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| 過去と未来の狭間 act1 |
手袋を通しても伝わってくる冬の冷気に、桃城は溜め息にも似た吐息を吐き出し手を擦り合わせた。 けれど当然そんな程度で温もりが得られる筈もなく、吐息は紫煙のようにユラリと揺れ、静謐な深夜の 空気へと溶けていく。 空気に凍りが刻みつけられたかのような身を切る夜気。深閑としている閑静な住宅街は、それだけで 冬の寒さを倍増させる冷ややかさが横たわり、仰いだ天には、切っ先のような光を放つ、石の球体が優 游と浮かんでいる。 身の裡の何処かに、落ちてくるような研ぎ澄まされた光。等間隔に点在する街灯より余程明るい光を 放つ球体は、けれどまるで贖罪でも与えられた罪人のように、それ自体では輝くことはできない石の星 だ。そのくせ真澄鏡と呼ばれる光を放ち、静謐な夜空に君臨している。 「月の裏側っか」 地球に片面しか見せないのだという、クレーターだらけの星。地球の衛星だという割に、知られている ことの方が遥かに少ない地球の分身。その起源は定かではないものの、隕石の落下の衝動により、地 球の一部が削り取られたのだという説が今では有力になっている。けれど実際の所は、現代の科学力 をもってしても不明のままで、真実など誰にも判りはしない。 地球の分身というなら、還りたいと思っているだろうか?戻りたいと思っているだろうか?もう既に地形 も変化し、居場所など、あとかたもなく消え失せている地球に。人類の栄華という代償で、壊れていく本 来の姿に。今更回帰されたいと望むだろうか? そんならしくない感傷が胸の奥を締め付けていくのは、リョーマの科白が影響していることを、桃城は 気付いていた。 地球の回りを、未練がましく回り続けていく地球の分身。宇宙開発という言葉が先行しても、人類が 箱舟に乗り宇宙に行けるのは、未だ何世紀も先の話しだろう。人類が奢った栄華で、地球を壊してしま わない限り。或るいは、それこそ見知らぬ救世主が出現することもなく、人類が異界のダレかに見捨て られない限り。人類が気安く庭のように宇宙空間を満喫できるのは先の話しだ。 その時には、あの星も少しは謎が解明されているだろうか? 「まぁ判ってるとしたら、それこそあの星だけだろうけどな」 無機質な光を投げ掛けてくる地球の分身は、夜の空間に優游と浮かんでいる所為なのか、太陽とは 相反する神秘的な姿からなのか、昔から死の象徴として恐れられてきた。 陰る太陽の陽射を恐れ、贄を捧げてきた太古の昔。いつどんな時代でも、それは神代の時代からさし て変化などありはしなかっただろう。無音の世界はただ研ぎ澄まされた光を放ち、浮かんでいるだけだ った筈だ。それこそ御伽話しの何処かの姫君が帰るような、月宮でもない限りは。 「まぁ在っても、あんま驚かないけどな」 十二単を纏った姫君とか、セーラー服を着た可愛らしい戦士とか。額に特徴的な印を持つ、巫女的な 才を持つ歌姫が居たとしても。 俺的には全然オールOKな訳だしと、リョーマが聴いたら果てしなく呆れるだろう独語を漏らすと、桃城 は月からゆっくり視線を下げていく。 まるで生命線のように、家々の屋根を繋ぐ電線。天と地の境目もなく、黒々と塗り潰されている稜線。 凛慄とした夜の帳に、瞬く音さえ響いてきそうな星々の光。 見慣れた家の外壁に背を凭れていれば、真冬の夜気は厚いコートさえ平然と掻い潜り、肌身に冷た さを伝えてくる。心底凍えそうな寒さだと思うものの、桃城はこの研ぎ澄まされていく冬の夜気が嫌いで はなかった。 沈黙に立っていれば、凍り付きそうな寒さではあるものの、それは同時に、身の裡の何処かを、クリア ーにしていく冷ややかさも感じ、帰結するのがリョーマという綺麗な生き物だと思えば、苦笑しかできな い気がした。 