| 空の色 act1 |
| いつかあなたがこの空さえ 見えなくなってなってしまったなら 今度は私が教えてあげる |
午後に差し掛かる時間帯。随分下から、生徒達の喚声とも喧騒とも判別の付かない声が聞こえて来る中。リョーマは人一人存在しない屋上で寝転び、頭上に広がる蒼を眺めていた。 紗のような白く薄い雲が、蒼い空をゆったりと流れて行く。遠く高い空の色は、徐々にその蒼さは深みを増し、夏のものへと移り変わって行く。周囲の緑も同様に日々色を増し、青黛眩しい靉々たるものに移り変わっている。そんな、梅雨の合間とは思えぬ快晴は、季節がもう初夏を通り越し、夏になっている事を告げていた。 リョーマが寝転んでいる場所は、正確には屋上と言うより、校舎を結ぶ渡り廊下の上に作られている、簡易的なものだった。其処は生徒に開放され、出入りは自由だ。その場所で、リョーマは昼休みを怠惰に過ごす事が、半ば日課になっている。 大抵の生徒は昼食を教室で摂り、そのまま教室で雑談に興じるか、食堂で摂った後教室に戻って来るか、或いは校庭に出て遊ぶかのどれかだから、この場所には滅多な事で人は近付かない。人の近付かなさが、時折この場所を知っている人間の数を連想させる。知らない者も、在るのかもしれない。正規の屋上ではなく、簡易的な代物だ。 都内の何処にこんな敷地が在るのかと思う程、敷地の広い青春学園は、中等部と高等部が隣接しており、共有施設は案外と多い。だからなのだろう、その分の敷地も確保されているというのは、流石私立と言う所だ。 コンクリートの上は天に近い分、随分熱を持っていて熱い。白いシャツ一枚着込んだ下は陽光に照らされ続けたコンクリートの暑さが、ジリジリと伝わって来る。梅雨の合間の初夏の季節で暑いのだから、夏は到底過ごせる場所ではないだろう。 他人に干渉されるのが苦手なリョーマにしてみれば、他人の出入りのない此処は、一人になりたい場所としては手頃な所だったが、今でももう暑いのだら、真夏の昼休みは炎天下になっているだろう。そんな場所で一人を満喫しても、下手をすれば熱中症だ。 蒼い空は何処までも広く、そして遠い。灰色のコンクリートの上、怠惰に寝転ぶリョーマの影が伸びている。そんなリョーマの怠惰な無防備さを知る者は、限られている。その限られた最たる存在は、今ココには居なかった。 |
| 『取り敢えず、付き合ってもいいよ。ただし、俺のモノとか言わないよーに』 先輩後輩と言う延長線上で発達した関係は、他人から見たら、恋人というものの関係を持っている。リョーマに人肌というものを教えたのも、快楽の淵に溺れ漬かる事も教えたのも桃城だったから、二人の関係は、恋人と言えるものだろう。けれど、桃城はらしくない程その境界線を慎重に扱うから、リョーマが一人になりたい時、決してその境界線を踏み越える事はなかったし、見誤る事はなかった。そしてリョーマの発するシグナルを、見落とす事もなかったのだから、慎重に、けれどとても近い距離で、リョーマを見ている。そういう事になるだろう。近い距離で見守る事の困難さを、リョーマは今回初めて痛感したから、桃城に大切にされている自覚は増すばかりだ。 リョーマはフト片手を掲げ、翳して見る。翳した指の隙間から陽光が漏れ、血管が透けて見える気がして、可笑しかった。 指の隙間から見える遠い綺麗な蒼。思い出すのは、此処には居ない、詐欺師の言葉だ。 『お前の眼、空みてぇだな』 そんな風に言われたのは初めてだと思うのに、過去と言う額縁に放り込んだ記憶の中。 何故か不思議と聴いた気がした。けれどそれは、容易に思い出せる記憶ではなかったらしく、リョーマは想起を諦めた。別段判った所で、意味などないのだ。 遠く綺麗な蒼。強くなる陽射。もう夏なのだと、通り過ぎる風が知らせて来る。 食堂での会話を思い出し、リョーマはやはり遠い空を眺めた。校内ランキング戦で、桃城がレギュラー落ちして3日間。部活を無断欠席している。その事に、級友と残り二名は、無責任な心配をしていた。 どうして、誰もが安易に考えるのだろう? リョーマには、彼等の心配が、欠片程にも理解できなかったから、尚更だろう。 彼等が何を心配しているのかすら、リョーマにその意味が判りはしなかったし、判った事と言えば、彼等が随分見当違いの心配とやらをしている事だけだった。