| 手負いの獣 act4 |
病室と大差ないくらい無機質な室内は、新羅が処置室としてマンションの一室を丸々改造し て作ったもので、幾度となくこの部屋には世話になっていた。けれど自分以上にこの部屋に出 入りしているのは、今は血の気を失い眠っている臨也の方だろう。そしていつだって、こんなふ うに意識を失い、横たわる臨也を見てきた。 ぐるりと見渡した室内は、病院の処置室と大差ないくらい無機質で、それは何処か消毒薬 の匂いが鼻に付く。実際、そんなことはないだろう。どちらかと言えば錆びた鉄のような、臨也 が流した血の匂いの方が強い筈だ。何よりここには闇医者を頼って訪れる患者ばかりだから、腐臭と大差ない血の匂いが漂っていても可笑しくはない。それでも無機質な室内は、無菌 の病室を連想させる。 けれど実際病院でさえ、無菌ルームでなければ、無菌などは有り得ない。むしろ日々、様々 な雑菌やウイルスが持ち込まれ、無菌とは程遠い。あの場所は、人工的に清められた場所だ。そしてここもまた、様々な患者を診ているだけに、目に見えない種類の雑菌が持ち込まれ ている筈だった。とは言え、感染症に煩い新羅だったから、その辺りの対策にぬかりはないだ ろう。ああ見えて、医療に関しては妙に生真面目な面があるのだ。父親と同じ道など歩まず、 真っ当に医師を目指しても、それなりに成功しただろうに、一体何を好き好んで裏に身を沈め ているのか、静雄から見ても、新羅は甚だ謎な存在だった。けれど新羅のような存在が居てく れるおかげで、助かっているのも事実だった。 静雄は煙草の吸えない手持ち無沙汰に、手の中で青い箱を弄っている。それでいて視線は ベッドに横たわる、紙のように白い造作に落ちていた。 左手に刺した点滴は2本目が追加され、一定間隔で落ちる液体の音が、異様に大きく響い て聴こえた。 臨也の処置を終えた新羅は、臨也が眼を醒ましたら呼びに来てねと、部屋を出て行った。つ まりはそれまで、出てくるなと言うことだ。 「ったく、俺より先に、ガキに見付かってるんじゃねぇよ」 臨也が起きていたら、理不尽だと呆れるだう科白を憮然と吐き捨てると、静雄は小作りな頭 にそっと腕を伸ばした。 普段は艶のある黒髪が、今は少しばかり艶を失い、白いシーツの上に散っている。烏の羽 のような漆黒の黒髪は、静雄のお気に入りだった。今時女でも、これくらい綺麗に手入れされ ている黒髪を、静雄は臨也の他には知らなかった。臨也以外に心当たりは有るには有るが、 何せ相手は年齢不詳に加えて国籍も不明な魔女だから、静雄の中では、完全に除外されて いる。案外と、本当に魔女の末裔だと言われても、驚くには値しない。 艶を失った黒髪を梳けば、それは常と変わらず、さらさらと擬音を響かせ、長く節だった指の 間を流れていく。自覚の有無は判らないが、臨也はこの行為を、静雄にしか許してはいなかっ た。他人が髪に触れれば、容赦なく振り払う。けれど静雄の手はあっさりと近寄らせ、当たり 前のように髪に触れさせる。その意味を、互いに理解していない辺り、新羅達に言わせれば、 傍迷惑の一言に尽きた。 自分が臨也を見付けた時、傍にいた子供。大抵の場合、臨也が池袋に足を踏み入れれば、 空気で判る。それをして狩沢などからはイザイザレーダーという、有り難くもない渾名を付けら れているが、これに関しては、判るから判るとしか言い様がない。それは自分が持つ得体の 知れない力と同じくらい、静雄にとっても不可解な領域だった。 臨也を見付け出す関知能力に関して言えば、それは完全に静雄の意識の外で起こる作用 だ。