凍り付きそうな凛冽さに、脳髄の一部は麻痺したように凝固していくと思うのに、身の裡の意識の極 局所が、ひどくクリアーになっていく。 それは研ぎ澄まされた冷冽さが、試合最中の緊張感と何処か似ているからで、そして何より、コート に立つリョーマを想起させるからだ。 高校と違い、中学の全国大会は真夏の八月に開催される。その為春から、日本中で地区予選が開 始され、それらに勝ち残ったものだけが、全国という晴れ舞台に立つことを許される。 だからリョーマの試合を思い出せば、常に夏の熱気に直結する。 高く澄んだ蒼い空。質感のある真っ白い入道雲。降るように鳴く蝉の声。明度が強烈な夏の陽射。 天然の万華鏡さながら、土の上に緑のドームの影を描く木下闇。青空を駆けるように響く声援と喚声。 どれもがテニスの試合に直結する光景は夏のものだ。けれどコートという、隔絶された空間に立つリョ ーマを想起すれば、桃城の脳裏を通り過ぎていく光景は、諸々の真夏の光景を凌駕して、冬の凛とした 冷気にも似た気配を纏い付かせ、端然と佇むリョーマの姿だった。 挑戦的な笑みを刻み付け、凛然と瞬く色素の薄い空色の眸。細い躯の内側から高揚していくリョーマ の意識さえ感じ取れるというのに、そんな高揚とは裏腹に、隔絶されたコートに立つリョーマの気配は、 真冬の月のように冴え渡り、研ぎ澄まされた冷ややかさを増していく。それは切っ先の先端の上に立つ、孤高な生き物の姿だった。 群れを離れ生きていく、絶滅寸前の生き物。それでも見せ物と同義語の保護を拒絶し、自らの行き先 を見据え歩いて行く孤高な魂。 桃城は時折、リョーマにそんな感想を寄せることがある。 それはリョーマが与えられてしまった天からの才故にそう見えるのか、勝手に抱く感傷の在処なのか、 桃城自身にも判らなかったものの、切っ先のようにリョーマの身の裡の何処かを削りだして鋭利さを増 すその才が、時折桃城には痛々しく見えるからなのかもしれない。 眠れる獅子を身の裡に飼う幼き獅子。研ぎ澄まされていく猛禽の鉄爪が振り下ろされる瞬間、まるで 焦がれながら焼かれていく罪人のように、リョーマのテニスに魅了される。 背筋さえ凍らせていく切っ先の気配は、まぎれなくリョーマが与えられた天からの才だ。真夏の熱気も 何もかもを包み込み、研ぎ澄まされた切っ先の上に立つ孤高の姿は、だからこそ桃城には、冬の印象 が付き纏う。 綺麗で硬質な光りを纏う、研ぎ澄まされた冬の月のような高潔さ。露呈していくリョーマの才は、痛々 しい程冷ややかで、だから桃城にコートに立つリョーマは、冬の印象が付き纏う。 「お前がお前でいてくれたら、今すぐにでも見せてやれるんだけどな」 リョーマが望む望まないに関わらず、天から与えられたテニスの才。テニスに関しては驚く程勝ち気な 面を見せるくせに、それ以外の感情を覚えてしまった幼い生き物は、時折怖い程脆弱な印象を刻み付 ける。それが桃城には怖かった。 「愛してるなんて言ったら、お前泣くだろうしな」 黒く塗り潰された稜線を眺め、そして見慣れた小さい窓に視線を移せば、遮光カーテンの隙間から漏 れる光は、未だリョーマが起きていることを伝えてくる。 部活がある日常では、大抵夢の中にいそうな時間だったから、リョーマがこんな時間に起きていること は案外と珍しい。それこそどうにもならない欠けに餓え、喰うように媾合う情事の最中でもなければ、リョ ーマはまず起きていない。それでもこうして尋ねてきてしまうあたり、桃城も何処かで確信はしていたの だろう。 穏やかな小春日和、梔子色の光景の中で手塚と再会し、そして夕方からは、懐かしい面子と不二の 家で誕生日会とクリスマスパーティーで騒いだ。それでも未だリョーマが起きているとしたら、ひどく可愛 がっているタヌキのような愛猫と戯れているからで、きっと昼間の高揚感が暫くは失せないだろうからだ。 「お前なんて本当、眼に入れちまっても痛くないって」 溜め息と共に漏れた苦笑は、けれどそれは二人の周囲に居る者には今更で、それこそ桃城の級友で ある荒井達にすら今更の事実だった。 