暖冬なのかと思わせる程、十一月になっても気温が例年より高かった季節も、十二月が目前になっ
た今、例年通りの冬の気温に移り変わっていた。そんな冬の日曜日の、昼近い時間帯のことだった。
外とは裏腹に、通りに面した四方を、ショーウィンドーと変わりないガラス張りで囲まれた店内は、燦
々と降り注ぐ外からの光を内部に取り込み、サンルームさながら光が溢れている。其処に程よく効いた
暖房の熱が相乗効果となり、店内は少しばかり室温が高い。この、微温湯より若干高い温度に肌が慣
れてしまっては、外に出た時、真冬の冷気と変わりない冷たさが、衣服に覆われていない頬や手を直
撃するだろうなと、リョーマはふと思う。
燦々と降り注ぐ光と柔らかい温度は、何処か温室を連想させる空間だった。気温も水分も光も何もか
も。調整された空間だけに存在を許される生き物達のようだと、視線だけで周囲を見渡し、リョーマは苦
笑する。その温室と変わりない空間に自分も居るのが、ひどく可笑しかった。まるで自分を他人の中か
ら眺めて論じているかのような感覚は、常なら自分の傍に居る筈の存在が、隣に居ない所為なのか?
リョーマにも判らなかった。 視線だけで見渡した周囲は、駅前のショッピングモールに位置するだけに、待ち合わせに利用する人間の多さも物語っている。昼近い時間帯、満席とまで行かないが、空席を数
えた方が早いだろう人数が、店内の瀟洒な椅子に座って雑談に興じている。店内は、カップルだろう男
女の組み合わせが多かったが、女性同士、ちょっと早い休日の昼食を摂る姿も多く見受けられたし、開
かれた印象の有るこの店は、一人時間を潰すにも丁度よい配慮がなされていたから、待ち合わせなの
か、一人で席に座り、雑誌を眺めている人もそれなりに居た。それは心地好い空間、そういうことなのだ
ろう。
外から見れば、大した広さなど感じられない喫茶店は、駅前の待ち合わせのメッカになりつつある程
度には、店内に入れば、適度な空間が保たれているのが判る。
言葉も意味も判りにくい、今時流行の騒がしいだけの音楽を取り入れない静かな、けれど決して感傷
に浸るような部類ではない、耳に心地好い音楽が流れ、室内は縦の空間が高く保たれ、息苦しさを感
じさせない設計になっていた。高い天井から溢れる光の波は、視覚にも煩わしさを微塵も感じさせない
照明に気配りしているのが判る。どれもが学生で賑わうだけのファーストフードとはまったく違う空間だっ
た。その空間の一角に、リョーマは腰掛けている。
通りに面した四人用の座席に腰かけ、リョーマは外を眺めている。ガラス張りの壁は、外からの光を
屈曲させ取り込み、窓際は昼間の淡い光を反射させ、かなり明るい。その温室じみた空間は、外の季
節が冬であるのを忘れそうな春の暖かさだ。
十二月を目前に控えた季節は、街にクリスマスカラーが並び始めている。駅と隣接しているデパート
や、其処から連なる駅前のショッピングモールは、先を競うように赤と緑と金と銀、一目見ただけでクリ
スマスカラーと判る柔らかい色彩を並べ始め、街に華やいだ雰囲気を滲ませている。これらか毎日少し
ずつ、一年という区切りの終焉に向かい、年末の賑わいが加速度を付け、街を華やがせて行くだろう。
去年もそうであったように例外もなく。
ガラス張りの店内から見渡す外の景色は、駅前だけにビルが雑踏のように建ち並んでいる。そのビル
の隙間から切り取ったように見える高い空は、何処までも続く蒼い快晴だ。それは自分を育んできた筈
のかの地とは、まったく違う色だと、高い空を眺め、リョーマはふと思う。
底抜けに明るい色ではない、少しだけくすんだ空色は、此処が都心部なのを明確に現しているのだろ
う。昨年の夏、合宿で赴いた避暑地で見た空の色は、狭い国土の日本でさえ、場所によって蒼の色は
