「あの子は、コートに立ってると水晶みたいに冷ややかで綺麗なのに、桃と居ると、途端に色が付くね」
「不二の言い方、なんかやらしいぞ」
色が付く。なんとも意味深な科白に、英二は肩を竦めた。けれど英二も不二の言いたいことは、正確
に理解しているのだろう。苦笑を刻み付け、外を眺めている。
「だってホラ、あの子桃と居ると、途端に覗き色みたいに色が付く」
白い布が、藍染めの甕の中を瞬き程度の時間覗き見ただけで、淡い薄青に染まることから所以され
る色なのだと、英二が不二から聴いたのは、去年の桃城の誕生日の時だ。
「無自覚だから、桃も大事で仕方ないんじゃない?」
それこそ、大切で大切で仕方ないだろう。そのくせ、リョーマの言葉に出されない内側に抱き込んでし
まった不安を知りながら、最後の最後には、決して甘やかさない潔いまでの強さも桃城が持っているの
を、不二も英二もよく知っていた。伊達に彼等も桃城の先輩をしている訳ではないのだ。
燦々と降り注ぐ光を取り込んだ、温室のような柔らかい光に満たされた明るい店内。それとは裏腹に、一歩外に出れば、冬の冷たさが肌に付き纏う。冬支度を始めた街並みを歩く人の群れも、コートを来
て居るのが目立つようになった。
暖冬かと思われた今月上旬は、未だコートなど必要とはしなかった。けれど十二月の声も目前に控え
た季節は此処急速に冷え込み、例年通りの冬の訪れを告げている。それでも本格的な冬ではないから、コートの襟を立て、背を丸めて歩いている姿はない。
たった一枚のガラスが、内と外を隔てているその向こうで、リョーマが桃城の元に辿り着いたのが判る。
「桃も、甘い甘い」
遠目からでも、桃城がリョーマの髪を掻き回しているのが判る。それは桃城がリョーマに見せている癖
で、リョーマが桃城にだけ許している癖だ。リョーマは桃城以外の人間からあんな扱いを受ければ、問
答無用で腕をはたき落とてしまうのだから。その無自覚さが、いずれリョーマを傷つけてしまわないこと
を、二人は願った。
「無色透明だと思う反面、一色って感じもするんだけどね」
桃城に髪を掻き混ぜられ、憮然とした様子が不二には手に取るように判った。リョーマが入学してから
二年間。それは見慣れ過ぎた光景だからだ。
「一色?」
疑問符を付ける英二に、不二はやはり穏やかな笑みを刻み付けたまま、隣に腰掛ける英二に視線を
移した。
よく考えれば、男同士二人で喫茶店に入り、向かい合うでもなく、隣同士腰掛けているのは、やはり
何処か可笑しいだろうというのは、この時二人に自覚はなかったから、不二も英二も、案外リョーマとは
お互い様なのかもしれない。
「言葉通りだよ。混じりけのないたった一つの色。でも何にも混じらない色って、そうそう簡単にはないん
だよね。色は何かしら他の色と混じり合っているから。何の色とも交わらない色を、探すのは難しいんだ
よ」
「それで『いっしょく』じゃなく、『ひといろ』か」
呼び方一つで、その物が持つ特色は、容易に変化する。不二がこうまで色に詳しいのは、趣味の写
真の影響なのか、英二にも判らなかった。写真も、その場、その空間にある光彩という色一つで、容易
に映し出される印象が変わってしまうから、もしかしたら色や光に詳しいのかもしれない。
「最初に有る色って意味もあるらしいけど。たった一色を持ち続けてく方が、余程難しいね」
何にも染まらず、たった一つの色を待ち続けていく孤高さ。それは何処か淋しい光景にも思える。
「確かにオチビは、夏でもコートに立ってる時は、冬の月のような冷たい印象あるもんな。反対に桃の奴
は、真冬でもコートに立ってると、夏を背負ってる」
「アア、それ確かにそうだね」
真夏の試合最中。繊細な輪郭から、一握りで締め殺せてしまいそうに細い首筋に流れ落ちる汗を見
ても、不思議とリョーマは、真冬の冷ややかな空気に刻み付けられ、その切っ先を益々鋭く研ぎ澄ませ
ていくかのような、無音の世界を形成する月のような凛然さが滲んでいる。反対に桃城は、空気が氷に