眼に居れても痛くないのを通り越して、既に眼に入れてしまっている。 桃城のリョーマへの過保護さは、既にそう認識されて久しく、桃城自身、そう言われている自覚はあっ たから、それこそ今更の事実でしかなかった。そのくせその態度を一向に改める兆しのない桃城は、リ ョーマにいわせれば詐欺師ということになる。 「そろそろか」 些か年寄りじみた回顧だと自嘲し、ハミルトンのリストウォッチで時刻を確認すれば、あと20分もすれ ば、12月24日も終わりを告げる時間になっている。 桃城はコートのポケットに無造作に突っ込んでいる携帯を取り出すと、アドレス帳を呼び出すこともなく、短縮ボタンの1を押した。 「そろそろだと思うんだけどな」 ほどよく暖房がきいた室内で、ベッドに寝転がったまま、リョーマは愛猫のカルピンと戯れ合っている。 「ホァァ」 お気に入りのネコじゃらしが視線の前でユラユラ揺れているのに、カルピンはおお燥ぎで前足を伸ばし、愛嬌のある鳴き声を上げている。白い長毛が特徴的なヒマラヤンは、フワフワの綿毛を連想させる温 もりで、飼い主の胸元で甘えたに遊んでいた。 「カル、ちょっとタイム」 「ナァァァ」 まるで人語を解するかのように、リョーマの科白にカルピンが鳴き声を上げ、前足がリョーマの胸元を いじっている。愛らしい鳴き声と温もりに、宥めるように背を撫でてやりながら、リョーマは右手首に嵌め たままになっている時計で時刻を確認した。 「あと20分」 青春学園中等部入学に伴い、リョーマに一言の相談もなく帰国を決め、勝手に入学手続きをされた時、それは南次郎から入学祝いにと贈られた、ウェンガーのリストウォッチだった。 それは年間数秒と誤差の生じない優れもので、南次郎から贈られたものの中でも、とりわけリョーマ が気に入っているものの一つが、この時計だった。 その時計で時刻を確認すれば、あと20分で24日も終わる時間になっているのに、リョーマは酷薄な 口唇に意味深な笑みを刻み付けた。 12月24日午後11時40分。 あと20分もすれば、今日という日は過去に追いやられ、0時と共に明日になる。時間軸の中で、『今』と いうゼロ点は存在しない。0コンマ何秒の単位でも、流れていけば過去になる。それはそのまま、秒以 下の単位でも、訪れてくる時間は未来ということと同義語でもあった。 一定の方向と速度で流れていく時間は視ることもできなければ、触れることもできない。誰にでも平等 な時間の流れは、けれど今日と明日の差異を教えてはくれない。それでも今日という日が終わりを告げ るとき、自分に甘い過保護な男が、誰にも見せない大人びた笑みを覗かせ、深夜の来訪者として来る だろう確信めいた予感がリョーマにはあった。 莫迦みたいに甘い過保護な桃城は、誕生日のプレゼントに、どうしようもない贈り物をしてくる男だ。 そんな莫迦な男は、けれど周囲からもたらされる自分自身の価値や評価にはさした興味がないのか、 過小評価しずきているきらいがある。けれどそんな莫迦な男は、部長であった手塚から、青学一の曲者 という御墨付きを貰っている詐欺師だ。 悪戯が成功した子供とは縁遠い表情をして、桃城が差し出してきたプレゼントは、手塚との再会だっ た。 年末ギリギリに帰国する予定だった手塚に、無理を言ったのだと言っていた。だとしたら、桃城も何か しら代償を支払ったのだろうか?中学生の桃城に、航空券を買う金銭などないだろから、でき得る範囲 での代償が二人の間ではあったのかもしれない。手塚がそんなものを一切望まないとしても、案外そん な部分、桃城は律義にできている。 そして夕方には、拒否権の欠片も与えられず、問答無用とばかりに参加させられた誕生日パーティー 兼クリスマスパーティーに出席し、賑やかに騒いで桃城に送られきたくしたのはたった2時間と少し前だ。