![]() 不 言 色 act2 |
適度に散らかっている室内は程よい暖房に満たされ、桃城はベッドの上に座り込み、広げた資料を眺 めていた。 南次郎から与えられた、架空の未来への足場。不確定な未来を歩く為、約束を果たしたら足掛かりの 一つくらいは提供してやると渡された数枚の資料の中から、桃城は夏にはその足場の一つを決定し、 諸々の手続きを秋が深まる頃には済ませていた。それはテニス部顧問の竜崎にも相談し決めたことだ ったものの、桃城は未だ決めた答えをリョーマに言葉として託すことをしなかった。しなかったのは、歩く 未来への不安があるとか、今なら未だ違う道があるかもしれないとか、そんな埒もない、中学生らしい 迷いが存在していたからでもなかった。 ただリョーマに向け、安易に言葉に出すことに対し、らしくない躊躇いが生じていた所為だ。それは万 が一にもリョーマに負い目を抱かせる結果になりしはないか?そんな危惧が桃城の内側に存在してい たからだ。 これからもリョーマとの関係を続くていくなら、子供のままではいられないのだと自覚した。まさしく今 の自分を育て上げてくれたのは、リョーマという綺麗な生き物だ。だからこそ、リョーマと歩く為に必要な 強さを手に入れたいと願い、足掻き、テニスを生涯の糧にしようと思ったのは、安易な思い付きではな かった。けれどそれが万が一にもリョーマに対し負い目を抱かせはしないか?桃城の危惧はその一点 のみだった。だから未だ言葉に出すことはできなかった。テニス以外のことに関しては、リョーマは未々 子供だからだ。 眠れる獅子を身の裡に飼うリョーマは、けれどその獅子は未だ幼い鉄爪と牙し待ってはいない。それ でも、さして経たない時間の中で、世界がリョーマの名を呼ぶことになるのは明白だった。 誰をも魅了する鮮やかなテニス。テニスをするのに身長や体格は必要ないのだと自ら物語る綺麗なそ れは、さして時間のかからない内に、世界がリョーマの名を呼び始めるだろう。けれど研ぎ澄まされてい くテニスとは相反し、初めて知った感情に、リョーマがひどく臆病になっているのに気付かない桃城では なかった。 繋いだ手を離さない為に、未来を共に歩いて行く為に、一時を離れていくのだと、リョーマが感情の部 分で納得するのには未だ僅かに時間が足りないだろうと、桃城は気付いていた。だからこそ、リョーマ の感情が追いつくギリギリまで、話せないと思う桃城だったが、リョーマが薄々感づいていることも判っ ていた。周囲にも自分自身にも無頓着なリョーマは、けれど桃城に関してだけは、恐ろしい程見抜く眼 を持っているからだ。 「お前はお前の道を、歩いてくれよな」 人は所詮自分の道しか歩けない。同じ道を歩きたいと願い足掻いてみたとしても、自分の道は自分に しか歩けない。寄り添うことは可能でも、歩く道は自分の道で、歩く足は自分の足だ。 同じ光景を見ても、意識下の感性に触れてしまえば決して同じようには映らないの同様、人は誰だっ て好き勝手に生きている。 思うようになることもならないことも飲み込んで、祈る程小さい願いを、大それた望みを手放せもせずに。小さかったり大きかったり、綺麗だったり歪んでいたり。それは抱える当人にしか判らない重さだ。 計る重りは自分の中心にしか存在代物だからだ。誰だって自分を中心に物差しを計る生き物だから、そ の重さは当人にしか判らない価値を秘めている。 「それが俺にとっては、お前だって程度のことだよ」 その程度の願いで祈りだと、桃城は机の上に置いた袋に視線を移した。 クリスマス仕様の華やいだ袋に無理矢理入れられたそれを、明日リョーマに渡す時どんな表情をするだ ろうか?そう思った矢先、ベッドホボードの上に置いたままになっていた携帯が不意になった。