空気や気配という、目に見えない何かが、直接肌身に触れてくる。或いは、街を流れる空 気に、臨也の気配が紛れ込む。どちらにしろ、肌身に触れる何かがあるのだ。それが臨也の 方向をも指し示す。そしてそれを間違えたことはない。だから大抵の場合、負傷する臨也を見 付けるのは自分だった。けれど今日は少しばかり事情が違った。 どう見ても偶然の要素が強いが、自分より先に、負傷した臨也を見付けた帝人の存在が、 静雄は気に入らなかった。臨也に言えば、子供と笑われるだろうし、門田や新羅にも同じこと を言われるだうろ。けれど気に入らないのだから仕方ない。 血の気を失い、意識も朦朧としていた臨也を知る人間が、自分以外にいる。それが何より気 に入らなかった。あんな臨也の脆くなった姿を知る人間が他人だという事実が、静雄の内心に 苦い思いを抱かせた。 「手前を先に見付けた奴がいるのも気に入らねぇけどな、手前がどじ踏んだのは、もっと気に 入らねぇ」 明らかに傷を負わせることを目的とした遣り様は、これが相手の采配次第では、死ぬことに なる。今回は相手が警告で済ませたから良かったものの、新羅ではないが、悪運が続く確率 はそう高くはないだろう。その場合、臨也は致命傷を負うことになる。自分以外の人間が臨也 を殺すことなど、静雄に許せる筈もない。 「死んだら殺してやる」 苦く吐き捨てると、今まで力なく横たわっていた臨也の赤い視線がゆっくりと開き、小さい微 笑を浮かべているのに、静雄は忌々しげに舌打ちして、細い頤を掬い上げた。 「起きてるなら、とっとと起きろ」 「……起こされたの、間違い…」 泥のように重い躯、それと同じくらい、重い意識。けれど何やら聞き慣れた声がぶつぶつと 呟いている声が脳内に届き、否応なく覚醒を促された。どうにも、理不尽なことを言われている 気がしてならない。そしてうっすらと視線を開けば、何とも言えない表情をした静雄の姿がある のに、臨也は笑った。 「起きた早々、文句言うたぁ、相変わらず、煩い口だな」 チッと苦く舌打ちすると、噛み付くように口唇を塞ぐ。血の気を失った口唇はいつもより体温 が低く、臨也の状態を静雄に伝えてきた。それが静雄の苛立ちに拍車を掛け、乱暴に舌を口 内に潜り込ませれば、臨也の舌が弱く応えてくる。けれど普段生暖かい口内は、出血により 下がった血圧と体温によって、やはりいもつより冷たい。 「ん……んぅぅ………んンッ…」 静雄の舌は歯列の裏を擽るように撫で、絡め取るように舌を絡め取っていく。狭い口内で縺 れるように絡め取られ、塞がれた喉の奥から、くぐもったすすり歔きが漏れ落ちる。 「んぅん…んン……ッッ」 深々と貪られ、抗議とも愛戯とも取れる仕草で、臨也の右手が金色の髪を掻き回す。けれど その柔らかい仕草は、却って静雄を煽情するだけで、口唇は更に喰うように貪婪な玩弄に曝 されていく。 「ん〜〜ん…んぅぅ……ッッ」 呼吸さえ圧迫するように深く絡め取られ、どちらのものとも付かない荒々しい吐息が室内を 満す。そこに欲情の吐息が混じり、細く白い指先が、離せと金髪を掻き回す。けれとどそこに はやはり切迫感はなく、臨也の指先はまるで静雄を甘やかすように、金色の髪を掻き乱して いく。その仕草は、セックス最中に縋り付いてくる臨也を思い出させ、静雄は小作りな頭を両 腕で掻き抱くように固定すると、上半身がのし掛かるような態勢になっていく。 「んぅ…シズちゃ…ん…離……」 息苦しくなる呼吸に咄嗟に口唇を振り解けば、荒々しく塞がれ、痺れる程舌を吸い上げられ る。