【午後7時28分】
何処かの神話の怪物のように、兄は迷宮に閉じ込められていた訳ではなかったものの、自分の力が
及ぼす有り様というものを自覚していた所為か、他人と距離を取りたがる傾向にあった。
いっそ檻でも迷宮でも、望めば放り込んでやるのは可能なものの、他人と距離を置くくせに、何処かで
人と関わっていたいらしい一面もよく判っているから、当面は静観を決め込むことに決めていた。
大体兄はすぐに理性の箍が外れる割には、何処か常識人で、生真面目にも自分の化生じみた暴力
というものを悩んでいた。いっそその力を発揮して、世界征服とでも言えたら、人生はもう少しラクだった
に違いない。力と、それに見合う躯の構造は、内側の内蔵器官は判らないまでも、少なくとも表面は鋼
と同じだ。世間の人間を殺すように、兄に銃器は通用しない。ならばその特殊性を最大限に生かせる道
だって、それなりにあった筈だ。そこで見合う選択ができない所もとても兄らしく、いっそ迷宮に閉じ込め
てやろうかと思える程度には、兄に対する独占欲も持ち合わせている。
大体世間なんて言うのは、処世術さえ心得ていれば、それなりに渡っていけるようにできているのだ。その最たるものは子供で、更に最たるものは赤ん坊だ。
生理的微笑だけで、大人の庇護欲をあっさりと引き摺り出せる赤ん坊という存在は、処世術の塊だ。
他人なんて言うのは、適度に笑みを見せていれば、向こうが勝手に判断するようにできている。そこに
邪気など混ぜなければ、それなりに通用するものは幾らでもあるのだ。
勿論そこには頭の作りは要求されるが、莫迦は莫迦なりに、なけなしの頭を駆使すればいいだけの
話で、裏の社会なんて物騒で保証もない場所に身を置く程、難しいことではない筈だ。尤も、芸能界と
いう場所が、裏と無縁かと言われれば、そうとは言い切れない部分は多分に存在する。照らし出される
スポットライトの分だけ、生み出される闇はある。それが引き換えというものだ。闇なくして光は作られな
い。そんなことは、世界的ベストセラーの冒頭に書かれている。
「顔の作りは悪くないし、スカウトだってされてるんだから、もっと違う選択もできた筈なのに。頭だってそ
れなりなんだから」
濃いサングラスで顔を隠し、幽は慣れた道を歩いて行く。飛ぶ鳥を落とす威勢の実力派俳優は、人込
みに紛れて気配を絶つことも造作ない。作り出された虚構のアイドルではなく、実力に裏付けされた人
気の一つには、演じる役ごとに、そのキャラクターの持つカラーをあっさりと切り換えることのできる色分
けとも言える部分にあった。必要なら群舞の中に、あっさりとエキストラの中に埋もれてしまうこともでき
る。
観客は、何も役者が演技をしているのを忘れてしまうくらい、現実じみたヒューマンドラマが好きな訳
ではないのだ。その辺りのバランスが幽は巧い。間合いを読むというよりは、周囲の気配を読むことに
長けている。その中で求められた役割を演じることが容易にできる。それが幽の人気の一つだ。だから
先輩の役者にも可愛がられ、監督からのオファーも絶えない。そこで媚びたり、かといって、高飛車になることもなく、物静かに笑う幽は、周囲に与える自分のキャラクター性というものをすっかり定着させてい
る。
けれど気配云々と言うのなら、むしろ自分より兄のほうが長けいていた筈だと、幽は内心で苦笑する。
直線的な暴力が指し示すように、動物的な嗅覚ではあるが、理屈ではなく肌身に感じとる他人の気
配に、兄は昔から敏感だった。それは言い換えれば、喧嘩慣れした日々の積み重ねの裏返しだ。他人
の気配を感じ取れなければ、寝首を掛かれる。そういうことらしいが、そこには武道に精通した人間の
嗅覚を思わせる何かがあった。むしろ自分より余程、他人を引き寄せる強烈な光彩が兄にはある筈だ。
けれど当人は、自分が神話の中のミノタウロス宛ら、檻や迷宮に閉じ込められて然るべき人間だと思っ