その所為でだろう。らしくなく気分が高揚し、リョーマは甘えたな愛猫と戯れ合っている。 「あの人が意趣返ししないとは、俺には思えないんだよねぇ」 胸元に戯れ付く愛猫の背を撫でてやりながら、リョーマはカルピンに問い掛けるように独語する。 夜中に自分を一人歩きなんてさせられないと公言するくせに、桃城自身は平然と自転車に乗ってくるに 決まっているのだ。 一体何を好き好んでいるのかと思えるものの、そんな男に溺れている自分も大概救われないと、リョ ーマはらしくない自嘲を刻み付ける。 けれどリョーマは知らないのだろう。漏れる自嘲が桃城とひどく似通っているのだということを。仕草や 癖が移ってしまう程、心も躯も重ね合ってしまっているのだという単純な事実を、けれどリョーマに自覚 は皆無だ。 「ホァァ?」 昼間は散歩に出掛け、今は大好きな飼い主と戯れ付いて、至極ご満悦な様子でリョーマに甘えてい るカルピンが、不意に愛嬌のある鳴き声を一つ漏らすと、ベッドボードの上に飛び移った。 「カル?」 不意に胸元から失せた温もりに、リョーマが不思議そうに愛猫を呼べば、カルピンはベッドボードに置 いたままになっている携帯をつついて不思議そうに小首を傾げている。 「悪戯しちゃダメだよ」 リョーマがカルピンを抱き上げた矢先、無造作に置いたままの携帯が賑やかな音を立て、着信を告げ る桃色のライトが点滅を始めた。 桃城指定の着信メロディーは、軽快な音楽が賑やかなアニメソングだったものの、そのアニメをリョー マは見たことがない。着信ライトが桃色なのも、勿論桃城が勝手に設定したものだ。桃城が俺専用〜〜 と笑って勝手に設定したのを、リョーマはそのまま放置して使用しているのだ。けれどそれが桃城を倖 せにしていることを、やはりリョーマは知らない。 「カル、パパが来たよ」 携帯が鳴った瞬間、リョーマは意味深な笑みを愛猫に向けると携帯を取り、通話ボタンをプッシュする。そして桃城が切り出すより半瞬早く、面白そうに口を開いた。 「やっぱり愛は偉大だと思うんだけど、桃先輩はどう思う?」 リョーマは戯れ付いてくる愛猫の背を撫でてやりながら半身を起こすと、ベッドの上に無造作に放り出 したままにしてあるハーフコートを引っ掴み、カルピンをベッドの上に残したまま、足音も立てずに室内を 出て行った。 「ホァァァ」 リョーマに置いてきぼりにされたカルピンが、ベッドの上にチョコンと座ったまま、やはり愛嬌のある鳴 き声を一つ零した。 「お前、判ってたのか?」 携帯の向こうで意味深に笑いながら告げられた科白に、桃城は緩く苦笑する。 どうやらリョーマには深夜の訪問は予定調和の範囲内だったらしく、玄関先から威勢良く走り出してくる 姿は、風呂に入らなかったのか、パーティーに出掛けたままの恰好をしている。白と黒のチェックのマフ ラーと、ボタンをしていないコートの裾が、フワリと翻っている。 背後の闇に輪郭さえ溶かし込みながら、それでも白皙の貌は夜目にも眩しい程透けて見え、それが 莫迦みたいに綺麗だと桃城は感じた。 たかが数歩にしか満たない距離を、リョーマは走ってくる。相変わらずネコのように身軽で足音を立て ない姿に、やはり愛猫をネコ可愛がりしているだけあって、兄弟のように似ていると、桃城が奇妙な関 心をしていることは、けれどリョーマには内緒だ。リョーマに言えば、反駁にも満たない科白が返ってくる ことは判りきっているからだ。 「だから愛は偉大だって、言ってるでしょ?」 桃城の正面まで走ってくると、息を整える必要もない穏やかな呼吸で、リョーマはシレッと口を開き、 莞爾と笑った。そうすれば桃城は二の句も告げず、深い溜め息を吐くしかなかった。 愛していると告げれば、泣き出しそうに綺麗な貌を歪めるだろうに、言葉遊びの延長線では、平気で そんな言葉を使うリョーマは、きっと意識してはいないのだろう。それがリョーマの幼さを思わせる。 