様々なのだとリョーマに教えてくれたから、あの高く澄んだ夏の青空とはまったく違う空は、移り行く季
節と同時に、立つ位置の違いも明瞭に語られている気がした。
高く澄んだ青空と、夜になれば、都心の夜空など比較にもならない降るような星空は、まさしく天然の
プラネタリウムそのものだった。
あれからどれ程、互いの距離は変わってしまっただろうか?近付いた距離を代償に、支払って行くも
のばかりが増えていく気がしてならないのは、それだけ支払っていく代償の大きさのようにも思えた。
身の奥から突き上げてくる激しい餓え。身を喰う飢餓は、餓えれば餓える程相手を欲し、一時の享楽に
番えば番う程、餓えと喪失を増していく。満ちる為に欠けていく欠けが、今ではなくてはらない空洞なの
だと、思い知らされる気がして、リョーマは時折いたたまれなくなる。
「…悪党……」
今はこの場に居ない相手に、リョーマは理不尽にも小声でボソリと呟いた。正面で呟いたら、理不尽を
一心に向けられる桃城は、きっと脱力するに違いない。深い苦笑と共に幅広い肩が脱力する姿さえ判っ
てしまう距離に、リョーマは更に内心で悪態を吐き出した。けれどその悪党が、何より、誰より自分を大
事にし、大事にしてもし足りないなど、下らない科白を時折口にするのを、リョーマはいつだって呆れ顔
で聴いている。けれど実際その悪党は、柔らかく優しいもので綺麗に包み込んでくるくせに、決してたっ
た一つの問いには応えてはくれない悪い男だ。掴み掛けたと思える本質など、未々底に到達するには
不完全な足場でしかないのだと、時折教えてくれるだけで、向かう場所一つも口にしない強靭さを秘め
ている。それは時折冴えた刃と牙を覗かせはするものの、抜き身ではない切っ先は、大抵桃城の腹の
奥深い場所に眠っている。ましてその刃は、リョーマを傷つける為のものではないから、桃城がそんなも
のを不用意に、リョーマに曝すことはなかった。
「人でなし…」
温室のような喫茶店の店内で、独り言を呟いたしても、周囲は自分の時間を満喫するのに精一杯で、
誰もリョーマの小声で吐き出される桃城への悪口雑言など、気に止めてはいなかった。そんな空間が、
煩わしさを忘れさせてくれるから、リョーマはこの空間が好きだった。とはいえ、一人になれば思考回路
は精神の眼差しに向き過ぎて、たった一人の男しか考えられなくなる悪循環と同義語でもあったから、
リョーマは苦笑を禁じ得ない。その苦笑が、けれど此処最近、何処か桃城に似てきた自覚は、リョーマ
にはない。まして独語ではない部分で見られている自覚など、尤もリョーマからは遠いものだったから、
テニス以外では、周囲にも自分自身にも無頓着だというリョーマの周囲の評価は、昨年から何一つ変
わりのない不動のものになって久しい。
都心に近付く土地柄を現して、建築されている瀟洒な建築物の群れ。無機質に建ち並ぶのは、人も
物もさした違いはないのかもしれない。関わりなどなければ、それは社会を構成する一角に他ならない
からだ。関わりが有ったとしても、関心がなければ、それは無機質な建築物と変わりない。
見上げた空は、白く薄い紗のような雲を漂わせ、終焉など素知らぬ顔で、遠く綺麗な夢のような色をし
ている。それは何処までも穏やかな休日の光景だろう。
そしてリョーマの視線は、切り取られた視界から見える空からゆっくり下がり、穏やかな冬の休日の賑
わいに焦点が絞られていく。
高いビルに突き抜けている、煙突のような管制塔。クリスマスカラーを彩るキャッチコピーとイラストが
描かれた長い幕。正面に建ち並ぶビルの小さい小さい幾重もの窓。あの窓の内側には、やはりクリス
マスを先取りした賑わいを、満喫している倖せな人達が居るのだろうか?その意味に込められた意味も
知らずに。
一年の終わりを飾る盛大なイベントと化した、他国の祭り。日本で厳粛なクリスマスは、余程熱心なキ