どちらのものとも付かない唾液が口内に溢れ、コクリと白い喉が上下する。それでも飲み 込めない唾液が口唇から溢れ、いやらしく薄い鎖骨をぬらしていく。 「んンッ…んぁ……んぅぅ……ッ…ッ」 欲情した濡れた吐息に、引き千切られる威勢で舌を貪られ、頭を固定して更に深く抱き込ま れていく。窒息しそうなくらいな苦しさに呼吸が乱れ、早まる鼓動に心臓が痛くなる。それでも 静雄との接触に、臨也は否応なく溺れ、薄い胸が荒々しく上下する。 「ちょ……シズちゃ……んゃ…」 漸く口唇を開放されたと思った時には、静雄の舌は耳朶を這い、荒々しい吐息が耳を擽り、 臨也は慌てた。 「起きてたなら、とっとと起きろ」 「……んのぉ…ケダモノ…。第一起きたんじゃなくて、起こされたんだよ。シズちゃんがぶつぶ つ言ってるから」 うっすらと浮上した意識に、何やら念仏じみた小声がぶつぶつと聞こえ、よくよく聴けば、そ れは静雄の声だった。それが否応なく覚醒を促してきた。その証拠に、躯は未だ休養を欲し、 気怠く重い。 「ここまで運んでやったの、誰だと思ってるんだ」 「んぁ…ドタチン…じゃん…」 ねっとりした感触で、耳朶から耳介へと舌が這い、薄い肩がびくんと竦む。負傷して感じるこ ともできないと思うのに、腰の奥は確実に熱を昂められてしまい、意思とは無関係に、肉は焦 燥を煽られる。それでも、体力が消耗し、血圧も下がっている今、実際性器が反応することは ない。だた腰の奥に疼くような甘い痺れが蟠り、躯は容易に反応する。何より傷を負った肉体 の脆さを抱えた精神が、静雄との接触を欲していた。 「よくそんな言葉が言えるな、手前は」 苦く舌打ちすると、くすくすと小さい声が笑うのに、静雄は瀟洒な貌を覗き込んだ。その顔色 は、臨也が反応しているのを示すように、僅かに血色を良くさせている。 「シズちゃん、ケダモノ」 くすくす笑うと、静雄の長い前髪を弄ぶように指に絡め、臨也は密やかな声で囁いた。その 声は静雄の腰の奥をダイレクトに刺激する甘やかな婬らさを持っていた。 「これでも俺怪我人なんだから、欲情しないでよ」 くすくすと笑うと、金色の前髪を梳く指がやんわりと動き、端整な造作をそっと包む。 静雄が何故こんなふうにこんな場所で、突然煽るような真似をしたのか、判らない臨也ではな かったから、つい子供だなぁと、内心で苦笑する。 あの場所に帝人が現れるなど、臨也にとってもイレギュラーな事態だったが、静雄にとって は気に入らなかったらしい。何より気に入らないのは、静雄以外の存在に、傷を負わされたこ とだろう。そして、傷を負った自分が、静雄との接触を欲しているのだと、無自覚な部分で見透 かしているから、静雄は絶対に自分を離さない。 「犯さねぇから、文句言うな」 忌々しげに舌打ちすると、静雄の指先はケットの中に潜り込み、今は幾重ものカーゼで覆わ れた傷をやんわりと撫でていく。 「ん……ちょ…変な触り方しないでよ」 傷の所為でいつものように反応しないとはいえ、腰の奥は熱を孕んでいるのだ。愛撫に等し い触れ方をされたら、躯は容易に反応してしまう。 「人の傷見て欲情するな、変態!」 「ホ〜〜どの口がそういう?治ったら覚悟しておけよ」 淫蕩に耽った視線で睥睨されても、却って逆効果で、それは静雄の言い様のない激情を煽 ったにすぎない。 静雄はにやりと笑うと、再び臨也の耳朶を甘噛みすると、白い首筋から鎖骨を舐め回し、時 折薄い皮膚を吸い上げる。そうすれば白い肌には、所有印が色濃く残った。 「ちょ……!シズちゃん!