それが本当に心配なのか、それさえリョーマに理解は程遠かった。 『もしかして、部活辞めちゃったりして』 どうして、そんな安易に考えて、それをまた莫迦正直に口に出したりできるのか、堀尾の発言そのもの事態が、リョーマには理解不能な代物だった。 無責任な科白を聴いた瞬間の苛立ちより何よりも、元々が調子のよい級友の事だ。深慮と言う言葉を知らない子供の無知さは、けれどいい加減TPOの一つも、身に付けるべきだろう。そんな呆れが内心を過ぎった。 あの調子で、思った事を深慮もなく口に出せば、噂好きなスピーカーと、見なされるのがオチだろうに。実際心配していたとしても、あの場所であの程度の発言では、何一つ伝わりはしない。そんな簡単な理屈が、判らない彼等の思考回路が、リョーマには理解できない代物だった。 あれが心配と言う形なら、随分方向性が違う代物だ。あの程度の心配は、リョーマにしてみれば、会話を持続させる為の媒介にしか思えなかったから尚更だ。 『桃先輩が3日も姿を見せないなんて、よっぽどレギュラー落ちしたの、効いたんだろうな』 レギュラー落ちして、それは当然効いただろう。けれどそれで部活を辞めたりする程、桃城がテニスに関して安易ではない事に、どうして気付けないのだろう? 後輩の面倒見のいい桃城に指導して貰って、そんな単純な事実にも気付かなかったのだろうか? リョーマには、何一つ彼等の心配の所在と言うものが、理解できなかった。それはリョーマが桃城を信頼しているとか、していないとかは別問題にして、理解出来ない事だった。 テニス莫迦を心配する必要なんて何処にもないと、いっそ大笑いしてやろうかと、思った程だ。 『桃先輩とあんなに仲良かったのに、心配じゃないの?』 「だから、心配しないんだよ」 別段、自分達の一歩踏み込んでしまった関係ではなくても、ちょっと親しかったら判りそうなものだ。桃城が、テニス莫迦だと言う程度の事は。簡単に捨ててしまえる程度の代物ではない事くらい、判るだろうに。何故そんな簡単な事が、彼等は判らないのだろう? テニスに関して、桃城は何処までも安易ではなかったし、半端な妥協など許してはいなかった。 人を構えさせない気安さ故に忘れられがな面は存在するが、伊達に全国区の青学テニス部でレギュラーをしている訳ではないのだ。安易さと妥協とが結び付いているテニスなら、桃城は最初からレギュラーになどなってはいなかったに違いない。 レギュラー落ちして捨ててしまえる程度の思い入れではないから、部活を休んでいるのだろうに。何故そんな簡単な事も、気付かないのだろう?気付けないのだろう?どう考えても、リョーマには判らない彼等の心配の在処だ。 「こんな時は、ほっとくのが一番」 構われる鬱陶しさを、リョーマは良く知っていた。いたから、放っておく必要の意味も、心得ていた。 リョーマ自身、アメリカではそういう被害に有っているのだ。 世界の頂点を短期間で駆け抜けた父親を持つだけに、リョーマがアメリカで与えられたレッテルやラベルと言うものは、生半可なものではなかったから、その分、常に周囲には誰かが居た。 どれ程遺伝子の質が良いと言っても、ダイヤでさえ磨かなければ宝石としての価値はない。原石だけでは意味などないから、見合う努力を惜しんだ事はなかった。それさえ、父親の名の元に認められる事はなく、言われた事と言えば、流石南次郎の息子。その程度の言葉で集約されてしまう。そのくせに、構って来る事だけはするのだから、鬱陶しい以外のなにものでもない。放っておく事に罪悪を感じるから、誰もが心配と言う近しい言葉で、自分を納得させようとする。結果、有り難迷惑と言う事になる事にも気付かないのだから、始末に悪い。 猶予期間と言うのはどんな局面でも存在するし、距離を取り、見えてくる存在も有る。カタチにできる、できないは無関係に、距離を置き、理解できる事は幾らでもある。桃城が今、その猶予期間に有ると言う事に、どうして誰もが気付けないのだろう?その事の方が、リョーマには余程不思議な気がした。 「まっ、部長は判ってるみたいだけどね」 表情を崩さない手塚の内心など、推し量る図る事は不可能だ。そんな芸当ができるとしたら、それは不二くらいのものだろう。