手負いの獣
act2








 細い路地裏は、思いのほか薄暗かったのだろう。通りに出た瞬間、西の空を染める残照の
眩しさに、帝人は片手で視界を覆い、光を遮った。
 それでも、一瞬の鮮やかさが、瞼の裏に鮮明に残る。けれどその鮮やかさが、今の池袋の
夕陽なのか、幼い頃、親友と駆け回った豊かな自然の中で見たものなのか、判断は付かない。けれど何処で見たとしても、その美しさは変わらない。変わるとしたら、それを見る自分の
方に変化がある時だろう。環境の変化に身の裡まで支配されて、本当に大切なものも、美し
いものも忘れしまったら、或いは大切なものと、美しいものの価値が変わってしまったら、西の
空を染める雄大な理を、美しいとは感じないだろう。
 そんなふうに埒もない言葉で、親友を失った気持ちを置き換える。最近そんなふうに思うこと
が多くなったと、内心で自嘲して、光に慣らすように瞳を開けると、遠目に無機質なビルが見
えた。
 煙突のように聳え立つビルの隙間から、切り取ったように見える都心の夕暮れ。それが綺麗
だと思ったから、自分は未だ大丈夫だと、根拠もなくそう思い、そして視界をゆっくりと下げれ
ば、見慣れたバーテン服を着た金髪の後ろ姿が在った。西の空を茜に染める陽射が、静雄の
金色の髪をくすんだオレンジに染めていた。
 静雄はワゴンの後部座席に、意識を手放した臨也を乗せようとしているのだろう。一番後ろ
の座席に、薄い肢体を横たえるように乗せているのが見て取れた。
 いつでもワゴンを発進できようにと言う配慮なのだろう。渡草は運転席に待機していて、降り
てはこない。エンジン音が閑静な住宅街に響いている。その隣には既に門田が乗り込んでい
て、静雄に手を貸そうともせず、視線だけで背後の様子を窺っていた。
 幾ら自動販売機を片手で投げ飛ばせる力を持っているとは言え、意識をなくした人間を、ワ
ゴンの後部座席に乗せるには、それなりの労力が必要で、力だけで巧くいくものではないだろ
う。それが判っている筈の門田達が、何故誰も静雄に手を貸さないのか、帝人には不思議だ
った。 
 大して付き合いがある訳でなかったものの、門田達が見掛けより親切であることを、帝人は
知っていた。それでなければ、親友がああも門田達と気安い感じで話してはいなかっただろう。何よりも、正臣自身が、見掛けの軽さとは裏腹に、面倒見のいい性格だと知っているから、
その正臣が自分に紹介したからには、それなりに信用している人物だろう。帝人はそう判断し
ていた。けれど門田達は今静雄に手を貸すこともなく、ただ無言で成り行きを見ているだけだ。そしてそこには何故か不思議な緊張感があったから、尚更それが帝人には不思議だった。
誰もが呼吸さえ潜め、静雄を見ている気がしたからだ。
「あの……」
 何故誰もが手を貸さないんだろうと、内心で訝しげに思いながら、静雄の後ろ姿に躊躇いが
ちに声を掛け、一歩踏み出した瞬間、帝人は制するように手首を握られた。
「狩沢さん?」
 思いのほか強い力で握られ、帝人は一体何事かと、横に並んだ狩沢に視線を移した。
傷付いた臨也を迎えに来るくらいだから、門田達が臨也を心配していることは判る。臨也が怪
我を負った経緯は判らないものの、趣味で情報屋を営んでいる環境を思えば、傷付いた臨也
を迎えに来る時点で、自分達も巻き込まれる可能性がゼロはないこと程度、判っていただろう。それでも傷付いた臨也を迎えに来るのだから、そこにどんな取引めいたやり取りがあったの
か判らないが、臨也を心配していたと言うことだろう。それなのに何故誰も静雄に手を貸さない
のか?帝人には判らなかった。
「言ったでしょ?手負いの獣だって」
「え?」
 そう話す狩沢の口調は、先刻のように何処か苦しげな声をしていて、それでも逸らすことなく、視線はまっすぐに静雄を見ている。それは狩沢だけに限らず、遊馬崎も、車内から静雄を見
ている門田も渡草も同様で、四人は無言で静雄を見ていた。その双眸には、何故か痛ましげ
とも、哀れもとれる、判別の付かない曖昧な色を宿している気がして、帝人は一体何事かと、
静雄の背中を凝視する。