そんなふうに跡付けないでよ」 流石にこの状態で跡が残されていたら、新羅には指を差されて笑われるか、盛大に溜め息 を吐いて、呆れられるかのどちらかだ。おそらく後者で、その後くどくど小言を言われるのは眼 に見えている。 中学時代から付き合いのある気安さからか、元来のキャラクターか判らないが、新羅は臨也 に向かって、小言を言うことに躊躇いを見せない。最近は請求書と小言がセットになっている から、今回も小言を貰う羽目になるだろうなと、臨也は内心で深々と溜め息を吐き出した。 「ん…ちょ……今…やだ…だ…め…シズちゃ……」 ねっとりと吸い上げられ、ぞくりと肌が粟立っていく。肩口に顔を埋め、濡れた音を立て首筋 から鎖骨を這い回る舌の感触に、臨也はすすり歔きにも似た吐息を滲ませる。 「あ……ん……だ、だめ…だって…」 きゅっと薄い皮膚を噛み付くように吸い上げられ、首筋から鎖骨に点在する静雄の所有印に、臨也は泣き出しそうに顔を歪めた。おそらく白い肌の上には、幾重かの所有印が生々しく 残されている筈だ。それも服を着ても隠せない場所だから始末に悪い。 「臨也」 「ぁんん…や…そんな……いやらしい…声で…呼ぶな…バカ…」 普段の茶化した声ではなく、何処か情事の最中を連想させる真摯な低い声に囁かれ、肌が 粟立ち、指先の先まで、陶酔で痺れが走る。 「手前、何の尻尾踏みやがった」 ゆっくりと顔を上げ、赤い視線を覗き込めば、臨也は半瞬だけ問われた言葉の意味が判らな かったのか、キョトンと小首を傾げ、見詰めてくる視線を見詰め返した。 「シズちゃん?」 「殺すつもりなら、手前はとっくにくたばってた。この傷の意味は、手前が一番良く判ってるだろ う?」 細い頤を締める威勢で掬い上げ、片手は、厚くカーゼが重ねられた傷に伸び、半瞬力を込め れば、臨也は苦痛に顔を歪めた。 「…それで怒ってる訳?」 覗き込んでくる視線は怖いくらい真剣で、らしくない静雄の様子に、臨也は小さく笑った。 「シズちゃん以外に、傷付けられたから?」 まったく子供なんだからと、臨也は内心で苦笑を禁じえない。それでも、これが逆の立場なら、やはり自分も怒るだろうなと過去を想起し、臨也は頤を締める手の甲にやんわりと爪を立て た。 皮膚にではなく、精神に傷を負わされたように、一時的に記憶を欠落させた静雄に、自分も 同じように腹をたてた記憶は未だ新しいから、怒りの発露としては、同じ部分からのものだと 推し量ることは出来た。 自分以外に傷を負わされた、それも記憶の欠落という都合いい形で、自分の存在を忘れた 静雄に対する嫌がらせは、周囲の新羅達でさえ、顔色を無くして焦ったくらいだ。 その時を思い出して小さく笑うと、息苦しさから引き離すと言うよりは、何処か情事の最中の ように、生温い淫蕩さで頤を締める手の甲に爪を立て、誘い掛けるように笑い掛ける。 「その表情は、犯されても文句言えねぇぞ」 それは臨也の夜の表情だ。まるで自堕落に耽る娼婦のような、生温い淫蕩さを覗かせる姿 は、静雄しか知らない、臨也の後遺症だ。 「俺もさ、まさか変な尻尾踏んだは、思わなかったんだよね」 そっと手の甲から指を離すと、静雄の首にねだるように腕を絡めてひっそりと笑う。見た目よ り柔らかい金に染まる髪を梳けば、そっと啄むような口吻けが降りてくる。 「俺の傷、どんな感じだった?」 見たよね?と薄く笑うと、静雄は苦く舌打ちして、態勢を入れ替えた。臨也の枕元に腰掛け れば、臨也はもぞもぞと動き、その膝の上に小さい頭を凭れた。 いつだって、自分を一番最初に見付け、そして新羅のマンションまで運んでる静雄が、自分 の傷を見ていない筈はないことを、臨也は正確に理解していた。 