ている節がある。
そういった生真面目に悩む点は、兄らしい反面。沸点の引くさを自覚しているらしい部分も兄らしい。
どうせ最終的には我慢はできない性質なのだからと、開き直った結果の暴力は、日々エスカレートを極
めている。それでも見境もなく振るわない辺り、兄の中では明確な線引きはあるのかもしれない。
基本的に兄の暴力というものは、最初の段階では受動的だ。誰彼莫迦みたいに持ち合わせた力を見
せつけるような真似はしない。仕掛けられた対抗措置として、それは振るわれる。その兄が、自らその
化生じみた力を振るっているのは、唯一一人に限定されていた。
裏界隈で、何かと噂の絶えない人物だと聴いた。情報屋という怪しげな商売に身を置きながら、当人
は至って真面目に人間を愛しているらしい。どうも兄の話しの流れから、一目見て気に入らなかったと
言うらしいから、それはある意味で少なからず、同族嫌悪もあったのかもしれない。尤も人間というのは、基本的に好きか嫌いか、必要か不必要かという判断の上に価値を置く生き物だから、兄にとって折原
臨也という人物は、決定的に嫌いな人物に該当し、不必要という判断なのだろう。
「嫌いで不必要って判断した人間に、ああも固執することが無駄以上の何物でもないって判ってない部
分が、兄さんらしいけど」
その辺り、兄の中の秤は判らない。人は誰もが自分を中心に物を計る生き物だ。特に他人との距離
感は、その最たる物だ。どうやら顔を会わせれば日々喧嘩三昧で、命のやりとりさえしてしまえ危うい
忌むべき存在らしい折原臨也という相手は、けれど向こうが兄と同じように計っていない限りは、生命の
やりりまで発展することはなかった筈だ。そう考えれば、相手の意図が何処にあるのか判り様もないが、兄と近しい判断の上に、兄の存在を認めていることに他ならない。対等であるということは、そういうこ
とだ。少なくとも対等の力関係がなければ、数年に及ぶ日常茶飯事と化したやり取りは、とっくに終結し
ているだろう。そうでなければ、全てが茶番だ。
「でもそういうのって、腹が立つ程、仲がいいとも言えると思うんだよね」
均等な力が加わらなければ、一定を保ことが困難である以上、数年に垂とする喧嘩三昧の日常は、
互いのバランスが巧く引き合っている証拠だろう。それも数年に及ぶというのだから、その均衡は絶妙
としか言い様がない。うっかりと、運命なんて言葉が似合ってしまうくらいだ。
「まぁ、世間様に対して傍迷惑って言うには違いないけど」
それでも兄の暴力で死人が出ていないのは奇跡に近い。案外と神様とやらに、愛されているのかもし
れない。疫病神か死神かは判らないが。死神なら、最近流行のスーツを着た死神辺りかもしれない。
少なくとも神話の中の怪物のように、兄は迷宮に閉じ込められたりはしない。案外とあれで愛されて
いるのだと、当人だけが気付けないでいる。
「一度本当に迷宮とやらに放り込んでみても楽しいけど」
他の誰も、平和島静雄という男を、迷宮に閉じ込めることはできないだろう。けれど自分は出来る位置
にいる。伊達に弟をしている訳ではないし、実力派俳優と言われている訳でもないのだ。けれどその時
兄を助けにくるのは、やはり兄を毛嫌いしている情報屋なのかもしれないなと、なんとなく思う。
そんな思いを胸中で呟きながら、幽は小さいスイーツの箱を片手に、久し振りに訪れた兄のアパートを
見上げた。
夜の闇に浮き上がる、柔らかい家々の灯。明かりが灯る分だけ、そこに生活している生命があるのだ
と思えば、何故か不思議と、心が穏やかになる気がした。そして見上げた兄の部屋には明かりが灯り、どうやら仕事から帰宅しているらしい様子に、幽は安堵の吐息を吐き出すと、アパートの階段を上がり、兄の部屋の前に立つと、チャイムを押した。
【午前10時17分 】