だから告げられないのだと、桃城はやはり愛は偉大だと正面の小作りな貌を凝視した。 「ったく、お前は」 悪戯が成功した子供のような表情と、おおよそ対極に在るだろう意味深な笑みに、節のある長い指先 が白い額をチョンッとつつけば、リョーマは莞爾とした笑みを更に深め、華奢な躯を桃城の懐にスルリと 潜り込ませた。 質量など微塵も感じさせない優雅な動きは、身軽なネコそのものの動きとひどくよく似て、懐に灯った 温もりに、桃城は細身の躯を緩く抱き締めてやる。細い躯を腕にすれば、思っていたより凍えていたの だと意識する。 「あんた寒い」 埋めた胸板は一体どれだけこの場所に立っていたのか、頬に触れる体温は、懐に潜り込んでさえ冷 たく感じた。 「俺は暖かいけどな」 薄く細い肩を無自覚に竦める姿は、リョーマが可愛がっている愛猫と本当にそっくりで、桃城は更に胸 板に頬を押し当てさせるように、抱き締める。そうしてご丁寧に、風避けとばかりに、ボタンを停めていな かったコートの前を、両手で合わせた。 今までちゃんと暖房のきいた室内に居たからだろう。急に外気 に冷やされたとはいえ、リョーマの躯には未だしっかり温もりが残っている。それが桃城に自覚のない 安堵の吐息を吐かせた。 「俺には夜中に、一人歩きするなとか言っておいて、自分はなに?」 うずめた胸元から顔を上げ、精悍な面差しを見上げれば、桃城は視線を彷徨わせ、蟀谷を掻いている。壁には自転車が寄り掛かるようにして停められているから、当然言い逃れなどできる筈もない。 「俺はいいんだよ」 「何それ?あんた老成してるから忘れてるかもしれないけど、あんたも中学生だって覚えてる?」 時折自分の年齢を忘れているとしか思えない行動を取るのは、何も桃城だけに限ったことではなかっ たけれど。 昼間会った手塚などその最たるもので、最悪なことに、彼の行動理念は天然だからこそ始末が悪い。 その点桃城の行動には確実に作為が隠されていて、それが意図的だったりフェイクだったりするものの、時折天然よりマシかもしれないと思えてしまう程度には、リョーマも桃城の作為的な行動には慣らさ れている。けれど慣れと感情の納得はまた別物で、理性的な理解は更に遠い。 「取りあえずは」 「だったら、物騒な社会事象くらい、頭に入れておいてよ」 父親が警視庁刑事部の管理官ということが多分に影響しているのだろう。桃城は同年代の子供達よ り遥かに、危機管理能力が発達していることをリョーマは知っている。 明るい笑顔に本質を紛れ込ませ、愚かな子供を演じるのは桃城の得意技だ。無邪気で無知を装った、中学生らしい笑顔。 その笑顔だけを受け取るなら、到底新聞を読むようにも、帰属する社会に興味があるようにも、到底見 えないだろう。けれどその本質を知れば、周囲に見せている人好きする笑顔が作為的だと嫌でも判る。 腹の底に、切っ先を隠し持っている本質は、演じている面とはおおよそ対極にしていしている端然さを持 っている。 それは幼い頃、父親の仕事がただヒーローのように恰好いいものではなく、生死と表裏一体の厳しい ものなのだと理解した結果だ。その時から桃城は、父親が関わる社会事象というものを無視できなくな った。毎日新聞を読むことが日課になってしまったのは、後遺症のようなものだと桃城自身自覚してい る。 実際桃城が新聞を広げるのを目の当たりにした時、リョーマは大仰な程喫驚した前科持ちだ。けれど 桃城にそうと聞かされた時から、リョーマも極力新聞に眼を通すようになっていたから、それは別段悪い 習慣でもないだろう。自分の帰属する社会がどうなっているのか知るには、書き手の感情が廃棄されて いる新聞は手っとり早い手段の一つなのだから。 けれどそんな桃城を知るからこそ、少しは自重しろとリョーマが思ってしまっても、罪はないだろう。 それがどれだけ自分の行動を棚上げしたものかは、百も承知している。