不 言 色
act1












 毎年暖冬と言われている中、それでも実際その季節になって蓋を開けてみれば、暖冬という言葉が虚
しくなる寒さが日本全国を覆い尽くしていく一年の終わりの季節。宗教的には多大な意味が含まれるク
リスマスイブも、平和惚けした大雑把な国民性を見事に反映し、その日は一年のメインイベントのように
経済効果を当て込んだ商戦が繰り広げられ、日本でのクリスマスの意味はもうゼロに等しくなっている。
幼い子供でも余程の純粋培養の環境で育っていなければ、サンタも信じてはいないだろう。子供にとっ
ては単純にプレゼントが貰え、ご馳走を食べられる日、日本でのクリスマスの意味は大体そんなものだ
ろう。
 自分には確実に一回りは大きいオレンジ色のセーターを着込んだリョーマは、クローゼットから黒いハ
ーフコートを取り出しそれを羽織った。それは普段から通学に着用しているコートだったが、それは去年
までは桃城の持ち物だった。
 リョーマの部屋に持ち込まれ、それが極当たり前の光景として溶け込んでいる桃城の持ち物の中、そ
れはリョーマが今年の正月、桃城の家を尋ね、今ではもう桃城の体型には合わなくなったからと、部屋
のクローゼットにしまわれたままになっていたものを、問答無用で持ち帰った代物だ。
 それは今年の始めはリョーマには一回り近く大きかったものの、今では丁度いい大きさになっている。
けれど依然として二人の体格差と身長差が変わらないことを考えれば、当時の桃城は飛躍的な成長を
遂げたということだろう。
 それがリョーマには少しばかり癪に触ると同時に、たった一歳の年齢差が、決して追いつけない落差
を感じさせられ、時折いたたまれなくなるのだ。
 身体的なコンプレックスは、リョーマはさして感じる方ではなかった。正しく劣等の裏返しではなく、テニ
スに体格や身長は必要ないのだと、リョーマ自身が身を持って証明しているから、緩やかな成長を遂げ
ていく自らの体格に対し、誰かと比較し劣等感を抱く必要がリョーマにはなかった。けれどそれが精神的
な成長となれば話しは別だ。
 身体的成長を別物にして、桃城の精神的成長は目覚ましいものだった。体格より何よりも、リョーマが
桃城に適わないと思うのは、変容とも言えてしまう精神の成長だった。
 どんなスポーツもそうなように、技術だけでは試合には勝てない。特にダブルスではない限り、個人で
戦うテニスのようなスポーツは、隔絶された空間に佇む強さがなければ勝者にはなれないからだ。だか
ら技術面と同時に必要とされるのは、孤独に打ち勝つ精神だった。
 けれどリョーマは知らないのだろう。桃城の成長を促したのはリョーマだと告げられても、リョーマ自身
がそれを感情で理解してはいないから、桃城の精神の変容に、置き去りにされていく怖さが付き纏う。
それが時折前触れもなく深奥から顔を覗かせ、リョーマを愕然とさせる。
 リョーマという幼い生き物を愛したが為、桃城は子供のままではいられなくなってしまった。子供のまま
ではいられないと自覚した時から、桃城は精神的に大きく成長していったのだから。けれどリョーマにそ
んな自覚が生まれる筈もなく、一段も二段も成長していく桃城に、リョーマが僅かばかりの怖さと同時に、生来勝ち気な性格を反映し、八つ当たりじみた悪態を叩くのはいつものことだった。