刻み付けられたかのような、身震いする冬の寒さの中に在っても、テニスをしている姿は、何処か真夏
を背負っている。
高く真っ青な真夏の空が似合う男だと思う反面、桃城の明け透けな笑顔の裏を知っている不二や英
二にとっては、それがただ単純に、気安い笑顔と真夏の光景が似合うと、思ってはいなかったのだけれ
ど。
「オチビも吹っ切れたと思ったんだけどな」
「そう簡単じゃないよ。あの子は、きっと今まで、テニスしか知らなかったんだから。怖いのは当然だよ」
傾ける想いと言うのを、きっとリョーマは初めて知ったのだろう。だろうと思えば、桃城がああも慎重に
扱うのがよく判る気がした。大切にしてもし足りないという言葉は、むしろ単純化しすぎたものだろう。
「あの二人、きっと離れられないだろうな…」
半瞬、英二の視線が翳り、通りの向こうに消えていく後輩二人を凝視する。
リョーマに自覚はないだろう。桃城と二人で居る時、どれ程自分が無防備になってしまうのか。そして
桃城はそんなリョーマを理解しているから、莫迦みたいに大切にするのだろう。今まで知らなかった感
情を、教えてしまった罪悪と共に。
「別に、いいんじゃない?子供の時に、本気の相手に出会っちゃうのも、案外珍しいものじゃないし」
僕や英二みたいにね、不二は綺麗な笑みを刻み付ける。
「不二はさ、淋しくないのか?」
手塚がプロを目指して留学すると知った時。見送った空港で大泣きしたのは、手塚の恋人の不二で
はなく、英二だった。空港ロビーで英二に泣き付かれ、珍しくも困惑する手塚なんていう代物を、その場
に居たレギュラー陣は拝めたのだ。
「淋しいっていえば、淋しいけど。でも手塚はプロになるべきだと思うからね」
半瞬の苦笑が不二の本音なのだと、付き合いの長い英二には判る。それは柔和な外見の内側に潜
む、不二の靭やかなまでの強さだ。
「オチビも、不二程強かったら良かったのに」
あんな泣き出しそうな顔をして、恋人を見詰めなくてもいいように。
「でも桃は、見誤らないから、大丈夫だよ」
ただ甘やかすだけで満足している訳でもなく、自分と他人の位置を重ね合わせ、満足するだけの無知
な子供でもなく。
リョーマを愛したが為に、子供ではいられないと自覚して、尚自分の道を見極め歩こうとしているその
強靭さ。その強さを見失わなければ、何が大切か見誤らなければ、さして問題はないだろう。
その時、オーダーした覚えのないフルーツパフェが二つ、二人の前に置かれた。結局二人もリョーマ
のことは言えないのかもしれない。自分達がどれ程店内の人間達から、視線を集めていたのか、自覚
はなかったのだから。
白いブラウスに黒いタイトのミニに、黒いエプロンというスタイルが、この店のウェイトレスの制服だ。
「先程のお客様からです」
綺麗な面差しをしたバイトだろうウェイトレスが、莞爾とした笑みと共に、二人の前にフルーツパフェを
置き、更に淡い笑みを落とし、去って行く。
「オチビの奴…」
「これは、やられたね…」
甘い物が大好物な英二は未だいいが、不二はそんなに甘い物を得意とはしない。その二人に特大の
フルーツパフェを注文するとは、大概リョーマもいい性格をしているのかもしれない。
不二はやれやれと溜め息を吐き出すと、男二人で隣同士に腰掛けてることもないかと、先刻までリョ
ーマが座っていた椅子に移動し、瀟洒な長い銀のスプーン手にとって、
「あの子の折角の奢りだし」
生クリームを口に運んだ。
「不二もオチビには甘いにゃ」
甘い物が大好物の英二は既にパフェに口を付け、生クリームに埋もれているバナナを頬ばっていた。
□
「ったく、あいつも何考えてるんだか」
青春台駅の駅前は、休日の穏やかな快晴と相俟り、かなりの雑踏で賑わっている。もう残り少ない日
数で、今年最後の月になる。街は一年の終焉に向けクリスマスカラーが並び、華やいだ雰囲気を否応