「静雄に殺されたくなかったら、今は堪えて」
 手を貸したい気持ちは判るよと、狩沢は何処か泣きそうな表情で笑った。その表情の下で、
彼女が堪えているもの一体なんだろうかと、帝人は狩沢の横顔ょ凝視する。
 手を貸すという行為が、言葉にする程単純で、安易でないことは判っている。少なくとも今は
判っていた。以前なら簡単にその言葉を口にしていただろう。けれど池袋に来て一年。誰もが
安易に使用する言葉が、実際はそんな安易に使用されるべき言葉ではないのだと、痛感した。
 色々な人に助けられ、今自分がこの場所に立っていることを、帝人は正確に理解していたか
らだ。その最たるものが親友だった。何より親友からの誘いがなければ、自分はこの場所に
訪れることはなかった。そして自分を池袋に誘った親友は、何も語らずに消えてしまった。
 手を貸してたいと願っても、貸せない。助けたいと思っても、助けられない。親友は何も語ら
ず、一方的にその関係を切断した。手を貸したいのに貸せないもどかしさ、それを歯痒く思い
ながらも、見ていることしかできない。それは確かに、堪えるという言葉に当て嵌まるのかもし
れない。
 親友が何故突然消えてしまったのか?何か悩んでいたのか、切羽詰まった事情があったの
か。自分は何も知らない。いつも一方的に頼っていたから、相手も何かあれば頼って相談して
くれると、都合のいいことを考えていた。自分は自分であり、他人は他人だ。感じる距離感は、実際自分だけのもので、相手も同じように感じているのか、量るものは何もない。人は誰も
が自分を中心に物事を量る以上、自分に都合よく量るようにできているから、親友についても、都合よく考えていたのかもしれない。そして手を貸したいと思っても、その対象は今何処でど
うしているのか、行方は判らない。そのもどかしに堪えきれず、自分はこうして池袋の街中を
彷徨い、手負いの臨也を見付けた。
 門田達が感じているもどかしさも、もしかしたら自分と同じものを抱えているのかもしれない。
 手を貸せる至近距離にいて、手を貸せないもどかしさ。そして何故手を貸せないのか?
その理由が、やはり帝人には判らなかった。自分なら、迷いもなく手を貸すだろう。その方が
傷付いた臨也の負担にはならないだろうし、効率的な筈だ。けれどそんな帝人の内心を見透
かしたように、狩沢が口を開いた。
「手を貸す方が簡単でラクなの。自分も満足するしね。でも見ているのは勇気がいるの。特に
あの二人を見ているのは」
 そしてちょっとだけ哀しいんだよね。そう話す狩沢の口調は、いつもは心置きなく現実と解離
して、妄想甚だしい会話を遊馬崎と声高にしているものとは、随分とかけ離れている。むしろ
感情を気取られない抑揚さが全面に出ていたから、帝人は僅かばかりに戸惑いを隠せず、静
雄と狩沢を交互に見やった。けれどその横顔から、帝人が感じ取れる感情の揺らぎは伝わっ
てはこなかった。
「行くぞ」
 静雄が臨也を乗せ、その横に滑り込んだのを見て取って、門田が狩沢達に声を掛けながら、バックミラー越しに静雄と臨也の姿を凝視し、こっそりと溜め息を吐き出した。
 実際臨也の状況を考えるなら、一刻も早く新羅の元に辿り着くべきなのだ。そうと判っていて、自分達に僅かにも手出しさせないのだから、大概、静雄の独占欲も底無しだ。そして最悪
なのは、静雄にとって、それが無自覚だと言うことだ。
「さっ、行こっか」
 静雄がワゴンに乗り込んだのを見た狩沢と遊馬崎の口から、長い吐息が漏れる。緊張が解
けたのだろう。そして今までの表情からがらりと一点して、狩沢は明るく笑うと、帝人を車内に
促した。





□ □ □







 乗り込んだワゴンは路地裏と同じように何処か暗く、空気は張り詰めた緊張を伴い、誰もが
無言だった。普段饒舌な二次元妄想豊かな狩沢と遊馬崎も、今は押し黙ったままだ。
 渡草はひたすらにハンドルを握り、門田はまっすぐに前方を見ている。その視線が、時折バ
ックミラー越しに静雄と臨也の姿を確認すると、こっそり溜め息を吐き出している。それは狩沢
と遊馬崎も同様で、時折ちらりと背後に視線を移しては、何とも言えない表情をしている。そし