けれど、桃城が曲者だと見透かしたのは手塚だから、多分手塚は桃城が部活を休んでいる理由など、判っているだろう。 言葉を掛けたり、言葉に出したり、誰かに心配だと漏らしたりするだけが、心配ではないのだ。 安易に言葉に出す行為は、無責任に転じる危うさを孕んでいる。それは自分自身を納得させる為の、手段になるからだ。 時間を置き、答えを出し、自らが在るべき場所に戻って来るのを待つのも必要な事だ。 とてもおこがましくて言えはしないが、見守ると言う言葉が、近しい言葉として当て嵌るのかもしれない。 「そろそろ、かな」 呟くと、リョーマは位置を移動し、校庭に面している柵に近付いた。 蒼い空からゆっくり視線を下げれば、緑に囲まれた池の淵に、桃城は立っていた。 敷地の広い青学には、小さい池さえ存在している。何とも文武両道をモットーとしている青学らしい喉かさだ。 蒼い空を映し光を弾く池のほとりに佇み、桃城は小石を投げている。 其処に立っているのは、リョーマが見慣れた桃城の後ろ姿でしかなかったから、安心していられたというのも、影響しているのだろう。桃城がリョーマにだけはこうして姿を見せるから、見当違いな心配を、リョーマはする必要は、端からなかったのだ。 「バカ」 リョーマは俯せに寝転がると、柵の向こうを眺めた。やはりコンクリートは熱いと、溜め息が漏れる。 夏には不向きな場所だから、今度は夏仕様に干渉されない場所を確保しようと、桃城の背を眺めながら、そんな思考が湧いた。 "ポチャン……" 小さい波紋を描きユラリと水面が揺れ、周囲の緑の影を歪めて映し出す。チラチラとした初夏の木漏れ日が、光の乱反射を描いて眩しい程だ。季節は夏へと移っているのだと、意識の片隅で桃城は漠然と思った。そのくせに、意識は別の方向を向いている。 突き刺さる事のない背後からの視線の意味を、桃城はとても良く理解していた。 水面に映る影。大きく振り上げた右手の感触。ついラケットを持つように振り上げ、石を投げ入れ苦笑する。 小さい水音を立て、2、3回、水面を躍った小石は、すぐに水の下へと潜って見えなくなった。小さい波紋を描く水面を凝視し、桃城の意識は背後に集中していた。 怒っているだろうか?卑怯にも、部活を無断で休み、知り合ってから毎日続けていた登下校の迎えをしなくなった自分を、リョーマは怒っているだろうか?桃城はそう考え、すぐにその考えを苦笑と共に否定した。 否応なく感じる視線。不躾ではなく、ただ見ていると感じる視線の在処など、嫌と言う程、桃城には判っていた。 きっと心配など、してはいないだろう。頭上に広がる空と同じ瞳で、ただ見ているだけだ。安易な気休めもなく、ただ見られている事に、安堵する自分を意識しては、 「まだまだ、だな」 自嘲する。 咎める事もなく注がれて来る視線は、心配する気配もなければ、無責任な慰めも孕んではいない。窺えるものは、ただ見ている、それだけだった。 視界に入るように立っている意味を、リョーマも判っていると思うのは、何も勝手解釈なものではないだろうと、桃城は思う。 それは、デートと称して連れ出したアベックのメッカ。雑踏に紛れ、告げられた言葉が有ったからだ。あの時の言葉よりも何よりも、リョーマの声を、桃城は覚えていた。 『俺の半歩後ろに佇んで、その位置から、何が見えるの?』 抑揚を欠いた、けれど少しだけ哀しげな双瞳で告げてきた科白だった。 『隣に立つ方が、楽な筈なのに』 呆れと苦笑と、もっと複雑なものを滲ませた曖昧な笑み。 『あんた、やっぱバカ』 最後には深い溜め息と呆れた声で笑われた。 失敗したし、哀しませたと、その時漸く理解した。本当なら、そんな事は、リョーマに気付かれてはならない事だったからだ。 隣に立ちたいと思っていた。願っていた。けれど、リョーマの見据える未来を視るなら、隣ではダメなのだと、気付いたのも、案外早かった筈だ。 掌の中に在る彼の未来。進むだろう指針。それを視る為には、到底隣に立っていては見られない事を、桃城は正確に理解している。それは反対に、自分の実力というものを、とても良く心得ていると言う事だろう。努力と情熱だけでは計れないものが有る事を、桃城は理解している。それでも、努力を放棄する程安くないテニスへの情熱は、足掻く意味さえ教えてくれるから、やはり捨て去る事はできないのだ。 