池袋と言えばデパートやホテルが密集し、東口の駅前などは電脳関連に浸蝕されてしまった感が拭
えなくもないが、その地名を聴けば、大抵の人間は中身は知らなくても都会というイメージを持つだろう。巣鴨プリズンの跡地に建てられたサンシャインビルは、都市伝説の一角を担い、未だ日の丸にゲート
ルを巻いた幽霊が出るとか噂され、その目の前にはアニメショップが建ち並び、乙女達の萌えロードと
化している。そのすぐ近所には大型量販店が並び、表通りは平日も週末も賑やかだ。特に週末から土
曜日曜に掛けての人込みは新宿以上で、普通に歩いていても、人とぶつかる確率が高い。
大凡の人間にとって、池袋は新宿に次ぐ歓楽街だ。人が集う街ではあるが、生活圏として住むという印象は何故か薄い。都会特有のドーナッツ現象に巻き込まれてはいるが、そんな場所からちょっと離れ
てしまえば、池袋は昔の佇まいを残している場所も少なくはない。むしろ誰もが寄せる歓楽街の印象は、池袋を形成している僅かな一角にすぎない。
そして静雄の生活拠点は、そういう場所にあった。そこはセキュリティーというものとは縁遠く、自分の
住居とは真逆に位置している。自分の住居は最新鋭のセキュリティーに守られ、そう簡単には外部から
の侵入は許さないシステムになっている。自分が言うのも可笑しいとは思うが、物騒な世の中、安全は
金で買う時代だ。指紋認証システムなど、今では一昔前のセキュリティーだろう。そういった最新鋭の
セキュリティーに囲まれ生活していると、何もないアパート暮らしなど、臨也にとっては信じれない生活
だった。
そして臨也は、静雄の住むアパートの扉を開けながら、相変わらず不用心だと内心で毒づいて、玄関
に上がり込んだ。
「まったくシズちゃん何考えてるのさ。カレーが食べたいから作りに来い?寝言は寝て言えって。俺はシ
ズちゃんの通い女房じゃないっての」
それでもこうして食材持参で訪れてしまう辺り、新羅や門田という旧友に見付かったら、指を差して笑
われるに違いない。
静雄から唐突に連絡が入ったのは、昨夜だ。それも日付変更線を越えた時刻だったから、臨也など
は一体何事かと思ったくらいだ。短いメールの文面は、『カレーが食いたい』の一行文。勿論天敵相手
に挨拶もない。とはいえ、顔を会わせれば日々生命のやり取りをする喧嘩を繰り広げている相手に、『カ
レーが食いたい』はないだろう。
「今度は何の特番でも見たんだか」
テレビや雑誌の特集でも見て、食べたくなったに違いない。そういう場合の静雄の矛先は、何故か昔
から自分に向かってくる。
「天敵に連絡してくるより、何処かに食べに行けばいいじゃん」
池袋と言えば、揃わないものはないくらいの土地柄だ。カレーの美味しい店の一つや二つ、静雄なら
それなりに知っているだろうに、一体何を好き好んで、天敵に連絡をしてくるのか。この場合もれなく毒
殺を疑わない辺り、やはりセキュリティーのない場所で住めるくらい、静雄は不用心だ。
「むしろ情報屋の俺にメールしてくるなら、カレーの美味しい店教えろってのが、正解だよ」
それを飛び越えて作りに来いとは、大概いい根性をしている。
「まったく、人に作りに来させるなら、掃除くらいしとけっての」
静雄の部屋は適度に雑然としていて、そこが生活の場として機能していることが窺える。独身男性の
一人暮らしなら、こんなものだろうと思える適度な雑然さだった。
足下に散らかる雑誌とゴミ。それでも火の不始末は出さないように気を付けているのか、煙草の吸い
殻はきちんと纏められている。こういう共同生活の気遣いができる部分が、おそらく静雄という人間の性
格なのだろう。ヘビースモーカーなくせに、歩きながら吸うことはせず、しっかり簡易灰皿を持ち歩いてい
る性格からも、それは窺い知れる。短気なくせに、そういう気遣いができる性格は、案外と人を近付ける。
「シズちゃんって、女の子の前だと、ちゃんと断って吸うタイプだろーな」