リスト教信者でもなければ、それはただのイベントで終わるものだ。キリスト教圏で育ったリョーマは、イ
ベントには無関心とは言え、まったく無縁でもいられなかったから、それなりのクリスマスをアメリカで毎
年過ごしてきた。ましてその前日は、奇しくもリョーマの誕生日でもあったから、母親の倫子などは、得
意の洋食をテーブル一杯に作り、クリスマスツリーと暖炉を囲んだお祝いをしたものだったが、それは両
親である南次郎と倫子には、過去存在した見知らぬ救世主より、息子の誕生日が優先され、祝ってき
はのは言うまでも無いだろう。知り合いの寺の仮住職をしているくせに、自分は無心論者だと言い切る
南次郎だ。信じられるのは自らの力のみと言う、潔い程の強さを併せ持っている両親に育てられ、リョー
マが見知らぬ異界の存在を、そうと認識したことはない。尤もそれは、先進国であり、恵まれた一定の
環境に在るが故の科白だとも、リョーマは認識していた。
クリスマスカラーが賑わいを見せる華やいだ日曜の街。腕を組み、倖せを満喫して歩くカップル。ウィ
ンドーショッピングに笑い合う女子高生らしい女の子連れ。その中に、長い三つ編み姿を見付け、リョー
マは半瞬蒼眸を瞬かせた。まろい瞳がパチパチと瞬き、長い睫毛が揺れる。
幻覚かと思えた見知った顔は、隣にも見知った顔を連れ合わせているから、幻覚ではないのだと判っ
た。通りに面した店内とはいえ、相手は通りの向こうに居る。余程のことでもない限り、見付かることは
ないだろう。とはいえ、リョーマでも時折その行動には驚きを隠せない小坂田朋香が一緒では、見付か
る可能性もゼロではなかった。
一年生当時はクラスが違っていたものの、二年になったら、それはある意味嫌がらせとしか思えない
作為的なクラス分けで、リョーマには頭の痛い同級生が増えた。
一年生トリオと言われていた堀尾達も今では二年になり、後輩もできたというのに、まったく変化のな
い『二年生トリオ』と呼ばれて久しい。そんな彼等と桜乃と朋香とクラスが同じなのは、絶対作為だとし
か思えないリョーマだった。
親友同士の二人が、休日の昼間に出掛けているのは、別段可笑しいものではないだろうが、此処で
見付かるのは御免被りたかった。でなければ、すべてが無駄になってしまうのは、火を見るより明らか
だ。
昨夜桃城が泊まっていかなかった理由も何もかも、他人の手により無駄にされるのは絶対に御免だ
ったから、リョーマは彼女達から視線を避けるように、店に入る前、馴染みの本屋で買ったテニス雑誌
に視線を移し、そんな必要もないというのに、極間近に位置する人間をやり過ごすように、リョーマは呼
吸さえ潜ませた。
手元に広げたテニス雑誌は、先月大阪で開催された、ワールドスーパージュニアの記事が何ページ
かに渡り、特集が組まれていた。その一角を飾るのはリョーマで在り、桃城で在り、見知った幾重かの
顔だった。アメリカに居た当時、リョーマを勝手にライバル視してきた子供も居たが、リョーマに見事な惨
敗を強いられ、自らの実力を思い知る結果になり帰国した。尤も、グランドスラムジュニア部門に匹敵す
る、世界と言うに相応しい器と入れ物で開催される大会に出場してくる程の腕を持っているのだ。数年
先まで生き残っていたら、また結果は違うものになるのかも知れない。
「……クソ親父…」
手元に開かれた雑誌の一角に、生まれてから今まで。それこそ今朝も出掛け際に哄笑してきた男の
顔が掲載されているのに、リョーマは苦々しげに呟いた。
数ページに渡り組まれている特集記事を書いたのは、父親の熱狂的なファンである、月刊プロテニス
を発行している、大手出版社のテニス部部門記者である井上だった。その所為か、インタビューに応え
ている男は、活躍した選手と同じ扱いで写真掲載されている。
記者なら記者らしく、もう少し私情を挟まず、冷静に対象者を映せと助言した竜崎スミレの言葉は、ど
