるんだよ。少々変態ではあるけど、
腕は確かな奴だから。ただちょっとここから行くには距離があるから、巻き込める奴を呼んだん
だ」
 新羅のマンションに行くには、距離があり過ぎて、迂闊に行くには危険すぎたから、来神時
代から面倒を掛けている同級生を呼び付けた。普段なら借りを作ることは足下を救われる結果
に繋がるから、極力そういうことは避けるが、相手が相手だ。今更借りが立て込んでも、互い
にいつものことだと諦めが付いている。
「とっとと退散しないと、面倒なのに見つかるし」
 池袋に入れば間違いなく自分を見付け出す相手。一体どんなレーダーが搭載されているの
か、その部分はとても興味があるが、当人も判っていない様なので、確認のしようもない。いっ
そ新羅に解剖でもしてもらえ。そう思う。
「あ……静雄さん…」
「そ。シズちゃんに見つかると、厄介だからさ」
「でも…いくら静雄さんでも、ここは見付からないんじゃ…」
 繁華街から離れた細い路地裏で、静雄に見付かる可能性はゼロに近い気がした。
「でも帝人君は、こうして俺を見付けただろう?」
「それは、たまたま偶然で……」
 臨也が池袋にいるとは思ってもいなかったから、手負いの獣のように、路地裏に身を隠して
いるなど想像もしなかった。まして自分がいつものルートを通って帰宅していたら、こんな臨也
の姿を知ることはなかった。いつも底の掴めない笑顔で飄々としている臨也からは、今の姿は
想像もできない。
 傷を負い血を流し、今にも崩れてしまいそうな境界線で自己を保っている。間近に見れば、
その線の細さは異常なくらいで、顔色の悪さも手伝って、今の臨也は消えてしまいそうなくら
いに脆く見えた。
「偶然でもさ。帝人君に見付けられたんだから、余計シズちゃんには見付かり易い気がするん
だよね。シズちゃんのレーダーって、異常だし」
 一体どんなレーダーを搭載しているんだと思うものの、池袋に足を踏み入れれば、恐ろしい確率で静雄には見付け出される。今の状況を見付かれば、面倒なことこのうえない。だから一
時も早く、ここから立ち去りたいのだ。とは言え、躯は深手を負い、流石に動くことを拒否して
いるから、迎えが来るまでは動けない有様だ。どうにか意識を保っているものの、これ以上出
血が続けば、意識を失いそうだった。
「帝人君も、早く帰りな」
 バイバイと臨也がひらひらと手を振れば、帝人は慌てた様子で、今にも意識が崩れてしまい
そうな臨也の薄い肩を抱き込んだ。
「しっかり、しっかりして下さい。迎えの方が来るまで、いますから」
 掌中に触れた臨也の肩は、想像以上に細く薄い。こんなに細い躯で、池袋最強という男と長
年渡り合ってきたと言うのだから、一体どんな繋がりなのか疑問が湧いた。
「ダメだよ、君まで巻き込んだら、ドタチンに怒られる」
「迎えって、門田さんですか?」 
「そう、ワゴン持ちだから。この傷じゃぁ、タクシーも乗車拒否されるだろうし。何だかんだ言っ
ても面倒見いいから、そこに今回は付け込ませてもらったんだ」
 アハハハと笑う笑いは乾いていて、臨也は本格的に崩れそうになる意識に、塀に頭を凭れ
た。
「ちょ……臨也さん!しっかりして下さい!」
 元々白い臨也の顔色が、青味を帯びるのに、帝人は動転して臨也の名を叫び、どうしていい
か判らない焦りから、掌中に包んだ薄い肩を揺さぶった。
「痛……ッ、痛いよ帝人君……」
 がくがくと揺さぶられ、臨也が痛みに苦痛の呻きを漏らし、眉を顰めた。その蟀谷には痛み
からだろう。冷や汗が滲み、臨也の状態の悪さを露呈していた。
「でもあれだなぁ。痛みが生存本能に直結しているって言うのは、本当だ」
 痛感と言うものは、生存本能に直結している際たるものだ。こんなに痛いのに、生きていくの