 そんなリョーマの不安定な内心を見透かして、桃城はいつだって端然と笑っている。それがますますリ
ョーマを癪にさせるのだと理解してなお、桃城はリョーマが望むまま、安易な言葉を与えるような真似は
しなかった。それこそ桃城の精神の足跡だと、リョーマが口唇を噛み締めているのを桃城は知っている。
言葉に出さない強さが、桃城の本質的な強さとも言えた。
 今年の夏、桃城率いる青学テニス部は、王者と言われた立海を制し、全国大会二連覇を成し遂げてい
る。それがどれ程苦難な道程か、誰もが理解していた。それは一歩一歩階段を登り、頂点を極める地道
な作業という意味ではなく、高校生級のレベル揃いだった手塚達の抜けた穴がどれ程大きく、そして選
手層の薄くなったテニス部を纏め、全国へと導き、自分の練習と同時に、次世代の選手達を育てる指揮
能力を、部長である桃城と、副部長である海堂は求められていたからだ。
 高校生級と言われた手塚と、天才と言われた不二。テニス部の頭脳と言われたデータ集積分析能力
に長けていた、人間PCの乾、全国に通用するダブルスペアと言われ、黄金ペアと呼ばれていた大石と
英二、パワーという点では、桃城をも凌ぐ河村。主力選手が当時の三年に偏っていた為、桃城が部長を
引き継いだ時、全国で通用する選手は桃城当人と海堂と、リョーマくらいだたった。だから桃城や海堂が
どれだけ苦労して選手を指導し、全国に通用する選手にしたのか、リョーマは桃城の隣でつぶさに見て
いてきた。
 けれど桃城はリョーマに泣き言一つ言わなかった。いつも飄々とした笑顔の内側にその苦悩を紛れ込
ませ、桃城は決してリョーマに愚痴を零すことはなかった。きっと桃城の部長しての苦悩を誰より見知っ
ているのは、桃城が自他共に認める唯一のライバルである副部長の海堂だけだろう。
 それがリョーマには少しばかり哀しいとは思うものの、人を育て導くという作業など到底できないリョー
マにしてみれば、桃城の苦悩が判っても、手を差し出すのは安易にはできなかった。部長としての意地
で、桃城がリョーマに愚痴の類いを零さなかったのではないと知っているから、リョーマは特別何も言わ
ず、桃城の隣に立っていた。
 そして暦の上では秋と呼ばれる季節、厳しい残暑の中、それでも暮れてゆく夕空が確実に一つの季
節の終わりを映し、鮮やかな琥珀色に染まる頃、桃城はテニス部を引退していった。
 三年生の引退試合は全部員総当たり戦のトーナメント形式で行われ、決勝戦はリョーマと桃城だった。
 決めた筈のスマッシュは見事に交わされ、一段も二段も威力が増したジャックナイフで応戦され、黄色
いボールがコロコロ転がり、フェンスにぶつかり動きを止めた。夏の終わりを告げる夕暮れの風が、静か
にコートを通り過ぎていった。
 これで本当に夏が終わったのだと急激に意識した時、リョーマの身の裡に湧いたのは、どうにもならな
い空虚感と、切ないまでの痛みだった。
 次の季節を目前に控え、もう二度と、この場所で桃城と試合をすることはないのだと思った時、リョーマ
が泣き喚きたい心境に陥っていた。                 
 いつまでも一緒にいられることなど有り得ない。誰もが自分の道を歩くことしかできない限り、いつまで
も一緒に居られる筈もない。けれど夏の終わりが現実になるまで、桃城とは一緒に居られると思ったの
だ。バカみたいに、そう思っていたのだ。


