秋の香と空の瞳





 笑っていて。倖せでいて。
 道端に転がる石ころのように。
 本当は身近に有るものだから。
 少なくとも、この平和惚けしている国の中では、
 とてもとても、身近に有る筈のものだから。










 キッチンに入って湯を沸かしながら、キッチン棚から兄弟の為にと、母親が買い置きしていたのだろうホットケーキミックスを取り出し、適当な分量の粉とミルクをボールに分け、泡だて器で掻き混ぜながら、そのまま隣接しているリビングに入ると、桃城はテレビのリモコンを手に、スイッチを入れた。
 その慣れた仕草は、リョーマが見たら『主夫』と笑うだろう程、こなれている。
実際、弟と妹の有る桃城は、こうしてホットケーキを作る事など、慣れているのだろう。元来が長男気質で、弟妹の面倒見もいいから、自然とテニス部でも後輩に懐かれ、部のムードメーカの役割を果たしているし、桃城は部内での自分の役割と立場と言うものを、言葉に出す事はなく、正確に理解している。
 賢いと言う点は、多分そういう事を指し示ているのだろうし、曲者と言うのも、そんな部分なのだろう。開放的な笑顔の内側に潜むひどく冷静な面を、最初に気付いたのは手塚だった。それでも、誰にでも余裕を作らせる笑顔の効力を理解している桃城は、確かに部内では英二と揃って貴重なムードメーカーだ。でなければ、有る意味、個性の強すぎるテニス部内は、空気が違ってしまうだろう。
 実力もカリスマも高校級の手塚や、天才と言われる不二、アクロバティックプレイ応酬の英二。地味に見せかけながら、能有る鷹は爪を隠す見本のような大石、その分析能力は科学者気質の乾や、力技が得意な河村など、実力がそのまま個性に繋がる3年生と違い、桃城には人に余裕を作らせる気安さが有るから、後輩や同学年に懐かれる事は珍しい事ではなかった。同時に、テニスの実力は3年の彼等と遜色のない実力を持っている。けれど3年生のように、近寄り難い印象は微塵もないから、桃城は特に後輩に懐かれている事が多く、自らも後輩を指導し、可愛がっている。
 そんな桃城だから、弟妹の為に、ホットケーキの一つ作るくらい、造作もない事なのかもしれない。泡立て器でボールの中身を攪拌しながら、スイッチを入れたテレビに視線が移る。
 別段観る事もなく付けたブラウン管の向こうは、ちょうどワイドショーの時間のようで、お茶の間の主婦を飽きさせない話術に長けたナレーターと、評論家宜しくナレーターの隣に腰掛け、訳知り顔でニュースを批評する芸能人が幾人か会話を交わしていた。
 事件や事故など、もう日常的に覚えていられない程、発生している。新聞を読み、その陰惨な事件に眉を顰めはしても、多発する事件や事故に飾られる三面記事は、覚えてはいられない。
 幼い子供達の列に突っ込んだトラック。開放的な夏休み、楽しみにしていない子供はいないだろうに、殺され、海に投げ捨てられ、身元も判らない被害者。孫に殺害された老夫婦。叔父に監禁された末、救われなかった幼い生命。届かなかった時間。どれ程の悲しみも、救われなかった生命には、何一つの価値もないだろうに。
 事件や事故は、切り離せない日常の一部で発生する。けれど無関係の人間に、それは確かな部分で、安易な見世物と大差ないのかもしれない。
 対岸の火事、或いは、他人の不幸は蜜の味なのか、ワイドショーと言うのは、情報が情報として機能しない場所だと、桃城はらしくもなくそう思う。
 情報は、情報を求める要求の存在しない場所では、何一つの価値はないと言うのは当然の理屈で、ワイドショーは夕飯までの支度の合間、暇を潰す主婦が観る程度の代物だから、情報として活用されるような緊迫した社会ニュースなど、放送されてはいないのかもしれないし、さした意味が主婦にはないのかもしれない。たとえどれ程陰惨な事件が起こっていても、所詮それは他人の不幸で、『運がない』の一言で片付けてしまう程度の代物だ。そして幾許の優越を感じるのかもしれない。