には必要な本能だと言うのだから始末に悪い。痛みの苦痛に耐え兼ねて、自ら生命を断つ者
さえ在ると言うのに。
 そして思い出すのは、来神時代に遭遇した一人の怪物だった。生来的に痛みを感じる機能
の欠落した無痛症の男。静雄の絶大な力にさえ動揺せず、むしろ楽しげにしていた化物。
 痛みを知らないから、引き換えに他人に痛みを与えて、自分で体現しようとした、人間の皮を
被った化物。静雄も大概化物だと思うが、静雄は痛みというものがどういうものか、ちゃんと知
っている。いるからこそ、池袋中を探し回って、自分を見付けてくれたのだろうから。
 狩沢が冗談とも本気とも判らない、別名静雄の持つイザイザレーダーとやらは、もしかしたら
あの時に開発されたのかもしれない。
「だとしたら、痛みも感じないシズちゃんって、やっぱり化物…」
 少なくとも、静雄に肉体的なダメージを与えることは難しい。ナイフの刃も、まともに刺さらないような男だ。けれど肉体はダメでも、精神に痛みを与える方法は知っている。その絶大な力
を抜きにすれば、静雄の精神は健全だからだ。捩子曲がった思考回路を持つ自分より余程ま
ともだ。
「まさかその傷……」
「まさか。シズちゃんが俺を殺そうとするなら、片手でことが足りる。首捻られて終りだよ」
 化生じみた力を有する静雄に、ナイフなど不必要だ。片手で道路標識を捩じ切り、振り回す
ことが可能な男だ。わざわざ殺害手段に、ナイフを使用するような手間は掛けない。
「帝人君、俺なんて置いて、さっさと帰りな。もうすぐ迎えも来るし、俺ちょっと寝るから」
 話し疲れたしと、色のない口唇が自嘲的に笑い、臨也がすぅと瞳を閉ざした。その面差しは
怖いくらいに血の気を失い、一種人形めいて怖いくらいだった。死体を見たことはないが、生命
活動を終えた人間というのは、一様にこんな顔色になるのかもしれない。そんな恐怖が足下
から忍び寄り、帝人は細い肩を揺さぶった。
「臨也さん!寝たらダメですよ!」
 慌てて臨也の肩を揺すった時だ。背後に佇む人の気配に、帝人は慌てて振り返った。
「静雄さん……」
「臨也、ざまぁないな。起きやがれ」
「あ……あの静雄さん……」
 振り返った背後には、バーテン服を着た静雄が立っていた。それは池袋の喧嘩人形と呼ば
れ、何かあると地の底から響くような低い唸り声とともに、臨也の名を呼ぶ静雄とは別人に見
えた。
 表情を消し去った無機質な視線に見下ろされ、帝人は不気味な恐ろしさに足下が竦んだ。
表情同様、口調の乱暴さとは裏腹に、声は何か底の方から響くように淡々としている。それは
いつも臨也を前にして見せる静雄の表情とは、まったく違っていた。
 今の臨也が静雄に立ち向かえる筈もない。けれど自分では静雄を止める術は何も持たない。その無力さが歯痒かった。精々静雄を刺激しないように、押し止どめる言葉を探すことしかで
きない。
「……シズちゃん……。よくこんな場所まで見付けたね」
 眠いのに起こすなと、うっすらと双眸を開けば、帝人の背後から表情のない視線が見下ろし
てくるのに、臨也は小さく笑った。
「静雄さん、今臨也さんは怪我をしているんです。だから……」
「そんなこたぁ、見れば判る」
 臨也を庇うように腕に抱く帝人に、静雄が苦く舌打ちすれば、必死に見上げてくる視線に、
更に苛立ちが増した。
「臨也」
 とっとと起きろと促せば、臨也はやれやれと小さく溜め息を吐き出して、肩を抱く帝人の手を
そっと退けた。
「臨也さん!」
「起きろって言うなら、手くらい貸してよ」 
「ガキに庇われてる奴に、貸す手なんてあるか」
「何それ。相変わらず理不尽だよ、シズちゃん」