「諦めねぇよ」 校内ランキング戦が毎月有る意味は、誰もが等しくレギュラーのチャンスを掴めると言う事だ。けれどその向こうに有るものは、勝ち続けて行く困難さと、追われる恐ろしさ。同時に、勝ち続けて行く為の強さを要求されていると言う事と同義語だったから、誰にも等しいと言う事は、誰もが安定と言う意味から遠いと言う事だ。勝ち続ける為の強さ。求め続けて行く強さ。どちらが欠けても、レギュラーにはなれない。 だから決して、足掻く事は無駄ではないし、諦められない。その為に必要な強さは、自分を見直す事だ。 客観的に自分のテニスというものを見る事ができなかったら、努力も無駄になる。努力する事で満足する程度のもので終わってしまう。そんな事は御免だった。 隣に立つ事の方が簡単だと言ったリョーマの科白の意味が、桃城は、今更実感として判った気分だった。 掌の中に在る未来。半歩下がって彼の立つ居場所を確認すれば、視野が広がる分。彼の進もうとしている道の困難さや厳しさが、より明確に見渡せてしまう。 それでも、選んだのだ。リョーマの後ろに佇み、彼が進む道を視る事を。だったら、こんな所で、いつまでもくじけてはいられない事も、判っていた。 「待ってろ」 諦めないし、諦めてしまえる程、簡単ではない。 切っ先の上に立つ強さを。歩き続けて行く強さを願う。欲しいものは、崩れない勇気と求める強さ。リョーマの半歩後ろに立つ強さを、桃城は願った。けれどそれは自らを磨く事でしか、決して手に入らない位置だから、桃城は諦める事などできなかった。 「たまには、俺がちゃんと見ててあげるよ」 本当はいつだって、ちゃんと見てはいるのだけれど。言葉にも、態度にも出す事は稀でしかないから、相手が気付いているかどうかの判断は、リョーマにも判らない事だった。ココ肝心な所で外すのが得意な悪党だから、案外判ってはいないのかもしれないと、リョーマは柔らかい微苦笑を漏らした。 見慣れた後ろ姿は、何一つ変わりない。落胆も焦燥も、映してはいない。ただ、立っている。前を見て。俯いてはいないから、その表情は何一つ変わりないだろうと、根拠もなく、リョーマはそう思った。単純にそう信じられたし、思えたのだ。 「隣に立つ方が、楽なのに」 何を好き好んで、後輩の送り迎えをしているのか、想いを預けられているリョーマでさえ、時折桃城の慎重さには呆れる程だ。付き合い始めて、肉の関係ができあがってから、益々桃城は慎重になって行く。その事が、リョーマには可笑しかった。『優しい』というより、『大切』と言う言葉の方が、多分適格なのだろう。現に、以前そう言われた時には、大笑いした程だ。 『大切だから大事にしたい』 そんな科白は、それこそ、頭の回転の悪そうな女を軟派する時に使うべき科白だろうに。 その言葉に隠された真摯な眼差しに気付いてさえ、言われた時には、本気で大笑いしたい気分だった。 気安く開放的な笑顔。人に構えさせない余裕を作る雰囲気は、リョーマをして流石タラシと言わせる程度の代物ではある。 けれどその実、内心はひどく冷静な面が横たわっている事も知っているから、今回の状況は、桃城にはある程度予想範囲内の部分は存在していたのだろうとも、リョーマには思えた。 レギュラー落ちする衝動に、多少は備えていた部分も存在していたのかもしれない。 それでも、桃城は決してテニスに対して諦めなどと言う言葉は持ち合わせてはいない男だから、結果を出す為に全力を出した事は疑いようもない。それはそのまま、青学テニス部のプレースタイルやカラーを綺麗に顕してもいる。そうして足掻いて頑張っても、望む結果が出ない事も有るのだと、判らない程、桃城は無知なガキではなかった。 切り換える為の猶予期間。そんなものだろう。 だから俯く事もなく、頭は垂れていない。それは一歩も引かないと言う、崩れない強さを保ち、芯の入った立ち姿で、立っている今を見れば、尚更だ。そして、多分偶然ではないのだろう。 昼休み、リョーマがこの場所に在る事を知らない桃城ではなかったから、この3日間。続いていた登下校の迎えに行けないリョーマに対し、謝罪の意味も含まれていたのかもしれない。 「マダマダだね」 密やかに告げられた声が、生温い吐息で囁かれた声だと、桃城は当然知る由もない。 |