それもメ ール着信音ではなく、リョーマ専用の通話呼び出しの着信音だったから、桃城は途端に嫌な予感に教 われ、精悍な面差しに深い皺を刻んだ。 ベッドサイドのデジタル時計を見れば、12月24日午前零時かっきりだった。今日という日がリョーマ の誕生日だということを考えれば、リョーマが我が儘を言わなかったことに意味があるのだと、今更気付 いた気分だった。 「越前、お前一体何処から掛けてる?」 ついつい開口一番そんな科白が口を付いてしまうのは、去年の自分の誕生日、リョーマが深夜に訪 れたことを桃城は忘れていなかったからだ。 『天然プラネタリウム』 白い指先が指し示した深夜の夜空。有り触れた光景が何より綺麗なのだと教えてくれたのはリョーマ だった。 だから今夜も突拍子もない行動をしでかしそうな恋人の携帯電話に、桃城は意識するより以前に、そ んな科白が口をついたものの、リョーマの次の科白にガックリ脱力したとしても、罪はないのかしれない。 『愛は偉大だって言うけど、本当に偉大だね、桃先輩』 「越前〜〜〜!」 慌ててベッドから飛び下り窓を開いて外を見れば、冬の研ぎ澄まされた空気の中、リョーマがヒラヒラ 手を振っているのに桃城は尚慌て、 「このバカ!何考えてるんだ!」 ベッドの端に乱雑に脱ぎ捨てたままになっているコートを引っ掴かむと、机の上に置いてあった袋だけ は大切そうに掬い上げ、階段を降りていった。 『このバカ!何考えてるんだ!』 遽色が想像できてしまう早口で告げられた後、乱暴に切られた携帯に、リョーマは悪戯が成功した子 供のように笑い、桃城家の壁に細い背を凭れた。コンクリートの壁からは、ハーフコートを着てさえ、冬 の凍えるような冷気が伝わってくる。 結局母親の威勢に勝つ術もなく車で送られたリョーマは、やはり帰りを一人で帰す訳にも、よそ様の 子供に送らせる訳にもいかないと、倫子は死角になった位置に愛車を停車させ、待っている。 過保護ではなかった両親が、心配する程度には世の中物騒で血腥い事件が後を絶たないのだとリョ ーマは思い知らされた。そして自分に何かあれば、桃城は一生を後悔し続けていくのだと言われた途 端、無茶はできないと思い、やはり桃城に何かあれば、自分はその相手を決して許さないだろうと思い、結局は母親の言葉に素直に頷くしか術はないリョーマだった。 それでも明日には会えるのだからとか、大人の理屈を羅列して、子供を安全な囲いに押しとどめて安 心している親ではない倫子は、最低限子供の安全を確保して、リョーマの願いを叶えてやることに躊躇 いは見せなかった。このあたり、世間の親とはやはりズレていると思うリョーマだった。世間一般の親な ら、安全という檻に子供を閉じ込め、安堵しているものだろう。 「寒……」 吐く息が白い。それは藍色の空間に紫煙のように尾を引き消えていく。夜空を見上げれば、まるで瞬 く音さえ響いてきそうに澄んだ冬の空気に輝く星々は、怖い程美しかった。何より切り取ったように浮か ぶ石の球体が凛冽とした白さを弾き、晩秋に桃城が話してくれた月の話を思いだす。 「いつ見せてくれるの?」 いつか見せてくれると語った月の裏側。時折呼吸さえ不自由になる程、押し潰されそうな不安に苛ま れるというのに、未だ桃城はその裏側を見せてくれる気配は感じられない。詐欺師で悪党だと思うもの の、もうどうにもならなにい恋情は、切り捨てることもできないからタチが悪い。一体いつのまに我が物 顔で、自分の身の裡に居座ってしまったのかと思う。 「桃先輩………」 細く呟いた声は、けれど白く吐き出される吐息と共に、深夜の空気に綺麗に溶けていくのに、リョーマ は胸の奥に莫迦みたいな感傷を感じ、苦笑する。 呟いた言葉が、まるで言霊のようだと不意に思えば、もうどうにもならない恋情に身の裡が捩れていく 感触に苛まれ、無自覚に細い指が胸元を握り締めた時だった。 「越前!」 