 主婦の狭い視野の中での心配ごとなど、旦那の出世と子供の成績、夕飯の心配程度だろう。そして向こう三軒への装飾された見栄、その程度の心配ごとに尽きてしまうのだから、何とも平和な事だと桃城は思う。
 娯楽を視る程度に気楽に、陰惨なニュースをナレーションする安易さに、いつ我が身に降り懸かるか想像できない貧困さに、桃城はつい苦笑する。
 これ程世情が不安定で、陰惨な犯罪は益々増えていく一方だと言うのに、我が身に降り懸かるプロバビリティを無視できる安易さには、いっそ非難以上に大笑いしたくなる程だ。それも一重に、平和な国の証しなのだろうし、平和惚けしている国民性なのだろう。
 テレビから聞こえて来る、批評という無責任な断罪めいた言葉を吐いている声を背後にしながら、桃城はキッチンへと戻って行く。
 無責任な言葉を、さも自分は断罪する立場に有るのだとでも言うように、投げ捨てて行く。これで更に社会病理を露呈する犯罪でも発生すれば、興奮したナレーターが、これ以上の娯楽はないとでも言うよに、犯行現場を映し出し、報道の自由の名の元に、人格も尊厳も無視して被害者を見世物にして行くのだろう。 
 桃城は、相変わらず批評家めいた言葉を吐き出す会話を背に、冷蔵庫からバターを取り出した。
 考えれば、陰惨な事件のニュースを聴きながら、ホットケーキを焼くと言うのも、どちらも切り離せない日常の時間で、その延長線で発生している不幸だと思えた。
 失えない、失いたくない存在に辿り付いてしまったから、ブラウン管の向こうの不幸を、どうも他人事には聴けない気分なのかもしれない。
 それは突発的に起こり得る事件だったり事故だったり、失いたくない存在を失い嘆く人達の慟哭が、決して報道される類いのものではないから、尚更そう感じてしまうのかもしれない。失えない存在を手にした時から、それは常に失う怖さを味わう事と同義語だからだ。
 フライパンを熱し、バターを一欠片落とせば、香ばしい、それでいて何処か懐かしい香りが室内を満たし、鼻孔を擽って行く。
 懐かしい香りは幼い頃、母親が焼いてくれたお菓子の類いを連想させる。それはひど甘く優しい記憶と気配をもたらした。 お玉に掬ったホットケーキミックスを静かにフライパンに流し込めば、香ばしい香りはより室内を満たして行く。それは懐かしいと同時に、ひどく柔らかいものを身の裡から呼び起こして行く気がした。
 本当に、本当に、ちょっとした事が懐かしく、不意に柔らかいナニかをこうして思い出させてくれる。忘れていても、不意に思い出す機会は、少なくはないだろうに。
 背後で未だ繰り返される日常の一端の悲劇を聴きながら、桃色は器用にフライパンを持ち上げると、ホットケーキをひっくり返し手元の白い皿に盛ると、甘い物が好きなリョーマの為に、メープルシロップを掛け、テレビのリモコンのスイッチを切ると、二階の自室へと足を向けた。
 誰だって、本当はちゃんと知っているのに、忘れてしまう。足許に有る筈の、石ころ程度に転がる、或いは、掌中に収まる程度に有り触れたものが日常で、日常だらこそ、倖せだと。  本当に、本当に。極当たり前の事なのだ。誰だって本当は、等しく柔らかいものに包まれていたい筈だし、愛しむ者に、優しくしたいと思っている筈だ。
 それは、蒼く高い空だったり、穏やかな空気だったり。淡く輝く陽射だったり。日常に映る光景すべてに、柔らかいものが満たされていると気付いていれば、案外簡単に見つける事はできるものだし、漬かれてしまう程度に簡単な事の筈だ。忘れてさえいなければ。
 誰だって本当は、等しく誰かを倖せにする権利は有るのだ。気付く事もなかった程、当たり前の倖せに埋没している風景と言うのは、とても身近に有るのだと、こんな時に気付かされる。柔らかい空気に満たされている空間に、無防備に埋もれている人を眼にすれば、その思いは募るばかりだ。それでも、
「それでも、これが倖せっていうのは、えらく理不尽な気がするぞ、俺は」
 ベッドを占領し、寝転がってテニス雑誌を喜々として読んでいた小生意気な後輩は、今はクッションを抱き込み、スヤスヤ穏やかな寝息を立てている。