「創口と創底の具合から見て、凶器は細身のナイフって所だろう?殺すつもりなら、殺傷能力 が確実なものを選別するのがプロだ。不安要素を潰しておくのは、この世界じゃ常識だからな。手ぇ抜かれて喜ぶ程、手前のプライドは安くはねぇだろ?」 当たり前のように、慣れた様子で膝の上に置かれた小さい頭は、一体何が詰まっているの かと思える程に軽い。膝の上に散った黒髪を梳いてやると、臨也は不意に静雄の腹をつっと 撫でた。 「おいこら、煽るな!」 「どうりでねぇ」 「何だ?」 「血の匂い。どうりですると思った」 ココと、白い指が静雄の腹を撫でれば、黒いベストはべったりと血糊が乾いてこびりついてい る。黒い所為で血の色はさして目立たないものの、腐臭と大差ない匂いは、隠しようもない。 「ああ?」 揶揄うように撫でる指先に視線を落せば、そこには血糊がこびりついているのに、どうりで室 内から臨也の血の匂いが引かない筈だと、静雄は苦く舌打ちする。 「血って、中々落ちないんだよね」 「手前の所為で、一体何枚ダメにしてると思ってやがるんだ」 ベストだけではなく、抱えた時に胸元にも付いている為、シャツも同様だろう。 「弟君から貰ったのに、残念〜〜。今度は俺がお礼にプレゼントしてあげるよ」 ころころ笑うと、頭上かから舌打ちが聞こえ、更に臨也は笑った。それでも静雄の長い指先 は、すっかり馴染んだ様子で、柔らかく髪を梳いていく。 「手前からの礼なんて、怨念こもってそうだからいらねぇ」 「失礼しちゃうな、大体その相手を飽きもせず抱いてる人間に言われても、説得力ゼロ以下だ と思わないの?」 傷が完治したら、色々な意味で覚悟しなくてはならないだろうなと、臨也は内心で遠い目を した。 子供じみた八つ当たりはしないだろうが、静雄が満足するまで、離してはもらえないだろう。 静雄にしか感じなくされた壊れた躯を、たっぷりと味あわれ、喰われる。その元凶に。 「俺もさ、今回はよく判らないんだよねぇ」 ころころ笑う笑みが不意にぴたりと止み、赤い視線が静かに見上げれば、静雄は僅かに険 しい表情を覗かせた。 「確かに、さして殺傷力の高いナイフじゃなかっけど」 多勢に憮然で取り囲まれ、両手を背後で拘束された時には、別の意味で壊されることを予 感して、躯が強張った。 どれだけの人間に犯されても、この躯は反応しない。たった一人の男以外には。だから犯さ れる痛みも恐怖もさしてないが、静雄にしか反応しない躯を無理矢理開かれていく堪え難い 嫌悪は拭い去れない。けれど相手の思惑は違ったようで、細身のナイフを取り出すと、低い声 で話すことだけ話すと、深々と腹を刺された。瞬間の灼け付く痛みに、辛うじて悲鳴は怺えた ものの、ナイフを抜かれた創からは夥しい量の出血が伴い、あのままだったら、失血死してい た可能性もゼロではなかった。 「切り札として使えるカードなんて、ない筈だったけど」 何より自分が切り札として使えるカードは、最初から手の中に持っている。それ以外は、ど れだけ重要なカードだとしても、それは単なる取引材料としてのカードにすぎない。相手にとっ て、致命傷になりかねないものだとしても。 「面白い情報は幾つか入手してたから、どう使おうかなって思ってはいたんだけどねぇ」 「ったく、手前が面白いって言うのは、碌でもないってことだ」 「あ〜〜それは俺も認めるけど、今回はちょっと事情が違っててさ」 ころころと笑う声が、次には歌うように軽やかな声を刻むと、臨也は悪戯を思い付いた子供 のような表情で、静雄を見上げた。 