この莫迦と、慌てた様子で玄関から転がり出てくる威勢で現れた桃城に、リョーマは半瞬眼を丸くする と、小首を傾げ、口許を綻ばせた。 「何考えてるんだ、こんな夜中に!」 寒がりなお前がすることじゃないだろうと、桃城は慌てて羽織ったままのコートの胸元に細い躯を引き 寄せると、その内側にスッポリ華奢な姿態を包み込んだ。 「だってあんたが、いいって言ったんだよ?」 「っんなこと言うか」 「あんたの誕生日の夜、ホ・テ・ルで」 「………アッ……」 意味深な忍び笑いを浮かべるるリョーマの貌に、桃城は半瞬の後に今年の誕生日の夜、リョーマと過 ごしたホテルでの会話を思い出した。 「……あんな状況で、お前覚えてるなよ」 それは反則だろうと桃城が天を仰げば、リョーマは悪戯が成功した子供のように笑っているから、桃 城は嵌められたと深々溜め息を吐いた。 「嵌める訳ないでしょ?あんたがそう言ったから、言った責任とってもらおうと思っただけ」 「だけだからってお前なぁ」 シレッと口を開くリョーマに、桃城がガックリ肩を落とす。乱れに乱れて喘ぎきっていたリョーマに、どう してそんな記憶だけしっかり残っているんだと、桃城は作為を感じてしまう。よもやまさかとは思うものの、今夜の為に仕組まれたんじゃないんだろうなと、桃城はまじまじとリョーマを眺めれば、リョーマは小首を傾げ、無防備に笑っているから、桃城はますます溜め息を深める羽目に陥った。 「俺の誕生日には、好きにしていいって言ったじゃん」 「だからって、こんな物騒な世間で、悪戯心起こして来るんじゃない。俺の心臓停める気か?」 それでなくても暗がりで見れば、細いリョーマの躯付きは、女の子に見えてしまうくらいなのだから、 理性も何もない莫迦な男からしてみれば、格好の獲物になってしまう可能性を桃城は否定しきれない。 今の世の中、頭で思い描いた妄想が、実は簡単に現実化できてしまうのだと、誰もが知っている単純 な事実に他ならない。現実化するしないの境界線など不鮮明で、妄想を抱く当人次第の曖昧さなのだ から。誰もが自分だけは大丈夫という根拠のない自信の中で生きているとはいえ、いつ事件に巻き込 まれても可笑しくはない世の中だ。 「後悔する?」 「ひっぱたくぞ」 見上げてくる眼差しの、何処か切なさを秘めた細い声に、桃城は途端に少しばかり険しい貌をして、 小作りな頭を抱え込んだ。告げられた言葉の意味が判れば判る程、深夜になど訪れててくるなと言い たくなる。 万が一にもリョーマに何かあったら、掠り傷一つでも付いたら、付けた人間がいたとしたら、考えただ けて背筋が凍った。自分はきっと、生涯その人間を許すことはできないし、理性的な行動をとれるとも思 っていなかった。 「会いたかったから」 誰より一番最初に、言ってほしかったのだ。 「越前」 「怒らないでよ」 少しばかり厳しく引き締まった貌に、母親の言った科白は正鵠を射ていたのだと痛感する。 こうして夜中に訪れた自分に何かあったら、桃城は自分自身を責めて許さないだろう。 「だったら、怒られるようなことするな」 「会いたかったんだから、仕方ないでしょ?」 「朝になれば、会えるだろうが」 センチメンタルなど無縁の筈のリョーマが時折見せる脆弱な身の裡。天から与えられたテニスの才は、リョーマの身の裡の何処かを切り崩していくようで、こんな時、桃城はたまらない想いを味わうのだと、きっとリョーマは知らないだろう。 研ぎ澄まされていくテニスの才。切っ先のような冷ややかさを細めていくそれは、けれど先端が細け れば細くなる程、いつか砕け散る脆さを予感させる。そんなことは決してないだろうにと思うものの、時 折見せるリョーマの脆弱さに、桃城はいたたまれない気持ちを味わっていく。それが自分の与え、教え てしまった感情からの発露であれば、尚更だ。 