 確かつい先刻、「お腹空いた、桃先輩何か作って」そう言っていた筈で、だから自分はホットケーキを焼いてきたのだから。
「ったく、どうすんだ?冷めちまうぞ」
 CDで散乱している机の上、皿を置く隙間を確保すると、白い皿を其処に置き、桃城はベッドに近寄った。
「無防備に寝て、襲っちまうぞ」
 柔らかい苦笑を吐き出した。
 クッションを抱き、少しだけ丸まって寝ているリョーマの姿は、彼を構成する要素を綺麗に映し出す空の瞳が閉ざされているだけに、年相応の無防備さを桃城の眼前に曝している。その内側が、もう幾重も自分を迎え入れ、快楽の涯を知っていたとしても。寝ている姿は、小生意気なものなど欠片も覗かせてはいないから不思議だ。
 リョーマの眠る枕元に腰掛けると、ギシリと鈍い音を立て、スプリングが鳴った。静まり返った空間で、その音は奇妙に桃城の聴覚に大きく響いて聞こえた気がした。
「ケーキ冷めちまうぞ」
 寝ている様をじっくり凝視すれば、その造作は驚く程繊細なものに縁取られていると実感する。その実感はいつもの事だが、寝顔を曝す無防備さを凝視すれば、冷ややかな熱を映し出す前麗な双眸が閉ざされていて、日常より幼さが何割か増している気がした。
「寝てる時だけは、子供だな、お前も」
 サラリと、黒い髪を梳いてやる。それでも安心を託されていると思っていいのか、リョーマは身動ぎもせず、無防備な姿を曝し続けている。
「起きろよ」
 穏やかな吐息、幼い寝顔。倖せに漬かり込むと言うのは、多分こういう事を示しているのだろうと、不意に思う。
 失えない存在を手にしてしまったから、常に何処かで失う怖さを考えている。けれど、こうしてその相手が無防備に寝顔を曝してくれる事が、とても倖せだと感じているのだから、大概平和惚けを満喫し、溺れていると思わずにはいられない。
それでも、起きてほしいと、何処かで強く願う自分を、桃城は意識していた。
 閉ざされている瞼の奥には、彼のルーツを正確に現す、空の蒼を映す綺麗な双瞳が在るのだ。
 見たいと思う。リョーマをソコと位置付ける、冷ややかな切っ先さながら、強い輝きを宿す綺麗な双瞳を、不意に見たいと思い、その瞳の奥に、自分の姿を映してほしいと願った。
 失えない。けれど、手放せない訳ではないのだ。彼が彼の歩くべき路を見つけ、その手を離れてしまったとしても、それは失われてしまう訳ではない。ただ、選択する路が違う、その程度で、彼が彼の歩くべき路を選択してくれれば、それでいい。
「本気で、冷めちまうぞ」
 此処で起こさずケーキを冷ましてしまったら、やはり理不尽にむくれるのだろう思えば、もういい加減出来立ての温かさなど失せてしまっただろう冷えたケーキの所在を思い、桃城は深々溜め息を吐き出した。
 そんな時だ、不意にリョーマが軽いくしゃみをして、桃城が見たいと願った蒼い瞳がぼんやりと開かれて行く。
「ったく、窓開けっ放しにして、毛布も掛けないで寝てっからだ」
 今まで気付かなかった自分も大概迂闊だと、肩を竦めた桃城は、けれどどうにも密閉される空間は、この季節では不釣り合いな気がして窓を閉める気にはなれず、少しだけ空気の通り道を残して、細く開かれている。
 珍しく部活も休みの祝日の昼下がりは、簡素な住宅街には時折子供の声が通り過ぎて行く程度で、静かなものだ。大抵休みの日もテニス部の練習が有るし、なければやはり小生意気な後輩と連れ立ってテニスをしているから、穏やかな昼下がりと言うのは、久し振りな気がした。
 窓から見上げた空は、空気の透明度にあわせ高く蒼く澄み、遠くに紗のような薄く白い雲が棚引いている。それはひどくリョーマの閉ざされた瞳を連想させもするから、大概溺れオワッていると、内心の思考回路に脱力する桃城だった。
「越前、いい加減起きろよ」
 ボーとしたまま、未だクッションを抱き込んだまま、半覚醒状態のリョーマの薄い肩を、桃城は軽い動作で揺さぶった。
「ケーキ」
「………オイ……」
 ボーとしたまま、それでも空腹を訴えるリョーマに、桃城はガクリと肩を落とした。理不尽甚だしいとは、こんな時の言葉なのかもしれない。