「沈黙の艦隊スペシャルA事案に匹敵するって言ったら、信じる?」 歌うような口調とは裏腹に、告げられた言葉の意味が咄嗟には理解できなかったのだろう。 静雄は一瞬訝しげに眉を寄せ、次には沈吟するような表情になり、そして最後には忌々しげ に舌打ちすると、 「アホか手前は!何処をどうつついたら、そんなややこしい事案踏むんだ!」 細い頤を掬い上げた。 「俺だって、踏みたくて踏んだ訳じゃないよ、そんな面倒な尻尾」 「尻尾どころじゃねぇだろうが!ど真ん中だろうが、それは」 情報屋なんていうのは、大抵は自分のように、裏と表の境界線が曖昧な職種の人間が、小 遣い稼ぎにやる者が殆どだ。けれど中には臨也のように、それだけで生計を立てられる稀な 人種という者も存在する。そしてそんな人間が手にする情報は、質が違った。チンピラが小塚 き稼ぎに拾い集める情報とは、まったく桁も質も違うことを、静雄は知っていた。とはいえ、そ んな大掛かりな情報など、今まで臨也は取り扱っていなかった筈だ。それは扱う情報の危険 性や面倒と、利潤を量りに掛けた場合、リスクの方が多いことを、臨也は知っていたからだ。 けれどどうやら今回は、違う場所で踏んだ尻尾が、思わぬものを引き当ててしまったらしい。 「ちょっと面白そうな動きしている所があったからさ、暇だったしちょっと調べたら、違う所に行き 着いちゃったんだよねぇ。金の流れがちょっと可笑しくて、今時アングラマネーやマネーロンダ リングなんて流行らないなぁって思ってたら、雲行き怪しくてさぁ。不正融資や背任なんて、今 更だって思ったんだけど。アッ、別口でM&Aの面白い企業もあったなぁ。あれ外資系マフィア の、ペーパーカンパニーだと思うんだけどさ」 「ニコニコ楽しそうに話すな、そんな物騒な話し。俺に話すな、俺は手前と違って、平穏に暮ら してぇんだ」 「アハハハハ、バッッカじゃないの?池袋の都市伝説なんて言われてて、平穏なんて無理に 決まってるじゃん。それに、俺にシズちゃん以外の傷付けた人間、黙って見過ごすつもり?」 情報屋に喧嘩売ったらどうなるか、報復してやると、臨也はうっすらと静かな笑みを浮かべて 静雄を見上げている。その笑みの背後には、薄昏い闇が垣間見え、静雄は大仰に溜め息を 吐き出すと、臨也の視線を片手で塞いだ。 「警告で済んでるうちに、おとなしくし手を引け」 物事には、どうしても近寄ってはいけない場所があることを、静雄は正確に理解していた。勿 論臨也も知っているだろう。自分より余程深い人の闇に近い場所にいる臨也が、知らない筈も ない。それでも近付くというのは、最早臨也の性癖に近い。 「やーだ」 「臨也」 「あのね、シズちゃん」 細い片手がすらりと伸び、塞がれた視界の中で、臨也は正確静雄の輪郭をそっと辿った。 「今回俺に警告してきた黒幕ね、確証はないけど、例の組織に関わってると思うよ?」 その瞬間、静雄が息を飲み込む音が大きく響いた。 「俺が未だしっかりライン繋いでないうちに警告してくるなんて、可笑しいと思うんだよね。俺の 方は、未だ接触すらしてないんだから。それなのにこんなふうにあからさまに仕掛けてくるって 言うのは、可笑しいと思わない?不安要素云々っていうより、邪魔なんだろうけどさ、ダレかさ んにとっては」 高校の時から妙に接触してくる変な組織があった。末端にどういう人間を飼い慣らしている のか、今一つ巧く情報がとれない得体の知れない組織。かといって、老舗のやくざでもなけれ ば、新興勢力でもない。いっそ莫迦な宗教関連も疑ってはみたものの、そちらとは無関係だっ た。