うやら井上にはあまり効力はなかったらしい。けれど井上もプロだ。写真掲載は些かの私情は挟んだ感
は拭えないものの、掲載されている記事内容は、どれも冷静な眼を持っている記者のものだった。その
内容には、逆に恐ろしい程私情は読み取れず、一切の感情を廃棄した無機質さを感じさせる。
井上は、好んでテニスという題材を追い掛けているが、十分遊軍記者として活躍できる実力を持って
いるだろう。文章に私情を挟まず書くことは、思っているより難しく、熟練された経験が必要とされるから、私情を挟まず自国ばかりを絶賛しない文章は、リョーマから見ても判りやすいものだった。
リョーマが知っている南次郎は、トレーナー姿でラケットを振っている姿か、黒い作務衣を着て、水着
姿の女の写真集を眺めてニヤけた笑みを見せている飄々とした姿でしかなかった。
アメリカに居た当時、プロを引退した南次郎が所属していたのは、プロを輩出するのは恐らく全米一と
言われるテニススクールの監督だったから、アメリカに居た当時の南次郎は、いつもトレーナーを着て、
選手を特訓していた。けれど日本に来たら途端テニスからは遠ざかり、トレーナーの変わりに着たもの
は、リョーマが見たこともない黒い作務衣だった。だからリョーマが知っている南次郎というのは、トレー
ナーを着ているか、作務衣を着ているかのどちらかでしかなかった。
けれど雑誌の中の南次郎は、そのどちらでもなかった。JTAの関係者席に、当然の顔をして座ってい
た男は、未だ世界では稀代とされる選手としての評価が高く、極当然の顔をしてインタビューに応えて
いる。そんな父親を、リョーマは初めて眼にした。
インタビューに応えている顔は、普段水着姿の若い女ばかりが載っている写真集を眺め、涎を垂らさ
んばかりにニヤついた笑みをしている父親ではなく、世界という舞台で、伝説とされる逸話を生み出し、
プロを引退した男の顔だったから、リョーマが苦い思いを抱えたとしても、それは仕方ないものだろう。
実際リョーマは、父親のこんな表情を見たことはなかったのだから、それは無理もないことだ。ましてイ
ンタビューに応えている記事内容に、リョーマは初めて、父親の隠された本音に触れた気がしたのだか
ら、その衝動は大きく深い。
綴られた無機質な文字からでも、人は感動できる。感情を廃棄した無機質な活字からでも、伝わる熱
は有る。其処に綴られていたのは、確かに南次郎が構想するテニス後進国日本の未来だったから、リ
ョーマが瞠然とし、息を飲んで眼を釘付けにしてしまったとしても、当然のものだっただろう。まさか飄々
とした父親が、こんなことを考えていたとは、日常的な姿を見慣れている分、リョーマには片鱗にも思い
もよらないものだったからだ。まして欠片でもそんなものを語られた記憶はない。けれどきっと桃城は、
知っていたのだろう。だろうと、リョーマは苦々しげに舌打ちする。明確な理由は存在しないが、桃城が
知っていたのだろうと思える根拠なら、存在していたからだ。
大阪の会場で南次郎の姿を観客席ではなく、関係者席に見付けた時、桃城は半瞬驚いた様子は見
せたものの、それは極間近で見ていなければ、見分けの付かない程度の驚きだった。その時リョーマ
は、父親と桃城が見詰めている架空に等しい有り様の片鱗に、触れた気がしたのだ。あの時は、ただ
言葉にする明瞭さはなく、漠然と感じたに過ぎないものだったが、こうして外側から当時を眺めれば、感
じたものは正確だったのだろう。
テニスをする術は失われても、南次郎はテニスを諦めてはいなかった。そういうことだ。それがこうして
他者の記事から情報としてもたらされるのには、些か気分の悪さも感じはするが、他人の手により綴ら
れた無機質な活字の中からでも、不思議と父親の言葉が読み取れる気がして、リョーマは苦く顔を歪