フェミニストと言う訳ではないだろうが、そういうマナーは心得ている気がした。
気持ち悪い。そう毒づくと、臨也は足下のゴミを避けて玄関を上がり、リビングへと足を向けた。そこは
独身男性の一人暮らしらしく、朝食べたらしいトーストの袋が出しっ放しで放置され、珈琲を淹れたらし
いマグカップも出しっ放しだ。
「こんなの放置してたら、パンは固くなっちゃうし、カップは色がついて落ちなくなるじゃん」
やれやれと溜め息を吐くと、臨也は放置されたままのパンの袋を止め、カップをキッチンへと運んで、
絶句した。
「……何…このキッチン…」
シンクには皿が数枚積み上げられ、小さい片手鍋には、ラーメンを作ったのだろう。麺がくっついた状
態のまま、水に漬けられている。フライパンも同様で、無造作にシンクの中に放り込まれている有様だ。
「ハハハ、いい根性してるじゃん。俺に洗い物からやれって?」
毒でも盛ってやろうかと、物騒なことを考えて、臨也は調達してきた食材を冷蔵庫に放り込む。案の定、冷蔵庫には食材らしい食材はなく、これでは固くなったパンしか明日の朝はないだろう。
決めた。シズちゃんには、激辛スパイシーなカレーにしてやる。それとも嫌がらせには、甘口カレーがい
いかな?」
いっそ星の王子様カレーでも作ってやろうか?そう思いながら、キッチンに向き直り、臨也はおや?と
いう表情を作った後、更に険しい表情になった。
「っんの莫迦!料理しろって言うなら、調理道具ぐらい、ちゃんと揃えておけ!」
そうしてキッチンにある小さいキャビネットを見て、臨也はらしくないくらいに、がっくりと肩を落とした。
「もうシズちゃん、一回死ねば?」
静雄の部屋にある調理道具と言えば、シンクに漬っている片手鍋とフライパンだけらしい。辛うじて炊
飯器はあるが、食器は揃っていない。要はシンクに漬っている物が、静雄のキッチンの全てらしい。
「まさか……」
周囲を見渡して米櫃を探し出した臨也は、その中身が綺麗なことに心底呆れた表情を刻み付けた。
「ああ、もう!俺だって米の心配まではしなかったよ!特集記事見て連絡する前に、することあるじゃん!いくら俺が情報屋でも、シズちゃんの台所事情まで把握してないっての!」
もう最悪。臨也はがっくり項垂れると、取り敢えずは目の前のものを片付けてから考えようとコートを脱
ぎ、腕捲りして、シンクの中のものを洗い始めた。
某国の諜報機関の人間ではないが、こんなことがこの先続けば、静雄の台所事情は把握しておく必
要があるのかもしれない。
【午後1時48分】
取り敢えずはキッチンの汚れ物を片付けてから、カレー作りに必要な調理道具を買いに出ようと算段
し、時間的なことまで逆算して行動を始めた臨也は、シンクの中に無造作に放り込まれていた汚れ物を
洗い、次にはどうにも室内の汚れが気になった。
定期的に部屋を訪れ、掃除してくれる彼女でもいない限り、独身男性の独り住いの部屋は、何処も似
たり寄ったりのものだろう。それでも、池袋最強と呼ばれる静雄の部屋は、世間が彼に抱くイメージより、室内は片付けられている筈だ。生活感のある適度な汚れは、惨状と呼ぶ程に酷くはない。おそらく世
間的には、男の独り住いとしては妥協点だろう。けれど自分自身が、几帳面に整えられた空間で生活
している所為か、一度気になりだしたら、生活感のある汚れさえ気になった。所詮他人の部屋だし、そ
れこそ余計なお節介と言う物だから、絶対掃除なんてしてやるものかと、何やら意地のように自身に言
い聞かせていた臨也は、けれどキッチンの片付けを終えた段階で、その意地を綺麗に放り出していた。
どうせ大したものなどないだろうと判断した臨也は、床の上に放り出されていた雑誌を束ね、ゴミを纏
めると、空いたスペースに掃除機を掛けた。徹底して掃除をしていたら暮れてしまうので、当面放置出