なく演出していた。それは飾り立てられたものではあるが、嫌味ではないギリギリのラインを綺麗に保っ
ている。
桃城は、駅前の待ち合わせの目印しとして、よく利用される何だかよく訳の判らないモニュメントの前
で、リョーマを待ちながら、昨夜唐突に告げられた科白を、反芻するように思い出していた。
大抵休日の前夜は、リョーマの部屋で過ごす桃城は、昨日は部活を引退した後にも関わらず、後輩
に請われテニス部に顔を出し、汗を流した後、リョーマの家に直行した。だからいつも通り、昨夜も泊ま
る予定でいたのだ。けれどそれは珍しくも、外で待ち合わせをして出掛けたいというリョーマの希望によ
り遮られ、桃城は昨夜帰宅し、今に至っている。
自分が待ち合わせに向かない性格だと自覚しているから、リョーマが桃城と待ち合わせをして出掛け
るなど、付き合い出してから出掛けた記憶を想起しても、桃城には思い当たらなかった。そのリョーマが、桃城との夜より翌日出掛けるのを優先するのを考え合わせれば、それがただ単純に出掛けたいとい
う意味ではないのは、桃城には丸判りだ。
そろそろ冬の新しい服でも買おうかと思うから付き合って。昨夜リョーマはそう切り出した。別にそれだ
けが目的なら、桃城は既に日常化してしまった越前宅への宿泊を蹴ってまで、帰宅はしなかっただろう。既に桃城の母親など、週末息子は後輩の家に泊まるというのがインプットされてしまったのか、珍しく
も週末帰宅した息子に、喧嘩でもしたのかと尋てしまった程だ。母親にそう尋ねられてしまった桃城は、
乾いた笑みしかできなかったのは言うまでもない。親の庇護下に有る中学生の身分で、週末ごとに後
輩の家に宿泊している異常さを、桃城も良く判っていたから、母親にそう切り出されては、返す言葉など
ないのは当然だった。
息子が週末ごとに、後輩の家に泊まっているのを、母親は何と思っているのだろうか?その真意を、
桃城は尋ねたことはない。ご迷惑にならないようにしなさいよという他、母親は一切の強制を桃城には
しなかった。それは放任というより、幼い頃から、自由の意味を履き違えない息子に預けた信頼のカタ
チなのか、桃城には判らない。判らないが、ただ母親のような強さは、未だ持てない。そのことだけは判
っていた。
桃城の父親は、生死と表裏一体の職務に付いている。警視庁刑事部捜査一課。その部署は、刑事
警察の中枢機関で有り聖域だ。それは同時に、生命の危険が高いと言うことを意味していた。今でこそ
管理官となり、送迎付の車に乗っている父親も、若い頃は捜査の第一線に立っていた。その現場で結
果を残してきたからこそ、今の立場になっているのだろうが、母親はそんな父親をずっと見守ってきた。
その強さは、未だ桃城には持てないものだ。
生命の危険と隣り合わせの死線に立っている、父親を見守る母親の強さ。そんなものは、未々持てな
い。精々が子供の戯れと繰り言に等しい願いを繰り返し、リョーマを大切に大切にするだけで、未々言
葉もなく見守れるだけの強さはないと、桃城は思っていた。だから訊けないというのも、理由だったのか
もしれない。訊けば反対に問われる。リョーマとの関係ではなく、どう有りたいのかという有り様そのも
のを、母親は怜悧な眼差しで訊いてくるだろう。そんな時、母親は一切の逃げを許さないだろう。未だ答
えられるだけのものは持てない未熟さを痛感しているから、桃城は逃げだと判っているものの、母親に
その真意を尋ねられないでいる。
何事にも聡い母親だ。きっとリョーマとの関係は見抜かれている。それでも何も問わない母親は、や
はり偉大だと、ついつい思ってしまう桃城だった。
下らない想起をしていると、不意に声が掛かる。思考を切替え焦点を絞れば、正面にはストレートな綺
麗な髪を、淡い栗色に染めている、顔立ちだけは割と綺麗な女の子が立っていた。
「お茶しませんか?」
顔だけはそれなりに綺麗でも、頭の作りがそうとは限らない。世の中連日新聞の三面記事を賑わせ