めた。
まるでそれは、語られている気がしたからだ。父親が一時もテニスというものに情熱を失っていないと
いうことを。これ程の情熱を、自分は掲げているだろうかと考えた時、リョーマは父親には適わないと思
った。その衝動は大きく深い。やはり曲者は曲者なのだと思い知る。
「サイテ……」
決してテニスを棄てさせてくれない桃城同様、南次郎もかなり辛辣だ。青学テニス部初代曲者の異名
を持つ南次郎と比べるなと、きっと桃城が聴いたら情けなく脱力するだろう姿を想像して、リョーマは泣
き出しそうに顔を歪めた。
こうして一人で居る時間を持てば、たった一人の男のことしか考えられない頭だというのに、当の桃城
は、決してリョーマがテニスより自分を選ぶのを許してはくれない、厳しさも忘れない男だった。
「………あんたの行きたい場所は、何処?」
世界などという器でも入れ物でもないのだろう、桃城の向かう場所というものは。
「一体いつになったら、裏側見せてくれるのさ」
いつか見せてやると言われた月の裏側。冬に近付く季節の深夜。月を見ながら言われた科白だった。切り取ったように、藍色の空間に悠然と浮かんでいた、地球の唯一の衛星。月光浴と言えてしまう程、月の綺麗な晩に告げられた、意味深な科白の幾重か。綺麗なものに紛れ込ませた、言葉の裏側。
手元の雑誌から、半瞬視線が歪んで外を眺めた。無機質に行き交う人の群れ。けれど華やいでいく
気配に比例して、外を歩く姿は、誰もが楽しげに笑っている気がした。その内側に、どれ程の憎しみや
哀しみ、痛みを抱いていたとしても。誰もが目指した場所に向かって、歩いて行く。
通りに面したガラス張りの店内は、外を眺められるのと同様、外からも見られるのと同義語だ。マジッ
クミラーになっていない壁は、隔絶されている空間なくせに、簡単に外部のものを映し出す。
四人掛けの広いテーブルに置かれたクリスタルグラスの中、綺麗な音を響かせ氷が割れた。リョーマ
の視線が、細い手首を飾るリストウォッチに伸びた時だった。
コツコツとガラスを叩く音に気付き、視線を上げた時。外に現れた人物に、リョーマは思い切り攅眉し、
次に憮然となった。
□
「オチビ〜〜〜お前生意気だぞ、中学生の分際で、こんな場所に出入りしてるなんて」
リョーマの許可なく、広いテーブルを独占している眼前の空席に腰を掛け、英二が口を開いた。
「なんで……」
気心が知れ過ぎている相手に、リョーマは思い切り憮然となった。つい先刻、巧く同級生の女子二人
をやり過ごしたと思ったのに、それよりタチの悪い先輩に見付かっては意味はないと、リョーマは白皙の
貌を思い切り歪めた。
「やぁ、越前はどうしてこんな場所に居るの?」
英二同様、リョーマに許可を求めることもなく、身に纏っていたハーフコートを、優雅とも言える仕草で
脱ぐと、不二は英二の隣に腰掛ける。
「余計な詮索は、無しですよ」
そう言ってから、リョーマはしまったと内心舌打ちした。こんな科白を言えば、元36コンビの二人を愉し
ませるだけだったからだ。リョーマがしまったと思った時には遅かった。興味津々という表情を隠しもせ
ず、二人はリョーマを見ている。
「先輩達こそ、こんな場所に湧いて出るなんて、何してるんスか?」
開いていたテニス雑誌を閉じた時、不二が意味深に笑った。
「オチビ、湧いて出るってなんだよ」
「言葉通りのまんまです」
リストウォツチに視線を移した瞬き程度の間に、確かに彼等は突然現れたのだ。動体視力のいいリョ
ーマは、通りの向こうを歩いていた同級生の二人組みを瞬時に捕らえてしまう程の視力を誇っている。
そのリョーマに気取られず、突然現れた不二と英二は、確かにリョーマには、湧いて出たように見えても
不思議はないだろう。
「それね、僕も買ったよ。桃は、結構男前に写ってたよね」
「何、言いたいんです?」