 実際出血が酷すぎて、眼を開けていれば眩暈がする。躯中の力が抜けきって、この分では
立つだけでも、相当の労力を必要とするだろう。それでも静雄の射るような視線は容赦なく起
き上がることを強要して、臨也は「我儘」とこっそり溜め息を吐き出して、塀に手を付いて上体
を起こした。
「臨也さん」
「触るな」
 帝人が咄嗟に臨也を支えようと腕を伸ばした瞬間、静雄の声が掛かった。それは鋭さはな
いが、異様に大きく帝人には響いて聞こえた。
 感情の一切を殺ぎ落してしまたったかのような無機質な声は、街中で臨也と喧嘩をしている
時の静雄のものとはまったく種類が違う。表情も声音も消し去った静雄は、無表情な分だけ、
恐ろしいくらいの凄みと冷気が感じられた。
「いいよ帝人君。こういう時のシズちゃんはね、ダメなんだよ」
 すっかり血の気の失せた酷薄な口唇に薄い笑みをうかべると、臨也は自分を支えようと差し
出された帝人の腕を退け、崩れそうになる躯と意識を何とか保たせ、立ち上がった。
「手負いの獣って、俺じゃなくって、シズちゃんの方だよね」
 静雄の苛立ちが何処にあるのか判らない臨也ではなかったから、可笑しそうにくすくす笑う
と、ゆっくりと歩き出す。
 たった数歩の距離がびとく遠く感じられ、足が思う様に動かない。何より躯は動くことを拒否
して、意識の焦点を絞っていないと、すぐに視界が霞んで崩れそうになってしまう。立ち上がっ
た拍子に、一挙に血が下がり、貧血をを起こしているのが判る。
 けれど強がりもそこまでが限界だったのだろう。臨也は数歩歩いて静雄の正面まで辿り付く
と、崩れるように倒れ込んだ。トサッとびとく軽い音を立て、倒れ込んだきた細い躯を。長い腕
が心得たように抱き留める。
「莫迦か手前は。俺に殺される前に、殺され掛けやがって」
 他人によってもたらされた血の匂いに眉を顰めながら、静雄は崩れ落ちた躯を抱き起こし胸
に凭らせると、黒髪を梳いてやる。それはさらさらと柔らかい擬音を響かせ、節だった指の隙
間を流れていく。
「ったく、何やらかしたんだ」
 抱き留めた薄い躯は、指先に冷たさを伝えてる。この分では、血圧もかなり低下しているだ
ろう。
 自分以外が臨也を傷付け、血を流させた事実は、静雄にとってはひどく不快で、自分以外に
傷を負わされた臨也にも腹が煮えた。
「覚悟しておけよ」
 物騒な科白とは裏腹に、静雄の声はひどく優しいものが滲んでいたが、その表情は、何処
か苦いのものを浮かべていた。
「……死なないよ、シズちゃん殺すまで」
 苦い表情を刻む静雄に赤い視線を移すと、臨也は小さく笑い、今度こそ本当に意識を手放し
た。その表情がびとく穏やかなことを見て取って、帝人は不思議な感覚に囚われた。
 顔を合わせれば、周囲の状況など無関係に、傍迷惑な殺し合いの喧嘩をするくせに、こうし
て臨也が傷を負えば、静雄は当たり前の表情をして抱き留めている。臨也も、静雄に身を投
げ出すことに躊躇いを見せなかった。下手をしたら、この間に殺される可能性だって皆無では
ないだろう。けれど臨也は何の躊躇いも見せず、むしろ当たり前のように、静雄に倒れ込んだ。それはまるで、以前からの約束事のように。
 この繋がりを一体何と呼ぶのか?帝人は何か不思議な者でも見るかのように、静雄と臨也
の顔を交互に見詰めた。静雄も、先刻見せた無機質な気配が嘘のように消え失せ、何処か満
足そにそうに、意識を手放した臨也を抱き留めている。
「あの……」
「悪いな、こいつが面倒掛けて」
 くしゃっと艶やかな黒髪を掻き混ぜながら、帝人の存在を今更思い出したように、静雄は苦
笑する。
「臨也、何か言ってたか?」
 この分では自力で新羅のマンションまで辿り着くのは不可能だから、おそらく門田あたりを