ている事件は後を立たないというのに、危機感の欠片もなく、いっそ無邪気に声をかけてくる、どうみて
も自分より年上の高校生だろうその女性に、桃城は取り繕う笑顔を向けながら、内心またかと辟易して
いた。
待ち合わせの時間から、二十分経過して掛かった声は、これで四人目だ。容姿だけはそれなりのランクの女性が声を掛けてくるが、どうにも口を開けば誰もが同じで、桃城は勘弁してくれという心境だった。
待ち合わせの場所に立つ男に声を掛けてくるのだから、容姿にはそれなりに自信の有る女が声を掛
けてくるのだろうが、ついついそんな女性と内心でリョーマを比較してしまっているあたり、桃城は大概
終わっているのかもしれない。
烏の濡れ羽色と評されてしまう、見事な翠髪。その髪に輪郭を際立たせる白皙の貌。色素の薄い空
色の瞳。研ぎ澄まされる綺麗な気配。相反して泣き出しそうな無防備な貌。一握りで握り締めてしまう、細すぎる首筋と、線の薄さと華奢さ。
ついつい声を掛けてくる女性と比較して、リョーマ程綺麗な生き物は居ないと思っている桃城は、完璧
に終わっている。
「待ち合わせ中だから」
待ち合わせ場所に立っているのだから、それくらい判れと思う桃城に、罪はないだろう。それでも、気
安い笑顔を向け断りを告げるから、タチが悪いのだ。
「でもさっきから、待ってるみたいだけど?」
声を掛けるタイミングを計っていたのだろう。桃城がそう言えば、正面に立つ女性は、すかさず口を開
いた。
「待ち合わせ相手、遅刻の常連者なんだ」
此処最近、益々精悍になる面差しに深い苦笑を刻み付ければ、桃城は到底中学生には見えない。
「そんな彼女放って置いて、私と一緒にお茶しませんか?」
自分の容姿に自信の有る人間は、男も女も含め、他人と比較したがる傾向にある。それは値踏みだ
ったり優越だったり目的は幾重か存在するだろうが、そんな傾向に有る。いっそリョーマもそれくらいで
きてくれたら、周囲にも自分にも無頓着ではなくなるのかもしれないし、もう少し危機感の一つも持ってく
れるのかもしれない。まったく自分の容姿の綺麗さに自覚のないリョーマは、周囲がただテニスを羨望
しているだけだと、疑っていないのだ。
確かにテニスは伸長と顔でするものではないだろうが、年不相応にテニスが達者で、容姿が際立って
いるとなれば、様々な意味で、恰好の材料なのだ。けれどリョーマに、そんな危機感はまったくない。
此処でも桃城は無自覚にリョーマと、正面の女の子を比較してしまっている自分に気付き、苦笑する。ある意味正面に立つ女の子は、とても女の子らしい部類なのだろう。
待ち合わせているのは、とびきり綺麗な彼氏なんだけれどなと、桃城は内心呟いた時だった。
「桃先輩!」
待ち合わせ時刻を二十三分程遅れ、リョーマの声が掛かる。視線を正面から通りに移せば、見覚え
の有り過ぎる黒いハーフコートの裾を翻し、走ってくる姿が在る。雑踏の中、その部分だけが綺麗に色
が付いたように浮き上がって見え、桃城は深い笑みを滲ませる。
「相手来たから、ゴメンな」
「なぁんだ、彼女じゃなくて、男の子なんだ」
けれどその男の子が、綺麗な顔立ちをしているのに、桃城に声を掛けた女の子は、通りの向こうから
走って来るリョーマをまじまじと眺め、残念と笑って去っていった。
「あんた相変わらず、タラシ」
キャラメル色のロングブーツを履き、白いジャケットを翻して歩き去っていった女の子の背を眺め、リョ
ーマが笑う。
「お前なぁ、外での待ち合わせは、もうやらないからな」
未だ今はいい。本格的な冬ではない。これが本格的な冬になって、外で三十分も待ち惚け状態では
、躯が冷えてしまう。
「だったら、何処かの店ならいい?」
「却下。出掛けたいなら、迎えに行ってやるから」
第一その方が、遥かに能率的だ。
「まぁいいけどね。面白いもの見られたから。もう二度はいいや」
「……何だよ、面白いものって」