『頼むな』


 手塚とはまた違った意味で、部を纏めていた桃城と海堂は、そう告げて後輩達を励ましていた。
自分が手塚達から受け継いだものを、桃城もまた後輩達に引き継いでいく。まるで綺麗に描かれる円還
だと思えたものの、そう思えば思う程、もう二度とこの場所で桃城と対戦することはないのだと思い知ら
された。
 テニスなら、自宅の裏に作られたコートでも、ストリートテニス場でもできるだろう。けれど、青学という
場所で桃城とは二度とテニスはできない。
 それがリョーマに僅かばかりの感傷を抱かせたのは、リョーマにとって青学という場所は、既に特別な
場所になっていたからだ。
 まるで綺麗な光景のように、当たり前の顔をして身の裡に存在している場所は、優しく厳しい人達と出
会えた場所だ。望んで手に入る程、簡単ではない場所と人。
 優しいばかりの人達が、不意に見せた厳しさ。降るように差し出されていた腕。言葉。与えられた沢山
の全て。一体どれだけの時間を掛ければ返せるだろうか?リョーマには見当も付かなかった。
 ありがとうと、いつになったら胸を張って伝えられるだろうか?
 そしてそんなリョーマの感傷を置き去りに夏は過ぎ、真冬に近付く現在。丁度いい大きさになった黒い
コートを羽織り、細い手首にスイスのウェンガー社の腕時計を嵌めると、リョーマは時刻を確認した。
 去年帰国する際、南次郎から入学祝いだと贈られた腕時計は、年間数秒と狂いの生じないスイス製
の精巧なものだったが、ミリタリー系の遊び心が発揮されている代物だと、けれどリョーマは知らない。
「驚くかな?」
 腕時計で時刻を確認し、リョーマは酷薄な口唇に忍び笑いを刻み付けた。
時刻は深夜に近い11時30分近くになっている。夏ならまだしも、真冬に近付く深夜など寒いばかりで、
普段ならリョーマも布団の中に潜り込み、愛猫のカルピンを腕に暖を取っているか、思い切り暖房をきか
せた部屋で、ゲームをしているかだ。けれど今夜は違った。
「桃先輩がいいって言ったんだし」
 取りあえずの言い訳を口にして、リョーマは桃城の誕生日を思い出す。
 それはホテルでの浴室での会話だった。桃城の誕生日、盛大に仕掛けた悪戯が成功した子供のよう
な笑顔で、夜景の見える浴室で『ソープランドごっこ』と言っては桃城を脱力させたリョーマは、けれど桃
城の脆弱なくせに強固な理性の前にそれは適わず、結局浴室で激しく啼かされた。その時桃城がリョー
マに苦笑しながら告げた科白は『俺の誕生日なんだから、俺の好きにさせろよ。お前の誕生日には、好
きにさせてやるから』という、中学生には到底思えない科白だった。
 そんな科白をうっかり口にしてしまったことを、これから思い切り後悔する羽目になるんだろうなと、リョ
ーマはその時の桃城の表情を想像し、忍び笑いが淡い笑みに変わった。
「ホァァ〜〜?」
 いつもなら自分と遊んでいる主人が、珍しくも外出する支度をしているのを不思議そうに見上げながら、リョーマの愛猫のカルピンは小首を傾げ、愛嬌のある独特の鳴き声で鳴きながら、リョーマの足許に戯
れ付いた。フワフワの綿毛のような柔らかく長い毛と長い尻尾が、リョーマの足許を柔らかく撫でていく
のに、リョーマは小さい温もりを抱え上げた。
「カル、パパの所行ってくるから、おとなしく寝てなね」
 戯れ付いてくる愛猫の柔らかい背を撫でてやりながら、リョーマはそんな科白で穏やかに笑う。
既に越前家の人間には、カルピンは桃城とリョーマの子供みたいな存在として認知されて久しい。桃城
とリョーマに構われ甘えた鳴き声を上げている愛猫と、そんな愛猫を柔らかい笑みで包み込むように撫
でてやっている二人の姿を見れば、それは綺麗に纏められた一枚の家族の肖像のようだったからだ。
「ホァァ?」
 人語など判る筈もないだろうカルピンは、けれどリョーマの科白にキョトンと小首を傾げ、尻尾を振って
いる。リョーマのより色素の濃い綺麗な青色の瞳が、無邪気にリョーマを見上げている。
「俺の好きにしていいって、言ったからさ」
 きっとあの時、別に深い意味があって言ったのではないのだろう桃城の科白は、その場凌ぎで自分の
仕掛けた悪い悪戯を押しとどめようと口にした科白だとリョーマには丸判りだ。
「俺が覚えてないって思って言った科白だったんだろうけどさ」
 ホテルの浴室といういつもと違う場所でのセックスに、リョーマも乱されるだけ乱れきり、桃城を受け入
れ嫋々に喘いでいた。だからそんな科白を告げても覚えていないだろうと思った桃城の科白は、けれど
リョーマに言わせればその時点で失敗だということになる。
 自分が桃城との会話で覚えていない筈がないのだ。桃城が自分との会話を覚えているように。まして
そんな絶好のチャンスを与えられ、免罪符ともいえる言い訳のネタを提供され、自分が見逃す筈がない
だろうにと、リョーマは口許を綻ばせ、
「桃先輩も、まだまだだね」
 ねぇ?カルピン?そう笑いかければ、リョーマの科白にカルピンが愛嬌のある鳴き声を上げ、尻尾を振
って応えた。 