巻き込んでいるだろう。
「門田さんが迎えに来るからって」
 そう言った時、通りでブレーキ音が聞こえた。
「臨也……!と……静雄?」
 臨也が迎えに来てほしいというは、余程の事情だと察したのだろう。慌てた様子で駆け込ん
で来た門田は、けれど静雄の姿を見付け、内心で苦く舌打ちする羽目に陥った。
「イザイザ無事〜〜?ってあれ?シズシズ?」
「ありゃりゃ……」
 門田の背後から明るい男女の声が響くのに、帝人にはそれが狩沢と遊馬崎だと判った。
けれど二人とも門田同様、臨也を抱き留めている静雄を見た瞬間、あちゃ〜と言う表情を見せ
たから、帝人は一体何事かと、静雄の背後の門田達に視線を巡らせた。
「さっすが、イザイザイレーダー。シズシズの探知能力には負けるわね」
 狩沢の明るい声が路地に響くが、狩沢自身は何処か苦しげな様子で、静雄と、静雄の腕の
中の臨也を見ていた。
「新羅の所まで頼む」
 軽い動作で意識を失っている臨也を抱き上げると、静雄は顎をしゃくって、門田に路地から
出るように促した。
「……まいった……静雄のイザイザレーダー侮ってた」
 実際、妖怪レーダー並に、臨也に関してのみ起動する静雄の臨也を見付け出す嗅覚は、も
はやGPSより性能が確かだと言うのが、門田や新羅達の共通認識だった。それは臨也自身
認めている所で、判っていないのは当の静雄だけだった。おそらく訊いても、判るから判るとい
う返答しか返らないだろうが、その機能性は、最早説明の付かない部分が多い。そして判る
から判ると疑問も抱かない静雄の無自覚さに、呆れることしかできなかった。普通やろうと思
って、できるものではないのだ。池袋という都会の中、たった一人を見付け出すことは。なのに
その辺りの量りが、静雄には欠落している。おそらく静雄にとっては、できて当然のものなの
だろう、折原臨也という存在に関しては。
「手負いの獣っスね」
 門田と静雄の後ろ姿に、狩沢と遊馬崎が互いに顔を見合わせ、溜め息を吐き出した。
「これが男女なら、あの二人今頃、子供できてるんだろうけどねぇ。光の戦士の一人とか、封
印の巫女とか」
「池袋を魔物から守る為に生まれてくる子供っスよね」
 そう笑い、笑いながら、やはり二人は互いに顔を見合わせ、大きく溜め息を吐き出した。むし
ろそうだったら、どれだけ自分達はラクだだっただろうか?
「いっそあの変態闇医者に性転換薬でも作らせて、イザイザに盛った方が早いのかも」
「ああ、今流行の女体化ですね〜〜」
 何処まで本気の科白か判らない狩沢と遊馬崎の会話を聴きながら、帝人は逡巡して声を掛
けた。
「あの……狩沢さん、遊馬崎さん?」
 一体何がどう手負いの獣なのか?そう言えば先刻、意識を失う前に、臨也も静雄に向かっ
て同じ科白を言っていたのを思い出す。手負いと言うのなら、それは静雄ではなく、どう見ても
臨也だろう。けれど傷を負った臨也自身が静雄に対してそう言ったのだから、自分には判らな
い意味があるのだろう。
「ゴメンね帝人君。怖い思いさせて〜〜。シズシズ怖かったでしょ?あいつ手負いの獣になる
から」
「あの、いえ。ちょっと喫驚しましたけど」
「でももう大丈夫っスよ」
「さぁ、帝人君も一緒に行こう。怖い思いしたんだから、珈琲くらい御馳走してもらわないと、割りに合わないよ」
 何かと縁のあるこの子供には、静雄と臨也の微妙な関係は話しておいた方がいいだろう。
後々の為にも。そう狩沢が判断した時、いつまで立っても戻らない二人二、静雄の不機嫌丸
出しの声が掛かった。
「まぁったくさ、イザイザに何かあると、手負いの獣になるの、傍迷惑だって言うの」
 やれやれと溜め息を吐き出すと、狩沢は遊馬崎と帝人を促して、足早に歩き出した。