テニスしか知らなかった幼い子供に教えてしまった、盲目の恋情。精神的に成熟しているように見え、 テニス以外でのリョーマのそれは、無関心だからこそ成立していた成熟さで、知らなかった感情を手に してしまえば、それは音を立て崩れていく。 眠れる獅子を飼う切っ先の才。未だ幼い鉄爪と牙。不世 出の父親程に、強くはないだろうリョーマの内側。だからこそ怖い。だからこそ桃城は、慎重にその距離 を扱っていたのだ、見誤らないように。 守るなど不遜で傲慢なことを知らないほど、桃城は無知な子供ではなかったから、ただ見誤らないよ うに、リョーマにとってのテニスの有り様を、その切っ先の才を見誤らないように。ただそれだけを心にと め、桃城はリョーマを見てきたのだ。 「他に言うことないの?」 小首を傾げ緩く笑うリョーマに、桃城は諦めた様子で溜め息を吐くと、節のある長い指先が、瀟洒な輪 郭を包み込んだ。 「冷えちまってるだろうが」 「そぅ?」 「お前が我が儘言わなかった訳が、やっと判ったよ」 明日が終業式で部活もないことを考えれば、リョーマが泊まっていけと言わなかったことが不思議だと 思ったものの、その理由が今やっと胸に落ちた。 夏の夜、ホテルの浴室で交わした会話を実行する為に、自らの誕生日に会いに来る為、リョーマは桃 城に宿泊をねだることはなかったのだから。 「ったく、自分の誕生日に何やってるんだ」 「好きにしていいって言ったのは、あんたでしょ?」 頬に振れる生温い温度。吐息が触れ合う間近まで寄せられた精悍な面差しに、リョーマは細い腕を 桃城の首に回すと、長い睫毛がゆるりと交睫する。キスをねだる仕草に、桃城はコツンと額を合わせる と、 「越前、誕生日おめでとうな」 14年前の今日、リョーマという愛しい生き物がこの世に生を受けた瞬間。今日という日を感謝する。 「生まれてきてくれて、ありがとうな」 それは去年のリョーマの誕生日にも告げた科白だった。 「んっ……」 緩い抱擁に包まれ、慣れた温度が口唇に触れた瞬間、体感温度が増した気がした。リョーマの口唇 から色付く吐息が漏れ落ち、桃城の首筋に回した腕の力が増した。 啄む口吻がゆっくり深くなり、ピチャリと濡れた音を立て舌が貪婪に絡み合う。角度を変え何度も絡ま せ、折れそうに細い喉元が、恋しい男の唾液を飲み込み、緩く上下する。 「桃先輩…」 空気に氷が刻み付けられたような凛慄とした深夜の閑静な住宅街、リョーマの吐息が淡く色付き、白 い吐息が夜空に消える。 コトンと擬音を響かせ、小作りな頭が桃城の肩口に埋まった。長い指先が冷えてしまった柔髪を愛し げに数回梳いた後、桃城は徐に手にした袋からリョーマへのプレゼントを取り出した。 「定番で悪いけどな、誕生日プレゼントな」 リョーマがしている黒いマフラーをスルッと解くと、白と黒のチェックのマフラーを細すぎる首に巻いてや る。半瞬ヒヤリと首筋を撫でていった外気は、驚く程の手際の良さで、それ以上の温もりに包まれた。 何処の誰とも知らない女に、マジックの基本を教えて貰った器用な指先だと不意に思い、けれど見知 らぬ女に嫉妬を感じる程安くない桃城への恋情は、リョーマに下らない感情を廃棄させると同時に、胸 が痛む切なさを覚えさせた。 「あったかい…」 首筋に触れた温もりは、今までしていたものより暖かく、そして軽い。まるで羽毛でも纏っているかの ように、質量を微塵も感じさせない。中学生の少ない小遣いを思えば、到底カシミア100%なんていう 代物のマフラーなど買える筈もないものの、それなりに質のよい代物なのだと、リョーマには判る。 「俺と色違いのお揃いな」 俺は白と紺のチェックを買ったんだよと桃城が笑えば、リョーマはペアルック?と緩い笑みを覗かせる。 「白一色も越前には似合うと思ったんだけどな。でもお前今黒一色のだしな。