けれどそれでも言わずにいられ なかったのは、母親である倫子に諭された時、桃城が傷ついた時のことを想像し、精神が恫喝された からだ。 桃城に何かあったら。程度の怪我ならまだ理性的に対処できるだろう。けれどもし、万が一にも生命 に関わるものだったとしたら?テニスに対し、後遺症が残るようなものだったとしたら、自分は生涯その 相手を理性的に許すことはできないだろう。 「いれた結果、なんだけどな」 仕方ないだろう?桃城はそんな風に、リョーマに許しを請うように、眇めてくる視線を覗き込んだ。 社会病理を露呈する一方の、血腥い凶悪事件が頻発する中、自分だけが気をつけていても、避けられ ない事故、事件に巻き込まれる可能性はゼロではなかった。 得てして起こる事件や事故など、日常レベルでそう簡単に転がっているものではないだろう、少なくと も、被害者の側には。 それでも、今夜この時刻。大切な存在の誕生日が終わる日を二人で見送りたいと思ってしまった時、 桃城には来ないという選択肢は思い付きもしなかった。 だから『仕方ない』という言葉は、きっとこんな時に使う言葉だろうと、一人で納得してしまっている桃 城は、リョーマに言わせれば最悪だ。 「俺との差異は?」 桃城が自分に寄せる心配は、鏡像を眺めるように同じものだ。だからこそ桃城の行動は、些か呆れる ではすまされない無責任さが入り交じっている。 そしてそんなリョーマだから、桃城を凝視する眼差しに容赦はなく、それは桃城が内心で舌を巻くもの だった。 綺麗に弧を描く薄い口唇。相反し、笑わない眼。まるで喉元に切っ先を突き付けられるような冷やや かな感触は、今年の正月に南次郎から突き付けられた刃と同じものだ。リョーマのそれは未々未熟で はあるものの、いずれ南次郎を凌いで変容するだろうことを、桃城は疑っていなかった。 「そりゃ、俺の愛情ってことで」 凝視してくる笑わない瞳に、桃城は苦笑する。こんな部分はリョーマがどれだけ反駁しようと、間違え ようもなく南次郎の血筋だ。 「それじゃなに?俺の愛情はまったく足りてないってこと?」 ムカツクと呟いて、桃城の首からだらしなく下がるだけになっている色違いのマフラーをギュッと締め 付ければ、桃城は少しばかり苦しげに顔を歪め、ギブアップの仕草をして見せた。 「俺の気持ちの問題だよ」 「だったら、俺の気持ちも考えてよ」 「ゴメンな」 まさか本気で怒られるとは思っていなかった桃城は、思いの他据わった目付きで凝視してくる視線に、自分が味わった想像を、リョーマも同様に味わったのかと思えば、それはそれで怖い思いをさせてし まったのかもしれないと、軽く後悔した。 「まぁそれでも、諸々のリスク冒しても、お前が俺の所にきてくれたのと、気持ちもきっと大差ないと思う んだけどな」 「あんたって本当に…」 詐欺師。細く長い吐息を吐き出すと、小作りな頭が擬音を響かせ、正面の幅広い肩口に埋まった。 「本当、褒め言葉だな、お前のそれは」 節のある長い指が、外気に冷やされ冷たくなった髪をそっと好けば、薄く細い肩が、擽ったいのかネコ のように竦んだ。 互いに寄せる心配も、心配の延長線で想像してしまった最悪な恐怖も、けれど衝動に支配された訳 ではない、会いたいという餓えにも似た気持ちが同じだと告げられてしまえば、リョーマに反駁などでき る筈もない。 「24日が終わる時も、一緒に居たいなって思ったんだよ」 二度と戻らない今日という日を、リョーマという存在が、14年前にこの世に生を受けた日を、二人で見 送りたいと思った桃城のそれは、らしくない感傷だろう。それは来年の今日、こうして一緒にいることの できない状況を見据えた結果だ。 既に南次郎の紹介により、進む未来への足場は組まれている。あとはリョーマに、渡米を告げるタイミ ングを計るだけだった。けれどそれがもしかしたら一番難しいのかもしれないと、桃城は内心で自嘲する。 