来ない部分に掃除機を掛け、一応の満足を得ると、次にはやはり放り出されたままの洗濯物を洗濯機
に放り込み、スイッチを入れてきた。親切丁寧に分類して洗ってやる必要などさらさら感じなかったから、下着もシャツもいっしょくたに放り込んでやった。
そして買い物に出た時には、すっかり正午を回っていた。それでも、キッチンの洗い物を片付け、部屋
を掃除し、洗濯物を洗濯機に放り込んできたのだから、家事能力としては、そこいらの主婦より、余程
手際はいいだろう。
それから超特急で買い物をして、帰宅の途に付く段階になって、臨也はらしくないくらい、途方に暮れ
ていた。
「なぁんで、こういう時に限って、シズちゃん現れないのさ」
いつもなら会いたくない時に限って、特殊なセンサーでも搭載されているのかと思う確率で見付け出さ
れるというのに、自分で呼び付けたからか、今日はまったく静雄と遭遇しない。
「どれだけ妖怪センサーなんだよ、シズちゃんのセンサーって」
妖怪アンテナよろしく、静雄には臨也センサーが付いているんだよ。そう笑ったのは新羅だった。聴い
た当初は碌でもないと呆れたものの、こうなると、それもあながち的外れではないのかもしれない。そし
てそれは正しく、二人を良く見ている証拠だろう。伊達に高校時代から付き合いがある訳じゃない。そう
いうことだ。
基本的に、静雄の出没界隈は避けて通っているというのに、池袋に足踏み入れると、とんでもない確
率で見付け出されて追い掛けっこに発展する。それをして新羅などは、今日も平和だね〜と笑うタチの
悪さを発揮するが、こちらとしては、追い掛けっこをしたくて、している訳ではないのだ。
体格差から見ても明らかなように、静雄と持久戦の追い掛けっこなどしていたら、体力が持たない。
それに時間の浪費は、情報収集が命の情報屋としては好ましくはない。だから目的を終わらせたら、さ
っさと根城に戻りたいというのが素直な本音だ。けれど池袋に足を踏み入れた場合、その願いが叶うこ
とは、ほぼ100%ないのだ。
野生の獣が持つ動物的な嗅覚か、妖怪センサーか判らないが、確実に静雄に見付け出されて追い
掛けっこを余儀なくされる。そのくせ現れてほしい時に限って現れない辺り、どれだけ都合よく臨機応変
に働くセンサーなんだと、ついうっかりと無駄な感心までしてしまったくらいだ。自分で呼び付けたから、
今はセンサーも反応しないのだろう。まったく便利なセンサーだ。とは言え、この惨状は一体どうする
べきかと、臨也は足下に転がる荷物に、深々と溜め息を吐き出した。
半ば自棄くそ気味に調理道具を買ったはいいが、すっかり持ち帰る手間を失念していた。
ここで知り合いの運び屋を呼ぶという手段もなくはないが、それはそれで如何なものか?と、躊躇い
が生じる。幾ら何でも天敵の静雄からメール1本で呼び出され、その相手の為に調理器具を買ったなど、あまり知られたい事実でもないからだ。何より運び屋を呼び出した場合、もれなく新羅に伝わるという
事実も待っている。ことが新羅に知られた場合、それだけで向こう1年は遊ばれる気がした。
「呼び付けてやろうかな……」
手の中で携帯を弄びながら、臨也は行き交う人間を眺めては、思考を巡らせる。
一番手っとり早い手段は、当人を呼び付けて自宅まで運ばせることだったが、それはそれで面白くない。今夜買い込んだ諸々の領収書を叩き付けられ、唖然とする様が見られなくなるからだ。
「俺を呼び付けてこんな真似までさせてるんだから、精々後悔すればいいんだ」
諸々買い込んだ領収書の束は、勿論持参した食材の分も込みだから、大層な金額になる筈だ。何よ
り器具らしい調理器具の存在しない台所事情の貧しさに、諸々買い込んでしまったから尚更だ。そして
買い込んだ結果が、途方に暮れるという理不尽さに、臨也は内心で悪口雑言を吐き出していた。
60階通りの大型量販店を出たまではいいが、此処から先、大量の荷物を抱えて静雄の自宅まで徒