気分変えてそれにしてみ たんだけど」 俺の見立てに間違いはなかったなと満足気に笑う桃城に、リョーマはマフラーを巻き直すと、似合う?と小首を傾げた。 「似合う似合う」 「あんたとペアルックていうのが、なんだけどね」 憎まれ口を叩きながら、けれどそんな科白とは相反し、口調はひどく柔らかく、表情はもっと鮮やかだ。 「明日菊丸先輩達に会ったら、きっとすぐにバレるね」 一見なんでもないマフラーだったが、色違いだとは誰もが判るものだった。けれどそれをペアルックと 見抜いてしまう人間は、リョーマ達の周囲には両手の人数もいなかった。気付いてしまう最たる存在達 は、中等部と隣接している高等部に今年の春から進学している連中ばかりだ。 中等部に隣接している高等部に進学してさえ、当たり前のように中等部テニス部に顔を出し、桃城や リョーマを構い倒していく元36コンビの不二や英二には、更にネタを提供するようなものだろうが、それ でも桃城からのプレゼントが嬉しくない訳がない。そしてそんなリョーマの科白の裏に気付かない桃城 ではなかったから、精悍な貌は緩い苦笑を刻んでいるばかりだ。 「英二先輩達はお前が可愛くて仕方ないんだから、構われてろ」「何それ?」 「そういう意味だよ」 天から与えられたリョーマの才。それを疎ましいとも妬ましいとも思うことなく、ただ自分達の誇りだと 受け入れ、徹底して元3オコンビはリョーマを構い倒すことに躊躇いがない。 それは英二や不二が、自分のテニスのスタイルを見極めているからで、自分と他者を比較して、優劣 を定める必要がないからだ。 人間自分を中心に物差しを計りがちなものの、彼等は自分のテニスに対し高みを目指すことはあって も、他人と優劣を競い、自分を上段に置いて安心し、やっと自己を保っているタイプの人間ではなかった から、リョーマの才能に惜しげない賛辞を贈り、そして誇りに思いながら構い倒している。それはリョー マのテニスを愛しているからに他ならないだろうなと桃城などは考える。 「ありがとう、桃先輩」 日常に紛れ込んでいる柔らかい殻。硬質さなど無縁に、身の裡の中心に居座って、恋情ばかりが深 まっていく。 「おめでとうな」 見知らぬ救世主の生誕など、無信論者の自分には興味がなかった。12月24日という日は、リョーマ と出会った瞬間から、桃城にとっては大切な存在の生まれた日で、それだけで誰にとも感謝したくなる 日だった。 生まれてきてくれてありがとう。こんな言葉を誰かに捧げる日が訪れるとは、桃城自身思ってもいなか ったものの、臆面もなくそう告げてしまえる存在に出会った時、装飾された言葉は要らないのだと理解し た。理解すれば、ドラマや小説の世界が色褪せて見える。現実はシンプルで、だからこそ気付けば足 許に倖せが転がっている。そこに気付く気付かないの差異が大きい、それだけのことだ。 「じゃぁ、そろそろ帰るね?」 足許から背筋を伝い上がってくる冬の冷気に、すっかり躯が冷えてしまった。けれど緩い抱擁に触れ 合っている場所から、躯の芯は温い温度に丁度よく暖められているから、そう告げながら、なかなか桃城から離れることができずにいる。 人肌は暖房機具と同じ程度に人を暖められるのだと、以前何処かで聴いたことを思い出せば、まさし く桃城という存在は、自分にとって暖房機具のように暖かいのだと思い知る。 「待ってろ、送ってくから」 まさかこのまま、リョーマを一人で帰す訳にはいかない。いくら比較的治安が安定していると言われる 青春台も、いつ何処でどんな事故や事件に巻き込まれるのかは判らない。自分だけが気をつけていて も、今の世の中は決して安全ではないことを、桃城はよく知っていた。 だからリョーマを一人で帰宅させる選択肢など、桃城の中には欠片も存在していなかったから、自転 車を取ってくるから待っていろと言い置いた途端、リョーマは小首を傾げ、次には意味深な笑みを刻み 付けまま、桃城のこーとの袖口を引っ張った。 