綺麗な造作に浮かぶ意味深な笑みに、桃城は嫌な予感がするぞと、正面に立った綺麗な面差しを凝
視すれば、リョーマはやはり意味深な笑みを刻み付け、下から覗き込むように桃城を見上げている。
それは何処までも無防備な姿だ。
「四人。それって多いの?少ないの?」
「お前〜〜〜それが目的か?」
勘弁しろと、桃城は盛大に脱力した。どうりで外で待ち合わせと強調した筈だと、桃城は大仰に溜め
息を吐き出した。
「ったく、この小悪魔」
それでも、大切で大切で仕方ないのだから、大概自分も終わっているとの自覚は有る桃城だった。
「タラシに言われたくないっスよ」
雑踏の中でも、桃城の気配は判る。意図的に気配を絶つことのできる桃城は、いっそ何処かで武道
でもしていたのかと思わせる面はあるが、リョーマにそんなものは通用しない。本気で桃城が気配を絶
ってしまえば、リョーマとて容易に探し出せはしないが、雑踏に埋もれる程度に気配を殺している桃城
であれば、何処からでも簡単に見分けが付く。まるで其処だけ綺麗な色がついているように、見えるの
だ。
「ねぇ?桃先輩、多かったの?少なかったの?」
小首をかしげ意味深に笑うリョーマの姿は、無自覚な無防備さが全面に出ているから、タチが悪いこ
とこの上ないと、桃城は溜め息を吐き出すと、
「お前の想像に、任せるさ」
深い苦笑を刻み付け、節の有る長い指が、柔らかい髪を掻き乱す。その慣れてしまった感触に、リョ
ーマは少しだけ憮然となった。
「あんたの好みの、年上の女ばっかだったじゃん」
心地好いを感触を与えてくれるこの桃城の仕草が、一体いつから、心地好いだけのものではなくなっ
てしまったのか?リョーマに記憶はない。深い心地好さと同時に、身の裡の欠けて行くばかりの餓えも
意識させられる。
「アホ、年上は年上でも、高校生は守備範囲外だ」
「……サイテー」
流石十も年上の従姉妹が初体験と、春先桃城の家で顔を合わせた、検察官をしているという桃城の
初体験相手の従姉妹を思い出し、リョーマは笑った。
「お前、一体いつから見てたんだよ」
自分が声を掛けられた人数を把握していると言うことは、少なくとも、待ち合わせ時間かっきりに、この
近所には居た筈だ。
「さぁね。桃先輩の、想像した通りなんじゃない?」
クシャクシャと、髪を梳く節の有る長い指先は、心地好さも餓えも生み出し、同時に自分を女にした指
だと思えば、急速な疼きを意識する。
「ねぇ?今夜は泊まってってよ」
「明日部活だろ?」
「あんたはないじゃん」
三年は引退し、気楽な隠居生活のようなものだ。全国でも有数の名門校である青春学園は、内部進
級試験は存在するものの、エスカレーターで高等部に進学するから、世間の中学三年のように、受験受験と目の色を変えることはない。だから三年とはいえ、案外気楽なものだった。
「お前は有るだろうが」
仕方ない奴と溜め息を吐き出し、ゆっくり歩き出す。
年末に向け華やいで行く街は、誰もが倖せを満喫しているような顔をして、通り過ぎていく。その雑踏に
混じり、二人は歩き出した。
□
「ねぇ見て見て桜乃、あれ綺麗」
白いカシミアのハーフコート。お揃いの可愛らしいバッグ。キャラメル色のロングコート。ショーウィンド
ーに飾られた華やいだ服を眺め、朋香が賑やかな声を上げている。
「朋ちゃん、ホラあれも可愛いよ」
モノトーンの多い冬の景色の中。ショーウィンドーだけは華やいだ色が飾り立てられ、賑わっている。
桜乃が指差したショーウィンドーの中には、服とブーツ、他に可愛らしい小物がディスプレイされている。どうやら、クリスマス、彼女に贈りたいプレゼントというテーマで、飾られているようだった。
「アレ?リョーマ様?」
ショーウィンドーを眺めていた朋香が、不意にウィンドーに映し出された見慣れた影が横切ったのに、
慌て背後を振り返った。
「エッ?リョーマ君?」
朋香の声に、桜乃も慌てて背後を振り返る。
「やっぱ、リョーマ様だわ」
視線の先、雑踏に紛れ闊歩している華奢な後ろ姿が在った。