歩で帰るのは不可能だ。少し歩けば国道だから、タクシーを拾うしかないだろう。そう考えて、臨也は小
さく溜め息を吐くと、細身の躯が隠れてしまいそうな荷物を抱え、歩き出した。そんな時だ。
「あの……大丈夫ですか?」
逡巡を含んだ声に、臨也が荷物に隠れた顔を上げた。
【午後1時55分】
長期に携わっていた映画がクランクアップし、舞台挨拶に引っ張り出されて封切りされたのは先日だ
ったが、どうやら興行収入は、今週トップに躍り出たらしい。そのご褒美と言う訳ではなかったが、不意
に湧いたオフというのは、時間の過ごし方を持て余す。
映画の撮影中は、それこそ寝る間もないくらい忙しく、雑誌の取材などは、移動時間を利用して行わ
れた。それも無事に封切りされた現在、当面の取材はそれなりにあるが、撮影中のような気違い沙汰
の取材攻撃はないだろう。そして興業収益がトップに躍り出た現在、周囲の注目は次回出演作品に感
心が移り、取材もその方面のものが多い。とは言え、実力派俳優と言うイメージで売り出し、実際それ
に見合う実力を身に付けている幽は、事務所の方針もあって、じっくりと出演作品を選別することに時間
を掛ける。別に幽自身は主演に拘りを見せないから、端役だとしても、面白いと思う作品には出演の意
向を見せている。そして面白いと思う作品や監督に出会えることも、自身の演技を生かす土台だと考え
ていたから、当分は降ってくるように舞い込んでくる出演依頼を、吟味することになるだろう。
その最中、久し振りのオフというのは、実際には中途半端な時間だ。撮影中は、オフになったら、あれ
もしたい、これもしたいと思っていた。部屋を掃除して、ゆっくり本でも読みたい。撮影期間中は、中々一
人の時間はとれないから、オフになったら一人の時間を満喫したい。そう思っていたものの、いざオフに
なると、どうにも時間を持て余してしまう。出演依頼の企画に眼を通すのも飽きてきて、久し振りに兄に
会おうと、マンションを飛び出して、そして些か間抜けにも気付いたのだ。
今日が平日である以上、兄は仕事中の筈で、自宅に訪問しても不在だろう。そのことをすっかりと失
念していた。芸能人などやっていると、どうしても世間との折り合いが悪くなる。曜日が綺麗に抜け落ち
るのも、その弊害だろう。そう思いながら、幽はさして困った表情も覗かせず、人込みを歩いて行く。
兄はバーテンの仕事は長続きしなかったらしいが、今は池袋で借金回収業の仕事をしているらしい。
良いも悪いも池袋界隈では名の知れた兄にとって、それは身の丈に見合う仕事だったのかもしれない。最初はあまり気乗りしなかったらしいが、珍しく長続きしている所を見ると、それはそれで、兄の性分
にはあっていたのだろう。
どうせなら、時間を潰すのに先日封切りになった自演の映画でも見ようかと、ふらりと人込みに紛れて
歩いている時だ。滅多に池袋に来ない自分でも知っている大型量販店の出入り口付近で、妙に目立つ
人間を見付けた。
きらきらと光る黒い携帯を掌中で弄びながら、何やら思案している様子だった。なるほど、足下に大量
の袋が在るのを見れば、買い過ぎた荷物をどうするか、算段しているのだろう。けれど幽の眼を引いた
のは、勿論そんなことではなかった。
周囲の誰にもそれを気付かれていない不審さ。綺麗に人込みに紛れているが、あれは見る人間が見
たら、あからさまにすぎるくらい、気配が際立っている。
芸能人と言う仕事柄、どれだけ綺麗に隠しても、周囲から浮き上がってしまう人間は幾らでも見知って
いる。それはやはり一般人には溶け込めない、オーラとも呼ぶべき異彩を放ってしまうからだ。けれど逆
に、どれだけの人込みの中でも、綺麗に気配を消してしまう人間も存在する。巧くエキストラの中に溶け
込んでいたかと思えば、一瞬にして強烈な気配を放ち、人込みから現れる。そう言った、気配を巧くコン