不二がこういう言い方をする時、それは決まって言外のものが隠されているのだと、彼等の後輩を一
年半以上していて、判らないリョーマではなかったから、繊細な貌を渋面させても仕方ないだろう。
「相変わらず、桃はもてるよね」
意味深に笑った不二の視線が外に流れた先には、待ち合わせの目印となるモニュメントが有る場所
だった。その待ち合わせ場所に在る人物を眺め、不二は愉しげに笑う。
「オチビ、桃待たせて、こんな所で何やってるんだ?」
「さぁ?」
「……桃の気苦労、俺なんとなく判った気がする…」
渋面していたリョーマは、その瞬間だけ、ひどく年齢には不釣り合いな笑みを滲ませた。酷薄な口唇
に浮かぶ、何処か妖冶な忍び笑い。それは日本人形の薄い薄い笑みを連想させるものだ。そんなもの
を中学生で身につけてしまったリョーマを大切にしている桃城の気苦労は、きっと生半可なものではな
いだろうと思う英二だった。
成長しているとはいえ、リョーマは桃城の二年生当時のように、急速に成長していない。元々の骨格
の細さも手伝ってのものだろうが、リョーマは相変わらず華奢で薄い印象が拭えない。一年から二年の
夏に掛け、急速に成長した桃城とはまったく違うリョーマの成長は、けれど未成熟な器の印象とは裏腹
に、内側に抱く淫蕩な側面を、こんな時無自覚に露呈する。
未成熟で幼い印象とは相反する、妖冶な忍び笑い。そのアンバランスさは、何処か痛々しいものも滲
ませているのだと、きっとリョーマは知らないに違いない。きっとそんなものをリョーマに与えてしまった
桃城は、だから足掻いている筈で、子供のままではいられなかったのだろう。
「ダメだよ英二。この子は、桃のああいう姿見て、自分のだって、実感してるんだから」
不二はリョーマを好んで『この子』やら『あの子』と呼ぶ。不二がネコ可愛がりしている弟の裕太以外に
、そんな呼び方をするのは、リョーマに限られていた。
「……ちなみに、待ち合わせは何時?」
「十一時っスよ」
「ウワ〜〜〜オチビ最低だ」
シレッと言うリョーマに、けれど英二は腕時計で時刻を確認すると、呆れた声を張り上げた。けれど英
二の科白は、もっともなものだろう。なにせ時刻はそろそろ十一時二0分になろうとしているのだから。
「桃、憐れ………」
敢て待たされているなど、きっと桃城は知らないに違いないと思えば、英二は気の毒そうに桃城を眺
めた。
快晴で穏やかな気温とはいえ、そろそろ本格的に冬に向かおうとしている季節だ。外でただ待ってい
るには、厳しい筈だ。けれど桃城は、なんとも言えず愉しげにしているのが判るから、英二は内心『バカ
ップル!』と叫んでいた。
「あの人、曲者ですからね」
もしかしたら、自分が此処でこうして眺めているのは、承知しているのかもしれない。元々待ち合わせ
などしない自分から言い出した待ち合わせに、何も企みがないなど、桃城は思っていないだろうと思うリ
ョーマは、確かに最低なのかもしれない。
「あの人、あれで四人目ですよ」
「…オチビ……それタチ悪いぞ」
「桃はああして私服で立ってれば、中学生には見えないからね」
黒いハーフコートに身を包み立っている長身姿は、何処か端然とした威風堂々さで、他者を圧倒的に
寄せ付けないものを秘めている。成長過程に有る桃城は、此処に来て更に伸長が伸びている。その長
身で立っていれば、黙っていても女は寄ってくる。けれど桃城はその端然とした態を、隠す術にも長けて
いたから、無用な気配を滲ませ立ってはいないのがリョーマ達には判る。
「それで、女断る桃見て、実感してる訳?」
「今更実感必要ないっスよ。あの人は、俺のですから」
「桃も苦労する筈だよ」
不二はしっかりと見ていたのだ。リョーマが今にも泣き出しそうに笑ったのを。桃城が自分しか見てい
ないなど、リョーマには今更のことだろう。けれど納得と理解は別物だ。理解しても、感情が納得しなけ