「冷めちまったぞ」
「何で?」
 高い空と同じ蒼い瞳は、その向こうに紗のように白く掛かる雲と同じく、ボーとしている。
桃城の科白の意味を何処まで把握しているのか全く甚だしい半覚醒状態だ。その怪しい状態で、秋の空を連想させる瞳が、桃城を見ている。
 リョーマの双瞳が空と同じ色をしていると知っている人間は、身内以外では多分桃城だけだろうから、それは瞳を覗き込める程度の近しい距離を意味している事になる。
 リョーマのルーツを正確に辿る母親の血筋を映す蒼。薄く華奢な姿態とは相反し、リョーマを脆弱に見せないのは、水晶さながら、切っ先を連想させる蒼い双瞳の強さだろう。
 蒼さが眼に痛い夏の空ではなく、秋の高く澄んだ蒼を映す空の瞳が、けれどこんな時ばかり、無心の子供のように自分を見上げてくるから、反則だと桃城は肩を竦め、
「本気で言ってるか?」
 桃城はヤレヤレと溜め息を吐いた。
これでは、悪戯もできはしない。
 この未成熟な躯が内側に熱を灯し、雄を受けれる血肉の甘さや痛みを知っていたとしても、これ程無防備にでられたら、手など出せる筈もなかった。
 こんな時ばかり、今時疑うと言う言葉を子供でも知っていると言うのに、無心に何かを願う子供にしか見えないのだから、反則にも程が有ると、桃城は内心肩を落とした。






「んで、お前何で寝てたんだ?」
 空腹を訴えたリョーマを残し、キッチンへと向い戻ってくるまで、さした時間はかかってはいない筈だった。
「ん〜〜〜何か気持ちよくて」
 冷えたホットケーキを、それでもリョーマは美味しそうに口に運んでいる。せめて温かい物でも飲めと、桃城が再度キッチンで淹れてきたカフェオレは、桃城の手に持たれている。リョーマが在る場所は、ベッドの上だ。
 英二が見たら、下僕と笑うだろう桃城の姿は、当人にも些かの自覚は有るから、笑うしかないのかもしれない。それでも、こんな時間が倖せで嬉しいのだから、やはり溺れているのだろう。
「ねぇ桃先輩、この香り、何?」
 冷えてはいるが、不味くはないホットケーキは、リョーマの為に甘くメープルシロップが掛けられている。それを口にしながら、リョーマはそういえばと、不思議そうに桃城に尋ねた。
 甘やかされている事を承知しているから、大着に桃城のベッドを占領し、テニス雑誌を読んでいた。
 桃城の部屋で、情事に及ぶ事は少ない。桃城の家は弟妹が在るし、母親は専業主婦で大抵家に在る。まして桃城のすぐ下の妹は重度のブラコンときているから、この部屋で、隔絶され二人きりになるのは、案外難しい事をリョーマは知っている。まして女の勘は侮れない。
子供でも女は女だと言う事なのだろうが、今一つ手練手管に慣れている桃城は、妹と言うフィルターに誤魔化され、自分達の関係が妹に露呈してしまう確率や可能性は、考えてはいないらしい。
 尤も、リョーマにしてみれば、バレようがバレなかろうが、テニスをする部分では何一つ不自由はしない事だった。アメリカで下してきた鉄槌の数を数えれば今更の事で、所詮個人の嗜好の問題、その程度だ。
 そんな事を思考の片隅で考えて、桃城の部屋で乱入者もなく、のんびりしている時間は滅多ない事で、テニス雑誌を読みつつ、慣れた桃城の整髪剤に混じる他の香りに誘われて、気付けば寝てしまった顛末が付く。
「香り?」
 その意味が、瞬時には判らなかった桃城は、半瞬考え、自分はもう慣れてしまっている秋独特の香りの元を思い出す。
「金木犀だろ」
 細く開いた窓から、入り込んでいる香り。
桃城の手が、リョーマの細い手首を緩く握り込む。
「金木犀?」
 桃城に手首をやんわり握られ、そのフォークの先は桃城の口許に運ばれている。リョーマの為に掛けられたメープルシロップの甘さに半瞬眉を顰め、やっぱ甘いな、と苦笑する。
「ウチの校庭にも咲いてるぞ」
「そう?」
 あまり記憶にはなかった。
「アレだよ、オレンジの花」
 細く開いた窓の隙間。見えはしないが指を指すと、リョーマは皿を持ったまま、行儀悪く立ち上がり、窓際に近付いた。