トロール出来る芸能人も存在する。おおむね前者がアイドルで、後者は役者だ。役者は自在に自分自
身さえ操れて当然の仕事だ。そういう意味で、気配を巧くコントロールすることも、勉強の一つだ。だから
人気実力ともに、若手の中では際立っていると言われている幽は、それなりに日々勉強もしている。
そんな幽の眼に飛び込んできた人物は、巧く気配を断ち切り、人込みに紛れてはいるが、幽のように、
それ自体を生業としている人間から見れば、その気配の断ち切り方は、尋常ではなかった。まるで存
在を感じさせない有り様は、自分自身を周囲の光景の一部として同化させてしまっている。その遣り様
は、まるで外敵から身を守る保護色と同じだ。兄も大概気配を絶つことは巧かったが、これ程巧みに、
自分の存在を周囲に同化させてしまうようなことはしなかった。兄の場合は、日々積み重ねられて経験
から得たものだろうが、今幽の眼を引いた人物は違う気がした。おそらく生来的に、そういうことが造作
もなく出来てしまうに違いない。そう思わせる何かがあった。勿論見知らぬ人間だったから、根拠もない。だた役者としての勘とも言うべき何かが働いた。
「やっぱり池袋は、色々な人がいるんだな」
気配の絶ち方も尋常でないが、容姿の方も申し分ない。黒い髪に縁取られた造作は白く、細身と言う
より、薄いと言う印象だった。遠目からではっきりとは判らないが、顔立ちは恐ろしく整っている。なのに
綺麗に自分の気配を周囲に同化させてしまっている所為で、あれだけの顔立ちで、女性から声も掛か
らない。役者でもあれだけ見事に、自分の気配を殺せる人間はちょっといない。事務所の人間が一緒だ
ったら、間違いなくスカウトしている筈だ。
そんなふうに観察している合間にも、目的の人物は面倒そうに足下の荷物を抱えて歩き出した。ちょ
っと歩けば国道なのを考えれば、タクシーを拾うつもりなのだろう。
それにしても、危なっかしい。細く薄い躯は荷物で埋まり、前も見えないくらいに視界を塞がれている。あれでは擦れ違う人間から見れば、荷物が正面から歩いてくるようにしか見えないだろう。
そう思っていた時には、躯が動いていた。
「あの……大丈夫ですか?」
躊躇いがちに声を掛ければ、その人物は荷物から顔を上げ、怪訝そうに眉を寄せた。その顔立ちは
幽の予想以上に整ったもので、アルビノを連想させる赤い視線が、訝しげに幽を眇めた。
【午後2時00】
不意に掛けられた声に顔を上げれば、整った顔立ちが見詰めてくるのに、臨也は胸中で物珍しげに
値踏みする。
サングラスと目深に被った帽子で、素顔を巧く誤魔化してはいるが、それがブラウン管の向こう側で女
子を釘付けにしている、目下人気実力ともにNo1と言われる人物であることは一目見ればすぐに判った。
(フーン。これがシズちゃんの弟君ねぇ)
躊躇いがちに声を掛けてきた人物は礼儀正しい好青年で、顔を見れば人に自動販売機を投げ付けて
くる静雄とは大違いだ。もしかしたら、兄を反面教師にしたのかもしれない。尤も、兄妹に関して言えば、自分の家庭も人様に誇れる妹どもではないから、他人様の兄弟事情に口を出すつもりは微塵もない。
けれど片方は飛ぶ鳥を落とす威勢で人気急上昇の俳優。片や池袋の裏界隈で借金回収業を生業とし
ている男とでは、比較するなと言う方が、無理な話しだ。
ルックスという点で言えば、これはもう個人の好みの問題だから何とも言えないが、世間の水準から
見れば、静雄とて悪くはないだろう。実際高校時代はあのルックスで、街頭でスカウトを受けたことも知
っている。
均整の取れた細身で長身の姿態に長い手足。金に染めた髪に整った顔立ち。当人は欠片も自覚して
いならしいが、全体の容姿は整っている。見たくれだけは十分すぎるくらい、世間の水準以上を行く筈
だ。あの化生と大差ない力がなければ、あるいは理性の制御下におければ、静雄にはもっと違う生き