けれど必ず付き纏う気配が窺える。まるで無理矢理盤上に上がらされて、プレーヤーに遊 ばれている気分にさせられる。遊ばされていると言うよりは、強制的にゲームに参加させられ ている気分だ。 「手前で調べられないって言うのは、どういう奴なんだ?」 「さぁね。俺には教えてくれないけど、甘楽はシズちゃんには甘いから、訊いてみれば?あの 魔女の知らない情報なんて、世界中探してもない筈だから。あいつ絶対、人類発生から生き てる気がするし」 年齢も国籍も一切不明な女。情報屋仲間の間では、『魔女』として名前が通っている。自分 達の前には、東洋系美人として出没するが、到底、素顔を曝しているとは思えない。世界の 七不思議も、魔女の手に掛かれば、あっさりとネタばれすると言われているくらいだ。本当に 人間なのかさえ、怪しいのだ。自分が開催しているチャットで使用しているHNは、その魔女か ら拝借したが、何でも面白がる性格は、彼女がモデルだ。そして魔女は、昔から静雄には甘 かった。 「一体全体、誰が糸引いてるか判らないけど、俺とシズちゃんの前に出没する相手だよね。特 に俺の前にさ。気に入らない」 高校時代から、思い出すように接触してくる組織があった。組織というのが正しい言い様か、 情報屋の臨也にも正確なことは判らなかった。それなりにツールのある自分に正体を悟らせ ない遣り様は、十分に得体が知れないから、組織と仮定しているだけの話で、実際どれだけ の規模の人間が動いてるのか、それは臨也にも静雄にも見当は付かない。ただ、裏で接触し てくる何かが、自分を邪魔に思っているこどたけは瞭然としていた。どうにもこのポジション的 な問題に関わっている感じもして、臨也にとっては、反吐が出そうに不快だった。 「手前もガキじゃねぇんだ。懲りるとか覚えろ」 視界を塞ぐ手で前髪を梳けば、瞬きを忘れた赤い視線が、まっすぐに見上げているのに、静 雄は胸中で苦く舌打ちする。 懲りるとか反省とか、そんな言葉は、臨也から一番遠い言葉だ。どれだけ傷を負っても、臨 也は決して後には引かない。 「それ俺に言う科白じゃないよ。とは言え、俺の武器は情報。必要な情報を収拾して策略練っ てから、じっくり追い詰めてやる」 挑発的な科白とは裏腹に、赤い視線は欠片も笑ってはいなかった。爪を研ぎ、牙を剥く機会 を窺う獣のように、瀟洒な造作にはひんやりとした微笑みが浮かんでいる。 「ねぇ?知ってるよね。俺は売られた喧嘩は安くは買わない。高く買い取って、倍返しにしてや る。俺にこんな傷負わせたことを、地獄で後悔させてやる」 「手前の悪運がいつまでも続くと思ってるなよ」 「らしくない科白だよ、気持ち悪い。俺のこと殺すんでしょ?それとも何?他人に譲る気にでも なったの?」 俺は全力でシズちゃん殺すよ?それまで死なないよ。研ぎ澄まされた視線が、瞬間ふんわ りと笑い、細い腕がねだるように伸びた。 「他人に傷負わされた手前が言うな。次見付けたら、その場でトドメ刺しててやるから、そう思 え」 「アハハハハ、それ俺の科白」 「それと、俺以外にあっさりと見付け出されてるんじゃねーよ」 伸びてきた腕を引き寄せると、薄い躯を引き起こす。 「ちょ……痛い…シズちゃん…無茶するな…俺、怪我人…」 苦痛に顔を歪め、それでも臨也はさして抵抗らしい抵抗もなく、抱き起こされた半身を静雄の 懐に凭れ、くすくすと笑った。 処置されたばかりの躯は服を脱がされ、臨也は何も身に付けてはいなかった。白い裸身に 刻まれた所有印が、なまめかしく浮き上がって映る。 