 暖められた部屋の扉を開ければ、火の気のない廊下からは急速に冬の空気が入り込み、暖められた
部屋から一挙に熱を奪っていく。瞬間、細い躯がフルッと慄え、反射的に細く薄い肩がネコのように攅蹙
する。細い指が襟元を掻き合わせ、やはり桃城から奪った黒いマフラーで首を覆った。
 照明が灯らない夜の帳に包まれた廊下は、肌に触れる外気温より体感温度は実感低く感じられた。
深夜に近付く時間帯、研ぎ澄まされた冬の冷気に満ちている藍色の空間。けれど両親や従姉妹が寝て
いないことを判っていたから、リョーマは足音を立てないネコのような足取りで、階段を降りていった。
 自分の行動に責任を持てる範囲で行動しろ。自由を勘違いするな。秩序のない場所に自由は有り得
ない。幼い時から両親にそう躾られ、日本より遥かに物騒なアメリカで育ってきたリョーマは、自己責任
という言葉を日本の中学生より遥かに理解し育ってきた。だから自分の年齢に甘えた行動をとったこと
はない。そんなリョーマを信用してか、些か放任主義的な部分のある両親は、リョーマの行動に制限を
つけたことはない。少なくとも眼に見える心配や気遣いを、リョーマがされたことはなかった。
 けれど日本に帰国してからのリョーマは、些か昨今の社会事象を無視した行動をとることがあった。
日本の安全神話が過去のものになった現在、流石に無茶と無謀が同義語になっているリョーマの一極
集中の行動には、鷹揚に構えてきた南次郎と倫子も、愛息を野放しにはできなくなったのだろう。
 だから居間でテレビを観て談笑している筈の両親と従姉妹は、階段を降り、ソッと玄関を出て行こうと
靴を履いている息子の首根っこを押さえ、ストップを掛けることにも造作がなかった。 もともと南次郎は
気配を消すことに長けている。それはまるで武闘に精通した人間のそれで、最悪なことに、それは桃城
との共通事項でもあった。
 何故渉外弁護士というキャリアの肩書きを持つ母親が、女タラシにしか見えない父親を生涯の伴侶に
選んだのか?幼い時分は不思議というより、学園七不思議なみの謎を抱えていたその疑問は、けれど
桃城という男に出会い、どうにもならない恋情を傾けてしまった現在、母親の気持ちが判ってしまった。
 どうしようもない物好きを好きになる遺伝子が絶対系統的に受け継がれてしまったに違いないと確信し
ているリョーマは、背後から音も気配もなく近付いて、自分の首根っこを押さえている父親の意味深な笑
みなど丸判りで、盛大に憮然となりながら、背後を振り返った。
「なにすんだよ親父」
「何するはないだろうが。今何時だと思ってるんだ?うちのお坊っちゃんは」 
 色素の薄い空色の瞳が睥睨を向けてくるのに、けれど南次郎は何処までも飄々としたたたたずまいを
崩すことはなく、意味深な笑みを刻んでいる。
「23時30分」
「っで?」
「判ってるなら訊くな」
 ウザイと、未だコートの襟元を掴んでいる父親の手を振り払い、威勢を付け立ち上がった瞬間、今度は
別の指が襟元に触れるのにリョーマは大仰に溜め息を吐き出した。
「生意気盛りの息子に育ってくれて母さん嬉しいわよ、リョーマ」
「………母さん……」
 とびきりの笑顔で、事態を破壊するのは母親の得意技だ。
この無邪気な年不相応な笑顔に騙され、泣かされた交渉相手は両手を使っても足りない倫子だ。そして
未だ父親でも勝てない相手だ。
「でもねリョーマ、いくら彼氏が自分の誕生日には好きにしていいって言ったからって、夜中に会いにいく
のはどうかと思うわよ?」
「………なんで知ってるの」