方もあったのかもしれない。躊躇いがちに声を掛けてきたこの弟のように。
「あの……荷物持ちましょうか?」
自分を見たきり反応しない臨也に、幽は何処か困った様子で、再度口を開いた。
「ありがとう、助かるよ。莫迦がカレー食べたいから作りに来いなんて無茶言ってくれちゃうから、この有
様で。実はちょっと困ってたんだ」
「カレーですか?」
ニッコリと笑う相手は、先刻感じた印象か嘘のように、人好きのする笑みを見せている。それにしても
と、幽は目の前の人物を不躾にも凝視する。
男に向かってカレーを作りに来いという相手は、一体どんな相手だろうかと思う。料理人は大抵が男だ
から、男が料理をすることに何ら偏見はない。もしかしたら、年若そうに見えるが、何処かの調理人の可
能性もある。けれど先刻見せた気配の消し方は尋常ではなかったから、常人とは思えなかったし、そん
な相手を呼び出す相手も、常人とは思えなかった。
「そっ、カレー」
じゃぁこっち持ってもらおうかな。臨也は左手の荷物を幽に渡すと歩き出した。その横を幽が歩く。
「ルーから手作りじゃなきゃ嫌だとか、もう最悪に我儘でさ」
「はぁ……」
何やら惚気を聞かされた気分に陥って、幽は返答に窮した。最悪と言う割に、何処か楽しげな気配が
伝わってくるから、きっと仲のいい、友人か何かなのかもしれない。少なくとも、恋人という雰囲気では
ないだろう。何より彼氏を呼び付け、手作りカレーを要求する彼女は、世間一般的にあまり聴かない。あ
るいは年上の彼女で、キャリアとかなら話しは別なのかもしれないが。
「君も食べにくる?」
楽しげに笑う表情は、反応を楽しんでいるとも、純粋な好意とも受け取れる。つまりは底が見えないの
だ。
「え?」
「なんて、冗談」
喫驚した幽の様子に楽しげに笑うと、臨也は片手を上げてタクシーを停めると、路肩に停まったタクシ
ーに荷物を放り込み、コートの裾を翻して、後部座席にヒラリと飛び乗った。
「ありがとう、助かったよ」
ひらひらと手を振ると、幽は礼儀正しく会釈する。こうも何から何まで大違いだと、却って反面教師の
相手の方を思い出す。その理不尽さに、臨也は胸中で悪口雑言を吐き出していた。
池袋に足を踏み入れたというのに、本当に今日はまったく掠りもしない。どれだけ便利なセンサーを搭
載しているんだと思えば、新羅ではないが、一度解剖してもらえ。そう思う。
「じゃぁ、気を付けてね、何もお礼できなくて申し訳ないけど」
「いえ、お礼なんて。大したことしてませんし」
「いい子だね」
本当に静雄とは正反対のいい子に、静雄が大切にするのも頷ける。静雄にバーテン服を箱で贈った
のはこの弟だ。以来静雄は何処に行くにも、バーテン服を身に付けている。それが今では、静雄のトレ
ードマークになっている。
「あの、本当に気にしないで下さい」
「優等生な回答」
羽島幽平クン。
「え?」
不意に吐息で囁かれた声に、幽が咄嗟に臨也を凝視すれば、先刻感じた気配は、間違ってはいなか
ったのだと確信する。色素を透過した赤い視線が、切っ先のような鋭さを覗かせる。
意図して変えた気配に、幽が吐息を飲み込むのを眺めると、次には人好きのする笑みを浮かべ、臨
也は人好きのする笑みを浮かべ、ひらひらと手を振った。
扉が閉まり、ゆっくりとタクシーが走り出す。それはアッと言う間に他の車に紛れ、見えなくなった。
それを見送り、幽は訝しげに眉を寄せた。
「……折原臨也……まさかね?」
裏界隈の情報屋で、高校の時から垂する年数を、兄と生命のやりとりをしている兄の天敵。その相手
が料理をしているなど、想像も付かない。
幽は胸中に湧いた疑問を打ち消すと、再びくるりとターンをして、元来た道を戻っていった。
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