「越前?」 袖を引っ張り自分を引き止めるリョーマのタチの悪い笑みに、桃城は嫌な予感がするぞと攅眉する。 桃城にだけ曝される、タチの悪いリョーマのそれを、今まで桃城が見誤ったことはない。こんな時のリ ョーマは、桃城からしてみれば、ロクなことを考えてはいないのは明らかだ。そしてリョーマ自身自覚し ているから、尚更タチが悪いと思う桃城だった。 「流石に母さんが一人では出してくれなかったから」 身の裡の何かを分けてくれようとする時、リョーマの科白はひどく断片的になる。元々極少ない語数で 会話を成立させることが珍しくないリョーマとの会話の中、そんな局面は幾らでも在った。けれど今回の それは最大級だと、桃城がガックリ肩を落としてしまったとしても、罪はないだろう。 「……オイオイオイ………」 リョーマの科白から推察するに、だったら自分達の行動は逐一見られていた訳で、さして多い回数顔 を会わせた記憶のないリョーマの母親の倫子は、自分の息子と、その同性の恋人の深夜の逢瀬を逐 一見ていたことになる。否、倫子のことだ。観察しているに違いないのだ。その点南次郎の妻をやって いて、渉外弁護士という倫子の観察眼は、もしかしたら南次郎以上かもしれない。 年齢を掴ませない幼い笑顔の裏で、実は相手の精度を計る観察眼が常に働いていることを桃城は薄 々感づいている。面白がってはいるだろうが、莫迦な相手に大切な息子を預けたりはしないだろう。 もしリョーマと引き離されるとしたら、世間一般が位置づける、同性というリスクではなく、リョーマにと っての有益無益の差だろうと桃城は感じていた。 今の所は有用と言うありがたい判断をされているから、こうしてリョーマを送ってきてはくれるのだろう。けれど一度無用と言うレッテルを貼られたら、きっと倫子は南次郎以上に容赦がないだろうと、桃城は 気付いていた。 「んじゃ俺は、今まで倫子さんの前で、お前を抱き締めたりキスしたりしてたってことかよ」 リョーマとの関係は、越前家ではありがたくも反対もなく、むしろ面白いネタを提供するように扱われ、 今に至っている。けれど有用無用の差異は別にして、息子が同性の相手に抱き締められ、キスをされ ている現場を母親が見てしまうというのは、自分達の関係を心得ているとはいえ、倫子にとってもかなり くるものがあるんじゃないんだろうか?桃城はそんな風に感じてみたものの、けど実際倫子は暖房のき いた車内から恋人同士の逢瀬を眺めながら、南次郎君にもあんな時があったんだけどなぁと、まったく 無関係のことを思い出し、明日はクリスマスデートをしようと頭の中で企画していたなど、当然桃城もリョ ーマも知る由もない。 「今更でしょ?」 そんなことは今更で、自分の部屋に桃城が泊まっていけば、それはイコールでセックスと結び付く。 そこに親が居る居ないの都合は介在しない。必要なのは、常に互いが餓える程求めているという意識 だけだった。父親の南次郎も、母親の倫子も、従姉妹の菜々子でさえ、きっと自分の婬らな喘ぎの一つ や二つ、聴いているに違いないだろうとリョーマは思う。 恋しい男を胎内に咥え込み、腰を振って婬らに喘ぐ。絶頂の瞬間、自分がどんな浅ましい言葉を放っ ているか、きっと聴かれたこともあるだろう。 それでも桃城との関係をやめろとも言わない親が、今更キスシーンの一つや二つでどうにかなるもの かと、リョーマは桃城の今更の科白に呆れ、細い腕をスルリと桃城の首を絡み付ける。 「だから、そんな表情しないでよ」 「どんな表情だって?」 絡み付いてくる細い腕。眼前で笑っている夜目にも眩しい白皙の貌に、桃城はその意味を読み違える こともなく、ほっそりした躯を抱き締め、片手で卵の先端のように細い頤を掬い上げた。 