て狩沢の横に座った帝人は、やはり気遣わしげに意識が背後に集中し、自分も車内の空気
に飲まれ、息を潜めていることに気付いた。
 ちらりと背後を窺って、帝人は半瞬、息を飲み込んだ。
薄暗い路地裏のような車内で、静雄は肩口に小さい頭を凭れ掛けさせながら、時折黒髪を梳
いている。それが無自覚な仕草だと判るのは、静雄の視線が、流れていく池袋の夕暮れを眺
めていたからだ。
 節だった長い指が、慣れた仕草で黒髪を梳き、サングラスを外した視線は、遠くを見ている。
その双眸に感情は見えず、表情からは、先刻見せた、研ぎ澄まされた鋭利な気配は微塵も
感じられない。
 あの時覗かせた静雄の気配は、鋭利というより、冷気さえ通りこしてしまった、凍気を滲ませ
ていた。触れたら、たちまち切り裂かれてしまいそうな、鋭い刃のような気配。けれど今の静
雄は、感情の揺らぎなど何も掴ませない視線と気配で、車窓から覗く街を見ている。けれどそ
こに映る光景は、映しているだけで、何の感慨も静雄に与えてはいないだろう。その証拠に、
静雄の視線は、先刻から動いてはいなかった。
 繰り返し、繰り返し、髪を梳く長い指先。指の隙間から流れていく髪の音が、さらさらと規則
的に車内に響く。誰もが無言の車内で、それは異様に大きく響いて聴こえた。そして規則的に
繰り返される音を聴きながら、先刻の狩沢の言葉の意味が、不意にストンと胸の中に落ちて
きた気がして、帝人は何とも言えない気持ちになった。
 泣き出しそうに笑った狩沢の言葉の意味が少しだけ判った気がして、胸の奥が鈍く疼くよう
な痛みに見回れる。
 臨也は自分に気遣われることを拒絶した。それは柔らかい言葉と薄い笑みで誤魔化されそ
うになるが、あれは臨也の明確な拒絶だ。触るなと、全身で拒絶していた。普段の臨也であ
れば、近寄ることさえできなかっただろう。他人の懐に滑り込み、自分を押し出すことが巧みな
くせに、近寄ろうとすれば、全身を逆撫でるネコのように、思い切り拒絶される。そのくせ不意
に現れた静雄には、違う表情を覗かせた。全身を逆撫でるネコのような気配が一瞬で消え去
り、臨也は笑った。そして静雄の懐に倒れ込み、あっさりと意識を手放した。あの場に現れた
のが静雄ではなかったら、おそらく臨也は、意地でも意識を手放さなかったに違いない。
 自他共に認める天敵同志で、顔を合わせれば周囲の迷惑など無視して殺し合いの喧嘩を
始めるくせに、手負いになった時、臨也は静雄にしか自分を預けない。おそらく門田達が静雄
より先に迎えに来ていたとしても、臨也が意識を手離すことはなかっただろう
 そして今、臨也は安心しきった表情をして、静雄の肩口に頭を預け、意識を手放している。
その顔色は壮絶に悪く、今も傷口から生命を構成しているものが流れ出ているだろう。それで
も、その面差しは、何処か安らいでいるのが見て取れる。
 こんなふうに寄り添う二人を眺めていると、まるで互いだけで完結しているように見えるから
不思議だ。天敵同志で殺し合いの喧嘩をするくせに、二人には自分達の世界しか存在しない
ように見える。見えるというより、感じるのかもれしない。
 もしかしたら、同じなのかもしれない。言葉を紡ぐことも、殺し合いの喧嘩をすることも。繰り
出される拳と、閃くナイフと。二人にとってそれは言葉であり、それ以上の繋がりを持っている
のかもしれない。理解する為に、殺し合いをする。そういう見方は些か少女漫画か、狩沢の嵌
まっているBLとやらの趣が強いが、今の静雄と臨也を見ていると、不思議とそう思えた。だか
らこそ痛ましく、そして一抹の哀れさが湧くのだろう。幾許かの切哀を伴って。
「着いたぞ」
 そうこう考えているうちに、目的地に着いたらしく、さして振動もなくワゴンが停まった。そう言
えば走行中も、振動らしい振動を感じなかったと思い、それが怪我を負った臨也に対する、渡
草なりの気遣いなのだろうと、帝人は気付いた。
 こんなふうに、まるで当たり前みたいに差し出される柔らかい気遣い。けれどそれは差し出
した相手が気付かなければ、そのまま終わってしまうものだ。まして意識を手放している臨也