 その笑顔からは、到底年齢を推し量ることはできない倫子の年齢不詳の無邪気さは、けれどその裏側
では、タチの悪い要素が含まれていることを判らないリョーマではなかったから、当たり前のように告げら
れた母親の科白に、らしくない程呆気に取られ、まじまじと母親の年不相応に若い貌を凝視する羽目に
陥った。 
「あら?簡単な推察でしょう?リョーマにバカみたいに甘い過保護な桃城君がよ、夜中にリョーマが会い
に来るのを許す筈ないでしょう?だったらリョーマがこんなタチの悪いこと考え付くのなんて、どうせ桃城
君がそんな科白を口にしなきゃいけない状況で口にした科白だろうし」
 コロコロと銀鈴を転がす玲瓏さで笑う母親の無邪気な笑顔に隠された本質は、未だ父親の南次郎です
ら勝てないことを考えれば、リョーマに分がある訳はなかった。
 一体どんな推察をしたらその答えに行き着くのか、相変わらず得体のしれない母親に、リョーマは深々
溜め息を吐いた。
 父親ならいくらでも悪態を吐くリョーマでも、母親の前ではそれが通用しないことは判りきっていたから、いつもなら反駁が口をつくことはなかった。けれど今夜は譲れないのだと、リョーマは母親を眺めた。
 母親の年より遥かに若い見たくれに騙され、訴訟相手や契約相手が泣かされたことを考えれば、母親
は遥かに父親より得体がしれない。
 笑顔で事態を破壊する能力は、既にリョーマに言わせれば特殊能力に近いということになる。いくら法
廷戦術に長けている弁護士とはいえ、そんな推察が容易に結び付く筈はないだろう。
「…俺去年の夏、同じことしたけど」
 去年の桃城の誕生日、やはりこのくらいの時間に家を出て、深夜桃城に会いに行った。そうして盛大
に呆れられた記憶は、未だ鮮明に胸の内側に眠っている。
 静まり帰った深夜の住宅街を照らす石の球体と、瞬く星々が、まるでプラネタリウムのように綺麗だっ
た。そんな極当たり前の光景を、どうしても桃城の誕生日に一番に『おめでとう』を言い、一緒に眺めた
かったのだ。
 想起すれば、随分少女じみた発想だったものの、あれはあれで、互いの一つの分岐だったのかもしれ
ないと、今なら思えた。
 そして何よりも、そんな綺麗な光景を桃城に見せたいと莫迦みたいに願ったのは、去年の初夏、デート
と称して桃城に連れ出された観覧車の中から眺めた光景が影響していた。
 隔絶された小さい箱の内側から見下ろした夜景は、まるで宝石箱をひっくり返したかのように綺麗に煌
いていた万華鏡だった。
 観覧車の中の切り取られた視界。小さいレンズから覗くように、足許の夜景を見下ろした時、桃城は万
華鏡だと笑った。
 明滅する未来の有り様。あの時桃城は既に何かを決意したような大人びた横顔をしていた。
あの時の桃城の言葉一つ一つが、まるで大切な欠片のように、今も身の裡の深い部分に居座って、
もう切り離せない程に浸透しているから、リョーマはどうしてもこの時間に桃城に会いたかったのだ。
 それは何処か確認作業に似ているかもしれないし、バカみたいに子供じみた願いかもしれない。そし
てきっと両方の意味を持ってしまっているんだろうと、リョーマの内心を当人より遥かに理解して、南次郎
と倫子が愛息を見下ろした。
「夏はいいけど、冬はダメよ」
「……その理屈全然判らない」
「だって、寒いじゃない?」
「………………」
 なんでそんな当たり前のことを訊くのとでもいいだけにに小首を傾げている母親に、リョーマは大きく溜
め息を吐いた。
「風邪ひくじゃない」