 細く開いた窓を大きく開くと、高い空が紗のような白い雲を棚引かせているのが映る。
ひどく久し振りに、空を見上げたような気がした。
「判るか?」
 机の椅子に腰掛けたまま、桃城がリョーマの後ろ姿に声を掛ける。
「アア、あの花?」
 空からゆっくり視線をずらして行くと、確かに緑の葉にオレンジの小さい花が幾重も重なって咲いているのが見て取れた。
 そういば、校内でも見掛けたような気もするけれど、何処までもその記憶は不確かなものでしかない。校内で過ごす確かな記憶は、照り付ける陽射の中。追いかけたボールの記憶しかなかった。
「あのオレンジの金木犀ってな、銀木犀ってのもあるんだけどな。銀木犀は、あんま見掛けねぇな。ウチにも金木犀しかねぇし」
「金銀の木犀って事っすね」
 オレンジの花を見ながら、リョーマは綺麗に切り分けられたホットケーキの欠片を、行儀悪く口に放り込んだ。
「銀木犀は、もっと白くて、匂いも殆どないんだって、お袋が言ってたっけな」
「フーン」
「木犀ってのはな、雌雄異株なんだぜ」
「って、銀杏と同じ?」
「ヘーお前銀杏は知ってんだ」
「俺だって、銀杏くらい知ってるっスよ」
「まっ。でもアレだな。木犀ってのは雄木しかないんだぜ、日本には」
「………桃先輩、もしかして、オチはソコっスね」
「オチってなぁ、お前がアノ匂いなんだって言うからだろうが」
「何か、懐かしいって感じしたんスよ」
 寝転がったベッドの上。風に紛れて流れてきた花の香りは、確かに季節を肌身で感じさせる類いのものだった。
「懐かしい、ね」
 意味有り気に笑う桃城に、リョーマは視線を巡らせ、背後を振り返る。
「お前でも、そう思う事も有るんだって思っただけだよ」
 1テニス、2にテニス。3、4がなくて、5にテニス、そんな印象が強いリョーマが、懐かしいと言う事自体、桃城には少しだけ以外な気がした。
「まっ、不思議じゃないんだよな。お前幼稚園まで、こっちだったしな」
「俺、話しましたっけ?」
 幼稚園まで日本に居た事を、桃城に話した記憶は、リョーマにはなかった。
「知ってるぜ」
「何で?」
 不思議にそうに問うリョーマに、桃城は「秘密」と笑うだけだった。
「なんか腹立つ〜〜〜」
「お前、仮にも俺は先輩だぞ」
 相変わらずの小生意気さに、けれど愛しさしか湧かないのだから、大概自分も救われないと思う桃城に、罪はないだろう。それでも、失いたくはないと、初めて痛烈に思い意識したのは、リョーマだった。
 何故なのかと不思議にも思えるが、答えなど出る筈はなく、また出る答えになど意味もない事を、桃城は知っている。こういう感情は、理屈ではないのだ。
 その人が、笑っていてくれれば、それでいいと自己満足さえしてしまう感情の在処など、自問自答して答えが出る程、安易ではないだろう。
 ただ、大切な者、多分その程度の言葉が答えで全てだ。
失いたくはないけれど、自己満足に溺れ、愛しむ気持ちと執着とを勘違いして、手放せない程安い感情でもない。判っているのは、多分のその程度。大切だと言うだけで、秋の空のように蒼い双瞳に映る自分の姿に、桃城は先程願った在処かを垣間見た気分だった。
 本当は、こうして大切な存在が笑っていて、名前を呼んでくれる事や、呼ぶ名前の有る事が、とても穏やかで倖せで、柔らかいものなのだと、こんな時、気付かされる。
「一つ先に生まれただけのくせに」
「あのな………」
「俺より少しだけ沢山の事知ってるだけじゃん」
「お前なぁ〜〜」
「タラシで悪党で、詐欺師」
 パクリと、リョーマは最後の一切れを口に運んで、
「でも俺を死ぬ程大切にしてる事も知ってるから」
 ヌケヌケと笑った。
「お前のその呆れる自信は、一体何処から来るんだ?」
 外れてはいないし、大正解だが、その自信がリョーマの一体何処から生まれてくるのか、甚だ謎だった。
「だって俺の眼が蒼いって知ってるの、身内以外じゃ桃先輩だけだから」
 薄く蒼い瞳。桃城が感慨深げに以前言った科白を、リョーマは今でもちゃんと覚えている。