「あんたが詐欺師って言われるのが、よく判る」 「そんなこと言ってるのは、お前だけだろうが」 けれどそれがリョーマの褒め言葉で、言葉にできない胸の内を分けくれるものだと、気付かない桃城 ではなかった。 見えない時間。明日と今日の落差など誰にも判らない。それでも、今日という日が二度と戻らないの と同じように、時間は無慈悲に過ぎていく。掛け替えのないものを散りばめながら。痛みも優しさも飲み 込んで。今日は明日へと続いていくのだ。 「だからそんな風に、お前は痛がらなくていい」 リスクを冒してまで、会いたかった。互いに寄せる心配の延長線で感じてしまったいつかを考えて尚、 どうしてもこの綺麗な生き物が生まれた日を、綺麗な生き物を腕にして、見送りたかったのだ。少なくと も来年は、同じように一緒にいることは叶わないのだから。 「そんなの、みんなあんたの所為じゃん」 テニスしか知らなかった自分に、テニス以外の感情を教え、身を灼く恋情を教えた男。 たった一人の男を受け入れ、歓喜する雌に作り替えられた胎内は、既に桃城の肉の熱さもカタチも覚え てしまっている。器とは裏腹の性別に作り替えられた浅ましい胎内は、焦がれる恋情に餓える雌そのも のだ。 「全部あんたの所為じゃん」 吐き出される残骸に胸が痛むのさえ、桃城の所為だ。身長差19センチは依然変わらず、体重差も変 わらない。そのくせ貪婪に番えば番う程、たかが5kcalのブドウ糖とタンパク質が重くなる。満ちれば満 ちた分だけ欠けていく餓え。重くなる生命の残骸。それはあまりに理不尽な痛みだ。 きっと桃城は生涯、こんな痛みを知らずに生きて行くだろうと思えば、この痛みは自分だけが知ってい る痛みなのだと、その痛みさえ恋しいのだから自分も大概病んでいると思わずにはいられないリョーマ だった。 「あんたが最悪に悪党だから」 莫迦みたいに優しいくせに、気付けば退路など一切切り取られている。この腕に回帰するには、テニ スを選ぶしかないのだと、無言で語ってくる厳しい男。 「あんたはいつだって、俺にテニスを棄てさせてくれない」 桃城に退路を絶たれるまでもなく、自分は最後にはテニスしか選べない。どれだけ桃城に恋い焦がれ、桃城との恋情に灼かれたいと祈り願ってみたとしても。最後にはテニスを選んでしまう。いっそ棄て させてくれる莫迦な男なら、こんな苦しい恋情を味わうこともなかっただろうに。 そう思えば、先刻の桃城の苦笑とも自嘲とも曖昧な貌を思い出す。 仕方ない。溜め息と共に囁かれた科白だ。 仕方ないことは沢山ある。それは良い意味でも悪い意味でも、諦めることと、とてもよく似ているとリョー マには思えた。 こんな風に夜中に会いに来てしまう衝動にも似た恋情とか。それを仕方ないの一言で位置付けてしま う、仕方ない男とか。当たり前の表情をして、退路を綺麗に切り取っていく曲者ぶりとか。そして父親と 何やら企んでいそうな最悪な男に、恋い焦がれている自分とか。本当に世の中、 「仕方ないことばっかり…」 吐き出される生温い吐息が、深夜の空間に溶けていく。 「お前はいつだって、誰かに道を示してもらわなきゃ歩けない莫迦じゃないだろう?」 「……そういう部分が仕方ないくせにムカツクって話し!」 精悍な面差しに癪になる程大人びた笑み。年齢を掴ませない落ち着き払った深い苦笑。到底中学生 には見えないそんな部分に恋い焦がれているなんてあまりに分が悪いと、リョーマは八つ当たりのよう に、桃城のマフラーをギュッと締めた。 本当に仕方ない程、分が悪い。恋愛なんて、殺人行為と大差ないと思っていたというのに。気付けば 囚われ、身動き一つできなくなっている。 「越前〜〜〜凶器にする為にしてるんじゃないんだからな」 寄せる心配とか、昨今の物騒な社会事象とか、それに付随する赤の他人とか。そんなものを飛び越 えて、一番危険な存在は、良いも悪いも腕の中の綺麗な生き物だったかと、桃城は情けなさそうにガッ クリ肩を落とした。 |