「帝人君が現れたのは、俺も計算外。あの子はちょっと違うことで悩んでて、いつもと違うルー ト通ったみたいね」 それはチャットを通じて相談されたし、何より彼の親友が彼から離れた理由の一端は、自分 が関与している。だからといって、あの場に帝人が現れたのは、臨也もまったく予想してはい なかったし、静雄より先に誰かに見付かることは、実際びとく不快だった。それでもあの時笑 顔で拒絶できたのは、自分としたら上出来だった。 静雄より先に、傷付いた自分を見た人間がいると思うだけで、とても不快だ。そんな身の裡 を、静雄は知らないだろう。静雄が感じている不可さは、自分が感じているものより根深くはな い筈だ。自分の躯に残されたこの所有印を見たら、あの純朴な子供はどうするだろうか?そう 思うと、見せつけやりたい衝動が湧いた。 当たり前のように差し出された腕。傷に触れてきた指。そこに好意しかないとしても、静雄以 外に最初に傷に触れられた不快さは、拭いされない。自分が誰のものか、思い知ればいい。 既にこの躯は、自分を犯した静雄にしか感じないように壊されている。静雄以外には感じるこ とのできない、冷感症の病んだ躯。所有印を見せつけたら、一体どうするだろうか? その時を想像し、くすりと小さく肩を揺らせば、静雄が少しばかり乱暴に細い頤を掬い上げた。 「ガキ相手に、悪さ思いついてるんじゃねぇよ」 「んぁ…ん……ん……」 小さい頭を抱き込むように固定され、深々と口唇を塞がれる。狭い口内で縺れ合うように舌 を絡め、傷の奥が疼くような甘い痺れに見回れる。 「シズちゃ……ん…ん…だ…め…今…やぁ……」 深々と貪られ、臨也は弱く抵抗する。疼くような傷の痛み。そのくせ静雄にだけは感じる病ん だ躯。肌を撫でる指先に、あっさりと陥落する肉。それでも負傷した躯は、容易に実際の熱に は結び付かない。けれど精神的にはびとく感じて、イキそうになる。 「イキそうだろ?」 ねっとりと糸を引く唾液が距離を結び、陶酔に塗れた表情を覗き込めば、臨也は熱の浮かん だ視線で睥睨を向けてくる。 「最悪……。一応言っとくけど、ここ新羅の家だからね。ここでしたら、次から出入り禁止になる よ。それに本当に、俺今無理だから。治ったら幾らでも抱かれてあげるからさ、今はダメ」 「十代のガキじゃねぇんだ。怪我人相手に盛るか」 「何その言い草、十分、盛ってるじゃん」 肌を撫でる指をぴしゃりと叩くと、次には、にんまりと笑う。まるで悪戯を思い付いた子供のよ うに眼を細めると、臨也はくすくすと笑い、細い腕を伸ばして金色の前髪を掻き乱し、 「ねぇ、シズちゃん。俺、喉渇いた」 だからキスだけなら許してあげると臨也が笑い、静雄が呆れて再び小さい頭を懐に抱き寄せ て口唇を合わせようとした瞬間だった。 「二人とも、他人の家だって、思いとどまる理性くらい持てないと、足許掬われるよ。臨也も、 セックスなんてして傷開いたら、次は麻酔なしで縫合するって、言ったよね?」 ニッコリと笑う表情とは裏腹に、眼鏡の奥は欠片も笑ってはいなかった。 「新羅…」 「もうちょっと、後で出てくればいいのに」 空気読んでよ。臨也が舌打ちすると、新羅は呆れた貌で笑い、 「うん、次は麻酔なしで治療してあげるよ」 とっとと横になりなと、新羅は離れて離れてと、静雄と臨也を引き離した。 この程度で動じていては、闇医者などやってはいられない。何より静雄と臨也の友人など、 やってはいられなかったから、新羅は静雄に珈琲でも飲んでおいでと部屋から追い出すと、臨 也の傷を改めて診察しだした。 |