に、渡草の気遣いは届かないだろう。そう思えば、自分は本当に何も彼等の事を見ていなか
ったのだと痛感した。きっと今までも、自分の知らない場所で、気遣われていたのかもしれな
い。どうりで正臣が懐いていた筈だと、今更理解した気がして、帝人はその分だけ落胆した。
 こんな簡単なことも見えていなかった自分に、親友が悩みを打ち明けてくれる筈もない。
親友と言う関係に甘え、都合よく頼って相談して、けれど親友の悩みは何も気付いていなかっ
た。何も見えていなかった自分に、正臣が消息を絶った理由が判るる筈もない。
 そう思うと、知らず膝の上に置いた手に力が入り、ギュと征服のズボンを握り締めた。そんな
帝人の様子に苦笑すると、狩沢は悪戯気な仕草で、帝人の蟀谷をつついた。
「そんなふうに眉間に皺寄せて悩んでると、禿ちゃうぞ、青少年」
 自分の眉間に皺を寄せ、人差し指で眉間を撫でると、狩沢は明るく笑った。
「そうですよ。若さなんて、期間限定の消耗品の財産なんですらか。楽しまなきゃ損ですよ」
 誰もが時間軸の流れの中で生きている以上、やがては年老いて行く。若さはとても短い、期
間限定の消耗品の財産だ。
「……お前達は歳取っても、今のままの気がするけどな…」
 普段寡黙な渡草が、ある意味的を得た遊馬崎の科白に、ぼそりと呟いた。
 この二人は、良いも悪いも、今のまま変わらない気がした。自分のスタイルを確固として持っ
ていて、二次元に費やす妄想とは言え、そこには信念めいたものを抱えている。そのことを、
渡草も門田も知っていた。
 善し悪しの有無は別にして、流されないスタイルを持つことは大切だと、門田は硬派らしい
一面でもって、狩沢や遊馬崎に接していた。狩沢に言わせれば、それが親父好きな女子に受
ける人気だと言うことになるが、門田は気付いてもいなかった。
「ねぇドタチン、早く行こう。シズシズ先行っちゃったよ」
 既に静雄はさっさとエレベータに乗り込んで、地下駐車場から姿を消していた。
「ったくあいつも、臨也が絡むと……」
 高校時代から静雄と臨也の友人として接してきたが、臨也が傷を負った時の静雄程、手の
付けられない存在はない。辛うじて周囲に八つ当るような真似はしないが、無言の気配で周
囲を威圧する。それも権威的になる訳ではなく、凍気と大差ない気配を放ち、周囲を圧倒する
から始末に悪い。それは触れれば全てを切断してしまいそうな空気を呼び起こす。それは普
段の静雄からは、到底感じられないものだ。そしてそれは臨也も同じだ。
 静雄が傷を負うことは滅多にないが、その滅多にないことが発生した時の臨也の八つ当た
りも凄まじかった。
 臨也の八つ当たりは、子供のように、周囲に向けられるものは微塵もない。そしてその分タ
チが悪い。
 臨也の八つ当たりは、ただ身喰いするように自分を追い詰め、喰い尽して行く。それを見て
いる周囲がどんな思いを抱くのか、臨也は知らない。以前説明しても、通用しなかったのだ、
臨也には。人間観察が趣味と豪語するのだから、周囲がどんなに心配するか少しは判れと、
首根っこを引っ掴んで、説教したい気分だ。けれどそれも臨也には通じないだろうことも判って
いる。臨也の天性の才を思わせる人間観察と、そこから導き出される情報は、おそらく引き換
えだからだ。
 どれだけの言葉を羅列しようと、あの二人は互いだけで完結している。けれどそこに狩沢が
狂喜乱舞するような甘いものは微塵もない。それは痛ましいくらいに、そして羨ましいくらいに、病んだ姿だ。夢のような没落。そんな言葉が似合うくらいに、二人は他人を寄せ付けない。
特に今回のようなケースの場合、それが顕著に現れる。
「行くぞ」
 臨也を裏路地で発見した時、静雄が一緒だと新羅に連絡した。その時新羅は、電話口でう
んざりした様子で溜め息を吐き出した。
 静雄が一緒だと言う意味を、新羅は正確に理解している。そしてその時の静雄の機嫌という
ものもよく判っているから、今頃新羅は、内心で落涙したい心境で、臨也の治療を開始してい
るだろう。 
 ここまで静雄の不機嫌に付き合ったのだから、今度はお前にバトンタッチだと、門田は歩き
出した。