「詐欺師」 慌てて見せたのはただのポーズかと、リョーマは吐息を漏らすと、 「こういう時はさ、もっと見せつけちゃうのが、恋人同志ってもんでしょ?」 戦場というコートに立つ時と寸分も変わらぬ勝ち気さを覗かせると、リョーマはスッと爪先立ちになった。 今年の始め、桃城から奪ったコートがやっと体格に合う程度にはなったものの、二人の身長差は一向 に縮まらない。リョーマが身長を伸ばしても、桃城ね伸びているのだから当たり前だろう。だから依然と して、二人の間には19センチの身長差が横たわっている。尤も、リョーマの成長はひどくゆったりとして いるから、身長はさして伸びていないのだ。 「まっ、そうだろうな」 勝ち気な笑顔に桃城は肩を竦めると、掬い上げた頤を更に引き寄せ、口唇を合わせた。リョーマの細 い指先に力が加わり、桃城の後頭部を引き寄せる。その瞬間、両腕で細い躯をきつく抱き竦められ、重 ねた口唇の奥から、リョーマの甘い吐息が深夜の空気に溶けていく。 「んっ……ぅんっ…」 貪婪に舌を絡ませ合えば、冷えた頬に血の色が薄く散る。 帰ろうと思うものの、名残惜しくて互いに互いを手放せない。朝になれば嫌でも顔を合わせるのだ。 部活のない終業式後は、高等部に進学した英二や不二からの誘いで、リョーマの誕生日パーティーと クリスマスパーティーをすることになっている。それでも、今二人は互いを手放せる状態ではなく、車内 から恋人同志の逢瀬を眺めている倫子に、少しばかりの切なさを抱かせた。 リョーマの淡い吐息が漏れる都度、桃城は外気に冷やされた細い躯が、腕の中に在る至福を思う。 14年前の今日、リョーマがこの世に生を受けたことを思えば、息子を心配しながらも、深夜に同性の 恋人に会いにくることを止めることも咎めることもしない倫子と南次郎に、誕生日は当人ばかりか、親に 対しても感謝を捧げる日なのだと今更気付かされた。 生まれてきてくれてありがとう。そして、リョーマという存在を、この世に生み出してくれたことに感謝を 込めて。 人の出会いは幾億分の確率だけれど。この世に生を受けることは更に奇跡に近い受精の確率なのだ と、桃城はリョーマを愛して初めてそんな単純な事実に気付いた。 誕生日おめでとう。この科白は、きっと当人にだけ向けて言う科白ではないのだろう。 「ありがとうな」 口唇を離し、名残惜しげに抱き合いながら、真摯に告げられた桃城の科白に、リョーマは不思議そう にキョトンと小首を傾げ、次に綺麗な笑みを刻み付けた。 「じゃあ朝、ちゃんと迎えにきてよ」 後部座席に乗ったリョーマは、車内の窓を開けると、桃城に横着に手を振った。 「桃城君、これからもリョーマを宜しくね」 「こちらこそ」 なんとも間抜けな返答だと思うものの、散々見せつけてしまったリョーマとの逢瀬を、今更リョーマの 母親である倫子に気のきいた科白など返せる筈もない。 「ちゃんと起きてろよ」 元々朝の苦手なリョーマは、寒くなる一方の今の時期、桃城が来る前に起きているのは珍しい程にな っている。だから桃城は部活がなくなった今でも、リョーマの部活時間に合わせ迎えにいく有様になって いて、それが周囲の人間達に、相変わらず過保護だという言葉をもらう羽目になっていた。 それでも、当人が好きでしてるんだからいいんじゃない?そんな風に不二などは莞爾と笑っている。 「それじゃぁね、桃城君。おやすみなさい」 「おやすみなさい」 「桃先輩。おやすみ」 ありがとう。 言葉に出されることなく、口唇のカタチだけで告げられた言葉に、桃城は笑うと、倫子は愛車を発進さ せた。 「でもまぁ、俺が本当にやりたかった誕生日プレゼントは、明日だけどな」 悪戯が成功したのは一体どっちだろうか? 冬の澄んだ空気の所為で、随分遠くまで見渡せる住宅街の中を走っていく車を見送り、桃城はそんなことを思って笑った。 |