 ことも投げに言う倫子に、南次郎はハハハと乾いた笑みを浮かべ、リョーマは更に脱力した。
問題はそこじゃないしと内心盛大に突っ込みが入る。母親はその仕事がらか、時折相手の精度を試す
ような科白を口にする。それは持って回った言い回しだったり、断片的要素だったりするものの、その大
抵は意図的に与えられている言葉で、それで母親は相手の精度を計る節がある。そして使い分けるの
だ。それこそ母親が法廷戦術に長けいてると言われている所以だという程度のことはリョーマも判ってい
たものの、こんな風に言葉遊びに紛らせてくるあたり、母親が南次郎を選んだ訳が、なんとなく判ったリョ
ーマだった。
 どんな局面でも、それが良い意味で悪い意味でも、母親は相手の精度に合わせた使い分けをする。
だからリョーマとの会話は言葉遊びに近いだろう。クリスマス休暇で久し振りに会う愛息との会話を、実
は倫子は楽しんでいるのだ。  
「………取りあえず訊くけど」
「なんでも訊いて頂戴?私はリョーマのお母さんだから」
「その心は?」
 母親の内心など見透かして、リョーマが口を開けば、その瞬間、倫子の気配がガラリと変わる。まるで
薄布一枚引き剥がした背後から、別の仮面が付け替えられたかのように、今まで無邪気な笑顔を見せ
ていた貌が擦り変わる。
「送って行ってあげるわよ」
「いい」
「ダメよ、いいリョーマ?桃城君が大事なら、無茶はしない。今は安全じゃないの。リョーマに何かあった
ら、桃城君は一生を後悔して生きることになるのよ?万が一にも掠り傷一つでもリョーマについたら、彼
氏の性格じゃ相手を殺しちゃいそうだもの」
 日本に進出しているアメリカ企業の法務部主任という肩書き故、アメリカと日本を行き来している倫子
が、桃城と顔を会わせる機会は多いものではなかった。けれど時折顔を会わせる桃城は、第一印象で
南次郎の若い時と何処か似通った雰囲気や気配を持っていたから、倫子は直感したのだ。そして南次
郎や義理の姪の菜々子から、そしてリョーマが無自覚に紡ぎだす桃城の名前や仕草、その行動に至れ
ば、バカみたいにリョーマを過保護に甘やかしているのだと判ってしまう。そして架空の未来を限定して
しまった強さを南次郎から聞かされれば、どれだけリョーマは、桃城に愛されているのかと思えた。
 人に警戒心を与えない開放的な笑顔。人を構えさせない余裕を作り出させるのは、まさしく桃城が持
つ才だろう。桃城と同じことをしても、誰もが簡単には成功しない筈だ。そしてそれをそうと気付かせない
のも、与えられたその才故だろう。
 そして気付いてしまえば、桃城は腹の底にリョーマには見せないだろう切っ先を隠し持っている。それ
は鞘を持たない抜き身ではないものの、リョーマに何かあったら、躊躇いもなく相手を射殺す類いのもの
だ。
「本当に」
 睥睨してくる勝ち気な眼差しを見下ろして、倫子は不意に真摯な吐息を吐いた。
「南次郎君じゃないけど」
 白く細い指が、愛息の長い前髪を優しく梳いて行く。
「一体何がそんなに、リョーマの内側を強く守ってるのかしらね」
「……母さん?」
 正月にも、父親に同じ科白を言われた。両親が自分の一体何処を見て、そんな科白を口にするのかリ
ョーマには判らなかった。自分の一体何処を見て、そんな判断を下しているのか?リョーマには見当も付
かない。
 けれど、吐息交じりに問われてくる母親の科白の在処なら、よく判っているつもりだった。
 内側を守っているもの。強固な殻でもなく、盾でも壁でもなく。柔らかく包んで守ってくれている者達。