「また桃城先輩と一緒か。本当あの二人、仲良すぎ」
リョーマの隣には、当然のように長身の姿が在る。特徴の有る髪形に、見間違う筈がない。
「うん、仲いいね、リョーマ君と、桃城先輩」
「幾ら仲が良くても、先輩後輩で、あんな年中一緒に居るものなの?休みの日も一緒だなんて」
むしろ離れている二人を思い出す方が、苦労するような気がする朋香だった。
実際、学年が違う二人なのだから、校内では離れているのが普通だ。けれど部活の姿を見慣れている
朋香や桜乃にしてみれば、いつも一緒にアップし、ラリーしている姿が思い出されるのは仕方ないのか
もしれない。まして桃城とリョーマの二人は、男同士何が楽しいのか、大抵昼は一緒に摂っているのだ
から尚更だ。
「声掛けちゃおっか」
桜乃が片手を振り上げ、声を出そうとした瞬間だった。
「ちょっ…ちょっと朋ちゃん、やめた方がいいよ」
可愛らしい冬服の茶色のハーフコートを来た桜乃が、慌てて朋香の手を引き止めた。長い三つ編みが、フワリと揺れる。
「なんで桜乃?折角休みの日に、リョーマ様に会えたのに」
突然引き止められ、朋香が頬を膨らませ抗議すると、桜乃はリョーマ達が消えた雑踏に視線を向けて
いる。
「なんか、邪魔しちゃいけないって気がして」
雑踏の中、不思議と人波に埋もれていたリョーマの姿。男に綺麗という表現を用いるのは適切ではな
いだろうが、それしか思い付かない綺麗な造作をしているリョーマは、けれど不思議と雑踏の中、人の
気配に紛れてしまう。見付け出せれば、其処だけ切り取ったように浮き立つというのに、背後を通り過
ぎたというに、まったく気付かなかった。
「なんかリョーマ君、普段無色透明なんだけど、桃城先輩と居る時、天然色みたいになるから」
「桜乃、何よそれ」
天然色という色は存在しないから、親友の曖昧な表現に、朋香は判らないと首を捻った。
「いいの、なんとなく思っただけ。ホラ朋ちゃん、買い物買い物」
桜乃は首を捻る親友の腕を取ると、暖かい空気に満たされているデパートに入っていった。
□
「何笑ってるんスか?」
「ん〜〜?何か可笑しくてな」
「?何?」
「お前から、俺の香りがする」
雑踏の中。擦れ違う人からでも、特に女性と擦れ違えば、女性独特の甘い香りが漂ってくる。けれど
桃城の嗅覚を刺激するのは、隣を歩くリョーマから漂ってくる香りだった。
「そりゃ当然でしょ?俺が今着てるの、セーターもコートもあんたのものなんだから」
「セーターって、オイオイ」
ハーフコートのボタンをしているリョーマの、内側に着ているものは判らなかった。
「あんたより、俺に合いそうな真っ白いモヘアのセーター」
シレッというリョーマに、桃城は苦笑する。
「コレ、俺が着るように、置いてったんじゃないの?」
先刻不二に指摘された科白は、リョーマも思ったものだ。
桃城が袖も通さず、ただリョーマの部屋に持ち込まれたものなら、リョーマは着なかっただろう。
今リョーマが着ているセーターは、買った当人の桃城より、遥かにリョーマに似合いそうな色柄のもの
だ。それをリョーマと出掛ける時、秋から数回袖を通し、桃城はリョーマの部屋に残していた。そのセー
ターには、二人で出掛ける時、桃城が付けている香水の匂が残っている。そして今、リョーマの隣に歩
く桃城からも、その香りが漂っている。
「当たらずも遠からずっってとこだな」
見付けた時。その色合いは、自分よりリョーマに似合うだろうと思い、桃城はそれを買ったから、あな
がちリョーマの科白は外れてもいなかった。
「だったらいいじゃん。ちゃんと俺が着てるんだから」
リョーマの部屋に置いている桃城のもので、リョーマが着ていないものなど下着くらいだから、そんな
ことは今更だ。ましてパジャマなど、リョーマは自分のものを着た試しはない。問答無用で桃城の部屋
から持ち出したパジャマを、リョーマは着ているから、南次郎に新婚夫婦と笑われたりするのだ。