『お前の眼、空みたいだな』

 極薄い色素の蒼。至近距離でなければ気付けない。けれど桃城は、そう言ったのだ。 


「隣に立つ方がラクなのに、後ろ選んじゃう程度には、俺の事、大切でしょ?」
「なんかこぅ、スゲー理不尽なもんを感じるぞ、俺は」
 当たっているだけに、桃城の反駁の声はさして強くはなく、それはむしろ言葉遊びを楽しむ会話の為の会話に近い。
「理不尽な事、好きなくせに」
 ハイッと、カラになった皿を差し出すと、反対に桃城の手に有るカフェオオレの入ったマグを受け取った。それはもう随分温くなっていて、奇妙な甘さだけが浮き出すように、口の中に広がって行く。
「ったく、お前は」
 仕方ない奴と、大仰に溜め息を吐き出すと、
「テニス、しに行くか?」
「今日はのんびり過ごすって言ったの、あんたっスよ?」
 珍しく部活が休みの貴重な祝日、たまにはデートしようと誘われて、何処に行くのかと尋ねたら、何処にも行かないと返答され、盛大にリョーマが呆れたのは、昨日の帰宅途中での会話だった。
「そうだけどな、でもこう、躯なまっちまうんだよ」
「それじゃぁ、柔軟体操でも、します?」
 クスクスと笑うその笑みに、桃城は盛大に呆れ、
「反則だぞ」
 無防備かと思えば、妖冶な気配を滲ませて笑う事も身に付けてしまっている小生意気な後輩に、先刻は悪戯もできないとつくづく思った理不尽さも思い出す。
「躯、なまっちゃうんでしょ?」
「お前な、真っ昼間から不健全だと思うだろ、普通」
「こうして二人でいて、何もしない方が不健全」
 ガクリと脱力する桃城の姿に、
「マダマダだね」
 リョーマは鮮やかに笑った。







「結局、桃先輩も人の事言えない、テニスバカじゃん」
 背後で鍵を閉める桃城に、リョーマは小生意気な口調で口を開いた。
結局、リョーマ自体、部屋でのんびり過ごせるタイプではない桃城の性格を、把握しているのだろう。貴重な休みをエンジョイすると言った桃城の科白に対し、ちゃんとラケットを持参していたのだから。
「これこそ、休日の正しい在り方だと思わねぇ?」
 鍵を閉め、小生意気な口調を叩くリョーマを振り返り、背を屈め小作りな貌を覗き込めば、頭上に広がる空と同じ双瞳が綺麗に瞬いいる。
「本当、お前の眼って、空の瞳だな」
「腹立つから、覗き込まないで下さい」
「お前な〜〜」
 ツンとそっぽ向いたリョーマの視界に広がるのはオレンジの小さい花で、風の流れに漂う香りは、やはり肌身の奥を刺激して、懐かしい感触をもたらして行く。 
「秋って、事なのかな?」
 秋は感傷の季節だと誰だかが言っていたから、こんな気分さえ秋の所為なのかもしれない。
 柔らかい陽射に穏やかな時間。倖せだと、内心らしくもない科白が漏れるのに、肩を竦めて苦笑する。
「どした?」
「別に」
「季節って、多分こうして肌で感じとんなきゃ、とれないもんだと思うぞ」
 オレンジの花を見上げるリョーマの頭をクシャリと掻き乱す。
「あっちじゃ、そんな事も感じなかった」
 父親の名に隠されたレッテルや、ラベルばかり意識して、そんな事を感じる余裕もなかった。
「まっ、秋って事だろ」
「そうスか?」
「って事にしとけ」
 他人に構えさせない余裕を作らせる気配と言うものは、多分こういうものなのだろうと、リョーマは桃城を見上げた。
「桃先輩の方が、空みたいだけどね」
「なんだそりゃ?」
「秘密」
「仕返しかよ」
「ホラ早く、結局あんたも俺に劣らないテニスバカなんだから」
 髪を梳く腕を無視して、クルリと背を向けると、走り出す。
「お前な」
 ステップを踏むように軽い動作で走り出す背を見詰め、桃城も走って数歩で隣に並んだ。
「先輩だけど、それ以上なんだから、文句言わない」
「ヘイヘイ」
 走り出す背に、秋の香りが纏い付く。懐かしく、少しだけ感傷的な秋の花と、空の瞳とその笑顔。
 ただ、大切なだけの存在。必要なのは、感傷に浸る過去ではなくて、その人が在ると言う単純な事実。
 その人が笑っている、ただそれだけ。