『笑ってろ。お前は笑ってテニスしてろ』

『越前、お前は青学の柱になれ』

『ねぇ越前。これだけは忘れたらダメだよ。桃を成長させたのは自分だってね。今の桃を育てたのは、越前なんだからね』

『オチビ〜〜〜〜』

『リョーマ君』


 母親が一体自分の何処を見て、そんな科白を投げ掛けたのかは判らない。けれど、吐息交じりに問わ
れた科白の在処なら判るつもりだった。


『お前が笑ってくれてれば、俺なんて案外単純だから、簡単に倖せになれるさ』


 帰国し始めて教えられた『仲間』の意味。寄り掛かるのでもなく、依存するのでもなく。コートという戦場
に立つ孤高さと、対極に位置する仲間の存在と。幾重も与えられた声援が、戦場に立つ自分をどれだけ
勇気づけてくれたのかなんて、今更だった。
 青学という場所で教えられたテニスへの熱と。そしてテニス以外の想いと。
 テニスしか知らなかった自分に恋を教え、男を受け入れる機能のない場所に恋しい男を受け入れ、歓
喜する雌に作り替えられた。けれどそれを後悔したことは一度とてない。
 ちょっといけない先輩と後輩のように、互いを道具のように使いあえたら、自分はもっとラクに呼吸でき
ていただろう。時折押し潰されそうな不安を抱えることも、知ることもなく。安易な言葉を紡ぐことを由とし
ない桃城の横顔に無性に不安になりながら、息苦しい気持ちを抱くこともなかっただろう。
それでも棄てられないテニスへの熱と。いずれテニスと桃城への恋情の板挟みで、身動きできない未来
が訪れるかもしれないけれど。


『頼むな』


 夏の終わりを急速に意識させる琥珀色の夕暮れ時。耳に落ちた静かな桃城の声。確かにあの時、夏が終わった。


「やぁねリョーマ。なんだか母さんが苛めたみたいじゃないの」
 愛息が無自覚に見せた揺らぎとも言える表情に、倫子は相変わらず無邪気な笑みを口端に乗せてい
る。
 瀟洒な輪郭に縁取られた白い貌が、俯き口唇を噛み締めている姿は、負けず嫌いな愛息が、テニスコ
ートで逆境に立っている時とはおおよそ赴きが対極にあることを倫子は感じていた。それはアメリカに居
た当時は、見つけるこのできないリョーマの表情だったからだ。
「そんな表情もできるって、ちょっと安心しちゃったわ」
 不世出である父親の子供として、その血統の正しさを引き継いだリョーマに与えられた沢山のレッテル
やラベル。幾重もの称賛と、同年代の子供達から向けられた称賛と、その裏に隠されてきた怨念と。
 リョーマのテニスへの執着は、自分を自分たらしめることのできる唯一のものであると同時に、稀代の
選手として、未だテニス界に厳然と君臨する父親から、自己を確立する為の手段であり道具だった。
けれど今は違う。帰国しリョーマのテニスはその有り様を明らかに変えている。
「ちょっと待ってなさい。送っていって上げるから」
「リョーマさん。私が送っていってあげましょうか?」
 今まで事態の成り行きを見守っていた従姉妹の菜々子が、莞爾と笑う。けれどリョーマは母親と従姉
妹の科白に、憂愁にも似た表情を憮然と変えた。
「どっちもパス…」
 したいなと、ここで言ってみても、もう母親を回避できることはないだろう。
 相手の精度に合わせた母親の言葉遊びに隠された裏に、気付かない程リョーマは鈍くない。興味本
意に見せかけた裏に秘められた幾重の心配は、確かに昨今の血腥い社会事象とも絡まり合い、流石に
放任主義の色合いが強い両親にも、僅かとはいえ影響を与えていたのだと、リョーマは今更痛感した気
分だった。「…まぁ、そりゃそうだろうな」
 自分の血筋より妻の血統をひいているんじゃないかと、時折疑ってしまう実の姪は、妻と二人揃ってス
ピード狂だ。国土の狭い日本の道路事情を考えれば、到底同乗したいくない二人組といえる。
 自分でさえそう感じるのだから、リョーマにはもっと切実な部分があるだろうなと、南次郎は憮然となっ
ている愛息を愉しげな眺めた。