「まったくお前は本当に」
「大事にしても、し足りないんでしょ?」
それこそ眼に入れてしまいそうだと言われた程だ。
「確信犯だな本当。それで王子様は、何処に行きたいんだ?」
「別に、目的ないっスよ」
ただたまにはブラブラと、クリスマスカラーで賑わう街を、散策するのも悪くないと思ったのだ。明確な
目的など初めからなかった。
「何処か、入るか?」
「ん〜〜」
華やいでいく街。普段は無機質に行き交う人の群れも、何処となく賑わっているように感じられる。
けれどショーウィンドーを飾るものは、その殆どが女性用だ。
「桃先輩、服とか買わないの?」
「そうだな、折角来たんだし」
けれど今は少しだけ、屋内に入ってしまうのは、勿体ない気がした。
「少し歩くか」
「フーン?」
少しだけ苦笑する桃城の横顔を眺め、リョーマが不思議そうに小首をキョトンと傾げた。
「空が綺麗だからな」
冬の澄んだ空気に比例して、高くなる綺麗な蒼。木枯らしもない穏やかな冬の昼下がり。こうして歩く
のも悪くないと、桃城は笑う。
「ねぇ、桃先輩。知ってる?」
行き交う人々。目指す場所などあるのかないのか、それでも間迷わず歩いている。雑踏と変わらず建
ち並ぶビル。高い高いビルの下から見上げる蒼い空は、終焉などないかのような、無限の場所だ。
「どした?」
不意に立ち止まり、空を見上げたリョーマに、桃城がクシャリと髪を梳く。
「空色ってね、何処かの本に書いてあったんだけど、1930年頃の、ニューヨークから50マイル以
内の地点で、夏の晴天午前十時から、午後3時までの青空の色ってことらしいっスよ」
「なんだそりゃ?」
「それがスカイブルーだって、何処かの本に書いてあった」
「俺にとって空色ってのは、お前のココにしか存在しない色だな」
ココと桃城が指し示す場所は、白皙の貌に嵌められた一対の眸だった。長い睫毛に縁取られた、色素
の薄い、綺麗な綺麗な空色の瞳。
「あんたって、本当」
立ち止まっていた足が再び歩き出し、リョーマは半瞬呆れた貌をする。一旦言葉を区切ると、
「悪党」
そんな科白を真顔でサラリと言えてしまう男の、一体何処が悪党で詐欺師じゃないんだと、リョーマは
呆れた。
「桃先輩、予定変更」
不意に思い立ち、リョーマは桃城の腕を掬い上げる。
「1930年のニューヨークには行けなくても、今のニューヨークになら行けるでしょ?」
「越前……」
何ともいえない貌で立ち止まった桃城に、リョーマは笑うと、
「見せてよ、俺に。俺も、見せてあげるから」
桃城の大きい掌中に小さい掌を重ね、雑踏に逆らい歩き出す。突然向きを変え歩き出した二人に、迷
惑そうな顔をする周囲は、けれど数秒後には何事もなかったように、通り過ぎていく。
「テニスしよう」
「本当お前、我が儘だな」
けれどその我が儘が、愛しくて仕方ないのだ。
繋いだ手から伝わる熱。今のその想いのまま、繋いだ手を離すなと、不二と英二に言われたのは、去
年の夏のことだった。
桃城は重なってきた小さい掌を握り返すと、
「離さないさ」
呟くように笑った。
どうか綺麗な周囲の色に混じり合うことなく、リョーマが歩いてくれるように。けれど繋いだこの手は決し
て離すつもりはなかった。
「俺もね」
桃城の深い笑みに混じり合った、呟き程の小さい声が聞こえたのか、リョーマは半瞬だけ泣き出しそ
うな表情を作ると、桃城の節ばった掌中を強く握り、笑みを浮かべた。
繋いだその手を離さず、一体何処まで二人で行けるだろうか?未だ二人には判らなかった。
それでも、互いに繋いだ手を離すなど、もう今では考えられないから、この先もこうして歩いて行きたい
のだと、二人はクリスマスカラーで賑わう雑踏の中、繋いだ手を離さず歩いて行った。
「いつかな」
「いつかね」
高い夢のような空を、戦場に等しい場所で、見上げるのだ、二人で。
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