れば、結局は力づくが前に出る。身を巣喰うものに、簡単に不安など生み出されてしまう。
リョーマが覚えてしまった物は、恐らく桃城へのどうにもならない恋情と同時に、言葉にできない不安
なのだろうと不二には思えた。それは少なからず、不二にも覚えのあるものだったから、リョーマの変容
は、英二よりキャッチしやすいものだった。
「それ、桃のだろう?」
やれやれと、英二は盛大に溜め息を吐き出し、通りの向こうで女に誘われながら、断っているのだろう
桃城を眺め、そして正面のリョーマを凝視した。
「俺の部屋に、置いてあるもんですよ」
良いものも悪いものも、リョーマの部屋には桃城の日常が幾重も持ち込まれて久しい。お気に入りの
CD、髪形を維持するのに必要なハードムース、桃城の部屋からリョーマが気に入り持ち出した二着の
パジャマに、数枚の下着と、やはり数枚の服。それは今では季節ごとに入れ替えられ、今リョーマの部
屋のクローゼットには、桃城の冬用の服が数枚置かれている状態だ。そんなやり取りに、半同棲状態だと笑うのは南次郎だったが、息子が同性に抱かれていると知りながら、そんな科白を平然と言い切っ
てしまえる南次郎の精神は、やはり底が見えないとリョーマには思えた。飄々とした態度さえ周囲を欺
くものなのだとリョーマが思い知ったのは、案外と遅い。
「でも、似合ってるよ。桃は、君に着られるって判ってるから、それ買ったんじゃないの?」
桃城にも勿論似合うだろうが、ざっくりとした真っ白いモヘアセーターは、その色合いが桃城よりリョー
マに似合うものに不二には思えた。
「そんでそのコートは、桃のだよな」
リョーマの隣の椅子の背に掛けられているコートは、大雑把に畳んで掛けられていたが、どうみてもリ
ョーマには大きいものだ一目で判る。
「正月に、あの人の部屋から持ち出したんですよ」
正月は、桃城の母親の実家に泊まるのが恒例だとかで、桃城以外の人間は、揃って鎌倉の桃城の
母親の実家に出掛けて留守だった。当然そんな状況で、リョーマが桃城の家に行かない筈はなく、二
人は正月元旦早々から、激しい夜を紡いだのだ。その翌日、初詣でに出掛ける時。桃城の部屋から持
ち出したのが、リョーマが着てきたコートだった。
「どうりで」
見覚えがある筈だと、英二は脱力する。
「さてと」
リョーマはクリスタルグラスに半分程残っていたアイスティを一挙に飲み干すと、立ち上がる。
「ちゃんと桃に謝れよ」
言っても無駄だろうが、取り敢えず仲のよい後輩が、恋人にされているタチの悪い遊びに、常識人ぶ
ってしまう英二だったが、その科白に欠片も効力がないのも心得ていた。
「俺の事、大切にしてもし足りないっていう莫迦なんだから、大丈夫ですよ」
フワリと黒いハーフコートを身に付け、リョーマはレシートを手にすると、二人を残して歩き去っていく。
「ったく、オチビの奴…」
半瞬だけ、泣き出しそうな表情を刻み付けたリョーマを、英二も気付いていた。元々動体視力が優れ
ている英二が、通りに面した場所で、何とも言えない表情をして座っていたリョーマを見付けたのだから。
「一人でいると、無色透明って感じなんだけどね」
通りに面した席。たった今出て行ったリョーマが、大きいハーフコートの裾を翻し、桃城の元に走ってい
くのが見えた。
「でもオチビも本当、周囲に無関心すぎ」
自分がどれだけ店内に居る人間達の視線を集めていたのか、まったく気付かないリョーマには、呆れ
ると同時に、些か心配してしまう英二だった。
リョーマはテニス以外、自分のことにも周囲にも無頓着だ。自分の容姿にもまったく自覚がないのだ
から、始末に悪い。敏感に反応するのは、桃城に向けられる視線だけだろう。
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